筒井清忠『昭和期の陸軍』
筑摩選書の一冊として、筑摩書房より2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は昭和期の陸軍について、俗説が浸透している問題を取り上げて検証しており、その前提として大正期の陸軍も対象としています。本書は二・二六事件について、その一般像の形成に大きな影響を与えたと考えられる、映画『叛乱』も取り上げています。『叛乱』は私が生まれるずっと前に公開された映画で、視聴したことはありませんが、テレビで放送されたら録画して視聴しようかな、と考えています。また本書は、昭和期の陸軍に関する参考書籍も取り上げ、研究史も踏まえてその各書籍の意義を解説しており、この点でもたいへん有益だと思います。
本書がまず取り上げているのは、大杉栄と伊藤野枝が殺害された甘粕大尉事件で、本書はこれを昭和前期のテロリズム・ポピュリズムの本格的前駆現象と評価しています。本書は、甘粕正彦の量刑(懲役10年、3年ほどで釈放)が3人の殺害(子供は甘粕が直接殺したわけではありませんが)にしては軽すぎたことに注目します。本書はその理由として甘粕への強い同情的世論があったこととともに、そうした世論が形成された背景に、皇族暗殺を企図した、とされた朴烈事件があったことを指摘します。皇族の殺害計画で甘粕への同情的世論が高まったのではないか、というわけです。さらに、アナキスト側の暴力やテロも、甘粕への同情的世論を高めたかもしれない、と本書は指摘します。また本書は、当時軍人への社会的評価が低かったことも、甘粕の犯行につながった可能性を指摘します。さらに、大杉栄は当時の内務大臣である後藤新平ともつながりがあり、甘粕大尉事件の背景に内務大臣管轄下の警察(警視庁)と陸軍(憲兵)の対立があったことも指摘されています。
次に本書は、昭和前期の軍部台頭の前提としての、大正期の軍縮と世論を取り上げます。まだ第一次世界大戦が終結していない時点で、陸軍士官学校の志願者の激減が報道されており、第一次世界大戦終結後の1919年には、陸軍兵卒の被服の貧しさが新聞で指摘されています。こうした風潮の中で、1921年にワシントン軍縮会議が始まると、陸軍が「物わかりの悪い存在」として論じられ始め、軍縮を要求する世論が高まり、軍部というか実質的には陸軍批判として展開していきます。こうした世論とそれを背景とする議会の圧力に対して、軍部もさまざまな慣行や行事を廃止し、予算を節約していくとともに、人員整理によって陸海軍とも多くの将校が退職を余儀なくされます。陸軍士官学校の志願者数は第一次世界大戦後にさらに減少していき、それは海軍志願兵も海軍兵学校志願者数も激減していきます。一方で、こうした世論は1931年9月の満州事変後に大きく変わります。本書は、大正期から昭和前期の軍部への世論が急激に変わっていった背景について、軍縮志向があまりにも急激で、時間をかけて成熟したものではなかった、と指摘します。この軍縮志向は、第一次世界大戦後の「世界の大勢」に依拠した急激なもので、「世界の大勢」が変われば、日本もその方向へ進む脆弱なものだった、というわけです。また本書は、この大正期の軍縮が急激で外在的だったことから、軍制の構造的改革にまで深く進まなかったことも指摘します。この大正期の軍縮の稚拙さによる軍人の心的外傷が、昭和前期の軍拡の大きな一因となります。
