井上文則『異教のローマ ミトラス教とその時代』

 講談社選書メチエの一冊として、2025年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ローマ帝国においてキリスト教にとって宗教での競合相手として「最大の敵」だった、とも言われるミトラス教(ミトラ教、ミスラス教)に焦点を当てたローマの宗教史です。ローマの宗教史は、キリスト教の「勝利」という結果が大前提としてあるので、専門家でも歪んだ歴史像を提示してしまう危険性があるように思いますが、私のように専門家ではない人間はなおのこと、的外れな歴史観を有してしまう可能性が高い、と言えそうです。ミトラ教は、ペルシア(アーリア系)の神と考えられていたミトラ(ミスラ、ミトラス、ミフル)を崇拝する宗教で、ミトラ神はローマ帝国では太陽神と同一視され、「不意の太陽神ミトラス」とも呼ばれました。ミトラ教は、キリスト教にとって「最大の敵」だったことと共に、紀元前千年紀から千年紀のメソポタミアやイラン高原において、レヴァント(地中海東岸)発の「聖書ストーリー」の影響力がきわめて強く、宗教(信仰)は基本的に西方から東方と流入した中で、ミトラ教のみが例外だった、との指摘もあるので(関連記事)、以前から関心を抱いていました。しかし、これまでミトラ教についてはローマ史の概説などで断片的に情報を得ていただけなので、本書を読むことで少しでも体系的に理解しようと考えました。

 ローマ帝国期において東方(オリエント)起源の神々の信仰は「オリエント宗教」と呼ばれ、多くは密儀宗教の形態でした。つまり、特別の儀式を経て入信した者だけに秘密の教義が明かされるわけで、その起源は古代ギリシアにおけるエレウシスの秘儀とされています。ローマ帝国には東方世界から多くの信仰が流入し、多彩な宗教が存在しました。本書はこれらの宗教を三種類に区分し、それは、ギリシアおよびローマの伝統宗教とオリエント宗教と一神教(ユダヤ教とキリスト教)です。ミトラス教はローマ帝国において繁栄しましたが、考古学的遺物は豊富であるものの、文献はほとんど乗っていないそうです。そうした制約の中で、本書はミトラス教の全体像を復元し、キリスト教が「勝利」した理由とその意味を考察します。近代におけるミトラス教研究では当初、ミトラス教はマズダー教の一派で、小アジアに起源があり、紀元前1世紀にはローマ市に伝わっていたものの、本格的に浸透したのは紀元後1世紀後半以後と考えられていました。1970年代以降、ミトラス教は新たな段階に入り、ミトラス教とマズダー教との関係を否定し、ミトラス教はローマ世界で形成された星辰崇拝に他ならなかった、との見解が提示されます。

 本書はミトラス教の前提として、古代オリエント世界の宗教の様相を検証します。古代オリエントの神々は、都市や「民族」との結びつきの強さが特徴です。メソポタミアでは神と都市との結びつきが強かったのに対して、都市国家が発達しなかったエジプトでは神は「民族」と結びついていた、と本書は指摘します。それだけに、エジプトの神々のエジプト外への勢力伸長は限定的だったようです。アケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの神々は特定の都市と結びついていない点ではエジプトに近かったものの、エジプトの神々とは異なって人格化されておらず、自然崇拝に近かったようです。それだけに、むしろメソポタミアやエジプトの神々よりも普遍的性格が強かったものの、ペルシア帝国の領域外に広まることはほぼありませんでした。その例外がミトラ神で、東方では日本まで、西方ではローマ帝国まで広がりました。平安時代~室町時代の日記の具注暦の日曜日の欄に記された「蜜」は、中世ペルシア語のソグド語のミール(太陽神ミトラ)のことでした。ミトラ神の歴史はインド・イラン語派祖語話者の頃までさかのぼるようで、ミトラ神が初めて記録に見えのるは、メソポタミア北部のミタンニ王国においてです。インドのミトラ神は紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』では、ミトラ神はヴァルナ神とともに最高位でしたが、両神ともに人気は低かったようで、ヴァルナ神は後に仏教に取り入れられ、水天とされました。ミトラ神はインド経由ではなくイランを媒介として、仏教に入ったようです。イランではミトラ神の信仰は紀元前1000年頃にもたらされ、ミスラと呼ばれました。イランのミスラは契約の神であり、太陽神そのものではありませんでしたが、生命の神でもありました。アケメネス朝では、ミスラ神は王権の守護者とされました。ヘレニズム時代にもミスラ神崇拝は続きますが、まだ紀元後のミトラス教のようなミトラスを主神とした密儀宗教ではなく、多くの神々の一人にすぎませんでした。ただ、後のミトラス教のような太陽神や戦神や王家の守護者としての特徴は明確に認められます。

