黄河湾曲部の後期新石器時代~鉄器時代人類集団のゲノム
黄河湾曲部の後期新石器時代~鉄器時代人類集団の遺伝的構成に関する研究(Zou et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、山西省と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部とその近隣地域にまたがる黄河湾曲部の後期新石器時代~鉄器時代の人類のゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人と比較しました。その結果、黄河湾曲部の後期新石器時代人類集団のゲノムは、高い割合の黄河中流域中期新石器時代集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、低い割合のモンゴル草原地帯集団的な祖先系統の混合としてモデル化できる、と分かりました。また、黄河湾曲部後期新石器時代の外れ値個体では、アジア東部南方からの遺伝的影響も明らかになり、この影響は後期青銅器時代~鉄器時代にも存続しました。本論文は、古代の黄河湾曲部における遠方地域からの遺伝的影響も含めて、司馬遷(Si Maqian)の『史記(Shiji)』からも窺える多様な人口集団間の相互作用を浮き彫りにしています。以下は本論文の要約図です。
略称は、PCA(principal component analysis、主成分分析)、o(outlier、外れ値)、sEA(southern East Asian、アジア東部南方)、nEA(northern East Asian、アジア東部北方)、AR(Amur River、アムール川)、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)です。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。
本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶(Yangshao)文化、龍山(Longshan)文化、廟子溝(Miaozigou)文化、阿善(A’shan)文化、石家河(Shijiahe)文化、裕民(Yumin)文化、ウランズーク(Ulaanzuukh)文化、石板墓(Slabgrave)文化、良渚(Liangzhu)文化です。本論文で取り上げられる主要な集団は、ムブティ人(Mbuti)、アミ人(Ami)、タイヤル人(Atayal)です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、新華(Xinhua、略してXH)遺跡、碾子坡(Nianzipo、略してNZP)遺跡、廟子溝(Miaozigou)遺跡、石峁(Shimao)遺跡、神圪墶梁(Shengedaliang)遺跡、裕民(Yumin)遺跡、ゾングリ(Zongri)遺跡、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡です。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事ではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事の以下の翻訳では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。
●要約
黄河湾曲部は中華文明の北方の境界地帯に位置し、中国の中原と北方の草原地帯の人口集団間の頻繁な先史時代の相互作用がありました。しかし、この地域の関連する先史時代の人口動態は、まだ充分には理解されていません。この研究では、後期新石器時代から青銅器時代~鉄器時代の23個体のゲノム規模データが生成されました。中原の仰韶文化関連祖先系統がこの地域の遺伝子プールの主要な構成要素だった、と分かりました。後期新石器時代には、黄河湾曲部人口集団はモンゴル草原地帯から不可欠な遺伝的寄与を受けました。一方で、新石器時代の外れ値は青銅器時代~鉄器時代を通じて残った、中国南部からの予期せぬ遺伝的影響を示しており、中国の南北間の長距離の遺伝的交流が示唆されます。全体的に本論文は、新石器時代以降の黄河湾曲部における中原と草原地帯と中国南部の間の複雑な古代の人口集団の相互作用を浮き彫りにします。
●研究史
黄河はチベット高原に源があり、渤海に達する5000km以上を流れ、山西省とモンゴル南部と近隣地域で大きな蹄鉄形の湾曲部を形成し、以後は黄河湾曲部と呼ばれます。黄河湾曲部は南方では中国の中原(以後、中原と呼ばれます)、つまり黄河中下流域と接しており、中原では農耕が栄え、中華文明が誕生しました。黄河湾曲部は北方ではモンゴル南部を通じてユーラシア草原地帯と接しており、ユーラシア草原地帯では畜産が盛んです。黄河湾曲部の独特な地理的位置はいわゆる農牧接壌地帯内に位置しており、農牧接壌地帯では先史時代の牧畜民と農耕民が遭遇し、交流しました。
中華文明の基盤を築いた中原における最も重要な農耕に基づく文化の一つは、仰韶文化です。仰韶文化は、年代が7000~5000年前頃(中期新石器時代)で、完新世の気候最適期に急速な発展と拡大を経ました。仰韶文化関連人口集団の拡大は遠く北方ではモンゴル南部に達し、仰韶文化関連人口集団は在来の住民と混合し、廟子溝文化(5500~5000年前頃)が形成された、と仮定されてきました。中期~後期新石器時代にかけて、中原の考古学的文化は仰韶文化から龍山文化(4500~3800年前頃)へと移行し、この期間に社会的複雑さが大きく増加し、社会階層の出現が伴いました。同時に、黄河湾曲部の古代社会は社会的複雑さを経て、廟子溝文化から阿善文化へと発展し、阿善文化は地域的な中心集落と謀議構造によって特徴づけられ、最終的には石峁文化が出現しました。石峁文化はおもに石峁遺跡および関連する衛星遺跡(4300~3800年前頃)によって定義され、中国北部の政治と文化と宗教の中心地として出現した、ひじょうに大きな石造集落です。考古学的研究は、石峁文化と廟子溝文化との間のつながりの可能性、および石峁文化関連遺跡間の文化的均一性を仮定してきましたが、文化的つながりが遺伝的つながりを反映しているのかどうか、依然として不明です。
その後、黄河湾曲部地域では、歴史的記録である『史記』(紀元前85年に司馬遷によって執筆された古代の歴史書)で述べられているように、歴史的記録における最初期の統一国家(周王朝)が紀元前1046年に勃興し、約800年間存続しました【周王朝は諸都市国家の盟主的存在で、統一国家(政体、政治形態)と評価するのは妥当ではないように思いますが】。周王朝は初期段階(西周王朝、紀元前1046~紀元前771年)と後期段階(東周王朝、紀元前770~紀元前221年)を経ており、本論文では冶金の発展のため青銅器時代~鉄器時代と呼ばれます。黄河湾曲部は先史時代(石峁遺跡)および最初期の統一国家である周王朝の中心でしたが、周以前の人々と古代周の人々のその動態は依然として不明です。
