パプアニューギニア沿岸部古代人のゲノムデータ
パプアニューギニア沿岸部古代人のゲノムデータを報告した研究(Nägele et al., 2025)が公表されました。本論文は、ビスマルク諸島のワトム(Watom)島とパプアニューギニア(Papua New Guinea、略してPNG)の南部および北部沿岸の古代人のゲノムデータおよびストロンチウム(Sr)や炭素(C)や窒素(N)の同位体データを報告しています。これらの個体群の年代は、AMS(accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法)放射性炭素年代測定から、過去2500年間にわたることが示されています。これらのうち最古級の個体群は、混合していないパプア人関連の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示すのに対して、2100年前頃以降の個体群は、さまざまな割合のアジア東部関連祖先系統を示し、混合の推定年代から、異なる拡散事象の影響が示唆されます。以下は本論文の翻訳ですが、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
ニューギニアおよびその離島の住民は、太平洋地域のヒトの歴史において重要な役割を果たしてきました。それにも関わらず、とくに先植民地期共同体の遺伝的多様性は依然として充分な研究がされていません。本論文は、PNGの42個体の古代ゲノムを提示します。ワトム島(ビスマルク諸島)とPNGの南部および北部沿岸の個体群の古代ゲノムの結果は、新たな(生物)考古学的データと文脈化されます。個体のAMS年代はヒトの居住の2500年間にまたがっており、本論文の結果は古代PNG共同体の遺伝的構成への異なる拡散事象の影響を論証します。最古級の個体群が混合していないパプア人関連の遺伝的痕跡を示すのに対して、2100年前頃以降の個体群はさまざまな程度のアジア東部関連の寄与を有しています。これらの結果と推測された混合年代は、アジア祖先系統を有する人口集団の到来後の、在来共同体との遺伝的混合における数世紀の遅れを示唆しています。南部沿岸の地理的に近い2ヶ所の共同体は、AMS年代が過去450年以内ですが、遺伝的特性では異なっており、異なる祖先系統の集団を含む相互作用圏の違いを示唆しています。650年前頃となるこれらの共同体の推定される分岐時期は、入植活動の活発化および地域的な交易網の出現と一致します。
●研究史
ヒトは少なくとも5万年前頃以降、近オセアニア(ニアオセアニア)に居住しました[1、4]。この地域は、アルー諸島(Aru Islands)とニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島で構成されています。インドネシアの隣接地域[7]や遠オセアニア北西部[8]や遠オセアニア(リモートオセアニア)[9、10]の遺伝的歴史に近オセアニアの住民が果たしてきた重要な役割にも関わらず、過去の遺伝的多様性は依然として古代ゲノムで充分には研究されていません。
近オセアニアは、現生人類(Homo sapiens)による最初期の海洋拡散の一部の舞台であっただけではなく、遠オセアニアへのヒトの拡散の出発点でもあり、地球上で永続的に居住した最後の島々の植民に至りました。アジア南東部島嶼部を通っての拡散の一部として、5000年前頃以降[15]、おそらくオーストロネシア語族話者の人々が3300~3200年前頃までにビスマルク諸島に到来しました。考古学的には、独特な飾り立ての装飾土器と、園耕や家畜化された動物や長距離航海や海洋および陸上採食を組み込んだ生活様式が認められ、こうした特徴の組み合わせはラピタ(Lapita)文化複合体として知られています。現代の近オセアニアの言語的多様性には、オーストロネシア語族の密接に関連する言語や、この地域の元々の住民によって話されていた言語に由来すると考えられている、さまざまな無関係の非オーストロネシア語族(つまり、パプア諸語)が含まれます。考古学的証拠から、この多様性は、高い移動性、オーストロネシア語族話者の到来前の相互作用の深く複雑な歴史、沿岸部の繰り返しの入植、在来の住民との相互作用の結果である、と示唆されています。しかし、この相互作用の性質と全容は依然として不明です。
最近まで、近オセアニアのラピタ文化関連人口集団の居住地は、より大きな島弧近くの沖合のより小さな島々におもに限られていた、と考えられていました。考古学的発掘はPNG本土の中期および後期ラピタ期についてのこの見解に異議を唱え、ラピタ土器および関連する居住地を特徴とする遺跡が、PNG南岸およびニューギニア南東部のマッシム(Massim)地域のよく年代測定された状況で発見されました。小F4のラピタ文化遺跡が、ニューギニアの北岸およびビシャズ海峡(Vitiaz Strait)で記録されています。ビスマルク諸島には少数のラピタ文化遺跡があり、南岸への入植の同様の時期と過程が提案されており、オーストロネシア語族はラピタ文化期の中期~後期にこれらの地域に出現したか急増した、と示唆されています。
2200年前頃以降、PNG南岸への集中的な入植は、約700kmにわたる交流圏で製作された貝殻刻文土器や道具と関連しており、文化的および恐らくは遺伝的にラピタ文化複合体の子孫である集団による居住の証拠を提供します。オーストロネシア語族話者の南岸沿いに限定された現在の分布はこの見解を裏づけており、それは地域的な口承伝承も同様です。1200~500年前頃の期間には、入植戦略の大きな変化が観察され、沿岸部共同体間の長距離のつながりが崩壊しました。このいわゆるパプア・ヒカプ(Papuan Hiccup)もしくは土器ヒカプ(Ceramic Hiccup)期において、東部および南部沿岸の入植は続きましたが、以前には何世紀も居住されていたさらに西方の地域は放棄され、在来および地域的に人口集団の再編成や移転が示唆されます。地域的形態や装飾模様の増えた土器が、この時間的枠組み内に出現しました。700年前頃以後、多くの新たな集落が築かれ、以前の住民が再居住しました。しかし、これが以前の住民の子孫の帰還なのか。あるいは新たな人口集団の到来なのかどうか、依然として不明です。
本論文は、PNGおよびビスマルク諸島におけるさまざまな地域の古代の住民の多様性に関する遺伝学的観点を提供します。本論文は、この地域の遺伝的構成の形成に関わるさまざまな祖先系統についての重要な問題、具体的にはオーストロネシア語族話者集団の拡散の遺伝的影響を調べます。本論文はさらに、バヌアツおよびマリアナ諸島の入植など、この地域におけるさまざまなヒトの拡散事象もしくは移住過程への洞察を提供します。遺伝的データは、同位体情報や歯石からの微粒子の形で部分的に新たな(生物)考古学的データと文脈化され、ヒトの食性および移動性のパターンについての証拠の提供によって、PNGにおける文化的および環境的背景へとこれらの個体が位置づけられます。
●AMS年代測定と補正と同位体と微粒子の証拠
祖先系統における年代による変化の可能性を理解するために、28個体について新たなAMS放射性炭素年代が提供され、4個体の以前に刊行された年代が含められました。必要な場合には、安定同位体データを用いて、海洋資源に基づく食性の結果として観察される、海洋貯蔵効果が補正されました。
放射性炭素により決定された年代では、PNG南部沿岸のネビラ2(Nebira 2)遺跡の個体群は較正年代で470~310年前頃から420~0年前頃です。PNG北東部沿岸のティル(Tilu)遺跡の1個体の較正年代は、690~500年前頃です。ビスマルク諸島のワトム島の5個体は広範な較正年代の間隔を示しており、2690~2110年前頃から630~510年前頃にまたがっています(表1、図1b)。安定同位体データから、エリアマ(Eriama)遺跡およびネビラ2遺跡の個体群は完全に陸生の食物を摂取していた、と分かりました。ティル遺跡とワトム遺跡の個体群は動物考古学の分析と一致して一部で海洋性の食物を摂取しており、AMS年代測定の補正が必要でした。以下は本論文の図1です。
さらに、同位体データは遺跡における過去の移動性および食性についての情報を提供しました。ビスマルク諸島のワトム島では、ヒトのストロンチウム同位体(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)データは全個体で地元の識別特性と一致しており、ワトム島で育ったか、同様の地質条件下でそだったことを示唆しています。PNGの南部沿岸では、ワラビー(13個体)の歯のエナメル質の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比が地元の基準を示し、ネビラ2遺跡における地元の個体と外来の個体の解釈に役立ちます。ネビラ2遺跡の遺骸群から分析されたヒトの⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の大半は地元の識別特性と一致しており、これらの個体が子供期にネビラ2遺跡もしくは近隣で過ごしたことを示唆しています。5個体は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比を示し、この5個体が死亡する前のある時点でネビラ2遺跡に移動する前に、ネビラ2遺跡から離れて人生の初期を過ごし、それはおそらく海岸の近くだったことを示唆します。
