ヨーロッパ最古級の人類の痕跡
取り上げるのが遅れてしまいましたが、ヨーロッパ最古級の人類の痕跡を報告した研究(Curran et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、ルーマニアのグラウンセアヌ(Grăunceanu)遺跡で発見された動物の骨に人為的な切創痕(cut mark)があり、その年代が生層序学および高解像度のウラン・鉛(U-Pb)年代推定値によって195万年以上前であることを示します。これはヨーロッパでは最古級の人類の痕跡となり、185万~177万年前頃となるジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡の人類の痕跡より古いことになります。ウマの歯列の同位体分析から、当時のグラウンセアヌ遺跡一帯は比較的温暖だった、と示唆されます。その他の事例からも、人類はすでに200万年以上前にユーラシアに広く拡散していたことが窺え、今後の研究の進展が期待されます。
●要約
ユーラシアへの人類の最初の拡散時期不明です。現在の証拠から、人類はジョージアのドマニシ遺跡に180万年前頃までに存在していたものの、ユーラシア全域の人類の一時的な痕跡はドマニシ遺跡に先行する、と示唆されています。しかし、ヨーロッパの人類遺骸の報告は140万年前頃まで決定的ではありませんでした。本論文は、複数の切創痕のある骨の形で、ルーマニアのグラウンセアヌ遺跡における人類活動の証拠を提示します。生層序学および高解像度のU-Pb年代推定値はグラウンセアヌ遺跡の年代が195万年以上前であることを示唆しており、グラウンセアヌ遺跡はヨーロッパにおける最良に年代測定された初期人類遺跡の一つとなります。ウマの歯列の同位体分析に基づく環境復元から、グラウンセアヌ遺跡は比較的温暖で季節的だった、と示唆され、ユーラシアにおける最初期の人類でさえ、広範な生息地耐性があった、と論証されます。複数の他の一連の証拠とともに提示される本論文の結果は、広範ではあるものの、おそらくは断続的な、少なくとも200万年前頃までのユーラシア全域にわたる人類の存在を示します。
●研究史
アフリカ外の人類の最初の出現の現時点における証拠は、ジョージアのドマニシ遺跡に由来します。185万~177万年前頃のドマニシ遺跡出土物[1]には、多数の人類遺骸[2]や石器や動物遺骸の人類の改変(つまり、屠殺痕)の証拠が含まれています。ドマニシ遺跡はジェーラ期となる前期更新世までにアジア南西部/ヨーロッパ東部に人類が存在したことを明らかに論証しますが、アフリカからの人類の最初の拡散の正確な時期およびこれらの拡散の長期の成功は議論されています。これはヨーロッパにおいてとくに当てはまり、ヨーロッパ南部および北部における人類の存在時期に関する議論が続いています。アジアの化石出土地の最新の年表(とくに中国[7])と、ユーラシア全域の人類の活動のつかの間の若しくは一時的な痕跡(たとえば、石器および/もしくは人類化石に伴う骨の人為的な改変)を表しているかもしれない出土地の数の増加から、人類はドマニシ遺跡の前にユーラシアに存在していた可能性が高い、と示唆されます(図1)。以下は本論文の図1です。
ユーラシアへの人類の最初の拡散を解明できるかもしれない前期更新世ユーラシアの遺跡の一つが、ルーマニアのオルテツ川流域(Olteţ River Valley、略してORV)に位置するグラウンセアヌ遺跡です。この地域は、カルパチア山脈のすぐ南側となる、チアン(Dacian)堆積盆地に位置します(図1)。堆積物はテトイウ層(Tetoiu Formation)に由来し、その堆積物は化石が豊富にある複数の河川湖層序を表しています。この層は更新世の基底部から新しいところでは130万年前頃まで広がっています。グラウンセアヌ遺跡は元々1960年代に発掘され、ヨーロッパ東部~中央部の最もよく知られている前期更新世遺跡の一つです。生物年代学的評価では、グラウンセアヌ遺跡はヴィラフランキアン(Villafranchian)後期(220万~190万年前頃)で、哺乳類生層序帯MN17/MmQ1に属する、と示唆されています。グラウンセアヌ遺跡では少なくとも31の分類群が特定されており、それに含まれるのは、マンモス、ウシ科とシカ科の複数種、キリン科、ウマ科、サイ科、複数の肉食動物種、齧歯類(ビーバーとヤマアラシ)、ダチョウ、パラドリチョピテクス属(Paradolichopithecus)のような陸生サルの大型種、ヨーロッパにおけるセンザンコウの最も新しい代表例です。
古生態学的分析から、グラウンセアヌ遺跡は古オルテツ川沿いの森林草原地帯環境だった、と示唆されています。ORVの他の出土地には、ラ・ピエトリス(La Pietriș)やヴァレア・ロスカイ(Valea Roșcăi)の準同時代遺跡や、わずかに生物年代学的に新しいファンタナ・ルイ・ミティラン(Fântâna lui Mitilan)遺跡や、複数のより小さな遺跡が含まれます。グラウンセアヌ遺跡では人類遺骸もしくはその場の石器が確認されてきませんでしたが、以前の研究者は近隣の準同時代のデアルル・ミジュロシウ(Dealul Mijlociu)遺跡から発見された石器を記載しており、その研究では生物年代学的比較に基づいて、デアルル・ミジュロシウ遺跡がグラウンセアヌ遺跡と類似した動物相層準に位置づけられました。
本論文は、ルーマニアのグラウンセアヌ遺跡から発見された切創痕の形で、少なくとも195万年前頃までにユーラシアに人類が存在した証拠を提示し、この年代は高精度のU-Pb年代推定値によって裏づけられます。同じ遺跡のウマの上顎の高解像度の酸素(O)および炭素(C)の安定同位体分析も実行され、気温の季節性と降水量が復元されました。本論文はこれらのデータを、前期更新世のユーラシアへの初期の人類拡散の一時的な痕跡に関するより大きな議論の文脈へと位置づけ、少なくとも200万年前頃までにユーラシア全域に人類が存在したことを支持します。
●化石生成論
グラウンセアヌ遺跡の合計NISP(number of identified specimen、特定された標本数)は4983点です。これらのうち、4524点(遊離した歯および角/枝角の標本は除きます)は、先行研究で概説された実施要綱に従って、1名以上の観察者によって、強く低角度の光の下でBSM(bone surface modifications、骨表面改変)の証拠について調べられました。遺骸の化石生成論的条件はひじょうに一貫しており(つまり、すべての骨が同様の色調と堆積後の変化を示しています)、多くの骨は発掘時には依然として関節を保っており、標本の大半(75%超)には元々の骨格要素の少なくとも半分が保存されていました。この標本群は単一の堆積を表している、と解釈され、低エネルギーの川を越えた季節性洪水堆積物の可能性が高そうです。この標本群は全体的に風化(標本の85.3%は風化段階0)もしくは水による変化(21点の標本のみに摩耗があります)をほとんど示しません。これらの結果から、この標本群が再加工を再食(堆積物の撹拌)を受けておらず、堆積前に表面は長く露出していなかった、と示唆されます。骨表面の可視性は全体的に良好で、ほとんどの標本(73%超)は、骨表面の75~100%を視認できます。標本の大半(81.7%)はある程度の根元の腐食が見られ、堆積後の損傷(たとえば、欠けや割れ目や剥離)は標本の41.5%に存在しました。肉食動物による損傷は、歯の刻み目や穴や波状の破損端やこれら3通りの歯の変化のあらゆる組み合わせの形で、標本群の9.5%に存在します。