本論文では、黄河湾曲部地域の過去の人口動態に取り組むために、2ヶ所の代表的な考古学的遺跡に焦点が当てられます(図1)。新華遺跡は石峁遺跡から20km離れた場所に位置しており、中国北部の石峁遺跡における最初の先史時代国家の衛星都市と考えられており、石峁都市で発見されたものと同様の類似した様式の翡翠と土器を共有しています。碾子坡遺跡は、その住民が農耕と畜産の両方を行なっており、周王朝の出現と関連している、と仮定されています。合計で、新華遺跡(4100~3850年前頃、後期新石器時代)と碾子坡遺跡(3000~2200年前頃、周王朝、青銅器時代~鉄器時代)の23個体の全ゲノムデータが生成され、そのうち16個体からは汚染のない充分な量のゲノムデータが得られました。以下は本論文の図1です。
まず、ソフトウェアREADで新たに報告された個体間の近縁性が推定され、Haplogrep3とYleafでミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が割り当てられました。新華遺跡と碾子坡遺跡の両方の個体群のmtHgはかなり多様で、mtHg-D4がより一般的と分かり、これは石峁都市の古代の個体群に関する以前のミトコンドリア研究と一致します。新華遺跡と碾子坡遺跡の男性のYHgはQ1a1aとO2a2b1a1a1a2とC2b1と分かり、O2a2b1a1a1a2とC2b1は現在の中国における優勢な父系ハプログループを表しています。個体G71403は女性で、ミトコンドリアのハプロタイプがG2a4である一方で、個体G7140の2親等の女性親族2個体であるG71402とG80604は親族関係になく、それぞれ異なるミトコンドリアハプロタイプ(F2gとD4i)を有していることも注目され、家族内の、母系ではなく父系を通じての遺伝的つながりの可能性が示唆されます。親族関係の個体の除外後に、下流集団遺伝学的分析で14個体が保持されました。全体的に、新たに生成されたデータを刊行されているアジア東部古代人の遺伝的景観と統合することによって、モンゴル草原地帯とアジア東部南方と中原農耕民の人口集団間の、先史時代の人口相互作用の包括的な状況が提供されました。
●黄河湾曲部における仰韶文化関連遺伝的祖先系統の優勢
考古学的記録では、1921年に中原の河南省で最初に発見された仰韶文化は、中国における最も有名で広範な先史時代の新石器文化で、周辺に拡大し、万里の長城と中国南部の長江中流域との間の広範な土地に影響を及ぼしました。仰韶文化特有の特徴である彩陶は、中原の北側の地域でも見つかっており、それには黄土高原とモンゴル南部が含まれます。しかし、仰韶文化の文化的影響が黄土高原の土器製作技術のみに影響を及ぼしたのかどうか、あるては、土器製作技術の拡大には遺伝子流動も伴っていたのかどうかは、依然として不明です。
本論文では、黄土高原の新たに報告された後期新石器時代人口集団(XH_LN)は、石峁文化関連人口集団の古代の人口集団や、中原の古代の仰韶文化関連人口集団(黄河_MN)と強い遺伝的類似性を共有している、と分かりました。予測通り、黄土高原の近隣の新石器時代の石峁文化関連の2人口集団(石峁_LN、廟子溝_MN)[20]も、外群f₃統計では黄河_MNとも高い遺伝的類似性を共有しています。
石峁文化が黄河の上流域と中流域の間に位置していることを考えて、さらなる分析が実行され、黄河上流域人口集団と新石器時代の石峁文化関連人口集団との間で共有された遺伝的類似性から生じた偽陽性の可能性を除外するために、石峁文化関連人口集団(XH_LN、石峁_LN、廟子溝_MN)と黄河_MN の間で検出された密接な遺伝的類似性が、黄河の上流域と中流域の人口集団間で共有された遺伝子プールに起因していたのかどうか、検証されました。ゾングリ遺跡の5100年前頃の個体[21]を黄河上流域の古代の人口集団の代理として用いて、f₄統計(XH_LN/石峁_LN、黄河上流域集団;黄河中流域集団、ムブティ人)に基づくと、XH_LNと石峁_LNは黄河上流域人口集団とよりも黄河中流域人口集団の方と密接な遺伝的類似性をじっさいに共有しており、これは、外群f₃分析に基づく、XH_LNと石峁_LNは古代の黄河中流域人口集団(仰韶文化関連)と高い遺伝的類似性を共有している、という事実によって裏づけられる、と分かりました。
●黄河湾曲部での後期新石器時代および青銅器時代~鉄器時代にわたる南方の遺伝的祖先系統
新華遺跡の古代人の新たに生成された全ゲノムデータで、後期新石器時代の黄河湾曲部においてアジア東部南方からの影響が検出されました。南方からの影響は龍山文化期までに中原に到達していましたが[20]、そうした遺伝的影響が黄河湾曲部などより北方の地域にも及んでいたDNA証拠はありませんでした。本論文では、PCA上において、外れ値2個体(XH_LN_o、XH_LN_o1)が黄河中流域人口集団と南方人口集団の間に位置し、XH_LNの主要クラスタ(まとまり)から逸れていることが分かりました(図2)。以下は本論文の図2です。
XH_LN_oとXH_LN_o1とXH_LNとの間のそうした遺伝的差異は、対でのf₄統計および1方向qpWave検定によってさらに統計的に確証できます。f₄統計(アミ人、黄河_MN;X、ムブティ人)およびf₄統計(AR_EN、黄河_MN;X、ムブティ人)では、X人口集団としてXH_LNとXH_LN_oとXH_LN_o1とNZP_LBIAが検証されて、XH_LN_oとXH_LN_o1についてそうした南方からの遺伝的影響が検出され、それは両者とも黄河_MNとよりも現代のアジア東部南方人口集団(アミ人)の方と遺伝的により近いように見えるからです。外群f₃統計では、XH_LN_oはアミ人とも高い遺伝的類似性を共有しています。負の。f₄統計(XH_LN/石峁_LN、XH_LN_o;アジア東部南方集団、ムブティ人)はさらに、XH_LNと比較しての、アジア東部南方人口集団とXH_LN_oとの間の余分な共有された遺伝的類似性を示唆しています。qpAdmモデル化の結果では、XH_LNとは異なりXH_LN_oでは北方祖先系統が存在せず、代わりに、XH_LN_oはその祖先系統のほぼ半分が黄河_MN(58.6%)に由来し、他のもう半分の祖先系統はアジア東部南方人口集団に由来する、と示されます。とくに、XH_LN_oは中原の黄河_LNで見られる南方からの遺伝的影響[20]とは異なる古代の人口混合事象を示しており、それは、黄河_LNの北方800km以上に位置するXH_LN_oが、黄河_LNよりも40%以上多い南方祖先系統を有しているからです。以下は本論文の図3です。
XH_LN_oと同様にXH_LN_o1もPCAではXH_LNの主要クラスタから逸れていますが、XH_LN_oほどアジア東部南方人に近いわけではありません(図2)。ADMIXTUREの結果では、XH_LN_o1はXH_LNとXH_LN_oの中間で、アジア東部南方人で最大化される緑色の構成要素を有しています(図2)。f₄統計(XH_LN/石峁_LN、XH_LN_o1;参照、ムブティ人)で示されるように、最小の負の統計量の参照人口集団は、ほぼアジア東部南方人です。しかし、f₄統計(XH_LN_o、XH_LN_o1;参照、ムブティ人)およびf₄統計(XH_LN_o1/ XH_LN_o、黄河_MN/黄河_LN;参照、ムブティ人)で示されるように、XH_LN_o1はXH_LN_oよりもアジア東部南方人口集団と共有している遺伝的浮動は少ない、と分かりました。XH_LN_oについて同じモデル化戦略を用いると、中原祖先系統として黄河_MNおよびアジア東部南方祖先系統としてsEA_内陸_LNで、XH_LN_o1は黄河_MN祖先系統(81.7%)とアジア東部南方祖先系統(18.3%)の混合としてモデル化できます(図3)。DATESを用いると、アジア東部南方祖先系統との混合は、XH_LN_o1の69±17世代前(1世代29年と仮定すると、2001±493年前)頃と推定されました。