ネビラ遺跡のヒトのδ¹³Cコラーゲンとδ¹⁵Nコラーゲンとδ¹³C象牙質とδ¹⁵N象牙質ワード階層クラスタ(まとまり)分析から、地元出身ではない個体群はともにまとまる、と示され、その子供期の食性や成人期の食性や子供期の居住地は相互に類似していたものの、「地元」のネビラ遺跡の個体群とは異なっていた、と示唆されます。これら地元出身ではない5個体の歯のδ¹³Cコラーゲンおよびδ¹³C象牙質の値はネビラ遺跡の「地元」の個体群より高く、地元出身ではない5個体が若い頃により多くの海洋性の食物を摂取していたかもしれない、と示唆されます。ワラビーのδ¹³C象牙質とδ¹⁵N象牙質の値は、C₃およびC₄植物を食べる草食動物の基準を提供しました。ヒトの食性同位体の結果から、ネビラ遺跡とワトム遺跡の共同体は、園耕食料やPNG南岸のネビラ遺跡ではワラビーを含む野生および家畜動物など、陸生資源を多く摂取していた、と示唆されます。さらに、ワトム島で歯石から回収された微粒子の分析では、樹芸が食性の重要な一部だった、と示されました。回収された植物化石の大半は、ヤシなどの樹木に由来しました。樹木の植物化石の一部は、樹皮もしくは葉に由来する可能性が高いので、薬用としての利用も示唆ししているかもしれません。
●古代の遺伝的差異
古代の遠オセアニアにおける遺伝的差異とこの地域における移動性の考古学的証拠を調べるために、PNG本土とビスマルク諸島の遺跡群から発見された古代人41個体について、ゲノム規模データが生成されました。古代DNAの保存状態の悪さを克服するために、標的捕獲手法が用いられ、ゲノム全体にわたる120万のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)で濃縮されました。汚染推定値は低く、平均汚染率は2%でした。
現代人と刊行されている古代人と新たに生成された古代人のゲノム間の遺伝的ばらつきが、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析を通じて調べられました。本論文に含まれるパプア沿岸の古代の個体群はPNG高地の現在の個体群とクラスタ化しません(まとまりません)が、代わりにPNGの南部および北部沿岸やマッシム諸島に暮らす現在の人口集団とクラスタ化します。PNG高地の現在の個体群からアジア東部現代人および古代のERO(Early Remote Oceanian、初期遠オセアニア人)にかけて広がる勾配が示され、PNG南部沿岸のエリアマ遺跡の個体群は、この勾配のパプア人側の端でPNG北部沿岸のティル遺跡の2個体とまとまっています。しかし、2個体(ERI004/ACV-4およびERI006/ACV-6)はこの集団から除外され、アジア東部人の方へと動いています。近隣のネビラ2遺跡の個体群は同じ勾配の中間点付近でともにまとまります。
PCAから得られた観察は、f₄統計およびqpWaveを用いての遺伝学的分類分析によって裏づけられ、ネビラ2遺跡における遺伝的に均質な共同体が確証される一方で、エリアマ遺跡の個体群は2集団を形成します。エリアマ遺跡およびネビラ2遺跡の個体群は、PNGの現在の高地人口集団と最も類似したパプア人関連祖先系統およびアジア東部関連祖先系統の混合に由来する遺伝的組成を示唆しています。ワトム島から発掘されたより古い3個体(WAT002/B10、WAT005/B14、WAT006/B15)は、WAT006/B15が低網羅率であることを考慮して、別々に分析されました。WAT005/B14(2600年前頃)およびWAT006/B15はパプア人関連祖先系統のみであることと一致し、WAT002/B10(900年前頃)とは600年以上のかなりの年代間隔があり、WAT002/B10はPCAではアジアの人口集団に向かっても顕著な移動を示しました(図1bおよび図2)。WAT001/B1およびWAT003/B12は、より新しい年代および遺伝的類似性に基づいて分類されました。以下は本論文の図2です。
●祖先系統のモデル化
WAT005/B14およびWAT006/B15を除いて、qpWaveを用いると、単一の祖先系統に由来する個体群がいない、と確証されたので、現在の台湾先住民であるアミ人(Ami)を用いてのアジア東部関連祖先系統と、ニューギニア高地人を用いてのパプア人関連祖先系統がモデル化されました。qpAdm検定ではじっさい、36個体のうち34個体がこれら2祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されます(図3a)。しかし、f₄統計でより詳しいことが追加され、PNG本土とビスマルク諸島の古代の個体群は、現在の近オセアニア人口集団との類似性では異なる、と示されます。エリアマ遺跡とネビラ2遺跡とティル遺跡の個体群が高地ニューギニア人口集団とのより高い類似性を示すのに対して、ワトム島の全個体はニューブリテン島のバイニング(Baining)語族(非オーストロネシア語族)話者とのより高い類似性を示します。より高い割合のアジア東部関連祖先系統を有するネビラ2遺跡およびエリアマ遺跡の個体群は、台湾の現在のアミ人やグアム島の2650年前頃の個体群や台湾の西側の澎湖(Penghu)島の鎖港(Suogang)遺跡の個体群と比較して、バヌアツおよびトンガのEROとのより多い類似性を示します。以下は本論文の図3です。
PCAおよびf₄統計で観察されたパターンは、qpAdm分析によって裏づけられます。ネビラ2遺跡の個体群におけるアジア東部関連祖先系統の範囲は45~60%で、約20%の割合のエリアマ遺跡およびティル遺跡の個体群と比較して高くなっています。主要集団に含まれないエリアマ遺跡の2個体((ERI004/ACV-4およびERI006/ACV-6)は例外で、約35%のより高い割合のアジア東部関連祖先系統を示します。1900年前頃の個体WAT002/B10は、パプア人関連祖先系統が約40%、アジア東部関連祖先系統が約60%の混合を示します。しかし、古代の個体群をこの祖先系統の代理として用いると、アジア東部関連祖先系統の割合は20%に低下します(図3c)。
●混合事象の時期
個体群に存在する2祖先系統構成要素【パプア人関連とアジア東部関連】間の混合の時期を推定するために、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて混合年代測定分析が実行されました(図3d)。ワトム島の1900年前頃の1個体(WAT002/B10)については、約10世代前の混合が推測され、混合事象について2100年前頃の年代が得られ、同じ遺跡の2個体の混合事象の年代は500年前頃でした。
PNG南岸の2ヶ所の遺跡間では、再びわずかな違いが観察されます。年代測定された個体群のみから推測すると、エリアマ遺跡の個体群では平均混合年代が1100年前頃(1600~600年前頃の範囲)なのに対して、ネビラ2遺跡の平均年代はわずかに古くなります(1500年前頃、1800~900年前頃の範囲)。ERI007/ACV-7およびNBR020/ACJ-34は例外で、それぞれ370年前頃および650年前頃とより新しい混合年代となります。一致して、NBR020/ACJ-34は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比および子供期の食性値を示しました。低網羅率のため、ティル遺跡の個体群はこの分析ではまとめられ、混合事象は900年前頃と推定されました。
●性別の偏った混合
データセットの、遺伝的に男性の25個体のうち21個体でY染色体ハプログループ(YHg)が、41個体のうち38個体でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されました(表1)。大半の個体は現在のアジア東部人口集団と関連するmtHgを有しており、mtHg-B4a1a1が優占しています。4個体のみがパプア人関連のmtHgを有しています。逆に、YHgは反対のパターンを示唆しています。アジア東部起源の1系統のYHg(O2a2b2)を除いて、特定された18系統のYHgはすべて、近オセアニアで最も一般的です(表1)。性別の偏った混合のパターンはゲノム規模水準でも検出され、常染色体から推測される混合割合と比較してのX染色体上の混合割合の分析によって示されます。この分析は百分率で10~60ポイントの範囲にわたるX染色体上のオーストロネシア語族話者関連祖先系統の過剰を示し、バヌアツおよびワラセアの古代の個体群と同様に以前観察されたように[7、9]、性別の偏った混合事象を示唆しています。
●より広範な地域の入植の順序
