『卑弥呼』第155話「もうひとつの道」
『ビッグコミックオリジナル』2025年10月5日号掲載分の感想です。前号は休載だったので、久々の感があります。前回は、金砂(カナスナ)国の出雲で、事代主(コトシロヌシ)の配下のシラヒコが、近づいてくる舟にヤノハが乗っているのではないか、と気づいたところで終了しました。今回は、日下(ヒノモト)国の白山を、クニクル王(記紀の孝元天皇、つまり大日本根子彦国牽天皇でしょうか)の息子であるハニヤス(武埴安彦命でしょうか)の一行が登っている場面から始まります。ハニヤスは、崖の下を新出雲へと流れる川に、疫病による死者が収められた甕を落とします。おそらく、金砂国の民を連行して新たに築かせた新出雲で、疫病を流行させるつもりなのでしょう。
金砂国の出雲では、ヤノハが事代主と面会し、日下に行くつもりなのか、詰問のように尋ねていました。日下に連れ去られた金砂国の大勢の民を救うために、事代主が日下の要求に従うのではないか、とヤノハ懸念しているようです。事代主は、心が痛むものの、その要求に従うつもりはない、と答えます。日下は金砂国に新たな出雲を造ろうとしており、事代主が日下に行けば、金砂どころか倭国中の民が、出雲の大穴牟遅神(オオアナムヂノカミ)は天照様の軍門に下った、と考えるだろう、とヤノハは指摘します。ただ、そうすればこの長い戦いは終わる、と日下は主張しており、自分と日下の日見子(ヒミコ)、つまりモモソとの婚姻まで提案してきた、と事代主はヤノハに伝えます。事代主は、吉備津彦(キビツヒコ)からさらに加須和の面白い提案があった、とヤノハに教えます。たとえば、事代主が日下に来るならば、事代主だけは出雲との自由な往来を認め、事代主が日下に滞在中に、出雲の社を天まで届く巨大なものに造り替えてやる、というわけです。また吉備津彦は、姉のモモソを説得したのか騙しているのかは不明ですが、大穴牟遅神を天照大神より上位の神と認めてもよい、とまで吉備津彦は事代主に提案していました。吉備津彦は神事についても、大穴牟遅神が天照大神や他の神々より偉大であることを世に知らしめるため、2回の柏手を4回にしてはどうか、と提案していました。一方で吉備津彦は、こうした出雲への優遇措置の代わりに、政事は日下が仕切ることを認めよ、と事代主に要求しているわけです。
とうてい聞き入れられない話だ、と言う事代主に、吉備津彦は自分とよく似ており、目的のためには手段を選ばず、吉備津彦が何を考えているのか、自分には手を取るように分かる、とヤノハは伝えます。何を考えているのか、事代主に問われたヤノハは、脅しても事代主は日下に来ないだろうから、捨て身の策を打つしかない、と吉備津彦は考えるだろう、と答えます。日下の国境で厲鬼(レイキ)、つまり疫病が出て、今度は裳瘡(モカサ、天然痘)で、それを吉備津彦は利用し、日下に連行した出雲の民の間で意図的に裳瘡を蔓延させ、優れた薬師でもある事代主に助けを求めるのだろう、とヤノハは推測します。裳瘡が蔓延すれば、出雲の民どころか周辺の日下の民も大勢死ぬだろう、と指摘する事代主に、だから捨て身の策なのだ、とヤノハ言い、それでも、心を鬼にして日下には行かないよう、懇願します。ヤノハは事代主に、自分たちの共通点は、民に君臨すれども、民個人の運命にまで口を出さないことだが、日下は異なり、民の生き死にまですべて国の考え次第で、つまり民は国のために死ぬべきとの価値観だ、とヤノハは事代主に訴えます。事代主はヤノハの説得を受けて、吉備津彦が助けを求めても断るのが正しいようだ、と言ったものの、それでも、自分は行かざるを得ないだろう、とヤノハに覚悟を決めたような表情で伝えます。慌てるヤノハに、大勢の民を救うためなら少数の民を犠牲にせよ、とのヤノハの主張は、政事を行なう者にとって必要な非情さで、正しい道だが、政事を司る者が取るべき道はもう一つあり、それは、助けられる民がいれば、一人でも多く助けよう、という考えで、それこそ自分が奉じる神の考えだ、と事代主は堂々と断言し、それこそがヤノハの神と自分の神、二柱の違いなのだ、とヤノハを諭します。
