関根達人『つながるアイヌ考古学』
新泉社より2023年12月に刊行されました。アイヌ集団は「縄文文化」とはつながっておらず、鎌倉時代にアジア北東部から北海道に侵入し、先住の「縄文人」の子孫を殺戮した侵略者集団だった、というような言説が最近ではTwitterなどで目立ちますが、アイヌ文化について当ブログでは、アイヌ集団や本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」など、アジア北東部の人類集団の言語や音楽やゲノムを比較した研究(Matsumae et al., 2021)を取り上げたくらいで、アイヌ考古学については不勉強だったので、アイヌ集団に関する考古学的知見を得るために読みました。
アイヌに関する現存最古の文献は、12世紀成立の『今昔物語』と考えられています。『今昔物語』では、陸奥国奥六郡の支配者である安倍氏が古代東北の蝦夷に列なる「酋(エビス)」の長で、さらに北方の住人が「夷(エゾ)」とされており、エゾとエビスが区別されていますが、この「夷(エゾ)」がアイヌと考えられます。エゾとエミシは中世日本では混同されることが多かったようですが、12世紀頃以降、都の貴族は陸奥国奥六郡以北の人々を強く認識し、エゾとエミシの区別も意識していたようです。アイヌに関する現存最古の絵画資料は、14世紀前半の『紙本著色聖徳太子絵伝』です。これには、アイヌの伝統的衣装の一つ(ラプル)が描かれています。
日本列島「本土」の「和人」集団では、ロシアの南下を警戒する動きの中で、18世紀後半に北海道(蝦夷地)への関心が高まり、アイヌも注目されていきます。江戸時代後期の菅江真澄は、東北の北部から出土した土器や土偶を蝦夷地の出土品と比較し、現在では「亀ヶ岡式土器」と呼ばれている土器とアイヌとのつながりを指摘しました。一方で、江戸時代の亀ヶ岡遺跡周辺の住民は亀ヶ岡式土器を朝鮮半島から渡来した人々が製作した、と考えていました。亀ヶ岡式土器は精巧だったので、当時の人々は朝鮮半島から渡来した「高麗人」が製作したと考えたのだろう、と本書は推測します。
近代日本のアイヌ研究が植民地研究の一環だったことは、考古学も人類学(楊., 2023)も同様で、アイヌが日本列島の「先住民」なのかをめぐって、激しい議論が展開しました(坂野., 2022)。第二次世界大戦後には、モヨロ貝塚の発掘を契機にオホーツク文化への関心が高まり、アイヌについては、周辺地域および文化集団との関わりが注目されるようになって、狩猟採集だけを行なっていたわけではなく、交易を前提にした集団だった、と認識が変わっていきました。アイヌの交易相手には、ニブフ人やウィルタ人(Uilta)などのアジア北東部大陸部集団やサハリン島集団や日本列島「本土」の和人などがいました。
本書はこうした研究史を踏まえた上で、アイヌへとつながる過程を考古学的に検証しています。北海道では、3万年以上前から人類が存在した可能性も指摘されていますが、人類の確実な最古級の証拠は30000~25000年前頃の、小型剥片に簡素な加工を施した不定形の石器で、こうした石器は同年代の本州の石器と類似しているものの、ユーラシア大陸部で同様の石器は見つかっていないようです。北海道では石刃が25000年前頃に出現し、石刃の刃の一部のみを残すナイフ形石器が2万年前頃に流行し、その後でアジア北東部に広く分布していた細石刃が出現します。
北海道で最古級の土器は14000年前頃までさかのぼり、東日本の「縄文時代草創期」の土器と類似しています。当然ですが、「縄文時代」はあくまでも便宜的な考古学的時代区分で、過度に実体化したり均一なものと把握したりすることには慎重であるべきでしょう。本書は「縄文文化」について、大陸からの影響をほとんど受けることなく、生産力の向上ではなく宗教儀礼や工芸品の発達によって社会の安定を築いた、と評価しています。「縄文時代」の日本列島と他地域との「交流」について、一時期主張されていたほど活発ではなく、「縄文文化」はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、との指摘もあり(水ノ江., 2022)、時空間的に広範囲の「縄文人」が他の既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に独特な一まとまりを形成するため(Cooke et al., 2021)、「縄文文化」の「閉鎖的傾向」はおおむね妥当かもしれませんが、この評価は今後修正される可能性も念頭に置くべきとも思います。
本州で弥生時代が始まり、水田稲作は紀元前千年紀後半に一時的に現在の青森県まで北上しましたが、北海道で本格的に水田稲作が始まったのは近代で、本州が弥生時代から古墳時代へと移行したのに対して、北海道では狩猟と漁撈と採集を中心に、雑穀栽培の加わった「続縄文文化」が展開しました。本州ではこの期間に、下北半島や津軽半島北部で北海道の「続縄文文化」と同じ土器が分布します。もちろん、本州も含めて日本列島「本土」における「縄文時代」から奈良時代へと至る過程は、とくに「縄文時代」から弥生時代への移行というか、主要な生計の採食から農耕への変化は、地域によって異なっていたわけで、日本列島「本土」における生計さらには社会の変化を、均質なものと考えてはならないでしょう。
