小野響『五胡十六国時代 王朝の乱立と権力闘争』

 ハヤカワ新書の一冊として、早川書房より2025年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は五胡十六国時代の概説ですが、網羅的に各地域の勢力を均等に取り上げるのではなく、中原を中心に特定の勢力というか個人に焦点が当てられています。五胡十六国時代は各勢力の消長と離合集散が激しいので、こうした構成は一般層にも理解しやすくなっており、新書として工夫されているように思います。

 本書は、五胡十六国時代の前史というか幕開けとなった、八王の乱から、北魏による華北統一までを取り上げています。一般的には北魏による華北統一からが南北朝時代とされており、一般向けの本では、南北朝時代がおもに取り上げられたり(関連記事)、『三国志』の時代から隋による統一までが魏晋南北朝時代としてまとめられたり、あるいは『三国志』の時代から唐までが「中世」として扱われたりしていますが、五胡十六国時代のみを対象とした一般向けの本は日本では珍しいというか、私は知りません。五胡十六国時代は、『三国志』のあとの時代で、日本が華北の勢力と直接的に関わった確たる証拠もなく、何よりも複雑な時代なので、日本ではさほど人気がなさそうなのも仕方ないところでしょうか。その意味で、本書は貴重だと思います。

 本書は八王の乱を含めて、五胡十六国時代をいくつかの期間に区分し、それぞれの時代について特定の複数の人物を中心とした構成にしています。具体的には、八王の乱では東海王越など、後趙では石勒や石虎など、前秦では苻堅など、後燕では慕容垂など、五胡十六国時代末期では太武帝などです。五胡十六国時代も南北朝時代も、その前の『三国志』の時代やその後の隋唐と比較すると、日本では重要人物の知名度がかなり低いでしょうが、本書を読むと、五胡十六国時代にも興味深い人物が多数いる、と改めて思います。本書によって、少しでも五胡十六国時代の人気が高まるとよいのですが。

 八王の乱は、改めて本書で経緯を復習すると、実に醜悪な内紛との印象を受けます。ただこれは、八王の乱が晋(西晋)にとって華北支配を失う契機になった、との結果論に基づく印象に過ぎないかもしれません。八王の乱の当事者は、権力闘争によって晋が華北を失うことになるとは考えていなかったのでしょうが、当事者を愚かと糾弾したり嘲笑したりするのは、結果を知っている後世の人間の傲慢と言うべきかもしれません。人間の重要な特徴として、先を見通し、計画を立てる能力がありますが、もちろん的確にその後の大きな展開を見通せることは多くないわけで、とくに劇的な変化については、的確に見通していた、との記録や伝承は、まず疑ってかかるのが妥当なように思います。現代人の少なからぬ選択も、後世には愚劣と糾弾されるのでしょう。

 石勒については、部族集団的な背景がなく、有力な親族もほぼいない中で、個人の才覚によって台頭していったことが、いかにも乱世といった感じで、強く印象に残ります。石勒の死後に簒奪した石虎も個人の才覚で石勒に警戒されつつ重用されていきました。こうした個人的権威で国を統率する手法が不安定であることは当然で、本書からは、石勒にしても石虎にしてもそのことを強く意識しており、長期的な体制が萌芽しつつあったことも窺えます。ただ、長期的な体制を確立するための時間は石勒にも石虎にも長くはなく、五胡十六国の混乱が続いていった、とも言えるかもしれません。

 苻堅には、「中華世界」の「統一」に後一歩まで迫りながら、油断のため大業を逃し、「真の英雄」になり損ねた、との印象を十代の頃には抱いていたので、本書でどう描かれるのかは注目していました。本書は、苻堅が徳による統治を目指していたのだろう、と推測し、そこに甘さがあったことも指摘します。ただ、苻堅の寛容さが前秦の拡大を可能とした側面もあるのでしょう。苻堅は淝水の戦い後、急速に没落しますが、この敗戦の前にも、苻氏一族の反乱が起きるなど、強大に見えた前秦はまだ体制を確立できていなかったことが窺えます。その意味で、苻堅の急速な没落にも納得のいくところはあり、そもそも苻氏一族も含めて、前秦では東晋平定策に否定的な意見が強かったようです。本書は淝水の戦いを、大きな転機と把握しています。

 前秦の崩壊後、北魏が華北の諸勢力を平定していき、北魏の華北統一以降が南北朝時代とされています。北魏は、華北を統一し、五胡十六国時代の諸勢力よりずっと長命で、安定した支配を確立したため、研究が充実しているそうです。本書は、北魏に滅ぼされた勢力に焦点を当てて、南北朝時代の始まりまでを概説しています。五胡十六国時代から南北朝時代にかけては、「胡」と「漢」をどう把握するのかも問題となりますが、この点については、最近刊行された松下憲一『中華とは何か 遊牧民からみた古代中国史』(関連記事)が詳しく検討していて参考になり、本書とともに読むと、五胡十六国時代の理解がさらに深まるのではないか、と思います。

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