Ludovic Slimak『裸のネアンデルタール人 人間という存在を解き明かす』
リュドヴィック・スリマック(Ludovic Slimak)著、野村真依子訳で、2025年4月に柏書房より刊行されました。原書の刊行は2022年です。電子書籍での購入です。著者の論文では、石器技術の比較から更新世における現生人類(Homo sapiens)のレヴァントからヨーロッパへの3回の主要な拡散を推測した研究(Slimak., 2023)がたいへん参考になったので、本書の刊行を楽しみにしていました。著者の他の論文には、フランス地中海地域における5万年以上前の現生人類の存在を報告した研究(Slimak et al., 2022)や、フランス地中海地域におけるヨーロッパ最古となる弓矢技術を報告した研究(Metz et al., 2023)や、フランス地中海地域の後期ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のゲノムデータを報告した研究(Slimak et al., 2024)などがあり、著者がネアンデルタール人、さらにはヨーロッパにおけるネアンデルタール人の絶滅やネアンデルタール人と現生人類との関係をどう考えているのか、たいへん注目していました。
本書の特徴は、ネアンデルタール人について現代人の諸側面を投影した存在ではなく、独自の「生き物」として把握しようと試みていることです。ネアンデルタール人には現代人と同じく甲ができたとか、現代人とは違って乙ができなかったとか苦手だったとか、私もつい現代人を投影するというか、現代人を基準に、ネアンデルタール人は現生人類とどこまで似ていて、どこが違っているのか、と考えてしまうので、反省させられるところが多々ありました。「実証主義」は人間を数量化可能な合理性に限定することで科学であろとうしているにすぎない、などといった実証主義の限界についての指摘も、考えさせられるところがありました。
本書がまず取り上げる北極圏についての、著者自身の体験を踏まえての見解は興味深く、乾燥していると寒さを感じにくく、短期間で適応できるそうです。そこから本書は、人類が寒冷期にアフリカからユーラシアの中緯度地方へと拡散したからといっても、防寒技術の発達や相互扶助が可能な社会適応能力を示すとは限らない、と指摘します。さらに本書は、考古学的証拠から、氷期の北極地方が現在よりも豊かな生物相だった可能性を指摘します。北極圏への人類の拡散には防寒技術や社会適応能力が必要である、といった認識は現代人の世界観や人間観に制約されているかもしれず、2000年前後に提示されたネアンデルタール人の絶滅に関するさまざまな理論はそうした認識に基づいている、というわけです。
北極地方の2万年以上前の道具が出土した遺跡はまだ3ヶ所しか知られておらず、すべてロシア領内に位置しています。そのうち2ヶ所は北極ウラルの西側山麓から遠くない、ヨーロッパの北極圏で見つかりました。最古の遺跡はマモントヴァヤ・クリヤ(Mamontovaїa Kouria)で年代は4万年前頃です。この遺跡から発見された打製石器は7点のみですが、規則的に線が刻まれた若いマンモスの牙も見つかっています。一方、道具は共伴していないものの、解体痕のある48000年前頃マンモスの骨が、北極線から約600km北方に位置する、シベリア北西端のタイミル半島のエニセイ川の土手で発見されています(Pitulko et al., 2016)。そこから2000km東方のサハ共和国では、ヤナ川の支流の北極線より北に位置する土手で、武器によると考えられる傷痕のあるオオカミの肩の骨が発見されています。
その近くのヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site、ヤナ犀角遺跡)は北極線から500kmほど北方に位置し、年代は3万年前頃です。ヤナRHSでは、数万点の打製石器に、マンモスやキツネの牙などで製作された美術品が発見されています。ヤナRHSではヒトの乳歯も発見されており、ゲノム解析の結果、独特な遺伝的構成の集団と明らかになり、ANS(Ancient North Siberian、古代北シベリア人)と呼ばれています(Sikora et al., 2019)。ANSはネアンデルタール人との交雑を示したものの、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑の証拠はないので、ANSとネアンデルタール人との遭遇は、デニソワ人由来のゲノム領域を有する現代人が存在するアジアの中緯度~低緯度地方からかなり離れた場所で起き、極地方で起きたのではないか、と本論文は推測します。しかし、ANSにおいて、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団で見られるネアンデルタール人との交雑以外の、追加の痕跡はなさそうです(Sikora et al., 2019)。ただ、最近の研究からは、ANSの祖先集団におけるネアンデルタール人との追加の交雑の可能性も窺えるように思います(Iasi et al., 2024)。