「続縄文時代」の後期後半となる5世紀頃に、北海道ではオホーツク海沿岸に海洋性の強いオホーツク文化が出現します。オホーツク文化はアザラシなど海洋資源に強く依存していましたが、雑穀栽培やブタの飼育も行なっていました。オホーツク文化はユーラシア北東部に起源があると考えられ、前期(5~6世紀)にはサハリン島の南半から北海道のオホーツク海沿岸に、中期(7~8世紀)にはサハリン島北部から東方では千島列島、西方では奥尻島へと拡大し、「続縄文文化」を継承した擦文文化圏の拡大に伴い、道北では9世紀、道東では9世紀後半~10世紀にかけて擦文文化との融合および吸収が続きましたが、サハリン島では12世紀頃まで存続しました。
アイヌ文化期以降のクマ送り儀礼「イオマンテ」の起源はオホーツク文化にある、と言われてきましたが、その他の文化要素について、オホーツク文化と擦文文化のどちらがアイヌ文化期以降のアイヌ集団に継承されたのか、議論になっています。そこで本書は、9~10世紀の擦文文化によるオホーツク文化の同化過程で、擦文文化に組み込まれたオホーツク文化要素を抽出し、13~14世紀のアイヌ文化期のサハリン島および千島列島への北上に伴う大陸文化の受容を明らかにして、アイヌ文化の構成要素の系譜をオホーツク文化と擦文文化に限定せず、日本列島「本土」の文化である「ヤマト文化」も視野に入れて検証しています。
日本列島「本土」のヤマト王権から北海道への影響は、すでに「続縄文時代」終末期(7世紀前半)に石狩低地帯で見られ、鉄製の武器や農耕具や耳環などを伴う土坑墓が出現し、これはヤマト王権、さらには律令国家との朝貢関係を結んだ首長層の墓と考えられています。7世紀後半に北海道の土器では本州の土師器の影響によって器面から縄文が消失し、刷毛目文(擦文)に置換されます(擦文土器)。これについては、本州北部太平洋側地域から石狩低地帯に拡散してきたエミシ集団が大きな役割を果たしたようです。擦文文化は土器の変遷に基づいて、第1期(7世紀後葉~8世紀前葉)と第2期(8世紀中葉~10世紀初頭)と第3期(10世紀前葉~中葉)と第4期(10世紀後葉~11世紀中葉)に区分されています。第2期には擦文土器から土師器的な特徴が消えて、幾何学的文様が施されるようになり、北海道式古墳も消えたことから、エミシ集団は8世紀末には土着集団と融合して吸収された、と考えられています。擦文土器は北海道において、第2期までは中央部を中心に分布し、第3期および第4期には全域のみならず、サハリン島南部や千島列島南部に拡散し、津軽・下北地方で出土数が増えます。道東ではオホーツク土器からトビニタイ土器へと変容し、トビニタイ土器は擦文土器との共存を経て、擦文土器に吸収されて消滅します。擦文文化の終焉は土器の消滅が指標とされており、道南および道央部では12世紀、道北および道東では13世紀頃と考えられています。
擦文文化の主要な生業は、伝統的な狩猟漁撈採集と、本州から新たに導入された畑作の雑穀栽培です。主要な栽培作物は、当初がアワで、9世紀以降はキビが多くなり、10世紀中葉以降はヒエが中心となります。擦文文化期には、狩猟漁撈が10世紀頃に自給自足的活動から特定の産物を対象とする活動へと大きく変わり、これは本州との交易が原因と考えられています。交易の対象は、エゾシカとヒグマの皮やワシの羽やサケやコンブなどで、本州で武士が台頭すると、軍事物資であるワシ羽やシカ皮の受容が増加したようです。本州から北海道へは、素材鉄や鉄製品が輸出されました。ただ、製鉄炉や上部構造のある専用の精錬炉はまだ確認されていません。擦文文化集団と本州の交易が活発化した10世紀後半~11世紀には、東北地方北部で環濠集落や高地性集落といった防御性集落が築かれ、その背景として、エミシ社会の内部対立や、在地系豪族である安倍氏や清原氏とエミシとの対立が推測されています。11世紀後半の戦乱を経て東北地方で覇権を確立した奥州藤原氏は、北海道との交易も行なっていたようですが、領内統治に有効だった仏教は、擦文文化集団には浸透しなかったようです。この頃、年代には不確実なところがあり、12世紀後半~13世紀と推測されていますが、上幌内2遺跡の女性被葬者の副葬品では、ユーラシア大陸部から北回りでもたらされたと考えられるワイヤー製の垂飾と鉄製腕輪があり、これはアイヌ文化初期の墓に特徴的で、一方でこの墓には擦文文化後期に特徴的な黒曜石の転礫も含まれ、擦文文化期からアイヌ文化期への移行を示しています。
