予定稿と選挙情勢調査と権力
吉川英治氏の息子が、父の存命中にも関わらず、新聞社で父の訃報の予定稿を見かけて、衝撃を受けた、といった話をどこかで読んだ記憶があります(真偽の確証は得ていませんが)。予定稿を初めて強く意識したのは昭和天皇崩御時の報道で、崩御が公表されてから取材や執筆を始めたような紙面構成ではないことは、十代半ばでもはっきりと分かるほどでした。当然、テレビや雑誌も同様だったでしょう。選挙投票日翌日の新聞朝刊の社説も、多くの場合は複数の予定稿を用意し、投票日の出口調査も加味して、ぎりぎりまで修正しているのかな、と推測しています。まあ、部外者なので的外れなことを言っているかもしれませんが。
選挙の予定稿と言えば、当ブログでは2016年のアメリカ合衆国大統領選で、クリントン候補勝利との前提で予定稿を用意していたら、トランプ候補が勝ち、予定稿をほぼ全面的に書き換えたことがありました(関連記事)。2016年のアメリカ合衆国大統領選については、大手報道機関の「偏向」を糾弾する意見もTwitterでは目立っていたように記憶していますが、その後の検証において、予測は全国単位ではおおむね妥当だったものの、州単位での予測精度は劣り、それが当落の判断の間違いにつながった、と指摘されていました(関連記事)。全範囲より局所的範囲の方が、選挙情勢調査で予測は難しいことには納得できます。アメリカ合衆国大統領選が、単純な全国単位での総得票数で当選を決める制度だったならば、2016年は大手報道機関の予測が当たった、と評価されていたかもしれません。もっとも、選挙制度が違えば、候補者の選挙戦略も変わってくるわけですが。日本の国制選挙では、1998年の参院選の後は、序盤の情勢調査と結果が大きく異なることや、大手報道機関の間で予測が大きく違うことは長くなかったように記憶しています。ある意味で、日本の政治が「安定」していた、とも言えるかもしれませんが、2021年の衆院選以降は、大手報道機関でも予測の違いが目立ち、序盤の情勢調査もさほど信用できなくなっているように思います。
こうした選挙情勢調査の予測間違いも含めて、大手報道機関の偏向や限界と批判し、「上品な」表現では「オールドメディア」、「下品な」表現では「マスゴミ」と嘲笑や罵倒をする人は、Twitterなどで目立ちます。2024年のアメリカ合衆国大統領選挙(関連記事)にしても、「マスゴミ」と罵倒するような人は、偏向している報道機関がその願望からハリス候補の勝利を予測し続けていた、と嘲笑する傾向にあったように記憶しています。しかし、2024年のアメリカ合衆国大統領選挙では、終盤において、全国規模の情勢調査でもトランプ候補優勢と少なくとも一部で報道されていた記憶があり、「マスゴミ」と罵倒するような人が主張するほど、大手報道機関が希望的観測を垂れ流していたわけではないように思います。
過激な「マスゴミ」批判派には、大手報道機関が潰れることを望んでいる人もいるでしょうし、そうでなくとも、「オールドメディア」との表現が「マスゴミ」より広く用いられていることは、大手報道機関の影響力の衰退を大前提と考えている人が多いことを反映しているのでしょう。確かに、大手報道機関の偏向や他の問題がないとはとても言えませんし、社会にとって有害な側面が多分にあることは否定できませんが、大手報道機関が潰れるとまではいかずとも、大きく衰退すれば、それはとくに情報収集の点で、多くの人々にとって利益よりも不利益の方がはるかに大きいだろう、と私は懸念しています。日本のような現代の一定規模以上の社会において大手報道機関は必要で、その弊害を軽減するための重要な方策の一つが、複数の大手報道機関による一定以上の競合と考えています。一方で、そうした競合が大きな弊害をもたらす危険性もあるわけで、難しいところではありますが。
