James Poskett『科学文明の起源 近代世界を生んだグローバルな科学の歴史』
ジェイムズ・ポスケット(James Poskett)著、水谷淳訳で、東洋経済新報社より2023年12月に刊行されました。原書の刊行は2022年です。電子書籍での購入です。本書は、近代科学の発展には世界中の人々が貢献したのであって、ヨーロッパのみの功績ではない、と強調し、前近代にまでさかのぼって、ヨーロッパ以外の地域の科学や技術を広範に取り上げています。本書の対象は、網羅的ではないとしても、時空間的に広範なので、これまで知らなかった知見が多く得られ、私もまだヨーロッパ中心史観に大きく制約されていることを、改めて思い知らされました。
本書はまずアメリカ大陸を取り上げますが、それは、観測や実験ではなく古典に基づいて議論していたヨーロッパが、観測や実験を重視するようになった重要な契機として、アメリカ大陸との本格的な交流があったからではないか、との認識に基づいています。アメリカ大陸の人々や建造物や自然は古典に記載がなく、ヨーロッパ世界において、古典を相対化し、科学の理解を根本的に変えていくことになったわけです。アメリカ大陸とヨーロッパとの本格的な接触が始まってすぐに、この問題に気づいた一人がアメリゴ・ヴェスプッチでした。
イスラム教圏については、9~14世紀が科学の「黄金時代」と呼ばれており、15~17世紀のヨーロッパにおける「科学革命」から切り離すような認識が近代になって有力になりましたが、本書は、ヨーロッパの科学革命において、サハラ砂漠以南のアフリカも含めてイスラム教圏など非ヨーロッパ世界の見解が参照されていたことを指摘します。コペルニクスにしても、ペルシアやイスラム教圏だったイベリア半島の地域などから学術的恩恵を受けていた、というわけです。本書はコペルニクスを、独力で科学革命に大きく貢献した孤高の天才ではなく、ヨーロッパを越えたずっと広範な文化交流の中に位置づけています。さらに本書は、ヨーロッパの科学革命に他地域からの影響があるだけではなく、オスマン帝国やサハラ砂漠以南のアフリカやアジア南部および東部などにおいても、同時期のヨーロッパにおける科学革命と類似した現象が見られることを指摘します。
ただ、18世紀以降、次第にヨーロッパ勢力が軍事的に他地域に優位に立っていき、産業革命を経て19世紀後半にはヨーロッパ勢力の他地域に対する優位は明確となり、この過程でヨーロッパ勢力は非ヨーロッパ世界の多くの地域を植民地化していきます。ヨーロッパにおける18世紀の科学の発展は目覚ましく、本書はこの期間のヨーロッパ世界において科学と国家との間に堅固なつながりがあったことを重視します。一方で本書は、18世紀のヨーロッパ世界における科学の発展を、ヨーロッパだけで完結しているのではなく、世界の動向の中に位置づけています。この時期、ヨーロッパ人が世界各地に交易や軍事遠征や探検などのために赴いており、そこから得られた観測データとともに、現地人の知識がヨーロッパの科学革命に役立ったわけです。また、17世紀~18世紀の博物学の発展が経済と強く結びついており、ヨーロッパだけではなくユーラシア東部圏でも起きていた事象であることを本書は指摘し、明王朝やダイチン・グルン(大清帝国)や江戸時代の日本の事例を取り上げています。
近代における科学の発展についても、本書は非ヨーロッパ世界の貢献を取り上げています。たとえば、1900年の第1回国際物理学会議にしても、トルコや日本やインドやメキシコの物理学者が参加し、自身の研究成果を発表していました。本書は、当時の科学出版の世界が現在よりもずっと言語的に多様で、日本人の物理学者の長岡半太郎も含めてこうした多様な人々の科学への貢献は、現代よりも当時の方がヨーロッパではよく知られていたことも指摘します。また本書は、こうした科学的業績が、在来の前近代の文化的伝統も取り入れたものだったことも指摘します。