このアイヌ文化期という時代区分の名称には議論もあり、12~13世紀頃に初めてアイヌ民族が出現した、というような誤解を招く、との批判があります。冒頭で述べた、アイヌ集団は「縄文文化」とはつながっておらず、鎌倉時代にアジア北東部から北海道に侵入し、先住の「縄文人」の子孫を殺戮した侵略者集団だった、というような言説ではまさに、アイヌ民族が12~13世紀頃に初めて北海道に出現し、その前には存在しておらず、11世紀以前の北海道に存在したのは「縄文人(の子孫)」だった、と主張されています。そこで、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提言されたこともありましたが(瀬川., 2019)、一般には定着していません。近年では、アイヌ史の時代区分について、本州との交易により鉄器が広がる「続縄文時代」後半期~擦文文化期が古代、13世紀のアイヌ集団のサハリン島への拡散以降を中世、16世紀半ばのアイヌ首長と松前大館の蠣崎氏との講和もしくはアイヌの交易の自立性が失われた18世紀以降を近世とする案が提示されています。その上で本書は、北海道において、「縄文時代」から19世紀に「和人」が急増するまで、オホーツク文化集団や「和人」との遺伝的混合はあったものの、大規模な民族の交代は認められないので、アイヌ民族史は「縄文時代」にさかのぼる、と主張しています。ただ、北海道において「縄文時代」以来の在来集団が近世まで外来集団に対して優位性を失わず、かなりの程度の人口連続性があったとしても、中世の一部のアイヌ集団のゲノムにおけるオホーツク文化集団的構成要素の割合は30%以上かもしれず(Sato et al., 2021)、アイヌ集団の形成における人口統計学的観点からは、オホーツク文化集団の影響を過小評価はできないようにも思います。
これらの時代区分論を踏まえて、本書はアイヌ文化の形成過程を検証します。擦文文化と前近代アイヌ文化の違いの最も重要な指標は、土器の有無です。アイヌ文化期では、擦文文化期までの土器に代わって、鉄鍋を使用するようになりました。本州では、12世紀頃に煮沸具が土器から鉄鍋に代わりました。北海道における鉄鍋の流入は本州より遅れましたが、擦文文化後期には内耳鉄鍋を模倣した鍋型土器(内耳土器)が作られ、炉で使用されました。それと連動して、この頃には平地式住居が出現し、住居形態が次第に竪穴式から平地式へと移行し、この移行は道北および道東よりも道南および道央で先行します。中央に囲炉裏を儲けた平地式の住居はチセと呼ばれ、本州の中世~近世前半の一般的な民家(掘立柱建物)とは異なり、柱穴を掘らずに、先端を尖らせた柱が地面に打ち込まれていました。厚真町のニタップナイ遺跡やオニキシベ遺跡では、長楕円形の炉と外踏ん張り式の打ち込み柱から構成された、擦文文化後期の平地式住居が発見され、チセの起源は10世紀までさかのぼることが明らかになりましたが、その起源がどこなのか、まだ不明で、一部のチセにはオホーツク文化の竪穴住居の伝統を継承している可能性が指摘されています。
アイヌの服飾文化は、オホーツク文化と擦文文化とアムール女真(パクロフカ)文化の影響によって、13世紀頃に形成されました。アイヌ文化の漆器や木製品には、所有印(シロシ)や刻印(イトクパ)がありますが、類似の刻印が10世紀中葉の日本海沿岸の擦文土器の椀類の底面に出現し、その後で複雑化および多様化していき、アイヌ文化の刻印は擦文文化に由来するようです。アイヌ文化の代表的な儀礼である、飼育した子供のクマを殺し、神の世界へ送り返すイオマンテの起源はオホーツク文化にさかのぼる、と明らかになっています。イワクテと呼ばれる物送りは、生物の遺骸や役割の終わった器物を、この世に再び戻すために神々の世界へと送り返す儀礼で、「縄文人」から「続縄文時代」と擦文文化期を経て、アイヌ文化へと継承されました。アイヌの動物儀礼は「縄文文化」に起源がありますが、「和人」との関係で経時的に変容していったようです。アイヌ文化に特徴的な遺跡であるチャシは高所に建てられた施設ですが、元々の機能は祭祀場で、後に大規模かし、軍事施設としても機能するようになりました。文化の重要な指標となる墓は、擦文文化中期~後期には、道東では住居内埋葬、道央では土坑墓が主流で、伸展葬でした。14世紀の初期アイヌ文化期には、一般的なアイヌ墓とは大きく異なる方形配石荼毘墓が見られ、これは沿海地方起源と考えられています。副葬品では、擦文文化期とは比較にならないほど多くの日本製品が見られるようになります。
本書はこうした特徴のアイヌ文化について、擦文文化に基づきながら、オホーツク文化の伝統も継承し、新たにヤマト文化やアムール女真文化の要素が加わることで形成された、とまとめています。北方要素の流入に関しては、11世紀におけるサハリン島への擦文文化集団の拡散開始が契機になったようです。ヤマト文化の要素は、13世紀に日本列島規模で活発に展開するようになった、日本海交易によってもたらされました。ただ、これによって北海道が日本経済圏に取り込まれ、次第にアイヌの経済的自立性が失われていったことも、本書は指摘します。こうして日本との経済関係が強くなっていく中で、アイヌ独自の嗜好も見られ、アイヌでは陶磁器が好まれず、自製の木器と日本産の高級漆器が好まれました。こうしたアイヌの独自性は他にも、茶と仏教に関心を示さなかったことにも表れており、上述のように擦文文化集団も仏教を受け入れなかったようなので、これは擦文文化期から続くアイヌの価値観を反映しているのかもしれません。宝物や武器でも、アイヌは日本から多量に取り入れましたが、中世以降の日本の新たな宝物や武器ではなく、古い種類を好み、これもアイヌ独自の価値観の持続と関連している可能性が考えられます。