本書は二・二六事件を詳しく取り上げていますが、その前提として昭和期陸軍の中央機構や人事昇進や学校成績と昇進および派閥との関係などを検証しています。陸軍中央の陸軍省と参謀本部と教育総監部で重要なのは陸軍省と参謀本部(省部)で、人事と法令制定と予算などに関わる陸軍省において最も重要だったのが軍務局です。軍務局において最重要なのが軍事課で、課長の下に高級課員がおり、その下に編成班と予算班が設置されていました。1936年8月に軍務局の軍事課以外の課は他局に移り、新たに議会との折衝などのために軍務課が設置されました。陸軍省では大臣と次官と軍務局長と軍事課長と軍事課高級課員(および、1936年8月以降は、軍務課長と軍務課の高級課員も加わります)が重要になり、高級軍人はこれらの地位を目指します。軍務局と軍事課が陸軍省で最重要だったのは、全陸軍の予算編成権利を掌握していたからです。作戦と軍の編成と戦闘序列などの決定を担当していた参謀本部で最重要の部局は作戦担当の第一部です。第一部で最重要なのは第二課(作戦課)で、第二課には作戦と兵站と航空と戦争指導(1940年10月以降は第20班として独立し、参謀次長直属となります)の4班が設置されていました。参謀本部で重要となるのは、総長と次長と第一部長と作戦課長です。さらに、1931年12月~1940年10月には閑院宮載仁親王が総長だったので、総長が名誉職化し、実質的には次長が参謀本部で最高権威者となりました。さらに、近代日本の組織で一般的に見られる最高責任者の名目化傾向のため、実質的な意思決定権が第一部長、さらには作戦課長まで下降する傾向にありました。陸軍省と参謀本部の力関係について、どちらかが一貫して優位に立っていたわけではない、と本書は指摘します。
こうした高級軍人になるのは原則として陸軍士官学校出身者で、陸軍士官学校の入学には中学4年程度の学力が必要とされていましたが、学歴は不問でした。陸軍士官学校への入学経路としては、中学を経る場合と、陸軍幼年学校を経る場合があり、陸軍幼年学校の入学年齢制限は13歳以上15歳未満でした。陸軍幼年学校は全国に6校あり、その地方幼年学校の後に2年間、東京の中央幼年学校に通いました。陸軍士官学校で約2年間を経た後、配属連隊に着任し、間もなく少尉に任官となります。省部に勤務するような将校になるには、陸軍大学校の試験に合格しなければならず、陸大の受験資格は、隊付2年以上の経験(日中戦争後は、1年以上で任官後8年未満)の少尉でした。陸軍士官学校卒業者のうち、約1割が陸大に入学しています。陸大に進まない将校はおおむね連隊長止まりで、陸大出身者は省部や各学校に赴任していきます。昇進と陸士や陸大の成績との関連について、陸士の成績は昇進との相関度が低く、陸大の成績との相関度は一般的に陸軍省でも参謀本部でも、上級職ほど低く、下級職ほど高い傾向にあります。ただ、純軍事的性格の強い参謀本部の方が、陸士や陸大の成績との相関度が高い層です。本書は、下級職における陸大成績優秀者を優遇する傾向が崩れ始めた時期は、陸軍そのものの崩壊期だった、と指摘しています。
将校の人事は、下位の者を上長が順次銓衡した結果に基づき、佐官以下は陸軍省人事局補任課長が、将官は大臣と人事局長が原則として扱っており、全陸軍の人事権は原則的に陸軍大臣が掌握していました。ただ、実際の人事は単一的な階層構造ではなく、たとえば参謀の人事は実質的に参謀本部の庶務課が担当していました。複雑な人間関係の中で陸軍の人事は決まっており、同志的人物が人事の決定に関わる地位にどれだけ多く配属されているかが、昇進では決定的に重要になる、と本書は指摘します。つまり派閥の問題で、上述の昇進と陸士や陸大の成績との関連に窺えるように、上級職ほど派閥的原理が大きな影響力を有していたのではないか、というわけです。日本の派閥は、出身地域と姻戚とイデオロギーと同期(有力者が他の同期を抑制して自分のみ昇進していく抑制志向と、同期生で助け合っていく団結志向の2類型に区分されています)と兵科と出身学校(陸大出身か否か、幼年学校出身か中学出身か、学校の師弟関係)と勤務地の7通りの原理に基づいて形成されていた、と本書は指摘します。
