川田稔『陸軍作戦部長 田中新一 なぜ参謀は対米開戦を叫んだのか?』

 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2025年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。同じ著者の『武藤章 昭和陸軍最後の戦略家』をすでに読んでおり(関連記事)、本書によって陸軍の動向と対米開戦の経緯および田中新一のような「強硬派」の論理をより深く理解できるのではないかと思い、読むことにしました。田中新一と武藤章が対米開戦をめぐって激しく対立していたことはわりとよく知られているように思いますが、田中と武藤は日中戦争というか盧溝橋事件のさいにはともに対中強硬派でした。しかし、独ソ戦が始まり対米開戦が議論となっていた頃には、二人は激しく対立するようになりました。陸軍さらには日本全体の動向とともに、二人の関係の推移にも関心を抱き、読み進めました。

 田中新一は1893年生まれで、毛沢東と同年生まれとなります。本書ではおもに盧溝橋事件以降の田中が取り上げられており、盧溝橋事件の前の田中の経歴は簡略に述べられています。田中は越後松村藩に仕えていた武家の出身で、祖父の代に北海道にわたり、父は釧路に定住して農業を営んでいました。田中は1906年に仙台陸軍地方幼年学校に入りますが、それは父と親交のあった北海道の屯田兵の影響だったようです。陸軍士官学校での田中の同期には、冨永恭次と武藤章がいました。田中は陸大卒業後に、教育総監部に勤務し、1928~1931年までソ連とポーランドに駐在して、ソ連のグルジア(ジョージア)やアゼルバイジャン周辺の情報収集をおもな任務とします。田中は1932年には関東軍参謀として満洲に渡り、石原莞爾の部下として石原から強い影響を受けたようですが、そもそも石原は田中の陸大時代の教官で、満洲への赴任も石原の推薦でした。田中は1934年にヨーロッパ視察のためドイツとポーランドに派遣され、それ以前から「一夕会」の構成員でしたが、この時に陸士同期で統制派の冨永恭次と同行し、統制派の影響を強く受けたようです。田中は1937年に陸軍省軍務局軍事課長となり、軍事課長時代に日中戦争が始まります。

 陸軍省軍務局軍事課長時代の田中について、部下の稲田正純は第二次世界大戦後に、一見識はあったものの、機会主義者としての傾向が強かった、と回想しています。盧溝橋事件の直前の田中は、蒋介石の「抗日政策」は不変の根本方針なので、日ソ戦では中国のソ連側での参戦は避けられそうにないので、事前に蒋介石政権との関係を調整する必要があり、その見込みがない場合は「対支一撃」で蒋介石政権の基盤を叩いておかねばならない、と考えていました。さらに田中は、中国がイギリスやソ連の財政および技術的援助によって、やがて軍備・国防力で日本を凌ぐかもしれない、とも警戒しています。

 盧溝橋事件勃発当初、参謀本部作戦部長の石原莞爾は「事態不拡大、現地解決」の方針を示し、当時の参謀本部は、参謀総長が皇族の閑院宮載仁親王で、参謀次長の今井清が病床だったので、石原莞爾が実質的に参謀の最高責任者でした。当時、近衛文麿内閣も「不拡大、現地解決」方針を決定しましたが、田中と参謀本部の作戦課長の武藤章は、南京政府(蒋介石政権)が「全面戦」を企図しているかもしれず、「力」で対処するしかないので、「北支」の兵力を増強し、状況に応じて「一撃」を加えるべき、との意見で一致しました。陸軍中央は武藤と田中の意見を採用し、1937年7月10日、事件勃発後直ちに内地の3個師団の華北派遣を決めます。その翌日には現地で停戦協定が成立しましたが、武藤は中国側現地責任者の謝罪や罷免など厳しい要求を主張し、田中も対中強硬姿勢を変えず、日中全面戦争の境目に迫っている、と判断していました。同月17日、石原莞爾と杉山元陸相や梅津美治郎次官といった陸軍首脳との間では激しい議論となり、武藤と連携していた田中の働きかけのあった陸軍首脳は武藤案を支持します。石原も、中国側の時間稼ぎとの疑念を抱いていており、現地軍と居留民の安全への懸念から、武藤案に同意しました。それでも石原は、「対支全面戦争」を行なえる兵力はないので、華北から撤兵するよう、杉山に主張します。田中は、日本の検疫保持のため、不拡大方針を放棄すべきと考えていました。ところが、同月21日、現地視察に派遣されていた陸軍調査団は、中国側が協定細目を次々に実行しつつあり、兵力増援は不要と報告し、現地駐屯軍参謀長からも同様の電信が届いたため、陸軍中央は内地師団派遣見合わせを決定します。この時、参謀本部内では、石原作戦部長と武藤作戦課長の間で対立が激しくなっていました。しかしその直後に、中国側現地軍が強硬姿勢となり、北京の広安門で日中の部隊が衝突したため、石原も同意して内地師団派遣が決定し、近衛内閣も動因実子を承認しました。けっきょくは田中と武藤の連携で両者の思惑通りに事態は進展し、田中は「支那の不法を膺懲すべき新段階」に入った、と考えていました。