グラウンセアヌ遺跡の合計1189点の標本には線状痕を示しており、その大半は歯痕(290点)か踏みつけ痕か掘削痕(296点)か未知の痕として特定されました。打撃痕の証拠は記録されませんでした。合計20点の標本が切創痕を示し、これらのうち7点は高い信頼度の切創痕、12点はまず確実な切創痕、1点は両方の種類の切創痕を示しており(図2)、すべての痕跡の詳細な記述は補足注5で見ることができます。切創痕は2種類の方法を用いて特定され、それは、(1)先行研究から修正された定性的分析と、別の先行研究で概説された手法を用いての定量的分析です。高い信頼度の切創痕があると特定された8点の標本には、4点の脛骨と1点の下顎骨と1点の上腕骨と2点の長骨の断片が含まれます。高い信頼度の切創痕のある分類学的に診断可能な標本のすべては、1点の小さな肉食動物の脛骨を除いて、すべて偶蹄類に由来します。ほとんどの標本には、切創痕と特定された2点以上の線状痕があります。すべての新制度の高い切創痕には直線状の軌跡があり、おもに骨の長軸に対して横方向で、痕跡内の色は主要な骨表面と同じ色ですが、ごくわずかな標本には微細な溝もしくは肩効果があります。構成部分まで特定できた標本では、切創痕は肉の切断と一致する解剖学的位置、とくに脛骨遠位部で現れます。高い信頼度の切創痕として特定されたほとんどの痕跡は、高い事後確率での定量的分析でも切創痕として分類されました。以下は本論文の図2です。
まず確実な切創痕を示す13点の標本は、表面がより劣化し(たとえば、根元の腐食、表面の剥離)、定量的分析では切創痕と特定されなかった、および/もしくは切創痕として決定的に特定される充分な定量的特徴を示さないため、より低い信頼度となりました。これらの痕跡はより広範な骨格要素で見られますが、後足の頻度が最も高く(5点)、続いて他の長骨と下顎骨です。まず確実な切創痕は単一の長い線状痕もしくは最大15点の小さな線状痕の断片です。ほとんどの痕跡は直線状の軌跡で、骨の長軸に対して斜めに向いている頻度がより高く、微細な溝は稀で、肩効果を示しません。
●U-Pb年代測定
ORVの出土地の放射性年代は、グラウンセアヌ遺跡の哺乳類標本7点とヴァレア・ロスカイ遺跡の標本1点とファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の標本1点の、歯列のレーザー除去U-Pb分析を用いて推定されました(図3)。補足表5では、U-Pbデータに基づく「平衡」年代推定値と、わずかに新しい「不平衡補正」年代が示され、これは²³⁸U-²⁰⁴Pbの崩壊系列における潜在的な初期不平衡が考慮されています。以下は本論文の図3です。
以後のすべての議論では後者が用いられ、この年代推定値はグラウンセアヌ遺跡の標本について最も堅牢な年代推定値を提供し、その範囲は201万±20万年前~187万±16万年前(±2σ)で、平均年代は195万年前となり、年代はこの平均値周辺で密接にまとまっており(図3)、この推定値に高い信頼性を与えます。ヴァレア・ロスカイ遺跡の標本VRc.0001の補正年代は205万±22万年前ですが、ファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の標本FM.0019の補正年代は161万±10万年前です。
これらのU-Pb推定値はグラウンセアヌ遺跡とファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の生物年代学的推定値、グラウンセアヌ遺跡と同様の年代と示唆されてきたおよびヴァレア・ロスカイ遺跡の層序学的位置づけと一致します。これらの結果は化石堆積の下限年代の最良な推定値を提供し、それは、これらの結果が、化石の歯と骨の標本に遍在している、環境との堆積後のウラン交換のU-Pb系の最終的な閉鎖を表しているからです。堆積と閉鎖との間の時期はほぼ確実に変動し、おそらくは場所によります。これらのU-Pbの結果は、これらの遺跡の生物年代学と組み合わされて、195万年以上前および200万年以上前にさかのぼる可能性という、グラウンセアヌ遺跡の堆積の本論文の推定年代に高い信頼度を与え、グラウンセアヌ遺跡が人類の活動の証拠を示すヨーロッパでは最古級の遺跡であるかもしれない、と示唆しています。
●安定同位体
グラウンセアヌ遺跡のウマ属種標本の離乳後の頬歯から得られた、酸素(δ¹⁸O)と炭素(δ¹³C)の安定同位体比が分析されました(図4)。高解像度標本抽出を用いて、歯冠および歯列(P2-M3)全体の差異が評価されたことによって、降水量の季節的変動の調査が可能となり、それは、ウマ科が必ず水を飲む動物で(つまり、単数供給源に依存)、その食性が比較的固定されているからです(つまり、体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物)。以下は本論文の図4です。
VSMOW(Vienna Standard Mean Ocean Water、ウィーン標準平均海水)に基づくと、炭酸塩で観察されるδ¹⁸O値の範囲は19.9‰と26.2‰の間で、平均値は23.5‰です。先行研究はグラウンセアヌ遺跡の平均δ¹⁸O値について18.9‰~25.3‰(VSMOW)を報告しており、このわずかな違いは、値が、未確定の季節性の偏りのあるエナメル質を組み込んでいる複数の偶蹄類標本から得られた大量標本で測定された、との事実によって説明できるか、あるいは、摂食行動および/もしくは移動修正の差異を反映しているかもしれません。
本論文はこれらのδ¹⁸O同位体値を、3種類の異なる変換関数を用いて、天水値に変換しました。P2-P3-P4-M3の歯列および3種類の式の年間平均値は−10.8±1.0‰(VSMOW)で、これはルムニク・ヴルチャ(Râmnicu Vâlcea)市の現在の加重平均値−8.1‰より低くなります。そうした大きな違いは、先行研究の式で採用されていたならば、約4度の年間気温復元をもたらしますが、この復元はグラウンセアヌ遺跡の温暖な気候に適応した動物相の存在と矛盾一致します。複数の要因がグラウンセアヌ遺跡における降水量の同位体痕跡に影響を及ぼすかもしれませんが(たとえば、気団起源、放射性物質降下の履歴、全球氷床の堆積、水の循環)、前期更新世のこれらの要因に関する情報は少なく、地域的な降水量への潜在的な同位体の影響を議論することはできません。したがって本論文では、この低い値は、現在と比較して、帯水層涵養量への冬の降水量の増加を示唆している、と主張されます。前期更新世における冬の成分の増加は、グラウンセアヌ遺跡における復元された夏の値(−7.3‰)が現在の地域的な値より低い理由も説明できるかもしれず、それは、ウマがより強い冬の同位体兆候のある水を飲んでいたかもしれないからです。