日本海交易が活発化する中で、「和人」が北海道に定着していきます。そうした中で1457年に起きたのがコシャマインの戦いで、この背景には交易や領域めぐるアイヌと和人の摩擦があった、と本書は指摘します。コシャマインの戦い後、和人では蠣崎氏が急速に勢力を拡大しますが、コシャマインの戦いでアイヌ側が敗北したと伝わっているものの、アイヌと「和人」との関係は対等で、人口ではアイヌが「和人」を圧倒していた、と本書は推測します。蠣崎氏は羽柴政権で蝦夷島(北海道)の実質的支配権を認められ、徳川政権下ではアイヌとの交易独占権が認められたことで、財政を確立しました。こうして成立した松前藩ですが、渡島半島の一部で松前藩の支配する「和人」地には、アイヌも暮らしていました。ただ「和人」地では、しだいに「和人」が増え、アイヌは減少していったようです。アイヌには、「和人」との交易で次第に煙草が浸透していったようです。「和人」との交易と接触が増える中で、摩擦も高まったのか、1669年にシャクシャインの戦いが勃発します。これは大規模な反「和人」抗争でしたが、松前藩がアイヌ側を分断し、シャクシャインを謀殺したことで鎮圧し、北海道(蝦夷地)における「和人」の有意が決定づけられました。このシャクシャインの戦いの背景には大規模噴火があり、その他にも火山災害が相次いだことで、17世紀前半にアイヌで行なわれていたアワや根菜類の農耕の発展が阻害されたかもしれない、と本書は指摘します。
幕府は18世紀末以降、一時蝦夷地を直轄化し、これ以降「和人」が蝦夷地(北海道)で勢力を拡大していきます。この間、18世紀まで本州北端にもアイヌは暮らしていましたが、その痕跡が史料でさかのぼれるのは戦国時代までとなれます。考古学では、青森県で14~15世紀のアイヌ関連の遺物が発見されています。本州アイヌは戦国時代には南部氏や津軽安藤氏や浪岡北畠氏と関係を維持していたようですが、そうした勢力と敵対することで自立した津軽(大浦)氏は、アイヌとの関係を断ったようです。それでも、本州北端には18世紀まで、エゾアワビが重要な交易品となるなど、「和人」経済に次第に組み込まれていきつつも、アイヌが存在していたようです。本書の対象は前近代となるので、私が無知な近代のアイヌの動向については、新たに入門書を探して読むつもりです。
参考文献:
Matsumae H. et al.(2021): Exploring correlations in genetic and cultural variation across language families in northeast Asia. Science Advances, 7, 34, eabd9223.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd9223
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Sato T. et al.(2021): Whole-Genome Sequencing of a 900-Year-Old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab192.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab192
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坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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関根達人(2024) 『つながるアイヌ考古学』第2版(新泉社、初版の刊行は2023年)
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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楊海英(2023)『人類学と骨 日本人ルーツ探しの学説史』(岩波書店)
