エーゲ海地域における新石器文化の拡大

 古代ゲノムデータと物質文化のデータに基づいてアナトリア半島西部からエーゲ海地域への新石器時文化の拡大を検証した研究(Koptekin et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、アナトリア半島の新たな古代人のゲノムと、エーゲ海地域の新石器時代の物質文化のデータを用いて、エーゲ海地域における新石器文化の拡大を検証しています。アナトリア半島西部集団は、初期完新世には東方の肥沃な三日月地帯との文化的交流によって、定住生活様式へと移行していきましたが、肥沃な三日月地帯の集団との大きな遺伝的交流は見られませんでした。

 しかし、9000年前頃に本格的な農耕集落がエーゲ海全域に拡大し始めると、東方からの移住農耕民がエーゲ海で集落を築いていきます。この過程は、東方からの移住農耕民による在来の採食民の置換ではなく、遺伝的融合で、これによって「アナトリア半島農耕民」の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が形成されました。このアナトリア半島農耕民祖先系統はエーゲ海からヨーロッパ全域へと広がり、在来集団との遺伝的混合はより限定的で散発的だったようです。また、エーゲ海地域の16ヶ所の新石器時代集落における文化的類似性と遺伝的類似性との関係も検証され、村落間の文化的類似性は、地理的距離の近さによって説明できる一方で、遺伝学的類似性では説明できない、と示されました。これは、文化の拡大に人類集団の移動が伴わなかった事例もあることを示唆しています。以下は本論文の要約図です。
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 時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、PPN(Pre-Pottery Neolithic、先土器新石器時代)、PN(Pottery Neolithic、土器新石器時代)です。用語の略称は、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、MDS(multidimensional scaling、多次元尺度構成法)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、 HG(hunter gatherer、狩猟採集民)、 UNESCO(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization、国際連合教育科学文化機関)、cM(centimorgan、センチモルガン)です。

 本論文で取り上げられるエーゲ海地域の主要な遺跡は以下の通りです。アナトリア半島南西部ではギルメラー(Girmeler)遺跡とバデマガシ(Bademağacı)遺跡、アナトリア半島北西部ではアクトプラクルク(Aktopraklık、Aktopraklik)遺跡とバルシン(Barcın)遺跡とバチェリェヴラー(Bahçelievler)遺跡とイリピナル(Ilipinar 、Ilıpınar)遺跡とメンテシェ(Menteşe)遺跡とペンディク(Pendik)遺跡、アナトリア半島中西部ではウルカク(Ulucak)遺跡、アナトリア半島中央部ではボンクル(Boncuklu)遺跡とプナルバシュ(Pınarbaşı)遺跡とアシュクル(Aşıklı)遺跡とムスラール(Musular)遺跡とテペシク・シフトリク(Tepecik-Çiftlik)遺跡と UNESCOの世界遺産遺跡であるチャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡、クレタ島ではアポセレミス(Aposelemis)遺跡、ギリシア北部ではレヴェニア(Revenia)遺跡とネア・ニコメディア(Nea Nikomedeia)遺跡、上メソポタミア(メソポタミア北部)のティグリス川流域のチャヨニュ(Çayönü)遺跡。


●構造化要約

○前提
 新石器時代農耕文化は1万年前頃に肥沃な三日月地帯で最初に発展し、その後にエーゲ海経由でヨーロッパへと拡大しました。しかし、新石器時代の生活様式がエーゲ海、とくにアナトリア半島西部でどのように出現したのか、新石器時代の前の古代人のDNAの不足のため曖昧になっているため、依然として不明です。

○理論的根拠
 30点の新たな古ゲノムを用いて、エーゲ海の人口史および文化史が調べられ、それにはアナトリア半島西部の1万年前頃の個体が含まれており、408個体の刊行されているゲノムと組み合わされました。9000年前頃の16ヶ所の遺跡の54点の文化的特徴を含むデジタル化された物質文化も収集され、これは同じ遺跡の104点のゲノムと組み合わされました。これによって、エーゲ海の新石器時代への移行期における移動性および文化的変化の再構築が可能となりました。

○結果
 農耕村落の到来前の前期完新世のアナトリア半島西部における、少なくとも6000年間の遺伝的連続性が見つかりました。この期間に、アナトリア半島西部の人々は肥沃な三日月地帯の東方の隣人と文化的交流を行ない、定住生活様式が模索されました。しかし、これらアナトリア半島西部の人々は、初期段階では遺伝的には隣人と混合しませんでした。
 事態が変わったのは9000年前頃で、本格的な農耕集落がエーゲ海全域に拡大し始めました。本論文の古ゲノムデータから、これは東方からの移住農耕民の波がエーゲ海で居留地を築き、在来の採食民を置換したために起きたのではなかった、と示されます。むしろ、この移行は融合として展開しており、東方起源の移住集団が合流し、新たに築かれた村落で在来の採食民の子孫と遺伝的に混合しました。これは、共存と相互革新や最終的な混合の複雑な過程だった可能性が高そうです。さらに、これは今では有名な「アナトリア半島農耕民」の遺伝的特性を生み出し、それがその後にエーゲ海全域に、さらにその後にはヨーロッパ全域に広がりました。この場合、地元民との混合はより限定的で散発的だったようです。
 文化的および遺伝的データの比較研究がさらに実行され、16ヶ所の新石器時代集落における文化的類似性が遺伝的類似性によって説明できるのかどうか、検討され、これは、文化が大規模な移動性と混合の歴史によって形成された場合に予測されます。その結果、村落間の文化的類似性が単に地理的近さによって説明できる一方で、集団遺伝学的類似性には説明能力がない、と分かり、この地域では人々よりも着想が早く混合したことを示唆しています。