さらに、この南方祖先系統は、黄河湾曲部内で【新華遺跡よりも】さらに南方に位置する碾子坡遺跡で検出されたことが分かりました。碾子坡遺跡の後期青銅器時代/鉄器時代人口集団(NZP_LBIA)について、外群f₃統計はXH_LN_o1/およびアジア東部北方人口集団との高い遺伝的類似性を明らかにしました。より古い期間のXH_LN/石峁_LN と比較すると、NZP_LBIAとアジア東部南方人との間の遺伝的類似性は、負のf₄統計(XH_LN/石峁_LN、NZP_LBIA;アミ人、ムブティ人)によっても裏づけられます。黄河上流域集団である黄河上流_IAと比較すると、NZP_LBIAはアジア東部南方集団とより多くの類似性を共有しているようですが、NZP_LBIAよりさらに南方に位置する同時代の集団である黄河_LBIAと比較すると、黄河_LBIAは古代の中国南部集団と同様の遺伝的類似性を示します。qpAdmモデル化を用いると、NZP_LBIAは97.6±5.7%の黄河_MNと2.4±5.7%のアミ人、あるいは、88.4±5%のXH_LNと11.6±5%のアミ人でモデル化できる、と分かり、後者の方が、黄河_MNとNZP_LBIAとの間の時空間的距離と比較してのXH_LNとNZP_LBIAとの間の時空間的距離を考えると、より近位的です。全体的に、XH_LN_oとXH_LN_o1とNZP_LBIAは、XH_LNや石峁_LNや黄河_MNと比較して、アジア東部南方人から一定の遺伝的寄与を受けた、と示されました。先行研究[20]では、中原において仰韶文化に続く文化(龍山文化)は仰韶文化関連人口集団と比較して一定の南方からの遺伝子流動を受けていた、と明らかになっており、本論文では、そうした南方からの遺伝的影響はさらに北方にまで達しており、で、最北では以前に見つかっていたよりも800km以上北方のユーラシア草原地帯の終焉地域にまで及んでいた、と提案されます。
●黄河湾曲部における考古学的文化の類似性と似ている遺伝的類似性
中国北部における最も有名な先史時代国家の一つとして、石峁文化は黄河湾曲部全域のさまざまな考古学的遺跡に広がっていました。本論文では3ヶ所の考古学的遺跡の人口集団が調べられ、それには石峁文化と関連する新華遺跡および神圪墶梁遺跡と、石峁文化に先行する文化(廟子溝文化)と関連する廟子溝遺跡が含まれます。PCAから、アジア東部人口集団はアジア北東部関連とアジア東部南方関連とチベット関連の人口集団が3門となる三角形を形成した、と示されました。アジア南東部の沿岸部および内陸部の古代の個体群はクラスタ化し(まとまり)、アジア南東部人口集団(アミ人やタイヤル人など)の近くに、ユーラシア草原地帯の古代の個体群はアジア北東部関連のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団によって形成される勾配の近くに、ネパールの古代の個体群はチベット関連人口集団の近くに投影されました。黄河中流域の古代の人口集団は、これら三つの遺伝的勾配の交点に位置します。調査された3集団、つまりXH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNはともにクラスタ化し、黄河中流域の古代の人口集団が収まる主成分(PC)空間に位置します(図2)。
PCAクラスタ化パターンと一致して、XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNの間の遺伝的類似性は外群f₃統計でも明らかで、相互と密接な遺伝的類似性を共有しています。対称性f₄検定(XH_LN、石峁_LN/廟子溝_MN;参照、ムブティ人)では、検証された参照人口集団がXH_LNと石峁_LN/廟子溝_MNとの間の遺伝的対称性を統計的に破ることはなく、検証人口集団はXH_LNおよび石峁_LN/廟子溝_MNと等しく近い、と示唆され、XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNの間の遺伝的類似性が確証されます。qpWave検定はさらに、石峁_LNとXH_LNの間の遺伝的単系統群性を裏づけ、つまり石峁_LNとXH_LNの祖先系統は同じ供給源に由来する可能性が高いわけです。
ADMIXTURE分析では、黄河湾曲部のXH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNは古代黄河中流域農耕民(黄河_MN、黄河_LN)と類似した遺伝的構成要素を共有している、と明らかになりました。古代の黄河人口集団および現代のチベット・ビルマ語派話者人口集団で最大化される赤色と青色の構成要素は、その類似性を強調しています(図2)。ここでは、XH_LN/石峁_LN/廟子溝_MNと黄河_MNとの間で見つかった密接な遺伝的つながりは、黄河湾曲部の古代の石峁文化関連人口集団および廟子溝文化関連人口集団と中原の仰韶文化関連の人々の間の密接に関連した遺伝的特性を明らかにしました。
●黄河湾曲部における北方の草原地帯と中原農耕民との間の相互作用
黄河湾曲部の古代の人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)と中原の仰韶文化関連の人々(黄河_MN、黄河_LN)との間の遺伝的類似性にも関わらず、両者の起源は単一の祖先供給源ではありません。XH_LN/石峁_LN/廟子溝_MNと黄河_MNと黄河_MN/黄河_LNとの間の遺伝的均質性検定は、qpAdm検定では統計的に却下されます。どのような人口相互作用がこれを引き起こしたのか、依然として不明です。考古学的研究では、5000~4000年前頃となる黄河湾曲部で発掘された人工遺物の一部は、ユーラシア草原地帯の人工遺物とも類似した文化的特徴を共有している、と示されてきました。
モンゴル南部はユーラシア草原地帯の一部として、黄河湾曲部に隣接しています。そこで、モンゴル南部では最古級で唯一の利用可能な新石器時代人口集団である裕民(Yumin)文化の古代の人口集団(nEA_内陸_LN、8400年前頃)[25]が、ユーラシア草原地帯祖先系統の代理として用いられました。正のf₄統計(XH_LN/石峁_LN、黄河_MN;nEA_内陸_LN、ムブティ人)は、XH_LN/石峁_LNとモンゴル南部にかつて存在した北方の新石器時代の祖先との間の遺伝的つながりの可能性が高い、と示唆しました。このモンゴルにおいて存在したかもしれない北方新石器時代祖先系統は以後、黄河湾曲部の北側に位置することを考慮して、北方草原地帯祖先系統と呼ばれます。