ヤノハとは旧知の何(カ)と配下のトヒコおよびノヅナは、幽州刺史の毌丘倹に連れられて、魏の洛陽に到着し、その繁栄と豪華な食事にはしゃぐトヒコとノヅナを、何は窘めます。トヒコとノヅナから、謁見する予定の司馬懿(司馬仲達)について尋ねられた何は、皇帝に次ぐ三公の一つである大尉(他には司徒と司空)だ、と答え、トヒコとノヅナは怯えます。そこへ毌丘倹が慌てた様子で何一行に、これから温県の司馬懿の自宅に向かう、と伝えます。秘密の話ならば、自分の屋敷がよいと考えているのだろう、と何は推測します。出雲からの帰国の道中の舟で、魏と公孫淵の開戦は数ヶ月後で、倭の使節団がらくように到着するまで半年を要する間に、日下で厲鬼が蔓延し、事代主が出雲の民の治療に向かったら、この戦で自分に勝ち目はない、ヤノハが思案しているところで今回は終了です。
今回は、ヤノハと事代主のやり取りを中心に話が展開しました。事代主の覚悟はこれまでの描写を踏まえたもので、ヤノハと事代主の違いが改めて明確に示されています。登場人物の個性が描き分けられていることも、本作の魅力となっています。記紀など現在に伝わる文献からは、日下が出雲を支配下に置く展開になりそうですが、本作ではひねってくるかもしれず、期待しています。洛陽では、ついに何一行が司馬懿に謁見することになりそうで、司馬懿は次回か間もなく登場するのでしょう。たびたび存在が言及されながら、なかなか登場しない点で司馬懿は序盤のトメ将軍と描かれ方が似ており、本作では魏の最重要人物との位置づけなのでしょうか。司馬懿の外見も気になるところで、同じ作画者の『天智と天武~新説・日本書紀~』の、晩年の藤原不比等と似た容貌になるのではないか、と予想しています。
金砂国の出雲では、ヤノハが事代主と面会し、日下に行くつもりなのか、詰問のように尋ねていました。日下に連れ去られた金砂国の大勢の民を救うために、事代主が日下の要求に従うのではないか、とヤノハ懸念しているようです。事代主は、心が痛むものの、その要求に従うつもりはない、と答えます。日下は金砂国に新たな出雲を造ろうとしており、事代主が日下に行けば、金砂どころか倭国中の民が、出雲の大穴牟遅神(オオアナムヂノカミ)は天照様の軍門に下った、と考えるだろう、とヤノハは指摘します。ただ、そうすればこの長い戦いは終わる、と日下は主張しており、自分と日下の日見子(ヒミコ)、つまりモモソとの婚姻まで提案してきた、と事代主はヤノハに伝えます。事代主は、吉備津彦(キビツヒコ)からさらに加須和の面白い提案があった、とヤノハに教えます。たとえば、事代主が日下に来るならば、事代主だけは出雲との自由な往来を認め、事代主が日下に滞在中に、出雲の社を天まで届く巨大なものに造り替えてやる、というわけです。また吉備津彦は、姉のモモソを説得したのか騙しているのかは不明ですが、大穴牟遅神を天照大神より上位の神と認めてもよい、とまで吉備津彦は事代主に提案していました。吉備津彦は神事についても、大穴牟遅神が天照大神や他の神々より偉大であることを世に知らしめるため、2回の柏手を4回にしてはどうか、と提案していました。一方で吉備津彦は、こうした出雲への優遇措置の代わりに、政事は日下が仕切ることを認めよ、と事代主に要求しているわけです。
