優生学の再台頭と遺伝学
優生学の再台頭と遺伝学に関する論説(Wojcik., 2025)が公表されました。本論文は、21世紀の目覚ましい遺伝学、とくに集団遺伝学の発展が、優生学の再台頭を招いている、との認識から、遺伝学者がそうした優生学的思想に対抗するよう、提言しています。本論文の「white nationalism」をどう訳すべきか、迷いましたが、先行研究(会田.,2017)に倣って「白人民族主義」と訳します。これが妥当な日本語訳なのか、迷いは依然としてありますが、この問題について私よりはるかに詳しい著者の訳語なので、信頼して使用します。
本論文は世界の多くの地域で優生学的な科学的人種差別である「白人民族主義」が再台頭している、と警告し、そうした研究者に科学、とくに遺伝学を悪用させないために戦うよう、奮起を促しています。本論文の懸念には尤もなところが多分にあり、私もその多くを共有しているのは、優生学の危険性について以前から考えていたからでもあります(関連記事)。遺伝学、とくに21世紀になって顕著に発展した古代ゲノム研究も含めて集団遺伝学が、優生学的な差別に悪用されていることは否定できません。
ただ、本論文は世界規模での優生学的な「白人民族主義」の再台頭に警鐘を鳴らしていますが、実質的にはアメリカ合衆国、それも現在のドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領の方針とその支持者のみを対象としています。確かに、アメリカ合衆国に関して、とくに現在のトランプ政権では、「白人民族主義」の再台頭が脅威であることはとても否定できないでしょう。しかし、たとえばインドでも、古代ゲノム研究を民族主義に都合よく曲解して「受容」していることが問題となっており(Chandrashekhar., 2024)、遺伝学の曲解に基づく優生学の再台頭について、一応は世界全体に言及しつつ、世界の多くの地域を対象としながら、ことさら「白人民族主義」の脅威を強調する本論文は、非「白人」である日本人の私には「白人至上主義」に思えます。まあ、本論文はインドに多いインド・ヨーロッパ語族話者も「白人」と認識しているのかもしれませんが、そうだとしたら、一般的な用法とはかけ離れています。
さらに、インド以外でも、遺伝学やその他の学術分野が民族主義的主張に悪用されることは珍しくありません。日本語環境のインターネットで少し調べれば、日本列島をユーラシア大陸の歴史からできるだけ切断し、日本と近隣諸国との違いを強調し、日本の優位性を「証明」したい、というような欲望が全開の言説を見つけることは容易です。そうした言説では少なからぬ場合、アイヌ集団は13世紀に故地のユーラシア大陸東部からモンゴル帝国に追われて南下し、北海道に侵入して先住の「縄文人」の子孫である擦文文化集団を殺戮した侵略者だった、というような主張が伴いますが、そうした主張は与太話にすぎない、と私は考えています(関連記事)。
他には、たとえば中国では、人類進化研究で「人種概念」が強く、一般層に対象を広げても、人類進化研究を都合よく利用し、「黄色人種」である中国人を称揚するような詩が教科書に掲載されたこともあり(Cheng., 2017)、「人種概念」の広範な浸透が窺えます。近年の中国では、「多元一体」の「中華民族」が強調され、さまざまな学術分野の研究成果を「活用」して、前近代の歴史を「中華民族」なる概念で語ることは一般的になっているようですが、これも、実質的には「漢民族至上主義」につながる危険性が大きいのではないか、と私は懸念しています。古代ゲノム研究を「中華民族」の正当化と定着に利用しているのかな、と窺えるところもあります(Li et al., 2024)。日本と中国の事例だけでも、世界の少なからぬ地域での優生学的な民族主義の台頭を「白人民族主義」の脅威として語る本論文の認識はきわめて疑問です。