本論文のエナメル質のδ¹³C値を植物組織のδ¹³Cへと変換すると、VPDB(Vienna Peedee belemnite、ウィーンのピーディー層ベルムナイト)では−28.9±0.5‰と−25.7±0.5‰の間の値が得られ、これは森林地帯から森林地帯中湿性C3草地にかけての摂食と一致し、グラウンセアヌ遺跡に関する以前の環境復元を裏づけます。最高値が夏に記録されており、旱魃圧力下の光合成と関連しているかもしれない一方で、最低値は冬に記録されています(図4)。先行研究の式を用いて、完全な誤差伝播の実行後に最も乾燥した月では−4mmと32mmの間の降水量、最も湿潤な月では45mmと222mmの間の降水量が得られました。この結果は、ORVにおける帯水層涵養量への冬の降水量の増加との本論文の解釈をさらに裏づけます。
●考察
ユーラシアへの最古級の人類の(複数の)拡散の時期と場所に関する継続中の議論は、年代測定の不確実さや一部の地理的地域における研究の不足やいくつかの石器群の人為的性質に関する議論を含めて、さまざまな困難によって妨げられてきました[30]。100万年以上前となるユーラシアとアフリカ北部において報告されている初期人類の調査(図1および図5)は、これらの地域全体で少なくとも49ヶ所の遺跡となり、そのうち16ヶ所はドマニシ遺跡に先行するかもしれません。これらの遺跡は、人類化石と石器群と屠殺の証拠の組み合わせを示しますが、この3点の指標すべてが含まれているのは数ヶ所の遺跡のみです。以下は本論文の図5です。
アフリカ外の最古級の遺跡(200万年以上前)は、中東とロシア西部と黒海およびカスピ海とアジア中央部と中国にまとまっています。これらの遺跡には、石器のみおよび/もしくは切創痕のある少数の骨を伴う出土地の混合が含まれています。この一群のいくつかの遺跡は、切創痕のある骨が報告されてきましたが、これらの改変を示す化石群の割合は低く、インドのマソル(Masol)遺跡では切創痕のある3点の骨、リヴェンツォフカ(Liventsovka)遺跡では複数の痕跡のある1点の骨、ロシアのムーカイ(Muhkai)遺跡では6ヶ所の痕跡のある1点の骨が報告されています。人類遺骸があるかもしれない、ドマニシ遺跡に先行する唯一の遺跡は中国の竜骨洞(Longgudong)遺跡で、6点の人類の歯と膨大な石器群が報告されました。
200万~150万年前頃の別の数十ヶ所の遺跡は、ふたたび中東とロシアと中国にまとまっており、アフリカ外の人類の最初の確実な証拠が含まれ、つまりはドマニシ遺跡と中国の公王嶺(Gongwangling)遺跡です。150万~100万年前頃には、ヨーロッパと遠くアジア南東部における人類の存在を示唆する最初の遺跡があり、注目すべきことにこれらの遺跡は、人類化石、充分に定義された石器群、屠殺の証拠を示す動物の骨があるずっと多くの遺跡の形で、人類の確実な証拠を示しています。現時点では、ヨーロッパの最古級の人類化石は、140万年前頃となるスペイン南部のアンダルシア州グラナダ県にあるオース(Orce)地域のバランコレオン(Barranco León)遺跡[35]、130万~110万年前頃となるトルコのコカバス(Kocabaş)遺跡、120万~110万年前頃となるスペインのシマ・デル・エレファンテ(Sima del Elefante)遺跡[37]ですが、複数の他の遺跡には石器群と切創痕のある動物相遺骸があります(図5)。
図5で一覧にある遺跡のうち21ヶ所で切創痕のある動物相遺骸が報告されており、切創痕を示す遺骸群の最高級の割合は、アルジェリアのエル・ハーバ(El-Kherba)遺跡(2.100%)[38]、アルジェリアのアイン・ブーシェリ(Aïn Boucherit)遺跡(5.743%超)[39]、スペインのシマ・デル・エレファンテ遺跡(5.000%)で、他のすべての遺跡で報告されている割合は2%未満で、時には2%を大きく下回ります。ドマニシ遺跡では、切創痕がある遺骸群はわずか0.392%で、人類が明らかに存在していたにも関わらず、この遺骸群の視察の証拠は低い、と論証されます。比較すると、グラウンセアヌ遺跡の遺骸群の切創痕の割合は、高い信頼度のもので0.176%、あるいはまず確実な切創痕を含めると0.442%を示します。グラウンセアヌ遺跡では石器も人類化石も発見されていませんが、本論文の詳細な化石生成論的分析は、人類および/もしくは石器が存在して充分に受け入れられている、同様の年代さらにはより新しい遺跡に匹敵する割合での、人為的な表面改変の形で人類の存在の明確な証拠を明らかにします。掲載されているすべての遺跡が化石生成論的評価を公表していたわけではありませんが、化石生成論的分析のあるすべての遺跡は、その遺骸群に切創痕の存在を報告しています。このパターンは、化石群の規模に関わらず存在し、ある種のオルドヴァイ効果(Olduvai Effect)かもしれず、オルドヴァイ効果とは、より集中的な研究によってより広範で微妙な解釈につながることです。したがって、さらなる調査によって、ユーラシアにおける初期人類の存在のより多くの痕跡がさらに特定される可能性は高そうです。
グラウンセアヌ遺跡から石器もしくは人類化石が発見されていないので、本論文の化石生成論的分析が懐疑的見られる可能性を本論文は認識しています。しかし、アフリカ東部には、人類の屠殺痕について刊行されている証拠のある遺跡が数ヶ所あり、そうした遺跡でも石器もしくは人類化石が保存されていません。本論文はこの限界を認識し、高い再分類率をもたらす、確立された定性的手法および定量的手法を使用しました。本論文の定性的分析で切創痕として特定された線状痕は定量的分析で高い事後確率となり、その分類を裏づけます。由来の不明な多くの線状痕も、さらなる検討から慎重に除外されました。それでも、グラウンセアヌ遺跡における人類の屠殺の強力な証拠が残り、その強度は容易に却下できません。
本論文で含められたこれらの遺跡の一部の人為的起源、とくに200万年以上前の遺跡については、議論されています[30]。これらの遺跡の一部は年代測定が間違っており、および/もしくは人為的起源ではないかもしれませんが、この量の証拠の無視は困難で、おそらく浅はかであり、本論文は、人類が200万年以上前にユーラシアに存在した、と真剣に検討することは賢明である、と提案します。じっさい、本論文の結果は195万年以上前までのヨーロッパ東部~中央部における人類の存在を示唆しています。じっさい、200万年以上前かもしれないヨーロッパの遺跡のうち、グラウンセアヌ遺跡は最も信頼できる(下限)年代の推定値の恩恵があることで際立っており、以前に刊行された生物年代学的推定値は今や、不確実性の関連する定量化を提供する分析的利点がある、放射性年代測定によって裏づけられています。