この地域内の他の古代人集団との関係を調べるために、qpGraphを用いて混合図がモデル化されました。マリアナ諸島の最初の入植の起源地域は、まだ議論されています。放射性炭素年代は3200年前頃の入植を示唆しますが、一部の考古学的証拠は数世紀早い居住を提案します。潜在的な起源地域には、フィリピン諸島と、航海中にマリアナ諸島で陸地初見になる可能性が最も高いこと基づいて、近オセアニア北部が含まれます。フィリピン諸島からの適切な品質の古代人のゲノムが欠けているので、これは間接的に評価されます。2800~200年前頃の間のグアム島およびサイパン島の古代人のゲノム[8、66]を用いて、二つの競合する仮説が検証されました。まず、マリアナ諸島はフィリピン諸島から入植されたかもしれず、この場合には、個体WAT002/B10におけるアジア東部関連構成要素を含めて、その集団はラピタ文化関連の遺伝的構成要素の形成前に分岐した、とモデル化されます。あるいは、マリアナ諸島は近オセアニアから入植されたかもしれず、その場合には、この集団はビスマルク諸島に到来した後に分岐したはずです。データは個体WAT002/B10の前のグアム島およびサイパン島のゲノムの分岐のモデルにより良好な適合を提供し、マリアナ諸島の最初の入植者の起源がフィリピン諸島にあることを示唆しています。
●遺伝的関係および埋葬パターン
最後に、家族関係に取り組むことができる唯一の遺跡であるネビラ2について、個体間の遺伝的関係が調べられました。ネビラ2遺跡の墓地には一次埋葬が含まれ、その一部は複数埋葬もしくは同時埋葬として使用されました。人々はほぼ西方向もしくは北西方向で、仰向けの施政で埋葬されました。得られた近縁性網から、ネビラ2遺跡の1親等および2親等の関係には、遺伝的に男女両方の個体が含まれる、と分かり、父方居住もしくは母方居住の明確な兆候は示されません。遺伝的に親族関係にある個体群が、ともに埋葬されていないものの、近くに埋葬されているのに対して、親族関係にない個体群は複数もしくは同時埋葬で見つけることができます。これらの結果から、複数埋葬もしくは墓の再利用の理由は必ずしも家族に関連していないか、PNGの社会状況においてよくある事例、つまり現在この地域に暮らすモツ人(Motu)およびコイタ人(Koita)のように、おそらく家族は遺伝的近縁性に限られていなかった、と示唆されます。
ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)分析は、より高水準の近親婚を明らかにし、有効人口規模に近似でき、有効人口規模は単純化された過程では、個体の総数ではなく、繁殖した個体数を反映しています。ROHから、ネビラ遺跡の人口集団は近親婚がより低水準で、推定有効人口規模は800~3200個体だった、と示されます。エリアマ遺跡については、短いROHの数がより多いことは、より高い背景の近縁性と400~1600個体のより小さな有効人口規模を示唆しています。
IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)であるゲノム断片の分析は、エリアマ遺跡とネビラ遺跡のさまざまな個体間の遠い遺伝的関係を明らかにします。エリアマおよびネビラの2ヶ所の遺跡の個体間で共有される断片の数および規模と、2人口集団の分岐モデルから、この2集団は約13世代前に接触を止めた、と示唆され、640年前頃の推定分岐年が得られました。
●ワトム島における時間横断区
ワトム島のリーバー・ラキバル(Reber–Rakival、SAC)遺跡にはじゅうぶんに確認された層序があり、ビスマルク諸島における中期および後期ラピタ文化期である2800~2350年前頃のラピタ文化複合体の人々による居住の証拠を提供します。最下層(D層)は、それ以前の居住の証拠を提示します。この最古級の層では土器と黒曜石が欠けており、おそらくはラピタ文化複合体の到来前にワトム島に居住した異なる人口集団か、ワトム島における中期および後期ラピタ期のラピタ文化共同体との共存の可能性を示しています。ワトム島の別の遺跡(SAD、SDI、SAB)では、葉型刻印のラピタ土器および反対側に挟む釘状刻印装飾のある破片の両が、3000年前頃以前の確実な状況(ラピタ文化中期)で発見されています。
ビスマルク諸島から得られた古代ゲノムの最初の分析は、経時的に変化するワトム島における多様な祖先系統を示します。個体WAT005/B14およびWAT006/B15は中期~後期ラピタ期(2700~2200年前頃)パプア人(バイニング語族話者的)関連祖先系統のみを有する人々による居住を示しており、これは3300~3200年前頃のビスマルク諸島における考古学的に証明されたラピタ文化複合体の到来の少なくとも600年後です(図2a)。WAT006/B15の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比から、この個体はおそらくワトム島の地元民で、この遺跡から回収された他の個体も同様だった、と示唆されました。WAT006/B15の考古学的および人類学的分析は、その後の個体群と比較しての異なる祖先系統の裏づけとなる手がかりを提供します。WAT006/B15は頭蓋を長く延ばす文化的頭蓋変形の稀な事例を示しており、これはラピタ文化複合体では現時点で知られていない刊行ですが、歴史時代のニューブリテン島南西部のアウェア(Aware)地域では観察されています。WAT006/B15は唯一確実に座位埋葬された固定で、その頭部は膝に落ちています。WAT006/B15は下半身が畝に伸びており攪乱していましたが、WAT006/B15は上半身を仰向けに伸びた姿勢で、西から北西方向へと向いて埋葬された、と判断できます。仰向けで四肢を半ば折り曲げた状態は、いくつかの例外がありますが、この遺跡の後期埋葬の一般的パターンでした。
1900年前頃までに、パプア人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統との間の混合モデルに適合する遺伝的に女性の1個体(WAT002/B10)が見つかり、その混合割合はバヌアツの後期ラピタ期の個体群と類似しています。さらに、WAT002/B10はバヌアツの同時代の個体群と同様に、ニューブリテン島の現在の非オーストロネシア語族話者であるバイニング人とより高い類似性を示します。バヌアツとのつながりはワトム島の彫刻および塗布浮き彫り模様土器に反映されており、この土器はバヌアツの「マンガアシ(Mangaasi)」様式土器と類似性を共有しており、2210~1755年前頃のワトム島のSDI遺跡では鋸歯ラピタ土器ととともに発見されました。ワトム島のSAB遺跡では、ラピタ土器は見つからなかったものの、地元で製作された彫刻および塗布浮き彫り模様土器が較正年代で2455~2310年前頃の層序状況で見つかりました。ワトム島へのラピタ文化個体群のその後の到来と、ワトム島における後期ラピタ文化層序における彫刻および塗布浮き彫り模様土器との間には、いくらかのつながりがあるかもしれません。
最後に、ワトム島の最新の2個体(670~510年前頃)は、現在この地域に暮らすオーストロネシア語族話者のトライ人(Tolai)とひじょうに類似した遺伝的構成を有しています(図2)。しかし、トライ人は、ワトム島の670~510年前頃の人口集団に完全に由来することと一致するわけではありません。ワトム島が自然災害と人口移動を起こした植民地主義に強く影響されたことを考えると、これは予測される観察です。過去500年間以内の人口移動の証拠はトライ人の口承伝承にも由来し、その伝承では、トライ人がニューアイルランド島南部から来た、と記録されています。この起源はトライ人がニューアイルランド島南部の集団とは共有しているものの、ウィラウメズ半島(Willaumez Peninsula)の他の集団とは共有していない信仰体系および他の文化的慣行によって裏づけられます。
●マリアナ諸島の入植に関する代理情報
系統樹的モデルでは、ワトム島の混合している1個体(WAT002/B10)のアジア東部関連祖先系統の分岐パターンは、アジア南東部島嶼部からマリアナ諸島への入植を支持します。この支持される経路では、卓越風および潮流にこうしての公開が必要で、PNGの北東部の島々からのさほど困難ではない移動は除外されます。フィリピン諸島および台湾からの適切な古代標本の不足のため、マリアナ諸島の最初の入植がはじまった正確な地理的位置にはいくらかの不確実さが残りますが、それにも関わらず、遠オセアニア北西部の島々への入植した人口集団には、熟練した航海技術が想定されてきました。
●PNG沿岸部の人口史
PNG南部沿岸の住民の遺伝的類似性から、ラピタ文化複合体と関連する土器の出現は、おそらくアジア東部関連祖先系統を有する人口集団の到来と関わっていた、と示されます。PNG沿岸部の全個体はニューギニア高地の現在の個体群では観察されないものの、現在のPNGの沿岸部集団には存在するジア東部祖先系統を有しています(図2a)[78]。PNG南部沿岸のエリアマ遺跡とネビラ2遺跡の両方は地理的に近いものの、その遺伝的組成は異なる人口史を示唆しています。平均的に、エリアマ遺跡の個体群はネビラ2遺跡の個体群と比較して、そのより高度な多様性と1600~600年前頃とより新しい混合年代にも関わらず、約80%のより高いパプア人関連祖先系統を示します(図3d)。ネビラ2遺跡の個体群はより均質で、遺伝的差異がより大きく、アジア東部関連祖先系統の割合が50%超とより高くて、平均して1800~900年前頃と混合年代の範囲がより古くなります(図3a・d・e)。