とうてい聞き入れられない話だ、と言う事代主に、吉備津彦は自分とよく似ており、目的のためには手段を選ばず、吉備津彦が何を考えているのか、自分には手を取るように分かる、とヤノハは伝えます。何を考えているのか、事代主に問われたヤノハは、脅しても事代主は日下に来ないだろうから、捨て身の策を打つしかない、と吉備津彦は考えるだろう、と答えます。日下の国境で厲鬼(レイキ)、つまり疫病が出て、今度は裳瘡(モカサ、天然痘)で、それを吉備津彦は利用し、日下に連行した出雲の民の間で意図的に裳瘡を蔓延させ、優れた薬師でもある事代主に助けを求めるのだろう、とヤノハは推測します。裳瘡が蔓延すれば、出雲の民どころか周辺の日下の民も大勢死ぬだろう、と指摘する事代主に、だから捨て身の策なのだ、とヤノハ言い、それでも、心を鬼にして日下には行かないよう、懇願します。ヤノハは事代主に、自分たちの共通点は、民に君臨すれども、民個人の運命にまで口を出さないことだが、日下は異なり、民の生き死にまですべて国の考え次第で、つまり民は国のために死ぬべきとの価値観だ、とヤノハは事代主に訴えます。事代主はヤノハの説得を受けて、吉備津彦が助けを求めても断るのが正しいようだ、と言ったものの、それでも、自分は行かざるを得ないだろう、とヤノハに覚悟を決めたような表情で伝えます。慌てるヤノハに、大勢の民を救うためなら少数の民を犠牲にせよ、とのヤノハの主張は、政事を行なう者にとって必要な非情さで、正しい道だが、政事を司る者が取るべき道はもう一つあり、それは、助けられる民がいれば、一人でも多く助けよう、という考えで、それこそ自分が奉じる神の考えだ、と事代主は堂々と断言し、それこそがヤノハの神と自分の神、二柱の違いなのだ、とヤノハを諭します。
ヤノハとは旧知の何(カ)と配下のトヒコおよびノヅナは、幽州刺史の毌丘倹に連れられて、魏の洛陽に到着し、その繁栄と豪華な食事にはしゃぐトヒコとノヅナを、何は窘めます。トヒコとノヅナから、謁見する予定の司馬懿(司馬仲達)について尋ねられた何は、皇帝に次ぐ三公の一つである大尉(他には司徒と司空)だ、と答え、トヒコとノヅナは怯えます。そこへ毌丘倹が慌てた様子で何一行に、これから温県の司馬懿の自宅に向かう、と伝えます。秘密の話ならば、自分の屋敷がよいと考えているのだろう、と何は推測します。出雲からの帰国の道中の舟で、魏と公孫淵の開戦は数ヶ月後で、倭の使節団がらくように到着するまで半年を要する間に、日下で厲鬼が蔓延し、事代主が出雲の民の治療に向かったら、この戦で自分に勝ち目はない、ヤノハが思案しているところで今回は終了です。
今回は、ヤノハと事代主のやり取りを中心に話が展開しました。事代主の覚悟はこれまでの描写を踏まえたもので、ヤノハと事代主の違いが改めて明確に示されています。登場人物の個性が描き分けられていることも、本作の魅力となっています。記紀など現在に伝わる文献からは、日下が出雲を支配下に置く展開になりそうですが、本作ではひねってくるかもしれず、期待しています。洛陽では、ついに何一行が司馬懿に謁見することになりそうで、司馬懿は次回か間もなく登場するのでしょう。たびたび存在が言及されながら、なかなか登場しない点で司馬懿は序盤のトメ将軍と描かれ方が似ており、本作では魏の最重要人物との位置づけなのでしょうか。司馬懿の外見も気になるところで、同じ作画者の『天智と天武~新説・日本書紀~』の、晩年の藤原不比等と似た容貌になるのではないか、と予想しています。
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