松下憲一『中華とは何か 遊牧民からみた古代中国史』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2025年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は遊牧世界から見た中華「文明」の形成および変容史で、中華「文明」の成立から魏晋南北朝時代を経て隋および唐まで取り上げられています。当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用は「文明」と表記します。本書の視点は、中華「文明」とは「中国人(もしくは漢人)」が担い手で、遊牧民など北方の「野蛮な」集団をその「高度な」文化の魅力で同化させてきた、というような20世紀後半までの日本で有力だったかもしれない通俗的観念とは大きく異なります。「中華」も「漢人」も雑多な出自の人々により形成され、「中華世界」の北方の遊牧民は、「中華世界」の伝統文化に圧倒され、中華「文明」に同化してしまったのではなく、中華「文明」を主体的に選別して継承し、新たな中華「文明」の一部になっていった、と本書は把握します。
そもそも中華思想には、中華と夷狄を区別する排他的側面とともに、徳を有する者が中華で、夷狄もその徳に感化されて中華になる、という融合的な側面があったことを本書は指摘します。これは、「中華世界」外の出自の権力者にとって、中華を支配するのに好都合でした。中華「文明」を保護することで、中華の支配を正当化できるからです。そのため、王朝交替や「異民族」支配が起きても中華「文明」は途絶えなかった、と本書は把握します。ただ、上述のように、中華「文明」は変容していったわけで、本書はその過程で北方の遊牧民の果たした役割が大きかったことを強調しており、身近なところでは椅子や卓が遊牧世界からもたらされました。本書はこの中華「文明」の形成と変容の歴史において、農耕地域と遊牧地域とが交錯する、農牧境界地帯を重視しています。「中華世界」の王朝にとって、この農牧境界地帯はウマの供給源として重要でした。
本書は中華「文明」を5段階に区分し、第1段階(新石器時代~西周)では中華文明の原型が形成されました。第2段階(春秋時代~漢代)では、漢=中華=「文明」、匈奴=夷狄=野蛮という構図が形成され、中華古典「文明」が成立します。第3段階(魏晋~唐)では、中華古典「文明」が変容拡大し、「胡漢融合」の「中華世界」が出現します。第4段階(五代十国~アヘン戦争)では、「中華世界」がユーラシア全体と結ばれ、周辺世界で独自の文字が採用されるなど、中華の相対化が進みます。第5段階(アヘン戦争~現在)は、中華「文明」が西洋からの影響によって大きく変容し、近代において「中華民族」の創出が目指され、少数民族の漢民族化が促進されました。本書は遊牧社会の展開も簡潔にまとめていますが、これについては今年(2025年)1月に刊行された白石典之『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』で詳しく解説されています(関連記事)。
中華「文明」の原型が形成された第1段階について本書を読むと、ムギ類やヒツジなどの家畜や金属器や戦車など、西方世界からの影響が大きかった、と改めて了解されます。黄河中流域では、青銅器を中心とした祭祀儀礼と社会階層が形成されていき、集落の階層化と社会の階層化が連動しているようで、この動向の中で初期王朝が成立します。一方、長江中流域では、社会の階層化と集落の階層化は必ずしも関係していないようです。長江中流域の大型城壁集落の出現は、集落間の抗争というよりも、洪水から集落を守ることに主眼があった、と考えられています。中華「文明」の原型が形成される過程で成立した初期王朝の周(西周)に関して本書は、農牧境界地帯から台頭したことを重視しています。現在確認できる最古の「中国」の使用例は、この西周王朝期でした。ただ、この時点での「中国」は、西周王朝全体ではなく成周の地を指しているだけで、「文明」の中心といった意味もまだ見られません。