これらの陸軍における派閥形成原理と昇進体系の分析に基づいて、本書は陸軍の具体的な派閥抗争史を検証しています。陸軍中枢でまず挙げられるが山県有朋を中心とした長州閥ですが、大正後期には人材不足となり、岡山出身で長州閥の庇護を受けた宇垣一成を軸とした宇垣閥へと展開します。長州閥と対抗したのは、大山巌に始まって上原勇作を中心とした薩摩閥で、武藤信義たちを経て真崎甚三郎や荒木貞夫などの九州閥へと変容していきます。1921年、陸士16期の永田鉄山と小畑敏四郎と岡村寧次の3人が、ドイツのバーデン・バーデンで総力戦体制確立と長州閥専横人事の刷新など、陸軍立て直しで合意し、東条英機も後に加わります。この盟約は二葉会(1923~1927年頃)→木曜会(1927年)→一夕会(1929年)へとつながっていきます。一夕会は、将官では真崎甚三郎や荒木貞夫や林銑十郎を盛り立てていくことにします。一夕会には他に板垣征四郎や山下奉文や石原莞爾や武藤章や田中新一など、後に陸軍を動かす中枢的人物が結集していました。ただ梅津美治郎はこうした派閥に加わらず、その超派閥的傾向が窺える、と本書は指摘します。逆に、永田鉄山はこうしたことに積極的で、結果的に陸軍の派閥化を促進したわけです。一方で、北一輝を中心とした超国家主義(平等主義的革新)運動は青年将校運動へと発展し、宇垣閥への反発から真崎甚三郎や荒木貞夫を支持します。
1931年12月に荒木貞夫が陸軍大臣に就任すると、九州閥の上級将校と一夕会系の中堅幕僚と青年将校運動がいずれも荒木陸相に期待を寄せます。しかし、荒木は陸相として実務的能力が低く(首相や大蔵省や海軍との折衝で陸軍が多くの予算を獲得できなかった、と陸軍で認識されたことが大きかったのでしょうが)、宇垣閥の排除と九州閥の登用を進めたため、多くの反発を招来し、1934年1月、陸相は林銑十郎に交代します。林は荒木と真崎を排撃し、永田鉄山や東条英機も林に同調し、これが統制派と言われています。統制派の起源は、1933年秋頃に永田や東条や武藤章が、荒木陸相に失望し、「高度国防国家建設」に向けて研究会を始めたことにあります。一方で、青年将校運動の方は、荒木陸相には失望しながらも、真崎を押し立てていき、日本国内の平等主義的変革を進めようとして、いわゆる皇道派が形成されていきます。統制派と皇道派の対立はすでに1933年11月には始まっており、翌年3月に林陸相によって軍務局長に起用された永田が青年将校の集会を禁じるなどして、対立はさらに激化します。その結果、永田は1935年8月12日に皇道派の相沢三郎中佐に惨殺されます。林は統制派と皇道派の対立激化の責任から辞職し、後任の陸相には中立系の川島義之が就任します。川島は両派の調停を考えたようですが、有効な対策を取れず、1936年に二・二六事件が勃発します。
二・二六事件後、寺内寿一陸相と梅津美治郎次官と石原莞爾参謀北部作戦課長と武藤章軍務局軍事課員を中心とした体制が成立し、この中で梅津次官の声望は大きかったようですが、石原派(満洲派)が急速に台頭します。しかし、石原の策動は梅津に抑え込まれ、石原派は没落します。1937年7月の盧溝橋事件では、不拡大論の石原と拡大論の武藤作戦課長が対立し、石原は関東軍参謀副長に左遷となります。関東軍では、東条参謀長と石原参謀副長とが対立しており、東条は陸軍次官に起用されると、石原派の多田駿参謀次長と激しく対立するようになります。この対立は、東条も多田も転出することで、喧嘩両成敗的決着となりました。東条は1940年7月に第二次近衛内閣で陸相に就任し、同年9月にはドイツおよびイタリアとの三国同盟が締結されます。東条は閑院宮載仁親王の後任の参謀総長人事も強引に進め、東条を陸相に推薦した阿南惟幾は公開します。この間、武藤章は中国戦線から軍務局長に転任し、中国における民族主義の昂揚を見た武藤は、対中戦線拡大論から転向していました。武藤は日中戦争の苦戦から対米開戦にも否定的で、対米開戦積極派の参謀本部の田中新一作戦部長や服部卓四郎作戦課長や辻政信戦力班長と対立します。本書は、対米開戦の直前の軍の要職には、東条や武藤や冨永恭次など永田の下で統制派として結集していた人々がいたものの、以前のような統一した目標や結束があったわけではなく、もはや統制派とは呼ぶのは適切ではなく、せいぜい旧統制派と呼ぶべきだろう、と指摘します。本書は二・二六事件の陸軍について、多くの中堅幕僚集団とその集合的意思を重視しています。
