髙杉洋平『帝国陸軍 デモクラシーとの相剋』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本陸軍の変容を「デモクラシー」の観点から検証しており、とくに「大正デモクラシー」の影響に焦点を当てています。「デモクラシー」の適切な日本語訳は私程度の知見では的確に判断できませんが、本書の内容からすると、民主政治や民主制よりは、一般的な訳語である民主主義の方が適切なように思います。とりあえずこの記事では、「デモクラシー」を民主主義と訳します。
本書の主要な対象は第一次世界大戦以降ですが、その前提としての日本における近代陸軍の創設および展開と、日露戦争を経て第一次護憲運動へと至る過程も解説されています。近代日本において、徴兵制度は当初、支配層からはその軍事力に疑問が抱かれ、徴兵対象の国民からは、その不公平性と経済的打撃が嫌われました。しかし、戸主や嗣子などへの徴兵の特権的免除規定が廃止され、軍隊では当時の日本人の大半より食生活に恵まれており、下層階級にとって軍隊は階級制度からの「解放」の側面もあって、そもそも日中戦争が泥沼化するまで実際に入営した男性は少なかったこともあり、徴兵制度は定着していきます。本書はとくに、農村の青年にとって軍隊が階層上昇の好機にもなったことを重視し、農村の青年が軍隊に適応し、軍隊側でも農村の青年を高く評価するようになり、農村的価値観が軍隊内に浸潤していったことを指摘します。
徴兵制度への抵抗が小さくなったとはいえ、軍隊には装備で莫大な予算が必要で、初期の国会は軍費をめぐっての正負と政党側の激しい対立によって紛糾しました。日清戦争を重要な契機として、軍費に関して政府と政党は歩み寄り、日露戦争で政党と政府はさらに協調するようになります。日清戦争と日露戦争の勝利によって、日本軍は急速に社会的威信を高め、日本は大陸権益を獲得し、「大衆」が新たな政治的主体として出現して、その「大衆」に支えられた政党が政権担当者としての地位を確立します。日露戦争後、軍部は国防方針を策定しますが、それに内閣は関わっておらず、総合的な国家安全保障戦略である国防方針から内閣を除外した結果、国防方針の内容は現実政治から遊離した、と本書は指摘します。またこの時期、日露戦争の戦訓から改定された各種操典類について、日露戦争前と比較して精神主義と白兵突撃主義が強調された、と指摘します。その背景には、日露戦争で大規模那火力を前に兵士に消極的傾向が蔓延したことや、日露戦争で日本軍が白兵戦でロシア軍相手に苦戦したことや、日本の国力が列強より劣っている、との認識などがありました。本書は、こうした有形的劣勢を無形的優勢で克服しようとする発想が禍根を残したことも指摘します。また、日露戦争後の陸軍内の弛緩に対して、家族主義の導入といった情緒的な要素が持ち込まれたことで、再現のない公私の混同や絶対服従の上下関係を導いた側面があることも、本書は指摘します。
日露戦争の勝利で社会的威信を高めた軍部ですが、一方で台頭してきた大衆およびそれを背景とする政党に対して軍備拡張やそれに関わる政争などで劣勢になっていき、それは桂内閣が退陣するに至った大正政変で決定的になります。そうした状況で勃発したのが第一次世界大戦でした。第一次世界大戦は日本軍にとって衝撃的で、それは列強と比較して装備が圧倒的に遅れていたからでした。もう一つ日本軍にとって衝撃的だったのは「総力戦」への対応で、日本には総力戦に対応できる軍需物資の生産体制がまったく整っていませんでした。総力戦への対応の重要性とともに、日本軍にとって問題となったのは、第一次世界大戦後の軍縮世論でした。第一次世界大戦の被害はあまりにも大きかったので、戦争への否定的感情が強くなり、第一次世界大戦の原因が勢力均衡に基づく軍拡競争と同盟拡大競争にあると考えられたので、国際的な集団安全保障機構として国際連盟が設立され、軍縮が志向されました。
日本でも軍縮の世論は強くなり、さらに第一次世界大戦後の不況の中で、日本軍の野心的な軍拡計画としての帝国国防方針の抜本的改定は頓挫します。陸軍は師団数を実質的に断念する代わりに、装備の近代化を計画しましたが、軍縮の世論と不況下では予算の増額も難しく、人員整理による近代化を目指します。これによって、軍縮も近代化も進めようとしたわけですが、世論と政党の強い軍縮圧力の前に陸軍の案は当初からの譲歩を余儀なくされ、山梨半造陸相によって進められた軍縮は、師団数の維持に拘ったこともあり、世論と政党には不評でした。けっきょく、陸軍は人員整理を行なったにも関わらず、近代化はさほど進まず、陸軍内でも不満が高まります。そうした不満派の代表的存在が宇垣一成でしたが、その背景には戦略構想の違いもあった、と本書は指摘します。一方には、師団数を削減してでも総力戦対応の陸軍へと大きく変わるべき、との構想があり、もう一方には、人的戦力に依拠して短期決戦を目指す、との構想がありました。前者を代表するのが宇垣一成、後者を代表するのが上原勇作と山梨半造でした。こうした陸軍の苦境は、「大正デモクラシー」の中で軍縮志向の強さのみならず反軍事的風潮が強くなり、軍への侮蔑も高まる中で(ただ本書は、農村と都市や知識層と非知識層など、地域や階層によって軍への感情が異なっていた可能性も指摘します)、職業軍人である将校に大きな精神的打撃を与えます。自らを社会の指導層(幼年学校や士官学校の生徒ならばその候補)とし、高い自負を抱く傾向にあった職業軍人(の候補生)にとって、一般社会での軍人への侮蔑は深刻な葛藤と憤激をもたらした、と本書は指摘します。
