類人猿の完全なゲノム配列

 類人猿の完全なゲノム配列を報告した研究(Yoo et al., 2025)が公表されました。大型類人猿(ヒト科)のゲノムのきわめて動的な反復領域は、これまで比較研究の対象から外れていました。そのため、ヒト進化の理解はまだ不完全なものとなっています。本論文は、チンパンジー(Pan troglodytes)、ボノボ(Pan paniscus)、ゴリラ(Gorilla gorilla)、ボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus)、スマトラオランウータン(Pongo abelii)、フクロテナガザル(Symphalangus syndactylus)の6種の類人猿(ヒト上科)に関して、ハプロタイプが区別された参照ゲノムおよびその比較解析の結果を提示します。

 この研究は、染色体水準の連続性と塩基配列の高度な正確さ(270万ヶ所の塩基当たりエラーが1ヶ所未満)を実現し、215本の染色体の塩基配列をテロメアからテロメアまで空白なく完全に解読しました。その結果、主要組織適合遺伝子複合体や免疫グロブリン座位など、これまで解読が困難だった領域も明らかになり、進化に関する詳細な知見が得られました。また、比較解析によって、これまで特徴が不明だった領域や研究が不充分だった領域の進化と多様性を、ヒトの参照ゲノムへのマッピング(多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理)に起因する偏りなしに検討することが可能となりました。そうした領域には、系統特異的なセグメント重複で新しく生じたばかりの遺伝子ファミリー、セントロメアDNA、末端動原体型染色体、次端部ヘテロクロマチンが含まれます。この研究で得られた情報資源は、ヒトおよびヒトに最も近縁な現生類人猿の今後の進化研究にとって包括的な基盤となります。

 本論文は、完全なゲノム配列での研究の重要性を改めて示しています。現在、個人もしくは人口集団間の遺伝的関係を調べるさいには、ゲノム規模ではあるものの、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)に基づいている場合がほとんどで、多くの場合、124万ヶ所のSNP一式が用いられていると思います。SNPに基づく集団遺伝学的解析は、データ数の多さから統計的堅牢性が担保されており、これまでに示されてきた個人もしくは人口集団間の遺伝的関係が、完全なゲノム配列で大きく覆る可能性はきわめて低いように思います。したがって、個人もしくは人口集団間の遺伝的関係の調査を目的とした集団遺伝学的研究において、ゲノム規模のSNPのみではなく、大規模な欠失や重複や挿入や逆位や転座など遺伝的構造を調べねばならない、とは以前から指摘されていましたが(関連記事)、費用対効果も考えると、SNPに基づいた現在主流の手法で大過はないでしょうから、今後も少なくとも当面はこの手法が主流となるでしょう。

 ただ、本論文で示されているように、完全なゲノム配列での研究によって、SNPのみでは検出の難しい新たな知見が得られることになりそうで、それによって個人もしくは人口集団間の遺伝的関係がさらに詳しく解明されるのではないか、と期待されます。もっとも、古代ゲノム研究では、完全なゲノム配列を可能とするような高品質なゲノムデータが得られる可能性はきわめて低いので、124万SNPの対象部位での網羅率をできるだけ向上させ、低品質のゲノムデータで起きやすくなる誤り(というか統計的堅牢性の低さ)の可能性を下げていくしかなさそうです(関連記事)。

 本論文で注目されるのは、ヒト科の推定分岐年代で、これはヒト科の系統樹の見直しにつながるかもしれません。本論文によると、ヒト科における推定分岐年代は、オランウータン系統とその他の系統が1960万~1820万年前頃、ゴリラ系統とチンパンジーおよび現代人の共通祖先の系統が1090万~1060万年前頃、チンパンジー系統と現代人系統が630万~550万年前頃です。また、祖先の推定有効個体数規模(Nₑ)は、ゴリラ系統とチンパンジー系統と現代人系統の共通祖先の系統(132000)よりも、ゴリラ系統との分岐後のチンパンジー系統と現代人系統の共通祖先の系統(198000)の方が大きく、ゴリラ系統と分岐後のチンパンジー系統と現代人系統の共通祖先の系統で、1000万~600万年前頃に個体数が増加した、と示唆されます。

 チンパンジー系統と現代人系統については、遺伝的に分化し始めてからしばらくは交雑があった、とも指摘されており(関連記事)、それは古い研究なので今そのままでは通用しないとしても、異なる系統間の分岐年代の推定に難しさがあることは否定できないでしょう。遺伝的に分化し始めた後の交雑の問題は難しいのでさておくとして、注目されるのは、「最古の人類」とされ、二足歩行の証拠が提示されている(関連記事)サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)の推定年代が704万±18万年前頃であることです(関連記事)。クレタ島の後期中新世となる570万年前頃の足跡は二足歩行の人類系統によるもので、「最古級の人類」とされているオロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)と年代が近い、と指摘されています(関連記事)。

 本論文の知見と、これら人類(候補)化石の年代とをどう整合させるのか、難しいところです。サヘラントロプス・チャデンシスやオロリン・トゥゲネンシスは、人類系統に近いものの別系統ではないか、との見解もあり(関連記事)、現代人およびチンパンジーの共通祖先の系統と700万年以上前に分岐した可能性も考えられます。中新世のヒト科系統において直立二足歩行は珍しくなかった、との見解(関連記事)に基づくと、サヘラントロプス・チャデンシスやオロリン・トゥゲネンシスが現代人系統にとってゴリラ以上に遠い系統だった可能性も想定されるでしょう。こうした問題の解明にはさらなる化石の発見が必要になりそうで、現時点では断定すべきでないと思います。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


比較ゲノミクス:類人猿ゲノムの完全な塩基配列解読

Cover Story:類人猿ゲノム比較の成果:6種の類人猿の全ゲノム塩基配列によってヒトの進化への洞察がもたらされた

 ヒトゲノムが解読されて以来、比較のために、ヒトに最も近縁な霊長類のゲノムを解読する取り組みが続けられてきた。しかし、そうした類人猿のゲノムは巨大で反復配列を多く含むために解読が困難で、ヒトと類人猿の進化を比較する研究が制限されてきた。今回、E Eichlerたちがこの空白を埋めるべく、類人猿の主要な6系統を代表する種、すなわちチンパンジー(Pan troglodytes)、ボノボ(Pan paniscus)、ゴリラ(Gorilla gorilla、表紙画像)、ボルネオオランウータン(Pongo pygmaeus)、スマトラオランウータン(Pongo abelii)、フクロテナガザル(Symphalangus syndactylus)の、ほぼ100%完全なゲノム塩基配列を提示している。これらの新たな塩基配列は、最近得られたヒトの完全なゲノム塩基配列と同等の品質で、これにより、セントロメアなど従来アクセスできなかった領域の解析が可能になり、新規の系統特異的遺伝子が明らかになった。研究者たちは、これら6例のゲノムが今後のヒトと類人猿の進化研究の基盤になると述べている。



参考文献:
Yoo D. et al.(2025): Complete sequencing of ape genomes. Nature, 641, 8062, 401–418.
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08816-3

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