黄河湾曲部における北方草原地帯祖先系統の可能性をさらに定量化するために、代理としてnEA_内陸_LNだけではなく、潜在的な代理としてモンゴル草原地帯で優勢だった中期~後期青銅器時代人口集団(ウランズーク_石板墓)と草原地帯の境界に位置する新石器時代アジア北東部人(HMMH_MN、AR_EN、AR_N)も検証されました。中原祖先系統供給源としての黄河_MNと、北方草原地帯祖先系統としての上述の古代の代理を用いての2供給源qpAdm検定では、XH_LNにおける北方草原地帯祖先系統の推定割合は一貫して約10~20%です。さらに、黄河_MNと北方草原地帯祖先系統との間の混合では、同じ石峁関連考古学的文化背景の3人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)の遺伝的起源の説明に成功し、そのうち廟子溝_MNの祖先系統が最も高い割合(31.5±6.5%)で草原地帯祖先系統に由来します(図3)。廟子溝_MNにおける相対的により高い割合の草原地帯祖先系統は、この人口集団の相対的に北方の地理的位置と相関しており、石峁_LNおよびXH_LNと比較すると、モンゴル草原地帯のより近くに位置しています(図1および図3)。以前の考古学的研究では、農牧接壌地帯の形成は4500年前頃(仰韶文化後期)に始まり、アジア北東部から黄河湾曲部地域にまで広がった、と提案されてきました。考古学的証拠とは独立して古代DNAの証拠を用いると、北方草原地帯祖先系統は新石器時代の黄河湾曲部人口集団のゲノム形成にきわめて重要な役割を果たした、と論証されました。
●考察
紀元前五千年紀は、中華文明の出現、および多様でまだ統合されていない考古学的枠組みの形成にきわめて重要な期間を表しており、これには黄河地域における社会的複雑さの顕著な増加が伴っています。この研究では、中華文明の北方の境界の住民だった、辺境黄河湾曲部における後期新石器時代および青銅器時代~鉄器時代の古代の2人口集団のゲノム規模データが生成されました。この地域が、中原からの農耕民と北方の遊牧民の遭遇した場所として広く認識されているにも関わらず、以前のミトコンドリア研究は古代の黄河湾曲部人口集団(石峁文化)と先行する仰韶文化関連人口集団との間の高い母系の遺伝的類似性を明らかにしました。石峁文化、とくに石峁都市は、中国における最良に保存されている先史時代の宮殿構造遺跡の一つを表しており、その高度に発達した文明段階が国家権力の出現と関連していたことを示唆する点で、歴史的意義を有しています。
本論文では全ゲノム水準で、石峁文化の一部としての新華遺跡の新たに調査された古代の人口集団は、他の石峁文化関連人口集団と高い遺伝的類似性を記す、と論証されます。石峁遺跡で発見された構造化された石造建築物や、新華遺跡で発見された翡翠(権力と社会的地位の象徴)で満たされた土坑墓など、顕著な石峁関連文化要素が見つかったことを考えると、そうした遺伝的類似性は石峁関連の文化的背景の古代人の相対的に上流階層の社会的地位を反映しており、そうした人々は古代の階層的に組織化された集落精度の支配層の社会的階級内で遺伝的均質性を維持していた可能性が高そうです。
さらに、石峁文化関連の古代の人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)間では、中原祖先系統が優勢な遺伝的構成要素であり続けています。黄河湾曲部にまで至る中原祖先系統のそうした拡散は、新石器時代の仰韶文化およびその後の龍山文化の仮定された拡大を裏づけます。黄河湾曲部における共有された中原祖先系統は、石峁文化関連の古代の人口集団間の観察された遺伝的類似性も説明します。
注目すべきことに、新石器時代黄河湾曲部人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)において、北方草原地帯祖先系統の不可欠の遺伝的影響が見つかりました。この遺伝学的証拠は、中国北部の農牧接壌地帯の形成が紀元前四千年紀に始まった、との考古学的仮説と整合します。新石器時代黄河湾曲部人口集団における北方草原地帯祖先系統の影響は黄河中流域農耕民ほど顕著ではありませんが、黄河湾曲部が後期新石器時代以降に北方草原地帯との人口接触の境界地帯だったことを論証しています。石峁文化関連遺跡群で発見された、石像と青銅器とヒツジやウシなどの家畜化された動物遺骸を含めて考古学的証拠は、その当時のユーラシア草原地帯との牧畜文化の交流の可能性も示唆しています。
本論文で特定された最も顕著な地域間の人口集団摂食は、新石器時代にさかのぼる中国の南北間の長距離の先史時代の人口集団の接触です。この調査結果は、黄河湾曲部とモンゴル草原地帯との間など、通常は近隣の地理的地帯間で起きた人口集団の接触に関する以前の理解を洗練します。本論文は、新華遺跡で特定された遺伝的外れ値によって証明されたように、黄河湾曲部と中国南部との間のつながりについて、明確な遺伝学的証拠を報告しました。それにも関わらず、これらアジア東部南方人が黄河湾曲部にどのように影響を及ぼしたのか、これら南方の人々はどの移住経路をたどったのか、といった問題は依然として不明です。
考古学的研究は、石峁文化と中国南部、具体的には長江下流域(上海の近く)の良渚文化(後期新石器時代の中国南部における有名な地域的な初期国家の中心地)および長江中流域(武漢の近く)の石家河以後の文化の翡翠製人工遺物間のいくらかの類似性を提案してきました。しかし、翡翠の交換が遺伝子の交換と類似しているのかどうか、まだ判断できません。将来の研究では、近隣地域のより多くの古代DNAデータおよび新たな考古学的資料が、局所的な遺伝的景観と地域的な文化的交流現象をさらに解明し、本論文で検出された外れ値が個別事例なのか、それとも一般的現象を表しているのかどうか、さらに論証できるかもしれない、と期待されます。全体的に本論文は、黄河湾曲部で中華文明出現の最初期段階において、北方草原地帯および中国南部祖先系統と起きた、ゲノム規模水準での大きな人口集団の相互作用を浮き彫りにします。
●この研究の限界
より多くの古代ゲノム規模データの生成と、最先端の分析的方法論の適用によって、アジア東部の南北間の長距離の人口集団接触の証拠が明らかになります。しかし、この研究にはいくつかの限界が残っています。中国北部の新石器時代DNAデータの不足は、新たに報告された古代人集団とその近隣もしくは先行する人口集団との間の直接的な遺伝的比較を妨げてきました。第一に、アジア東部北方祖先系統の供給源の地理的分布がまだ充分には研究されていません。本論文で特定されたモンゴル草原地帯の供給源[25]は、現在の知識より広く分布していたかもしれず、その場合には、新華遺跡集団が近隣もしくは先行する集団からアジア東部北方祖先系統を獲得した可能性を除外できません。第二に、アジア東部南方古代人が中国北部に影響を及ぼした過程は依然として不明です。ここでの南方からの影響の兆候の一般化可能性をさらに検証するためには、より多くの古代DNAデータが必要です。第三に、考古学的遺跡は部分的にしか標本抽出されておらず、それによって古代の共同体全体の過小評価につながっているかもしれません。
参考文献:
Zou Y. et al.(2025): Ancient genomes from the Yellow River Bend reveal long-distance population interactions between the Central Plains, Steppe, and southern China. Cell Reports, 44, 8, 116034.