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アイヌに関する現存最古の文献は、12世紀成立の『今昔物語』と考えられています。『今昔物語』では、陸奥国奥六郡の支配者である安倍氏が古代東北の蝦夷に列なる「酋(エビス)」の長で、さらに北方の住人が「夷(エゾ)」とされており、エゾとエビスが区別されていますが、この「夷(エゾ)」がアイヌと考えられます。エゾとエミシは中世日本では混同されることが多かったようですが、12世紀頃以降、都の貴族は陸奥国奥六郡以北の人々を強く認識し、エゾとエミシの区別も意識していたようです。アイヌに関する現存最古の絵画資料は、14世紀前半の『紙本著色聖徳太子絵伝』です。これには、アイヌの伝統的衣装の一つ(ラプル)が描かれています。
日本列島「本土」の「和人」集団では、ロシアの南下を警戒する動きの中で、18世紀後半に北海道(蝦夷地)への関心が高まり、アイヌも注目されていきます。江戸時代後期の菅江真澄は、東北の北部から出土した土器や土偶を蝦夷地の出土品と比較し、現在では「亀ヶ岡式土器」と呼ばれている土器とアイヌとのつながりを指摘しました。一方で、江戸時代の亀ヶ岡遺跡周辺の住民は亀ヶ岡式土器を朝鮮半島から渡来した人々が製作した、と考えていました。亀ヶ岡式土器は精巧だったので、当時の人々は朝鮮半島から渡来した「高麗人」が製作したと考えたのだろう、と本書は推測します。
近代日本のアイヌ研究が植民地研究の一環だったことは、考古学も人類学(楊., 2023)も同様で、アイヌが日本列島の「先住民」なのかをめぐって、激しい議論が展開しました(坂野., 2022)。第二次世界大戦後には、モヨロ貝塚の発掘を契機にオホーツク文化への関心が高まり、アイヌについては、周辺地域および文化集団との関わりが注目されるようになって、狩猟採集だけを行なっていたわけではなく、交易を前提にした集団だった、と認識が変わっていきました。アイヌの交易相手には、ニブフ人やウィルタ人(Uilta)などのアジア北東部大陸部集団やサハリン島集団や日本列島「本土」の和人などがいました。
本書はこうした研究史を踏まえた上で、アイヌへとつながる過程を考古学的に検証しています。北海道では、3万年以上前から人類が存在した可能性も指摘されていますが、人類の確実な最古級の証拠は30000~25000年前頃の、小型剥片に簡素な加工を施した不定形の石器で、こうした石器は同年代の本州の石器と類似しているものの、ユーラシア大陸部で同様の石器は見つかっていないようです。北海道では石刃が25000年前頃に出現し、石刃の刃の一部のみを残すナイフ形石器が2万年前頃に流行し、その後でアジア北東部に広く分布していた細石刃が出現します。
北海道で最古級の土器は14000年前頃までさかのぼり、東日本の「縄文時代草創期」の土器と類似しています。当然ですが、「縄文時代」はあくまでも便宜的な考古学的時代区分で、過度に実体化したり均一なものと把握したりすることには慎重であるべきでしょう。本書は「縄文文化」について、大陸からの影響をほとんど受けることなく、生産力の向上ではなく宗教儀礼や工芸品の発達によって社会の安定を築いた、と評価しています。「縄文時代」の日本列島と他地域との「交流」について、一時期主張されていたほど活発ではなく、「縄文文化」はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、との指摘もあり(水ノ江., 2022)、時空間的に広範囲の「縄文人」が他の既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に独特な一まとまりを形成するため(Cooke et al., 2021)、「縄文文化」の「閉鎖的傾向」はおおむね妥当かもしれませんが、この評価は今後修正される可能性も念頭に置くべきとも思います。
本州で弥生時代が始まり、水田稲作は紀元前千年紀後半に一時的に現在の青森県まで北上しましたが、北海道で本格的に水田稲作が始まったのは近代で、本州が弥生時代から古墳時代へと移行したのに対して、北海道では狩猟と漁撈と採集を中心に、雑穀栽培の加わった「続縄文文化」が展開しました。本州ではこの期間に、下北半島や津軽半島北部で北海道の「続縄文文化」と同じ土器が分布します。もちろん、本州も含めて日本列島「本土」における「縄文時代」から奈良時代へと至る過程は、とくに「縄文時代」から弥生時代への移行というか、主要な生計の採食から農耕への変化は、地域によって異なっていたわけで、日本列島「本土」における生計さらには社会の変化を、均質なものと考えてはならないでしょう。
「続縄文時代」の後期後半となる5世紀頃に、北海道ではオホーツク海沿岸に海洋性の強いオホーツク文化が出現します。オホーツク文化はアザラシなど海洋資源に強く依存していましたが、雑穀栽培やブタの飼育も行なっていました。オホーツク文化はユーラシア北東部に起源があると考えられ、前期(5~6世紀)にはサハリン島の南半から北海道のオホーツク海沿岸に、中期(7~8世紀)にはサハリン島北部から東方では千島列島、西方では奥尻島へと拡大し、「続縄文文化」を継承した擦文文化圏の拡大に伴い、道北では9世紀、道東では9世紀後半~10世紀にかけて擦文文化との融合および吸収が続きましたが、サハリン島では12世紀頃まで存続しました。
