Brian Hare 、Vanessa Woods『ヒトは〈家畜化〉して進化した 私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』
ブライアン・ヘア(Brian Hare)、ヴァネッサ・ウッズ(Vanessa Woods)著、藤原多伽夫訳で、白揚社より2022年6月に刊行されました。原書の刊行は2020年です。本書は自己家畜化の観点からの人類進化史で、第一次トランプ政権下のアメリカ合衆国までを対象としています。「協力的コミュニケーション」によって現生人類(Homo sapiens)は生き残り、繁栄できたのであり、そうした友好性が自己家畜化によって進化した一方で、その友好性には他集団を人間扱いしない負の側面と表裏一体である、との本書の内容は確かに興味深いものの、前提となる人類進化史の認識について疑問もあります。
冒頭で、10万年前頃以降もホモ・エレクトス(Homo erectus)は存在していた、との認識が示されていますが、現時点でのホモ・エレクトスの確実な下限年代は117000~108000年前頃だと思います(関連記事)。その研究は2019年末に公表されたので、原書の刊行が2020年の本書に取り入れるのは難しいとしても、10万年前頃のヒト(現生人類)が、150万年以上前にホモ・エレクトスが考案したのと同じ握斧を使用していた、との本書の認識は問題で、現生人類が出現していた20万年前頃のアフリカにおいて、握斧が共伴するのは20万~135000年前頃までで、すでに他の石器技術が主流になっていました(関連記事)。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が洞窟に残した壁画には架空の生き物が描かれている、とも本書は指摘しますが、ネアンデルタール人が具象的な表現を残した事例はまだ確認されていないと思います。
本書の主題に戻ると、本書は「協力的コミュニケーション」に特化した認知能力がある現生種として、ヒトだけではなくボノボとイヌも挙げます。一方で、ボノボと同じ属で、最近縁の現生種であるチンパンジーには、「協力的コミュニケーション」に特化した認知能力はない、と本書は指摘します。そうした「協力的コミュニケーション」を可能とする前提として自己家畜化があり、それに伴う外見も含めた表現型の変化がある、と本書は推測します。非ヒト動物は自己家畜化によってヒトを怖がらなくなり、ヒトの指示をより適切に理解できるようになって、それがイヌの祖先である一部のオオカミでも起きており、家畜化につながったのではないか、というわけです。
イヌやボノボの自己家畜化の事例を示した本書は、ヒトの自己家畜化の可能性を検証します。ヒトの自己家畜化は21世紀において注目を集めている分野のようで、その遺伝的基盤を検証した研究もあります(関連記事)。現生人類は8万年以上前に起きた自己家畜化が可能とする「協力的コミュニケーション」によって、見知らぬ人とも友好的な関係を築くことができ、それが大規模な集団の形成と集団間の交流を可能として技術革新などにもつながり、ネアンデルタール人など他の人類に対する優位性になった、というのが本書の大まかな見通しです。
一方で、冒頭で述べたように、自己家畜化による「協力的コミュニケーション」には、他集団を人間扱いしない負の側面もあります。ヒトではそれが、危険を感じたさいに、敵対する集団の人間性を無視するような、新たな形の攻撃性を強化し、それが現代にまで続く問題であり、解消されていないことを、本書は多くの具体的な事例から説明します。奴隷貿易においても、ヒトのそうした認知機序が作用したようで、それが行き着く先は、たとえば本書でも取り上げられているルワンダ大虐殺です。本書はこの問題について、おもに現代のアメリカ合衆国の事例を取り上げています。本書はこうした問題への対策として、異なる集団や個人との接触を推奨しています。接触によって、相手の「人間化」が起きやすくなる、というわけです。逆に、接触の少なさは相手の「非人間化」につながりやすくなります。
本書を読んで、反省させられるところが多々ありました。私は器がひじょうに小さく不寛容な人間なので、個人にも集団(国家や政党や企業といった組織、特定の地域、特定の思想や世界観や見解を共有する人々など)にも嫌悪感や敵意を抱くことが多く、まあ一応は、ヒトラーやスターリンや毛沢東のような人類史上の大悪人でさえ、捜査や裁判で拷問があってはならない、と考えるくらいの人権意識はありますが、嫌悪感や敵意は相手の「非人間化」につながりやすくて、こうした個人の言動の積み重ねが極端にいけば大虐殺となるわけです。インターネットでは、特定の思想や見解の人間を見下し、人間扱いしていないような言説は珍しくなく、いかにそれは「比喩」や「皮肉」だといったところで、そうした言動を繰り返すことこそ危険なのだな、と自分の日頃の感情を顧みて大いに反省した次第です。
インターネットの掲示板時代から、偽情報を流すのは低負担、それを検証して否定するのは高負担という人間社会の嫌な真理を悪用し、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えない言動を繰り返す人物や、次々と偽情報や可能性が低い想定を突きつけてきて、無視すれば「反論できなかった」と吹聴し、偽情報や可能性が低い想定だと指摘したら、別の偽情報や可能性が低い想定を突きつけ、論証を要求する、といった人物に絡まれたことがあったので、そうした人物には強い敵意や憎悪を抱いてきましたし、その対象を特定の思想や世界観の「集団」に拡張することもありました。相手はあくまでも(複数の)人間である、との意識を保ってきたつもりですが、正直なところ、相手を「非人間化」してしまったところも多分にあるように思います。私は非力な一個人にすぎませんが、そうした個人の言動が集まり、相乗効果で大きな惨劇につながる可能性もあるわけで、相手を「非人間化」しないよう、これまで以上にずっと慎重にならねばなりません。