https://doi.org/10.1016/j.celrep.2025.116034
[20]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事
[21]Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.
https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582
関連記事
[25]Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
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略称は、PCA(principal component analysis、主成分分析)、o(outlier、外れ値)、sEA(southern East Asian、アジア東部南方)、nEA(northern East Asian、アジア東部北方)、AR(Amur River、アムール川)、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)です。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。
本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶(Yangshao)文化、龍山(Longshan)文化、廟子溝(Miaozigou)文化、阿善(A’shan)文化、石家河(Shijiahe)文化、裕民(Yumin)文化、ウランズーク(Ulaanzuukh)文化、石板墓(Slabgrave)文化、良渚(Liangzhu)文化です。本論文で取り上げられる主要な集団は、ムブティ人(Mbuti)、アミ人(Ami)、タイヤル人(Atayal)です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、新華(Xinhua、略してXH)遺跡、碾子坡(Nianzipo、略してNZP)遺跡、廟子溝(Miaozigou)遺跡、石峁(Shimao)遺跡、神圪墶梁(Shengedaliang)遺跡、裕民(Yumin)遺跡、ゾングリ(Zongri)遺跡、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡です。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事ではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事の以下の翻訳では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。
●要約
黄河湾曲部は中華文明の北方の境界地帯に位置し、中国の中原と北方の草原地帯の人口集団間の頻繁な先史時代の相互作用がありました。しかし、この地域の関連する先史時代の人口動態は、まだ充分には理解されていません。この研究では、後期新石器時代から青銅器時代~鉄器時代の23個体のゲノム規模データが生成されました。中原の仰韶文化関連祖先系統がこの地域の遺伝子プールの主要な構成要素だった、と分かりました。後期新石器時代には、黄河湾曲部人口集団はモンゴル草原地帯から不可欠な遺伝的寄与を受けました。一方で、新石器時代の外れ値は青銅器時代~鉄器時代を通じて残った、中国南部からの予期せぬ遺伝的影響を示しており、中国の南北間の長距離の遺伝的交流が示唆されます。全体的に本論文は、新石器時代以降の黄河湾曲部における中原と草原地帯と中国南部の間の複雑な古代の人口集団の相互作用を浮き彫りにします。
●研究史
黄河はチベット高原に源があり、渤海に達する5000km以上を流れ、山西省とモンゴル南部と近隣地域で大きな蹄鉄形の湾曲部を形成し、以後は黄河湾曲部と呼ばれます。黄河湾曲部は南方では中国の中原(以後、中原と呼ばれます)、つまり黄河中下流域と接しており、中原では農耕が栄え、中華文明が誕生しました。黄河湾曲部は北方ではモンゴル南部を通じてユーラシア草原地帯と接しており、ユーラシア草原地帯では畜産が盛んです。黄河湾曲部の独特な地理的位置はいわゆる農牧接壌地帯内に位置しており、農牧接壌地帯では先史時代の牧畜民と農耕民が遭遇し、交流しました。
中華文明の基盤を築いた中原における最も重要な農耕に基づく文化の一つは、仰韶文化です。仰韶文化は、年代が7000~5000年前頃(中期新石器時代)で、完新世の気候最適期に急速な発展と拡大を経ました。仰韶文化関連人口集団の拡大は遠く北方ではモンゴル南部に達し、仰韶文化関連人口集団は在来の住民と混合し、廟子溝文化(5500~5000年前頃)が形成された、と仮定されてきました。中期~後期新石器時代にかけて、中原の考古学的文化は仰韶文化から龍山文化(4500~3800年前頃)へと移行し、この期間に社会的複雑さが大きく増加し、社会階層の出現が伴いました。同時に、黄河湾曲部の古代社会は社会的複雑さを経て、廟子溝文化から阿善文化へと発展し、阿善文化は地域的な中心集落と謀議構造によって特徴づけられ、最終的には石峁文化が出現しました。石峁文化はおもに石峁遺跡および関連する衛星遺跡(4300~3800年前頃)によって定義され、中国北部の政治と文化と宗教の中心地として出現した、ひじょうに大きな石造集落です。考古学的研究は、石峁文化と廟子溝文化との間のつながりの可能性、および石峁文化関連遺跡間の文化的均一性を仮定してきましたが、文化的つながりが遺伝的つながりを反映しているのかどうか、依然として不明です。
その後、黄河湾曲部地域では、歴史的記録である『史記』(紀元前85年に司馬遷によって執筆された古代の歴史書)で述べられているように、歴史的記録における最初期の統一国家(周王朝)が紀元前1046年に勃興し、約800年間存続しました【周王朝は諸都市国家の盟主的存在で、統一国家(政体、政治形態)と評価するのは妥当ではないように思いますが】。周王朝は初期段階(西周王朝、紀元前1046~紀元前771年)と後期段階(東周王朝、紀元前770~紀元前221年)を経ており、本論文では冶金の発展のため青銅器時代~鉄器時代と呼ばれます。黄河湾曲部は先史時代(石峁遺跡)および最初期の統一国家である周王朝の中心でしたが、周以前の人々と古代周の人々のその動態は依然として不明です。
本論文では、黄河湾曲部地域の過去の人口動態に取り組むために、2ヶ所の代表的な考古学的遺跡に焦点が当てられます(図1)。新華遺跡は石峁遺跡から20km離れた場所に位置しており、中国北部の石峁遺跡における最初の先史時代国家の衛星都市と考えられており、石峁都市で発見されたものと同様の類似した様式の翡翠と土器を共有しています。碾子坡遺跡は、その住民が農耕と畜産の両方を行なっており、周王朝の出現と関連している、と仮定されています。合計で、新華遺跡(4100~3850年前頃、後期新石器時代)と碾子坡遺跡(3000~2200年前頃、周王朝、青銅器時代~鉄器時代)の23個体の全ゲノムデータが生成され、そのうち16個体からは汚染のない充分な量のゲノムデータが得られました。以下は本論文の図1です。