○結論
 ユーラシア西部における新石器時代文化の拡大には、純粋な文化採用から、到来した農耕民と在来の採食民との間の移動性と混合、急速な移動とく拡大まで、異なる機序が関わっていました。さらに、集落間の文化的類似性は大規模な移動性によってではなく(遺伝的データに反映されているように)、むしろ背景となる移動性によって形成されました。したがって、本論文の結果は、文化的実体は遺伝的に均質な人口集団に対応することが多い、との広く受け入れられている仮説に疑問を呈し、「壺は人々と同じではない」との考古学的格言を裏づけます。本論文は、人類の最も変容した期間の一つにおける、文化的変化の機序における新たな視点を提示します。


●要約

 アナトリア半島西部は、肥沃な三日月地帯からヨーロッパへの新石器時代の拡大における、重要ではあるものの理解しにくい要素でした。本論文は、30点の新たな古ゲノムを用いて、初期完新世アナトリア半島西部の変化する遺伝的および文化的景観を報告します。アナトリア半島西部における新石器化多面的過程で、在来採食民による新石器時代の慣行の同化と東方人口集団の流入と混合によって特徴づけられ、その子孫がその後で新石器時代ヨーロッパ南東部を確立しました。本論文は次に、58点の物質文化要素を用いて、初期完新世アナトリア半島およびエーゲ海の新石器時代村落全体の、遺伝的および文化的類似性を共同分析しました。村落間の文化的距離は空間的距離と相関しますが、地理の考慮後には遺伝的距離と相関しません。これは、文化的変化が遺伝的に可視化される移動性からしばしば切り離されていたことを示唆しています。


●研究史

 ユーラシア西部における定住と農耕の出現は、紀元前11000~紀元前7000年頃にアジア南西部で始まった、新石器化として知られる長期にわたる社会および経済的過程の結果でした。古ゲノム研究では、この移行はおもに、新石器時代中核地帯のさまざまな地位は、つまりレヴァントと上メソポタミア(メソポタミア北部)とザグロス山脈とアナトリア半島中央部の在来採食民共同体による文化的探求および文化的交流を通じて出現し、地域間の流動性と遺伝的混合は限定的だった、と示唆されています[3、4、6]。対照的に、紀元前7000年頃以後となる新石器時代の生活様式および慣行のヨーロッパ中央部および南部への拡大は、おそらくエーゲ海地域起源の大規模な流動性によって起きました[9~11]。土器を採用したバルト海採食民、もしくは新石器時代共同体との文化的交流で農耕を取り入れたアフリカ北部の先住民集団など、他地域でも文化的相互作用が盛んでした。

 アナトリア半島西部、つまり東エーゲ海沿岸と東マルマラとピシディア湖地区(Pisidian Lakes District)は、この状況において独特な軌跡をたどっています。紀元前9000年頃までに、定住採食民の無土器もしくはPPN村落が、アナトリア半島中央部を含めて肥沃な三日月地帯に出現しました。しかし、アナトリア半島の中央部と西部との間の大きな地理的境界の欠如にも関わらず、石器群の変化から証明されている控えめな地域間摂食の証拠を除くと、紀元前9000~紀元前7000年頃の間にアナトリア半島西部では【肥沃な三日月地帯に】匹敵する発展は検出されていませんでした。じっさい、初期完新世のアナトリア半島西部については、石器から推測されるように、沿岸部地域(東エーゲ海およびマルマラ沿岸地域)に近隣地域との文化的つながりのある採食民集団がいたことを除いて、ほとんど分かっていません。

 紀元前八千年紀アナトリア半島の新石器時代の発展における人口統計学的転換期で、おそらくは上メソポタミア起源の東方からの移動事象がアナトリア半島中央部に到来しました[23、24]。紀元前七千年紀初期までに、土器本格的な農耕と畜産が肥沃な三日月地帯全域で確立しつつありました。これらの農耕村落は、その物質文化一括とともに、その後は中核地帯を越えてアナトリア半島西部へと拡大し、最終的にはヨーロッパへと広がりました[25]。

 紀元前7000~紀元前6000年頃の間のアナトリア半島西部全域にわたる複数の「新石器時代一括」要素の出現は、アジア南西部中核地帯からの大規模な移住を示唆している、と解釈されてきました。考古学的データの分析は、アナトリア半島西部新石器時代の出現を近隣集団と結びつけた、ヒトの移動もしくは相互作用の可能性があるさまざまな経路を示唆してきており、アナトリア半島中央部および/もしくは上メソポタミア起源で、アナトリア半島南西部を通ってアナトリア半島中西部に到達した経路や、アナトリア半島中央部および/もしくは上メソポタミアから直接的にアナトリア半島北西部に到達した経路や、アナトリア半島南西部もしくは中西部とレヴァントをつなぐ海上経路も想定されています。アナトリア半島西部の人口統計学的変容に関するこれらのモデルは、代表的な古ゲノムが少ないため、まだ検証されていません。

 別の仮説は、アナトリア半島西部の新石器化は在来集団のみ、もしくは文化的相互作用およびおそらくは東方からの移民と在来採食民との間の混合が関わっていた、というものです。この見解は、紀元前七千年紀のアナトリア半島西部の遺跡間で観察された、文化的選好および生計戦略における顕著な差異から着想されています。

 一部の村落が単純で円形の小屋だったのに対して、他の共同体はより洗練されて長方形の建物を築いていました。一部の集団がヒツジとウシを飼育していたのに対して、他の集団は漁撈に大きく依存していました。一部の村落がギリシアの黒曜石、一部がアナトリア半島中央部の黒曜石、一部の集団は黒曜石をほぼ使わず、地元の燧石のみを用いていました。これらのパターンは、さまざまな共同体への在来狩猟採集民の異なる影響として解釈されることが多かったものの、この見解はまだ遺伝学的に検証されていませんでした。