 1937年8月2日、田中と武藤は懇談し、対中全面戦争は避けられない、との認識で一致しました。つまり、「一撃」で中国を屈服させられない、と判断していたわけです。田中と武藤は、ソ連が国内事情から同年11月頃までは介入できないと判断し、動員可能な15個師団をすべて対中戦線に使うことも考えていました。石原莞爾は内地師団の華北派遣を了承したものの、それでも戦線を限定しようと考え、外務省や海軍にも働きかけていましたが、同月9日、上海で海軍の特別陸戦隊員2名が中国保安隊に射殺されると、米内光政海相の定義で、上海居留民の保護のため陸軍部隊の派遣準備が決定されました。石原莞爾は、派兵を華北に止めず上海にまで拡大すると全面戦争になるかもしれない、と上海への陸軍部隊は意見に反対しましたが、海軍も派兵を希望しており、中国側が上海方面に兵力を増強したため、派兵を了承します。同月13日の閣議で上海への陸軍3個師団の派兵が決定されましたが、同日夜に上海の日中両軍は交戦状態に入り、翌日には中国空軍が上海の日本艦隊と陸戦隊を爆撃し、それに対して日本側も南京などの中国空軍基地に渡洋爆撃を行なったことで、第二次上海事変が始まりました。同月17日には、米内海相主導で不拡大方針放棄の閣議決定がされました。中国側も、日本軍の華北での総攻撃を受けて、全面抗戦に踏み切りました。同月23日、上海派遣軍約6万人が上海近郊に上陸しても、日本軍は増強した中国軍に苦戦ます。

 満洲の関東軍は盧溝橋事件後に、モンゴル南部のチャハル(察哈爾)省などへの武力行使を陸軍中央に強く要請し、参謀本部は認めませんでしたが、関東軍部隊の一部が強引に軍事行動に出て、参謀本部も事後承諾します。田中はこの関東軍の作戦行動について、「外蒙・ソ連に対する防共親日の大障壁地帯」を作り、「総合的な北支作戦」によって、「蒋介石の戦争意志の挫折」を図ることが目的と考えていました。近衛内閣は、アメリカ合衆国の中立法の発動を改組するために、宣戦布告を行なわない、と決定しました。さらに、1937年9月2日、近衛内閣は華北と上海での戦闘の本格化を受けて、「北支事変」から「支那事変」へと改称することを閣議決定しました。石原莞爾は同月27日に更迭され、関東軍参謀副長として満洲に転出しました。対米関係への配慮から「支那事変」と称しても、実質的には日中全面戦争であることは変わらず、田中はこの時点で、「支那事変を契機として、大和民族は事実上漢民族の征服・統治の第一歩を踏み出したるものにして、元・清のそれとも比較し未曾有の何事業に取り組みつつあるという現実を深く認識する必要がある」と述べていました。田中はその1ヶ月前には、日中戦争の目的は「支那民族の全面的征服」ではない、と考えていました。こうしたところこそ、田中が「機会主義者」と呼ばれる所以で、状況に応じて別の論理を構築できる、軍事官僚としての高い能力も示していた、と本書は評価しています。本書は、こうした田中の認識について、日中戦争を華北分離工作の延長戦上と考え、主要な目的を中国の資源確保および市場支配に置いていた武藤など統制派とは異なるものだった、と注目しています。また田中は、日中戦争を「反共の聖戦」とも位置づけるなど、強い反共意識を有していました。

 上海での苦戦から、武藤は上海戦線へのさらなる派兵を主張し、自ら新たに編成された中支那方面軍の参謀副長に志願し、上海へと向かいます。武藤は日中戦争の当初、南京まで占領するつもりはありませんでしたが、上海に赴任した頃には、南京を占領しなければ蒋介石は講和しない、と考えを変えていました。しかし、この派兵によって上海付近の中国軍は総退却に追い込まれたものの、中華民国政府は首都を南京から重慶へと遷して抗戦を続け、日本側から見ると、中国の戦争意志を挫くことができなかったわけで、戦略目標達成には失敗した、と言えます。田中はこの頃、モンゴルの問題について、「蒙古人による蒙古建国」を認め、「内蒙軍」の建設が必要と主張しています。それを「防共連盟」の一環とすべきである、というわけです。田中はこの時点で日中戦争について、近い将来に根本的に解決できる見込みはなく、当面の事態収拾を図るべきと考えていました。田中も武藤も、当初の予想よりも中国側の抵抗が強かったためか、かえって積極的に対中作戦を進めようとして、戦線が広がっていきます。陸軍内では、武藤の後任となった河辺虎四郎や参謀次長の多田駿は作戦地域の拡大と南京攻略に反対でしたが、田中や中支那方面軍からの強い要求に押し切られました。田中はこうした日本軍の苦戦について、過度に「政治的考慮」に囚われ、「軍事的作戦要求」を軽視した参謀本部に責任があると考え、恩師でもある石原莞爾にはたいへん批判的でした。田中はこの間、中国戦線における日本軍の「軍紀退廃」について、以前から物資不足によって起こることを懸念しており、軍紀の厳格化を強調していますが、これは補給も含めて準備不足に起因するので、軍事課長である田中も責任を免れない、と本書は指摘します。

 南京陥落以降も日中戦争は続き、日本は中華民国臨時政府を樹立しますが、陸軍省軍務局軍事課長だった田中は、中国側の術中に陥らないよう、休戦講和を焦るべきではない、と考えていました。そのため田中は、駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介とする蒋介石政権との和平工作(トラウトマン工作)も警戒していました。日中戦争終結の目途が立たない中で、近衛首相の提案で1937年11月に大本営が、同時に大本営と内閣による大本営政府連絡会議が設置されました。大本営政府連絡会議では、多田駿が和平を主張しましたが、杉山陸相も近衛首相も広田弘毅外相も強硬派で、1938年1月15日には、対中和平交渉の打ち切りが事実上決定されます。翌日、近衛首相は有名な「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表します。田中はこの声明の背景として、参謀本部と政府(内閣)との判断の差がある、と考えていました。参謀本部は対中長期戦には日本の「存亡」を賭けねばならない、と判断しているのに対して、内閣は事態を満州事変程度と認識している、というわけです。田中は、中国を事実上日本の支配下に置くべきと考えており、参謀本部にも近衛内閣にも批判的でした。田中は、この近衛声明が外務省事務局の提案と考えており、外務省は長期戦の見通しから「百年」かかっても「新興支那」を再建し、「日支関係」を根本的に調整しようと意図しているのだろう、と推測していました。田中は、そうした構想が「現在の日本の実力と国際環境」で実現可能か危ぶんでおり、そうした「大業」の達成には「日満支を一体とする国防国家建設」が至上命令と考えていました。つまりは、より強力な軍事体制が必要というわけです。