アイヌ文化期以降のクマ送り儀礼「イオマンテ」の起源はオホーツク文化にある、と言われてきましたが、その他の文化要素について、オホーツク文化と擦文文化のどちらがアイヌ文化期以降のアイヌ集団に継承されたのか、議論になっています。そこで本書は、9~10世紀の擦文文化によるオホーツク文化の同化過程で、擦文文化に組み込まれたオホーツク文化要素を抽出し、13~14世紀のアイヌ文化期のサハリン島および千島列島への北上に伴う大陸文化の受容を明らかにして、アイヌ文化の構成要素の系譜をオホーツク文化と擦文文化に限定せず、日本列島「本土」の文化である「ヤマト文化」も視野に入れて検証しています。
日本列島「本土」のヤマト王権から北海道への影響は、すでに「続縄文時代」終末期(7世紀前半)に石狩低地帯で見られ、鉄製の武器や農耕具や耳環などを伴う土坑墓が出現し、これはヤマト王権、さらには律令国家との朝貢関係を結んだ首長層の墓と考えられています。7世紀後半に北海道の土器では本州の土師器の影響によって器面から縄文が消失し、刷毛目文(擦文)に置換されます(擦文土器)。これについては、本州北部太平洋側地域から石狩低地帯に拡散してきたエミシ集団が大きな役割を果たしたようです。擦文文化は土器の変遷に基づいて、第1期(7世紀後葉~8世紀前葉)と第2期(8世紀中葉~10世紀初頭)と第3期(10世紀前葉~中葉)と第4期(10世紀後葉~11世紀中葉)に区分されています。第2期には擦文土器から土師器的な特徴が消えて、幾何学的文様が施されるようになり、北海道式古墳も消えたことから、エミシ集団は8世紀末には土着集団と融合して吸収された、と考えられています。擦文土器は北海道において、第2期までは中央部を中心に分布し、第3期および第4期には全域のみならず、サハリン島南部や千島列島南部に拡散し、津軽・下北地方で出土数が増えます。道東ではオホーツク土器からトビニタイ土器へと変容し、トビニタイ土器は擦文土器との共存を経て、擦文土器に吸収されて消滅します。擦文文化の終焉は土器の消滅が指標とされており、道南および道央部では12世紀、道北および道東では13世紀頃と考えられています。
擦文文化の主要な生業は、伝統的な狩猟漁撈採集と、本州から新たに導入された畑作の雑穀栽培です。主要な栽培作物は、当初がアワで、9世紀以降はキビが多くなり、10世紀中葉以降はヒエが中心となります。擦文文化期には、狩猟漁撈が10世紀頃に自給自足的活動から特定の産物を対象とする活動へと大きく変わり、これは本州との交易が原因と考えられています。交易の対象は、エゾシカとヒグマの皮やワシの羽やサケやコンブなどで、本州で武士が台頭すると、軍事物資であるワシ羽やシカ皮の受容が増加したようです。本州から北海道へは、素材鉄や鉄製品が輸出されました。ただ、製鉄炉や上部構造のある専用の精錬炉はまだ確認されていません。擦文文化集団と本州の交易が活発化した10世紀後半~11世紀には、東北地方北部で環濠集落や高地性集落といった防御性集落が築かれ、その背景として、エミシ社会の内部対立や、在地系豪族である安倍氏や清原氏とエミシとの対立が推測されています。11世紀後半の戦乱を経て東北地方で覇権を確立した奥州藤原氏は、北海道との交易も行なっていたようですが、領内統治に有効だった仏教は、擦文文化集団には浸透しなかったようです。この頃、年代には不確実なところがあり、12世紀後半~13世紀と推測されていますが、上幌内2遺跡の女性被葬者の副葬品では、ユーラシア大陸部から北回りでもたらされたと考えられるワイヤー製の垂飾と鉄製腕輪があり、これはアイヌ文化初期の墓に特徴的で、一方でこの墓には擦文文化後期に特徴的な黒曜石の転礫も含まれ、擦文文化期からアイヌ文化期への移行を示しています。
このアイヌ文化期という時代区分の名称には議論もあり、12~13世紀頃に初めてアイヌ民族が出現した、というような誤解を招く、との批判があります。冒頭で述べた、アイヌ集団は「縄文文化」とはつながっておらず、鎌倉時代にアジア北東部から北海道に侵入し、先住の「縄文人」の子孫を殺戮した侵略者集団だった、というような言説ではまさに、アイヌ民族が12~13世紀頃に初めて北海道に出現し、その前には存在しておらず、11世紀以前の北海道に存在したのは「縄文人(の子孫)」だった、と主張されています。そこで、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提言されたこともありましたが(瀬川., 2019)、一般には定着していません。近年では、アイヌ史の時代区分について、本州との交易により鉄器が広がる「続縄文時代」後半期~擦文文化期が古代、13世紀のアイヌ集団のサハリン島への拡散以降を中世、16世紀半ばのアイヌ首長と松前大館の蠣崎氏との講和もしくはアイヌの交易の自立性が失われた18世紀以降を近世とする案が提示されています。その上で本書は、北海道において、「縄文時代」から19世紀に「和人」が急増するまで、オホーツク文化集団や「和人」との遺伝的混合はあったものの、大規模な民族の交代は認められないので、アイヌ民族史は「縄文時代」にさかのぼる、と主張しています。ただ、北海道において「縄文時代」以来の在来集団が近世まで外来集団に対して優位性を失わず、かなりの程度の人口連続性があったとしても、中世の一部のアイヌ集団のゲノムにおけるオホーツク文化集団的構成要素の割合は30%以上かもしれず(Sato et al., 2021)、アイヌ集団の形成における人口統計学的観点からは、オホーツク文化集団の影響を過小評価はできないようにも思います。