ただ、大手報道機関の必要性を主張する私でも、大手報道機関を「マスゴミ」と罵倒・嘲笑する人々に共感するところも少なくありません。日本の大手報道機関に対する私の大きな不信感の一つは、政府など権力を批判する意義があるとしても、権力の側にいる自覚がないか、弱い人が多いのではないか、ということです。これが、たとえば最大手紙ではなくとも、大手紙の「スター記者」のような悪目立ちしている人々から受けている印象にすぎず、実際は違うのであれば、私にとって喜ばしいことではありますが。大手報道機関には、以前程の影響力はないかもしれないとしても、政治家個人の政治生命を絶ったり、政党に一定以上の打撃を与える力はまだあるでしょうし、政治家ではない個人や小さな組織に対しては実質的な社会生命の剥奪権があるわけですから、大手報道機関の勤務者には、自分たちが権力の側にいることを強く自覚してもらいたいものです。その意味で、インターネットなどで大手報道機関を監視する必要があるわけですが、一方でTwitterなどにおいて、間違った情報が横行していることも否定できず、監視機能としてあまりにも問題の多い場となっています。偽情報を流すのは低負担、それを検証して否定するのは高負担というのが人間社会の嫌な真理である以上、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えない言説が、責任感の希薄になりがちなインターネットで横行するのも仕方のないところで、現実は厳しいものです。
大手報道機関と同様の問題は、知識層の中でも大学、とくに旧帝国大学の「リベラル」と自認しているかそう言われているような教授にも当てはまります。これも、上述の大手報道機関の一部の記者と同様に、一部の「リベラル」と自認しているかそう言われているような大学教授から受けている印象にすぎず、実際は違うのであれば、私にとって喜ばしいことではありますが。一部なのかどうか分かりませんが、「リベラル」と自認しているかそう言われているような、旧帝国大学を含めて大学の(准)教授の中には、自らを「反権力・反権威」で「弱者」と規定して疑わないような人々を見かけるものの(これが私の偏見にすぎないのであれば、幸いではありますが)、大学、とくに旧帝国大学の教授ともなれば、権力の側にいることをとても否定できないでしょう。こう言うと、過去70年間のほとんどが自民党政権で、近年では安倍政権が長く続いたのに、大学教授といえども「リベラル」派が権力側のはずはない、と反論されそうですが、当然、議院内閣制の現代日本社会において、権力が議会や内閣のみを指すわけではありません。むしろ現代日本社会において、「リベラル」な価値観・世界観は、大学のみならず、大手報道機関も含めて大企業や、行政官僚や司法といった権力側に、各分野で差があっても、すっかり浸透しているのではないか、と思います。さらに、「woke」もそうした権力へとすでに一定以上浸透しているように思います。その意味でも、「リベラル」さらには「woke」と自認しているかそう言われているような大学教授は、「反権力・反権威」で「弱者」にすぎないのではなく、明らかに権力側にいることを、認識しておかねばならない、と考えています。反「woke」の立場である私にとっては、むしろ議会と内閣こそ反「woke」にとっての最後の権力基盤になるのではないか、との希望さえ抱きたくなりますが、アメリカ合衆国のトランプ現政権がそうであるように、反「woke」の政権ならばよいわけでもなく、やはり現実は厳しいものです。
色々と思いつきを述べてきましたが、そもそも、「リベラル」があまりにも気軽に用いられていることも、問題なのかもしれません。正直なところ、全てではないにしても、1990年代後半以降の日本社会において「リベラル」は、印象の悪くなった「左翼」や「進歩派」や「革新」の意味合いも包含しつつ、あまりにも安易に用いられてきたのではないか、と思います。恐らくそうした文脈で日本共産党を「リベラル」派に区分することもすっかり定着したようですが、安倍政権が「反リベラル」との「リベラル」派における「常識」も含めて、現代日本社会において「リベラル」をあまりにも安易に使いすぎているのではないか、と真剣に検討することが必要と考えています。安倍元首相が殺害されたさいの、外国の「リベラル」と言われているような要人の追悼の言葉は、実際に安倍元首相と交渉してきた人々の発言として一定の重みを認めるべきで、単なる日本および安倍元首相への無理解や軽視や殺害された要人への配慮にすぎない、と安易に判断してはならないでしょう。