 1937年12月にイタリアが国際連盟から脱退し、翌年3月13日にはドイツがオーストリアを併合します。田中はこの頃、世界が新たな動乱期に入りつつあるので、日本もどのような国際情勢にも対応できる国防体制の樹立が急務だと考えていました。さらに田中は、1941年までな日ソ開戦が予想されるのでも「国家戦時体制の整備」を促進せねばならない、と主張しています。田中は、当時ドイツとチェコの関係が悪化していたことは、「独ソ戦の新たなる契機」になるかもしれない、と指摘していました。1938年4月には、国家総動員法や電力管理法などが制定されます、田中はこの頃、東アジアに日本中心の新たな体制を建設し、それに適合的な世界秩序の樹立を構想していました。日中戦争が長期化していく中で、陸軍では和平派の河辺虎四郎作戦課長が1938年3月に更迭され、後任には田中の影響を受けた稲田正純が就任し、陸軍省でも参謀本部でも実務の中枢を拡大派が占めます。日本軍は1938年5月上旬には徐州を、同年10月下旬には漢口と広州を占領しましたが、中華民国政府の抗戦意志は固く、軍事力によって中華民国政府を屈服させる見通しはほとんどなくなっていました。1938年7月末時点で、日本陸軍は全34個師団から32個師団を中国大陸に派遣していましたが、広がった占領地の治安維持のため、積極的な攻撃作戦を主任務とする野戦軍は第11軍(7個師団、20万人程度)のみでした。当時前線にいた武藤章は、日本軍の統治が都市や鉄道や主要道路など「線の支配」に留まり、「面」として制圧していなかった、と後に回想しています。石原莞爾が危惧したように、長期持久戦になっていったわけです。1938年12月初旬、陸軍中央は新たな戦争指導方針を決定し、当分は現占領地の治安維持に主眼を置き、新たな占領地の拡大を行なわず、中国軍の攻撃には反撃するものの、不用意な戦線の拡大は避けることとされました。これによって日中戦争は長期持久の方針が維持されることになり、田中も同意していました。

 この間、1938年6月には近衛首相の強い意向で杉山陸相が辞任し、石原莞爾と親しい板垣征四郎が陸相となりましたが、梅津次官も辞任するにあたって、板垣が次官に望んだ石原を排除すべく、東条英機を次官にするよう工作します。梅津は石原を、軍紀を乱す人物として嫌悪していました。その後、東条の主導で陸軍中央から石原系が一掃されました。田中は日中戦争が長期化する事態に直面し、「大陸持久戦略態勢」を確立するために、「戦争をもって戦争を養う自給自足の態勢を樹立」する必要がある、と主張します。これは持久戦に陥った場合の石原の以前からの主張で、それまで主張してきた日中戦争拡大による早期解決が不可能と判断すると、すぐに次の戦略を提示することが、田中の戦略家としての役どころだった、と本書は指摘します。さらに田中は「南方政策」について、海南島には手を出すべきではなく、「南支謀略」を強化すべきと主張していました。海軍は「南方に戦域を拡大する傾向」にあり、英米仏の介入を招き、「破局に陥る危険」がある、というわけです。田中はこの時点で、「ソ支二正面作戦」を極力回避するとともに、「南進を抑制」し、「英米との衝突」は絶対に避けねばならず、北方の安全確保のためにドイツの「対ソ圧力」を利用すべきと考えていました。

 田中は日中戦争について、武漢・漢口作戦によってできるだけ軍事的成果を収め、「広範なる和平攻勢」によって一応「中断」に導き、「新たなる日支協力関係」を建設すべきと主張し、その「理念」には欧米の影響を排除する「原則」が想定されていました。田中はアメリカ合衆国について、日本の極東における覇権確立を喜ばず、一般的な「反ファッショ熱」から「反日の大勢」が激成されている、と考えていました。田中はヨーロッパ情勢について、「ファッショ対反ファッショ」の対立が激化しているので、日本とドイツおよびイタリアとの提携を構想し、ファッショ的国家と反ファッショ的国家との「国際戦争化」の可能性が高い、と判断していました。ただ田中は、ドイツとイタリアが、アジアにおける「有色人種の大帝国」の出現を喜ばないことも予想していました。こうした田中の構想は「雄大」とも言えそうで、それは、列強の既得権を尊重する姿勢から大きく変わろうとしており、1938年11月の近衛内閣の「東亜新秩序」声明に至るような日本の外交方針とも呼応しているようです。ただ田中は、国内の産業が軍事に偏重しており、それが「基礎産業部門の総合的拡充を掣肘」する結果として、「軍需生産自体が停滞」している、と考えていました。この産業構造の脆弱性の克服には、「国家総動員を発動」して、各産業部門間の「跛行的発展を是正」しなければならない、と田中は指摘しています。当時、近衛内閣は国民精神総動員運動を行なっていましたが、田中はこれについて「長期持久戦」に必要との判断から積極的でした。