本論文は、ユーラシアへと最初に拡散したかもしれない人類種(もしくは複数種)に関する議論を意図的に避けています。これは、アフリカ東部および南部の遺跡において複数の人類種が共存していた期間です[45、46]。図5におけるほぼ全ての人類化石の分類学的類似性は議論されており、多くはホモ属種のみに同定され、他はホモ・エレクトス(Homo erectus)/ホモ・エルガスター(Homo ergaster)と同定されています。現在の証拠[46、47]から、最古級の広義のホモ・エレクトスは南アフリカ共和国とエチオピアの両方に200万年前頃に存在していた、と示唆されているので、これが提案する可能性は、人類が200万年以上前にユーラシアに存在していたならば、ホモ・エレクトスではなかったかもしれない、および/もしくはホモ・エレクトスが現在のデータより古い、ということです。
ユーラシアへの人類の拡散について多くの不確実性があり、それにはこれらの拡散の時期と経路と連続性が含まれます。人類が200万年以上前にアフリカから最初に拡散したならば、その痕跡の一時的な性質が空間的および/もしくは時間的に不連続な人口集団の証拠であることはほぼ確実で、おそらく制約された緯度の範囲および/もしくは間氷期に限られており、そこでは環境が人類の存在により役立ったかもしれません[49]。現時点では、ジブラルタル海峡経由でのアフリカからヨーロッパへの直接的拡散を裏づける証拠はほとんどなく、代わりに、中東における示唆されている人類の出土地の年代は、シナイ半島経由での拡散を裏づけているものの(図5)、一部の地理的地域の調査の不足によって、具体的な経路の特定は困難になっています。前期更新世には、黒海の範囲は現在と同様で、海岸線の同様の形状と、黒海は地中海とはつながっていなかったことが示唆されています。したがって人類は、コーカサスおよびロシア南西部の複数の人類の遺跡かもしれない場所の存在によって示唆されるように、黒海を北回りでルーマニアへと南下しして拡散したか、アナトリア半島とバルカン半島の間の陸橋経由でヨーロッパへと横断し、北方へと拡散して、おそらくは黒海沿岸を迂回したかもしれません。
どの想定でも、人類はアフリカで適応していたであろうよりも、季節の気温変動が大きい寒冷な環境に対処せねばならなかった可能性は高そうです。より寒冷でより乾燥していた期間に堆積した中国の黄土高原における212万年前頃の人工遺物は、人類が当時より寒冷な気候に対応できたことを示唆しています[7]。グラウンセアヌ遺跡に関する本論文の古環境データは、近くに森林と水源がいくつかある、開けて乾燥した環境を示唆します。しかし、大型陸生サルのパラドリチョピテクス属やセンザンコウやダチョウなどより温暖な環境に適応した(もしくは少なくとも寒冷耐性の低い可能性が高い)種の存在は、ORVの冬の温度が比較的穏やかだったことを示唆しています。動物相は穏やかな冬を示唆していますが、安定同位体データから、グラウンセアヌ遺跡の降水量には顕著な季節性分布があり、湿潤な冬と乾燥した夏をもたらした可能性が高い、と示唆されています。これらの古環境と同位体の結果は、ORVが北緯約45度に位置している、との事実と相まって、人類はより温暖な間氷期を利用し、より高い緯度(40度超)に拡散した可能性が高い、という主張を裏づけます。
人類全体、とくにホモ属の構成員は、環境柔軟性によって特徴づけられることが多くあります。少なくとも195万年前頃と確実に年代測定された切創痕のあるホモの形で、証拠が本論文において主張されて提供されているように、200万年前頃のユーラシアにおける人類の広範な存在は、この柔軟性のさらなる裏づけです。これらの人類は、季節性が増加した新たな環境および生態系に対処せねばならなかったでしょう。当時のユーラシアにおける人類の存在が、地理的および時間的に不連続だった可能性が高いことは明らかですが、この地域における人類の多数の一時的な痕跡は、もはや無視できません。
参考文献:
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https://doi.org/10.1073/pnas.1106638108
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[2]Lordkipanidze D. et al.(2013): A Complete Skull from Dmanisi, Georgia, and the Evolutionary Biology of Early Homo. Science, 342, 6156, 326-331.
https://doi.org/10.1126/science.1238484
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[7]Zhu Z. et al.(2018): Hominin occupation of the Chinese Loess Plateau since about 2.1 million years ago. Nature, 559, 7715, 608–612.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4
関連記事
[30]Scardia G. et al.(2019): Chronologic constraints on hominin dispersal outside Africa since 2.48 Ma from the Zarqa Valley, Jordan. Quaternary Science Reviews, 219, 1–19.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2019.06.007
関連記事
[35]Toro-Moyano I. et al.(2013): The oldest human fossil in Europe, from Orce (Spain). Journal of Human Evolution, 65, 1, 1–9.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2013.01.012
関連記事
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関連記事
[38]Sahnouni M. et al.(2013): The first evidence of cut marks and usewear traces from the Plio-Pleistocene locality of El-Kherba (Ain Hanech), Algeria: implications for early hominin subsistence activities circa 1.8 Ma. Journal of Human Evolution, 64, 2, 137–150.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2012.10.007
関連記事
[39]Sahnouni M. et al.(2018): 1.9-million- and 2.4-million-year-old artifacts and stone tool–cutmarked bones from Ain Boucherit, Algeria. Science, 362, 6420, 1297-1301.