西周の東遷(東周)によって春秋時代が始まると(上述の第2段階)、中華と夷狄を対置し、差別する思想が出現しますが、中華と夷狄の境界は曖昧でした。戦国時代には長城地帯に騎馬遊牧民が出現し、戦国七雄の統治範囲は同じ「文明」圏の「天下」、つまり「中華」として認識され、「天下」の外に住むのが「夷狄」とされました。秦が戦国七雄の統治範囲を統一し、その領域である「天下」を継承した漢では、「天下」が「中国」と呼び換えられました。間に短期の新王朝を挟む漢王朝の400年間に、漢の支配する領域とその人々や文化がすべて「中国」となり、漢王朝の領域外である長城の外側が「夷狄」の世界とされました。魏晋以降には、「中国」は「中華」とも呼ばれましたが、実際には、「中国」内には「夷狄」が居住していましたし、「中華」王朝の支配領域は時代によって異なりました。「中華」王朝と「夷狄」との関係には、同化と羈縻(間接的支配)と棄絶(夷狄を放置し、統治対象を「中華」に限定)と転位(「中華」から「夷狄」への「転落」と、「夷狄」の「中華」への「昇格」)がありました。
現在通俗的に考えられている「中華」と「夷狄」の対峙の明確な枠組みは、前漢(西漢)と匈奴との関係で確立した、と言えそうです。匈奴は、文化的にも遺伝的にも多様な集団だったようです。漢と匈奴の関係で重要なのは、漢の方が人口規模も経済規模もずっと大きかったことで、この枠組みはその後の「中華」と「夷狄」の関係にも見られます。漢と匈奴との関係では当初、軍事的に匈奴が優勢で、それが政治的関係にも反映されていましたが、匈奴が漢に貢納させ、漢の大きな経済規模に依存すると、匈奴の優位性が失われていくことに、当時から気づいていた人もいました。漢は武帝期に匈奴に対して軍事的反撃に出て、匈奴は混乱し分裂していきます。東西に分裂した匈奴のうち東匈奴は、紀元前51年には漢の宣帝に拝謁し、諸侯王より上の席次を与えられ、優遇されます。しかし、前漢から簒奪して新を築いた初代皇帝の王莽は、匈奴への優遇を自身の儒教的世界観に適合させようとして、匈奴や周辺勢力の待遇を下げたこともあり、新はそれらの勢力に侵攻され、新も短期間で崩壊します。しかし、「中華」の天子が統治する天下には「夷狄」も含まれる、との王莽の世界観はその後の「中華」王朝に近代まで継承されており、中国史に果たした役割が大きかったことを本書は指摘します。一方で、そうした世界観は「夷狄」出身者が「中華世界」に君臨できる根拠にもなったことを、本書は指摘します。後漢(東漢)期には、東匈奴がさらに南北に分裂し、南匈奴は後漢に臣従します。この過程で、南匈奴には「中華世界」からの文物が大量に流入したようです。南匈奴は後漢に軍事的に協力しつつも、たびたび離反していますが、後漢は直ちに鎮圧しており、前漢初期とは力関係が完全に逆転していました。匈奴の度重なる分裂によって、モンゴル高原では、鮮卑が一時的に台頭するものの、大きな遊牧勢力はしばらく出現しませんでした。
後漢衰退後の『三国志』の時代を経て、西晋が「中華世界」を再統一しますが、内紛による八王の乱で「中華世界」は多数の国が乱立する五胡十六国時代へと向かい、「夷狄」による建国も多くありました。五胡とは一般的に匈奴と羯と鮮卑と氐と羌を指しますが、これは13世紀に定められており、五胡の五とは多くを意味する漠然とした用法で、三夷や四夷や六狄や七戎や八蛮や九夷や百蛮など、さまざまな表現がありました。十六国の用法は北魏で編纂された『十六国春秋』に由来しますが、じっさいの建国数は20以上でした。「十六国」の初期王朝である前趙では、匈奴などの遊牧民と西晋に属していた「漢人」を統治する、「胡漢二重体制」になっていました。こうした統治上の工夫もありましたが、五胡十六国時代の「夷狄」系の王朝が全体的に短命だった背景に、部族制が強く残り、宗室軍事封建制によって後継者問題で内紛が勃発しやすかったことを本書は指摘します。そうした中で、本書は前秦の「先進性」を高く評価しています。前秦は支配者である符氏一族を抑制する一方で、諸民族を優遇し、「天下を一家」理想として統治に臨みました。この前秦の試みを応用して成功した国として、本書は北魏を評価しています。北魏は部族制を再編し、「代人集団」という新たな支配層を形成して、皇帝権力が強化され、より安定的な統治と継承が可能になります。北魏の孝文帝の「漢化政策」については、洛陽に移住した一部の支配者に適用され、北魏全体の遊牧民に強制されたわけではない、と本書は指摘します。ただ、孝文帝が目指した「胡漢融合」は定着せず、六鎮の乱によって崩壊しました。北魏の母体となった鮮卑拓跋については、著者の『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』で詳しく述べられています(関連記事)。