 田中は1939年2月に駐蒙軍参謀長に転任し、1940年8月には参謀本部付となり独伊軍事視察団の副団長としてヨーロッパを訪問し、第二次世界大戦初期におけるドイツの「赫々たる戦果」に衝撃を受けて、ドイツに強い期待を抱くようになります。田中は1940年10月に参謀本部作戦部長に就任するまで、1年8ヶ月ほど陸軍中央から離れていたわけですが、この間に陸軍省軍務局では局長の武藤章を中心に「綜合国策十年計画」が作成され、大東亜協同経済圏の建設による国力の充実、国策遂行のための軍備充実、日中戦争の早期解決、全国的な国民総動員組織の確立が目標とされました。大東亜協同経済圏の建設では、アジア南東部の資源も注目され、資源の自給自足が目標とされました。1940年7月3日に、新たに「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定します。ここでは、ヨーロッパ大戦における枢軸側勝利との想定から「独伊との政治的結束」を強化するなど、ドイツとイタリアについて「従来の友好関係を持続」と簡潔に言及されていただけの「総合国策十年計画」とは異なる外交方針が示されましたが、一方で、日中戦争の解決と「対南方問題の解決」に努め、「仏印」や「蘭印」への武力行使の可能性も示されたものの、対米戦争回避の努力が謳われていました。これが以後の陸軍の戦略の基本軸となり、当時英米可分と考えられていたのは、イギリスの敗北が想定されていたからでした。また、「対ソ国交の飛躍的調整」を図ることも挙げられていました。ただ、ドイツのイギリス本土上陸は1940年9月に無期限延期となり、可能性が高くなったアメリカ合衆国の参戦を阻止するために、ドイツは日本にイタリアを含めての三国同盟の締結を要請します。陸軍は上述のようにすでに「独伊との政治的結束」強化を掲げており、日独伊三国同盟に反対だった米内光政首相はすでに退陣していて、1940年9月27日に日独伊三国同盟条約(日本国、独逸国及伊太利国間三国条約)が締結されましたが、田中はこれに関わっていません。

 日独伊三国同盟締結直前の1940年9月23日に、日本は北部仏印進駐を開始し、その主目的は援蒋ルート遮断でした。ただ、現地では日本軍の独断越境などで混乱が生じた責任を問われて、田中の陸士同期である冨永恭次は作戦部長を解任され、代わって田中が作戦部長に就任しますが、これは東条英機陸相の意向だったようです。作戦部長に就任後の田中は、タイと仏印との間の紛争の調停による日本の勢力拡大や、日中戦争の解決を模索します。田中が起案して1940年10月23日に陸軍案となった「支那事変処理要綱」では、英米の援蒋行為禁絶や対ソ国交の調整による重慶政権(蒋介石政権)の屈服、「長期大持久戦」体制の確立と「大東亜新秩序」の建設、こうした目的のための日独伊三国同盟の活用が掲げられていました。田中は、日中戦争が泥沼化し、多くの兵士(約75万人)が中国戦線に配置されて動けない状況を認識し、中国戦線の兵力を削減して南方へ転戦させることも考えていました。当時の田中は、重慶政府の屈服は「第二義的」で、「全面的東亜の解決」によって日中戦争は「自然に」解決される、と考えていました。つまり、日中戦争解決のためではなく、大東亜新秩序建設のため南侵するわけで、そのために日中戦争の解決が必要とされたわけです。日中戦争解決の目途が立たない中でさらに戦線を拡大することについて田中は、「ドイツとの連携」によって「国際大変局(世界大戦)」の一環としてのみ、日中戦争解決を期待できる、と考えていました。本書は、こうした田中というか作戦部の方針がドイツ頼みで、国力不足にまで答えを出せなかった、と評価しています。田中は南方への武力行使による対米開戦の危険性の高さを認識していましたが、「南方要域」への作戦は5ヶ月ほどで達成し、その後で日独2国を相手とする「二正面作戦」の準備ができていないソ連に対処し、北方での武力行使によって大東亜共栄圏の建設を段階的に行なう、と考えていました。田中は南方への武力行使とそれに伴う可能性が高そうな対米戦について、海軍側の構想に「短期決戦」の思想が濃厚で、短期決戦論に傾斜している、と考えており海軍には批判的でした。

 北部仏印進駐に続く南部仏印進駐について、田中は1941年春から夏にかけての「欧州方面の戦局の発展を予想し」ていたことから、1941年3月末までに実施すべきと考えていましたが、南部仏印進駐は対英米戦を誘発する、と考えていた松岡洋右外相の反対によって実現しませんでした。その後、1941年には、4月に日ソ中立条約締結と日米諒解案に基づく日米交渉開始、6月の独ソ戦勃発など、国際情勢は大きく変わっていきます。この時期、田中は蘭印の対米依存が急速に進展している、との認識からアメリカ合衆国への警戒を強めていきますが、「南方進出の限度」はタイと仏印までにすべきと考えていました。ただ、それでも「支那事変」の解決は困難だろう、と田中は判断していました。この時期の田中は、対米戦のまえに中国大陸を支配下に置き、国力を拡大しなければならないが、それができなければ中国および英米と同時に戦うこともある、と想定していました。田中はすでに、「英米不可分」と判断しつつありました。れでも田中はこの時点ではまだ、アメリカ合衆国は日独相手の二正面作戦を避けようとするので、1941年以内と早期の対米戦は想定しておらず、日米諒解案に基づく日米交渉を利用しての日中戦争解決によって、中国での軍事的負担から脱却し、国力を充実させて対米戦に備えよう、と構想していました。対米交渉で日中戦争を解決し、それによって対米戦のための国力を養う、との田中の構想はいかにも苦しく、そうした無理な構想にたどり着いてしまうほど、田中の選択肢は狭まっていた、と本書は評価しています。

