遠藤みどり『日本の後宮 天皇と女性たちの古代史』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2025年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における「後宮」の形成と変容を、おもに5世紀から10世紀まで検証しています。後継者確保を目的として、男性君主のために集められたのが「後宮」で、それは日本も同様ですが、もちろん日本でも固有の形成および変容過程があるわけです。本書では、日本の後宮の主役とも言えるキサキは、天皇の配偶者として正式に認められた女性と定義され、後宮にはそうではない女性もいるわけです。
本書はキサキの出現について、男性が君主(王、天皇)と前提視されたことと、君主の配偶者に公的役割が求められたことを指摘します。中華王朝のキサキは、「家父長制」的な「家」を基礎単位とする「父系社会」を背景に、後宮に囲い込まれて天子に従順であることが求められたのに対して、男女の社会的格差が比較的小さい古代日本は双系的親族構造の社会で、古墳時代には女性首長も多かったことが、日本のキサキと中華王朝のキサキとの違いにつながったことを、本書は指摘します。当時の日本の婚姻は、まず男が女を訪ね、性的関係が生じると、「結婚」が成立し、居住は、一時的な妻訪婚が一般的で、その後の同居は、妻方や新居や夫方など多様でした。これは、平安時代の貴族層における、妻方親族主導の「聟(婿)取り」婚とは異なり、当事者間の合意で成立していた、と本書は指摘します。君主(王、天皇)もキサキを訪れ、キサキは自分の所属氏族の本拠地で生活し、子供を産んで育てたのだろう、と本書は推測します。夫婦が同居しても、埋葬は一般的に別々だったようです。
このように婚姻による男女の結びつきがひじょうに流動的だった日本社会において、キサキが成立する契機として本書が重視するのは、世襲王権の成立です。本書は、日本における皇位(王位)継承に血縁原理が導入されたのは5世紀で、6世紀に世襲王権が成立した、と認識しています。本書は、いわゆる倭の五王のうち、『宋書』では珍と済の間に血縁関係が記載されていないことから、二つの血縁集団を想定する見解もあるものの、『宋書』は「父系社会」の中華世界の認識に基づいているので、双系社会の日本では珍と済が母方でつながっていた可能性もある、と指摘します。当時は、倭王の地位を継承する特別な血縁集団が形成されていたものの、まだ父系には固定されておらず、父系による世襲が始まったのは継体以降だろう、というわけです。本書は、皇位(王位)の父系世襲の確立とキサキの制度化が関連している可能性を指摘します。
本書が注目するのは、欽明以降、天皇(大王)のキサキとして皇族が多く、皇族(王族)全体、さらには有力氏族でも近親婚が増加していることです。双系的な親族構造の古代日本社会では、近親婚によって父系氏族の枠外への勢力および財産の拡散を防止できるわけです。576年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)私部の設置は、父系に傾きつつも双系的な社会構造で、妻問婚が一般的だった当時の日本において、父系継承のため母方親族の影響を極力排除するための、経済的基盤として設置された、と本書は指摘します。また本書は、キサキでも皇后とそれ以外の違いとして、皇后には実子の立太子を引き出す役割があった、と指摘します。君主の妻をキサキとする中華王朝型ではなく、君主の子の母親を公的に囲い込むことで、キサキ制度は始まった、というわけです。キサキ内の地位の明確化というか、皇后の地位が卓越している、とされたのには、鸕野讚良皇女(持統天皇)の役割が大きかった、と本書では想定されていまするによって
律令制の成立後、養老令(おそらく大宝令でも)では、天皇のキサキとして、妃2名(四品以上)と夫人3名(三位以上)と嬪4名(五位以上)が規定されています。「後宮」の用語は律令制において用いられていましたが、この用語は先行する中華王朝に由来します。しかし、皇帝の宮の後方に配偶者がまとまって暮らしていた(後宮)中華王朝に対して、日本の天皇の配偶形態の特徴の一つは、上述の私部の設置に見られるように、奈良時代までのキサキは天皇が暮らす内裏で同居しておらず、内裏外で比較的独立した生活を営んでいたことです。しかし、平安時代初期には、内裏内に後宮が形成され、キサキが天皇と同居するようになります。本書はこれを、女性の社会的地位との関連で検証しています。平安時代初期には、キサキの人数が急増します。確認できるだけで、桓武天皇には20人以上のキサキがおり、中には婦人でも嬪でもないキサキもいました。この急増したキサキの多くについて、必ずしも天皇の性愛の対象とは限らず、基本的には男性と同様に天皇に仕える役割を担っていた女官だっただろう、と本書は推測します。ただ、キサキが天皇とともに暮らす場としての後宮は、桓武朝にはまだ成立していなかったようです。