 全体的に、物質文化と限定的な古ゲノムデータは、アナトリア半島西部新石器時代の起源について依然として曖昧です。紀元前7000年前頃以前にアナトリア半島西部およびエーゲ海地域に居住していた人口集団の遺伝的類似性は、そうした人口集団が新石器時代集落の確立期にどのように変わったか、また変わったかもしれないのかどうかは、依然として不明です。紀元前7000年頃以後のアナトリア半島およびエーゲ海地域の新石器時代村落間の観察された物質文化の差異が、(ヨーロッパの新石器時代への移行と同様に)大規模な流動性および混合過程によって起きたのかどうかも、不明です。本論文は、アナトリア半島西部から得られた新たな古ゲノムを用いて、これらの問題に取り組みます。この新たな古ゲノムによって、アナトリア半島西部の紀元前7000年頃以前の人口集団の報告、新石器時代を通じてのその連続性と変容、ギリシアの新石器時代とのつながりを報告できるようになります。本論文はさらに、アナトリア半島およびエーゲ海地域の村落の58点の特徴で物質文化の多様性を測定し、それを村落間の遺伝的および空間的距離と比較し、文化的変化は遺伝的に可視化される流動性から切り離されることがしばしばあり得る、と示します。


●資料

 アナトリア半島西部の5ヶ所の集落とアナトリア半島中央部のチャタルヒュユク遺跡で発見された骨格資料から30点の新たな古ゲノムが生成されました(図1)。最古級の個体はアナトリア半島南西部のギルメラー遺跡から発見され、その較正年代は紀元前7738~紀元前7597年頃で、これまでに配列決定された最古級のアナトリア半島西部の人類遺骸を表しています。その内在性の古代DNA含有量は複数のライブラリでわずか0.7~0.9%で、そこからショットガン配列決定によって0.11倍の古ゲノムが生成されました。残りの29個体のゲノムは紀元前7000年頃以後のアナトリア半島から得られ、その網羅率は0.08~6.32倍でした。本論文のデータは刊行されているデータと組み合わされ、98点のゲノムで紀元前7500~紀元前6000年頃のアナトリア半島西部および中央部を網羅し、11ヶ所の集落から構成されています。その内訳は、アナトリア半島南西部のバデマガシ遺跡、アナトリア半島中西部のウルカク遺跡、アナトリア半島北西部のバチェリェヴラー遺跡とペンディク遺跡とバルシン遺跡とアクトプラクルク遺跡とメンテシェ遺跡とイリピナル遺跡、アナトリア半島中央部のムスラール遺跡とチャタルヒュユク遺跡とテペシク・シフトリク遺跡です(図1)。以下は本論文の図1です。
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●紀元前7000年頃までの広範な新石器化の前のアナトリア半島西部の在来人口集団

 アナトリア半島南西部のギルメラー遺跡は、紀元前十二千年紀と紀元前八千年紀との間の新石器化の伝統的に指定されてきた主要地帯から大きく外れて位置しています(図1)。それにも関わらず、この塚はPPN的活動の証拠を明らかにしてきており、それには、石灰漆喰の床および炉床などの定住構造物、鎌の刃と殻穎コムギ、屈曲埋葬が含まれており、ともにアナトリア半島中央部の紀元前九千年紀後期もしくは紀元前八千年紀初期のPPN遺跡(たとえば、アシュクル遺跡やボンクル遺跡)とのつながりを示唆しています。一方で、ギルメラー遺跡におけるヤギやヒツジ類の狩猟と黒曜石の希少性は、ギルメラー遺跡をアナトリア半島中央部のPPNと区別します。ギルメラー遺跡にはエーゲ海地域のマルーラス(Maroulas)遺跡との類似点もあり、円形住居や床下埋葬や剥離型石器インダストリーと漁撈の存在が含まれます。したがって、ギルメラー遺跡共同体は新石器時代中核地域の集団や同時代のエーゲ海地域の漁撈狩猟採集民と交流していたかもしれません。本論文では、ギルメラー遺跡共同体が在来集団だったのか、それともアナトリア半島中央部やレヴァントやキプロス島やギリシアからの移民PPN集団だったのか、調べられました。

 ギルメラー遺跡個体の遺伝的特性が、より広範な地域の末期更新世および初期完新世人口集団と比較されました。可能な限り、ショットガン配列決定ゲノムもしくは124万SNP捕獲データを用いて分析が実行され、両者の混合の使用は避けられました。これは、新たな演算法であるgenoMIXを用いた本論文の混合模擬実験から得られた洞察に基づいており、その模擬実験では、ショットガン配列決定データと捕獲データの種類をともに含む分析は、(1)技術に偏ったクラスタ化(まとまること)を生じ[45]、混合のf₄検定での偽陽性兆候につながり、(2)qpAdmでの混合モデル化において統計的検出力を弱める、と確証されました。