本論文でもう一つ問題となるのが、DEIA(diversity, equity, inclusion and accessibility、多様性と公平性と包括性と近接性)の称揚です。確かに、本論文でも指摘されているように、遺伝学では、とくに医療と関連するような場合、研究において多様性の確保は重要です。しかし、そうしたDEIAというかDEIを称揚してきた「woke」陣営が、実際に「多様性」を確保できているのか、視野狭窄に陥っているのではないか、「白人民族主義」と同様に学術分野を傷つけ悪用してきたのではないか(関連記事)、との疑いを私は強く抱いています(関連記事1および関連記事2)。そうしたアメリカ合衆国の人々の不満がトランプ政権成立の一因になっているでしょうし、アメリカ合衆国の学界はそこを自省して軌道修正することが重要だと思います。
ただ、第二期トランプ政権始動で「woke」の終わりの始まりの如く昂揚しているような日本人もいるようですが、「woke」陣営は「西側」では学界と報道・出版業界を中心に政界や官界や経済界にまでかなり浸透し、強力な権力を確立しているようなので、そう簡単に終焉に向かうとは思えませんし、今後巻き返す可能性も全否定はできません。さらに、現時点では失政・悪政が続いているように思われる第二期トランプ政権への反動で「woke」が再活性化する可能性もあるとは思います。まあ、私はトランプ大統領を2016年の大統領選の頃から嫌っており、まったく信用していないので(関連記事)、現在のトランプ政権の学術分野への攻撃もまったく支持しておらず、この点では本論文と認識を共有しているところが少なくありませんが、日本人の私にって、第二期トランプ政権後に「woke」が再活性化し、日本の学術分野、とくに人文学が今以上に「woke」に傾斜するとしたら、本当に困ったものです。以下、本論文の翻訳ですが、敬称は省略します。
●要約
科学者は台頭する白人民族主義の脅威と、優生学の危険で疑似科学的な思想に対抗せねばなりません。1924年、アメリカ合衆国は優生学運動の高まりに突き動かされて、ジョンソン=リード法【日本では「排日移民法」と通俗的に呼ばれています】を成立させました。この法律は、「あらゆる誤解を受け継いだ、外国人の血の流れ」を取り去るために、移民を制限しました。その1世紀後、昨年【2024年】10月、選挙期間中に現在ではアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、同様の優生学的な言葉を使って、自身が提案した移民政策を正当化するために、「今、我が国には多くの悪い遺伝がある」と述べました。このまま放置すれば、世界の多くの地域での白人民族主義の高まりは、科学で、より広くは社会で達成されてきた進歩を脅かすかもしれません。我々は科学者および一般市民として、遺伝学教育への取り組み方を修正し、科学を擁護し、多様な研究団を設立して指導し、研究がヒトの差異について得られた洞察を包含し、それに基づくことを保証することによって、この脅威を押し返さねばなりません。
●人種差別主義者の比喩は続いています
【今年】2月の公聴会で、アメリカ合衆国保健福祉長官に就任したロバート・フランシス・ケネディ・ジュニア(Robert Francis Kennedy Jr)は、黒人の子供たちは免疫系の差異のため白人の子供たちとは異なるワクチン計画を受けるべきだ、との過去の発言を繰り返しました。これに関してケネディの動機は不明です。しかし、ワクチン接種についての多くの明らかに虚偽の発言の後、ケネディは、異なる「人種」は生得的に異なる生物学を有している、との人種本質主義を促進しながら、引用している科学者が「データが実際に示していることをはるかに超えて捻じ曲げている」と述べた別の推論を提供しています。
一方で、トランプは大統領就任演説で、自分の施政は「肌の色に囚われず、実力に基づく社会を築く」と述べたものの、【今年】3月に署名した大統領命令は、スミソニアン協会が博物館や研究所で、人種は生物学的現実ではなく、社会的構成概念だ、との見解を推進していることについて、「腐敗した空論」と強く非難しています。世界の多くの地域で専門の移民排斥主義者や反移民正当(時には、科学的人種差別に支えられています)が勢力を増すにつれて、同様の修辞が政治討論にますます入り込みつつあります。