参考文献:
Hare B, and Woods V.著(2022)、藤原多伽夫訳『ヒトは〈家畜化〉して進化した 私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』(白揚社、原書の刊行は2020年)
冒頭で、10万年前頃以降もホモ・エレクトス(Homo erectus)は存在していた、との認識が示されていますが、現時点でのホモ・エレクトスの確実な下限年代は117000~108000年前頃だと思います(関連記事)。その研究は2019年末に公表されたので、原書の刊行が2020年の本書に取り入れるのは難しいとしても、10万年前頃のヒト(現生人類)が、150万年以上前にホモ・エレクトスが考案したのと同じ握斧を使用していた、との本書の認識は問題で、現生人類が出現していた20万年前頃のアフリカにおいて、握斧が共伴するのは20万~135000年前頃までで、すでに他の石器技術が主流になっていました(関連記事)。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)が洞窟に残した壁画には架空の生き物が描かれている、とも本書は指摘しますが、ネアンデルタール人が具象的な表現を残した事例はまだ確認されていないと思います。
本書の主題に戻ると、本書は「協力的コミュニケーション」に特化した認知能力がある現生種として、ヒトだけではなくボノボとイヌも挙げます。一方で、ボノボと同じ属で、最近縁の現生種であるチンパンジーには、「協力的コミュニケーション」に特化した認知能力はない、と本書は指摘します。そうした「協力的コミュニケーション」を可能とする前提として自己家畜化があり、それに伴う外見も含めた表現型の変化がある、と本書は推測します。非ヒト動物は自己家畜化によってヒトを怖がらなくなり、ヒトの指示をより適切に理解できるようになって、それがイヌの祖先である一部のオオカミでも起きており、家畜化につながったのではないか、というわけです。
イヌやボノボの自己家畜化の事例を示した本書は、ヒトの自己家畜化の可能性を検証します。ヒトの自己家畜化は21世紀において注目を集めている分野のようで、その遺伝的基盤を検証した研究もあります(関連記事)。現生人類は8万年以上前に起きた自己家畜化が可能とする「協力的コミュニケーション」によって、見知らぬ人とも友好的な関係を築くことができ、それが大規模な集団の形成と集団間の交流を可能として技術革新などにもつながり、ネアンデルタール人など他の人類に対する優位性になった、というのが本書の大まかな見通しです。
一方で、冒頭で述べたように、自己家畜化による「協力的コミュニケーション」には、他集団を人間扱いしない負の側面もあります。ヒトではそれが、危険を感じたさいに、敵対する集団の人間性を無視するような、新たな形の攻撃性を強化し、それが現代にまで続く問題であり、解消されていないことを、本書は多くの具体的な事例から説明します。奴隷貿易においても、ヒトのそうした認知機序が作用したようで、それが行き着く先は、たとえば本書でも取り上げられているルワンダ大虐殺です。本書はこの問題について、おもに現代のアメリカ合衆国の事例を取り上げています。本書はこうした問題への対策として、異なる集団や個人との接触を推奨しています。接触によって、相手の「人間化」が起きやすくなる、というわけです。逆に、接触の少なさは相手の「非人間化」につながりやすくなります。
本書を読んで、反省させられるところが多々ありました。私は器がひじょうに小さく不寛容な人間なので、個人にも集団(国家や政党や企業といった組織、特定の地域、特定の思想や世界観や見解を共有する人々など)にも嫌悪感や敵意を抱くことが多く、まあ一応は、ヒトラーやスターリンや毛沢東のような人類史上の大悪人でさえ、捜査や裁判で拷問があってはならない、と考えるくらいの人権意識はありますが、嫌悪感や敵意は相手の「非人間化」につながりやすくて、こうした個人の言動の積み重ねが極端にいけば大虐殺となるわけです。インターネットでは、特定の思想や見解の人間を見下し、人間扱いしていないような言説は珍しくなく、いかにそれは「比喩」や「皮肉」だといったところで、そうした言動を繰り返すことこそ危険なのだな、と自分の日頃の感情を顧みて大いに反省した次第です。
インターネットの掲示板時代から、偽情報を流すのは低負担、それを検証して否定するのは高負担という人間社会の嫌な真理を悪用し、騙せる奴だけ騙せればよい、と考えているとしか思えない言動を繰り返す人物や、次々と偽情報や可能性が低い想定を突きつけてきて、無視すれば「反論できなかった」と吹聴し、偽情報や可能性が低い想定だと指摘したら、別の偽情報や可能性が低い想定を突きつけ、論証を要求する、といった人物に絡まれたことがあったので、そうした人物には強い敵意や憎悪を抱いてきましたし、その対象を特定の思想や世界観の「集団」に拡張することもありました。相手はあくまでも(複数の)人間である、との意識を保ってきたつもりですが、正直なところ、相手を「非人間化」してしまったところも多分にあるように思います。私は非力な一個人にすぎませんが、そうした個人の言動が集まり、相乗効果で大きな惨劇につながる可能性もあるわけで、相手を「非人間化」しないよう、これまで以上にずっと慎重にならねばなりません。
参考文献:
Hare B, and Woods V.著(2022)、藤原多伽夫訳『ヒトは〈家畜化〉して進化した 私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』(白揚社、原書の刊行は2020年)
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