分裂していた五胡十六国時代~南北朝時代の「中華世界」を「再統一」したのは隋で、隋が短期間で滅亡した後は、唐が「中華世界」を支配しますが、隋も唐も北朝系の王朝です。本書は、後漢~唐にかけて「中華世界」に「夷狄」が入り、溶け込んでいったものの、それは「夷狄」が自らの風俗を失って一方的に同化したのではなく、混合して融合した結果として、新たな中華世界が形成されたことを強調します。長期王朝となった唐では、多様な文化的および遺伝的背景の集団が、政治や経済や軍事や文化で重要な役割を果たし、唐の首都である長安においてそれはよく表れていました。唐を大きく傾かせた安史の乱でも、安禄山は多様な人々を率いており、ある意味で唐の「国際性」が窺えるように思います。本書は隋と唐について、北朝遊牧系王朝が江南の「漢族」系王朝を取り込み、漢王朝の「中華世界」とは異なった新たな「中華世界」が形成された、と評価しています。
そもそも中華思想には、中華と夷狄を区別する排他的側面とともに、徳を有する者が中華で、夷狄もその徳に感化されて中華になる、という融合的な側面があったことを本書は指摘します。これは、「中華世界」外の出自の権力者にとって、中華を支配するのに好都合でした。中華「文明」を保護することで、中華の支配を正当化できるからです。そのため、王朝交替や「異民族」支配が起きても中華「文明」は途絶えなかった、と本書は把握します。ただ、上述のように、中華「文明」は変容していったわけで、本書はその過程で北方の遊牧民の果たした役割が大きかったことを強調しており、身近なところでは椅子や卓が遊牧世界からもたらされました。本書はこの中華「文明」の形成と変容の歴史において、農耕地域と遊牧地域とが交錯する、農牧境界地帯を重視しています。「中華世界」の王朝にとって、この農牧境界地帯はウマの供給源として重要でした。
本書は中華「文明」を5段階に区分し、第1段階(新石器時代~西周)では中華文明の原型が形成されました。第2段階(春秋時代~漢代)では、漢=中華=「文明」、匈奴=夷狄=野蛮という構図が形成され、中華古典「文明」が成立します。第3段階(魏晋~唐)では、中華古典「文明」が変容拡大し、「胡漢融合」の「中華世界」が出現します。第4段階(五代十国~アヘン戦争)では、「中華世界」がユーラシア全体と結ばれ、周辺世界で独自の文字が採用されるなど、中華の相対化が進みます。第5段階(アヘン戦争~現在)は、中華「文明」が西洋からの影響によって大きく変容し、近代において「中華民族」の創出が目指され、少数民族の漢民族化が促進されました。本書は遊牧社会の展開も簡潔にまとめていますが、これについては今年(2025年)1月に刊行された白石典之『遊牧王朝興亡史 モンゴル高原の5000年』で詳しく解説されています(関連記事)。
中華「文明」の原型が形成された第1段階について本書を読むと、ムギ類やヒツジなどの家畜や金属器や戦車など、西方世界からの影響が大きかった、と改めて了解されます。黄河中流域では、青銅器を中心とした祭祀儀礼と社会階層が形成されていき、集落の階層化と社会の階層化が連動しているようで、この動向の中で初期王朝が成立します。一方、長江中流域では、社会の階層化と集落の階層化は必ずしも関係していないようです。長江中流域の大型城壁集落の出現は、集落間の抗争というよりも、洪水から集落を守ることに主眼があった、と考えられています。中華「文明」の原型が形成される過程で成立した初期王朝の周(西周)に関して本書は、農牧境界地帯から台頭したことを重視しています。現在確認できる最古の「中国」の使用例は、この西周王朝期でした。ただ、この時点での「中国」は、西周王朝全体ではなく成周の地を指しているだけで、「文明」の中心といった意味もまだ見られません。
西周の東遷(東周)によって春秋時代が始まると(上述の第2段階)、中華と夷狄を対置し、差別する思想が出現しますが、中華と夷狄の境界は曖昧でした。戦国時代には長城地帯に騎馬遊牧民が出現し、戦国七雄の統治範囲は同じ「文明」圏の「天下」、つまり「中華」として認識され、「天下」の外に住むのが「夷狄」とされました。秦が戦国七雄の統治範囲を統一し、その領域である「天下」を継承した漢では、「天下」が「中国」と呼び換えられました。間に短期の新王朝を挟む漢王朝の400年間に、漢の支配する領域とその人々や文化がすべて「中国」となり、漢王朝の領域外である長城の外側が「夷狄」の世界とされました。魏晋以降には、「中国」は「中華」とも呼ばれましたが、実際には、「中国」内には「夷狄」が居住していましたし、「中華」王朝の支配領域は時代によって異なりました。「中華」王朝と「夷狄」との関係には、同化と羈縻(間接的支配)と棄絶(夷狄を放置し、統治対象を「中華」に限定)と転位(「中華」から「夷狄」への「転落」と、「夷狄」の「中華」への「昇格」)がありました。