優生学の危険で疑似科学的な思想は、過去1世紀にわたって周期的に人気を得てきました。しかし、白人民族主義の最深の波は、科学界において二つの相互に関連した概念が注目を集め、受け入れられた後で、起きています。一方で、研究者の間では、人種や民族性など血統に基づく帰属意識の社会的構成概念は遺伝学的分類とは一致しない、との広範な合意があります。他方で、多様性は医療を含めて健全な科学と効果的な政策に重要である、との認識が高まりつつあります。これら二つの概念が融合することで、科学は強化され、健康への恩恵は増大しました。
●社会的構成概念としての人種
数十年にわたる社会科学のデータでは、人種的および民族的帰属意識は、自己認識の有無に関わらず、特定の社会政治的文脈で定義されて採用されている構成概念である、と論証されています。過去2世紀半にわたって、アメリカ合衆国の国勢調査において、政治的必要性や社会的変化に応じて人種と民族の区分がどの程度変わってきたのか、考えましょう。ヒスパニックという用語は、今ではスペイン語圏の諸国出身の人々を指すのに使われていますが、ラテン系支援団体の陳情運動に対応して、1970年の国勢調査で初めて導入されました。社会規範の変化を受けて、「黒人(Black)」および「黒人(Negro)」の代替(後者は2020年の国勢調査に合わせて2013年に削除されました)として、アフリカ系アメリカ人という用語が2000年の国勢調査で追加されました。
社会科学的データの分析とともに、遺伝学的研究が繰り返し、人種や民族性など血統に基づく帰属意識の構成概念は個別の生物学的分類とは一致しない、と論証してきました。遺伝学的研究では、そうした構成概念の使用が、人口集団の特定の分類と曖昧な下部構造に当てはまらない人々を排除するかもしれず、ヒトの健康に影響する可能性があることも示してきました。
たとえば、ヘモグロビン障害(赤血球に影響を及ぼす遺伝性疾患)を有する人ごとの確率は、個人が世界のどこに暮らすかに応じて大きく異なります。インドの一部地域では、βサラセミアは8%以上と推定されていますが、中国の一部の地域では、2.7%程度と低い場合もあります。この不均質性は、研究者が単純に世界の人口の約60%を占める「アジア人」として被験者を分類すれば、見過ごされるでしょう。同様に、他の要因を考慮しない「ヒスパニック」という区分を用いると、稀な遺伝性骨疾患であるスチール症候群と関連する遺伝的多様体が、ドミニカ共和国やメキシコの人々よりもプエルトリコの人々の方でより一般的であることを解明できないでしょう。今では仮定的な生物学的差異から環境の影響に至るまで、あらゆることの適切な代理としての人種の使用には、多くのヒトが疑問を呈しています。じっさい、研究者と医療提供者は「人種に基づく医療」から距離を置きつつあり、そうした医療では、生物学的差異の認識が、黒人か白人かアジア人かヒスパニックかなどに基づいて、臨床危険性の推定や患者の保護の提供が変わります。
祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と関連する社会的帰属意識は遺伝学的分類と一致しない、との見解が受け入れられつつあることと共に、過去10年間に行なわれた複数の研究では、研究に多様な被験者を含める利点が論証されてきました。平均して、ヒト2個体のゲノムは99%以上同一です。健康と関連する多様体を含めて、人々のゲノム全体の何百万もの多様体は、数世紀から数千年にわたる人口統計学的過程(無作為と非無作為の両方)の結果として、さまざまな程度で頻度が異なります。研究における被験者の多様性増加は、遺伝学者が健康に重要な多様体を発見する機会を増やし、遺伝的もしくは他の要因で起きる疾患について間違った結論を導き出す可能性を減少させます。
大規模な多様式データと高度な統計および計算手法の利用可能性は、健康の生物学的もしくは構造的および社会的決定要因の代理としての、人種もしくは民族性への依存を止めることを、研究者にとってこれまでよりも容易にします。代わりに研究者は、人々の遺伝的特徴および地理的位置から食性まで、多くの明確に定義された変数の影響の影響を調査できます。過去数十年間にわたって、研究者への情報提供、さらには、研究設計および調査結果の適切な解釈を支援するための、学際的な枠組みが発展してきました。たとえば、全米科学・工学・医学アカデミーり報告は、遺伝学およびゲノム研究やより広く生物医学研究に含められるべきである、より多様な被験者集団の必要性を強調しています。この報告は多様な労働力の重要性も強調しており、それは一貫して、より高い生産性や、人々の生活により大きく影響する仕事をもたらします。