山梨軍縮への不満が陸軍内において高まる中で、宇垣一成陸相による軍縮が始まりますが、これは元々参謀本部の案でした。宇垣軍縮では4個師団の削減が提示され、宇垣陸相はこれに反対する山梨半造などを予備役に編入します。当時、加藤高明内閣では与党も急進的な軍縮案を提示していましたが、当時の与党にとって緊急の課題は普通選挙法の成立で、軍縮の優先順位は低く、その急進的な軍縮案は多分に思いつきにすぎになかった、と本書は指摘します。宇垣陸相はそこを突いて、陸軍案をほぼ通すことに成功します。この宇垣軍縮とともに、中学以上の官公立学校への現役将校の派遣と学生への軍事教練が義務づけられ、規定の課程修了者が試験に合格した場合には在営期間の短縮や幹部候補生としての招集特権を付与するなど、戦時の下級将校不足への対応とともに、国家指導層候補の軍隊理解の深化も試みられました。ただ、昭和初期まで、この制度は陸軍にとって好都合には機能せず、派遣された現役将校への教師や学生による侮蔑は多かったようです。また、中学に進学しなかった庶民に対する青年訓練所制度が始まり、軍事教練も課すことで、入営前の兵士の質の向上が企図されました。いったん頓挫した国家総動員体制の構築も始まり、陸軍内外で宇垣の権威が高まります。
宇垣陸相は憲政会から政友会の田中義一内閣への政権交代のさいに、かつて自分の庇護者であった田中からの留任要請を断ります。本書はその理由として、統帥権独立の擁護を挙げています。統帥権については、著者が以前に『昭和陸軍と政治 「統帥権」というジレンマ』で一般向けに解説しています(関連記事)。宇垣は、憲政会で陸相だった自分が政友会内閣でも留任すると、軍部大臣のみが憲政の常道における「治外法権」のような印象を与えてしまい、軍部大臣文官制の主張が強まるのではないか、と警戒していたようです。本書は、宇垣のこの決断によって、陸相の運用面での「政党化」が可能となり、それによって政党は制度上の統帥権独立(軍部大臣武官制と参謀本部独立制)を容認できる、という循環が形成され、「宇垣時代」には世間の反軍的風潮の中で、政権内部における政軍関係はひじょうに安定していた、と評価しています。
また、世間の反軍的風潮の中で、陸軍には積極的な自己変革を図る動きも出てきます。陸軍将校の間では、マルクス主義など左翼思想や進歩思想を学ぶことが流行します。軍隊内の権威主義的体質の見直しも進み、兵営生活の簡略化と規律の緩和が企図されました。こうした陸軍における自己変革には、徴兵制度で成立している陸軍が一般社会の変化に無関心だったり、これを全否定したりできない、との判断がありました。また、密集陣形での戦闘がますます危険になった、との第一次世界大戦での教訓から、下士官兵の自主性と知性が必要になる、と考えられたことも、こうした改革の背景にありました。これは、第一次世界大戦において「権威主義国家」であるドイツやロシアが、「民主主義国家」であるイギリスやフランスやアメリカ合衆国に負けた、との認識が広く共有されていたからでもありました(ロシアはイギリスやフランスに敗北したわけではありませんが)。さらに本書は、宇垣軍縮の時代には世界が「平和」だったため、陸軍は反省し、迂遠な理想主義的改革を試みることができた、と指摘します。
では、一般的な陸軍像「昭和陸軍」、とくに太平洋戦争後期の陸軍に象徴される陸軍像とは大いに異なる、こうした「大正陸軍」はどのように変容していったのか、本書は検証します。本書はその端緒として、政軍協調路線の成功事例と評価された宇垣軍縮で、近代化の代償として4個師団が廃止されたことで、小磯国昭のような近代化論者でさえ憤激したことを指摘します。また、宇垣軍縮での近代化の成果も限定的で、1929年の時点でも近代的軍備は列強に大きく劣っていました。第一次世界大戦後の不況の中で、軍事予算獲得も陸軍側の要望通りにはいかず、宇垣軍縮に対する失望が陸軍内で次第に広がっていき、それは近代化そのものへと熱意の低下にもつながりました。そのため陸軍では、非現実的な近代化への固執は軍事力の停滞につながるので、「軍事的合理性」の観点から、精神力などに依存せざるを得ない、との考えが広がっていきますが、陸軍内にも、永田鉄山のように精神力に依存していく風潮に警鐘を鳴らした人物がいました。こうした陸軍内の風潮が変化した大きな契機として、本書は蒋介石による北伐を挙げています。陸軍内で声望を失った宇垣は、浜口雄幸内閣で陸相に復帰しますが、今度は軍縮を実現できないまま退任します。陸軍内では、宇垣が失墜した後に有力な軍縮推進者は現れず、1931年の満洲事変によって軍縮は事実上無期限延期となり、1937年の日中戦争以降は政治的議題にならず、軍事予算が膨張しました。こうした風潮は、上述のような軍人蔑視の世間の風潮への軍人側の憤激と相まって、「大正デモクラシー」期における陸軍の「民主化」への「反動」にもつながり、軍隊の規律は厳格化されていきますが、一方で「私的制裁」は、戦場での危機回避能力の向上にもつながると容認され、増加していきます。また陸軍では、近代化の頓挫から、政党との妥協によって利益を得ようとする「政軍協調路線」への失望が広がり、政党政治家への不信感も増大していきます。
そうした中で世界恐慌に伴う日本での恐慌(昭和恐慌)によって農村部が大打撃を受け、上述のように優秀な兵の供給源として農村を重視していた陸軍内では、危機感が高まります。上述のように、「大正デモクラシー」期には陸軍内でマルクス主義など左翼思想や進歩思想を学ぶことが流行し、昭和恐慌下での農村の疲弊を見た将校(やその候補生)は、高い自負を抱いていたこともあり、社会改革への使命感を強めていく者が増えます。また、宇垣軍縮への失望は陸軍上層部の威信低下にもつながり、上下の統制が次第に弛緩していきます。これには、軍縮に伴う人員整理によって、将校団の一体感と権威が喪失したことや、第一次世界大戦における兵器と戦術の急速な革新に古参の上級将校の多くが追いつけず、若手将校に依存せざるを得なくなったことや、本格的な戦闘経験のある将校が減少していたことなど、さまざまな要因がありました。国際情勢では、一定の平和を支えたワシントン体制に、中国への犠牲の押し付け、ソ連の無視、自由経済を前提としていたこと、極東問題に対する、国防も関わる日本と基本的には経済面だけの他の列強との違いなど、限界があり、それが陸軍の台頭につながります。日本の大陸利権と対中政策は中国の弱体と分裂が前提になっており、それが崩れていくと、極東での緊張が高まることになります。陸軍も、こうした極東情勢の緊迫化を利用して、国民に愛国主義を喚起するよう、小説や映画などの娯楽を利用していきます。