ニューギニアの北東部沿岸に位置するティル遺跡の2個体は、エリアマ遺跡個体群と同様の遺伝的特性および混合年代を示します(図3a・d)。ティル遺跡の持続的な定住の最初の証拠は確実に650年前頃にさかのぼり、ンゲロ・ビシャズ(Ngero–Vitiaz)交流網のおそらくオーストロネシア語族話者の人々による、900~800年前頃となるそれ以前の居住の痕跡の可能性があります。ティル遺跡個体群から推測された混合事象は最初の居住時期の頃に収まり、ティル遺跡の最初の入植もしくはすでに混合していた人口集団による確立期に混合が起きたことを示唆しています。考古学的研究はティル遺跡をビスマルク諸島のニューブリテン島の北西部沿岸に位置するウィラウメズ半島へと伸びる、地域的な交易網に位置づけます。言語学的証拠と口承伝承は、ティル遺跡やゲダゲド(Gedaged)遺跡やビルビル(Bilbil)遺跡の地域で現在話されているベル(Bel)語族のンゲロ・ビシャズ語の、ビスマルク海のビシャズ海峡起源を示唆します。しかし、物質的交換は遺伝的交換にまで至らなかったようで、それは、ティル遺跡の個体群が、エリアマ遺跡個体群と比較して、ビスマルク諸島の人口集団とのより強い類似性がないからです。
●地域的な拡散の時期と遺伝的影響
アジア東部関連祖先系統を有するワトム島の全個体の2祖先系統間の混合の2100年前頃との年代から、在来のパプア人との混合は、ラピタ文化複合体の到来に始まって繰り返し起きたか、ビスマルク諸島におけるラピタ文化複合体の到来の約1000年後にやっと始まった、と示唆されます(図3d)。本論文は、広範な時間横断区にまたがる5個体のみに由来する解釈の限界を認識しています。以前に観察されたように[7、9]、繰り返しの混合事象は一見すると最近の混合年代をもたらすかもしれません。しかし、遠オセアニアの初期の入植者が、近オセアニアで在来集団と混合しなかったアジア東部祖先系統のラピタ文化関連人口集団にほぼ由来する、とのさらなる裏づけとして、この結果は慎重に解釈されます。ビスマルク諸島における到来時もしくは直後の局所的混合は、3000年前頃のずっと早い混合をもたらしたでしょう。さらに、ワトム島のラピタ期における完全にパプア人関連祖先系統の個体群の存在は、パプア人関連祖先系統のみの最古級の個体群は2600年前頃にバヌアツに到達し、それはバヌアツ諸島の最初の入植の約300~400年後だった、との観察[9、10]と一致します。
PNG南岸の年代測定された個体群から推測された混合年代から、ネビラ2遺跡の人々の混合事象は1500~1100年前頃に起きており、バヌアツ(2600年前頃)やワトム島(2100年前頃)など他の場所よりもずっと後だった、と示されます。これは、PNG南岸に沿ったラピタ文化複合体と関連する人々の子孫のその後の到来の結果として解釈できるかもしれません。しかし、PNG南岸におけるラピタ文化集団の入植の最初の発生は2900~2800年前頃に始まる、と年代測定されており、これはビスマルク諸島における最初のラピタ文化形成の400年後で、バヌアツの考古学的証拠と同時代です。本論文の分析からねこの後期の混合年代がラピタ文化複合体と関連する最初の入植者の長期の遺伝的孤立の結果なのか、あるいはラピタ文化関連祖先系統のさまざまな割合を有する在来人口集団との繰り返しの混合の結果なのかどうか、明確ではありません。ラピタ文化集団と在来集団との間の文化的接触を論証したいくつかの研究では、相互作用はラピタ文化関連入植者の出現直後に始まった、と示されており、孤立仮説の可能性は低そうです。
PNG南部沿岸の考古学的記録は、入植の強化と土器の多さの「波動」を示しています。パプア・ヒカプとしても知られている「土器ヒカプ」とよばれるこの期間は、おそらく遺跡の放棄もしくは移転の結果で、土器の製作および様式の中断や、PNG南部沿岸の頭部との相互作用の縮小があり、交流網は維持されたものの、おそらく集中的ではありませんでした。この期間は1200~500年前頃の間にかけて存続した、と考えられていますが、正確な時期は不充分な放射性炭素年代測定の結果として不確実なままです。この仮定された期間は、おそらくオセアニアでは遅れた中世の気候異常(1250~700年前頃)と一致しますが、PNGおよびオセアニア西部の代理遺跡の不足のため、特定の地域への影響の程度は不明となっています。ただ、エルニーニョ/南方振動事象の増加は季節的な旱魃につながったかもしれず、入植パターンの変化が淡水の利用可能性および耕作の実行可能性に少なくとも部分的に影響を受けた、と示唆されます。気候が沿岸部共同体に直接的な影響を及ぼしたのかどうかに関わらず、長距離交易のつながりの中断は、多くの長期の居住地の放棄やさらに内陸への移転や、おそらくは集団間の紛争の契機となったかもしれません。確かに、ネビラ丘陵の麓に位置するネビラ4遺跡の居住地は、双峰丘陵の鞍部に位置するネビラ2遺跡の入植時期には放棄されました。防御的な丘陵上の居住地への移行は、集団間の関係が変化し、丘陵上の防御地点が居住地域として選好されたことを示唆しています。
ネビラ2遺跡の個体の大半は1600~1100年前頃の間の混合事象を示し、この期間【中世の気候異常】と重なっています。個体NBR020/ACJ-34は、ネビラ2遺跡集団の大半よりずっと新しい、わずか650年前頃の混合年代を示します。さらに、個体NBR020/ACJ-34は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比と異なる子供期の食性を示し、異なる祖先の歴史を有する人口集団に起源があったかもしれません。個体NBR020/ACJ-34の混合年代は、沿岸部と内陸部の居住地が考古学的に可視化されるようになった期間と一致し、土器は社会的境界の確立もしくは強化を示唆する地域的差異のある、様式の革新を示します。交易はおそらく再形成された交流網で800~500年前頃に再開し、PNG沿岸部に到来したさまざまなオーストロネシア語族話者集団と関連していました。少なくとも500年前頃までのクラ(Kula、交易)およびヒリ(hiri、交易)交易網などの海上交易網の重複は、「パプア・ヒカプ」に続く期間におけるこれら交流網の(再)出現を示唆しています。
エリアマ遺跡個体群から推測される混合年代は、より高い割合のパプア人祖先系統(図3a)とともに、ネビラ2遺跡で特定された遺伝的交換を越えた、遺伝的交換の連続を示唆します。40%から15%へのアジア東部関連祖先系統の強い変化は、それらがパプア高地人によって表されるモデルにおけるより高い割合のパプア人関連祖先系統を有する人々との相互作用圏の一部だったことを示唆します。しかし、どの人口集団が寄与し、その地理的起源がどこだったのか、特定する解像度が不足しています。「パプア・ヒカプ」期には、共同体は内陸地域へと後退し、そこでは高地人口集団との相互作用が強化されたかもしれません。エリアマ遺跡の1個体(ERI007/ACV-7)は600~400年前頃と推測されたより新しい混合を示しており、これも、エリアマ遺跡の人口集団が他の人口集団と遺伝的交換を続けた、と示唆しています。
2ヶ所の遺跡【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】間の多くの違いにも関わらず、IBD塊の分析はネビラ2遺跡とエリアマ遺跡の個体間の遠いつながりを明らかにし、これらの個体が640年前頃と推定される分析された人口集団の約13世代前には一つの繁殖単位を継続していた、と示唆しています。この2ヶ所の近隣の遺跡【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】の異なる遺伝的組成から、PNG南岸は人々の遺伝的およびおそらくは文化的で言語学的な混在状態だった、と示され、これは現在のモツ(Motu)語およびコイタ(Koita)語話者共同体の状況と一致します。モツ語はオーストロネシア語族のオセアニア諸語の西大洋州諸語の中央パプア諸語で、ほぼPNGの中央州の沿岸部地域に暮らす人々が話しています。この地域で支配的なパプア諸語であるコイタ語は、より内陸部の居住地で話されています。ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡に近い沿岸部および内陸部地域に居住する二つの主要な文化集団は、歴史的に密接なつながりを有しており、通常ではそのつながりには通婚が含まれ、両集団が海上でのヒリ(hiri、交易)交易遠征に関わっていました。埋葬慣行の違いは、具体的にはネビラ2遺跡におけると一次埋葬とエリアマ遺跡における二次洞窟埋葬で、これも死者の扱いに関する異なる文化的慣行を示しています。
ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡に居住していた祖先を記憶している現在の集団の口承伝承には、山岳地帯からの移転の物語が含まれています。明らかな地理的障壁がないにも関わらず、この2ヶ所の共同体【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】が分離した理由は依然として不可解で、移転後のこの2集団のさまざまな相互作用圏と関連する文化的障壁の導入を示しているかもしれません。
参考文献:
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●要約
ニューギニアおよびその離島の住民は、太平洋地域のヒトの歴史において重要な役割を果たしてきました。それにも関わらず、とくに先植民地期共同体の遺伝的多様性は依然として充分な研究がされていません。本論文は、PNGの42個体の古代ゲノムを提示します。ワトム島(ビスマルク諸島)とPNGの南部および北部沿岸の個体群の古代ゲノムの結果は、新たな(生物)考古学的データと文脈化されます。個体のAMS年代はヒトの居住の2500年間にまたがっており、本論文の結果は古代PNG共同体の遺伝的構成への異なる拡散事象の影響を論証します。最古級の個体群が混合していないパプア人関連の遺伝的痕跡を示すのに対して、2100年前頃以降の個体群はさまざまな程度のアジア東部関連の寄与を有しています。これらの結果と推測された混合年代は、アジア祖先系統を有する人口集団の到来後の、在来共同体との遺伝的混合における数世紀の遅れを示唆しています。南部沿岸の地理的に近い2ヶ所の共同体は、AMS年代が過去450年以内ですが、遺伝的特性では異なっており、異なる祖先系統の集団を含む相互作用圏の違いを示唆しています。650年前頃となるこれらの共同体の推定される分岐時期は、入植活動の活発化および地域的な交易網の出現と一致します。
●研究史
ヒトは少なくとも5万年前頃以降、近オセアニア(ニアオセアニア)に居住しました[1、4]。この地域は、アルー諸島(Aru Islands)とニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島で構成されています。インドネシアの隣接地域[7]や遠オセアニア北西部[8]や遠オセアニア(リモートオセアニア)[9、10]の遺伝的歴史に近オセアニアの住民が果たしてきた重要な役割にも関わらず、過去の遺伝的多様性は依然として古代ゲノムで充分には研究されていません。
近オセアニアは、現生人類(Homo sapiens)による最初期の海洋拡散の一部の舞台であっただけではなく、遠オセアニアへのヒトの拡散の出発点でもあり、地球上で永続的に居住した最後の島々の植民に至りました。アジア南東部島嶼部を通っての拡散の一部として、5000年前頃以降[15]、おそらくオーストロネシア語族話者の人々が3300~3200年前頃までにビスマルク諸島に到来しました。考古学的には、独特な飾り立ての装飾土器と、園耕や家畜化された動物や長距離航海や海洋および陸上採食を組み込んだ生活様式が認められ、こうした特徴の組み合わせはラピタ(Lapita)文化複合体として知られています。現代の近オセアニアの言語的多様性には、オーストロネシア語族の密接に関連する言語や、この地域の元々の住民によって話されていた言語に由来すると考えられている、さまざまな無関係の非オーストロネシア語族(つまり、パプア諸語)が含まれます。考古学的証拠から、この多様性は、高い移動性、オーストロネシア語族話者の到来前の相互作用の深く複雑な歴史、沿岸部の繰り返しの入植、在来の住民との相互作用の結果である、と示唆されています。しかし、この相互作用の性質と全容は依然として不明です。
最近まで、近オセアニアのラピタ文化関連人口集団の居住地は、より大きな島弧近くの沖合のより小さな島々におもに限られていた、と考えられていました。考古学的発掘はPNG本土の中期および後期ラピタ期についてのこの見解に異議を唱え、ラピタ土器および関連する居住地を特徴とする遺跡が、PNG南岸およびニューギニア南東部のマッシム(Massim)地域のよく年代測定された状況で発見されました。小F4のラピタ文化遺跡が、ニューギニアの北岸およびビシャズ海峡(Vitiaz Strait)で記録されています。ビスマルク諸島には少数のラピタ文化遺跡があり、南岸への入植の同様の時期と過程が提案されており、オーストロネシア語族はラピタ文化期の中期~後期にこれらの地域に出現したか急増した、と示唆されています。
2200年前頃以降、PNG南岸への集中的な入植は、約700kmにわたる交流圏で製作された貝殻刻文土器や道具と関連しており、文化的および恐らくは遺伝的にラピタ文化複合体の子孫である集団による居住の証拠を提供します。オーストロネシア語族話者の南岸沿いに限定された現在の分布はこの見解を裏づけており、それは地域的な口承伝承も同様です。1200~500年前頃の期間には、入植戦略の大きな変化が観察され、沿岸部共同体間の長距離のつながりが崩壊しました。このいわゆるパプア・ヒカプ(Papuan Hiccup)もしくは土器ヒカプ(Ceramic Hiccup)期において、東部および南部沿岸の入植は続きましたが、以前には何世紀も居住されていたさらに西方の地域は放棄され、在来および地域的に人口集団の再編成や移転が示唆されます。地域的形態や装飾模様の増えた土器が、この時間的枠組み内に出現しました。700年前頃以後、多くの新たな集落が築かれ、以前の住民が再居住しました。しかし、これが以前の住民の子孫の帰還なのか。あるいは新たな人口集団の到来なのかどうか、依然として不明です。
本論文は、PNGおよびビスマルク諸島におけるさまざまな地域の古代の住民の多様性に関する遺伝学的観点を提供します。本論文は、この地域の遺伝的構成の形成に関わるさまざまな祖先系統についての重要な問題、具体的にはオーストロネシア語族話者集団の拡散の遺伝的影響を調べます。本論文はさらに、バヌアツおよびマリアナ諸島の入植など、この地域におけるさまざまなヒトの拡散事象もしくは移住過程への洞察を提供します。遺伝的データは、同位体情報や歯石からの微粒子の形で部分的に新たな(生物)考古学的データと文脈化され、ヒトの食性および移動性のパターンについての証拠の提供によって、PNGにおける文化的および環境的背景へとこれらの個体が位置づけられます。
●AMS年代測定と補正と同位体と微粒子の証拠
祖先系統における年代による変化の可能性を理解するために、28個体について新たなAMS放射性炭素年代が提供され、4個体の以前に刊行された年代が含められました。必要な場合には、安定同位体データを用いて、海洋資源に基づく食性の結果として観察される、海洋貯蔵効果が補正されました。
放射性炭素により決定された年代では、PNG南部沿岸のネビラ2(Nebira 2)遺跡の個体群は較正年代で470~310年前頃から420~0年前頃です。PNG北東部沿岸のティル(Tilu)遺跡の1個体の較正年代は、690~500年前頃です。ビスマルク諸島のワトム島の5個体は広範な較正年代の間隔を示しており、2690~2110年前頃から630~510年前頃にまたがっています(表1、図1b)。安定同位体データから、エリアマ(Eriama)遺跡およびネビラ2遺跡の個体群は完全に陸生の食物を摂取していた、と分かりました。ティル遺跡とワトム遺跡の個体群は動物考古学の分析と一致して一部で海洋性の食物を摂取しており、AMS年代測定の補正が必要でした。以下は本論文の図1です。
さらに、同位体データは遺跡における過去の移動性および食性についての情報を提供しました。ビスマルク諸島のワトム島では、ヒトのストロンチウム同位体(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)データは全個体で地元の識別特性と一致しており、ワトム島で育ったか、同様の地質条件下でそだったことを示唆しています。PNGの南部沿岸では、ワラビー(13個体)の歯のエナメル質の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比が地元の基準を示し、ネビラ2遺跡における地元の個体と外来の個体の解釈に役立ちます。ネビラ2遺跡の遺骸群から分析されたヒトの⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の大半は地元の識別特性と一致しており、これらの個体が子供期にネビラ2遺跡もしくは近隣で過ごしたことを示唆しています。5個体は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比を示し、この5個体が死亡する前のある時点でネビラ2遺跡に移動する前に、ネビラ2遺跡から離れて人生の初期を過ごし、それはおそらく海岸の近くだったことを示唆します。
