柿沼陽平『古代中国の裏社会 伝説の任俠と路地裏の物語』

 平凡社新書の一冊として、平凡社より2025年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、前漢(東漢)の「游侠」として有名な郭解の一生をたどることで、「游侠」を歴史的に位置づけるとともに、「裏社会」も含めて当時の社会を広く浮き彫りにしています。『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(関連記事)の著者らしい視点で、今では前漢の社会が10年前の自分の想像よりもずっとよく解明されているのだな、と改めて思った次第です。本書は「庶民」的な視点になっているので、もちろん前漢社会と現代日本社会は大きく異なりますが、現代日本人の庶民の一人として親しみも湧く内容になっています。まあ、本書を読んでも、郭解に親しみが湧くことはありませんでしたが。ただ、『史記』において「游侠」が列伝として立てられているところに、まだ儒教が知識層においても浸透しきっていないというか、「古典的体制」が確立していない時代の自由も感じられ、そこに魅力を感じる現代人は少なくないかもしれません。

 郭解の出自はよく分かりませんが、母方祖母が許負と伝わっています。許負は秦末漢初に有名な人相見で、後世には伝説になりました。許負の顧客には有力者がおり、たとえば、前漢の文帝の母親や周亜夫(周勃の息子)です。郭解自身も、衛青などの高官との接点を有していました。郭解の実父は許負の娘婿でしたが、文帝の治世期に処刑されています。若い頃の郭解は残忍な性格で、殺人も厭わなかったようです。ただ、無差別にもしくは私利私欲のために殺人を続けたのではなく、仲間を救い、在任を助けるなど、頼られたら面倒を見る、「義」の人物でした。郭解は許負の占いを継がず、仇討ち(報仇)の代行や強盗や墓泥棒や偽金作り(盗鋳銭)などで生計を立てていたのではないか、と本書は推測します。郭解は当時では重罪犯で(まあ、今でもそうですが)、死刑相当でしたが、それでも死刑を免れ続けた一因として、高官とのつながりがあった可能性を本書は指摘します。郭解は長じて、任侠道に邁進し、周囲の人々から任侠と呼ばれることを好んだようです。郭解自ら殺人を行なうことはなくなったかもしれないものの、その本質は変わらなかったのではないか、と本書は推測します。つまり、郭解は自らを頼ってきた人物を配下として、危険な仕事をやらせ、自らはその上前をはねていたのではないか、というわけです。

 大物の「游侠」となった郭解てすが、時には血縁者に厳しい判断を下すことがあり、世評を気にして、「公」に対して強い義務感を有していた、と本書は評価します。郭解は地方の公的な治安機関よりも恐れられるほどの「大人物」となりましたが、それは「公的な」地位ではなく、「世論」に基づくもので、郭解もそれをよく理解していたのでしょう。尤も、朝廷を筆頭とする当時の「公的機関」にしても、究極的には「世論」に支えられている、とも言えそうですが。こうした郭解に代表される「游侠」と現代の反社会的勢力、たとえば日本のヤクザやイタリアのマフィアとの間に類似点はあるものの、「游侠」にとって最重要だったのが「世論」だったことや、永続的組織ではなく個人の声望により強く依存する点は異なる、と本書は指摘します。

 上述のように郭解の資金源として偽金作りもあったようですが、偽金作りは「游侠」だけではなく諸侯王もを行なっており、それが呉楚七国の乱の背景としてあったようです。さらに、呉楚七国の乱の直接的契機として、銅山のある鄣郡の没収が推測されており、中央政権にとって偽金作りは深刻な問題で、呉楚七国の乱の前には、この点で郭解などの「游侠」よりも諸侯王の方がずっと脅威だったようです。呉楚七国の乱は、仕掛けた景帝の予想以上に拡大し、景帝は狼狽して諸侯王に対する強硬派の鼂錯を死刑としたくらいですが、それでも反乱は収まりませんでした。しかし、呉楚七国の乱は規模の割に中央政権側が早くに鎮圧し、その背景として民間の任侠の助力があったようです。そうした時代背景で、郭解は「游侠」として台頭します。

 武帝期には、すでに「游侠」として高い名声を得ていた郭解は、徙民の対象となり、茂陵県へと強制移住させられます。徙民の対象は有力者で、中央政権にとって潜在的な脅威の管理を容易にする政策なわけで、郭解はもちろんこれを避けるべく武帝の有力な臣下に口添えを依頼しますが、かえって武帝に警戒され、茂陵県への移住を余儀なくされてしまいました。郭解は、司馬遷もしくはその父である司馬談と会ったこともありますが、意識していたのは司馬遷(もしくは司馬談)の方で、郭解はとくに意識していなかっただろう、と本書は推測します。ただ、茂陵県への移住のさいに、郭解の甥(兄の息子)が地元の有力者を殺害したため、郭解は逃亡したものの、けっきょく恩赦によって処罰されませんでした。郭解は若い頃から恩赦を利用し、処罰を避けてきましたが、衛青など高官とのつながりもあるため、恩赦の発布時期を知っていたか、恩赦を発布するよう、高官を通じて工作した可能性も本書は指摘します。

 しかし、おそらくはこの恩赦を伝える使者が、郭解の客と同席したさいに、使者の従者である儒者が郭解を批判したため、郭解の食客がこの儒者を殺害します。これについて、突然のことで郭解は逃亡する間もなく捕縛されます。これについて、役人の間でも郭解は無罪との意見がありましたが、この事件は武帝にまで上奏されることになり、御史大夫の公孫弘が上奏文を作成しました。公孫弘は、今回の事件については郭解が知らないとはいえ、かつては傍若無人に振る舞い、睨みつけられただけで人を殺したこともあり、その威勢で直接的ではないにしても殺人事件が起きていることから、その管理責任を問うて、大逆無道の重罪と主張しました。公孫弘は直接的には郭解への恨みはなかったようですが、儒者が殺されたことから重罪を主張したのだろう、と本書は推測します。郭解は武帝と公孫弘の強い意志によって、腰斬の刑に処されました。その年代については、公孫弘が御史大夫だった時期に基づいて、紀元前126~紀元前124年と推定されています。公羊学派は報仇を賞賛する傾向にあるなど、儒家と任侠には親和的側面もありましたが、一方で儒家には「公的」秩序の重視で法家と近い側面もあり、任侠と敵対的になる可能性も秘めていました。郭解の最期には、そうした背景もあったようです。郭解の一族も処刑されましたが、前漢から新を経て後漢(東漢)期まで生き、後漢で高官となった郭伋は、郭解の玄孫と伝わっています。本書は郭解と妾との間の子供が生き延び、その子孫が郭伋だった可能性を指摘しています。唐代にも郭伋の子孫を名乗る一族がいましたが、その墓誌で郭伋は賞賛されているものの、郭解への言及はありません。

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