●科学者ができること
アメリカ合衆国では、反動的な政治運動が人種についての犬笛的な修辞を使って、大衆迎合主義者の波に乗って政権を掌握しました。これは、科学者がより公平な世界に向けて前進するための知識と手法を入手した矢先に起きました。遺伝学者や他の人々は、優生学者の目的のために科学的人種差別を利用しようとする白人民族主義の世界的台頭に反対し、その論点が主流の政治討論に入り込むのを阻止しなければなりません。
一般向けの分野の一つに、消費者向けの祖先系統検証事業があります。これらの事業は、演算法を用いて、個体と参照人口集団間の遺伝的類似性をモデル化し、人々の地理的起源について結論を導き出します。多くの人々は、地政学的および民族的区分に依存するこれらの事業が、人種本質主義を悪化させるかもしれない、と指摘してきました。さらに懸念される傾向は、科学的人種差別に場を与える学術誌の存続と、学術的信用の虚飾を白人民族主義に与える、遺伝的多様体の地理的分布を調べる研究の悪用です。たとえば、過去3年間だけでも、遺伝学はアメリカ合衆国の黒人とヒスパニック系の人々の殺害の正当化に使用されました。遺伝学者や科学者は、「新たなゲノム人種科学」を推進するためにとくに行なわれているそうした「忌まわしい」研究について議論の場に上げることを広く批判し、それに立ち向かい、自身の研究が不正使用される可能性を考慮しなければなりません。
教育は、将来の世代に非科学的な思想に対して予防接種し、現在の信念を正すのに重要です。高校や大学の水準での教育への研究では、多因子性遺伝子や遺伝的祖先系統に焦点を当てた教育など特定の教育手法が、科学的人種差別や遺伝的本質主義を防ぐのに役立つことができる、と示されてきました。これらの対話は、より広く科学の教育と擁護両方のために、研究者が一般市民と関わることに及ばねばなりません。科学者に地元紙へ意見記事を書くよう推奨する試みである、科学の帰郷など、草の根的な試みが役立つかもしれません。
指導的立場にいる者は、今後も引き続き標的とされるだろう、周縁化された教員や職員や研修生を守らねばなりません。DEIAに焦点を当てた多くの資金提供計画はもはや利用できませんが、科学の進歩の中核であるDEIAの理想は維持されねばなりません。個人的な攻撃であれ構造的な障壁であれ、とくに白人民族主義の課題の矢面に立っている我々にとって、安全な港はありません。しかし、我々が証拠に基づく探求の信条を守るのであれば、後戻りはできません。
参考文献:
Chandrashekhar V.(2024): In politically sensitive study, India looks to DNA to track ancient migrations. Science, 386, 6722, 607.
https://doi.org/10.1126/science.zrm8yw9
関連記事
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
関連記事
Li S. et al.(2024): Ancient genomic time transect unravels the population dynamics of Neolithic middle Yellow River farmers. Science Bulletin, 69, 21, 3365-3370.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.09.002
関連記事
Wojcik GL.(2025): Eugenics is on the rise again: human geneticists must take a stand. Nature, 641, 8061, 37–38.