本書は二・二六事件の思想的背景として、満川亀太郎や大川周明や北一輝に代表される、国内的にも国際的にも平等主義を志向した思潮に着目しています。北一輝は、一君万民的で私有財産が抑制される社会を構想していました。本書はこうした思潮を超国家主義運動と呼んでいます。こうした北一輝の構想は、陸軍の青年将校に大きな影響を及ぼしていきます。第一次世界大戦後から世界恐慌の頃までの世界的な軍縮の風潮の中で、多数の将校が人員整理の対象となる中で、軍人を中心に平等な日本を築くべしと主張した北一輝の思想は、青年将校にとってたいへん魅力的だったわけです。二・二六事件の首謀者となった皇道派の将校はそうした北一輝思想に強い影響を受け、皇道派が統制派に対して劣勢となったことから、起死回生の策として決起したものの、短期間で鎮圧されました。二・二六事件後、皇道派は陸軍で決定的に勢力を失いましたが、近衛文麿が皇道派寄りだったため、皇道派の陸軍将官が入閣することもありました。ただ、超国家主義運動は政治運動としては二・二六事件で挫折したものの、平等主義的発想はその後も継承され、戦中と戦後を通じて社会の平準化は進行していった、と本書は評価しています。革新官僚の代表的人物である岸信介も、北一輝の思想から影響を受けていました。また、上述のように超国家主義運動は国内だけではなく国際的にも平等を主張したので、「親英米的な」政治家も排撃の対象とされました。基本的に陸軍を対象としている本書は、海軍では堀悌吉を取り上げていますが、軍縮に貢献した堀が海軍から去らざるを得なくなった背景に、「親英米的な国際協調派」と堀のような軍縮派はつながっている、との攻撃や、上述の軍縮時代の風潮で不遇だった軍人の報復感情があったことを指摘しています。
昭和期の陸軍については、天皇による陸軍大臣の指名も取り上げられています。1939年8月に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツとの同盟締結を進めていた日本にとって大打撃となり、平沼内閣が退陣となります。後任の首相は阿部信行に決定しましたが、陸相をめぐって陸軍内部で対立が激化します。ドイツとの同盟に否定的だった昭和天皇はかねてより陸軍に不満を抱いており、阿部内閣の陸相は梅津美治郎か畑俊六とするよう強く要求し、陸軍の三長官で推薦された人物でもそれ以外なら許さない、と阿部信行に伝えています。この昭和天皇の強い意向が通って、阿部内閣の陸相には、陸軍の三長官会議で後任に推された多田駿ではなく畑俊六が就任します。本書は、天皇による陸相指名の強行が通った背景として、陸軍内部が激しい抗争の渦中だったことを挙げています。
本書は乃木希典も取り上げていますが、乃木が大正期~昭和前期の軍閥の問題とも関連していることや、社会的および文化的存在の大きさも指摘しています。司馬遼太郎によって日本社会に広く浸透したと思われる「乃木愚将論」については、現在研究者では批判的な見解が優勢と指摘されています。乃木希典への批判は生前、さらには自殺直後からあり、知識層の一部でとくに多かったようです。乃木の「殉死」についても、庶民はおおむね乃木に好意的だったのに対して、知識層では擁護者もいたものの批判は多く、大正期には知識層での批判の声はさらに大きくなったようです。陸軍では、谷壽夫の陸大での講義が乃木に批判的で、その講義が行なわれた頃に陸大教官だった一夕会の永田鉄山や小畑敏四郎や東条英機が、長州閥排斥のため谷の講義を利用した可能性も指摘されており、その一夕会が「昭和軍閥」の主要な母体の一つになったわけです。そもそも、谷の「乃木批判」は薩摩閥からの長州閥攻撃の一環だったようで、司馬遼太郎は谷の著書に大きく依拠して「乃木愚将論」を展開したのでしょうが、乃木批判によって「昭和軍閥」を攻撃しているつもりで、「昭和軍閥」とともに乃木を攻撃していた、と本書は指摘します。