桓武天皇の死後に即位した平城天皇は、大規模な行政改革によって、桓武朝で急増した、女官からキサキになることを抑制し、後宮秩序を回復させようとしたのだろう、と本書は推測します。平城朝で女官から既婚とともに地方出身が排除されたことも、同様の意図があったようです。また、平城朝ではキサキの大きな役割だった皇子女の扶養について、国家から直接的に皇子女への経済的支援が行なわれるようになり、キサキの役割が大きく変容していきます。平城天皇の譲位によって即位した弟の嵯峨天皇には、歴代の天皇で最多のキサキと皇子女がいました。嵯峨朝において、女官と兼任できるキサキとして、女御と更衣が創設されたようです。
嵯峨天皇の譲位によって即位した弟の淳和天皇以降のキサキは、皇后と妃と女御と更衣だけとなります。令制のキサキだった夫人および嬪と比較すると、女御および更衣の待遇は悪く、それは皇后の家政機関(皇后宮職)の縮小および天皇との同居とも関連していました。キサキの大きな役割だった皇子女の扶養が、国家から皇子女への直接的な経済的支援になり、キサキの自立性が低下していった側面もあるようです。その反面として、キサキの実家への依存が強くなり、つまり天皇から見ると外戚への依存度が高まるわけです。また、天皇とキサキのつながりが強くなり、本書はこうした平安時代初期のキサキの変化を、母から妻への移行と把握しています。ただ、皇后のみは、「母」としての役割がその後も残り、母后(天皇の母親や祖母)が幼帝の場合に天皇を後見することにつながる、と本書は見通していますが、もちろん、実際に天皇大権を代行したのは母后の父親や兄弟です(摂関政治)。この摂関政治の前提として本書は、嵯峨天皇が譲位後に天皇大権を放棄し、天皇の臣下としての太上天皇の位置づけを明確にして、内裏から出ていったことを挙げます。一方で、キサキは代理で天皇と同居しているわけで、そこに摂関としての外戚の天皇大権代行の基盤があったわけです。
また本書は、平安時代初期の朝廷における変化で、儀礼などで男女の区別が厳格化していったことも指摘します。女官は皇后への奉仕を担うようになり、皇后を頂点として女性集団の中に位置づけられ、宮廷内での女性の活動範囲は大きく限定されていきます。本書はその象徴として、女帝が出現しなくなったことを挙げ、女帝の代わりに台頭したのが母后と指摘します。本書はこうした朝廷における大きな変化を、双系社会から男系社会への移行に位置づけています。本書冒頭で、日本の後宮は中華地域や中東の後宮、また江戸幕府の大奥と比較して、男子禁制が少なくとも南北朝時代の頃までは緩やかだったものの、室町時代後期には厳しくなり、それは昭和初期に後宮制度が廃止されるまで続いた、と指摘されています。その理由について本書は、日本社会の父系化の確立を挙げていますが、それ以外にも重要な理由があるのではないか、と素人としては考えてしまいます。また、「新自由主義」とともに、嫌いなものや悪と考えるものを無造作に放り込める便利ながらくた箱の如く日本では通俗的に使われているように思える「家父長制」概念も、少しずつ考えていきたい問題ではあります。
本書はキサキの出現について、男性が君主(王、天皇)と前提視されたことと、君主の配偶者に公的役割が求められたことを指摘します。中華王朝のキサキは、「家父長制」的な「家」を基礎単位とする「父系社会」を背景に、後宮に囲い込まれて天子に従順であることが求められたのに対して、男女の社会的格差が比較的小さい古代日本は双系的親族構造の社会で、古墳時代には女性首長も多かったことが、日本のキサキと中華王朝のキサキとの違いにつながったことを、本書は指摘します。当時の日本の婚姻は、まず男が女を訪ね、性的関係が生じると、「結婚」が成立し、居住は、一時的な妻訪婚が一般的で、その後の同居は、妻方や新居や夫方など多様でした。これは、平安時代の貴族層における、妻方親族主導の「聟(婿)取り」婚とは異なり、当事者間の合意で成立していた、と本書は指摘します。君主(王、天皇)もキサキを訪れ、キサキは自分の所属氏族の本拠地で生活し、子供を産んで育てたのだろう、と本書は推測します。夫婦が同居しても、埋葬は一般的に別々だったようです。
このように婚姻による男女の結びつきがひじょうに流動的だった日本社会において、キサキが成立する契機として本書が重視するのは、世襲王権の成立です。本書は、日本における皇位(王位)継承に血縁原理が導入されたのは5世紀で、6世紀に世襲王権が成立した、と認識しています。本書は、いわゆる倭の五王のうち、『宋書』では珍と済の間に血縁関係が記載されていないことから、二つの血縁集団を想定する見解もあるものの、『宋書』は「父系社会」の中華世界の認識に基づいているので、双系社会の日本では珍と済が母方でつながっていた可能性もある、と指摘します。当時は、倭王の地位を継承する特別な血縁集団が形成されていたものの、まだ父系には固定されておらず、父系による世襲が始まったのは継体以降だろう、というわけです。本書は、皇位(王位)の父系世襲の確立とキサキの制度化が関連している可能性を指摘します。