本書は著者自身が関わったビゾヴァヤ(Byzovaya)遺跡(Slimak et al., 2011)も取り上げており、28000年前頃のビゾヴァヤ遺跡は、住民がマンモスの牙に興味を示した痕跡がまったく検出できない点で、近い年代の東方へ2000kmほど離れたヤナRHSとは大きく異なります。ビゾヴァヤ遺跡の石器はムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)に分類されており、ムステリアンは一般的に、ヨーロッパではネアンデルタール人と関連づけられています。本書は、現生人類のみで確認されており、現代まで続いてる、装飾品や装身具や小像などの力強い象徴体系が、ビゾヴァヤ遺跡では確認されていないことを指摘します。ビゾヴァヤ遺跡が報告された時も、担い手がネアンデルタール人である可能性は指摘されており(Slimak et al., 2011)、本書も改めてその可能性に言及しています。ただ、ヨーロッパの大半では4万年前頃以降以降のネアンデルタール人の確実な痕跡はない、との見解(Higham et al., 2014)が現在では有力なので、その点で28000年前頃のビゾヴァヤ遺跡はたいへん注目されます。
本書は、ネアンデルタール人の食人を示唆する証拠などから、ネアンデルタール人の儀礼や象徴的思考についても考察しています。そもそも、人類以外の現生哺乳類でも生死を理解していたり、「弱者」を労わったりしている、と示唆するような証拠が得られており、ネアンデルタール人が重度の障害のある人物を「介護」していたり、死者を「埋葬」していたりしても、それはずっとヒト亜科全体に共通する行動に由来しており、現代人の人間性を特徴づける概念とネアンデルタール人とを結びつけるわけではない、と本書は指摘します。本書はネアンデルタール人の「象徴的思考」の根拠とされる「芸術品」も取り上げていますが、珍しい石などを収集することは300万年前頃のアウストラロピテクス属にも、現生の一部の鳥類にも認められることで、人間らしさを特徴づけるものではなく、そもそもネアンデルタール人の芸術の根拠とされた出土品のうち、多少なりとも加工されたり意図的な改変の痕跡があったりする遺物はない、と指摘します。著者はネアンデルタール人の「洞窟壁画」にも懐疑的で、ネアンデルタール人に関する全体的な考古学的証拠と整合しない、と指摘し、その年代にも疑問を呈していますが(Slimak et al., 2018)、その後の研究(Martí et al., 2021)を踏まえると、ネアンデルタール人が洞窟壁画を残した可能性は低くないように思います。ネアンデルタール人の所産と考えられており、明確な装飾品が発見されているシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)についても、ネアンデルタール人の所産を証明するとされた証拠に疑問が呈される(Gravina et al., 2018)など、現生人類の所産だった可能性も示唆されています。著者もシャテルペロニアンとの現生人類が担い手と考えられるレヴァント前期上部旧石器文化との類似性を指摘しており(Slimak., 2023)、シャテルペロニアンが現生人類の所産である可能性を示しています。
本書はこのように、ネアンデルタール人を安易に現生人類の同類とみなす見解を批判し、ネアンデルタール人は、感情反応ではチンパンジーに近い遺伝子構造、自制心と自己認識についてはチンパンジーと現生人類の中間に位置する遺伝子構造を示し、それがネアンデルタール人の創造に関わる潜在能力と自己認識と社会性のある行動に直接影響している、と推測した研究を提示します。現生人類(およびネアンデルタール人の最終共通祖先)系統とチンパンジー系統との分岐年代が1000万年前頃、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の分岐年代が50万年前頃とすると、その時間的距離は20倍の違いでしかなく、現生人類とネアンデルタール人の神経構造に影響を及ぼしていないとか、別々に進化して同じような認知と行動に至った、との見解は厳密には新たな創造説になる、と本書は指摘します。現代人とチンパンジーとの違いについて、現生人類およびネアンデルタール人の最終共通祖先系統とチンパンジー系統との間の1000万年間の隔たり(この隔たりはもっと短くなる可能性が高そうですが)で充分なら、現生人類系統とネアンデルタール人系統との間の50万年間の違いを軽く考えることはできない、と本書は指摘します。本書は、ネアンデルタール人と現生人類との間の複数回の遺伝子流動を含む複雑な関係(Li et al., 2024)を認識しつつ、非アフリカ系現代人全員のゲノムにネアンデルタール人由来の領域があるからといって、ネアンデルタール人は絶滅していない、との見解には批判的で、ネアンデルタール人と現生人類を明確に異なる系統と認識しています。