本書がまず取り上げているのは、大杉栄と伊藤野枝が殺害された甘粕大尉事件で、本書はこれを昭和前期のテロリズム・ポピュリズムの本格的前駆現象と評価しています。本書は、甘粕正彦の量刑(懲役10年、3年ほどで釈放)が3人の殺害(子供は甘粕が直接殺したわけではありませんが)にしては軽すぎたことに注目します。本書はその理由として甘粕への強い同情的世論があったこととともに、そうした世論が形成された背景に、皇族暗殺を企図した、とされた朴烈事件があったことを指摘します。皇族の殺害計画で甘粕への同情的世論が高まったのではないか、というわけです。さらに、アナキスト側の暴力やテロも、甘粕への同情的世論を高めたかもしれない、と本書は指摘します。また本書は、当時軍人への社会的評価が低かったことも、甘粕の犯行につながった可能性を指摘します。さらに、大杉栄は当時の内務大臣である後藤新平ともつながりがあり、甘粕大尉事件の背景に内務大臣管轄下の警察(警視庁)と陸軍(憲兵)の対立があったことも指摘されています。
次に本書は、昭和前期の軍部台頭の前提としての、大正期の軍縮と世論を取り上げます。まだ第一次世界大戦が終結していない時点で、陸軍士官学校の志願者の激減が報道されており、第一次世界大戦終結後の1919年には、陸軍兵卒の被服の貧しさが新聞で指摘されています。こうした風潮の中で、1921年にワシントン軍縮会議が始まると、陸軍が「物わかりの悪い存在」として論じられ始め、軍縮を要求する世論が高まり、軍部というか実質的には陸軍批判として展開していきます。こうした世論とそれを背景とする議会の圧力に対して、軍部もさまざまな慣行や行事を廃止し、予算を節約していくとともに、人員整理によって陸海軍とも多くの将校が退職を余儀なくされます。陸軍士官学校の志願者数は第一次世界大戦後にさらに減少していき、それは海軍志願兵も海軍兵学校志願者数も激減していきます。一方で、こうした世論は1931年9月の満州事変後に大きく変わります。本書は、大正期から昭和前期の軍部への世論が急激に変わっていった背景について、軍縮志向があまりにも急激で、時間をかけて成熟したものではなかった、と指摘します。この軍縮志向は、第一次世界大戦後の「世界の大勢」に依拠した急激なもので、「世界の大勢」が変われば、日本もその方向へ進む脆弱なものだった、というわけです。また本書は、この大正期の軍縮が急激で外在的だったことから、軍制の構造的改革にまで深く進まなかったことも指摘します。この大正期の軍縮の稚拙さによる軍人の心的外傷が、昭和前期の軍拡の大きな一因となります。
本書は二・二六事件を詳しく取り上げていますが、その前提として昭和期陸軍の中央機構や人事昇進や学校成績と昇進および派閥との関係などを検証しています。陸軍中央の陸軍省と参謀本部と教育総監部で重要なのは陸軍省と参謀本部(省部)で、人事と法令制定と予算などに関わる陸軍省において最も重要だったのが軍務局です。軍務局において最重要なのが軍事課で、課長の下に高級課員がおり、その下に編成班と予算班が設置されていました。1936年8月に軍務局の軍事課以外の課は他局に移り、新たに議会との折衝などのために軍務課が設置されました。陸軍省では大臣と次官と軍務局長と軍事課長と軍事課高級課員(および、1936年8月以降は、軍務課長と軍務課の高級課員も加わります)が重要になり、高級軍人はこれらの地位を目指します。軍務局と軍事課が陸軍省で最重要だったのは、全陸軍の予算編成権利を掌握していたからです。