https://doi.org/10.1038/d41586-025-01297-4
会田弘継(2017)「忘れ去られた異端者らの復権:トランプ政権誕生の思想史」『立教アメリカン・スタディーズ 』第39号P7-33
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699762709760
本論文は世界の多くの地域で優生学的な科学的人種差別である「白人民族主義」が再台頭している、と警告し、そうした研究者に科学、とくに遺伝学を悪用させないために戦うよう、奮起を促しています。本論文の懸念には尤もなところが多分にあり、私もその多くを共有しているのは、優生学の危険性について以前から考えていたからでもあります(関連記事)。遺伝学、とくに21世紀になって顕著に発展した古代ゲノム研究も含めて集団遺伝学が、優生学的な差別に悪用されていることは否定できません。
ただ、本論文は世界規模での優生学的な「白人民族主義」の再台頭に警鐘を鳴らしていますが、実質的にはアメリカ合衆国、それも現在のドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領の方針とその支持者のみを対象としています。確かに、アメリカ合衆国に関して、とくに現在のトランプ政権では、「白人民族主義」の再台頭が脅威であることはとても否定できないでしょう。しかし、たとえばインドでも、古代ゲノム研究を民族主義に都合よく曲解して「受容」していることが問題となっており(Chandrashekhar., 2024)、遺伝学の曲解に基づく優生学の再台頭について、一応は世界全体に言及しつつ、世界の多くの地域を対象としながら、ことさら「白人民族主義」の脅威を強調する本論文は、非「白人」である日本人の私には「白人至上主義」に思えます。まあ、本論文はインドに多いインド・ヨーロッパ語族話者も「白人」と認識しているのかもしれませんが、そうだとしたら、一般的な用法とはかけ離れています。
さらに、インド以外でも、遺伝学やその他の学術分野が民族主義的主張に悪用されることは珍しくありません。日本語環境のインターネットで少し調べれば、日本列島をユーラシア大陸の歴史からできるだけ切断し、日本と近隣諸国との違いを強調し、日本の優位性を「証明」したい、というような欲望が全開の言説を見つけることは容易です。そうした言説では少なからぬ場合、アイヌ集団は13世紀に故地のユーラシア大陸東部からモンゴル帝国に追われて南下し、北海道に侵入して先住の「縄文人」の子孫である擦文文化集団を殺戮した侵略者だった、というような主張が伴いますが、そうした主張は与太話にすぎない、と私は考えています(関連記事)。
他には、たとえば中国では、人類進化研究で「人種概念」が強く、一般層に対象を広げても、人類進化研究を都合よく利用し、「黄色人種」である中国人を称揚するような詩が教科書に掲載されたこともあり(Cheng., 2017)、「人種概念」の広範な浸透が窺えます。近年の中国では、「多元一体」の「中華民族」が強調され、さまざまな学術分野の研究成果を「活用」して、前近代の歴史を「中華民族」なる概念で語ることは一般的になっているようですが、これも、実質的には「漢民族至上主義」につながる危険性が大きいのではないか、と私は懸念しています。古代ゲノム研究を「中華民族」の正当化と定着に利用しているのかな、と窺えるところもあります(Li et al., 2024)。日本と中国の事例だけでも、世界の少なからぬ地域での優生学的な民族主義の台頭を「白人民族主義」の脅威として語る本論文の認識はきわめて疑問です。
本論文でもう一つ問題となるのが、DEIA(diversity, equity, inclusion and accessibility、多様性と公平性と包括性と近接性)の称揚です。確かに、本論文でも指摘されているように、遺伝学では、とくに医療と関連するような場合、研究において多様性の確保は重要です。しかし、そうしたDEIAというかDEIを称揚してきた「woke」陣営が、実際に「多様性」を確保できているのか、視野狭窄に陥っているのではないか、「白人民族主義」と同様に学術分野を傷つけ悪用してきたのではないか(関連記事)、との疑いを私は強く抱いています(関連記事1および関連記事2)。そうしたアメリカ合衆国の人々の不満がトランプ政権成立の一因になっているでしょうし、アメリカ合衆国の学界はそこを自省して軌道修正することが重要だと思います。