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関連記事
[45]Leakey MG. et al.(2012): New fossils from Koobi Fora in northern Kenya confirm taxonomic diversity in early Homo. Nature, 488, 7410, 201–204.
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関連記事
[46]Herries AIR. et al.(2020): Contemporaneity of Australopithecus, Paranthropus, and early Homo erectus in South Africa. Science, 368, 6486, eaaw7293.
https://doi.org/10.1126/science.aaw7293
関連記事
[47]Mussi M. et al.(2023): Early Homo erectus lived at high altitudes and produced both Oldowan and Acheulean tools. Science, 382, 6671, 713–718.
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関連記事
[49]Garba C. et al.(2024): East-to-west human dispersal into Europe 1.4 million years ago. Nature, 627, 8005, 805–810.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07151-3
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●要約
ユーラシアへの人類の最初の拡散時期不明です。現在の証拠から、人類はジョージアのドマニシ遺跡に180万年前頃までに存在していたものの、ユーラシア全域の人類の一時的な痕跡はドマニシ遺跡に先行する、と示唆されています。しかし、ヨーロッパの人類遺骸の報告は140万年前頃まで決定的ではありませんでした。本論文は、複数の切創痕のある骨の形で、ルーマニアのグラウンセアヌ遺跡における人類活動の証拠を提示します。生層序学および高解像度のU-Pb年代推定値はグラウンセアヌ遺跡の年代が195万年以上前であることを示唆しており、グラウンセアヌ遺跡はヨーロッパにおける最良に年代測定された初期人類遺跡の一つとなります。ウマの歯列の同位体分析に基づく環境復元から、グラウンセアヌ遺跡は比較的温暖で季節的だった、と示唆され、ユーラシアにおける最初期の人類でさえ、広範な生息地耐性があった、と論証されます。複数の他の一連の証拠とともに提示される本論文の結果は、広範ではあるものの、おそらくは断続的な、少なくとも200万年前頃までのユーラシア全域にわたる人類の存在を示します。
●研究史
アフリカ外の人類の最初の出現の現時点における証拠は、ジョージアのドマニシ遺跡に由来します。185万~177万年前頃のドマニシ遺跡出土物[1]には、多数の人類遺骸[2]や石器や動物遺骸の人類の改変(つまり、屠殺痕)の証拠が含まれています。ドマニシ遺跡はジェーラ期となる前期更新世までにアジア南西部/ヨーロッパ東部に人類が存在したことを明らかに論証しますが、アフリカからの人類の最初の拡散の正確な時期およびこれらの拡散の長期の成功は議論されています。これはヨーロッパにおいてとくに当てはまり、ヨーロッパ南部および北部における人類の存在時期に関する議論が続いています。アジアの化石出土地の最新の年表(とくに中国[7])と、ユーラシア全域の人類の活動のつかの間の若しくは一時的な痕跡(たとえば、石器および/もしくは人類化石に伴う骨の人為的な改変)を表しているかもしれない出土地の数の増加から、人類はドマニシ遺跡の前にユーラシアに存在していた可能性が高い、と示唆されます(図1)。以下は本論文の図1です。
ユーラシアへの人類の最初の拡散を解明できるかもしれない前期更新世ユーラシアの遺跡の一つが、ルーマニアのオルテツ川流域(Olteţ River Valley、略してORV)に位置するグラウンセアヌ遺跡です。この地域は、カルパチア山脈のすぐ南側となる、チアン(Dacian)堆積盆地に位置します(図1)。堆積物はテトイウ層(Tetoiu Formation)に由来し、その堆積物は化石が豊富にある複数の河川湖層序を表しています。この層は更新世の基底部から新しいところでは130万年前頃まで広がっています。グラウンセアヌ遺跡は元々1960年代に発掘され、ヨーロッパ東部~中央部の最もよく知られている前期更新世遺跡の一つです。生物年代学的評価では、グラウンセアヌ遺跡はヴィラフランキアン(Villafranchian)後期(220万~190万年前頃)で、哺乳類生層序帯MN17/MmQ1に属する、と示唆されています。グラウンセアヌ遺跡では少なくとも31の分類群が特定されており、それに含まれるのは、マンモス、ウシ科とシカ科の複数種、キリン科、ウマ科、サイ科、複数の肉食動物種、齧歯類(ビーバーとヤマアラシ)、ダチョウ、パラドリチョピテクス属(Paradolichopithecus)のような陸生サルの大型種、ヨーロッパにおけるセンザンコウの最も新しい代表例です。
古生態学的分析から、グラウンセアヌ遺跡は古オルテツ川沿いの森林草原地帯環境だった、と示唆されています。ORVの他の出土地には、ラ・ピエトリス(La Pietriș)やヴァレア・ロスカイ(Valea Roșcăi)の準同時代遺跡や、わずかに生物年代学的に新しいファンタナ・ルイ・ミティラン(Fântâna lui Mitilan)遺跡や、複数のより小さな遺跡が含まれます。グラウンセアヌ遺跡では人類遺骸もしくはその場の石器が確認されてきませんでしたが、以前の研究者は近隣の準同時代のデアルル・ミジュロシウ(Dealul Mijlociu)遺跡から発見された石器を記載しており、その研究では生物年代学的比較に基づいて、デアルル・ミジュロシウ遺跡がグラウンセアヌ遺跡と類似した動物相層準に位置づけられました。