おそらくネアンデルタール人終焉の地となったであろうヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人が最終的に消滅したのは、現生人類の出現と関連しているだろう、と本書は推測しており、こうした見解には私も以前から同意してきました(関連記事)。本書は、ヨーロッパへの現生人類の拡散には3回の波があり、最初の2回ではヨーロッパに決定的な勢力を広げることに失敗し、3回目の波で一様な文化、つまりオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の初期形を有する集団が本格的に入植し、ヨーロッパ全体に急速に勢力を拡大した(Slimak., 2023)、と考えています。本書は、ヨーロッパの末期ネアンデルタール人において現生人類からの近い過去における遺伝子流動がなかったこと(Hajdinjak et al., 2018)を、ヨーロッパにおける末期ネアンデルタール人と現生人類との関係を考察するうえで重視しています。一方で、ヨーロッパの初期現生人類では、近い世代の祖先におけるネアンデルタール人からの遺伝子流動が推定されています(Hajdinjak et al., 2021)。ネアンデルタール人社会における父方居住(夫方居住)の可能性が遺伝学から示唆されていますが(Skov et al., 2022)、現生人類はネアンデルタール人側から女性を受け入れるものの、ネアンデルタール人側には女性を送らない、という非対称的な関係があったのではないか、と本書は推測します。
ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類が衝突した考古学的痕跡はまだ確認されていませんが、だからとって衝突がなかったことを証明しているわけではないことも、本書は指摘します。著者が研究に関わったフランス地中海地域のマンドラン(マンドリン)洞窟(Grotte Mandrin)の発掘調査結果からは、ネアンデルタール人と現生人類との共存がほぼ裏づけられますが(Slimak et al., 2022)、そうした好条件の遺跡が他に見つかる可能性は低いように思います。本書はヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の違いとして、ネアンデルタール人の石器には武器が少なく、狩猟技術さらには動物性資源管理の点でネアンデルタール人が現生人類よりも劣っており、そこにネアンデルタール人と現生人類の社会の根本的な相違、さらには構造的相違があるかもしれない、と指摘します。ネアンデルタール人と現生人類がヨーロッパで遭遇した時、両者の間には人口でも技術でも大きな差があっただろう、と本書は推測します。
さらに本書は、現生人類とは異なるネアンデルタール人特有の生態があった可能性を指摘します。ネアンデルタール人には組織的な標準化および規格化された武器の製作の痕跡が確認されず、現生人類とは異なる独自の世界理解の構造が存在したのではないか、というわけです。具体的には、計画性志向がネアンデルタール人では現生人類より弱いのではないか、と本書は指摘します。現生人類には標準化および規格化志向が強く、一見すると高いと思われる現代の都市社会の「多様性」も表面的にすぎない、と指摘します。現生人類では上部旧石器時代の石器でも見られる規範的志向は生得的基盤、つまり生態に起因しており、ネアンデルタール人ではそうした規範がはるかに把握しにくく、ネアンデルタール人の道具は本質的に創作物ではないか、と本書は推測します。
そこから本書は、ネアンデルタール人の独創性と、職人としての接待的な自由、世界の把握をめぐるきわめて大きな自由にまで議論を発展させます。それは先史時代にしても現代にしても、現生人類社会とは構造的に異なっており、日本語の「渋い」や「間」などと通ずるところがある、と本書は考えています。そこから、定量的手法では把握できないネアンデルタール人社会の生態の特殊性もあるのではないか、と本書は提言しています。ネアンデルタール人社会では技術的表現と芸術的表現が同じ包括点な論理に組み込まれており、芸術が自我の表現や主張でしかない現生人類とは異なる、というわけです。そこから本書は、現生人類集団の創造性はひじょうに表面的かつ人工的で、創造性の分野ではネアンデルタール人の足元にもおよばない、とまで議論を展開します。ただ一方で、世界の物質的合理化の点では、ネアンデルタール人は現生人類より劣っているだろう、とも本書は指摘します。こうした本書の見解は飛ばし過ぎかな、と思うところもありましたが、ネアンデルタール人は聖者や高僧のように夢想し、心のカンバスに絵を描くこともできたが、言語には長けていなかったから、現生人類のように文明を持つ必要がなかった、との『イリヤッド』の設定(関連記事)と通ずるところもあるように思われ、懐かしくなりました。
参考文献:
Gravina B. et al.(2018): No Reliable Evidence for a Neanderthal-Châtelperronian Association at La Roche-à-Pierrot, Saint-Césaire. Scientific Reports, 8, 15134.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-33084-9
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Hajdinjak M. et al.(2018): Reconstructing the genetic history of late Neanderthals. Nature, 555, 7698, 652–656.