ネビラ遺跡のヒトのδ¹³Cコラーゲンとδ¹⁵Nコラーゲンとδ¹³C象牙質とδ¹⁵N象牙質ワード階層クラスタ(まとまり)分析から、地元出身ではない個体群はともにまとまる、と示され、その子供期の食性や成人期の食性や子供期の居住地は相互に類似していたものの、「地元」のネビラ遺跡の個体群とは異なっていた、と示唆されます。これら地元出身ではない5個体の歯のδ¹³Cコラーゲンおよびδ¹³C象牙質の値はネビラ遺跡の「地元」の個体群より高く、地元出身ではない5個体が若い頃により多くの海洋性の食物を摂取していたかもしれない、と示唆されます。ワラビーのδ¹³C象牙質とδ¹⁵N象牙質の値は、C₃およびC₄植物を食べる草食動物の基準を提供しました。ヒトの食性同位体の結果から、ネビラ遺跡とワトム遺跡の共同体は、園耕食料やPNG南岸のネビラ遺跡ではワラビーを含む野生および家畜動物など、陸生資源を多く摂取していた、と示唆されます。さらに、ワトム島で歯石から回収された微粒子の分析では、樹芸が食性の重要な一部だった、と示されました。回収された植物化石の大半は、ヤシなどの樹木に由来しました。樹木の植物化石の一部は、樹皮もしくは葉に由来する可能性が高いので、薬用としての利用も示唆ししているかもしれません。
●古代の遺伝的差異
古代の遠オセアニアにおける遺伝的差異とこの地域における移動性の考古学的証拠を調べるために、PNG本土とビスマルク諸島の遺跡群から発見された古代人41個体について、ゲノム規模データが生成されました。古代DNAの保存状態の悪さを克服するために、標的捕獲手法が用いられ、ゲノム全体にわたる120万のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)で濃縮されました。汚染推定値は低く、平均汚染率は2%でした。
現代人と刊行されている古代人と新たに生成された古代人のゲノム間の遺伝的ばらつきが、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析を通じて調べられました。本論文に含まれるパプア沿岸の古代の個体群はPNG高地の現在の個体群とクラスタ化しません(まとまりません)が、代わりにPNGの南部および北部沿岸やマッシム諸島に暮らす現在の人口集団とクラスタ化します。PNG高地の現在の個体群からアジア東部現代人および古代のERO(Early Remote Oceanian、初期遠オセアニア人)にかけて広がる勾配が示され、PNG南部沿岸のエリアマ遺跡の個体群は、この勾配のパプア人側の端でPNG北部沿岸のティル遺跡の2個体とまとまっています。しかし、2個体(ERI004/ACV-4およびERI006/ACV-6)はこの集団から除外され、アジア東部人の方へと動いています。近隣のネビラ2遺跡の個体群は同じ勾配の中間点付近でともにまとまります。
PCAから得られた観察は、f₄統計およびqpWaveを用いての遺伝学的分類分析によって裏づけられ、ネビラ2遺跡における遺伝的に均質な共同体が確証される一方で、エリアマ遺跡の個体群は2集団を形成します。エリアマ遺跡およびネビラ2遺跡の個体群は、PNGの現在の高地人口集団と最も類似したパプア人関連祖先系統およびアジア東部関連祖先系統の混合に由来する遺伝的組成を示唆しています。ワトム島から発掘されたより古い3個体(WAT002/B10、WAT005/B14、WAT006/B15)は、WAT006/B15が低網羅率であることを考慮して、別々に分析されました。WAT005/B14(2600年前頃)およびWAT006/B15はパプア人関連祖先系統のみであることと一致し、WAT002/B10(900年前頃)とは600年以上のかなりの年代間隔があり、WAT002/B10はPCAではアジアの人口集団に向かっても顕著な移動を示しました(図1bおよび図2)。WAT001/B1およびWAT003/B12は、より新しい年代および遺伝的類似性に基づいて分類されました。以下は本論文の図2です。
●祖先系統のモデル化
WAT005/B14およびWAT006/B15を除いて、qpWaveを用いると、単一の祖先系統に由来する個体群がいない、と確証されたので、現在の台湾先住民であるアミ人(Ami)を用いてのアジア東部関連祖先系統と、ニューギニア高地人を用いてのパプア人関連祖先系統がモデル化されました。qpAdm検定ではじっさい、36個体のうち34個体がこれら2祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されます(図3a)。しかし、f₄統計でより詳しいことが追加され、PNG本土とビスマルク諸島の古代の個体群は、現在の近オセアニア人口集団との類似性では異なる、と示されます。エリアマ遺跡とネビラ2遺跡とティル遺跡の個体群が高地ニューギニア人口集団とのより高い類似性を示すのに対して、ワトム島の全個体はニューブリテン島のバイニング(Baining)語族(非オーストロネシア語族)話者とのより高い類似性を示します。より高い割合のアジア東部関連祖先系統を有するネビラ2遺跡およびエリアマ遺跡の個体群は、台湾の現在のアミ人やグアム島の2650年前頃の個体群や台湾の西側の澎湖(Penghu)島の鎖港(Suogang)遺跡の個体群と比較して、バヌアツおよびトンガのEROとのより多い類似性を示します。以下は本論文の図3です。
PCAおよびf₄統計で観察されたパターンは、qpAdm分析によって裏づけられます。ネビラ2遺跡の個体群におけるアジア東部関連祖先系統の範囲は45~60%で、約20%の割合のエリアマ遺跡およびティル遺跡の個体群と比較して高くなっています。主要集団に含まれないエリアマ遺跡の2個体((ERI004/ACV-4およびERI006/ACV-6)は例外で、約35%のより高い割合のアジア東部関連祖先系統を示します。1900年前頃の個体WAT002/B10は、パプア人関連祖先系統が約40%、アジア東部関連祖先系統が約60%の混合を示します。しかし、古代の個体群をこの祖先系統の代理として用いると、アジア東部関連祖先系統の割合は20%に低下します(図3c)。
●混合事象の時期
個体群に存在する2祖先系統構成要素【パプア人関連とアジア東部関連】間の混合の時期を推定するために、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて混合年代測定分析が実行されました(図3d)。ワトム島の1900年前頃の1個体(WAT002/B10)については、約10世代前の混合が推測され、混合事象について2100年前頃の年代が得られ、同じ遺跡の2個体の混合事象の年代は500年前頃でした。
PNG南岸の2ヶ所の遺跡間では、再びわずかな違いが観察されます。年代測定された個体群のみから推測すると、エリアマ遺跡の個体群では平均混合年代が1100年前頃(1600~600年前頃の範囲)なのに対して、ネビラ2遺跡の平均年代はわずかに古くなります(1500年前頃、1800~900年前頃の範囲)。ERI007/ACV-7およびNBR020/ACJ-34は例外で、それぞれ370年前頃および650年前頃とより新しい混合年代となります。一致して、NBR020/ACJ-34は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比および子供期の食性値を示しました。低網羅率のため、ティル遺跡の個体群はこの分析ではまとめられ、混合事象は900年前頃と推定されました。
●性別の偏った混合
データセットの、遺伝的に男性の25個体のうち21個体でY染色体ハプログループ(YHg)が、41個体のうち38個体でミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)が決定されました(表1)。大半の個体は現在のアジア東部人口集団と関連するmtHgを有しており、mtHg-B4a1a1が優占しています。4個体のみがパプア人関連のmtHgを有しています。逆に、YHgは反対のパターンを示唆しています。アジア東部起源の1系統のYHg(O2a2b2)を除いて、特定された18系統のYHgはすべて、近オセアニアで最も一般的です(表1)。性別の偏った混合のパターンはゲノム規模水準でも検出され、常染色体から推測される混合割合と比較してのX染色体上の混合割合の分析によって示されます。この分析は百分率で10~60ポイントの範囲にわたるX染色体上のオーストロネシア語族話者関連祖先系統の過剰を示し、バヌアツおよびワラセアの古代の個体群と同様に以前観察されたように[7、9]、性別の偏った混合事象を示唆しています。
●より広範な地域の入植の順序