本論文は、ルーマニアのグラウンセアヌ遺跡から発見された切創痕の形で、少なくとも195万年前頃までにユーラシアに人類が存在した証拠を提示し、この年代は高精度のU-Pb年代推定値によって裏づけられます。同じ遺跡のウマの上顎の高解像度の酸素(O)および炭素(C)の安定同位体分析も実行され、気温の季節性と降水量が復元されました。本論文はこれらのデータを、前期更新世のユーラシアへの初期の人類拡散の一時的な痕跡に関するより大きな議論の文脈へと位置づけ、少なくとも200万年前頃までにユーラシア全域に人類が存在したことを支持します。
●化石生成論
グラウンセアヌ遺跡の合計NISP(number of identified specimen、特定された標本数)は4983点です。これらのうち、4524点(遊離した歯および角/枝角の標本は除きます)は、先行研究で概説された実施要綱に従って、1名以上の観察者によって、強く低角度の光の下でBSM(bone surface modifications、骨表面改変)の証拠について調べられました。遺骸の化石生成論的条件はひじょうに一貫しており(つまり、すべての骨が同様の色調と堆積後の変化を示しています)、多くの骨は発掘時には依然として関節を保っており、標本の大半(75%超)には元々の骨格要素の少なくとも半分が保存されていました。この標本群は単一の堆積を表している、と解釈され、低エネルギーの川を越えた季節性洪水堆積物の可能性が高そうです。この標本群は全体的に風化(標本の85.3%は風化段階0)もしくは水による変化(21点の標本のみに摩耗があります)をほとんど示しません。これらの結果から、この標本群が再加工を再食(堆積物の撹拌)を受けておらず、堆積前に表面は長く露出していなかった、と示唆されます。骨表面の可視性は全体的に良好で、ほとんどの標本(73%超)は、骨表面の75~100%を視認できます。標本の大半(81.7%)はある程度の根元の腐食が見られ、堆積後の損傷(たとえば、欠けや割れ目や剥離)は標本の41.5%に存在しました。肉食動物による損傷は、歯の刻み目や穴や波状の破損端やこれら3通りの歯の変化のあらゆる組み合わせの形で、標本群の9.5%に存在します。
グラウンセアヌ遺跡の合計1189点の標本には線状痕を示しており、その大半は歯痕(290点)か踏みつけ痕か掘削痕(296点)か未知の痕として特定されました。打撃痕の証拠は記録されませんでした。合計20点の標本が切創痕を示し、これらのうち7点は高い信頼度の切創痕、12点はまず確実な切創痕、1点は両方の種類の切創痕を示しており(図2)、すべての痕跡の詳細な記述は補足注5で見ることができます。切創痕は2種類の方法を用いて特定され、それは、(1)先行研究から修正された定性的分析と、別の先行研究で概説された手法を用いての定量的分析です。高い信頼度の切創痕があると特定された8点の標本には、4点の脛骨と1点の下顎骨と1点の上腕骨と2点の長骨の断片が含まれます。高い信頼度の切創痕のある分類学的に診断可能な標本のすべては、1点の小さな肉食動物の脛骨を除いて、すべて偶蹄類に由来します。ほとんどの標本には、切創痕と特定された2点以上の線状痕があります。すべての新制度の高い切創痕には直線状の軌跡があり、おもに骨の長軸に対して横方向で、痕跡内の色は主要な骨表面と同じ色ですが、ごくわずかな標本には微細な溝もしくは肩効果があります。構成部分まで特定できた標本では、切創痕は肉の切断と一致する解剖学的位置、とくに脛骨遠位部で現れます。高い信頼度の切創痕として特定されたほとんどの痕跡は、高い事後確率での定量的分析でも切創痕として分類されました。以下は本論文の図2です。
まず確実な切創痕を示す13点の標本は、表面がより劣化し(たとえば、根元の腐食、表面の剥離)、定量的分析では切創痕と特定されなかった、および/もしくは切創痕として決定的に特定される充分な定量的特徴を示さないため、より低い信頼度となりました。これらの痕跡はより広範な骨格要素で見られますが、後足の頻度が最も高く(5点)、続いて他の長骨と下顎骨です。まず確実な切創痕は単一の長い線状痕もしくは最大15点の小さな線状痕の断片です。ほとんどの痕跡は直線状の軌跡で、骨の長軸に対して斜めに向いている頻度がより高く、微細な溝は稀で、肩効果を示しません。
●U-Pb年代測定
ORVの出土地の放射性年代は、グラウンセアヌ遺跡の哺乳類標本7点とヴァレア・ロスカイ遺跡の標本1点とファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の標本1点の、歯列のレーザー除去U-Pb分析を用いて推定されました(図3)。補足表5では、U-Pbデータに基づく「平衡」年代推定値と、わずかに新しい「不平衡補正」年代が示され、これは²³⁸U-²⁰⁴Pbの崩壊系列における潜在的な初期不平衡が考慮されています。以下は本論文の図3です。
以後のすべての議論では後者が用いられ、この年代推定値はグラウンセアヌ遺跡の標本について最も堅牢な年代推定値を提供し、その範囲は201万±20万年前~187万±16万年前(±2σ)で、平均年代は195万年前となり、年代はこの平均値周辺で密接にまとまっており(図3)、この推定値に高い信頼性を与えます。ヴァレア・ロスカイ遺跡の標本VRc.0001の補正年代は205万±22万年前ですが、ファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の標本FM.0019の補正年代は161万±10万年前です。
これらのU-Pb推定値はグラウンセアヌ遺跡とファンタナ・ルイ・ミティラン遺跡の生物年代学的推定値、グラウンセアヌ遺跡と同様の年代と示唆されてきたおよびヴァレア・ロスカイ遺跡の層序学的位置づけと一致します。これらの結果は化石堆積の下限年代の最良な推定値を提供し、それは、これらの結果が、化石の歯と骨の標本に遍在している、環境との堆積後のウラン交換のU-Pb系の最終的な閉鎖を表しているからです。堆積と閉鎖との間の時期はほぼ確実に変動し、おそらくは場所によります。これらのU-Pbの結果は、これらの遺跡の生物年代学と組み合わされて、195万年以上前および200万年以上前にさかのぼる可能性という、グラウンセアヌ遺跡の堆積の本論文の推定年代に高い信頼度を与え、グラウンセアヌ遺跡が人類の活動の証拠を示すヨーロッパでは最古級の遺跡であるかもしれない、と示唆しています。
●安定同位体