https://doi.org/10.1038/nature26151
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Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3
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Higham T. et al.(2014): The timing and spatiotemporal patterning of Neanderthal disappearance. Nature, 512, 7514, 306–309.
https://doi.org/10.1038/nature13621
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Iasi LNM. et al.(2024): Neanderthal ancestry through time: Insights from genomes of ancient and present-day humans. Science, 386, 6727, eadq3010.
https://doi.org/10.1126/science.adq3010
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Li L. et al.(2024): Recurrent gene flow between Neanderthals and modern humans over the past 200,000 years. Science, 385, 6705, eadi1768.
https://doi.org/10.1126/science.adi1768
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Martí AP. et al.(2021): The symbolic role of the underground world among Middle Paleolithic Neanderthals. PNAS, 118, 33, e2021495118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2021495118
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Metz L, Lewis JE, and Slimak L.(2023): Bow-and-arrow, technology of the first modern humans in Europe 54,000 years ago at Mandrin, France. Science Advances, 9, 8, eadd4675.
https://doi.org/10.1126/sciadv.add4675
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Pitulko VV. et al.(2016): Early human presence in the Arctic: Evidence from 45,000-year-old mammoth remains. Science, 351, 6270, 260-263.
https://doi.org/10.1126/science.aad0554
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Sikora M. et al.(2019): The population history of northeastern Siberia since the Pleistocene. Nature, 570, 7760, 182–188.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1279-z
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Skov L. et al.(2022): Genetic insights into the social organization of Neanderthals. Nature, 610, 7932, 519–525.
https://doi.org/10.1038/s41586-022-05283-y
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Slimak L. et al.(2011): Late Mousterian Persistence near the Arctic Circle. Science, 332, 6031, 841-845.
https://doi.org/10.1126/science.1203866
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Slimak L. et al.(2018): Comment on “U-Th dating of carbonate crusts reveals Neandertal origin of Iberian cave art”. Science, 361, 6408, eaau1371.
https://doi.org/10.1126/science.aau1371
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Slimak L. et al.(2022): Modern human incursion into Neanderthal territories 54,000 years ago at Mandrin, France. Science Advances, 8, 6, eabj9496.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abj9496
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Slimak L (2023) The three waves: Rethinking the structure of the first Upper Paleolithic in Western Eurasia. PLoS ONE 18(5): e0277444.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0277444
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Slimak L. et al.(2024): Long genetic and social isolation in Neanderthals before their extinction. Cell Genomics, 4, 9, 100593.