この地域内の他の古代人集団との関係を調べるために、qpGraphを用いて混合図がモデル化されました。マリアナ諸島の最初の入植の起源地域は、まだ議論されています。放射性炭素年代は3200年前頃の入植を示唆しますが、一部の考古学的証拠は数世紀早い居住を提案します。潜在的な起源地域には、フィリピン諸島と、航海中にマリアナ諸島で陸地初見になる可能性が最も高いこと基づいて、近オセアニア北部が含まれます。フィリピン諸島からの適切な品質の古代人のゲノムが欠けているので、これは間接的に評価されます。2800~200年前頃の間のグアム島およびサイパン島の古代人のゲノム[8、66]を用いて、二つの競合する仮説が検証されました。まず、マリアナ諸島はフィリピン諸島から入植されたかもしれず、この場合には、個体WAT002/B10におけるアジア東部関連構成要素を含めて、その集団はラピタ文化関連の遺伝的構成要素の形成前に分岐した、とモデル化されます。あるいは、マリアナ諸島は近オセアニアから入植されたかもしれず、その場合には、この集団はビスマルク諸島に到来した後に分岐したはずです。データは個体WAT002/B10の前のグアム島およびサイパン島のゲノムの分岐のモデルにより良好な適合を提供し、マリアナ諸島の最初の入植者の起源がフィリピン諸島にあることを示唆しています。
●遺伝的関係および埋葬パターン
最後に、家族関係に取り組むことができる唯一の遺跡であるネビラ2について、個体間の遺伝的関係が調べられました。ネビラ2遺跡の墓地には一次埋葬が含まれ、その一部は複数埋葬もしくは同時埋葬として使用されました。人々はほぼ西方向もしくは北西方向で、仰向けの施政で埋葬されました。得られた近縁性網から、ネビラ2遺跡の1親等および2親等の関係には、遺伝的に男女両方の個体が含まれる、と分かり、父方居住もしくは母方居住の明確な兆候は示されません。遺伝的に親族関係にある個体群が、ともに埋葬されていないものの、近くに埋葬されているのに対して、親族関係にない個体群は複数もしくは同時埋葬で見つけることができます。これらの結果から、複数埋葬もしくは墓の再利用の理由は必ずしも家族に関連していないか、PNGの社会状況においてよくある事例、つまり現在この地域に暮らすモツ人(Motu)およびコイタ人(Koita)のように、おそらく家族は遺伝的近縁性に限られていなかった、と示唆されます。
ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)分析は、より高水準の近親婚を明らかにし、有効人口規模に近似でき、有効人口規模は単純化された過程では、個体の総数ではなく、繁殖した個体数を反映しています。ROHから、ネビラ遺跡の人口集団は近親婚がより低水準で、推定有効人口規模は800~3200個体だった、と示されます。エリアマ遺跡については、短いROHの数がより多いことは、より高い背景の近縁性と400~1600個体のより小さな有効人口規模を示唆しています。
IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)であるゲノム断片の分析は、エリアマ遺跡とネビラ遺跡のさまざまな個体間の遠い遺伝的関係を明らかにします。エリアマおよびネビラの2ヶ所の遺跡の個体間で共有される断片の数および規模と、2人口集団の分岐モデルから、この2集団は約13世代前に接触を止めた、と示唆され、640年前頃の推定分岐年が得られました。
●ワトム島における時間横断区
ワトム島のリーバー・ラキバル(Reber–Rakival、SAC)遺跡にはじゅうぶんに確認された層序があり、ビスマルク諸島における中期および後期ラピタ文化期である2800~2350年前頃のラピタ文化複合体の人々による居住の証拠を提供します。最下層(D層)は、それ以前の居住の証拠を提示します。この最古級の層では土器と黒曜石が欠けており、おそらくはラピタ文化複合体の到来前にワトム島に居住した異なる人口集団か、ワトム島における中期および後期ラピタ期のラピタ文化共同体との共存の可能性を示しています。ワトム島の別の遺跡(SAD、SDI、SAB)では、葉型刻印のラピタ土器および反対側に挟む釘状刻印装飾のある破片の両が、3000年前頃以前の確実な状況(ラピタ文化中期)で発見されています。
ビスマルク諸島から得られた古代ゲノムの最初の分析は、経時的に変化するワトム島における多様な祖先系統を示します。個体WAT005/B14およびWAT006/B15は中期~後期ラピタ期(2700~2200年前頃)パプア人(バイニング語族話者的)関連祖先系統のみを有する人々による居住を示しており、これは3300~3200年前頃のビスマルク諸島における考古学的に証明されたラピタ文化複合体の到来の少なくとも600年後です(図2a)。WAT006/B15の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比から、この個体はおそらくワトム島の地元民で、この遺跡から回収された他の個体も同様だった、と示唆されました。WAT006/B15の考古学的および人類学的分析は、その後の個体群と比較しての異なる祖先系統の裏づけとなる手がかりを提供します。WAT006/B15は頭蓋を長く延ばす文化的頭蓋変形の稀な事例を示しており、これはラピタ文化複合体では現時点で知られていない刊行ですが、歴史時代のニューブリテン島南西部のアウェア(Aware)地域では観察されています。WAT006/B15は唯一確実に座位埋葬された固定で、その頭部は膝に落ちています。WAT006/B15は下半身が畝に伸びており攪乱していましたが、WAT006/B15は上半身を仰向けに伸びた姿勢で、西から北西方向へと向いて埋葬された、と判断できます。仰向けで四肢を半ば折り曲げた状態は、いくつかの例外がありますが、この遺跡の後期埋葬の一般的パターンでした。
1900年前頃までに、パプア人関連祖先系統とアジア東部関連祖先系統との間の混合モデルに適合する遺伝的に女性の1個体(WAT002/B10)が見つかり、その混合割合はバヌアツの後期ラピタ期の個体群と類似しています。さらに、WAT002/B10はバヌアツの同時代の個体群と同様に、ニューブリテン島の現在の非オーストロネシア語族話者であるバイニング人とより高い類似性を示します。バヌアツとのつながりはワトム島の彫刻および塗布浮き彫り模様土器に反映されており、この土器はバヌアツの「マンガアシ(Mangaasi)」様式土器と類似性を共有しており、2210~1755年前頃のワトム島のSDI遺跡では鋸歯ラピタ土器ととともに発見されました。ワトム島のSAB遺跡では、ラピタ土器は見つからなかったものの、地元で製作された彫刻および塗布浮き彫り模様土器が較正年代で2455~2310年前頃の層序状況で見つかりました。ワトム島へのラピタ文化個体群のその後の到来と、ワトム島における後期ラピタ文化層序における彫刻および塗布浮き彫り模様土器との間には、いくらかのつながりがあるかもしれません。
最後に、ワトム島の最新の2個体(670~510年前頃)は、現在この地域に暮らすオーストロネシア語族話者のトライ人(Tolai)とひじょうに類似した遺伝的構成を有しています(図2)。しかし、トライ人は、ワトム島の670~510年前頃の人口集団に完全に由来することと一致するわけではありません。ワトム島が自然災害と人口移動を起こした植民地主義に強く影響されたことを考えると、これは予測される観察です。過去500年間以内の人口移動の証拠はトライ人の口承伝承にも由来し、その伝承では、トライ人がニューアイルランド島南部から来た、と記録されています。この起源はトライ人がニューアイルランド島南部の集団とは共有しているものの、ウィラウメズ半島(Willaumez Peninsula)の他の集団とは共有していない信仰体系および他の文化的慣行によって裏づけられます。
●マリアナ諸島の入植に関する代理情報
系統樹的モデルでは、ワトム島の混合している1個体(WAT002/B10)のアジア東部関連祖先系統の分岐パターンは、アジア南東部島嶼部からマリアナ諸島への入植を支持します。この支持される経路では、卓越風および潮流にこうしての公開が必要で、PNGの北東部の島々からのさほど困難ではない移動は除外されます。フィリピン諸島および台湾からの適切な古代標本の不足のため、マリアナ諸島の最初の入植がはじまった正確な地理的位置にはいくらかの不確実さが残りますが、それにも関わらず、遠オセアニア北西部の島々への入植した人口集団には、熟練した航海技術が想定されてきました。
●PNG沿岸部の人口史
PNG南部沿岸の住民の遺伝的類似性から、ラピタ文化複合体と関連する土器の出現は、おそらくアジア東部関連祖先系統を有する人口集団の到来と関わっていた、と示されます。PNG沿岸部の全個体はニューギニア高地の現在の個体群では観察されないものの、現在のPNGの沿岸部集団には存在するジア東部祖先系統を有しています(図2a)[78]。PNG南部沿岸のエリアマ遺跡とネビラ2遺跡の両方は地理的に近いものの、その遺伝的組成は異なる人口史を示唆しています。平均的に、エリアマ遺跡の個体群はネビラ2遺跡の個体群と比較して、そのより高度な多様性と1600~600年前頃とより新しい混合年代にも関わらず、約80%のより高いパプア人関連祖先系統を示します(図3d)。ネビラ2遺跡の個体群はより均質で、遺伝的差異がより大きく、アジア東部関連祖先系統の割合が50%超とより高くて、平均して1800~900年前頃と混合年代の範囲がより古くなります(図3a・d・e)。