現在通俗的に考えられている「中華」と「夷狄」の対峙の明確な枠組みは、前漢(西漢)と匈奴との関係で確立した、と言えそうです。匈奴は、文化的にも遺伝的にも多様な集団だったようです。漢と匈奴の関係で重要なのは、漢の方が人口規模も経済規模もずっと大きかったことで、この枠組みはその後の「中華」と「夷狄」の関係にも見られます。漢と匈奴との関係では当初、軍事的に匈奴が優勢で、それが政治的関係にも反映されていましたが、匈奴が漢に貢納させ、漢の大きな経済規模に依存すると、匈奴の優位性が失われていくことに、当時から気づいていた人もいました。漢は武帝期に匈奴に対して軍事的反撃に出て、匈奴は混乱し分裂していきます。東西に分裂した匈奴のうち東匈奴は、紀元前51年には漢の宣帝に拝謁し、諸侯王より上の席次を与えられ、優遇されます。しかし、前漢から簒奪して新を築いた初代皇帝の王莽は、匈奴への優遇を自身の儒教的世界観に適合させようとして、匈奴や周辺勢力の待遇を下げたこともあり、新はそれらの勢力に侵攻され、新も短期間で崩壊します。しかし、「中華」の天子が統治する天下には「夷狄」も含まれる、との王莽の世界観はその後の「中華」王朝に近代まで継承されており、中国史に果たした役割が大きかったことを本書は指摘します。一方で、そうした世界観は「夷狄」出身者が「中華世界」に君臨できる根拠にもなったことを、本書は指摘します。後漢(東漢)期には、東匈奴がさらに南北に分裂し、南匈奴は後漢に臣従します。この過程で、南匈奴には「中華世界」からの文物が大量に流入したようです。南匈奴は後漢に軍事的に協力しつつも、たびたび離反していますが、後漢は直ちに鎮圧しており、前漢初期とは力関係が完全に逆転していました。匈奴の度重なる分裂によって、モンゴル高原では、鮮卑が一時的に台頭するものの、大きな遊牧勢力はしばらく出現しませんでした。
後漢衰退後の『三国志』の時代を経て、西晋が「中華世界」を再統一しますが、内紛による八王の乱で「中華世界」は多数の国が乱立する五胡十六国時代へと向かい、「夷狄」による建国も多くありました。五胡とは一般的に匈奴と羯と鮮卑と氐と羌を指しますが、これは13世紀に定められており、五胡の五とは多くを意味する漠然とした用法で、三夷や四夷や六狄や七戎や八蛮や九夷や百蛮など、さまざまな表現がありました。十六国の用法は北魏で編纂された『十六国春秋』に由来しますが、じっさいの建国数は20以上でした。「十六国」の初期王朝である前趙では、匈奴などの遊牧民と西晋に属していた「漢人」を統治する、「胡漢二重体制」になっていました。こうした統治上の工夫もありましたが、五胡十六国時代の「夷狄」系の王朝が全体的に短命だった背景に、部族制が強く残り、宗室軍事封建制によって後継者問題で内紛が勃発しやすかったことを本書は指摘します。そうした中で、本書は前秦の「先進性」を高く評価しています。前秦は支配者である符氏一族を抑制する一方で、諸民族を優遇し、「天下を一家」理想として統治に臨みました。この前秦の試みを応用して成功した国として、本書は北魏を評価しています。北魏は部族制を再編し、「代人集団」という新たな支配層を形成して、皇帝権力が強化され、より安定的な統治と継承が可能になります。北魏の孝文帝の「漢化政策」については、洛陽に移住した一部の支配者に適用され、北魏全体の遊牧民に強制されたわけではない、と本書は指摘します。ただ、孝文帝が目指した「胡漢融合」は定着せず、六鎮の乱によって崩壊しました。北魏の母体となった鮮卑拓跋については、著者の『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』で詳しく述べられています(関連記事)。
分裂していた五胡十六国時代~南北朝時代の「中華世界」を「再統一」したのは隋で、隋が短期間で滅亡した後は、唐が「中華世界」を支配しますが、隋も唐も北朝系の王朝です。本書は、後漢~唐にかけて「中華世界」に「夷狄」が入り、溶け込んでいったものの、それは「夷狄」が自らの風俗を失って一方的に同化したのではなく、混合して融合した結果として、新たな中華世界が形成されたことを強調します。長期王朝となった唐では、多様な文化的および遺伝的背景の集団が、政治や経済や軍事や文化で重要な役割を果たし、唐の首都である長安においてそれはよく表れていました。唐を大きく傾かせた安史の乱でも、安禄山は多様な人々を率いており、ある意味で唐の「国際性」が窺えるように思います。本書は隋と唐について、北朝遊牧系王朝が江南の「漢族」系王朝を取り込み、漢王朝の「中華世界」とは異なった新たな「中華世界」が形成された、と評価しています。
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