作戦と軍の編成と戦闘序列などの決定を担当していた参謀本部で最重要の部局は作戦担当の第一部です。第一部で最重要なのは第二課(作戦課)で、第二課には作戦と兵站と航空と戦争指導(1940年10月以降は第20班として独立し、参謀次長直属となります)の4班が設置されていました。参謀本部で重要となるのは、総長と次長と第一部長と作戦課長です。さらに、1931年12月~1940年10月には閑院宮載仁親王が総長だったので、総長が名誉職化し、実質的には次長が参謀本部で最高権威者となりました。さらに、近代日本の組織で一般的に見られる最高責任者の名目化傾向のため、実質的な意思決定権が第一部長、さらには作戦課長まで下降する傾向にありました。陸軍省と参謀本部の力関係について、どちらかが一貫して優位に立っていたわけではない、と本書は指摘します。
こうした高級軍人になるのは原則として陸軍士官学校出身者で、陸軍士官学校の入学には中学4年程度の学力が必要とされていましたが、学歴は不問でした。陸軍士官学校への入学経路としては、中学を経る場合と、陸軍幼年学校を経る場合があり、陸軍幼年学校の入学年齢制限は13歳以上15歳未満でした。陸軍幼年学校は全国に6校あり、その地方幼年学校の後に2年間、東京の中央幼年学校に通いました。陸軍士官学校で約2年間を経た後、配属連隊に着任し、間もなく少尉に任官となります。省部に勤務するような将校になるには、陸軍大学校の試験に合格しなければならず、陸大の受験資格は、隊付2年以上の経験(日中戦争後は、1年以上で任官後8年未満)の少尉でした。陸軍士官学校卒業者のうち、約1割が陸大に入学しています。陸大に進まない将校はおおむね連隊長止まりで、陸大出身者は省部や各学校に赴任していきます。昇進と陸士や陸大の成績との関連について、陸士の成績は昇進との相関度が低く、陸大の成績との相関度は一般的に陸軍省でも参謀本部でも、上級職ほど低く、下級職ほど高い傾向にあります。ただ、純軍事的性格の強い参謀本部の方が、陸士や陸大の成績との相関度が高い層です。本書は、下級職における陸大成績優秀者を優遇する傾向が崩れ始めた時期は、陸軍そのものの崩壊期だった、と指摘しています。
将校の人事は、下位の者を上長が順次銓衡した結果に基づき、佐官以下は陸軍省人事局補任課長が、将官は大臣と人事局長が原則として扱っており、全陸軍の人事権は原則的に陸軍大臣が掌握していました。ただ、実際の人事は単一的な階層構造ではなく、たとえば参謀の人事は実質的に参謀本部の庶務課が担当していました。複雑な人間関係の中で陸軍の人事は決まっており、同志的人物が人事の決定に関わる地位にどれだけ多く配属されているかが、昇進では決定的に重要になる、と本書は指摘します。つまり派閥の問題で、上述の昇進と陸士や陸大の成績との関連に窺えるように、上級職ほど派閥的原理が大きな影響力を有していたのではないか、というわけです。日本の派閥は、出身地域と姻戚とイデオロギーと同期(有力者が他の同期を抑制して自分のみ昇進していく抑制志向と、同期生で助け合っていく団結志向の2類型に区分されています)と兵科と出身学校(陸大出身か否か、幼年学校出身か中学出身か、学校の師弟関係)と勤務地の7通りの原理に基づいて形成されていた、と本書は指摘します。
これらの陸軍における派閥形成原理と昇進体系の分析に基づいて、本書は陸軍の具体的な派閥抗争史を検証しています。陸軍中枢でまず挙げられるが山県有朋を中心とした長州閥ですが、大正後期には人材不足となり、岡山出身で長州閥の庇護を受けた宇垣一成を軸とした宇垣閥へと展開します。長州閥と対抗したのは、大山巌に始まって上原勇作を中心とした薩摩閥で、武藤信義たちを経て真崎甚三郎や荒木貞夫などの九州閥へと変容していきます。1921年、陸士16期の永田鉄山と小畑敏四郎と岡村寧次の3人が、ドイツのバーデン・バーデンで総力戦体制確立と長州閥専横人事の刷新など、陸軍立て直しで合意し、東条英機も後に加わります。