 田中は、独ソ関係悪化と独ソ戦勃発の可能性に関する情報を得ていたため、松岡外相の主導で締結された日ソ中立条約にも冷ややかで、独ソ戦が勃発した場合には、日本の対ソ軍事行動が日ソ中立条約に「拘束される」とは考えていませんでした。ただ、この時点での田中は独ソ戦が日ソ中立条約の締結から2ヶ月後とすぐに勃発するとは予想しておらず、独ソ開戦の前の日中戦争解決を構想していました。田中は、日中戦争解決での対米牽制によって、アメリカ合衆国の対独参戦を阻止できるかもしれない、と考えていました。この時点での田中は、まだ対米戦回避の可能性を考慮に入れていたわけです。しかし、日ソ中立条約締結直後の1941年4月22日に、独ソ開戦は同年6月か7月との情報が入り、これまでの想定の基盤が大きく揺らぎます。田中は、アメリカ合衆国の対独参戦も不可避と考え、日米戦も避けられない、との認識を強めつつありました。それでも田中は、日中戦争の解決とメリカ合衆国の対独参戦を避け、できれば対米戦を回避したい、と考えていました。この時期、陸海軍の協議は続き、1941年6月6日には「対南方施策要綱」が決定されます。そこでは、南方への武力行使が「自存自衛」の場合のみに限定され、「英米不可分」の認識が陸海軍で共有されました。

 1941年6月22日、ついに独ソ戦が勃発し、独ソ戦への対応をめぐって、田中が主導する参謀本部作戦部と武藤章たちの陸軍省軍務局が激しく対立します。田中は、独ソ戦はドイツの電撃的勝利に終わるので、北方(対ソ)での好機到来となる一方で、南方では不可避的に対英米戦に直面する、と判断していました。一方、武藤たちは、独ソ戦がドイツの勝利で短期に終結する可能性は低く、長期持久戦になる、と予想しており、南方でも対米戦は回避すべきと考えていました。田中は、独ソ開戦によって日本が北方の脅威から解放される一方で、米英ソの連携によって日本が大きな圧力を受けることも予想していました。そこで田中は、そうした苦境から脱するにはソ連を打倒するしかなく、イギリスは独ソ戦に勝つだろうドイツに屈服させ、日本は南方武力行使によって大英帝国を崩壊に導き、アメリカ合衆国を孤立させる、との世界戦略を構想します。田中はここで、日独伊三国同盟か対米英提携か、改めて検討し、対米英提携を選択すれば日中和平は実現し、ドイツとイタリアは敗北するか世界大持久戦になり、日本は孤立して米英ソ中から挟撃され、植民地や勢力圏の喪失にまで至る可能性を予想し、日独伊三国同盟を維持すべき、と結論づけています。当時陸軍内では、田中のような親独派でさえ、日独伊三国同盟から脱する「対米英親善」を検討していたわけです。一方で、武藤章のように、独ソ戦勃発以降、ドイツやイタリアとの提携に疑問を抱く軍人も少なくありませんでした。上述のように、田中は独ソ戦がドイツの短期での勝利に終わる、と予想していましたが、長期持久戦になる可能性も検討していました。短期でソ連が敗れれば対ソ武力行使、長期持久戦になった場合は「待機」しながら「機微なる機会」に乗ずるため、北方への「兵力行使の自由」を確保すべきというわけです。そのための準備が、1941年7月に行なわれた関東軍特種演習(関特演)でした。独ソ開戦直後の1941年6月24日に作成された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」陸海軍案では、独ソ戦には当面介入せず、戦況が日本にとってきわめて有利となれば北方武力行使に踏み切ることになっていました。また、ここで初めて、「対米戦を辞せず」との強い表現が海岸側から示されましたが、これは海軍首脳部が陸軍の北方武力行使論への対抗として出した文言で、海軍側ではまだ対米戦の決意は固まっていなかったようです。「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」陸海軍案は、翌月2日の御前会議でほぼ原案通りに正式決定されました。

 1941年7月に行なわれた関特演は、戦時編成の16個師団に後方部隊を加えて、総兵力が85万人になる大規模な動員で、名称こそ「演習」でしたが、実態は対ソ戦のための兵力動員でした。田中を中心に作戦部は対ソ作戦期間を2ヶ月と想定し、戦闘予想地域が冬季に入る11月までに大勢を決せねばならないことから、9月初頭の武力発動を予定していました。実際の武力発動の基準としたのは、極東ソ連軍の兵力が対独戦での西方転用によって半減、とくに航空機と戦車が1/3に減少した場合のみでした。作戦部はこの演習というか兵力動員で20個以上の師団を要求しましたが、武藤章など陸軍省軍務局は独ソ戦の長期化を予想し、北方武力行使には否定的だったので、この要求を退けただけではなく、関東軍の戦時動員実施にも慎重でした。けっきょく、ソ連も日本の参戦を強く警戒していたためか、極東軍からの西方転用は師団数では17%程度に届まり、田中は粘ったものの、北方武力行使は実施されませんでした。田中はこの時点で、南方作戦は仏印とタイとビルマまでの第一段階と、マレーとインドネシアとフィリピンの第二段階に分けて、対米英蘭の「長期大持久戦」を想定しました。南北のどちらが先かは、「短期解決」が可能な方を優先する、と考えられていました。1941年7月下旬時点で田中は、独ソ戦の持久化の可能性が高い、と判断を変えており、独英の妥協を阻止するため、日本の対ソ開戦によって独ソ戦をドイツ有利にしよう、と構想していました。