選挙の予定稿と言えば、当ブログでは2016年のアメリカ合衆国大統領選で、クリントン候補勝利との前提で予定稿を用意していたら、トランプ候補が勝ち、予定稿をほぼ全面的に書き換えたことがありました(関連記事)。2016年のアメリカ合衆国大統領選については、大手報道機関の「偏向」を糾弾する意見もTwitterでは目立っていたように記憶していますが、その後の検証において、予測は全国単位ではおおむね妥当だったものの、州単位での予測精度は劣り、それが当落の判断の間違いにつながった、と指摘されていました(関連記事)。全範囲より局所的範囲の方が、選挙情勢調査で予測は難しいことには納得できます。アメリカ合衆国大統領選が、単純な全国単位での総得票数で当選を決める制度だったならば、2016年は大手報道機関の予測が当たった、と評価されていたかもしれません。もっとも、選挙制度が違えば、候補者の選挙戦略も変わってくるわけですが。日本の国制選挙では、1998年の参院選の後は、序盤の情勢調査と結果が大きく異なることや、大手報道機関の間で予測が大きく違うことは長くなかったように記憶しています。ある意味で、日本の政治が「安定」していた、とも言えるかもしれませんが、2021年の衆院選以降は、大手報道機関でも予測の違いが目立ち、序盤の情勢調査もさほど信用できなくなっているように思います。
こうした選挙情勢調査の予測間違いも含めて、大手報道機関の偏向や限界と批判し、「上品な」表現では「オールドメディア」、「下品な」表現では「マスゴミ」と嘲笑や罵倒をする人は、Twitterなどで目立ちます。2024年のアメリカ合衆国大統領選挙(関連記事)にしても、「マスゴミ」と罵倒するような人は、偏向している報道機関がその願望からハリス候補の勝利を予測し続けていた、と嘲笑する傾向にあったように記憶しています。しかし、2024年のアメリカ合衆国大統領選挙では、終盤において、全国規模の情勢調査でもトランプ候補優勢と少なくとも一部で報道されていた記憶があり、「マスゴミ」と罵倒するような人が主張するほど、大手報道機関が希望的観測を垂れ流していたわけではないように思います。
過激な「マスゴミ」批判派には、大手報道機関が潰れることを望んでいる人もいるでしょうし、そうでなくとも、「オールドメディア」との表現が「マスゴミ」より広く用いられていることは、大手報道機関の影響力の衰退を大前提と考えている人が多いことを反映しているのでしょう。確かに、大手報道機関の偏向や他の問題がないとはとても言えませんし、社会にとって有害な側面が多分にあることは否定できませんが、大手報道機関が潰れるとまではいかずとも、大きく衰退すれば、それはとくに情報収集の点で、多くの人々にとって利益よりも不利益の方がはるかに大きいだろう、と私は懸念しています。日本のような現代の一定規模以上の社会において大手報道機関は必要で、その弊害を軽減するための重要な方策の一つが、複数の大手報道機関による一定以上の競合と考えています。一方で、そうした競合が大きな弊害をもたらす危険性もあるわけで、難しいところではありますが。
ただ、大手報道機関の必要性を主張する私でも、大手報道機関を「マスゴミ」と罵倒・嘲笑する人々に共感するところも少なくありません。日本の大手報道機関に対する私の大きな不信感の一つは、政府など権力を批判する意義があるとしても、権力の側にいる自覚がないか、弱い人が多いのではないか、ということです。これが、たとえば最大手紙ではなくとも、大手紙の「スター記者」のような悪目立ちしている人々から受けている印象にすぎず、実際は違うのであれば、私にとって喜ばしいことではありますが。