ただ、第二期トランプ政権始動で「woke」の終わりの始まりの如く昂揚しているような日本人もいるようですが、「woke」陣営は「西側」では学界と報道・出版業界を中心に政界や官界や経済界にまでかなり浸透し、強力な権力を確立しているようなので、そう簡単に終焉に向かうとは思えませんし、今後巻き返す可能性も全否定はできません。さらに、現時点では失政・悪政が続いているように思われる第二期トランプ政権への反動で「woke」が再活性化する可能性もあるとは思います。まあ、私はトランプ大統領を2016年の大統領選の頃から嫌っており、まったく信用していないので(関連記事)、現在のトランプ政権の学術分野への攻撃もまったく支持しておらず、この点では本論文と認識を共有しているところが少なくありませんが、日本人の私にって、第二期トランプ政権後に「woke」が再活性化し、日本の学術分野、とくに人文学が今以上に「woke」に傾斜するとしたら、本当に困ったものです。以下、本論文の翻訳ですが、敬称は省略します。
●要約
科学者は台頭する白人民族主義の脅威と、優生学の危険で疑似科学的な思想に対抗せねばなりません。1924年、アメリカ合衆国は優生学運動の高まりに突き動かされて、ジョンソン=リード法【日本では「排日移民法」と通俗的に呼ばれています】を成立させました。この法律は、「あらゆる誤解を受け継いだ、外国人の血の流れ」を取り去るために、移民を制限しました。その1世紀後、昨年【2024年】10月、選挙期間中に現在ではアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、同様の優生学的な言葉を使って、自身が提案した移民政策を正当化するために、「今、我が国には多くの悪い遺伝がある」と述べました。このまま放置すれば、世界の多くの地域での白人民族主義の高まりは、科学で、より広くは社会で達成されてきた進歩を脅かすかもしれません。我々は科学者および一般市民として、遺伝学教育への取り組み方を修正し、科学を擁護し、多様な研究団を設立して指導し、研究がヒトの差異について得られた洞察を包含し、それに基づくことを保証することによって、この脅威を押し返さねばなりません。
●人種差別主義者の比喩は続いています
【今年】2月の公聴会で、アメリカ合衆国保健福祉長官に就任したロバート・フランシス・ケネディ・ジュニア(Robert Francis Kennedy Jr)は、黒人の子供たちは免疫系の差異のため白人の子供たちとは異なるワクチン計画を受けるべきだ、との過去の発言を繰り返しました。これに関してケネディの動機は不明です。しかし、ワクチン接種についての多くの明らかに虚偽の発言の後、ケネディは、異なる「人種」は生得的に異なる生物学を有している、との人種本質主義を促進しながら、引用している科学者が「データが実際に示していることをはるかに超えて捻じ曲げている」と述べた別の推論を提供しています。
一方で、トランプは大統領就任演説で、自分の施政は「肌の色に囚われず、実力に基づく社会を築く」と述べたものの、【今年】3月に署名した大統領命令は、スミソニアン協会が博物館や研究所で、人種は生物学的現実ではなく、社会的構成概念だ、との見解を推進していることについて、「腐敗した空論」と強く非難しています。世界の多くの地域で専門の移民排斥主義者や反移民正当(時には、科学的人種差別に支えられています)が勢力を増すにつれて、同様の修辞が政治討論にますます入り込みつつあります。
優生学の危険で疑似科学的な思想は、過去1世紀にわたって周期的に人気を得てきました。しかし、白人民族主義の最深の波は、科学界において二つの相互に関連した概念が注目を集め、受け入れられた後で、起きています。一方で、研究者の間では、人種や民族性など血統に基づく帰属意識の社会的構成概念は遺伝学的分類とは一致しない、との広範な合意があります。他方で、多様性は医療を含めて健全な科学と効果的な政策に重要である、との認識が高まりつつあります。これら二つの概念が融合することで、科学は強化され、健康への恩恵は増大しました。
●社会的構成概念としての人種
