黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』
角川選書の一冊として、角川学芸出版より2025年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。来年(2025年)の大河ドラマが羽柴秀長を主人公とする『豊臣兄弟!』なので、羽柴秀吉とその一族に関する最新の研究状況を把握するために読みました。著者は来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代考証を担当しているので、本書の羽柴一族に関する知見が『豊臣兄弟!』でも取り入れられるかもしれず、その点でも注目していました。『豊臣兄弟!』の配役は現時点では、今年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』と比較すると、里見浩太朗氏や石坂浩二氏や高橋英樹氏や渡辺謙氏といった大御所の出演こそないものの、なかなか豪華だと思いますし、かなり楽しみにしています。
まず秀吉の父親についてですが、同時代史料では確認されておらず、現時点で最古の史料は1625年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)成立の小瀬甫庵『太閤記』です。秀吉の父親について記載のある古い史料としては、1642年成立の「祖父物語」と1676年以前成立の土屋知貞「太閤素性記」があります。この3点の史料の内容は相互に一致せず、秀吉の出自は不明となっています。これら初期の史料から、秀吉の実父は弥右衛門で、その死後に秀吉の母親(天瑞院殿)が筑阿弥と再婚し、秀長やと朝日は秀吉にとって異父弟妹だった、とも考えられており、1996年放送の大河ドラマ『秀吉』など、創作ではこの設定が用いられることもあります。本書では、弥右衛門と筑阿弥は同一人物で、秀吉が少年時代に亡くなっていた、と推測されています。本書は、弥右衛門という名もそのままでは信用できない、と指摘し、法号の妙雲院殿を採用しています。妙雲院殿は清須織田家に仕えたものの、清須織田家から去り、出家した後に筑阿弥と名乗ったのではないか、と推測しています。妙雲院殿は清須織田家に代々奉公しており、それは在村被官としてのもので、村落において比較的上層だったものの、何らかの理由で清須織田家に奉公しなく(できなく)なり、一家は没落して貧しくなり、秀吉は他家に奉公に出たのではないか、と本書は推測します。ただ、妙雲院殿の没落前には、その親戚関係からも、一定の階層にあり、苗字を有していたと考えられる、と本書は指摘します。ただ、その苗字は不明で、妙雲院殿の没落以降、秀吉一家は苗字を称する身分ではなくなったのだろう、と本書は推測します。
秀吉の母親である天瑞院殿は1517年生まれで、名は「なか」と伝わっていますが、古い史料では確認されず、信用できないことを本書は指摘します。天瑞院殿の父親は愛知郡の御器所村の有力百姓で、関の苗字を称していたようです。秀吉のキョウダイには、姉の瑞竜院殿と弟の秀長と妹の朝日がいます。生年は、瑞竜院殿が1532年、秀長が1540年、朝日が1543年と推定されています。朝日は徳川家康の正妻となって亡くなりますが、そのまえの夫である副田甚兵衛尉と離婚したのは1582年頃で、本能寺の変後に副田甚兵衛尉が一揆に城を攻略される、という失態のためだった、と本書は推測します。つまり、朝日を徳川家康と結婚させるために、秀吉は副田甚兵衛尉に離婚を命じたわけでないことになります。なお、朝日と家康との結婚は、家康からの要望だったことが示されており、朝日は徳川秀忠を養子に迎えていた、と本書は推測します。
秀吉の親族として、父方では妙雲院殿の妹婿として青木勘兵衛尉重矩と福島市兵衛尉正信が、母方では天瑞院殿の妹婿に杉原七郎左衛門尉家次と小出播磨守秀政、イトコの婿に加藤弾正右衛門兵衛清忠がいます。福島市兵衛尉正信の息子が福島正則、加藤弾正右衛門兵衛清忠の息子が加藤清正です。本書は、秀吉の母方の親族よりも父方の親族の方が優遇されていたことを指摘します。青木勘兵衛尉重矩と福島市兵衛尉正信が妙雲院殿の妹と結婚した時には、すでに妙雲院殿は死去していたと推測されるので、この二組の結婚がどのような経緯だったのかは、今後の検討が必要と本書は指摘します。また、秀吉の父方か母方か不明ですが、又右衛門というオジの存在が確認されており、その他にも、秀吉の出世によって抜擢されたわけではない親族が存在した可能性も、本書は指摘します。