大手報道機関には、以前程の影響力はないかもしれないとしても、政治家個人の政治生命を絶ったり、政党に一定以上の打撃を与える力はまだあるでしょうし、政治家ではない個人や小さな組織に対しては実質的な社会生命の剥奪権があるわけですから、大手報道機関の勤務者には、自分たちが権力の側にいることを強く自覚してもらいたいものです。その意味で、インターネットなどで大手報道機関を監視する必要があるわけですが、一方でTwitterなどにおいて、間違った情報が横行していることも否定できず、監視機能としてあまりにも問題の多い場となっています。偽情報を流すのは低負担、それを検証して否定するのは高負担というのが人間社会の嫌な真理である以上、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えない言説が、責任感の希薄になりがちなインターネットで横行するのも仕方のないところで、現実は厳しいものです。
大手報道機関と同様の問題は、知識層の中でも大学、とくに旧帝国大学の「リベラル」と自認しているかそう言われているような教授にも当てはまります。これも、上述の大手報道機関の一部の記者と同様に、一部の「リベラル」と自認しているかそう言われているような大学教授から受けている印象にすぎず、実際は違うのであれば、私にとって喜ばしいことではありますが。一部なのかどうか分かりませんが、「リベラル」と自認しているかそう言われているような、旧帝国大学を含めて大学の(准)教授の中には、自らを「反権力・反権威」で「弱者」と規定して疑わないような人々を見かけるものの(これが私の偏見にすぎないのであれば、幸いではありますが)、大学、とくに旧帝国大学の教授ともなれば、権力の側にいることをとても否定できないでしょう。こう言うと、過去70年間のほとんどが自民党政権で、近年では安倍政権が長く続いたのに、大学教授といえども「リベラル」派が権力側のはずはない、と反論されそうですが、当然、議院内閣制の現代日本社会において、権力が議会や内閣のみを指すわけではありません。むしろ現代日本社会において、「リベラル」な価値観・世界観は、大学のみならず、大手報道機関も含めて大企業や、行政官僚や司法といった権力側に、各分野で差があっても、すっかり浸透しているのではないか、と思います。さらに、「woke」もそうした権力へとすでに一定以上浸透しているように思います。その意味でも、「リベラル」さらには「woke」と自認しているかそう言われているような大学教授は、「反権力・反権威」で「弱者」にすぎないのではなく、明らかに権力側にいることを、認識しておかねばならない、と考えています。反「woke」の立場である私にとっては、むしろ議会と内閣こそ反「woke」にとっての最後の権力基盤になるのではないか、との希望さえ抱きたくなりますが、アメリカ合衆国のトランプ現政権がそうであるように、反「woke」の政権ならばよいわけでもなく、やはり現実は厳しいものです。
色々と思いつきを述べてきましたが、そもそも、「リベラル」があまりにも気軽に用いられていることも、問題なのかもしれません。正直なところ、全てではないにしても、1990年代後半以降の日本社会において「リベラル」は、印象の悪くなった「左翼」や「進歩派」や「革新」の意味合いも包含しつつ、あまりにも安易に用いられてきたのではないか、と思います。恐らくそうした文脈で日本共産党を「リベラル」派に区分することもすっかり定着したようですが、安倍政権が「反リベラル」との「リベラル」派における「常識」も含めて、現代日本社会において「リベラル」をあまりにも安易に使いすぎているのではないか、と真剣に検討することが必要と考えています。安倍元首相が殺害されたさいの、外国の「リベラル」と言われているような要人の追悼の言葉は、実際に安倍元首相と交渉してきた人々の発言として一定の重みを認めるべきで、単なる日本および安倍元首相への無理解や軽視や殺害された要人への配慮にすぎない、と安易に判断してはならないでしょう。
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