 ローマ市に最初に現れたオリエント宗教の神は、小アジアのキュベレおよびアッティスで、紀元前204年のことでした。続いてローマ市に入ってきたオリエント宗教の神はエジプトの女神イシスで、紀元前1世紀前半にはローマ市内に神殿があったようです。ただ、当時エジプトを支配していたのはプトレマイオス朝で、ローマと敵対することも多かったので、イシス信仰はローマ当局に何度も弾圧されました。本書は、ミトラス神の起源がオリエント世界にあるとしても、ミトラス教はローマ市で紀元後1世紀に誕生した可能性が高く、最初期の段階ですでにかなり完成されているので、時間をかけた形成ではなく、一人の教祖によって一気に創出されたのではないか、と推測します。ミトラス教の最初期の信者には、兵士や奴隷もしくは解放奴隷が多く、解放奴隷によってミトラス教が創出された可能性を本書は指摘します。兵士や奴隷や解放奴隷は移動することが多く、そうした最初期の信者によってミトラス教はローマ帝国において拡大していったようです。ただ、初期には信者数の増加は限定的だったようで、2世紀後半以降にローマ帝国全体としてミトラス教徒数の増加が確認できるようになります。五賢帝以後、太陽神を信仰するローマ皇帝がたびたび現れ、これはミトラス教に有利に作用した可能性があります。308年には、元皇帝のディオクレティアヌスと現役の皇帝であるガレリウスおよびリキニウスがパンノニア地方のカルヌントゥムでミトラス神殿を再建し、その碑文には「帝権の守護者」とありました。ただ、ローマ皇帝の守護神は公的にはユピテルとヘラクレスで、ミトラス教への敬意は局所的な意味しかなかっただろう、と本書は推測します。このようにミトラス教はローマ帝国に広がり、皇帝も認識していましたが、支配層である元老院議員や騎士や都市参事会員といった階層にはほとんど浸透しなかったようです。ミトラス教の信者の多く(約8割)を占めていたのでは兵士と奴隷もしくは解放奴隷でした。ローマ帝国内では、ミトラス教の浸透には地理的な偏りがあり、ほとんど広がらなかったのは、ガリアやイベリア半島やアフリカ北部やバルカン半島中南部やギリシアや小アジアやシリアやエジプトでした。その一因とし考えられるのは、ガリアやイベリア半島やバルカン半島中南部には軍があまり駐屯していなかったことですが、小アジア東部やシリアやエジプトにはそれなりの規模の軍が駐屯していたので、軍隊だけが原因ではないようです。ミトラス教の分布の東端はシリアのドゥラ・エウロポスで、ユーフラテス川以東に広がっていた形跡はありません。

 ミトラス教の重要な特徴は、明確に女性の信者が確認されていないことです。そのため、教義上の理由から、ミトラス教では女性が積極的に排除されていた、と考えられています。ミトラス神には母親と配偶神がいないことも、その傍証となりそうです。ミトラス教の信者には7段階の位があり、下から順にカラス→花嫁→兵士→ライオン→ペルシア人→太陽の走者→父です。これらの位階は、惑星でもある7柱の神々にそれぞれ対応していました。ミトラス教には専属の神官がおらず、この点では有力な政治家が交代で神官職に就任したローマの伝統的な宗教に近かったようです。ミトラス教の神話自体は伝えられていませんが、浮彫や壁画に残されており、ミトラス神は岩から生まれ、太陽神と争って同盟し、牡牛殺しと祝宴を経て、最後に太陽神を同伴して昇天する、と語られていたようで、つまりミトラス神はすでに存在した世界に生まれてきたのであり、世界の創造者ではなかったわけです。ミトラス教では、ギリシア神話の世界観が前提とされていたようです。

 ミトラス教のような密儀宗教の性格として、個人の魂の救済が挙げられてきました。ローマの伝統的な宗教が個人ではなく共同体を対象としていたことと対照的だった、というわけです。ただ、密儀宗教の教義は門外不出なので、よく分からないところもあります。ミトラス教の場合、教義を記したまとまった書物は現存していませんが、教理問答書の一部と思われる文献が残っています。ミトラス教の教義の中核には死後の魂の問題が置かれていたようですが、それは少なからぬ宗教にも当てはまるでしょう。ミトラス教ではとくに奴隷や解放奴隷や兵士の割合が高かったのは、主人や元主人や上官に仕える日常の労苦と、正式に家族を持てない孤独な環境の奴隷や解放奴隷や兵士にとって、岩から生まれて親がおらず、妻子もいないミトラス神は共感できる存在だったからではないか、と本書は推測します。本書は再構築されたミトラス教の教義から、その教祖の出身地はコンマゲネで、その成立時期は1世紀後半だろう、と推測しています。