本書は最後に遺伝学を取り上げており、現代の遺伝学の発展が冷戦の政治と深く結びついていたことを指摘しています。冷戦後の遺伝学は、「実用的」には食糧確保や医療あるいは健康問題と深く結びついていました。冷戦後の遺伝学は他に、独立国家が増えていく中で、国民の帰属意識の醸成に役立つことも要求されました。本書ではこの問題について、イスラエルやトルコなどの20世紀の事例を短く取り上げていますが、最後に、ゲノム解析が20世紀よりもはるかに容易になった現在、遺伝学が民族主義を煽っていることに、注意を喚起しています。現在の遺伝学は、血液型の割合の集団間の差異といった、ある意味で「素朴な」言説ではなく、より「科学的な」装いで現れているわけで、警戒を強めるべきとは思います(関連記事)。
本書は冷戦後の遺伝学について、インドや中国などの事例を取り上げており、ソ連もそうでしたが、研究者が政治に翻弄されることは珍しくありませんでした。中国では、共産党が内戦に勝利した時に北京農業大学の教授だった遺伝学者の李景均は、共産党の高官からメンデル遺伝学ではなくルイセンコ理論を教えるよう命じられ、香港を経由してアメリカ合衆国へと亡命し、集団遺伝学で先駆的な業績を残しました。共産党が政権を掌握した後の中国では、科学者の迫害は珍しくなく、李景均のように外国へと亡命した科学者も少なくありませんでした。しかし本書は、過酷な共産党政権下でも、袁隆平によるイネの交配種の開発など、厳しい制約の中で価値のある研究が行なわれたことを指摘します。最高権力者の毛沢東も科学の振興に努めており、ルイセンコ理論も建国から比較的早くに国策ではなくなりました。ただ、毛沢東政権下で科学者が政治に翻弄されて過酷な運命に陥ることは珍しくなかったようで、袁隆平にしても、文化大革命で糾弾の対象となり、短期間ではあるものの、労働収容所に送られたこともありました。
本書は今後の見通しとして、現代の科学も世界規模の営みであり、多くの人々に恩恵ももたらすものの、国家主義や民族主義や世界的な大企業の利害に引きずられて、多くの人々にとって有害となる可能性も指摘します。多くの現代人にとっても関心があることでしょうが、本書も人工知能の正負両面の大きな可能性を取り上げています。本書は現在の世界情勢をアメリカ合衆国と中華人民共和国との間の「新冷戦」と認識しており、今後の科学の未来について、「グローバリゼーション」と「ナショナリズム」の二つの力の中間の道を見つけられるかどうかにかかっている、と指摘します。そのためには過去をより正しく理解する必要があり、ヨーロッパに偏らない科学の歴史の必要というわけです。
参考文献:
Poskett J.著(2023)、水谷淳訳『科学文明の起源 近代世界を生んだグローバルな科学の歴史』(東洋経済新報社、原書の刊行は2022年)
本書はまずアメリカ大陸を取り上げますが、それは、観測や実験ではなく古典に基づいて議論していたヨーロッパが、観測や実験を重視するようになった重要な契機として、アメリカ大陸との本格的な交流があったからではないか、との認識に基づいています。アメリカ大陸の人々や建造物や自然は古典に記載がなく、ヨーロッパ世界において、古典を相対化し、科学の理解を根本的に変えていくことになったわけです。アメリカ大陸とヨーロッパとの本格的な接触が始まってすぐに、この問題に気づいた一人がアメリゴ・ヴェスプッチでした。
イスラム教圏については、9~14世紀が科学の「黄金時代」と呼ばれており、15~17世紀のヨーロッパにおける「科学革命」から切り離すような認識が近代になって有力になりましたが、本書は、ヨーロッパの科学革命において、サハラ砂漠以南のアフリカも含めてイスラム教圏など非ヨーロッパ世界の見解が参照されていたことを指摘します。コペルニクスにしても、ペルシアやイスラム教圏だったイベリア半島の地域などから学術的恩恵を受けていた、というわけです。本書はコペルニクスを、独力で科学革命に大きく貢献した孤高の天才ではなく、ヨーロッパを越えたずっと広範な文化交流の中に位置づけています。さらに本書は、ヨーロッパの科学革命に他地域からの影響があるだけではなく、オスマン帝国やサハラ砂漠以南のアフリカやアジア南部および東部などにおいても、同時期のヨーロッパにおける科学革命と類似した現象が見られることを指摘します。