グラウンセアヌ遺跡のウマ属種標本の離乳後の頬歯から得られた、酸素(δ¹⁸O)と炭素(δ¹³C)の安定同位体比が分析されました(図4)。高解像度標本抽出を用いて、歯冠および歯列(P2-M3)全体の差異が評価されたことによって、降水量の季節的変動の調査が可能となり、それは、ウマ科が必ず水を飲む動物で(つまり、単数供給源に依存)、その食性が比較的固定されているからです(つまり、体重900kg以上となる、おもに草本を採食する動物)。以下は本論文の図4です。
VSMOW(Vienna Standard Mean Ocean Water、ウィーン標準平均海水)に基づくと、炭酸塩で観察されるδ¹⁸O値の範囲は19.9‰と26.2‰の間で、平均値は23.5‰です。先行研究はグラウンセアヌ遺跡の平均δ¹⁸O値について18.9‰~25.3‰(VSMOW)を報告しており、このわずかな違いは、値が、未確定の季節性の偏りのあるエナメル質を組み込んでいる複数の偶蹄類標本から得られた大量標本で測定された、との事実によって説明できるか、あるいは、摂食行動および/もしくは移動修正の差異を反映しているかもしれません。
本論文はこれらのδ¹⁸O同位体値を、3種類の異なる変換関数を用いて、天水値に変換しました。P2-P3-P4-M3の歯列および3種類の式の年間平均値は−10.8±1.0‰(VSMOW)で、これはルムニク・ヴルチャ(Râmnicu Vâlcea)市の現在の加重平均値−8.1‰より低くなります。そうした大きな違いは、先行研究の式で採用されていたならば、約4度の年間気温復元をもたらしますが、この復元はグラウンセアヌ遺跡の温暖な気候に適応した動物相の存在と矛盾一致します。複数の要因がグラウンセアヌ遺跡における降水量の同位体痕跡に影響を及ぼすかもしれませんが(たとえば、気団起源、放射性物質降下の履歴、全球氷床の堆積、水の循環)、前期更新世のこれらの要因に関する情報は少なく、地域的な降水量への潜在的な同位体の影響を議論することはできません。したがって本論文では、この低い値は、現在と比較して、帯水層涵養量への冬の降水量の増加を示唆している、と主張されます。前期更新世における冬の成分の増加は、グラウンセアヌ遺跡における復元された夏の値(−7.3‰)が現在の地域的な値より低い理由も説明できるかもしれず、それは、ウマがより強い冬の同位体兆候のある水を飲んでいたかもしれないからです。
本論文のエナメル質のδ¹³C値を植物組織のδ¹³Cへと変換すると、VPDB(Vienna Peedee belemnite、ウィーンのピーディー層ベルムナイト)では−28.9±0.5‰と−25.7±0.5‰の間の値が得られ、これは森林地帯から森林地帯中湿性C3草地にかけての摂食と一致し、グラウンセアヌ遺跡に関する以前の環境復元を裏づけます。最高値が夏に記録されており、旱魃圧力下の光合成と関連しているかもしれない一方で、最低値は冬に記録されています(図4)。先行研究の式を用いて、完全な誤差伝播の実行後に最も乾燥した月では−4mmと32mmの間の降水量、最も湿潤な月では45mmと222mmの間の降水量が得られました。この結果は、ORVにおける帯水層涵養量への冬の降水量の増加との本論文の解釈をさらに裏づけます。
●考察
ユーラシアへの最古級の人類の(複数の)拡散の時期と場所に関する継続中の議論は、年代測定の不確実さや一部の地理的地域における研究の不足やいくつかの石器群の人為的性質に関する議論を含めて、さまざまな困難によって妨げられてきました[30]。100万年以上前となるユーラシアとアフリカ北部において報告されている初期人類の調査(図1および図5)は、これらの地域全体で少なくとも49ヶ所の遺跡となり、そのうち16ヶ所はドマニシ遺跡に先行するかもしれません。これらの遺跡は、人類化石と石器群と屠殺の証拠の組み合わせを示しますが、この3点の指標すべてが含まれているのは数ヶ所の遺跡のみです。以下は本論文の図5です。
アフリカ外の最古級の遺跡(200万年以上前)は、中東とロシア西部と黒海およびカスピ海とアジア中央部と中国にまとまっています。これらの遺跡には、石器のみおよび/もしくは切創痕のある少数の骨を伴う出土地の混合が含まれています。この一群のいくつかの遺跡は、切創痕のある骨が報告されてきましたが、これらの改変を示す化石群の割合は低く、インドのマソル(Masol)遺跡では切創痕のある3点の骨、リヴェンツォフカ(Liventsovka)遺跡では複数の痕跡のある1点の骨、ロシアのムーカイ(Muhkai)遺跡では6ヶ所の痕跡のある1点の骨が報告されています。人類遺骸があるかもしれない、ドマニシ遺跡に先行する唯一の遺跡は中国の竜骨洞(Longgudong)遺跡で、6点の人類の歯と膨大な石器群が報告されました。
200万~150万年前頃の別の数十ヶ所の遺跡は、ふたたび中東とロシアと中国にまとまっており、アフリカ外の人類の最初の確実な証拠が含まれ、つまりはドマニシ遺跡と中国の公王嶺(Gongwangling)遺跡です。150万~100万年前頃には、ヨーロッパと遠くアジア南東部における人類の存在を示唆する最初の遺跡があり、注目すべきことにこれらの遺跡は、人類化石、充分に定義された石器群、屠殺の証拠を示す動物の骨があるずっと多くの遺跡の形で、人類の確実な証拠を示しています。現時点では、ヨーロッパの最古級の人類化石は、140万年前頃となるスペイン南部のアンダルシア州グラナダ県にあるオース(Orce)地域のバランコレオン(Barranco León)遺跡[35]、130万~110万年前頃となるトルコのコカバス(Kocabaş)遺跡、120万~110万年前頃となるスペインのシマ・デル・エレファンテ(Sima del Elefante)遺跡[37]ですが、複数の他の遺跡には石器群と切創痕のある動物相遺骸があります(図5)。
図5で一覧にある遺跡のうち21ヶ所で切創痕のある動物相遺骸が報告されており、切創痕を示す遺骸群の最高級の割合は、アルジェリアのエル・ハーバ(El-Kherba)遺跡(2.100%)[38]、アルジェリアのアイン・ブーシェリ(Aïn Boucherit)遺跡(5.743%超)[39]、スペインのシマ・デル・エレファンテ遺跡(5.000%)で、他のすべての遺跡で報告されている割合は2%未満で、時には2%を大きく下回ります。ドマニシ遺跡では、切創痕がある遺骸群はわずか0.392%で、人類が明らかに存在していたにも関わらず、この遺骸群の視察の証拠は低い、と論証されます。比較すると、グラウンセアヌ遺跡の遺骸群の切創痕の割合は、高い信頼度のもので0.176%、あるいはまず確実な切創痕を含めると0.442%を示します。グラウンセアヌ遺跡では石器も人類化石も発見されていませんが、本論文の詳細な化石生成論的分析は、人類および/もしくは石器が存在して充分に受け入れられている、同様の年代さらにはより新しい遺跡に匹敵する割合での、人為的な表面改変の形で人類の存在の明確な証拠を明らかにします。掲載されているすべての遺跡が化石生成論的評価を公表していたわけではありませんが、化石生成論的分析のあるすべての遺跡は、その遺骸群に切創痕の存在を報告しています。このパターンは、化石群の規模に関わらず存在し、ある種のオルドヴァイ効果(Olduvai Effect)かもしれず、オルドヴァイ効果とは、より集中的な研究によってより広範で微妙な解釈につながることです。したがって、さらなる調査によって、ユーラシアにおける初期人類の存在のより多くの痕跡がさらに特定される可能性は高そうです。