https://doi.org/10.1016/j.xgen.2024.100593
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Slimak L.著(2025)、野村真依子訳『裸のネアンデルタール人 人間という存在を解き明かす』(柏書房、原書の刊行は2022年)
本書の特徴は、ネアンデルタール人について現代人の諸側面を投影した存在ではなく、独自の「生き物」として把握しようと試みていることです。ネアンデルタール人には現代人と同じく甲ができたとか、現代人とは違って乙ができなかったとか苦手だったとか、私もつい現代人を投影するというか、現代人を基準に、ネアンデルタール人は現生人類とどこまで似ていて、どこが違っているのか、と考えてしまうので、反省させられるところが多々ありました。「実証主義」は人間を数量化可能な合理性に限定することで科学であろとうしているにすぎない、などといった実証主義の限界についての指摘も、考えさせられるところがありました。
本書がまず取り上げる北極圏についての、著者自身の体験を踏まえての見解は興味深く、乾燥していると寒さを感じにくく、短期間で適応できるそうです。そこから本書は、人類が寒冷期にアフリカからユーラシアの中緯度地方へと拡散したからといっても、防寒技術の発達や相互扶助が可能な社会適応能力を示すとは限らない、と指摘します。さらに本書は、考古学的証拠から、氷期の北極地方が現在よりも豊かな生物相だった可能性を指摘します。北極圏への人類の拡散には防寒技術や社会適応能力が必要である、といった認識は現代人の世界観や人間観に制約されているかもしれず、2000年前後に提示されたネアンデルタール人の絶滅に関するさまざまな理論はそうした認識に基づいている、というわけです。
北極地方の2万年以上前の道具が出土した遺跡はまだ3ヶ所しか知られておらず、すべてロシア領内に位置しています。そのうち2ヶ所は北極ウラルの西側山麓から遠くない、ヨーロッパの北極圏で見つかりました。最古の遺跡はマモントヴァヤ・クリヤ(Mamontovaїa Kouria)で年代は4万年前頃です。この遺跡から発見された打製石器は7点のみですが、規則的に線が刻まれた若いマンモスの牙も見つかっています。一方、道具は共伴していないものの、解体痕のある48000年前頃マンモスの骨が、北極線から約600km北方に位置する、シベリア北西端のタイミル半島のエニセイ川の土手で発見されています(Pitulko et al., 2016)。そこから2000km東方のサハ共和国では、ヤナ川の支流の北極線より北に位置する土手で、武器によると考えられる傷痕のあるオオカミの肩の骨が発見されています。
その近くのヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site、ヤナ犀角遺跡)は北極線から500kmほど北方に位置し、年代は3万年前頃です。ヤナRHSでは、数万点の打製石器に、マンモスやキツネの牙などで製作された美術品が発見されています。ヤナRHSではヒトの乳歯も発見されており、ゲノム解析の結果、独特な遺伝的構成の集団と明らかになり、ANS(Ancient North Siberian、古代北シベリア人)と呼ばれています(Sikora et al., 2019)。ANSはネアンデルタール人との交雑を示したものの、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)との交雑の証拠はないので、ANSとネアンデルタール人との遭遇は、デニソワ人由来のゲノム領域を有する現代人が存在するアジアの中緯度~低緯度地方からかなり離れた場所で起き、極地方で起きたのではないか、と本論文は推測します。しかし、ANSにおいて、非アフリカ系現代人全員の共通祖先集団で見られるネアンデルタール人との交雑以外の、追加の痕跡はなさそうです(Sikora et al., 2019)。ただ、最近の研究からは、ANSの祖先集団におけるネアンデルタール人との追加の交雑の可能性も窺えるように思います(Iasi et al., 2024)。
本書は著者自身が関わったビゾヴァヤ(Byzovaya)遺跡(Slimak et al., 2011)も取り上げており、28000年前頃のビゾヴァヤ遺跡は、住民がマンモスの牙に興味を示した痕跡がまったく検出できない点で、近い年代の東方へ2000kmほど離れたヤナRHSとは大きく異なります。ビゾヴァヤ遺跡の石器はムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)に分類されており、ムステリアンは一般的に、ヨーロッパではネアンデルタール人と関連づけられています。本書は、現生人類のみで確認されており、現代まで続いてる、装飾品や装身具や小像などの力強い象徴体系が、ビゾヴァヤ遺跡では確認されていないことを指摘します。ビゾヴァヤ遺跡が報告された時も、担い手がネアンデルタール人である可能性は指摘されており(Slimak et al., 2011)、本書も改めてその可能性に言及しています。ただ、ヨーロッパの大半では4万年前頃以降以降のネアンデルタール人の確実な痕跡はない、との見解(Higham et al., 2014)が現在では有力なので、その点で28000年前頃のビゾヴァヤ遺跡はたいへん注目されます。