まず、ソフトウェアREADで新たに報告された個体間の近縁性が推定され、Haplogrep3とYleafでミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)が割り当てられました。新華遺跡と碾子坡遺跡の両方の個体群のmtHgはかなり多様で、mtHg-D4がより一般的と分かり、これは石峁都市の古代の個体群に関する以前のミトコンドリア研究と一致します。新華遺跡と碾子坡遺跡の男性のYHgはQ1a1aとO2a2b1a1a1a2とC2b1と分かり、O2a2b1a1a1a2とC2b1は現在の中国における優勢な父系ハプログループを表しています。個体G71403は女性で、ミトコンドリアのハプロタイプがG2a4である一方で、個体G7140の2親等の女性親族2個体であるG71402とG80604は親族関係になく、それぞれ異なるミトコンドリアハプロタイプ(F2gとD4i)を有していることも注目され、家族内の、母系ではなく父系を通じての遺伝的つながりの可能性が示唆されます。親族関係の個体の除外後に、下流集団遺伝学的分析で14個体が保持されました。全体的に、新たに生成されたデータを刊行されているアジア東部古代人の遺伝的景観と統合することによって、モンゴル草原地帯とアジア東部南方と中原農耕民の人口集団間の、先史時代の人口相互作用の包括的な状況が提供されました。
●黄河湾曲部における仰韶文化関連遺伝的祖先系統の優勢
考古学的記録では、1921年に中原の河南省で最初に発見された仰韶文化は、中国における最も有名で広範な先史時代の新石器文化で、周辺に拡大し、万里の長城と中国南部の長江中流域との間の広範な土地に影響を及ぼしました。仰韶文化特有の特徴である彩陶は、中原の北側の地域でも見つかっており、それには黄土高原とモンゴル南部が含まれます。しかし、仰韶文化の文化的影響が黄土高原の土器製作技術のみに影響を及ぼしたのかどうか、あるては、土器製作技術の拡大には遺伝子流動も伴っていたのかどうかは、依然として不明です。
本論文では、黄土高原の新たに報告された後期新石器時代人口集団(XH_LN)は、石峁文化関連人口集団の古代の人口集団や、中原の古代の仰韶文化関連人口集団(黄河_MN)と強い遺伝的類似性を共有している、と分かりました。予測通り、黄土高原の近隣の新石器時代の石峁文化関連の2人口集団(石峁_LN、廟子溝_MN)[20]も、外群f₃統計では黄河_MNとも高い遺伝的類似性を共有しています。
石峁文化が黄河の上流域と中流域の間に位置していることを考えて、さらなる分析が実行され、黄河上流域人口集団と新石器時代の石峁文化関連人口集団との間で共有された遺伝的類似性から生じた偽陽性の可能性を除外するために、石峁文化関連人口集団(XH_LN、石峁_LN、廟子溝_MN)と黄河_MN の間で検出された密接な遺伝的類似性が、黄河の上流域と中流域の人口集団間で共有された遺伝子プールに起因していたのかどうか、検証されました。ゾングリ遺跡の5100年前頃の個体[21]を黄河上流域の古代の人口集団の代理として用いて、f₄統計(XH_LN/石峁_LN、黄河上流域集団;黄河中流域集団、ムブティ人)に基づくと、XH_LNと石峁_LNは黄河上流域人口集団とよりも黄河中流域人口集団の方と密接な遺伝的類似性をじっさいに共有しており、これは、外群f₃分析に基づく、XH_LNと石峁_LNは古代の黄河中流域人口集団(仰韶文化関連)と高い遺伝的類似性を共有している、という事実によって裏づけられる、と分かりました。
●黄河湾曲部での後期新石器時代および青銅器時代~鉄器時代にわたる南方の遺伝的祖先系統
新華遺跡の古代人の新たに生成された全ゲノムデータで、後期新石器時代の黄河湾曲部においてアジア東部南方からの影響が検出されました。南方からの影響は龍山文化期までに中原に到達していましたが[20]、そうした遺伝的影響が黄河湾曲部などより北方の地域にも及んでいたDNA証拠はありませんでした。本論文では、PCA上において、外れ値2個体(XH_LN_o、XH_LN_o1)が黄河中流域人口集団と南方人口集団の間に位置し、XH_LNの主要クラスタ(まとまり)から逸れていることが分かりました(図2)。以下は本論文の図2です。
XH_LN_oとXH_LN_o1とXH_LNとの間のそうした遺伝的差異は、対でのf₄統計および1方向qpWave検定によってさらに統計的に確証できます。f₄統計(アミ人、黄河_MN;X、ムブティ人)およびf₄統計(AR_EN、黄河_MN;X、ムブティ人)では、X人口集団としてXH_LNとXH_LN_oとXH_LN_o1とNZP_LBIAが検証されて、XH_LN_oとXH_LN_o1についてそうした南方からの遺伝的影響が検出され、それは両者とも黄河_MNとよりも現代のアジア東部南方人口集団(アミ人)の方と遺伝的により近いように見えるからです。外群f₃統計では、XH_LN_oはアミ人とも高い遺伝的類似性を共有しています。負の。f₄統計(XH_LN/石峁_LN、XH_LN_o;アジア東部南方集団、ムブティ人)はさらに、XH_LNと比較しての、アジア東部南方人口集団とXH_LN_oとの間の余分な共有された遺伝的類似性を示唆しています。qpAdmモデル化の結果では、XH_LNとは異なりXH_LN_oでは北方祖先系統が存在せず、代わりに、XH_LN_oはその祖先系統のほぼ半分が黄河_MN(58.6%)に由来し、他のもう半分の祖先系統はアジア東部南方人口集団に由来する、と示されます。とくに、XH_LN_oは中原の黄河_LNで見られる南方からの遺伝的影響[20]とは異なる古代の人口混合事象を示しており、それは、黄河_LNの北方800km以上に位置するXH_LN_oが、黄河_LNよりも40%以上多い南方祖先系統を有しているからです。以下は本論文の図3です。
XH_LN_oと同様にXH_LN_o1もPCAではXH_LNの主要クラスタから逸れていますが、XH_LN_oほどアジア東部南方人に近いわけではありません(図2)。ADMIXTUREの結果では、XH_LN_o1はXH_LNとXH_LN_oの中間で、アジア東部南方人で最大化される緑色の構成要素を有しています(図2)。f₄統計(XH_LN/石峁_LN、XH_LN_o1;参照、ムブティ人)で示されるように、最小の負の統計量の参照人口集団は、ほぼアジア東部南方人です。しかし、f₄統計(XH_LN_o、XH_LN_o1;参照、ムブティ人)およびf₄統計(XH_LN_o1/ XH_LN_o、黄河_MN/黄河_LN;参照、ムブティ人)で示されるように、XH_LN_o1はXH_LN_oよりもアジア東部南方人口集団と共有している遺伝的浮動は少ない、と分かりました。XH_LN_oについて同じモデル化戦略を用いると、中原祖先系統として黄河_MNおよびアジア東部南方祖先系統としてsEA_内陸_LNで、XH_LN_o1は黄河_MN祖先系統(81.7%)とアジア東部南方祖先系統(18.3%)の混合としてモデル化できます(図3)。DATESを用いると、アジア東部南方祖先系統との混合は、XH_LN_o1の69±17世代前(1世代29年と仮定すると、2001±493年前)頃と推定されました。