 MDSとPCAとADMIXTURE分析を用いると、ギルメラー遺跡個体のゲノムは一貫して、他の末期更新世および初期完新世アナトリア半島の人々とクラスタ化した(まとまった)、と分かりました(それぞれ水色と濃い青色、図2)。MDSおよびPCA空間では、ギルメラー遺跡個体は紀元前十四千年紀(続旧石器時代)のアナトリア半島中央部のプナルバシュ遺跡個体[4]および紀元前七千年紀(新石器時代)のアナトリア半島北西部のアクトプラクルク遺跡個体のゲノムと最も類似した挙動を有していました(図2)。ギルメラー遺跡個体とプナルバシュ遺跡個体は約5000年間離れているにも関わらず、その遺伝的特性はひじょうに類似しているので、広範な地域のすべての末期更新世および初期完新世個体のゲノムは、f₄検定では両個体【ルメラー遺跡個体とプナルバシュ遺跡個体】と等距離でした。以下は本論文の図2です。
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 ギルメラー遺跡個体のゲノムの遺伝的祖先系統の供給源のqpAdmでのモデル化ではさらに、ギルメラー遺跡個体は末期更新世および初期完新世のバルカン半島およびレヴァント関連供給源の混合祖先系統を有しており、続旧石器時代のプナルバシュ遺跡個体のqpAdmモデルと再び区別できない、と示唆されました(図3A)。一方で、ギルメラー遺跡個体はPCAではPPNキプロス島個体とは異なっており、キプロス島遺跡個体はレヴァント集団へ、ギルメラー遺跡個体はバルカン半島個体の方へと動いています。ギルメラー遺跡個体のqpAdmモデルは、同時代(紀元前九千年紀後期および紀元前八千年紀初期)のPPN関連のアナトリア半島中央部のアシュクルおよびボンクル遺跡個体群とも異なっていました(図3A)。これらアナトリア半島中央部の個体群は、約65%の続旧石器時代のプナルバシュ遺跡個体関連および約35%の上メソポタミアPPN関連(チャヨニュ遺跡の紀元前九千年紀~紀元前八千年紀の個体によって表されます)の遺伝的供給源間の混合として説明できます(図3A)。したがって、上メソポタミア関連祖先系統は紀元前十四千年紀から紀元前九千年紀の間のある時点でアナトリア半島中央部に到来したようで、検出可能な水準ではギルメラー遺跡には到達しませんでした。以下は本論文の図3です。
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 ギルメラー遺跡集団は単一個体のゲノムによって現れていますが、そのゲノム特性はPPNの中核地域の同時代個体のどれとも著しく異なっています。これは、ギルメラー遺跡個体が移民ではなく、定住していて新石器時代関連の慣行に従事しており、目に見える遺伝的交流がないにも関わらず、東方の隣人と文化的つながりのあった可能性が高い、在来人口集団の子孫だったことを示唆しています。この在来での発展パターンはザグロス地域の新石器化と類似しているようで、ザグロス地域でも肥沃な三日月地帯からの目に見える遺伝的寄与を伴っていなかったものの[6]、文化的には肥沃な三日月地帯とつながっていました。対照的に、アナトリア半島中央部およびレヴァント南部における新石器化は、それぞれ東方と北方の供給源からの遺伝子流動を伴っていたかもしれません[4、6]。


●アナトリア半島西部の新石器時代村落の混合起源

 次に、食料生産の新石器時代村落がアナトリア半島西部に拡大し始めた紀元前七千年紀における、アナトリア半島西部の人口統計学的歴史が調べられました。その結果、紀元前7500年頃以後のアナトリア半島西部個体群のゲノムは、以前に指摘されたようにアナトリア半島中央部の同時代の個体群のゲノムと類似している(後述するように、同じではありませんが)、と分かりました。紀元前7500年頃以後のアナトリア半島の西部と中央部の集団間の遺伝的類似性は、MDSとPCAの両方(図2)およびqpAdmモデルで観察でき、qpAdmモデルでは、調べられたほぼ全てのアナトリア半島中央部および西部の個体は、プナルバシュ遺跡個体もしくはギルメラー遺跡個体とチャヨニュ遺跡個体(上メソポタミア)との間の混合としてモデル化できます(図3A)。

 チャヨニュ遺跡個体の代わりにトルコ南東部のネヴァル・チョリ(Nevali Çori)遺跡およびボンククル・タルラ(Boncuklu Tarla)遺跡個体の124万生成データを用いても、定性的に同様の結果が得られました。したがって、アナトリア半島西部新石器時代村落集団の祖先のかなりの割合は、アナトリア半島中央部か、上メソポタミアか、ユーフラテス川上流もしくはレヴァント北部のようなおそらく同様の遺伝的特性の遺伝的に標本抽出されていない地域から、数世紀前に移住してきたかもしれません。じっさい、アナトリア半島中央部では存在しなかった、ウルカクのようなアナトリア半島中西部の遺跡における家畜ブタや押圧剥離の存在は、アナトリア半島中央部からの遺伝的寄与とともに、あるいはその代わりに、上メソポタミアからの寄与を裏づけるかもしれません。

 レヴァント南部もしくはキプロス島のPPN関連人口集団[50]が、アナトリア半島西部での航海を通じて到来し、新石器時代村落を築いた、との代替的な想定もあり得ます。しかし、レヴァント南部もしくはキプロス島集団のアナトリア半島西部への遺伝的寄与は、純粋に文化的寄与および/もしくはこれらの地域からアナトリア半島西部への低水準の遺伝的寄与の可能性にも関わらず、あったとしても限定的なようです。この結論は、レヴァント南部とアナトリア半島西部の集団間の異なる遺伝的特性に基づいており、アナトリア半島西部集団が、上メソポタミアの集団を含むモデルとは対照的に、プナルバシュ遺跡個体もしくはギルメラー遺跡個体とレヴァント南部もしくはキプロス島集団との間の2方向混合として体系的にモデル化できないからでもあります。