秀吉の織田家臣としての動向が確認される同時代史料は、1565年までさかのぼります。この時点で秀吉はすでに織田家でも有力な家臣の一人だったようです。秀吉が織田信長に仕えた時期について本書では、1558年と推測されています。秀吉は織田家に仕官して、「足軽」となって出身地の村名である「中村」の苗字を称し、これは父とは異なる新しい苗字だっただろう、と本書は推測します。秀吉は、自身の地位が父からの継承ではなく、自ら興したものと強く意識したのだろう、というわけです。秀吉はその後、寄親だった木下雅楽助から「木下」苗字を与えられたのではないか、と本書は推測します。秀吉と寧々との結婚について、江戸時代の史料は1561年説と1565年説に大別され、秀吉の織田家中での地位から、本書は1565年説を採用しています。寧々は杉原家の出身で、叔母婿の浅野長勝の養女になり、秀吉と結婚しました。ただ、寧々はある時期以降、兄が継いだ木下家を実家とした、と本書は推測します。秀吉と寧々との結婚について本書は、秀吉の母親の天瑞院殿の妹婿である杉原家次の姉の子が寧々で、親戚関係にあったことと共に、秀吉の寄親だった木下雅楽助と、寧々が「筆子」として学問指南を受けていたと伝わる養雲院殿がキョウダイだったことを指摘します。秀吉と寧々の結婚当時、秀吉はすでに所領100貫文の「士大将」で、寧々の養父の浅野長勝は信長の馬廻衆だったので、この結婚には信長の承認が必要だった、と指摘します。両者の結婚には、柴田勝家や前田利家も関わっていたようです。
秀吉の実子については、あまり取り上げられることがない石松丸秀勝(母親は南殿)が詳しく検証されています。秀勝については、20世紀に読んだ本か雑誌の記事では、実子なのか疑問視されていたように記憶しています。本書は秀勝について、1576年に15歳で死亡した、秀吉の実子だったのではないか、と推測しています。石松丸秀勝の死後、秀吉は織田信長の五男である次秀勝を養嗣子に迎えています。次秀勝の生年は、1567年か1568年と推定されています。羽柴秀次については、秀吉の養子になったわけではなく、甥として後継者に選ばれた可能性が指摘されています。秀次が三好康長の養子になったことはよく知られているように思いますが、その前には宮部継潤の養子だったようです。その後、1584年に秀次は苗字を三好から羽柴に、実名を信吉から秀次に改めています。秀次の正妻は池田恒興の娘ですが、事績はほとんど伝わっておらず、1601年に亡くなったようです。宇喜多秀家についても、秀吉の養子ではなく、あくまでも養女婿の立場だった、と指摘されています。本書では秀長の嫡男とされる与一郎も取り上げられており、正妻の慈雲院殿の息子と推測されています。
まず秀吉の父親についてですが、同時代史料では確認されておらず、現時点で最古の史料は1625年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)成立の小瀬甫庵『太閤記』です。秀吉の父親について記載のある古い史料としては、1642年成立の「祖父物語」と1676年以前成立の土屋知貞「太閤素性記」があります。この3点の史料の内容は相互に一致せず、秀吉の出自は不明となっています。これら初期の史料から、秀吉の実父は弥右衛門で、その死後に秀吉の母親(天瑞院殿)が筑阿弥と再婚し、秀長やと朝日は秀吉にとって異父弟妹だった、とも考えられており、1996年放送の大河ドラマ『秀吉』など、創作ではこの設定が用いられることもあります。本書では、弥右衛門と筑阿弥は同一人物で、秀吉が少年時代に亡くなっていた、と推測されています。本書は、弥右衛門という名もそのままでは信用できない、と指摘し、法号の妙雲院殿を採用しています。妙雲院殿は清須織田家に仕えたものの、清須織田家から去り、出家した後に筑阿弥と名乗ったのではないか、と推測しています。妙雲院殿は清須織田家に代々奉公しており、それは在村被官としてのもので、村落において比較的上層だったものの、何らかの理由で清須織田家に奉公しなく(できなく)なり、一家は没落して貧しくなり、秀吉は他家に奉公に出たのではないか、と本書は推測します。ただ、妙雲院殿の没落前には、その親戚関係からも、一定の階層にあり、苗字を有していたと考えられる、と本書は指摘します。ただ、その苗字は不明で、妙雲院殿の没落以降、秀吉一家は苗字を称する身分ではなくなったのだろう、と本書は推測します。