本書が注目するのは、欽明以降、天皇(大王)のキサキとして皇族が多く、皇族(王族)全体、さらには有力氏族でも近親婚が増加していることです。双系的な親族構造の古代日本社会では、近親婚によって父系氏族の枠外への勢力および財産の拡散を防止できるわけです。576年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)私部の設置は、父系に傾きつつも双系的な社会構造で、妻問婚が一般的だった当時の日本において、父系継承のため母方親族の影響を極力排除するための、経済的基盤として設置された、と本書は指摘します。また本書は、キサキでも皇后とそれ以外の違いとして、皇后には実子の立太子を引き出す役割があった、と指摘します。君主の妻をキサキとする中華王朝型ではなく、君主の子の母親を公的に囲い込むことで、キサキ制度は始まった、というわけです。キサキ内の地位の明確化というか、皇后の地位が卓越している、とされたのには、鸕野讚良皇女(持統天皇)の役割が大きかった、と本書では想定されていまするによって
律令制の成立後、養老令(おそらく大宝令でも)では、天皇のキサキとして、妃2名(四品以上)と夫人3名(三位以上)と嬪4名(五位以上)が規定されています。「後宮」の用語は律令制において用いられていましたが、この用語は先行する中華王朝に由来します。しかし、皇帝の宮の後方に配偶者がまとまって暮らしていた(後宮)中華王朝に対して、日本の天皇の配偶形態の特徴の一つは、上述の私部の設置に見られるように、奈良時代までのキサキは天皇が暮らす内裏で同居しておらず、内裏外で比較的独立した生活を営んでいたことです。しかし、平安時代初期には、内裏内に後宮が形成され、キサキが天皇と同居するようになります。本書はこれを、女性の社会的地位との関連で検証しています。平安時代初期には、キサキの人数が急増します。確認できるだけで、桓武天皇には20人以上のキサキがおり、中には婦人でも嬪でもないキサキもいました。この急増したキサキの多くについて、必ずしも天皇の性愛の対象とは限らず、基本的には男性と同様に天皇に仕える役割を担っていた女官だっただろう、と本書は推測します。ただ、キサキが天皇とともに暮らす場としての後宮は、桓武朝にはまだ成立していなかったようです。
桓武天皇の死後に即位した平城天皇は、大規模な行政改革によって、桓武朝で急増した、女官からキサキになることを抑制し、後宮秩序を回復させようとしたのだろう、と本書は推測します。平城朝で女官から既婚とともに地方出身が排除されたことも、同様の意図があったようです。また、平城朝ではキサキの大きな役割だった皇子女の扶養について、国家から直接的に皇子女への経済的支援が行なわれるようになり、キサキの役割が大きく変容していきます。平城天皇の譲位によって即位した弟の嵯峨天皇には、歴代の天皇で最多のキサキと皇子女がいました。嵯峨朝において、女官と兼任できるキサキとして、女御と更衣が創設されたようです。
嵯峨天皇の譲位によって即位した弟の淳和天皇以降のキサキは、皇后と妃と女御と更衣だけとなります。令制のキサキだった夫人および嬪と比較すると、女御および更衣の待遇は悪く、それは皇后の家政機関(皇后宮職)の縮小および天皇との同居とも関連していました。キサキの大きな役割だった皇子女の扶養が、国家から皇子女への直接的な経済的支援になり、キサキの自立性が低下していった側面もあるようです。その反面として、キサキの実家への依存が強くなり、つまり天皇から見ると外戚への依存度が高まるわけです。また、天皇とキサキのつながりが強くなり、本書はこうした平安時代初期のキサキの変化を、母から妻への移行と把握しています。ただ、皇后のみは、「母」としての役割がその後も残り、母后(天皇の母親や祖母)が幼帝の場合に天皇を後見することにつながる、と本書は見通していますが、もちろん、実際に天皇大権を代行したのは母后の父親や兄弟です(摂関政治)。この摂関政治の前提として本書は、嵯峨天皇が譲位後に天皇大権を放棄し、天皇の臣下としての太上天皇の位置づけを明確にして、内裏から出ていったことを挙げます。一方で、キサキは代理で天皇と同居しているわけで、そこに摂関としての外戚の天皇大権代行の基盤があったわけです。
また本書は、平安時代初期の朝廷における変化で、儀礼などで男女の区別が厳格化していったことも指摘します。女官は皇后への奉仕を担うようになり、皇后を頂点として女性集団の中に位置づけられ、宮廷内での女性の活動範囲は大きく限定されていきます。本書はその象徴として、女帝が出現しなくなったことを挙げ、女帝の代わりに台頭したのが母后と指摘します。本書はこうした朝廷における大きな変化を、双系社会から男系社会への移行に位置づけています。本書冒頭で、日本の後宮は中華地域や中東の後宮、また江戸幕府の大奥と比較して、男子禁制が少なくとも南北朝時代の頃までは緩やかだったものの、室町時代後期には厳しくなり、それは昭和初期に後宮制度が廃止されるまで続いた、と指摘されています。その理由について本書は、日本社会の父系化の確立を挙げていますが、それ以外にも重要な理由があるのではないか、と素人としては考えてしまいます。また、「新自由主義」とともに、嫌いなものや悪と考えるものを無造作に放り込める便利ながらくた箱の如く日本では通俗的に使われているように思える「家父長制」概念も、少しずつ考えていきたい問題ではあります。
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