ただ、18世紀以降、次第にヨーロッパ勢力が軍事的に他地域に優位に立っていき、産業革命を経て19世紀後半にはヨーロッパ勢力の他地域に対する優位は明確となり、この過程でヨーロッパ勢力は非ヨーロッパ世界の多くの地域を植民地化していきます。ヨーロッパにおける18世紀の科学の発展は目覚ましく、本書はこの期間のヨーロッパ世界において科学と国家との間に堅固なつながりがあったことを重視します。一方で本書は、18世紀のヨーロッパ世界における科学の発展を、ヨーロッパだけで完結しているのではなく、世界の動向の中に位置づけています。この時期、ヨーロッパ人が世界各地に交易や軍事遠征や探検などのために赴いており、そこから得られた観測データとともに、現地人の知識がヨーロッパの科学革命に役立ったわけです。また、17世紀~18世紀の博物学の発展が経済と強く結びついており、ヨーロッパだけではなくユーラシア東部圏でも起きていた事象であることを本書は指摘し、明王朝やダイチン・グルン(大清帝国)や江戸時代の日本の事例を取り上げています。
近代における科学の発展についても、本書は非ヨーロッパ世界の貢献を取り上げています。たとえば、1900年の第1回国際物理学会議にしても、トルコや日本やインドやメキシコの物理学者が参加し、自身の研究成果を発表していました。本書は、当時の科学出版の世界が現在よりもずっと言語的に多様で、日本人の物理学者の長岡半太郎も含めてこうした多様な人々の科学への貢献は、現代よりも当時の方がヨーロッパではよく知られていたことも指摘します。また本書は、こうした科学的業績が、在来の前近代の文化的伝統も取り入れたものだったことも指摘します。
本書は最後に遺伝学を取り上げており、現代の遺伝学の発展が冷戦の政治と深く結びついていたことを指摘しています。冷戦後の遺伝学は、「実用的」には食糧確保や医療あるいは健康問題と深く結びついていました。冷戦後の遺伝学は他に、独立国家が増えていく中で、国民の帰属意識の醸成に役立つことも要求されました。本書ではこの問題について、イスラエルやトルコなどの20世紀の事例を短く取り上げていますが、最後に、ゲノム解析が20世紀よりもはるかに容易になった現在、遺伝学が民族主義を煽っていることに、注意を喚起しています。現在の遺伝学は、血液型の割合の集団間の差異といった、ある意味で「素朴な」言説ではなく、より「科学的な」装いで現れているわけで、警戒を強めるべきとは思います(関連記事)。
本書は冷戦後の遺伝学について、インドや中国などの事例を取り上げており、ソ連もそうでしたが、研究者が政治に翻弄されることは珍しくありませんでした。中国では、共産党が内戦に勝利した時に北京農業大学の教授だった遺伝学者の李景均は、共産党の高官からメンデル遺伝学ではなくルイセンコ理論を教えるよう命じられ、香港を経由してアメリカ合衆国へと亡命し、集団遺伝学で先駆的な業績を残しました。共産党が政権を掌握した後の中国では、科学者の迫害は珍しくなく、李景均のように外国へと亡命した科学者も少なくありませんでした。しかし本書は、過酷な共産党政権下でも、袁隆平によるイネの交配種の開発など、厳しい制約の中で価値のある研究が行なわれたことを指摘します。最高権力者の毛沢東も科学の振興に努めており、ルイセンコ理論も建国から比較的早くに国策ではなくなりました。ただ、毛沢東政権下で科学者が政治に翻弄されて過酷な運命に陥ることは珍しくなかったようで、袁隆平にしても、文化大革命で糾弾の対象となり、短期間ではあるものの、労働収容所に送られたこともありました。
本書は今後の見通しとして、現代の科学も世界規模の営みであり、多くの人々に恩恵ももたらすものの、国家主義や民族主義や世界的な大企業の利害に引きずられて、多くの人々にとって有害となる可能性も指摘します。多くの現代人にとっても関心があることでしょうが、本書も人工知能の正負両面の大きな可能性を取り上げています。本書は現在の世界情勢をアメリカ合衆国と中華人民共和国との間の「新冷戦」と認識しており、今後の科学の未来について、「グローバリゼーション」と「ナショナリズム」の二つの力の中間の道を見つけられるかどうかにかかっている、と指摘します。そのためには過去をより正しく理解する必要があり、ヨーロッパに偏らない科学の歴史の必要というわけです。
参考文献:
Poskett J.著(2023)、水谷淳訳『科学文明の起源 近代世界を生んだグローバルな科学の歴史』(東洋経済新報社、原書の刊行は2022年)
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