さらに、この南方祖先系統は、黄河湾曲部内で【新華遺跡よりも】さらに南方に位置する碾子坡遺跡で検出されたことが分かりました。碾子坡遺跡の後期青銅器時代/鉄器時代人口集団(NZP_LBIA)について、外群f₃統計はXH_LN_o1/およびアジア東部北方人口集団との高い遺伝的類似性を明らかにしました。より古い期間のXH_LN/石峁_LN と比較すると、NZP_LBIAとアジア東部南方人との間の遺伝的類似性は、負のf₄統計(XH_LN/石峁_LN、NZP_LBIA;アミ人、ムブティ人)によっても裏づけられます。黄河上流域集団である黄河上流_IAと比較すると、NZP_LBIAはアジア東部南方集団とより多くの類似性を共有しているようですが、NZP_LBIAよりさらに南方に位置する同時代の集団である黄河_LBIAと比較すると、黄河_LBIAは古代の中国南部集団と同様の遺伝的類似性を示します。qpAdmモデル化を用いると、NZP_LBIAは97.6±5.7%の黄河_MNと2.4±5.7%のアミ人、あるいは、88.4±5%のXH_LNと11.6±5%のアミ人でモデル化できる、と分かり、後者の方が、黄河_MNとNZP_LBIAとの間の時空間的距離と比較してのXH_LNとNZP_LBIAとの間の時空間的距離を考えると、より近位的です。全体的に、XH_LN_oとXH_LN_o1とNZP_LBIAは、XH_LNや石峁_LNや黄河_MNと比較して、アジア東部南方人から一定の遺伝的寄与を受けた、と示されました。先行研究[20]では、中原において仰韶文化に続く文化(龍山文化)は仰韶文化関連人口集団と比較して一定の南方からの遺伝子流動を受けていた、と明らかになっており、本論文では、そうした南方からの遺伝的影響はさらに北方にまで達しており、で、最北では以前に見つかっていたよりも800km以上北方のユーラシア草原地帯の終焉地域にまで及んでいた、と提案されます。
●黄河湾曲部における考古学的文化の類似性と似ている遺伝的類似性
中国北部における最も有名な先史時代国家の一つとして、石峁文化は黄河湾曲部全域のさまざまな考古学的遺跡に広がっていました。本論文では3ヶ所の考古学的遺跡の人口集団が調べられ、それには石峁文化と関連する新華遺跡および神圪墶梁遺跡と、石峁文化に先行する文化(廟子溝文化)と関連する廟子溝遺跡が含まれます。PCAから、アジア東部人口集団はアジア北東部関連とアジア東部南方関連とチベット関連の人口集団が3門となる三角形を形成した、と示されました。アジア南東部の沿岸部および内陸部の古代の個体群はクラスタ化し(まとまり)、アジア南東部人口集団(アミ人やタイヤル人など)の近くに、ユーラシア草原地帯の古代の個体群はアジア北東部関連のテュルク語族およびモンゴル語族話者人口集団によって形成される勾配の近くに、ネパールの古代の個体群はチベット関連人口集団の近くに投影されました。黄河中流域の古代の人口集団は、これら三つの遺伝的勾配の交点に位置します。調査された3集団、つまりXH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNはともにクラスタ化し、黄河中流域の古代の人口集団が収まる主成分(PC)空間に位置します(図2)。
PCAクラスタ化パターンと一致して、XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNの間の遺伝的類似性は外群f₃統計でも明らかで、相互と密接な遺伝的類似性を共有しています。対称性f₄検定(XH_LN、石峁_LN/廟子溝_MN;参照、ムブティ人)では、検証された参照人口集団がXH_LNと石峁_LN/廟子溝_MNとの間の遺伝的対称性を統計的に破ることはなく、検証人口集団はXH_LNおよび石峁_LN/廟子溝_MNと等しく近い、と示唆され、XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNの間の遺伝的類似性が確証されます。qpWave検定はさらに、石峁_LNとXH_LNの間の遺伝的単系統群性を裏づけ、つまり石峁_LNとXH_LNの祖先系統は同じ供給源に由来する可能性が高いわけです。
ADMIXTURE分析では、黄河湾曲部のXH_LNと石峁_LNと廟子溝_MNは古代黄河中流域農耕民(黄河_MN、黄河_LN)と類似した遺伝的構成要素を共有している、と明らかになりました。古代の黄河人口集団および現代のチベット・ビルマ語派話者人口集団で最大化される赤色と青色の構成要素は、その類似性を強調しています(図2)。ここでは、XH_LN/石峁_LN/廟子溝_MNと黄河_MNとの間で見つかった密接な遺伝的つながりは、黄河湾曲部の古代の石峁文化関連人口集団および廟子溝文化関連人口集団と中原の仰韶文化関連の人々の間の密接に関連した遺伝的特性を明らかにしました。
●黄河湾曲部における北方の草原地帯と中原農耕民との間の相互作用
黄河湾曲部の古代の人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)と中原の仰韶文化関連の人々(黄河_MN、黄河_LN)との間の遺伝的類似性にも関わらず、両者の起源は単一の祖先供給源ではありません。XH_LN/石峁_LN/廟子溝_MNと黄河_MNと黄河_MN/黄河_LNとの間の遺伝的均質性検定は、qpAdm検定では統計的に却下されます。どのような人口相互作用がこれを引き起こしたのか、依然として不明です。考古学的研究では、5000~4000年前頃となる黄河湾曲部で発掘された人工遺物の一部は、ユーラシア草原地帯の人工遺物とも類似した文化的特徴を共有している、と示されてきました。
モンゴル南部はユーラシア草原地帯の一部として、黄河湾曲部に隣接しています。そこで、モンゴル南部では最古級で唯一の利用可能な新石器時代人口集団である裕民(Yumin)文化の古代の人口集団(nEA_内陸_LN、8400年前頃)[25]が、ユーラシア草原地帯祖先系統の代理として用いられました。正のf₄統計(XH_LN/石峁_LN、黄河_MN;nEA_内陸_LN、ムブティ人)は、XH_LN/石峁_LNとモンゴル南部にかつて存在した北方の新石器時代の祖先との間の遺伝的つながりの可能性が高い、と示唆しました。このモンゴルにおいて存在したかもしれない北方新石器時代祖先系統は以後、黄河湾曲部の北側に位置することを考慮して、北方草原地帯祖先系統と呼ばれます。