秀吉の母親である天瑞院殿は1517年生まれで、名は「なか」と伝わっていますが、古い史料では確認されず、信用できないことを本書は指摘します。天瑞院殿の父親は愛知郡の御器所村の有力百姓で、関の苗字を称していたようです。秀吉のキョウダイには、姉の瑞竜院殿と弟の秀長と妹の朝日がいます。生年は、瑞竜院殿が1532年、秀長が1540年、朝日が1543年と推定されています。朝日は徳川家康の正妻となって亡くなりますが、そのまえの夫である副田甚兵衛尉と離婚したのは1582年頃で、本能寺の変後に副田甚兵衛尉が一揆に城を攻略される、という失態のためだった、と本書は推測します。つまり、朝日を徳川家康と結婚させるために、秀吉は副田甚兵衛尉に離婚を命じたわけでないことになります。なお、朝日と家康との結婚は、家康からの要望だったことが示されており、朝日は徳川秀忠を養子に迎えていた、と本書は推測します。
秀吉の親族として、父方では妙雲院殿の妹婿として青木勘兵衛尉重矩と福島市兵衛尉正信が、母方では天瑞院殿の妹婿に杉原七郎左衛門尉家次と小出播磨守秀政、イトコの婿に加藤弾正右衛門兵衛清忠がいます。福島市兵衛尉正信の息子が福島正則、加藤弾正右衛門兵衛清忠の息子が加藤清正です。本書は、秀吉の母方の親族よりも父方の親族の方が優遇されていたことを指摘します。青木勘兵衛尉重矩と福島市兵衛尉正信が妙雲院殿の妹と結婚した時には、すでに妙雲院殿は死去していたと推測されるので、この二組の結婚がどのような経緯だったのかは、今後の検討が必要と本書は指摘します。また、秀吉の父方か母方か不明ですが、又右衛門というオジの存在が確認されており、その他にも、秀吉の出世によって抜擢されたわけではない親族が存在した可能性も、本書は指摘します。
秀吉の織田家臣としての動向が確認される同時代史料は、1565年までさかのぼります。この時点で秀吉はすでに織田家でも有力な家臣の一人だったようです。秀吉が織田信長に仕えた時期について本書では、1558年と推測されています。秀吉は織田家に仕官して、「足軽」となって出身地の村名である「中村」の苗字を称し、これは父とは異なる新しい苗字だっただろう、と本書は推測します。秀吉は、自身の地位が父からの継承ではなく、自ら興したものと強く意識したのだろう、というわけです。秀吉はその後、寄親だった木下雅楽助から「木下」苗字を与えられたのではないか、と本書は推測します。秀吉と寧々との結婚について、江戸時代の史料は1561年説と1565年説に大別され、秀吉の織田家中での地位から、本書は1565年説を採用しています。寧々は杉原家の出身で、叔母婿の浅野長勝の養女になり、秀吉と結婚しました。ただ、寧々はある時期以降、兄が継いだ木下家を実家とした、と本書は推測します。秀吉と寧々との結婚について本書は、秀吉の母親の天瑞院殿の妹婿である杉原家次の姉の子が寧々で、親戚関係にあったことと共に、秀吉の寄親だった木下雅楽助と、寧々が「筆子」として学問指南を受けていたと伝わる養雲院殿がキョウダイだったことを指摘します。秀吉と寧々の結婚当時、秀吉はすでに所領100貫文の「士大将」で、寧々の養父の浅野長勝は信長の馬廻衆だったので、この結婚には信長の承認が必要だった、と指摘します。両者の結婚には、柴田勝家や前田利家も関わっていたようです。
秀吉の実子については、あまり取り上げられることがない石松丸秀勝(母親は南殿)が詳しく検証されています。秀勝については、20世紀に読んだ本か雑誌の記事では、実子なのか疑問視されていたように記憶しています。本書は秀勝について、1576年に15歳で死亡した、秀吉の実子だったのではないか、と推測しています。石松丸秀勝の死後、秀吉は織田信長の五男である次秀勝を養嗣子に迎えています。次秀勝の生年は、1567年か1568年と推定されています。羽柴秀次については、秀吉の養子になったわけではなく、甥として後継者に選ばれた可能性が指摘されています。秀次が三好康長の養子になったことはよく知られているように思いますが、その前には宮部継潤の養子だったようです。その後、1584年に秀次は苗字を三好から羽柴に、実名を信吉から秀次に改めています。秀次の正妻は池田恒興の娘ですが、事績はほとんど伝わっておらず、1601年に亡くなったようです。宇喜多秀家についても、秀吉の養子ではなく、あくまでも養女婿の立場だった、と指摘されています。本書では秀長の嫡男とされる与一郎も取り上げられており、正妻の慈雲院殿の息子と推測されています。
この記事へのコメント
研究によると、三浦按針の遺骸である可能性が高い、との結論が出ているそうです。
https://www.toho-u.ac.jp/press/2020_index/20210113-1113.html