グラウンセアヌ遺跡から石器もしくは人類化石が発見されていないので、本論文の化石生成論的分析が懐疑的見られる可能性を本論文は認識しています。しかし、アフリカ東部には、人類の屠殺痕について刊行されている証拠のある遺跡が数ヶ所あり、そうした遺跡でも石器もしくは人類化石が保存されていません。本論文はこの限界を認識し、高い再分類率をもたらす、確立された定性的手法および定量的手法を使用しました。本論文の定性的分析で切創痕として特定された線状痕は定量的分析で高い事後確率となり、その分類を裏づけます。由来の不明な多くの線状痕も、さらなる検討から慎重に除外されました。それでも、グラウンセアヌ遺跡における人類の屠殺の強力な証拠が残り、その強度は容易に却下できません。
本論文で含められたこれらの遺跡の一部の人為的起源、とくに200万年以上前の遺跡については、議論されています[30]。これらの遺跡の一部は年代測定が間違っており、および/もしくは人為的起源ではないかもしれませんが、この量の証拠の無視は困難で、おそらく浅はかであり、本論文は、人類が200万年以上前にユーラシアに存在した、と真剣に検討することは賢明である、と提案します。じっさい、本論文の結果は195万年以上前までのヨーロッパ東部~中央部における人類の存在を示唆しています。じっさい、200万年以上前かもしれないヨーロッパの遺跡のうち、グラウンセアヌ遺跡は最も信頼できる(下限)年代の推定値の恩恵があることで際立っており、以前に刊行された生物年代学的推定値は今や、不確実性の関連する定量化を提供する分析的利点がある、放射性年代測定によって裏づけられています。
本論文は、ユーラシアへと最初に拡散したかもしれない人類種(もしくは複数種)に関する議論を意図的に避けています。これは、アフリカ東部および南部の遺跡において複数の人類種が共存していた期間です[45、46]。図5におけるほぼ全ての人類化石の分類学的類似性は議論されており、多くはホモ属種のみに同定され、他はホモ・エレクトス(Homo erectus)/ホモ・エルガスター(Homo ergaster)と同定されています。現在の証拠[46、47]から、最古級の広義のホモ・エレクトスは南アフリカ共和国とエチオピアの両方に200万年前頃に存在していた、と示唆されているので、これが提案する可能性は、人類が200万年以上前にユーラシアに存在していたならば、ホモ・エレクトスではなかったかもしれない、および/もしくはホモ・エレクトスが現在のデータより古い、ということです。
ユーラシアへの人類の拡散について多くの不確実性があり、それにはこれらの拡散の時期と経路と連続性が含まれます。人類が200万年以上前にアフリカから最初に拡散したならば、その痕跡の一時的な性質が空間的および/もしくは時間的に不連続な人口集団の証拠であることはほぼ確実で、おそらく制約された緯度の範囲および/もしくは間氷期に限られており、そこでは環境が人類の存在により役立ったかもしれません[49]。現時点では、ジブラルタル海峡経由でのアフリカからヨーロッパへの直接的拡散を裏づける証拠はほとんどなく、代わりに、中東における示唆されている人類の出土地の年代は、シナイ半島経由での拡散を裏づけているものの(図5)、一部の地理的地域の調査の不足によって、具体的な経路の特定は困難になっています。前期更新世には、黒海の範囲は現在と同様で、海岸線の同様の形状と、黒海は地中海とはつながっていなかったことが示唆されています。したがって人類は、コーカサスおよびロシア南西部の複数の人類の遺跡かもしれない場所の存在によって示唆されるように、黒海を北回りでルーマニアへと南下しして拡散したか、アナトリア半島とバルカン半島の間の陸橋経由でヨーロッパへと横断し、北方へと拡散して、おそらくは黒海沿岸を迂回したかもしれません。
どの想定でも、人類はアフリカで適応していたであろうよりも、季節の気温変動が大きい寒冷な環境に対処せねばならなかった可能性は高そうです。より寒冷でより乾燥していた期間に堆積した中国の黄土高原における212万年前頃の人工遺物は、人類が当時より寒冷な気候に対応できたことを示唆しています[7]。グラウンセアヌ遺跡に関する本論文の古環境データは、近くに森林と水源がいくつかある、開けて乾燥した環境を示唆します。しかし、大型陸生サルのパラドリチョピテクス属やセンザンコウやダチョウなどより温暖な環境に適応した(もしくは少なくとも寒冷耐性の低い可能性が高い)種の存在は、ORVの冬の温度が比較的穏やかだったことを示唆しています。動物相は穏やかな冬を示唆していますが、安定同位体データから、グラウンセアヌ遺跡の降水量には顕著な季節性分布があり、湿潤な冬と乾燥した夏をもたらした可能性が高い、と示唆されています。これらの古環境と同位体の結果は、ORVが北緯約45度に位置している、との事実と相まって、人類はより温暖な間氷期を利用し、より高い緯度(40度超)に拡散した可能性が高い、という主張を裏づけます。
人類全体、とくにホモ属の構成員は、環境柔軟性によって特徴づけられることが多くあります。少なくとも195万年前頃と確実に年代測定された切創痕のあるホモの形で、証拠が本論文において主張されて提供されているように、200万年前頃のユーラシアにおける人類の広範な存在は、この柔軟性のさらなる裏づけです。これらの人類は、季節性が増加した新たな環境および生態系に対処せねばならなかったでしょう。当時のユーラシアにおける人類の存在が、地理的および時間的に不連続だった可能性が高いことは明らかですが、この地域における人類の多数の一時的な痕跡は、もはや無視できません。
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