こうして陸軍内の風潮も国際情勢も変容する中で、陸軍では中堅と若手の将校を中心に「陸軍革新運動(国家革新運動)」の気運が高まっていきます。こうした「革新派将校」の中心の一方に、永田鉄山や小畑敏四郎や東条英機など陸大出身の中堅幕僚がいました。こうした「革新派」の中堅幕僚は、軍事的論理による政治の変革を試み、本書は政治の軍事化と指摘します。「革新派」の中堅幕僚には、「満蒙問題」を武力で解決し、それを統帥権独立で押し切り、その衝撃で国内改革を実行すべきと考えていた者もいました。「革新派将校」のもう一方には、陸大に進学しなかった青年将校集団がいました。本書は、「革新派」の中堅幕僚が「大正デモクラシー」期にはおおむね佐官級に昇進して一定の地位に達していたのに対して、青年将校集団は多感な10代を「大正デモクラシー」期に過ごしたことに注目しています。この青年将校に明確な行動指針を提示したのが北一輝で、その著書『日本改造法案大綱』は青年将校に大きな影響を与えました。北一輝は一君万民的な平等主義を主張し、その平等主義は国内に留まらず国外にも適用されました。こうした陸軍内の「革新派将校」の「満蒙問題」解決の気運の高まりには、過激で稚拙な政治活動のため政治的志を達成できなかったものの、急進的に行動した橋本欣五郎の影響が大きかった、と本書は指摘します。橋本欣五郎が画策した三月事件によって、宇垣一成は陸軍内での信望を決定的に失います。こうした「革新派将校」は同世代の将校でも一部にすぎませんでしたが、「革新派将校」への理解や同情は広がっていただろう、と本書は指摘します。
そのような状況下で1931年9月に起きた満洲事変は、日本国内における陸軍の位置を大きく変えることになりました。当時、「満蒙問題」の武力解決について陸軍内では広範な合意が形成されつつあったものの、石原莞爾のような即時実行派から、いずれは必要になるだろう、との漠然とした合意まで具体的な実行についての見解はさまざまで、実際に満洲事変が始まると、南次郎陸相も金谷範三参謀総長も不拡大を模索しますが、上述のように陸軍上層部の威信低下もあり、満洲での武力行使が事後追認されます。本書は、満洲事変当時の若槻礼次郎内閣が、朝鮮軍の越境出兵という明らかな問題を追認したことについて、制度運用上の正当性を確保するために、満洲の1万人あまりの関東軍と在留邦人を見殺しにすることは代償としてあまりにも大きすぎたので、事後承認の拒否は現実的ではなかった、と指摘します。この満洲事変を日本国内の世論は熱狂的に支持し、反軍事的な風潮は終焉し、軍人称賛時代が到来します。本書は、「大正デモクラシー」期を中心とする日本の平和主義が底の浅いものだったことを指摘します。ただ、満洲事変によって日本が国際的に孤立したとまでは言えず、国内でも、若槻内閣後の政友会内閣(犬養毅首相)で昭和恐慌から経済は回復し、五・一五事件はあったものの、政党政治が復活する可能性はまだ充分にあり、思想言論の自由も日中戦争以降と比較するとまだかなりの程度保たれていました(関連記事)。
満洲事変後には、中堅幕僚将校の間で、陸相に擁立した荒木貞夫の手腕への失望や、荒木および真崎甚三郎が青年将校と接近したことや、北進南守か北守南進かをめぐって、永田鉄山を中心とした「統制派」と、荒木や真崎や小畑敏四郎などの「皇道派」が激しく対立するようになります。「統制派」は早々に「合法路線」を採用し、軍部大臣の二面性(個人としては武官で、国務大臣としては文官でもあります)を使い分け、軍事以外の国務への間接的影響力の行使によって、統帥権独立で定められていた政治と軍事の壁を乗り越え、総力戦体制を築こうと構想しました。一方で「皇道派」について、首脳陣の荒木と真崎には、「統制派」への対抗として青年将校を利用し、青年将校の方も活動の庇護者として荒木や真崎を利用していた側面があり、必ずしも結束していなかった側面を本書は指摘します。皇道派は統制派と比較して、精神主義的な人物が多かったことや統制経済への反発などから、政策研究は少なかったようです。荒木が陸相を退任し、陸軍省中枢を掌握した統制派は、『国防の本義と其強化の提唱(陸軍パンフレット)』を1934年10月に公表します。本書は、『陸軍パンフレット』が衝撃的だったのは、具体性に乏しい「国家統制」と統制経済の必要性の主張ではなく、「狭義国防(純軍事)」に留まっていた陸軍が「広義国防」、つまり国家総力戦の大義名分で広範な非軍事的社会の改革を訴えたことにある、と指摘します。既成政党は『陸軍パンフレット』を激しく批判し、陸軍は満洲事変によって威信が大きく回復したとはいえ、その政治介入に対する嫌悪感は依然として根強くありました。
統制派と皇道派の対立は天皇機関説問題とも絡んで激化し、1935年8月12日の皇道派将校である相沢三郎による永田鉄山殺害事件、さらには二・二六事件が起きます。二・二六事件で蹶起将校に断固たる態度を取れなかった陸軍上層部の権威は完全に失墜し、後任の陸相には、政治嫌いで鷹揚な性格の寺内寿一が就任します。中堅幕僚将校にとって、寺内は御しやすい人物と考えられており、じっさい、政治経験の乏しい寺内は、中堅幕僚将校に従って、二・二六事件後に首相に就任した広田弘毅に要求を突きつけていきます。寺内陸相による粛軍人事によって、皇道派は陸軍内で事実上消滅します。陸軍では人事だけではなく制度面の改革も進み、軍務局では新たに軍務課が設置され、ここでは内閣や議会に関わる案件が扱われ、陸軍の政治交渉力の強化が図られました。一方で、軍務課以外の軍人の政治行動は厳しく制限されました。この一連の改革では軍部大臣現役武官制が復活し、これは二・二六事件の責任を問われた予備役編入とされた皇道派将官が、陸相として復権するのを防止するためでした。