ニューギニアの北東部沿岸に位置するティル遺跡の2個体は、エリアマ遺跡個体群と同様の遺伝的特性および混合年代を示します(図3a・d)。ティル遺跡の持続的な定住の最初の証拠は確実に650年前頃にさかのぼり、ンゲロ・ビシャズ(Ngero–Vitiaz)交流網のおそらくオーストロネシア語族話者の人々による、900~800年前頃となるそれ以前の居住の痕跡の可能性があります。ティル遺跡個体群から推測された混合事象は最初の居住時期の頃に収まり、ティル遺跡の最初の入植もしくはすでに混合していた人口集団による確立期に混合が起きたことを示唆しています。考古学的研究はティル遺跡をビスマルク諸島のニューブリテン島の北西部沿岸に位置するウィラウメズ半島へと伸びる、地域的な交易網に位置づけます。言語学的証拠と口承伝承は、ティル遺跡やゲダゲド(Gedaged)遺跡やビルビル(Bilbil)遺跡の地域で現在話されているベル(Bel)語族のンゲロ・ビシャズ語の、ビスマルク海のビシャズ海峡起源を示唆します。しかし、物質的交換は遺伝的交換にまで至らなかったようで、それは、ティル遺跡の個体群が、エリアマ遺跡個体群と比較して、ビスマルク諸島の人口集団とのより強い類似性がないからです。
●地域的な拡散の時期と遺伝的影響
アジア東部関連祖先系統を有するワトム島の全個体の2祖先系統間の混合の2100年前頃との年代から、在来のパプア人との混合は、ラピタ文化複合体の到来に始まって繰り返し起きたか、ビスマルク諸島におけるラピタ文化複合体の到来の約1000年後にやっと始まった、と示唆されます(図3d)。本論文は、広範な時間横断区にまたがる5個体のみに由来する解釈の限界を認識しています。以前に観察されたように[7、9]、繰り返しの混合事象は一見すると最近の混合年代をもたらすかもしれません。しかし、遠オセアニアの初期の入植者が、近オセアニアで在来集団と混合しなかったアジア東部祖先系統のラピタ文化関連人口集団にほぼ由来する、とのさらなる裏づけとして、この結果は慎重に解釈されます。ビスマルク諸島における到来時もしくは直後の局所的混合は、3000年前頃のずっと早い混合をもたらしたでしょう。さらに、ワトム島のラピタ期における完全にパプア人関連祖先系統の個体群の存在は、パプア人関連祖先系統のみの最古級の個体群は2600年前頃にバヌアツに到達し、それはバヌアツ諸島の最初の入植の約300~400年後だった、との観察[9、10]と一致します。
PNG南岸の年代測定された個体群から推測された混合年代から、ネビラ2遺跡の人々の混合事象は1500~1100年前頃に起きており、バヌアツ(2600年前頃)やワトム島(2100年前頃)など他の場所よりもずっと後だった、と示されます。これは、PNG南岸に沿ったラピタ文化複合体と関連する人々の子孫のその後の到来の結果として解釈できるかもしれません。しかし、PNG南岸におけるラピタ文化集団の入植の最初の発生は2900~2800年前頃に始まる、と年代測定されており、これはビスマルク諸島における最初のラピタ文化形成の400年後で、バヌアツの考古学的証拠と同時代です。本論文の分析からねこの後期の混合年代がラピタ文化複合体と関連する最初の入植者の長期の遺伝的孤立の結果なのか、あるいはラピタ文化関連祖先系統のさまざまな割合を有する在来人口集団との繰り返しの混合の結果なのかどうか、明確ではありません。ラピタ文化集団と在来集団との間の文化的接触を論証したいくつかの研究では、相互作用はラピタ文化関連入植者の出現直後に始まった、と示されており、孤立仮説の可能性は低そうです。
PNG南部沿岸の考古学的記録は、入植の強化と土器の多さの「波動」を示しています。パプア・ヒカプとしても知られている「土器ヒカプ」とよばれるこの期間は、おそらく遺跡の放棄もしくは移転の結果で、土器の製作および様式の中断や、PNG南部沿岸の頭部との相互作用の縮小があり、交流網は維持されたものの、おそらく集中的ではありませんでした。この期間は1200~500年前頃の間にかけて存続した、と考えられていますが、正確な時期は不充分な放射性炭素年代測定の結果として不確実なままです。この仮定された期間は、おそらくオセアニアでは遅れた中世の気候異常(1250~700年前頃)と一致しますが、PNGおよびオセアニア西部の代理遺跡の不足のため、特定の地域への影響の程度は不明となっています。ただ、エルニーニョ/南方振動事象の増加は季節的な旱魃につながったかもしれず、入植パターンの変化が淡水の利用可能性および耕作の実行可能性に少なくとも部分的に影響を受けた、と示唆されます。気候が沿岸部共同体に直接的な影響を及ぼしたのかどうかに関わらず、長距離交易のつながりの中断は、多くの長期の居住地の放棄やさらに内陸への移転や、おそらくは集団間の紛争の契機となったかもしれません。確かに、ネビラ丘陵の麓に位置するネビラ4遺跡の居住地は、双峰丘陵の鞍部に位置するネビラ2遺跡の入植時期には放棄されました。防御的な丘陵上の居住地への移行は、集団間の関係が変化し、丘陵上の防御地点が居住地域として選好されたことを示唆しています。
ネビラ2遺跡の個体の大半は1600~1100年前頃の間の混合事象を示し、この期間【中世の気候異常】と重なっています。個体NBR020/ACJ-34は、ネビラ2遺跡集団の大半よりずっと新しい、わずか650年前頃の混合年代を示します。さらに、個体NBR020/ACJ-34は地元ではない⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比と異なる子供期の食性を示し、異なる祖先の歴史を有する人口集団に起源があったかもしれません。個体NBR020/ACJ-34の混合年代は、沿岸部と内陸部の居住地が考古学的に可視化されるようになった期間と一致し、土器は社会的境界の確立もしくは強化を示唆する地域的差異のある、様式の革新を示します。交易はおそらく再形成された交流網で800~500年前頃に再開し、PNG沿岸部に到来したさまざまなオーストロネシア語族話者集団と関連していました。少なくとも500年前頃までのクラ(Kula、交易)およびヒリ(hiri、交易)交易網などの海上交易網の重複は、「パプア・ヒカプ」に続く期間におけるこれら交流網の(再)出現を示唆しています。
エリアマ遺跡個体群から推測される混合年代は、より高い割合のパプア人祖先系統(図3a)とともに、ネビラ2遺跡で特定された遺伝的交換を越えた、遺伝的交換の連続を示唆します。40%から15%へのアジア東部関連祖先系統の強い変化は、それらがパプア高地人によって表されるモデルにおけるより高い割合のパプア人関連祖先系統を有する人々との相互作用圏の一部だったことを示唆します。しかし、どの人口集団が寄与し、その地理的起源がどこだったのか、特定する解像度が不足しています。「パプア・ヒカプ」期には、共同体は内陸地域へと後退し、そこでは高地人口集団との相互作用が強化されたかもしれません。エリアマ遺跡の1個体(ERI007/ACV-7)は600~400年前頃と推測されたより新しい混合を示しており、これも、エリアマ遺跡の人口集団が他の人口集団と遺伝的交換を続けた、と示唆しています。
2ヶ所の遺跡【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】間の多くの違いにも関わらず、IBD塊の分析はネビラ2遺跡とエリアマ遺跡の個体間の遠いつながりを明らかにし、これらの個体が640年前頃と推定される分析された人口集団の約13世代前には一つの繁殖単位を継続していた、と示唆しています。この2ヶ所の近隣の遺跡【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】の異なる遺伝的組成から、PNG南岸は人々の遺伝的およびおそらくは文化的で言語学的な混在状態だった、と示され、これは現在のモツ(Motu)語およびコイタ(Koita)語話者共同体の状況と一致します。モツ語はオーストロネシア語族のオセアニア諸語の西大洋州諸語の中央パプア諸語で、ほぼPNGの中央州の沿岸部地域に暮らす人々が話しています。この地域で支配的なパプア諸語であるコイタ語は、より内陸部の居住地で話されています。ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡に近い沿岸部および内陸部地域に居住する二つの主要な文化集団は、歴史的に密接なつながりを有しており、通常ではそのつながりには通婚が含まれ、両集団が海上でのヒリ(hiri、交易)交易遠征に関わっていました。埋葬慣行の違いは、具体的にはネビラ2遺跡におけると一次埋葬とエリアマ遺跡における二次洞窟埋葬で、これも死者の扱いに関する異なる文化的慣行を示しています。
ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡に居住していた祖先を記憶している現在の集団の口承伝承には、山岳地帯からの移転の物語が含まれています。明らかな地理的障壁がないにも関わらず、この2ヶ所の共同体【ネビラ2遺跡とエリアマ遺跡】が分離した理由は依然として不可解で、移転後のこの2集団のさまざまな相互作用圏と関連する文化的障壁の導入を示しているかもしれません。
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