10世紀前後の集落の消滅と時代区分
先月(2025年8月)、日本では10世紀にそれ以前から続いていた集落の消滅が多い、と私のTwitter環境では話題になり、まとめ記事もあります。これについては確か20年以上前から知っていたものの、本や雑誌やインターネット上の掲示板など、どこで知ったのか思い出せませんでした。しかし、Twitterにて、
西谷正浩「中世は核家族だったのか」も同じところを読み直しているが、古代村落の大半が9-10世紀に消滅し中世につながらないのを明らかにしたのは坂上康俊「律令国家の転換と「日本」」(2001)であるとのこと。
との投稿があり、おそらくは2001年3月の刊行後すぐに購入して読んだ、坂上康俊『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』(講談社、2001年)で得た知識だと思いますが、あるいはそれ以前にインターネット上の掲示板で見かけていたかもしれません。同書では、
律令制の施行に伴って始まった集落ばかりではなく、古墳時代以来営々と、あるいは断続的に営まれてきた集落の場合も、おおよそ10世紀のうちには姿を消すことが多い。
と指摘されています(P281)。こうした大きな変化は、旧来の郡司層の没落というか、9世紀になると、郡司層の多くが郡司職を忌避するようになったこと(関連記事)や、一部の学説で主張されている「律令国家」から「王朝国家」への移行とも関連しているのでしょう。その意味で、10世紀前後は日本史における大きな転換点と言えるかもしれません。
この10世紀前後の古代集落の消滅について、律令国家から王朝国家への移行や郡司層の没落ほど因果関係は明確ではないというか、まだ思いつきにすぎませんが、宗教観もしくは世界観の大きな変容とも関連していたかもしれません。日本思想史では、ヒトが神仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、10世紀後半以降次第に変容し、ヒトの世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していき、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成される、と指摘されています(関連記事)。また、そうした傾向の前より、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていく過程で、善神と悪神の機能分化が進み、祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となり、平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになって、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。こうした変化は、古代集落の消滅と時期がほぼ重なるとまでは言えず、直接的には仏教や律令制の導入と関連していたかもしれませんが、大きく見ると、古代集落の消滅を挟んで古代から中世へと移行する中で、宗教観もしくは世界観も大きく変容したことは興味深いと思います。
日本史の転機といえば、古くは内藤湖南氏が応仁の乱を挙げ、勝俣鎭夫氏も戦国時代における変化を重視し、一方で松本新八郎氏や網野善彦氏は南北朝時代を重視していたように記憶していますが、日本の信仰というか世界観は14~16世紀に大きく転換した、との見解もあり、これは南北朝時代を転機とする見解と整合的かもしれません(関連記事)。こうした応仁の乱や南北朝時代を転機とする見解と比較して10世紀前後の変化が一般層ではあまり注目されていないように思えるのは、「中央権力」の連続性が明確なように見えるからではないか、と考えています。確かに、一部の学説で主張されている「律令国家」から「王朝国家」への移行といった朝廷の支配体制の変容はありますが、天皇や藤原氏や源氏など最上位の支配層に大きな入れ替わりはありませんでした。
私は四半世紀前には、戦国時代を日本史における一大転機と考えていましたが、その後は、17~18世紀に確立した「伝統社会」への、長く緩やかな移行期が9~17世紀だった、との見解に変わりました。ただ、ある時代を「到達点」と考え、その前代からの「離脱度」と次代への「到達度」がじょじょに変わっていく、というか「増加」していく過程として「移行期」を把握することにも問題がある、と最近になって考えが変わりました(関連記事)。特定の時代を「到達点」と考え、その中間の時代を前後の時代の特徴が混在し、次第には後の時代(到達点)に近づいていく「移行期」としてではなく、前後の時代とは異質な独自の性格を有する時代と把握することもできるのではないか、というわけです。