二・二六事件後、参謀本部第一部長(作戦部長)に昇進した石原莞爾は、陸軍省軍務局にも「同志」を得て、総力戦体制構築のための重化学工業振興策を提案しますが、それは少なくとも10年間の平和を前提としていたことに、本書は注意を喚起します。広田内閣の退陣後、宇垣一成に大命が降下しますが、石原は、政財界と関係の深い宇垣の首相就任が自身の計画実行の障害になることを懸念し、宇垣内閣成立阻止に奔走します。その結果、宇垣は組閣を断念しますが、満洲事変以降では、世論の反軍感情がおそらく最も高かったこの時期に、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、自身の陸相兼任を含めて宇垣には有効な対抗手段があり、陸軍が世論の圧力に屈した可能性は充分にある、と本書は指摘します。本書は、宇垣内閣が成立しても、陸軍の歯止めとしての役割を果たせなくなる可能性もあったものの、宇垣の組閣断念は昭和史の大きな転換点になった、と評価しています。宇垣の組閣断念後、大命が高架したのは林銑十郎で、林は石原など「満洲派」の全面的支援を受けて組閣します。しかし、陸軍次官の梅津美治郎は「満洲派」の策動をし、これには陸軍に対する世論の反感が背景にあった、と本書は指摘します。
陸軍内からも広範な支持を得られなかった林内閣は早々に行き詰り、近衛文麿内閣が発足し、その直後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発します。これに対して、参謀本部作戦部長の石原莞爾は上述の自身の構想から、不拡大を主張します。一方で、石原の直属の部下だった武藤章などは「拡大一撃」を主張しますが、武藤たちにしても、中国との全面戦争を意図していなかった、と本書は注意を喚起します。武藤たちの強硬路線の前提として、満洲事変の「成功体験」がありました。陸軍内では「拡大一撃派」が優勢で、林内閣成立のさいの政治工作の失敗で石原の権威が低下していたことや、何よりも中国側がどう対応するのか不明なこともあり、石原は「拡大一撃派」に押し切られます。本書は、武藤たちだけではなく石原も、蒋介石の抗戦意欲を軽視していた、と指摘します。日中戦争において、日本軍がいかに「点と点」を占拠しただけで、「面」を占拠したわけではないといっても、首都も陥落させる戦果を挙げ、中国側の抵抗で日本兵の犠牲者数も増える中で、日本側としては国内世論への配慮から和平条件は中国側が受け入れがたい水準にまで吊り上げざるを得ず、日中戦争は泥沼化します。
軍部や政界のみならず国民も中国の抗戦能力を軽視していたため、日中戦争当初、国民の危機感は希薄でしたが、長期化すると、国民には閉塞感や不安感が高まりだし、日本国内では消耗戦を勝ち抜くための根本的な改革が進められていき、それは物心両面に及びました。こうした改革を国民が一定度指示したのは、愛国心が満足させられたことと、社会の平準化(本書は、「低準化」と言う方が適切かもしれない、と指摘します)をもたらす側面があったからでした。これは、経済力と軍事力の大規模な飛躍を目指す石原莞爾の構想とは異なり、現在進行形の消耗戦を継続するための、物資調達と配分を目的としていた、と本書は評価しています。日中戦争が長期化する中で、「拡大一撃派」でさえ当初は華北の日本勢力圏の強化と紛争原因の除去程度しか想定していなかった目的は変容し、近衛内閣は「東亜新秩序」建設を訴えます。
陸軍は日中戦争泥沼化の原因を政治の貧困と主張するようになり、武藤章は政界再編を主導しますが、武藤に軍以外を制御できる政治力はなく、武藤の構想した挙国一致の政治体制は成立しませんでした。本書は、そもそも武藤の構想自体が、陸軍にとってきわめて虫のよい非現実的なものであり、戦場での失敗を政治によって挽回しようとすることは責任転嫁に他ならないことを指摘します。日中戦争が長期化する中で、1940年前半にドイツがフランスを降伏に追い込みます。陸軍はこの情勢激変を見て、1939年8月に締結された独ソ不可侵条約によって一旦は頓挫したドイツとの提携強化に積極的になります。1940年7月に成立した第二次近衛文麿内閣で、同年9月には北部仏印進駐と日独伊三国同盟締結が成立します。本書は、日中戦争で新たな目的とされた大東亜新秩序建設が、その手段としての南進や対独提携を生み出し、結果としてアメリカ合衆国の経済制裁を強化させ、対米開戦に至った、と指摘します。けっきょく、陸軍が中国での「戦果」に拘ったことこそ、対米開戦要因だったわけですが、本書は、中国からの撤退でかつての「大正デモクラシー」期以上の国民からの避難と侮辱を受けるだろう、との恐怖が陸軍にあったのではないか、と推測します。
本書を読んで改めて、20世紀前半の日中関係および現在のウクライナとロシアの関係について、類似点を考えさせられました。本書でも、ロシアによるウクライナ侵略が問題意識にある、と述べられています。現在もロシアによるウクライナ侵略は続いていますが、ロシアによる短期間でのウクライナ制圧の試みが失敗し、泥沼化した頃から、これが20世紀前半の日中関係と似ているのではないか、との指摘をネットで見かけるようになりました。つまり、満洲事変は2014年のロシアによるクリミアへの侵攻と占領、日中戦争は2022年2月に始まったロシアによるウクライナへの全面侵攻と似ているのではないか、というわけです。満洲事変と2014年のクリミア侵略で日本とロシアは「鮮やかな成功」を収め、それが中国とウクライナの抗戦能力の過小評価につながり、1937年7月と2022年2月に始まった「軍事作戦」が泥沼化する原因になったのではないか、というわけです。もちろん、当時の日本および中国と、現在のロシアおよびウクライナとでは、各国の国内情勢も国際情勢も大きく異なります。しかし、満洲事変において蒋介石が徹底抗戦せず、列強からの同情も有効な支援も得られなくて、列強が日本に宥和的だったのに、1937年7月の盧溝橋事件以降は、蒋介石が日本軍に徹底的に抗戦し、列強の米英から大きな同情と支援を受けるようになったことと、2014年のロシアによるクリミア侵略が「鮮やかに」成功したものの、侵略側であるロシアへの「西側」の制裁がなし崩し的になり、日本などその後もロシアに宥和的姿勢を取る国もあったのに、2022年2月にロシアから全面的な侵攻を受けたウクライナが頑強に抵抗すると、「西側」からの大きな同情と支援を受けるようになったことは、相似形と言って大過はないようにも思います。その意味でも、日本人の一人である私はロシアによるウクライナへの侵略とウクライナの抵抗に注目していますし、情勢は厳しいものの、ウクライナがロシアを撤退に追い込めるよう、強く願っています。