この盟約は二葉会(1923~1927年頃)→木曜会(1927年)→一夕会(1929年)へとつながっていきます。一夕会は、将官では真崎甚三郎や荒木貞夫や林銑十郎を盛り立てていくことにします。一夕会には他に板垣征四郎や山下奉文や石原莞爾や武藤章や田中新一など、後に陸軍を動かす中枢的人物が結集していました。ただ梅津美治郎はこうした派閥に加わらず、その超派閥的傾向が窺える、と本書は指摘します。逆に、永田鉄山はこうしたことに積極的で、結果的に陸軍の派閥化を促進したわけです。一方で、北一輝を中心とした超国家主義(平等主義的革新)運動は青年将校運動へと発展し、宇垣閥への反発から真崎甚三郎や荒木貞夫を支持します。
1931年12月に荒木貞夫が陸軍大臣に就任すると、九州閥の上級将校と一夕会系の中堅幕僚と青年将校運動がいずれも荒木陸相に期待を寄せます。しかし、荒木は陸相として実務的能力が低く(首相や大蔵省や海軍との折衝で陸軍が多くの予算を獲得できなかった、と陸軍で認識されたことが大きかったのでしょうが)、宇垣閥の排除と九州閥の登用を進めたため、多くの反発を招来し、1934年1月、陸相は林銑十郎に交代します。林は荒木と真崎を排撃し、永田鉄山や東条英機も林に同調し、これが統制派と言われています。統制派の起源は、1933年秋頃に永田や東条や武藤章が、荒木陸相に失望し、「高度国防国家建設」に向けて研究会を始めたことにあります。一方で、青年将校運動の方は、荒木陸相には失望しながらも、真崎を押し立てていき、日本国内の平等主義的変革を進めようとして、いわゆる皇道派が形成されていきます。統制派と皇道派の対立はすでに1933年11月には始まっており、翌年3月に林陸相によって軍務局長に起用された永田が青年将校の集会を禁じるなどして、対立はさらに激化します。その結果、永田は1935年8月12日に皇道派の相沢三郎中佐に惨殺されます。林は統制派と皇道派の対立激化の責任から辞職し、後任の陸相には中立系の川島義之が就任します。川島は両派の調停を考えたようですが、有効な対策を取れず、1936年に二・二六事件が勃発します。
二・二六事件後、寺内寿一陸相と梅津美治郎次官と石原莞爾参謀北部作戦課長と武藤章軍務局軍事課員を中心とした体制が成立し、この中で梅津次官の声望は大きかったようですが、石原派(満洲派)が急速に台頭します。しかし、石原の策動は梅津に抑え込まれ、石原派は没落します。1937年7月の盧溝橋事件では、不拡大論の石原と拡大論の武藤作戦課長が対立し、石原は関東軍参謀副長に左遷となります。関東軍では、東条参謀長と石原参謀副長とが対立しており、東条は陸軍次官に起用されると、石原派の多田駿参謀次長と激しく対立するようになります。この対立は、東条も多田も転出することで、喧嘩両成敗的決着となりました。東条は1940年7月に第二次近衛内閣で陸相に就任し、同年9月にはドイツおよびイタリアとの三国同盟が締結されます。東条は閑院宮載仁親王の後任の参謀総長人事も強引に進め、東条を陸相に推薦した阿南惟幾は公開します。この間、武藤章は中国戦線から軍務局長に転任し、中国における民族主義の昂揚を見た武藤は、対中戦線拡大論から転向していました。武藤は日中戦争の苦戦から対米開戦にも否定的で、対米開戦積極派の参謀本部の田中新一作戦部長や服部卓四郎作戦課長や辻政信戦力班長と対立します。本書は、対米開戦の直前の軍の要職には、東条や武藤や冨永恭次など永田の下で統制派として結集していた人々がいたものの、以前のような統一した目標や結束があったわけではなく、もはや統制派とは呼ぶのは適切ではなく、せいぜい旧統制派と呼ぶべきだろう、と指摘します。本書は二・二六事件の陸軍について、多くの中堅幕僚集団とその集合的意思を重視しています。