数十年にわたる社会科学のデータでは、人種的および民族的帰属意識は、自己認識の有無に関わらず、特定の社会政治的文脈で定義されて採用されている構成概念である、と論証されています。過去2世紀半にわたって、アメリカ合衆国の国勢調査において、政治的必要性や社会的変化に応じて人種と民族の区分がどの程度変わってきたのか、考えましょう。ヒスパニックという用語は、今ではスペイン語圏の諸国出身の人々を指すのに使われていますが、ラテン系支援団体の陳情運動に対応して、1970年の国勢調査で初めて導入されました。社会規範の変化を受けて、「黒人(Black)」および「黒人(Negro)」の代替(後者は2020年の国勢調査に合わせて2013年に削除されました)として、アフリカ系アメリカ人という用語が2000年の国勢調査で追加されました。
社会科学的データの分析とともに、遺伝学的研究が繰り返し、人種や民族性など血統に基づく帰属意識の構成概念は個別の生物学的分類とは一致しない、と論証してきました。遺伝学的研究では、そうした構成概念の使用が、人口集団の特定の分類と曖昧な下部構造に当てはまらない人々を排除するかもしれず、ヒトの健康に影響する可能性があることも示してきました。
たとえば、ヘモグロビン障害(赤血球に影響を及ぼす遺伝性疾患)を有する人ごとの確率は、個人が世界のどこに暮らすかに応じて大きく異なります。インドの一部地域では、βサラセミアは8%以上と推定されていますが、中国の一部の地域では、2.7%程度と低い場合もあります。この不均質性は、研究者が単純に世界の人口の約60%を占める「アジア人」として被験者を分類すれば、見過ごされるでしょう。同様に、他の要因を考慮しない「ヒスパニック」という区分を用いると、稀な遺伝性骨疾患であるスチール症候群と関連する遺伝的多様体が、ドミニカ共和国やメキシコの人々よりもプエルトリコの人々の方でより一般的であることを解明できないでしょう。今では仮定的な生物学的差異から環境の影響に至るまで、あらゆることの適切な代理としての人種の使用には、多くのヒトが疑問を呈しています。じっさい、研究者と医療提供者は「人種に基づく医療」から距離を置きつつあり、そうした医療では、生物学的差異の認識が、黒人か白人かアジア人かヒスパニックかなどに基づいて、臨床危険性の推定や患者の保護の提供が変わります。
祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と関連する社会的帰属意識は遺伝学的分類と一致しない、との見解が受け入れられつつあることと共に、過去10年間に行なわれた複数の研究では、研究に多様な被験者を含める利点が論証されてきました。平均して、ヒト2個体のゲノムは99%以上同一です。健康と関連する多様体を含めて、人々のゲノム全体の何百万もの多様体は、数世紀から数千年にわたる人口統計学的過程(無作為と非無作為の両方)の結果として、さまざまな程度で頻度が異なります。研究における被験者の多様性増加は、遺伝学者が健康に重要な多様体を発見する機会を増やし、遺伝的もしくは他の要因で起きる疾患について間違った結論を導き出す可能性を減少させます。
大規模な多様式データと高度な統計および計算手法の利用可能性は、健康の生物学的もしくは構造的および社会的決定要因の代理としての、人種もしくは民族性への依存を止めることを、研究者にとってこれまでよりも容易にします。代わりに研究者は、人々の遺伝的特徴および地理的位置から食性まで、多くの明確に定義された変数の影響の影響を調査できます。過去数十年間にわたって、研究者への情報提供、さらには、研究設計および調査結果の適切な解釈を支援するための、学際的な枠組みが発展してきました。たとえば、全米科学・工学・医学アカデミーり報告は、遺伝学およびゲノム研究やより広く生物医学研究に含められるべきである、より多様な被験者集団の必要性を強調しています。この報告は多様な労働力の重要性も強調しており、それは一貫して、より高い生産性や、人々の生活により大きく影響する仕事をもたらします。
●科学者ができること
アメリカ合衆国では、反動的な政治運動が人種についての犬笛的な修辞を使って、大衆迎合主義者の波に乗って政権を掌握しました。これは、科学者がより公平な世界に向けて前進するための知識と手法を入手した矢先に起きました。遺伝学者や他の人々は、優生学者の目的のために科学的人種差別を利用しようとする白人民族主義の世界的台頭に反対し、その論点が主流の政治討論に入り込むのを阻止しなければなりません。