とはいえ、「移行期」という概念を破棄する必要はなく、あくまでも特定の視点における認識として有効な側面も少なくないように思います。たとえば日本史では、古墳時代もしくは弥生時代後期以降の在地社会の上に成立した律令制を一つの到達点、中世の荘園公領制を一定の安定した「到達点」と認識すれば、9~10世紀が移行期と言えそうです。17~18世紀に「伝統社会」が確立したとの認識では、15~17世紀前半が移行期と言えそうです。19世紀末~20世紀初頭に「近代社会」が確立したとの認識では、江戸時代を長い移行期と考えることができるかもしれません。思いつき程度のことしか言えませんが、時代区分の問題は今後も考え続けていくつもりです。
西谷正浩「中世は核家族だったのか」も同じところを読み直しているが、古代村落の大半が9-10世紀に消滅し中世につながらないのを明らかにしたのは坂上康俊「律令国家の転換と「日本」」(2001)であるとのこと。
との投稿があり、おそらくは2001年3月の刊行後すぐに購入して読んだ、坂上康俊『日本の歴史05 律令国家の転換と「日本」』(講談社、2001年)で得た知識だと思いますが、あるいはそれ以前にインターネット上の掲示板で見かけていたかもしれません。同書では、
律令制の施行に伴って始まった集落ばかりではなく、古墳時代以来営々と、あるいは断続的に営まれてきた集落の場合も、おおよそ10世紀のうちには姿を消すことが多い。
と指摘されています(P281)。こうした大きな変化は、旧来の郡司層の没落というか、9世紀になると、郡司層の多くが郡司職を忌避するようになったこと(関連記事)や、一部の学説で主張されている「律令国家」から「王朝国家」への移行とも関連しているのでしょう。その意味で、10世紀前後は日本史における大きな転換点と言えるかもしれません。
この10世紀前後の古代集落の消滅について、律令国家から王朝国家への移行や郡司層の没落ほど因果関係は明確ではないというか、まだ思いつきにすぎませんが、宗教観もしくは世界観の大きな変容とも関連していたかもしれません。日本思想史では、ヒトが神仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、10世紀後半以降次第に変容し、ヒトの世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していき、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成される、と指摘されています(関連記事)。また、そうした傾向の前より、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていく過程で、善神と悪神の機能分化が進み、祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となり、平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになって、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。こうした変化は、古代集落の消滅と時期がほぼ重なるとまでは言えず、直接的には仏教や律令制の導入と関連していたかもしれませんが、大きく見ると、古代集落の消滅を挟んで古代から中世へと移行する中で、宗教観もしくは世界観も大きく変容したことは興味深いと思います。
日本史の転機といえば、古くは内藤湖南氏が応仁の乱を挙げ、勝俣鎭夫氏も戦国時代における変化を重視し、一方で松本新八郎氏や網野善彦氏は南北朝時代を重視していたように記憶していますが、日本の信仰というか世界観は14~16世紀に大きく転換した、との見解もあり、これは南北朝時代を転機とする見解と整合的かもしれません(関連記事)。こうした応仁の乱や南北朝時代を転機とする見解と比較して10世紀前後の変化が一般層ではあまり注目されていないように思えるのは、「中央権力」の連続性が明確なように見えるからではないか、と考えています。確かに、一部の学説で主張されている「律令国家」から「王朝国家」への移行といった朝廷の支配体制の変容はありますが、天皇や藤原氏や源氏など最上位の支配層に大きな入れ替わりはありませんでした。
私は四半世紀前には、戦国時代を日本史における一大転機と考えていましたが、その後は、17~18世紀に確立した「伝統社会」への、長く緩やかな移行期が9~17世紀だった、との見解に変わりました。ただ、ある時代を「到達点」と考え、その前代からの「離脱度」と次代への「到達度」がじょじょに変わっていく、というか「増加」していく過程として「移行期」を把握することにも問題がある、と最近になって考えが変わりました(関連記事)。特定の時代を「到達点」と考え、その中間の時代を前後の時代の特徴が混在し、次第には後の時代(到達点)に近づいていく「移行期」としてではなく、前後の時代とは異質な独自の性格を有する時代と把握することもできるのではないか、というわけです。