本書の主要な対象は第一次世界大戦以降ですが、その前提としての日本における近代陸軍の創設および展開と、日露戦争を経て第一次護憲運動へと至る過程も解説されています。近代日本において、徴兵制度は当初、支配層からはその軍事力に疑問が抱かれ、徴兵対象の国民からは、その不公平性と経済的打撃が嫌われました。しかし、戸主や嗣子などへの徴兵の特権的免除規定が廃止され、軍隊では当時の日本人の大半より食生活に恵まれており、下層階級にとって軍隊は階級制度からの「解放」の側面もあって、そもそも日中戦争が泥沼化するまで実際に入営した男性は少なかったこともあり、徴兵制度は定着していきます。本書はとくに、農村の青年にとって軍隊が階層上昇の好機にもなったことを重視し、農村の青年が軍隊に適応し、軍隊側でも農村の青年を高く評価するようになり、農村的価値観が軍隊内に浸潤していったことを指摘します。
徴兵制度への抵抗が小さくなったとはいえ、軍隊には装備で莫大な予算が必要で、初期の国会は軍費をめぐっての正負と政党側の激しい対立によって紛糾しました。日清戦争を重要な契機として、軍費に関して政府と政党は歩み寄り、日露戦争で政党と政府はさらに協調するようになります。日清戦争と日露戦争の勝利によって、日本軍は急速に社会的威信を高め、日本は大陸権益を獲得し、「大衆」が新たな政治的主体として出現して、その「大衆」に支えられた政党が政権担当者としての地位を確立します。日露戦争後、軍部は国防方針を策定しますが、それに内閣は関わっておらず、総合的な国家安全保障戦略である国防方針から内閣を除外した結果、国防方針の内容は現実政治から遊離した、と本書は指摘します。またこの時期、日露戦争の戦訓から改定された各種操典類について、日露戦争前と比較して精神主義と白兵突撃主義が強調された、と指摘します。その背景には、日露戦争で大規模那火力を前に兵士に消極的傾向が蔓延したことや、日露戦争で日本軍が白兵戦でロシア軍相手に苦戦したことや、日本の国力が列強より劣っている、との認識などがありました。本書は、こうした有形的劣勢を無形的優勢で克服しようとする発想が禍根を残したことも指摘します。また、日露戦争後の陸軍内の弛緩に対して、家族主義の導入といった情緒的な要素が持ち込まれたことで、再現のない公私の混同や絶対服従の上下関係を導いた側面があることも、本書は指摘します。
日露戦争の勝利で社会的威信を高めた軍部ですが、一方で台頭してきた大衆およびそれを背景とする政党に対して軍備拡張やそれに関わる政争などで劣勢になっていき、それは桂内閣が退陣するに至った大正政変で決定的になります。そうした状況で勃発したのが第一次世界大戦でした。第一次世界大戦は日本軍にとって衝撃的で、それは列強と比較して装備が圧倒的に遅れていたからでした。もう一つ日本軍にとって衝撃的だったのは「総力戦」への対応で、日本には総力戦に対応できる軍需物資の生産体制がまったく整っていませんでした。総力戦への対応の重要性とともに、日本軍にとって問題となったのは、第一次世界大戦後の軍縮世論でした。第一次世界大戦の被害はあまりにも大きかったので、戦争への否定的感情が強くなり、第一次世界大戦の原因が勢力均衡に基づく軍拡競争と同盟拡大競争にあると考えられたので、国際的な集団安全保障機構として国際連盟が設立され、軍縮が志向されました。
日本でも軍縮の世論は強くなり、さらに第一次世界大戦後の不況の中で、日本軍の野心的な軍拡計画としての帝国国防方針の抜本的改定は頓挫します。陸軍は師団数を実質的に断念する代わりに、装備の近代化を計画しましたが、軍縮の世論と不況下では予算の増額も難しく、人員整理による近代化を目指します。これによって、軍縮も近代化も進めようとしたわけですが、世論と政党の強い軍縮圧力の前に陸軍の案は当初からの譲歩を余儀なくされ、山梨半造陸相によって進められた軍縮は、師団数の維持に拘ったこともあり、世論と政党には不評でした。けっきょく、陸軍は人員整理を行なったにも関わらず、近代化はさほど進まず、陸軍内でも不満が高まります。そうした不満派の代表的存在が宇垣一成でしたが、その背景には戦略構想の違いもあった、と本書は指摘します。一方には、師団数を削減してでも総力戦対応の陸軍へと大きく変わるべき、との構想があり、もう一方には、人的戦力に依拠して短期決戦を目指す、との構想がありました。前者を代表するのが宇垣一成、後者を代表するのが上原勇作と山梨半造でした。こうした陸軍の苦境は、「大正デモクラシー」の中で軍縮志向の強さのみならず反軍事的風潮が強くなり、軍への侮蔑も高まる中で(ただ本書は、農村と都市や知識層と非知識層など、地域や階層によって軍への感情が異なっていた可能性も指摘します)、職業軍人である将校に大きな精神的打撃を与えます。自らを社会の指導層(幼年学校や士官学校の生徒ならばその候補)とし、高い自負を抱く傾向にあった職業軍人(の候補生)にとって、一般社会での軍人への侮蔑は深刻な葛藤と憤激をもたらした、と本書は指摘します。
山梨軍縮への不満が陸軍内において高まる中で、宇垣一成陸相による軍縮が始まりますが、これは元々参謀本部の案でした。宇垣軍縮では4個師団の削減が提示され、宇垣陸相はこれに反対する山梨半造などを予備役に編入します。当時、加藤高明内閣では与党も急進的な軍縮案を提示していましたが、当時の与党にとって緊急の課題は普通選挙法の成立で、軍縮の優先順位は低く、その急進的な軍縮案は多分に思いつきにすぎになかった、と本書は指摘します。宇垣陸相はそこを突いて、陸軍案をほぼ通すことに成功します。この宇垣軍縮とともに、中学以上の官公立学校への現役将校の派遣と学生への軍事教練が義務づけられ、規定の課程修了者が試験に合格した場合には在営期間の短縮や幹部候補生としての招集特権を付与するなど、戦時の下級将校不足への対応とともに、国家指導層候補の軍隊理解の深化も試みられました。ただ、昭和初期まで、この制度は陸軍にとって好都合には機能せず、派遣された現役将校への教師や学生による侮蔑は多かったようです。また、中学に進学しなかった庶民に対する青年訓練所制度が始まり、軍事教練も課すことで、入営前の兵士の質の向上が企図されました。いったん頓挫した国家総動員体制の構築も始まり、陸軍内外で宇垣の権威が高まります。