本書は二・二六事件の思想的背景として、満川亀太郎や大川周明や北一輝に代表される、国内的にも国際的にも平等主義を志向した思潮に着目しています。北一輝は、一君万民的で私有財産が抑制される社会を構想していました。本書はこうした思潮を超国家主義運動と呼んでいます。こうした北一輝の構想は、陸軍の青年将校に大きな影響を及ぼしていきます。第一次世界大戦後から世界恐慌の頃までの世界的な軍縮の風潮の中で、多数の将校が人員整理の対象となる中で、軍人を中心に平等な日本を築くべしと主張した北一輝の思想は、青年将校にとってたいへん魅力的だったわけです。二・二六事件の首謀者となった皇道派の将校はそうした北一輝思想に強い影響を受け、皇道派が統制派に対して劣勢となったことから、起死回生の策として決起したものの、短期間で鎮圧されました。二・二六事件後、皇道派は陸軍で決定的に勢力を失いましたが、近衛文麿が皇道派寄りだったため、皇道派の陸軍将官が入閣することもありました。ただ、超国家主義運動は政治運動としては二・二六事件で挫折したものの、平等主義的発想はその後も継承され、戦中と戦後を通じて社会の平準化は進行していった、と本書は評価しています。革新官僚の代表的人物である岸信介も、北一輝の思想から影響を受けていました。また、上述のように超国家主義運動は国内だけではなく国際的にも平等を主張したので、「親英米的な」政治家も排撃の対象とされました。基本的に陸軍を対象としている本書は、海軍では堀悌吉を取り上げていますが、軍縮に貢献した堀が海軍から去らざるを得なくなった背景に、「親英米的な国際協調派」と堀のような軍縮派はつながっている、との攻撃や、上述の軍縮時代の風潮で不遇だった軍人の報復感情があったことを指摘しています。
昭和期の陸軍については、天皇による陸軍大臣の指名も取り上げられています。1939年8月に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツとの同盟締結を進めていた日本にとって大打撃となり、平沼内閣が退陣となります。後任の首相は阿部信行に決定しましたが、陸相をめぐって陸軍内部で対立が激化します。ドイツとの同盟に否定的だった昭和天皇はかねてより陸軍に不満を抱いており、阿部内閣の陸相は梅津美治郎か畑俊六とするよう強く要求し、陸軍の三長官で推薦された人物でもそれ以外なら許さない、と阿部信行に伝えています。この昭和天皇の強い意向が通って、阿部内閣の陸相には、陸軍の三長官会議で後任に推された多田駿ではなく畑俊六が就任します。本書は、天皇による陸相指名の強行が通った背景として、陸軍内部が激しい抗争の渦中だったことを挙げています。
本書は乃木希典も取り上げていますが、乃木が大正期~昭和前期の軍閥の問題とも関連していることや、社会的および文化的存在の大きさも指摘しています。司馬遼太郎によって日本社会に広く浸透したと思われる「乃木愚将論」については、現在研究者では批判的な見解が優勢と指摘されています。乃木希典への批判は生前、さらには自殺直後からあり、知識層の一部でとくに多かったようです。乃木の「殉死」についても、庶民はおおむね乃木に好意的だったのに対して、知識層では擁護者もいたものの批判は多く、大正期には知識層での批判の声はさらに大きくなったようです。陸軍では、谷壽夫の陸大での講義が乃木に批判的で、その講義が行なわれた頃に陸大教官だった一夕会の永田鉄山や小畑敏四郎や東条英機が、長州閥排斥のため谷の講義を利用した可能性も指摘されており、その一夕会が「昭和軍閥」の主要な母体の一つになったわけです。そもそも、谷の「乃木批判」は薩摩閥からの長州閥攻撃の一環だったようで、司馬遼太郎は谷の著書に大きく依拠して「乃木愚将論」を展開したのでしょうが、乃木批判によって「昭和軍閥」を攻撃しているつもりで、「昭和軍閥」とともに乃木を攻撃していた、と本書は指摘します。
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