黄河湾曲部における北方草原地帯祖先系統の可能性をさらに定量化するために、代理としてnEA_内陸_LNだけではなく、潜在的な代理としてモンゴル草原地帯で優勢だった中期~後期青銅器時代人口集団(ウランズーク_石板墓)と草原地帯の境界に位置する新石器時代アジア北東部人(HMMH_MN、AR_EN、AR_N)も検証されました。中原祖先系統供給源としての黄河_MNと、北方草原地帯祖先系統としての上述の古代の代理を用いての2供給源qpAdm検定では、XH_LNにおける北方草原地帯祖先系統の推定割合は一貫して約10~20%です。さらに、黄河_MNと北方草原地帯祖先系統との間の混合では、同じ石峁関連考古学的文化背景の3人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)の遺伝的起源の説明に成功し、そのうち廟子溝_MNの祖先系統が最も高い割合(31.5±6.5%)で草原地帯祖先系統に由来します(図3)。廟子溝_MNにおける相対的により高い割合の草原地帯祖先系統は、この人口集団の相対的に北方の地理的位置と相関しており、石峁_LNおよびXH_LNと比較すると、モンゴル草原地帯のより近くに位置しています(図1および図3)。以前の考古学的研究では、農牧接壌地帯の形成は4500年前頃(仰韶文化後期)に始まり、アジア北東部から黄河湾曲部地域にまで広がった、と提案されてきました。考古学的証拠とは独立して古代DNAの証拠を用いると、北方草原地帯祖先系統は新石器時代の黄河湾曲部人口集団のゲノム形成にきわめて重要な役割を果たした、と論証されました。
●考察
紀元前五千年紀は、中華文明の出現、および多様でまだ統合されていない考古学的枠組みの形成にきわめて重要な期間を表しており、これには黄河地域における社会的複雑さの顕著な増加が伴っています。この研究では、中華文明の北方の境界の住民だった、辺境黄河湾曲部における後期新石器時代および青銅器時代~鉄器時代の古代の2人口集団のゲノム規模データが生成されました。この地域が、中原からの農耕民と北方の遊牧民の遭遇した場所として広く認識されているにも関わらず、以前のミトコンドリア研究は古代の黄河湾曲部人口集団(石峁文化)と先行する仰韶文化関連人口集団との間の高い母系の遺伝的類似性を明らかにしました。石峁文化、とくに石峁都市は、中国における最良に保存されている先史時代の宮殿構造遺跡の一つを表しており、その高度に発達した文明段階が国家権力の出現と関連していたことを示唆する点で、歴史的意義を有しています。
本論文では全ゲノム水準で、石峁文化の一部としての新華遺跡の新たに調査された古代の人口集団は、他の石峁文化関連人口集団と高い遺伝的類似性を記す、と論証されます。石峁遺跡で発見された構造化された石造建築物や、新華遺跡で発見された翡翠(権力と社会的地位の象徴)で満たされた土坑墓など、顕著な石峁関連文化要素が見つかったことを考えると、そうした遺伝的類似性は石峁関連の文化的背景の古代人の相対的に上流階層の社会的地位を反映しており、そうした人々は古代の階層的に組織化された集落精度の支配層の社会的階級内で遺伝的均質性を維持していた可能性が高そうです。
さらに、石峁文化関連の古代の人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)間では、中原祖先系統が優勢な遺伝的構成要素であり続けています。黄河湾曲部にまで至る中原祖先系統のそうした拡散は、新石器時代の仰韶文化およびその後の龍山文化の仮定された拡大を裏づけます。黄河湾曲部における共有された中原祖先系統は、石峁文化関連の古代の人口集団間の観察された遺伝的類似性も説明します。
注目すべきことに、新石器時代黄河湾曲部人口集団(XH_LNと石峁_LNと廟子溝_MN)において、北方草原地帯祖先系統の不可欠の遺伝的影響が見つかりました。この遺伝学的証拠は、中国北部の農牧接壌地帯の形成が紀元前四千年紀に始まった、との考古学的仮説と整合します。新石器時代黄河湾曲部人口集団における北方草原地帯祖先系統の影響は黄河中流域農耕民ほど顕著ではありませんが、黄河湾曲部が後期新石器時代以降に北方草原地帯との人口接触の境界地帯だったことを論証しています。石峁文化関連遺跡群で発見された、石像と青銅器とヒツジやウシなどの家畜化された動物遺骸を含めて考古学的証拠は、その当時のユーラシア草原地帯との牧畜文化の交流の可能性も示唆しています。
本論文で特定された最も顕著な地域間の人口集団摂食は、新石器時代にさかのぼる中国の南北間の長距離の先史時代の人口集団の接触です。この調査結果は、黄河湾曲部とモンゴル草原地帯との間など、通常は近隣の地理的地帯間で起きた人口集団の接触に関する以前の理解を洗練します。本論文は、新華遺跡で特定された遺伝的外れ値によって証明されたように、黄河湾曲部と中国南部との間のつながりについて、明確な遺伝学的証拠を報告しました。それにも関わらず、これらアジア東部南方人が黄河湾曲部にどのように影響を及ぼしたのか、これら南方の人々はどの移住経路をたどったのか、といった問題は依然として不明です。
考古学的研究は、石峁文化と中国南部、具体的には長江下流域(上海の近く)の良渚文化(後期新石器時代の中国南部における有名な地域的な初期国家の中心地)および長江中流域(武漢の近く)の石家河以後の文化の翡翠製人工遺物間のいくらかの類似性を提案してきました。しかし、翡翠の交換が遺伝子の交換と類似しているのかどうか、まだ判断できません。将来の研究では、近隣地域のより多くの古代DNAデータおよび新たな考古学的資料が、局所的な遺伝的景観と地域的な文化的交流現象をさらに解明し、本論文で検出された外れ値が個別事例なのか、それとも一般的現象を表しているのかどうか、さらに論証できるかもしれない、と期待されます。全体的に本論文は、黄河湾曲部で中華文明出現の最初期段階において、北方草原地帯および中国南部祖先系統と起きた、ゲノム規模水準での大きな人口集団の相互作用を浮き彫りにします。
●この研究の限界
より多くの古代ゲノム規模データの生成と、最先端の分析的方法論の適用によって、アジア東部の南北間の長距離の人口集団接触の証拠が明らかになります。しかし、この研究にはいくつかの限界が残っています。中国北部の新石器時代DNAデータの不足は、新たに報告された古代人集団とその近隣もしくは先行する人口集団との間の直接的な遺伝的比較を妨げてきました。第一に、アジア東部北方祖先系統の供給源の地理的分布がまだ充分には研究されていません。本論文で特定されたモンゴル草原地帯の供給源[25]は、現在の知識より広く分布していたかもしれず、その場合には、新華遺跡集団が近隣もしくは先行する集団からアジア東部北方祖先系統を獲得した可能性を除外できません。第二に、アジア東部南方古代人が中国北部に影響を及ぼした過程は依然として不明です。ここでの南方からの影響の兆候の一般化可能性をさらに検証するためには、より多くの古代DNAデータが必要です。第三に、考古学的遺跡は部分的にしか標本抽出されておらず、それによって古代の共同体全体の過小評価につながっているかもしれません。
参考文献:
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[20]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
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関連記事
[21]Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.
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