一般向けの分野の一つに、消費者向けの祖先系統検証事業があります。これらの事業は、演算法を用いて、個体と参照人口集団間の遺伝的類似性をモデル化し、人々の地理的起源について結論を導き出します。多くの人々は、地政学的および民族的区分に依存するこれらの事業が、人種本質主義を悪化させるかもしれない、と指摘してきました。さらに懸念される傾向は、科学的人種差別に場を与える学術誌の存続と、学術的信用の虚飾を白人民族主義に与える、遺伝的多様体の地理的分布を調べる研究の悪用です。たとえば、過去3年間だけでも、遺伝学はアメリカ合衆国の黒人とヒスパニック系の人々の殺害の正当化に使用されました。遺伝学者や科学者は、「新たなゲノム人種科学」を推進するためにとくに行なわれているそうした「忌まわしい」研究について議論の場に上げることを広く批判し、それに立ち向かい、自身の研究が不正使用される可能性を考慮しなければなりません。
教育は、将来の世代に非科学的な思想に対して予防接種し、現在の信念を正すのに重要です。高校や大学の水準での教育への研究では、多因子性遺伝子や遺伝的祖先系統に焦点を当てた教育など特定の教育手法が、科学的人種差別や遺伝的本質主義を防ぐのに役立つことができる、と示されてきました。これらの対話は、より広く科学の教育と擁護両方のために、研究者が一般市民と関わることに及ばねばなりません。科学者に地元紙へ意見記事を書くよう推奨する試みである、科学の帰郷など、草の根的な試みが役立つかもしれません。
指導的立場にいる者は、今後も引き続き標的とされるだろう、周縁化された教員や職員や研修生を守らねばなりません。DEIAに焦点を当てた多くの資金提供計画はもはや利用できませんが、科学の進歩の中核であるDEIAの理想は維持されねばなりません。個人的な攻撃であれ構造的な障壁であれ、とくに白人民族主義の課題の矢面に立っている我々にとって、安全な港はありません。しかし、我々が証拠に基づく探求の信条を守るのであれば、後戻りはできません。
参考文献:
Chandrashekhar V.(2024): In politically sensitive study, India looks to DNA to track ancient migrations. Science, 386, 6722, 607.
https://doi.org/10.1126/science.zrm8yw9
関連記事
Cheng Y.(2017): “Is Peking Man Still Our Ancestor?”—Genetics, Anthropology, and the Politics of Racial Nationalism in China. The Journal of Asian Studies, 76, 3, 575–602.
https://doi.org/10.1017/S0021911817000493
関連記事
Li S. et al.(2024): Ancient genomic time transect unravels the population dynamics of Neolithic middle Yellow River farmers. Science Bulletin, 69, 21, 3365-3370.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.09.002
関連記事
Wojcik GL.(2025): Eugenics is on the rise again: human geneticists must take a stand. Nature, 641, 8061, 37–38.
https://doi.org/10.1038/d41586-025-01297-4
会田弘継(2017)「忘れ去られた異端者らの復権:トランプ政権誕生の思想史」『立教アメリカン・スタディーズ 』第39号P7-33
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699762709760
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