 データは、東方からの遺伝子流動によって起き、アナトリア半島西部集団がアナトリア半島中央部集団と類似するに至った、アナトリア半島西部集団の遺伝子プールにおける紀元前八千年紀もしくは紀元前七千年紀までの変化を示唆しています。しかし、このパターンの例外1件が注目され、標本識別銀号がAKT16であるアクトプラクルク遺跡の1個体は先行研究[25]で刊行され、本論文のデータセットではアナトリア半島北西部の最古級(紀元前6658~紀元前6578年頃)の個体で、他のアナトリア半島西部の個体と異なる点でMDSおよびPCAにおいて際立っていただけばなく、qpAdmモデルおよびf₄検定では、プナルバシュ遺跡個体(アナトリア半島中央部、紀元前十四千年紀)およびギルメラー遺跡個体(アナトリア半島南西部、紀元前八千年紀)と区別できませんでした(図3)。AKT16は、FineSTRUCTUREでのハプロタイプ共有分析でプナルバシュ遺跡個体ともクラスタ化しました(まとまりました)。他の紀元前七千年紀のアクトプラクルク遺跡の3個体からの低網羅率のゲノム規模他機データも、この3個体におけるAKT16的祖先系統の割合が近隣の村落より高いことを示唆していますが、後期新石器時代(紀元前6000年頃以後)のアクトプラクルク遺跡個体の捕獲ゲノムは、そうしたAKT16との追加の類似性を有していません。

 これらの観察は、以前に観察されたように[25]、AKT16が他のアナトリア半島新石器時代個体のゲノムより高い割合の西方関連祖先系統を有しいている、と確証しますが、これは先行研究[25]で提案されたような西方から東方への混合事象によって起きたのではなく、東西の混合に沿った地域内の遺伝的連続性を含んでいた、アナトリア半島内の人口構造によって説明可能です。前期新石器時代アクトプラクルク遺跡人口集団は、ギルメラー遺跡個体が属していた同じ新石器時代の前の遺伝子プールの子孫だった可能性が高く、そうした遺伝子プールの集団は、アナトリア半島西部の全域に紀元前七千年紀まで限定的な東方集団との混合で居住していたかもしれません。

 以後、プナルバシュ遺跡個体(ZBC_IPB001)とギルメラー遺跡個体(gir001)とアクトプラクルク遺跡個体(AKT16)によって表される遺伝的特性は、アナトリア半島西部における紀元前七千年紀初期までのその推定される連続的な局所的存在を考慮して、前期完新世アナトリア半島西部祖先系統と呼ばれます。新石器時代の状況のアナトリア半島北西部および南西部の紀元前七千年紀個体群(アクトプラクルク遺跡およびイリピナル遺跡個体を除いて)は、qpAdmを用いると、供給源として28~53%の在来のアナトリア半島西部個体群(ギルメラー遺跡もしくはアクトプラクルク遺跡個体)と、紀元前7500年頃以後のアナトリア半島中央部個体群(チャタルヒュユク遺跡個体群)でモデル化できます。

 在来の前期完新世アナトリア半島西部祖先系統が、同時代のアナトリア半島中央部個体群よりも紀元前七千年紀のアナトリア半島西部個体群の方と高い類似性を示すことも分かり、f₄形式(ヨルバ人、プナルバシュ/ギルメラー/アクトプラクルク遺跡個体;紀元前7500年前頃以降のアナトリア半島中央部個体群、紀元前7500以降のアナトリア半島西部個体群)の126回の検定すべてが正で、これらのうち56%はz得点が3超で統計的に有意でした。これらの結果が強く示唆しているのは、在来の前期完新世アナトリア半島西部祖先系統がアナトリア半島中央部および/もしくはその東方の他地域(たとえば、上メソポタミア)からの侵入者と混合し、最終的には、バデマガシ遺跡やウルカク遺跡やバルシン遺跡やバチェリェヴラー遺跡やペンディク遺跡などの村落で特定された、紀元前七千年紀の新石器時代アナトリア半島西部集団の遺伝子プールを形成したことです。

 さらに、アナトリア半島西部内のこれらの混合パターンにおける、かなりの地域的および遺跡内の異質性が観察されました。f₄検定とqpAdmモデル化とf₃検定とハプロタイプ共有分析はすべて、平均的には、アナトリア半島南西部もしくは中西部よりも北西部の方で、前期完新世アナトリア半島西部祖先系統(つまり在来)の割合が高いことを示唆しました。ギルメラー遺跡個体のゲノムの後では本論文のデータセットにおいて最古級のアナトリア半島西部個体となるウルカク遺跡個体のゲノム(紀元前6700年頃)は、同時代のアナトリア半島北西部個体のほとんどよりも低水準の在来祖先系統を有していました。分析されたアナトリア半島西部のショットガン配列の古ゲノムのうち、一部は他の個体よりも高い割合の在来祖先系統を示し、同じ遺跡内でさえ不均質でしたが、一方で、在来祖先系統の水準は個体の考古学的年代と相関していませんでした。これらの観察は全体的に、時空間両方での、在来集団との混合過程のバラツキを示しています。

 本論文の結果には、重要な示唆があります。第一に、アクトプラクルク遺跡個体のデータから、プナルバシュ遺跡個体もしくはギルメラー遺跡個体的な人口集団がアナトリア半島西部において紀元前七千年紀まで存続し、東方からの遺伝的影響は、両地域間の文化的接触にも関わらず、殆どないか皆無でした。第二に、紀元前7500~紀元前6500年頃の間に、アナトリア半島西部集団はアナトリア半島中央部および/もしくはより東方の地域からの遺伝子流動を漸進的にあるいは大規模な移動性によって受け取り、これらの侵入してきた集団はエーゲ海地域における最初の新石器時代村落への主要な人口統計学的寄与でした。第三に、アクトプラクルク遺跡個体(AKT16)のゲノムが、アナトリア半島西部新石器時代の発展における在来の関与を証明しているのに対して、アナトリア半島西部の紀元前7000年頃以後の個体群のゲノムにおける在来祖先系統との混合の痕跡は、侵入してきた集団と在来集団との間の混合を示唆しています。第四に、アナトリア半島西部の在来採食民集団は、数世紀で侵入してきた集団へと遺伝的に統合されたか、一部の集団が村民と混合せずに存続し、その後で消滅したかもしれない、と推測されます。本論文のデータでは、紀元前6500年頃以後のアナトリア半島西部の配列決定された個体(新石器時代状況の全個体)のゲノムはいずれも、ギルメラー遺跡個体もしくはアクトプラクルク遺跡個体によって表される独特な在来特性と一致しません。さらに、ヨーロッパで観察された局所的混合の長期パターン(次項で述べられます)とは対照的に、新石器時代アナトリア半島西部の遺跡の個体群における在来祖先系統の混合割合の経時的増加は観察されませんでした。