とはいえ、「移行期」という概念を破棄する必要はなく、あくまでも特定の視点における認識として有効な側面も少なくないように思います。たとえば日本史では、古墳時代もしくは弥生時代後期以降の在地社会の上に成立した律令制を一つの到達点、中世の荘園公領制を一定の安定した「到達点」と認識すれば、9~10世紀が移行期と言えそうです。17~18世紀に「伝統社会」が確立したとの認識では、15~17世紀前半が移行期と言えそうです。19世紀末~20世紀初頭に「近代社会」が確立したとの認識では、江戸時代を長い移行期と考えることができるかもしれません。思いつき程度のことしか言えませんが、時代区分の問題は今後も考え続けていくつもりです。
この記事へのコメント
また、弥生時代に渡来が集中した福岡県域より、古墳~飛鳥に渡来人の定着が確認される近畿に渡来系遺伝子が最も強いとされています。これを踏まえると古墳~飛鳥時代に近畿地方で現代日本人的な遺伝子構成が完成された後、9~10世紀に全国に拡散した可能性が否定できません。
現時点で、古墳時代における大陸から日本列島への流入の遺伝的影響が日本列島「本土」現代人集団に及ぼした影響の程度は、そもそも大陸から日本列島に弥生時代以降に到来した集団の遺伝的構成が、おもにアムール川要素と黄河要素のさまざまな割合の混合だったと予想されるので、区別が難しいとは思います。
ただ、最近になって、類似した遺伝的構成の集団間の相互作用をじゅうらいよりも高解像度で推測できる手法が開発されており、日本列島や朝鮮半島も含めてアジア東部の古代ゲノムデータがもっと蓄積されれば、日本列島の人口史をさらに詳しく解明できるのではないか、と期待しています。
個人的には以前から、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成は、17~18世紀における「伝統社会」の成立まで視野に入れる必要があるのではないか、と考えてきましたが、そこまで遅くなくとも、荘園公領制の確立から「伝統社会」形成の初期である14〜15世紀までは見ておかねばならないのではないか、と予想しています。
もちろん、日本列島「本土」内でも、弥生時代以降の人口史の展開に大きな地域的差異があるでしょうし、それには、平安時代初期以降活発になった、都から地方へと土着した皇族や貴族およびその従者の遺伝的影響の地域的な違いもある、と考えています。とは予想していますが。
ブログ主さんの、平安時代以降の社会の変動が日本人の遺伝的構成を確立させたという主張に質問です。
古墳時代末期以降の人骨は南西諸島や北東北、北海道などを除き、現代日本人と遺伝的にほとんど変わりません。
また、日本において、奈良時代以降に国外からの大規模な渡来があった記録は歴史学的にも考古学的にもありません。
そのような中ではたとえ社会の変動があったとしても日本列島の遺伝的構成は変化しないと思いますが、それについてお答えいただけないでしょうか。
これは、持続的な「家」に基づく定着的な村落(惣村)が日本列島「本土」の「伝統社会」の基盤で、地理的な差を伴いつつ、南北朝時代から18世紀初頭にかけて成立した、との認識に基づいています。
古代集落の崩壊から荘園公領制の期間は、「伝統社会」と比較して定着度が低いというか、人口流動性が高かったのではないか、と想定しています。
そのため、日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成は、17~18世紀における「伝統社会」の成立まで視野に入れる必要があるのではないか、と以前から考えてきたわけですが、「伝統社会」成立前の日本社会における人口移動性が空間的には限定的だった、つまり比較的近距離が多かったならば、日本列島「本土」の多くの地域の遺伝的構成は、奈良時代と現代とでさほど変わらないのかもしれません。
そもそも、飛鳥時代から奈良時代以降の古代ゲノムデータがきわめて少なく、当時の遺伝的な地域差がほぼ不明なので、憶測を重ねた見解になってしまいますが。
まあ、日本列島の「伝統社会」も、高度経済成長以降、崩壊というか変容が加速しているように思いますし、現代の遺伝的な地域差は、とくに関東については、近代以降の人口移動の影響が大きいかもしれません。
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0
また、人口比から考えて集団遺伝学的観点で検出可能な影響を残したのか疑問はありますが、平安時代における都出身の貴族およびその配下の地方への土着や、承久の乱を契機とする東国武士の西国への勢力拡大や、羽柴政権と徳川政権初期における大名とその家臣団の大規模な転封なども、一応は念頭に置くべきかもしれない、と考えています。