 1941年7月28日、予定通りに南部仏印進駐が実施され、アメリカ合衆国は日本に対して事実上の石油全面禁輸措置を取ります。これで日本側の前提条件が崩れ、田中も年内の北方武力行使を最終的に断念し、新たな戦略を検討する必要に追い込まれます。アメリカ合衆国による事実上の対日石油禁輸によって、田中は南方地域の占領と長期持久戦のための資源確保を強く意識するようになり、急速に対米英早期開戦論へと急速に傾きます。1941年8月19日、田中と杉山元参謀総長の同意を得た即時戦争決意を明記した「帝国国策遂行要領」案が陸軍省に提示されましたが、武藤章軍務局長は、できるだけ外交の余地を残そうとして、即時戦争決意には「難色」を示しました。同月25日、田中と武藤の会談で陸軍案がまとめられ、対米英蘭戦争を決意し、10月下旬を目途に戦争準備を整え、この間に対米英外交で要求貫徹に努め、9月下旬に至っても要求を貫徹できない場合には、直ちに対米英蘭開戦を決意する、との内容でした。この時は論争がなく、田中も武藤も互いに譲歩したようです。参謀本部はこの時点で、戦争開始時期を11月初旬と想定していました。田中が対米開戦を急いだのには、日本の対米艦隊比率が、1941年には0.75なのに、アメリカ合衆国の大規模な海軍拡張政策によって、1942年には0.65、1943年には0.5、1944年には0.3に下落する、と推定されていたことが大きかったようです。仮に近衛首相の渡米と何らかの外交的妥協が実現しても、数年経てば軍事的対抗力を欠く日本がアメリカ合衆国に屈するしかない、というわけです。その場凌ぎの日米妥協は単に危機の先送りで、日本が「国防の自主独立」を失う、と田中は恐れていました。ただ、陸軍でも対米最強硬派の田中でさえ、1941年8月の時点ではまだ対米開戦をできれば回避したい、と考えていましたし、そもそも田中にも具体的な戦争終結の見通しはなかった、と本書は指摘します。

 陸海軍の協議によって、「帝国国策遂行要領」案は1941年8月30日にはほぼ決定され、翌月2日に正式決定されました。それは、対米英蘭戦を辞さずとの決意で10月下旬を目処に戦争準備を整えつつ、並行して米英との外交を進め、10月上旬にも要求が貫徹できない場合には直ちに対米英蘭開戦を決意する、との内容でした。同月6日、御前会議が開かれ、閣議決定で「帝国国策遂行要領」が承認されました。その3日前に、田中と武藤軍務局長の間で激論がありました。武藤はアメリカ合衆国の対独参戦の場合、形成を観望すべきと考えていたのに対して、田中は日独伊三国同盟を遵守して対米参戦すべきと主張しました。ただ田中も、米独戦に自動参戦するのではなく、日本の都合で参戦する、と考えていました。その点では、田中と武藤の間に大きな違いはないようにも思われますが、田中はこの時点ですでに日米開戦不可避論者となっており、時期や方法は自主的に決定する、と考えていました。一方で武藤は、日独伊三国同盟の軍事的協力条項を事実上空文化すれば、対米開戦回避の可能性はまだある、と認識していました。「戦争決意」についてはその後も大本営政府連絡会議で議論が続き、参謀本部では、独ソ戦でドイツの短期作戦は完全に失敗して長期化しつつあり、翌年(1942年)6月頃にはソ連が巻き返すだろうから、翌年と想定していた対ソ武力行使は再考の必要がある、との認識が共有されていたようです。

 近衛首相は状況打開が見えてこないことから政権を投げ出し、木戸幸一内相の主導で東条英機陸相が後任の首相となります。そのさい木戸は東条に、9月6日の午前会議決定の白紙還元を求め、東条は了承しました。木戸が東条を後継首相として選択したのは、天皇の意向を尊重し、陸軍を統率できるからと言われていますが、すでに東条が白紙還元の方向に同調していたことも本書は指摘します。田中はこの白紙還元決定に、「戦機を逸する」結果になるのではないか、と不安視するとともに、陸相として強硬論を主張していた東条の「君子豹変的態度」に不信感を抱いていました。それでも田中は東条内閣発足翌日の1941年10月19日から検討を始めて、翌々日には、10月末までに要求を貫徹できない場合には、対米交渉を断念し、海戦を決意する、との結論に達しました。