●出アナトリア半島拡大とギリシアにおける在来祖先系統との混合の欠如

 本論文のデータは、エーゲ海地域西部、つまり現在のギリシアの新石器化への新たな洞察をさらに提供します。物質文化の分析に基づいて、ギリシアはレヴァントもしくはキプロス島から海岸沿いに移動した農耕民によって植民された、と示唆した学者もいましたが、アナトリア半島起源を指摘した学者もいました。ヨーロッパ新石器時代関連の遺伝的特性が新石器時代アナトリア半島西部個体群と高度に類似していた、との観察は、次に出アナトリア半島事象を示します[25、55]。しかし、エーゲ海地域の新石器時代の前のゲノムが不足しているので、以前には、アナトリア半島西部とギリシアの初期新石器時代集団は、紀元前七千年紀までに村落生活を作用した同じ遺伝的特性の在来採食民の子孫だった、と推測されました。これは、ヨーロッパ新石器時代拡大の人口統計学的起源が、アナトリア半島ではなくヨーロッパ南東部にあったことを示唆しています。本論文の新たな結果はこのモデルを突き崩し、ヨーロッパ新石器時代的な遺伝的特性は大規模な東方からの流動性および在来集団との混合を通じてアナトリア半島西部において紀元前7000年頃以後にやって出現し(図3A)、紀元前7000年頃以前にギリシアに存在した可能性は低そうです。これらの結果は、ヨーロッパ新石器時代の拡大の人口統計学的起源がおもにアナトリア半島にあったことを、これまでで最も直接的に示唆しています。

 次に問題となるのは、そうしたヨーロッパに拡大したアナトリア半島人口集団の正確な供給源と、アナトリア半島人口集団が用いた経路です。ギリシアの紀元前6000年頃の個体群のゲノムは数ヶ所の遺跡に限られており、ギリシア北部ではレヴェニア遺跡およびネア・ニコメディア遺跡[25]とクレタ島のアポセレミス遺跡[56]です(図1)。これら3ヶ所の遺跡すべての個体群のqpAdmモデルは全体的に、以前に指摘されたように[25、56]、アナトリア半島西部の個体群と類似していました(図3)。外群f₃統計およびf₄統計も、アナトリア半島中央部と比較して、ギリシアとアナトリア半島西部との間のより高い類似性を示唆しました(図4)。以下は本論文の図4です。
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 人口統計学的つながりの研究の解像度を高めるために、0.25倍超のショットガン配列決定ゲノムと1倍超の捕獲ゲノムが補完され、これらの保管されたゲノムについてancIBD手法で、遠い近縁性についての情報をもたらす兆候である、IBDハプロタイプ共有が推定されました。紀元前6000年頃より前のギリシア北部とアナトリア半島北西部および中西部両方の個体間で、遠い関係(たとえば、20世代超離れています)を表す、8~12 cM規模の共有断片が見つかりました(図5)。同様に、ハプロタイプ共有統計に基づくクラスタ化(まとめること)は、アナトリア半島北西部および南西部との最も強い類似性を示唆しました。これらの観察は、ギリシアへの西方拡大の起源として単一のアナトリア半島の地域を特定するわけではありません。それを特定する解像度が欠けているか、エーゲ海全域の航海とトラキア経由の陸路の両方を含めて、起源は分散しているかもしれません。以下は本論文の図5です。
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 アナトリア半島からの侵入者はエーゲ海諸島およびギリシア本土で中石器時代共同体と遭遇したはずで、紀元前七千年紀およびおそらくはそれ以前までにアナトリア半島においてギリシア(メロス)の黒曜石が存在したことを考えると、すでに接触していた可能性が高そうです。ギリシアのこれら中石器時代共同体はまだ遺伝学的に標本抽出されておらず、新石器時代の前のアナトリア半島西部個体群もしくはバルカン半島中石器時代集団関連(バルカン半島HG)の遺伝子プールと類似しているかもしれません。いずれにしても、そうした在来の中石器時代集団とアナトリア半島から侵入してきた新石器時代共同体との間の混合は、ギリシアの新石器時代個体群のゲノムで遺伝学的に検出可能かもしれません(アナトリア半島中央部と比較して、アナトリア半島西部で特定された、ギルメラー遺跡個体もしくはアクトプラクルク遺跡個体的な混合の痕跡と類似しているかもしれません)。ヨーロッパ南東部のどこかで侵入してきた新石器時代共同体と在来の中石器時代集団との間の初期の遺伝的相互作用の証拠を考えると、そうした混合は予測できるかもしれません。たとえば、バルカン半島の鉄門(Iron Gates)地域のレペンスキ・ヴィール(Lepenski Vir)遺跡およびパンディナ(Padina)遺跡の紀元前6200~紀元前5900年頃の被葬者は、それぞれ24%と47%のアナトリア半島祖先系統を有している、と推定されました。