 ミトラス教にとって結果的に転機となったのは、コンスタンティヌス帝が313年にキリスト教を公認したことです。コンスタンティヌス帝はキリスト教の聖職者にさまざまな特権を与え、教会には広大な土地と多額の財産を寄付し、キリスト教を積極的に支援するとともに、「異教」の神々への供犠を禁じました。これ以降、キリスト教の勢力が拡大し、ミトラス教など「異教」は衰退していきますが、「背教者」と呼ばれたユリアヌス帝や一部の元老院議員はキリスト教化の波に抵抗し、そうした人々にはミトラス教との関わりがありました。ユリアヌスは熱心な太陽神の崇拝者だったため、同じく太陽神を主神とするミトラス教に好意的で、じっさいに入信もしています。ユリアヌス帝の戦死後、「異教」はますます苦境に追い込まれ、ついに392年にはテオドシウス帝が全面的な異教禁令を出します。こうした動きに抵抗した元老院議員もおり、「異教徒」を皇帝に擁立する動きもありましたが失敗しました。こうしたキリスト教に抵抗した「異教徒」の元老院議員の間ではミトラス教が流行しており、中には、何世代にもわたるミトラス教の信者もいました。ただ、4世紀後半の時点ですでに、ユリアヌス帝や一部の元老院議員を除いて、ミトラス教の勢いは失われていたようです。ミトラス神殿の建設は4世紀になると低調になり、4世紀半ばにはほぼ停止していました。本書は、313年のキリスト教公認がミトラス教を衰退の原因になったのではないか、と推測します。機能中のミトラス教の神殿がキリスト教徒によって破壊されたと思われる事例もあるものの、大半のミトラス神殿は、キリスト教徒の直接的暴力ではなく、度重なる「異教」禁止令やキリスト教信仰の拡大によって信者を奪われたことで維持できなくなり、放棄されたのだろう、と本書は推測します。じっさい、破壊された痕跡のないミトラス神殿も多いようです。ミトラス教は他の「異教」よりも先に衰退し、5世紀まで存続した神殿は1ヶ所だけで、中世ヨーロッパでは完全に忘れ去られた存在だった、と本書は指摘します。

 ミトラス教はローマ帝国において、共同体的な伝統的宗教を破壊し、個人的宗教を広めて、キリスト教化の地均しをした、とも言われています。しかし本書は、ローマ帝国においてオリエント宗教が広がっていた当初、ミトラス教の分布域がもっぱら西方だったのに対して、キリスト教は西方にはほとんど浸透しておらず、おもに東方に分布していたことから、そうした見解に否定的です。このようにミトラス教とキリスト教の分布域が大きくずれた要因としてまず挙げられているのが、ミトラス教はローマ市に起源があるものの、外観はペルシア風で、そもそもミトラス神の名称自体がペルシアの神名として認識されていたため、パルティアとの戦いの前線にいたローマ帝国東方の人々には抵抗感があったのではないか、との推測です。また本書は、ローマ帝国の東方世界は古代オリエントや古代ギリシア以来の伝統的な「異教」が定着しており、ミトラス教が入り込む余地は少なかったのではないか、とも指摘します。一方、ローマ帝国西方でミトラス教が受容されたのは、ペルシアとの前線から離れており、直接的な脅威を受けていなかったことや、ペルシアは東方の神秘的な英知の国と考えられていたことがあるのではないか、と推測されます。一方で、キリスト教の主要な分布域がローマ帝国の西方ではなく東方だったことについては、雑多で複雑な異教を一神教の教義で一刀両断できるキリスト教は、東方のような新旧の宗教の飽和状態でこそ「福音」として響き、宗教的には素朴だった西方ではミトラス教のような東方起源を装った神秘的宗教の方が魅力的だったのではないか、と指摘されています。キリスト教がローマ帝国において最終的に勝ち残ったことについては、コンスタンティヌス帝のキリスト教支持が大きく、それがなければ西方は長く「異教世界」のままだった、と推測されています。ミトラス教がキリスト教に代わる「世界宗教」になった可能性について、本書は否定的で、それは、キリスト教のような全人類への宣教をミトラス教は考えていなかっただろう、との推測に基づいています。ミトラス教は、キリスト教のように宣教師を各地に派遣して積極的な布教したわけではなく、その拡大は人間の自然な接触を介しており、男性にしか入信を認めていませんでした。本書は、ミトラス教に類似した存在として、キリスト教よりも近代のフリーメイソンを挙げています。

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