 同月23日、大本営政府連絡会議で国策再検討についての実質的討議が始まりました。ヨーロッパの戦局について陸海軍情報部は、独英戦も独ソ戦もともに持久戦となり長期化するものの、ドイツの優勢と長期不敗は揺るがない、と判断していました。独ソ戦の短期でのドイツ勝利を予想していた田中も、「期待外れ」ではあったものの、ドイツ側の勝利は「浮動のもの」と革新し続けており、少なくとも「不敗の態勢」は取り得るので、「北辺の安全」は期待できる、と考えていました。つまり、ソ連が満洲など日本の勢力圏に攻め入る余裕はないだろう、というわけです。しかし外務省は、イギリスが独ソ戦で国力を回復しつつあり、ドイツが「苦境に立つ」こともある、と予測していました。対米英蘭戦の作戦見通しについては、交戦相手を英蘭に限定することは不可能との認識で一致し、陸海軍作戦部は、初期作戦には勝算があるものの、長期戦になり、アメリカ合衆国を武力で屈服させる手段はない、と判断していました。参謀本部作戦部は、初期作戦でアジア東部および南東部の敵側の軍事的根拠地を破砕占拠し、満洲と中国と南方資源地域の確保によって長期自給自足態勢を実現する、と構想していました。しかし田中は、「南方作戦」によって日中戦争の解決が困難になる、とも懸念していました。ただ田中は、南方作戦における日本の「戦果」で重慶政府の米英への信頼が低下し、日中戦争解決につながるかもしれない、とも考えていました。海軍側は、開戦後2年間の見込みはあるものの、それ以降の帰趨は「世界情勢の推移」などによる、と判断していました。対米交渉条件の緩和については、外務省の提案に基づいて、駐兵問題以外では日本側がかなり譲歩することとしました。さらに、東郷茂徳外相が外交交渉条件の検討で突然、日本の南部仏印からの撤退とアメリカ合衆国から日本への石油供給という「乙案」を提示すると、杉山参謀総長は猛反発しますが、武藤軍務局長が説得し、乙案が承認されます。対米開戦を決意していた田中は、戦機を逸するのではないか、と武藤に憤激します。

 1941年10月30日には、これまで強硬な対米開戦を主張せず、国力不足から依然として慎重な声もあった海軍から、嶋田繁太郎海相が開戦容認に転換し、軍令部も追認したため、日本の対米開戦意志は事実上決定した、と本書は指摘します。翌月2日、大本営政府連絡会議で再検討の結果、「帝国国策遂行要領」案が決定されます。そこでは、武力発動の時期が12月初頭と定められ、対米交渉が12月1日午前0時までに成功すれば武力発動を中止する、とされました。対米交渉はその後も続けられましたが、中国と仏印からの無条件全面撤兵や南京の汪兆銘政権の否認や日独伊三国同盟義務からの離脱を求める「ハル・ノート」が1941年11月27日に提示されると、東条首相も東郷外相も開戦を決意し、「非戦派閣僚」も一気に開戦論に転換します。田中は「ハル・ノート」を、アメリカ合衆国の露骨な極東侵略政策の表れで、日本の「主導的地位」の覆滅を目的としている、と判断しました。戦機を逸することがないよう、早期の対米開戦を主張していた田中にとって、「ハル・ノート」は「天佑」でした。ただ田中は、対ソ武力行使を断念したわけではありませんでした。翌月1日の御前会議で対米英蘭開戦が正式に決定され、田中は参謀北部作戦室で、「開戦の責任」はおもに自分たちにあり、「独ソ戦の推移」は気になるものの、来春にはドイツがソ連を圧倒しするだろう、との観測を述べたうえで、「支那事変」を対米英蘭戦と切り離して解決することが望ましかったが、今となっては「南方戦争の一環」として処理すべきで、ソ連の崩壊と中国の脱落とイギリスの屈服でアメリカ合衆国は世界で孤立するだろうから、「和平の機」は到来するだろう、と続けており、ドイツの勝利が前提となった戦略だったわけです。

 1941年12月8日、太平洋戦争が始まり、田中は参謀北部作戦部長として、陸軍の作戦計画を主導します。田中はこの「大東亜戦争」を3期に分け、第1期は西南太平洋の攻略作戦、第2期はアジア西部とソ連を中心とする陸戦およびインド洋戦、第3期は太平洋海上決戦と想定していました。日本軍は急速に占領地域を拡大しましたが、長期持久戦のための「不敗体制の確立」を構想していた田中は、海軍側で盛り上がりつつあるように見えた「太平洋正面早期決戦」を警戒していました。海軍は真珠湾攻撃などでの大成果で発言力が増大した連合艦隊の、攻勢作戦続行論に引きずられた、と本書は指摘します。田中は、国力で有意なアメリカ合衆国が、太平洋において一時的に戦局が不利になっても早期講和に応ずることはない、と判断しており、それは武藤章など陸軍省軍務局も同意見でした。連合艦隊司令長官の山本五十六も、田中と同じくアメリカ合衆国は戦局が有利になるまで戦い続けるだろう、と考えていましたが、田中と子なり、ドイツがイギリスを屈服させることは絶対にないので、日本単独でアメリカ合衆国の継戦意志を喪失させ、早期講和に持ち込むしかない、と考えていました。これは大本営陸海軍部の戦争指導方針とは大きく異なっており、日本の戦争指導を混乱させた、と本書は指摘します。1942年4月8日、武藤章は突然軍務局長を解任され、近衛第2師団長としてスマトラに転任し、後任の軍務局長には東条に近い佐藤賢了が任命されます。田中はこの人事に疑問を呈しています。武藤は開戦後の戦争遂行について、もっと広範な国民層に基礎を有する別の内閣でやるべきだ、と周囲に語っており、それが東条に知られて軍務局長を解任されたのではないか、と推測されます。この間、対米英蘭戦だけではなく、日中戦争も続いていたわけですが、田中は太平洋戦争の終結前に中国政府を屈服させねばならない、と考えており、日中戦争の解決は対米英戦の一環としてのみ可能との以前の認識から変わってきました。1942年6月のミッドウェー海戦での日本側の大損害は田中にとってもたいへんな衝撃だったようで、これによって海軍の攻勢作戦は事実上不可能となります。戦局の悪化を受けて、田中は石原莞爾を「中央統帥部の要職」に起用するよう、杉山参謀総長に進言しますが、実現しませんでした。田中は、近く自分が「転出」しなければならない、と考えており、石原の起用を進言したようです。田中は自分の「転出」が近いと考えた理由を語っていませんが、戦争指導が当初考えていたようには進展せず、責任を問われると思ったのではないか、と本書は推測します。