 新石器時代アナトリア半島人口集団が紀元前7000年頃以前にアナトリア半島西部で在来の採食民とまず混合し、その後でアナトリア半島西部からギリシアに拡大したならば、紀元前七千年紀のアナトリア半島西部集団の遺伝的特性を、ギリシアにおける追加の在来集団との混合を検証するための参照として使用できます。そうした追加のバルカン半島HG関連もしくはギルメラー遺跡個体関連の混合は、紀元前七千年紀から紀元前五千年紀のギリシアの個体群のゲノムでは検出されませんでした(図3および図4)。これはおそらく検出力の問題ではなく、それは、模擬実験によって混合したゲノムでqpAdmモデルを実行すると、アナトリア半島西部的背景で10%以上のバルカン半島HG関連混合を特定できるからです。ヨーロッパの南東部と南部と中央部全域の刊行されているヨーロッパ新石器時代(紀元前6000~紀元前2000年頃)の30ヶ所の遺跡からのゲノムデータでもqpAdmモデルを構築できず、これは、初期の新石器時代ギリシア関連供給源(紀元前6000年頃以前)とバルカン半島HG関連供給源との間の、バルカン半島HG供給源からの4~38%の寄与での混合を示唆しています。対照的に、ギリシアのその後(紀元前6000年頃以後)の遺跡のゲノムは、追加の祖先系統なしで、初期新石器時代ギリシア(紀元前6000年頃以前)祖先系統として単純にモデル化されました(図3)。

 これらの想定は、さまざまな調査結果を等しく説明できるかもしれません。一つの可能性は、中石器時代集団が新石器化以後のギリシアで存続したものの、大規模には新石器時代共同体と混合しなかったこと(最大で約10%)です。別の可能性は、アナトリア半島からの大規模な移民人口集団もしくは流動性の複数の事象がギリシアでは在来の中石器時代人口集団を圧倒したものの、他地域ではこの影響はなかったことです(ただ、人口集団間の遺伝的多様性の比較はそうした違いを裏づけていません)。最後に、アナトリア半島中央部もしくは上メソポタミアから到来した人口集団がアナトリア半島西部経由でギリシアに到達したものの、それはアナトリア半島西部においてギルメラー遺跡個体的な集団と混合し始める前だったかもしれません。このモデルでは、ギリシアの在来の中石器時代集団は侵入してきた新石器時代集団に完全に統合されたかもしれず、これは、アナトリア半島西部で観察された人口統計学的過程と一致します。


●エーゲ海地域の新石器化過程における人口動態から切り離された物質文化の発展

 本論文の遺伝的データが裏づける想定は、アナトリア半島西部の新石器時代はアナトリア半島中央部からの大規模な移動および在来の差異植民による新石器時代文化要素の採用とその最終的な混合によって生じた、というものです。これは、アナトリア半島西部における移住および在来集団との混合を主張した物質文化の証拠に基づく、以前の提案と一致しているようです。対照的に、目に見える遺伝的変化なしのギルメラー遺跡とザグロス地域における新石器時代の文化要素の出現は、新石器化における純粋に文化的な接触および/もしくは在来の革新の役割を示唆しています。これは、大規模で遺伝的に可視化されている流動性と遺伝的に可視化されない背景の流動性の両方が、新石器時代文化の拡大に寄与していた可能性を示唆しています。

 これらの観察から、アジア南西部とエーゲ海地域の新石器時代村落における社会文化的多様性が、その遺伝的類似性のパターンと全体的に相関している可能性(流動性と混合を反映しています)について、体系的調査が試みられました。新たな文化要素が、遺伝的データによって把握されるような、おもに大規模な移動と混合によって伝わったならば、そうした結果が得られるでしょう。あるいは、この地域の文化的パターンは、(1)純粋な文化的交流、たとえば交換網か、(2)背景移動性、つまり、族外婚や個々の動機による移動など、大規模な移動性として遺伝学的には顕著ではないかもしれない小規模な移動性か、(3)収斂的な文化変化によって形成されたかもしれません。これらの想定したで、遺伝的類似性と文化的類似性との間の相関は予測されず、それは本論文の帰無仮説です。

 最初の定性的評価は、たとえあったとしても僅かな、集落間の遺伝的類似性と文化的類似性の関係を示唆しました。たとえば、アナトリア半島中央部の黒曜石を広く用いた集落は、アナトリア半島中央部個体群と遺伝的により密接ではありませんでした。より単純な建物(半地下の円形の小屋)の存在も、より高い割合の在来(前期完新世アナトリア半島西部)遺伝的祖先系統と関連していませんでした。

 次に、これのパターンが定量的に調べられ、地理的(空間的)近さを制御しながら、村落間の社会文化期類似性と集団遺伝学的類似性の相関が計算されました。このために、紀元前9500~紀元前5800年頃の間のアジア南西部およびヨーロッパ南東部の89ヶ所の遺跡にまたがる文化的特徴が収集され、二進符号化されました。この情報は58点の特徴から構成され、文献から収集された埋葬および儀式要素や建物や土器や石器や黒曜石供給源が含まれます。このデータ行列の使用によって、遺跡のすべての組み合わせ間のジャッカード非類似度を用いての社会文化的距離が測定され、これらがその測地線距離(最短経路を表す空間距離)と比較され、データは3期間、つまり紀元前9500~紀元前8500年前頃(初期PPN)と紀元前8500~紀元前7000年頃(PPN)と紀元前7000~紀元前5800年頃(PN)に区分されました。予測されたように、社会文化的類似性は全期間で遺跡空間的近さによって説明できます。さらに、新石器時代共を通じて相関は減少しました。これは、地域間の文化的交流の強度増加を反映している可能性があり、新石器時代を通じての地域間の遺伝的混合と並行しているかもしれません[24]。