本書は、ネアンデルタール人の食人を示唆する証拠などから、ネアンデルタール人の儀礼や象徴的思考についても考察しています。そもそも、人類以外の現生哺乳類でも生死を理解していたり、「弱者」を労わったりしている、と示唆するような証拠が得られており、ネアンデルタール人が重度の障害のある人物を「介護」していたり、死者を「埋葬」していたりしても、それはずっとヒト亜科全体に共通する行動に由来しており、現代人の人間性を特徴づける概念とネアンデルタール人とを結びつけるわけではない、と本書は指摘します。本書はネアンデルタール人の「象徴的思考」の根拠とされる「芸術品」も取り上げていますが、珍しい石などを収集することは300万年前頃のアウストラロピテクス属にも、現生の一部の鳥類にも認められることで、人間らしさを特徴づけるものではなく、そもそもネアンデルタール人の芸術の根拠とされた出土品のうち、多少なりとも加工されたり意図的な改変の痕跡があったりする遺物はない、と指摘します。著者はネアンデルタール人の「洞窟壁画」にも懐疑的で、ネアンデルタール人に関する全体的な考古学的証拠と整合しない、と指摘し、その年代にも疑問を呈していますが(Slimak et al., 2018)、その後の研究(Martí et al., 2021)を踏まえると、ネアンデルタール人が洞窟壁画を残した可能性は低くないように思います。ネアンデルタール人の所産と考えられており、明確な装飾品が発見されているシャテルペロニアン(Châtelperronian、シャテルペロン文化)についても、ネアンデルタール人の所産を証明するとされた証拠に疑問が呈される(Gravina et al., 2018)など、現生人類の所産だった可能性も示唆されています。著者もシャテルペロニアンとの現生人類が担い手と考えられるレヴァント前期上部旧石器文化との類似性を指摘しており(Slimak., 2023)、シャテルペロニアンが現生人類の所産である可能性を示しています。
本書はこのように、ネアンデルタール人を安易に現生人類の同類とみなす見解を批判し、ネアンデルタール人は、感情反応ではチンパンジーに近い遺伝子構造、自制心と自己認識についてはチンパンジーと現生人類の中間に位置する遺伝子構造を示し、それがネアンデルタール人の創造に関わる潜在能力と自己認識と社会性のある行動に直接影響している、と推測した研究を提示します。現生人類(およびネアンデルタール人の最終共通祖先)系統とチンパンジー系統との分岐年代が1000万年前頃、ネアンデルタール人系統と現生人類系統の分岐年代が50万年前頃とすると、その時間的距離は20倍の違いでしかなく、現生人類とネアンデルタール人の神経構造に影響を及ぼしていないとか、別々に進化して同じような認知と行動に至った、との見解は厳密には新たな創造説になる、と本書は指摘します。現代人とチンパンジーとの違いについて、現生人類およびネアンデルタール人の最終共通祖先系統とチンパンジー系統との間の1000万年間の隔たり(この隔たりはもっと短くなる可能性が高そうですが)で充分なら、現生人類系統とネアンデルタール人系統との間の50万年間の違いを軽く考えることはできない、と本書は指摘します。本書は、ネアンデルタール人と現生人類との間の複数回の遺伝子流動を含む複雑な関係(Li et al., 2024)を認識しつつ、非アフリカ系現代人全員のゲノムにネアンデルタール人由来の領域があるからといって、ネアンデルタール人は絶滅していない、との見解には批判的で、ネアンデルタール人と現生人類を明確に異なる系統と認識しています。
おそらくネアンデルタール人終焉の地となったであろうヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人が最終的に消滅したのは、現生人類の出現と関連しているだろう、と本書は推測しており、こうした見解には私も以前から同意してきました(関連記事)。本書は、ヨーロッパへの現生人類の拡散には3回の波があり、最初の2回ではヨーロッパに決定的な勢力を広げることに失敗し、3回目の波で一様な文化、つまりオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の初期形を有する集団が本格的に入植し、ヨーロッパ全体に急速に勢力を拡大した(Slimak., 2023)、と考えています。