宇垣陸相は憲政会から政友会の田中義一内閣への政権交代のさいに、かつて自分の庇護者であった田中からの留任要請を断ります。本書はその理由として、統帥権独立の擁護を挙げています。統帥権については、著者が以前に『昭和陸軍と政治 「統帥権」というジレンマ』で一般向けに解説しています(関連記事)。宇垣は、憲政会で陸相だった自分が政友会内閣でも留任すると、軍部大臣のみが憲政の常道における「治外法権」のような印象を与えてしまい、軍部大臣文官制の主張が強まるのではないか、と警戒していたようです。本書は、宇垣のこの決断によって、陸相の運用面での「政党化」が可能となり、それによって政党は制度上の統帥権独立(軍部大臣武官制と参謀本部独立制)を容認できる、という循環が形成され、「宇垣時代」には世間の反軍的風潮の中で、政権内部における政軍関係はひじょうに安定していた、と評価しています。
また、世間の反軍的風潮の中で、陸軍には積極的な自己変革を図る動きも出てきます。陸軍将校の間では、マルクス主義など左翼思想や進歩思想を学ぶことが流行します。軍隊内の権威主義的体質の見直しも進み、兵営生活の簡略化と規律の緩和が企図されました。こうした陸軍における自己変革には、徴兵制度で成立している陸軍が一般社会の変化に無関心だったり、これを全否定したりできない、との判断がありました。また、密集陣形での戦闘がますます危険になった、との第一次世界大戦での教訓から、下士官兵の自主性と知性が必要になる、と考えられたことも、こうした改革の背景にありました。これは、第一次世界大戦において「権威主義国家」であるドイツやロシアが、「民主主義国家」であるイギリスやフランスやアメリカ合衆国に負けた、との認識が広く共有されていたからでもありました(ロシアはイギリスやフランスに敗北したわけではありませんが)。さらに本書は、宇垣軍縮の時代には世界が「平和」だったため、陸軍は反省し、迂遠な理想主義的改革を試みることができた、と指摘します。
では、一般的な陸軍像「昭和陸軍」、とくに太平洋戦争後期の陸軍に象徴される陸軍像とは大いに異なる、こうした「大正陸軍」はどのように変容していったのか、本書は検証します。本書はその端緒として、政軍協調路線の成功事例と評価された宇垣軍縮で、近代化の代償として4個師団が廃止されたことで、小磯国昭のような近代化論者でさえ憤激したことを指摘します。また、宇垣軍縮での近代化の成果も限定的で、1929年の時点でも近代的軍備は列強に大きく劣っていました。第一次世界大戦後の不況の中で、軍事予算獲得も陸軍側の要望通りにはいかず、宇垣軍縮に対する失望が陸軍内で次第に広がっていき、それは近代化そのものへと熱意の低下にもつながりました。そのため陸軍では、非現実的な近代化への固執は軍事力の停滞につながるので、「軍事的合理性」の観点から、精神力などに依存せざるを得ない、との考えが広がっていきますが、陸軍内にも、永田鉄山のように精神力に依存していく風潮に警鐘を鳴らした人物がいました。こうした陸軍内の風潮が変化した大きな契機として、本書は蒋介石による北伐を挙げています。陸軍内で声望を失った宇垣は、浜口雄幸内閣で陸相に復帰しますが、今度は軍縮を実現できないまま退任します。陸軍内では、宇垣が失墜した後に有力な軍縮推進者は現れず、1931年の満洲事変によって軍縮は事実上無期限延期となり、1937年の日中戦争以降は政治的議題にならず、軍事予算が膨張しました。こうした風潮は、上述のような軍人蔑視の世間の風潮への軍人側の憤激と相まって、「大正デモクラシー」期における陸軍の「民主化」への「反動」にもつながり、軍隊の規律は厳格化されていきますが、一方で「私的制裁」は、戦場での危機回避能力の向上にもつながると容認され、増加していきます。また陸軍では、近代化の頓挫から、政党との妥協によって利益を得ようとする「政軍協調路線」への失望が広がり、政党政治家への不信感も増大していきます。
そうした中で世界恐慌に伴う日本での恐慌(昭和恐慌)によって農村部が大打撃を受け、上述のように優秀な兵の供給源として農村を重視していた陸軍内では、危機感が高まります。上述のように、「大正デモクラシー」期には陸軍内でマルクス主義など左翼思想や進歩思想を学ぶことが流行し、昭和恐慌下での農村の疲弊を見た将校(やその候補生)は、高い自負を抱いていたこともあり、社会改革への使命感を強めていく者が増えます。また、宇垣軍縮への失望は陸軍上層部の威信低下にもつながり、上下の統制が次第に弛緩していきます。これには、軍縮に伴う人員整理によって、将校団の一体感と権威が喪失したことや、第一次世界大戦における兵器と戦術の急速な革新に古参の上級将校の多くが追いつけず、若手将校に依存せざるを得なくなったことや、本格的な戦闘経験のある将校が減少していたことなど、さまざまな要因がありました。国際情勢では、一定の平和を支えたワシントン体制に、中国への犠牲の押し付け、ソ連の無視、自由経済を前提としていたこと、極東問題に対する、国防も関わる日本と基本的には経済面だけの他の列強との違いなど、限界があり、それが陸軍の台頭につながります。日本の大陸利権と対中政策は中国の弱体と分裂が前提になっており、それが崩れていくと、極東での緊張が高まることになります。陸軍も、こうした極東情勢の緊迫化を利用して、国民に愛国主義を喚起するよう、小説や映画などの娯楽を利用していきます。