 次に、データセットが文化的データと遺伝的データを両方有している紀元前7000~紀元前5800年頃の16ヶ所の遺跡に限定されました。再び、測地線距離と文化的距離との間で、測地線距離と遺伝的距離のように、正の相関が見つかりました。遺伝的類似性は、直接的に検証した場合にも、文化的類似性と相関しました。しかし、地理の交絡効果の制御後には、遺伝的類似性は文化的類似性において有意な差異を説明しませんでした(図6)。エーゲ海地域とアナトリア半島の遺跡のみで分析を繰り返すと、各特徴群を別々に検証するか、遺伝的距離としてギルメラー遺跡個体との類似性の違いでは、結果は変わりませんでした。以下は本論文の図6です。
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 次に、遺伝的距離と空間的距離が文化的距離に同等の影響を及ぼすのかどうか、あるいは空間的距離が遺伝的距離によって表されない文化的距離に追加の影響を及ぼす可能性があるのかどうか、検証されました。これは、背景移動性が、空間的近さによって形成されるものの、村落間の遺伝的距離に反映されず、文化的パターンも形成した場合に予測されます。これを検証するために、測地線距離と文化的距離からの同じ手法を用いて、遺伝学の影響が除外されました。その結果、空間的距離と文化的距離は依然として相関していた、と分かりました。これは、遺伝的データで見えるか否かはともかく、空間的近さによって独立して構造化された移動性のさまざまな様式が、アジア南西部とエーゲ海地域の新石器時代の遺跡において観察された文化的類似性のパターンを同時に形成した、と示唆しています。

 確かに、本論文の分析は高解像度ではなく、それは一けた台の記録で何世紀にもわたる集落の居住からのデータを組み合わせているためで、遺伝的情報も新たな証拠が利用可能になるにつれて変わるかもしれません。ただ、定性的および定量的両方の分析がこの期間【初期PPN~PN】における遺伝的類似性と文化的類似性との間の不一致を示したことは注目に値します。本論文の仮説は、地域水準では社会文化的類似性のパターンは古代DNAデータによって遺伝的距離よりも急速で可塑的に発展するかもしれないので、対応関係が欠如している、というものです。


●まとめ

 本論文の拡張ゲノムデータセットは、肥沃な三日月地帯を越えての新石器時代の拡大の最初の西方への段階に関する長年の問題の解決に役立ちました。ギルメラー遺跡個体とアクトプラクルク遺跡個体のゲノム[25]の使用によって、新石器化前のアナトリア半島西部個体群の推定される在来の遺伝子プールが説明され、この在来の遺伝子プールはPPN期のアナトリア半島中央部の遺伝子プールと遺伝的に密接に関連していたものの、上メソポタミア関連祖先系統を欠いている点で異なっていました。紀元前13000~紀元前6600年頃となるプナルバシュ遺跡個体とギルメラー遺跡個体とアクトプラクルク遺跡個体の間の高い類似性は、この地域におけるそうした在来人口集団の存続によって最も節約的に説明されます。長期の連続性のこの新たなパターンは、アナトリア半島西部における絶対的な遺伝的隔離と均質性を意味せず、むしろ、移動性および混合の過程が現時点のデータでは観察されるにはあまりにも低い水準で起きたことを意味しています。ギルメラー遺跡におけるPPN関連の文化的要素の存在は、低水準の連続的な移動もしくは背景移動性によって形成された地域的な共同体間の文化的相互作用の別のあり得る事例を提供します。換言すると、遺伝的混合として識別可能な大規模な移動なしの文化的変化が見られ、それはザグロス地域における新石器化と類似しています。

 時間を進めると、紀元前七千年紀のアナトリア半島西部における新石器化には、東方からの大規模な移動性と在来集団(紀元前6600年頃のアクトプラクルク遺跡個体のゲノムによって表されます)による文化採用の両方や、両集団【東方から到来した集団と在来集団】間の混合が伴っていました。観察されたパターンはアフリカ北部[13]と類似しており、アフリカ北部では、イベリア半島からの新石器時代共同体の拡大が、在来集団における文化的変化の契機となったようです。本論文が把握している限りでは最初となる、物質文化の特徴と古代ゲノムの包括的分析を通じて、新石器時代が拡大する地域における観察された文化的異質性は、遺伝的混合パターンにおける異質性、つまり遺伝的に可視化される移動性を通じて共有された文化的要素によって説明できる、との仮説が検証されました。これについて裏づけは見つからず、空間的近さの制御後に、遺伝的類似性は文化的類似性との相関を示しません。代わりに、社会文化的類似性パターンの伝播は、埋葬慣行のような儀式要素においてさえ、少なくともエーゲ海地域の新石器化の期間においては、遺伝的混合過程よりも急速かつ流動的だったかもしれません。したがって、村落間の空間的類似性は、遺伝的類似性鉱化の除去後に依然として文化的類似性を説明する、と分かりました。これは、多様な移動性の形態が新石器時代のエーゲ海地域における文化的差異に寄与した、との見解を裏づけます。

 本論文の結果は、以下の主題についてさらなる研究を必要とします。第一に、紀元前7000年頃以前のアナトリア半島西部への遺伝子流動の地域的な供給源です。第二に、ギリシアの新石器時代人口集団における在来集団の遺伝的寄与の正確さとあり得る理由です。第三に、ギルメラー遺跡やザグロス地域のような、遺伝的混合なしでの新石器化が広く起こっていたことと、空間的近さを越えての新石器時代の村落間における社会文化的類似性と遺伝的類似性との間の相関の欠如です。これらの調査結果が提起する可能性は、地域水準では、物質文化の類似性が、大規模で遺伝的に顕著な移動性事象ではなく、交換網経由での文化伝播もしくは背景移動性によって多くの場合に説明できるかもしれないことです。大規模な移動と遺伝的混合は先史時代において、常に文化的拡大の要因だったわけではありません。


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