本書は、ヨーロッパの末期ネアンデルタール人において現生人類からの近い過去における遺伝子流動がなかったこと(Hajdinjak et al., 2018)を、ヨーロッパにおける末期ネアンデルタール人と現生人類との関係を考察するうえで重視しています。一方で、ヨーロッパの初期現生人類では、近い世代の祖先におけるネアンデルタール人からの遺伝子流動が推定されています(Hajdinjak et al., 2021)。ネアンデルタール人社会における父方居住(夫方居住)の可能性が遺伝学から示唆されていますが(Skov et al., 2022)、現生人類はネアンデルタール人側から女性を受け入れるものの、ネアンデルタール人側には女性を送らない、という非対称的な関係があったのではないか、と本書は推測します。
ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類が衝突した考古学的痕跡はまだ確認されていませんが、だからとって衝突がなかったことを証明しているわけではないことも、本書は指摘します。著者が研究に関わったフランス地中海地域のマンドラン(マンドリン)洞窟(Grotte Mandrin)の発掘調査結果からは、ネアンデルタール人と現生人類との共存がほぼ裏づけられますが(Slimak et al., 2022)、そうした好条件の遺跡が他に見つかる可能性は低いように思います。本書はヨーロッパにおけるネアンデルタール人と現生人類の違いとして、ネアンデルタール人の石器には武器が少なく、狩猟技術さらには動物性資源管理の点でネアンデルタール人が現生人類よりも劣っており、そこにネアンデルタール人と現生人類の社会の根本的な相違、さらには構造的相違があるかもしれない、と指摘します。ネアンデルタール人と現生人類がヨーロッパで遭遇した時、両者の間には人口でも技術でも大きな差があっただろう、と本書は推測します。
さらに本書は、現生人類とは異なるネアンデルタール人特有の生態があった可能性を指摘します。ネアンデルタール人には組織的な標準化および規格化された武器の製作の痕跡が確認されず、現生人類とは異なる独自の世界理解の構造が存在したのではないか、というわけです。具体的には、計画性志向がネアンデルタール人では現生人類より弱いのではないか、と本書は指摘します。現生人類には標準化および規格化志向が強く、一見すると高いと思われる現代の都市社会の「多様性」も表面的にすぎない、と指摘します。現生人類では上部旧石器時代の石器でも見られる規範的志向は生得的基盤、つまり生態に起因しており、ネアンデルタール人ではそうした規範がはるかに把握しにくく、ネアンデルタール人の道具は本質的に創作物ではないか、と本書は推測します。
そこから本書は、ネアンデルタール人の独創性と、職人としての接待的な自由、世界の把握をめぐるきわめて大きな自由にまで議論を発展させます。それは先史時代にしても現代にしても、現生人類社会とは構造的に異なっており、日本語の「渋い」や「間」などと通ずるところがある、と本書は考えています。そこから、定量的手法では把握できないネアンデルタール人社会の生態の特殊性もあるのではないか、と本書は提言しています。ネアンデルタール人社会では技術的表現と芸術的表現が同じ包括点な論理に組み込まれており、芸術が自我の表現や主張でしかない現生人類とは異なる、というわけです。そこから本書は、現生人類集団の創造性はひじょうに表面的かつ人工的で、創造性の分野ではネアンデルタール人の足元にもおよばない、とまで議論を展開します。ただ一方で、世界の物質的合理化の点では、ネアンデルタール人は現生人類より劣っているだろう、とも本書は指摘します。こうした本書の見解は飛ばし過ぎかな、と思うところもありましたが、ネアンデルタール人は聖者や高僧のように夢想し、心のカンバスに絵を描くこともできたが、言語には長けていなかったから、現生人類のように文明を持つ必要がなかった、との『イリヤッド』の設定(関連記事)と通ずるところもあるように思われ、懐かしくなりました。
参考文献:
Gravina B. et al.(2018): No Reliable Evidence for a Neanderthal-Châtelperronian Association at La Roche-à-Pierrot, Saint-Césaire. Scientific Reports, 8, 15134.
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Slimak L.著(2025)、野村真依子訳『裸のネアンデルタール人 人間という存在を解き明かす』(柏書房、原書の刊行は2022年)
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