これらの時代区分論を踏まえて、本書はアイヌ文化の形成過程を検証します。擦文文化と前近代アイヌ文化の違いの最も重要な指標は、土器の有無です。アイヌ文化期では、擦文文化期までの土器に代わって、鉄鍋を使用するようになりました。本州では、12世紀頃に煮沸具が土器から鉄鍋に代わりました。北海道における鉄鍋の流入は本州より遅れましたが、擦文文化後期には内耳鉄鍋を模倣した鍋型土器(内耳土器)が作られ、炉で使用されました。それと連動して、この頃には平地式住居が出現し、住居形態が次第に竪穴式から平地式へと移行し、この移行は道北および道東よりも道南および道央で先行します。中央に囲炉裏を儲けた平地式の住居はチセと呼ばれ、本州の中世~近世前半の一般的な民家(掘立柱建物)とは異なり、柱穴を掘らずに、先端を尖らせた柱が地面に打ち込まれていました。厚真町のニタップナイ遺跡やオニキシベ遺跡では、長楕円形の炉と外踏ん張り式の打ち込み柱から構成された、擦文文化後期の平地式住居が発見され、チセの起源は10世紀までさかのぼることが明らかになりましたが、その起源がどこなのか、まだ不明で、一部のチセにはオホーツク文化の竪穴住居の伝統を継承している可能性が指摘されています。
アイヌの服飾文化は、オホーツク文化と擦文文化とアムール女真(パクロフカ)文化の影響によって、13世紀頃に形成されました。アイヌ文化の漆器や木製品には、所有印(シロシ)や刻印(イトクパ)がありますが、類似の刻印が10世紀中葉の日本海沿岸の擦文土器の椀類の底面に出現し、その後で複雑化および多様化していき、アイヌ文化の刻印は擦文文化に由来するようです。アイヌ文化の代表的な儀礼である、飼育した子供のクマを殺し、神の世界へ送り返すイオマンテの起源はオホーツク文化にさかのぼる、と明らかになっています。イワクテと呼ばれる物送りは、生物の遺骸や役割の終わった器物を、この世に再び戻すために神々の世界へと送り返す儀礼で、「縄文人」から「続縄文時代」と擦文文化期を経て、アイヌ文化へと継承されました。アイヌの動物儀礼は「縄文文化」に起源がありますが、「和人」との関係で経時的に変容していったようです。アイヌ文化に特徴的な遺跡であるチャシは高所に建てられた施設ですが、元々の機能は祭祀場で、後に大規模かし、軍事施設としても機能するようになりました。文化の重要な指標となる墓は、擦文文化中期~後期には、道東では住居内埋葬、道央では土坑墓が主流で、伸展葬でした。14世紀の初期アイヌ文化期には、一般的なアイヌ墓とは大きく異なる方形配石荼毘墓が見られ、これは沿海地方起源と考えられています。副葬品では、擦文文化期とは比較にならないほど多くの日本製品が見られるようになります。
本書はこうした特徴のアイヌ文化について、擦文文化に基づきながら、オホーツク文化の伝統も継承し、新たにヤマト文化やアムール女真文化の要素が加わることで形成された、とまとめています。北方要素の流入に関しては、11世紀におけるサハリン島への擦文文化集団の拡散開始が契機になったようです。ヤマト文化の要素は、13世紀に日本列島規模で活発に展開するようになった、日本海交易によってもたらされました。ただ、これによって北海道が日本経済圏に取り込まれ、次第にアイヌの経済的自立性が失われていったことも、本書は指摘します。こうして日本との経済関係が強くなっていく中で、アイヌ独自の嗜好も見られ、アイヌでは陶磁器が好まれず、自製の木器と日本産の高級漆器が好まれました。こうしたアイヌの独自性は他にも、茶と仏教に関心を示さなかったことにも表れており、上述のように擦文文化集団も仏教を受け入れなかったようなので、これは擦文文化期から続くアイヌの価値観を反映しているのかもしれません。宝物や武器でも、アイヌは日本から多量に取り入れましたが、中世以降の日本の新たな宝物や武器ではなく、古い種類を好み、これもアイヌ独自の価値観の持続と関連している可能性が考えられます。