こうして陸軍内の風潮も国際情勢も変容する中で、陸軍では中堅と若手の将校を中心に「陸軍革新運動(国家革新運動)」の気運が高まっていきます。こうした「革新派将校」の中心の一方に、永田鉄山や小畑敏四郎や東条英機など陸大出身の中堅幕僚がいました。こうした「革新派」の中堅幕僚は、軍事的論理による政治の変革を試み、本書は政治の軍事化と指摘します。「革新派」の中堅幕僚には、「満蒙問題」を武力で解決し、それを統帥権独立で押し切り、その衝撃で国内改革を実行すべきと考えていた者もいました。「革新派将校」のもう一方には、陸大に進学しなかった青年将校集団がいました。本書は、「革新派」の中堅幕僚が「大正デモクラシー」期にはおおむね佐官級に昇進して一定の地位に達していたのに対して、青年将校集団は多感な10代を「大正デモクラシー」期に過ごしたことに注目しています。この青年将校に明確な行動指針を提示したのが北一輝で、その著書『日本改造法案大綱』は青年将校に大きな影響を与えました。北一輝は一君万民的な平等主義を主張し、その平等主義は国内に留まらず国外にも適用されました。こうした陸軍内の「革新派将校」の「満蒙問題」解決の気運の高まりには、過激で稚拙な政治活動のため政治的志を達成できなかったものの、急進的に行動した橋本欣五郎の影響が大きかった、と本書は指摘します。橋本欣五郎が画策した三月事件によって、宇垣一成は陸軍内での信望を決定的に失います。こうした「革新派将校」は同世代の将校でも一部にすぎませんでしたが、「革新派将校」への理解や同情は広がっていただろう、と本書は指摘します。
そのような状況下で1931年9月に起きた満洲事変は、日本国内における陸軍の位置を大きく変えることになりました。当時、「満蒙問題」の武力解決について陸軍内では広範な合意が形成されつつあったものの、石原莞爾のような即時実行派から、いずれは必要になるだろう、との漠然とした合意まで具体的な実行についての見解はさまざまで、実際に満洲事変が始まると、南次郎陸相も金谷範三参謀総長も不拡大を模索しますが、上述のように陸軍上層部の威信低下もあり、満洲での武力行使が事後追認されます。本書は、満洲事変当時の若槻礼次郎内閣が、朝鮮軍の越境出兵という明らかな問題を追認したことについて、制度運用上の正当性を確保するために、満洲の1万人あまりの関東軍と在留邦人を見殺しにすることは代償としてあまりにも大きすぎたので、事後承認の拒否は現実的ではなかった、と指摘します。この満洲事変を日本国内の世論は熱狂的に支持し、反軍事的な風潮は終焉し、軍人称賛時代が到来します。本書は、「大正デモクラシー」期を中心とする日本の平和主義が底の浅いものだったことを指摘します。ただ、満洲事変によって日本が国際的に孤立したとまでは言えず、国内でも、若槻内閣後の政友会内閣(犬養毅首相)で昭和恐慌から経済は回復し、五・一五事件はあったものの、政党政治が復活する可能性はまだ充分にあり、思想言論の自由も日中戦争以降と比較するとまだかなりの程度保たれていました(関連記事)。
満洲事変後には、中堅幕僚将校の間で、陸相に擁立した荒木貞夫の手腕への失望や、荒木および真崎甚三郎が青年将校と接近したことや、北進南守か北守南進かをめぐって、永田鉄山を中心とした「統制派」と、荒木や真崎や小畑敏四郎などの「皇道派」が激しく対立するようになります。「統制派」は早々に「合法路線」を採用し、軍部大臣の二面性(個人としては武官で、国務大臣としては文官でもあります)を使い分け、軍事以外の国務への間接的影響力の行使によって、統帥権独立で定められていた政治と軍事の壁を乗り越え、総力戦体制を築こうと構想しました。一方で「皇道派」について、首脳陣の荒木と真崎には、「統制派」への対抗として青年将校を利用し、青年将校の方も活動の庇護者として荒木や真崎を利用していた側面があり、必ずしも結束していなかった側面を本書は指摘します。皇道派は統制派と比較して、精神主義的な人物が多かったことや統制経済への反発などから、政策研究は少なかったようです。荒木が陸相を退任し、陸軍省中枢を掌握した統制派は、『国防の本義と其強化の提唱(陸軍パンフレット)』を1934年10月に公表します。本書は、『陸軍パンフレット』が衝撃的だったのは、具体性に乏しい「国家統制」と統制経済の必要性の主張ではなく、「狭義国防(純軍事)」に留まっていた陸軍が「広義国防」、つまり国家総力戦の大義名分で広範な非軍事的社会の改革を訴えたことにある、と指摘します。既成政党は『陸軍パンフレット』を激しく批判し、陸軍は満洲事変によって威信が大きく回復したとはいえ、その政治介入に対する嫌悪感は依然として根強くありました。
統制派と皇道派の対立は天皇機関説問題とも絡んで激化し、1935年8月12日の皇道派将校である相沢三郎による永田鉄山殺害事件、さらには二・二六事件が起きます。二・二六事件で蹶起将校に断固たる態度を取れなかった陸軍上層部の権威は完全に失墜し、後任の陸相には、政治嫌いで鷹揚な性格の寺内寿一が就任します。中堅幕僚将校にとって、寺内は御しやすい人物と考えられており、じっさい、政治経験の乏しい寺内は、中堅幕僚将校に従って、二・二六事件後に首相に就任した広田弘毅に要求を突きつけていきます。寺内陸相による粛軍人事によって、皇道派は陸軍内で事実上消滅します。陸軍では人事だけではなく制度面の改革も進み、軍務局では新たに軍務課が設置され、ここでは内閣や議会に関わる案件が扱われ、陸軍の政治交渉力の強化が図られました。一方で、軍務課以外の軍人の政治行動は厳しく制限されました。この一連の改革では軍部大臣現役武官制が復活し、これは二・二六事件の責任を問われた予備役編入とされた皇道派将官が、陸相として復権するのを防止するためでした。
二・二六事件後、参謀本部第一部長(作戦部長)に昇進した石原莞爾は、陸軍省軍務局にも「同志」を得て、総力戦体制構築のための重化学工業振興策を提案しますが、それは少なくとも10年間の平和を前提としていたことに、本書は注意を喚起します。広田内閣の退陣後、宇垣一成に大命が降下しますが、石原は、政財界と関係の深い宇垣の首相就任が自身の計画実行の障害になることを懸念し、宇垣内閣成立阻止に奔走します。その結果、宇垣は組閣を断念しますが、満洲事変以降では、世論の反軍感情がおそらく最も高かったこの時期に、軍部大臣現役武官制が復活していなければ、自身の陸相兼任を含めて宇垣には有効な対抗手段があり、陸軍が世論の圧力に屈した可能性は充分にある、と本書は指摘します。本書は、宇垣内閣が成立しても、陸軍の歯止めとしての役割を果たせなくなる可能性もあったものの、宇垣の組閣断念は昭和史の大きな転換点になった、と評価しています。宇垣の組閣断念後、大命が高架したのは林銑十郎で、林は石原など「満洲派」の全面的支援を受けて組閣します。しかし、陸軍次官の梅津美治郎は「満洲派」の策動をし、これには陸軍に対する世論の反感が背景にあった、と本書は指摘します。