 1942年8月7日、米軍がガダルカナル島に上陸し、陸海軍統帥部は、「奪還」は「難事」ではないとの判断から、「即時奪還作戦」に乗り出します。しかし、ガダルカナル島奪還作戦は、情報不足もあって兵力の逐次投入となって日本側の思惑通りにいきません。この間、同年10月9日には参謀本部で作戦部と情報部による情勢判断に関する懇談会が開かれ、田中は「独ソ和平」によるイギリスへの圧力強化などを主張しますが、独ソ和平の可能性はすでにきわめて低くなっており、田中も戦争終結の見通しがほとんど立たなくなっていた、と本書は評価します。田中はこうした問題解決の「前提」にガダルカナル島奪回がある、と判断しており、それに固執します。1942年11月初頭にガダルカナル島は完全に米軍の「制圧下」に置かれ、同月16日、参謀本部は37万トンの船舶増徴を陸軍省に要求したものの、閣議では29万トンと決定されました。田中はガダルカナル島奪回のため船舶増徴を要求したわけですが、この閣議決定に不満で陸軍省に説明を求め、軍務局長の佐藤賢了と議論になり、殴り合いになった、と伝わっています。田中は陸相も兼任する東条首相に談判を申し入れますが、一蹴され、東条はガダルカナル島放棄を示唆した、と受け取り、東条や同席した陸軍次官などに「馬鹿者共」と言ってしまいます。田中はその夜、杉山参謀総長を訪ね、作戦部長辞任を申し出て、重謹慎15日の処分後に南方郡総司令部付に転出しました。田中が陸軍中央を離れた後、陸軍には田中や武藤章のような世界的視野から戦略構想を立てることができる幕僚は現れず、東条はそれまでの長期持久戦の方針を踏襲し、場当たり的な対処によって事態を弥縫していくしかなかった、と本書は評価しています。田中はその後、1943年3月にはビルマの第18師団長に就任し、1945年5月に東北軍管区司令部付としてビルマ戦線から内地帰還を命じられますが、帰国途中の飛行機事故で重傷を負って、サイゴン陸軍病院に収容され、入院中に太平洋戦争は終結します。田中は東京裁判で関特演などの証人として法廷にに立ちましたが、戦犯としての訴追からは免れ、その後は回想を発表し、軍事と国防の研究を続けました。田中が戦犯として起訴されず、戦犯逮捕者一覧にさえ入らなかったのは、田中の発言や行動がほとんど陸軍中央に限られ、当時の一般国民や連合国側での知名度がそれほど高くなかったからだろう、と本書は推測しますが、東京裁判での田中の扱いについての経緯は現在でもまったく分かっていない、と本書は指摘します。

 田中を戦略家として把握する本書は、田中を永田鉄山や石原莞爾と比較しています。田中の世界戦略は、永田や石原に影響を受けています。永田は第一次世界大戦後、次期世界大戦は不可避で、総力戦に耐える体制の確立が必要と考えており、そのための制度も当然ながら、資源をとくに重視しました。石油など総力戦に不可欠の資源の多くが日本にはないからです。永田は不足する資源を中国から獲得しなければならない、と考えており、その手段の一つが華北分離工作でした。こうした永田の戦略に東条英機や武藤章などが共感し、いわゆる統制派が形成されます。石原は世界戦争への危機意識を永田と共有しつつ、独自の戦略を構想します。石原には独特な世界最終戦論があり、20世紀第4四半期に日米で世界最終戦が行なわれるので、その過程で日本がアジアの指導権を掌握し、自給自足体制を築かねばならない、と考えていました。石原は、航空機の発達によって、海軍艦艇や陸軍兵力の役割が低下し、戦争において国力が決定的な意味を持たなくなる、との想定で、世界最終戦における日本の勝利を予想しました。上述のように、日中戦争のさいの方針の対立から、田中は石原を更迭に追い込みましたが、世界最終戦論や対米持久戦の方法や航空機の重視や対ソ戦備の充実など、多くの観点を受け継ぎ、それは南方地域での戦闘を現地自活で行なう、と考えていたことにも表れています。田中戦略論の独自性としては、日中戦争の基本的性格を、「大和民族」が漢民族の「征服・統治」の第一歩に踏み出した、と位置づけていたことで、これは石原や武藤章とも異なっていました。ただ田中は、戦争によって中国全土を完全な支配下に置こうと考えていたわけではなく、中国の資源や経済力を日本が独占しよう、と構想していました。

 本書は最後に、日本が第二次世界大戦を生き残る可能性も検討しています。その前提条件は、日独伊三国同盟から離れて米英と提携する方向しかない、と本書は指摘します。これに関して近年では、そうすれば、日本はアジア各地の植民地を手放すにしても、世界でも有数の海軍と豊富な資産を擁して、産業の近代化への意欲に満ちたアジア最強の大国になっていたのではないか、との見解もあるそうです。しかし、米英がそうした日本を第二次世界大戦後も許容したのかは疑問で、仮に米英は受容可能でも、中ソにとっては受け入れがたかっただろう、と本書は指摘します。本書は、日本が米英のみならず中ソにも受け入れられる歴史的展開について、日本海岸が大規模な艦艇を大西洋に派遣して対独伊攻撃に参加させ、日本陸軍を独ソ戦の大量に投入して、ソ連軍と協力してドイツ軍を直接攻撃することでのみ可能だったのではないか、と指摘します。ただ本書は、それが当時の、さらには将来の日本国民にとってより良い選択なのかは、別に考察する必要がある、とも指摘しています。

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