日本海交易が活発化する中で、「和人」が北海道に定着していきます。そうした中で1457年に起きたのがコシャマインの戦いで、この背景には交易や領域めぐるアイヌと和人の摩擦があった、と本書は指摘します。コシャマインの戦い後、和人では蠣崎氏が急速に勢力を拡大しますが、コシャマインの戦いでアイヌ側が敗北したと伝わっているものの、アイヌと「和人」との関係は対等で、人口ではアイヌが「和人」を圧倒していた、と本書は推測します。蠣崎氏は羽柴政権で蝦夷島(北海道)の実質的支配権を認められ、徳川政権下ではアイヌとの交易独占権が認められたことで、財政を確立しました。こうして成立した松前藩ですが、渡島半島の一部で松前藩の支配する「和人」地には、アイヌも暮らしていました。ただ「和人」地では、しだいに「和人」が増え、アイヌは減少していったようです。アイヌには、「和人」との交易で次第に煙草が浸透していったようです。「和人」との交易と接触が増える中で、摩擦も高まったのか、1669年にシャクシャインの戦いが勃発します。これは大規模な反「和人」抗争でしたが、松前藩がアイヌ側を分断し、シャクシャインを謀殺したことで鎮圧し、北海道(蝦夷地)における「和人」の有意が決定づけられました。このシャクシャインの戦いの背景には大規模噴火があり、その他にも火山災害が相次いだことで、17世紀前半にアイヌで行なわれていたアワや根菜類の農耕の発展が阻害されたかもしれない、と本書は指摘します。
幕府は18世紀末以降、一時蝦夷地を直轄化し、これ以降「和人」が蝦夷地(北海道)で勢力を拡大していきます。この間、18世紀まで本州北端にもアイヌは暮らしていましたが、その痕跡が史料でさかのぼれるのは戦国時代までとなれます。考古学では、青森県で14~15世紀のアイヌ関連の遺物が発見されています。本州アイヌは戦国時代には南部氏や津軽安藤氏や浪岡北畠氏と関係を維持していたようですが、そうした勢力と敵対することで自立した津軽(大浦)氏は、アイヌとの関係を断ったようです。それでも、本州北端には18世紀まで、エゾアワビが重要な交易品となるなど、「和人」経済に次第に組み込まれていきつつも、アイヌが存在していたようです。本書の対象は前近代となるので、私が無知な近代のアイヌの動向については、新たに入門書を探して読むつもりです。
参考文献:
Matsumae H. et al.(2021): Exploring correlations in genetic and cultural variation across language families in northeast Asia. Science Advances, 7, 34, eabd9223.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abd9223
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Sato T. et al.(2021): Whole-Genome Sequencing of a 900-Year-Old Human Skeleton Supports Two Past Migration Events from the Russian Far East to Northern Japan. Genome Biology and Evolution, 13, 9, evab192.
https://doi.org/10.1093/gbe/evab192
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坂野徹(2022)『縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争』(中央公論新社)
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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関根達人(2024) 『つながるアイヌ考古学』第2版(新泉社、初版の刊行は2023年)
水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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楊海英(2023)『人類学と骨 日本人ルーツ探しの学説史』(岩波書店)
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この記事へのコメント
ただ一方で「縄文人=アイヌ」とそのまま等閑視するのも難しいものです。近世アイヌは”縄文人”の言語をそのまま引き継ぎ、精神文化や生活意識に関しては部分的には引き継いでいるものの、続縄文時代後半の人口減少と石器利用の衰退、擦文期以降の本州文化の浸透もあり、そのまま体系的に引き継がれている可能性は低いように見えます。
これは決して民族交替説ではなく、”現代日本人が9世紀以前の古代人と言語や遺伝面で繋がるものの、その社会意識や精神文化には大きな断絶がある”のと同じ社会変化と考えています。
アイヌ集団については、一般層にはそれが見えにくいところもあるかもしれません。
実際は、アイヌでも日本列島「本土」集団というか「ヤマト」集団でも、確かに、外来要素の流入や社会の変容に伴い、6世紀と近世では、人的連続性は高いものの、文化的には大きな違いがありそうですが。