陸軍内からも広範な支持を得られなかった林内閣は早々に行き詰り、近衛文麿内閣が発足し、その直後の1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発します。これに対して、参謀本部作戦部長の石原莞爾は上述の自身の構想から、不拡大を主張します。一方で、石原の直属の部下だった武藤章などは「拡大一撃」を主張しますが、武藤たちにしても、中国との全面戦争を意図していなかった、と本書は注意を喚起します。武藤たちの強硬路線の前提として、満洲事変の「成功体験」がありました。陸軍内では「拡大一撃派」が優勢で、林内閣成立のさいの政治工作の失敗で石原の権威が低下していたことや、何よりも中国側がどう対応するのか不明なこともあり、石原は「拡大一撃派」に押し切られます。本書は、武藤たちだけではなく石原も、蒋介石の抗戦意欲を軽視していた、と指摘します。日中戦争において、日本軍がいかに「点と点」を占拠しただけで、「面」を占拠したわけではないといっても、首都も陥落させる戦果を挙げ、中国側の抵抗で日本兵の犠牲者数も増える中で、日本側としては国内世論への配慮から和平条件は中国側が受け入れがたい水準にまで吊り上げざるを得ず、日中戦争は泥沼化します。
軍部や政界のみならず国民も中国の抗戦能力を軽視していたため、日中戦争当初、国民の危機感は希薄でしたが、長期化すると、国民には閉塞感や不安感が高まりだし、日本国内では消耗戦を勝ち抜くための根本的な改革が進められていき、それは物心両面に及びました。こうした改革を国民が一定度指示したのは、愛国心が満足させられたことと、社会の平準化(本書は、「低準化」と言う方が適切かもしれない、と指摘します)をもたらす側面があったからでした。これは、経済力と軍事力の大規模な飛躍を目指す石原莞爾の構想とは異なり、現在進行形の消耗戦を継続するための、物資調達と配分を目的としていた、と本書は評価しています。日中戦争が長期化する中で、「拡大一撃派」でさえ当初は華北の日本勢力圏の強化と紛争原因の除去程度しか想定していなかった目的は変容し、近衛内閣は「東亜新秩序」建設を訴えます。
陸軍は日中戦争泥沼化の原因を政治の貧困と主張するようになり、武藤章は政界再編を主導しますが、武藤に軍以外を制御できる政治力はなく、武藤の構想した挙国一致の政治体制は成立しませんでした。本書は、そもそも武藤の構想自体が、陸軍にとってきわめて虫のよい非現実的なものであり、戦場での失敗を政治によって挽回しようとすることは責任転嫁に他ならないことを指摘します。日中戦争が長期化する中で、1940年前半にドイツがフランスを降伏に追い込みます。陸軍はこの情勢激変を見て、1939年8月に締結された独ソ不可侵条約によって一旦は頓挫したドイツとの提携強化に積極的になります。1940年7月に成立した第二次近衛文麿内閣で、同年9月には北部仏印進駐と日独伊三国同盟締結が成立します。本書は、日中戦争で新たな目的とされた大東亜新秩序建設が、その手段としての南進や対独提携を生み出し、結果としてアメリカ合衆国の経済制裁を強化させ、対米開戦に至った、と指摘します。けっきょく、陸軍が中国での「戦果」に拘ったことこそ、対米開戦要因だったわけですが、本書は、中国からの撤退でかつての「大正デモクラシー」期以上の国民からの避難と侮辱を受けるだろう、との恐怖が陸軍にあったのではないか、と推測します。
本書を読んで改めて、20世紀前半の日中関係および現在のウクライナとロシアの関係について、類似点を考えさせられました。本書でも、ロシアによるウクライナ侵略が問題意識にある、と述べられています。現在もロシアによるウクライナ侵略は続いていますが、ロシアによる短期間でのウクライナ制圧の試みが失敗し、泥沼化した頃から、これが20世紀前半の日中関係と似ているのではないか、との指摘をネットで見かけるようになりました。つまり、満洲事変は2014年のロシアによるクリミアへの侵攻と占領、日中戦争は2022年2月に始まったロシアによるウクライナへの全面侵攻と似ているのではないか、というわけです。満洲事変と2014年のクリミア侵略で日本とロシアは「鮮やかな成功」を収め、それが中国とウクライナの抗戦能力の過小評価につながり、1937年7月と2022年2月に始まった「軍事作戦」が泥沼化する原因になったのではないか、というわけです。もちろん、当時の日本および中国と、現在のロシアおよびウクライナとでは、各国の国内情勢も国際情勢も大きく異なります。しかし、満洲事変において蒋介石が徹底抗戦せず、列強からの同情も有効な支援も得られなくて、列強が日本に宥和的だったのに、1937年7月の盧溝橋事件以降は、蒋介石が日本軍に徹底的に抗戦し、列強の米英から大きな同情と支援を受けるようになったことと、2014年のロシアによるクリミア侵略が「鮮やかに」成功したものの、侵略側であるロシアへの「西側」の制裁がなし崩し的になり、日本などその後もロシアに宥和的姿勢を取る国もあったのに、2022年2月にロシアから全面的な侵攻を受けたウクライナが頑強に抵抗すると、「西側」からの大きな同情と支援を受けるようになったことは、相似形と言って大過はないようにも思います。その意味でも、日本人の一人である私はロシアによるウクライナへの侵略とウクライナの抵抗に注目していますし、情勢は厳しいものの、ウクライナがロシアを撤退に追い込めるよう、強く願っています。
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