古代ゲノムから推測される雲南貴州高原への漢文化の拡散

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、古代ゲノムから現在の中国南西部に位置する雲南省から貴州省の高原地帯への漢文化の拡散を推測した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、ヒト起源(Human Origins、略してHO)データセットと124万パネルで遺伝子型決定されたSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)を用いて、貴州省の松山(Songshan)遺跡で発見された宋王朝~明王朝にかけての古代人のゲノムデータを報告し、その遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を検証しています。

 この松山遺跡近世人類集団は、「広西チワン族自治区(以下、広西)」で発見された近い年代のGaoHuaHua集団やBaBanQinCen集団などと、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)やf₄統計や対でのqpWave検定を用いて比較されました。GaoHuaHuaとは、広西チワン族自治区の高峰(Gaofeng)遺跡と花橋(Huaqiao)遺跡と化図岩(Huatuyan)遺跡の明代の人類集団[10]を表します。BaBanQinCenとは、バロン(Balong)遺跡とバンダ(Banda)遺跡とキンチャン(Qinchang)遺跡と岑遜(Cenxun)遺跡の千年紀半ばの古代人集団[10]を表します。これらの結果に基づくと、宋王朝~明王朝にかけての松山遺跡人類集団の遺伝的構成は類似していたものの、明王朝期には外れ値(outlier、略してo)個体も確認されています。宋王朝~明王朝にかけての松山遺跡人類集団の遺伝的構成は近い年代の広西の人類集団[10]とは異なっており、漢文化(漢字文化、中華文化、中国文化)の現在の中国南西部への拡大に人口拡散が伴っていた、と本論文は推測します。

 さらに、松山遺跡人類集団は、広西の隆林洞窟(Longlin Cave)個体によって表される広西祖先系統との有意な遺伝的類似性を示しており、隆林洞窟個体や宝剣山(Baojianshan)洞窟と比較して、とくに独山洞窟(Dushan Cave)個体との遺伝的類似性を示しています。隆林洞窟個体によって表される広西祖先系統は、現代人には明確には伝わっておらず、消滅した可能性が指摘されていましたが[10]、広西祖先系統を17%程度有している、とモデル化されている独山洞窟個体[10]的な遺伝的構成の集団を経て、わずかながら一部の現代人に継承されているかもしれません。


●研究史

 『史記(Records of the Grand Historian)』の歴史的記録およびゲノム証拠によると、漢人の祖先系統は、新石器時代以降黄河流域沿いに居住していた人々である、華夏(Huaxia)人にさかのぼります[1]。この地域から過去2000年間に、漢文化はチベット高原へと西方に、中国南西部へと南方に拡大しました。一方で、漢人集団については、古典的な遺伝的標識およびマイクロサテライト(数塩基の単位配列の繰り返しから構成される反復配列)から、南北の漢人間で分化した集団が観察され、漢人拡大の文化拡散モデルを裏づけているようです。もう一方で、考古学およびゲノム研究から、雑穀農耕人口集団は黄河流域に起源があり、5400年前頃に外部へと拡大し、それはこの地域において、雑穀農耕を広げただけではなく、シナ・チベット語族話者人口集団の形成にも寄与した、と示されています[5]。

 現代の漢人集団のY染色体とミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく研究でも、北方漢人の大規模な移動が漢人集団およびその文化の人口統計学的拡大をもたらした、と示唆されています。さらに、高山(Gaoshan)遺跡および海門口(Haimenkou)遺跡の古代ゲノムに関する先行研究も、黄河流域から中国南西部の四川省および雲南省地域への雑穀農耕文化と人口集団の共拡散モデルを裏づけます[8]。歴史時代においては、記録によると、北方から南方への漢人集団のいくつかの大規模な移住が、現在の南方漢人の遺伝的景観をさらに形成しました。先行研究[10]では、1500~500年前頃の広西の古代人集団が、タイ・カダイ語族およびミャオ・ヤオ語族話者人口集団とより密接な遺伝的つながりを有している、と分かり、中国南西部におけるこれらの人口集団の形成に関する遺伝的証拠を提供します。しかし、これまで、歴史時代の漢文化の影響を含む遺跡からの古代人のゲノムは依然として不足しており、この地域への漢文化の拡大過程に関する包括的な理解を妨げています。


●資料と手法

 本論文は、中国南西部に位置する貴州省の古代人99個体のゲノム規模データを報告します。構成された炭素年代の期間は、990~1649の範囲で、宋王朝から明王朝【の滅亡直後】にまたがっています。本論文の結果は、松山遺跡人口集団が広西の歴史時代の古代の個体群とは異なっていることと、漢人集団で形成された主要な黄河関連祖先系統の遺伝的構成を示しています。これが示唆するのは、漢文化の拡大が漢人集団の移住を伴っていたことです。本論文の結果は、古代ゲノミクスの観点から、中国南西部への漢文化の拡大に関する人口拡散モデルを裏づけます。品質管理後に、古代人57個体が、15964~582350ヶ所(HO)と31116~1192118ヶ所(124万パネル)のSNPで下流分析に用いられました。構成された炭素年代の時間範囲は、宋王朝から明王朝まで約700年間にわたるので、まずさまざまな期間の松山遺跡個体群の遺伝的特性の一貫性が調べられました。


●分析結果

 定性的なPCAとf₄形式(ムブティ人、参照:松山1、松山2)のf₄統計と対でのqpWave検定から得られた結果では、松山遺跡個体群は、明王朝の外れ値の4個体を除いて、類似の遺伝的特性を共有していた、と示唆されます。したがって、以後の分析では、これら松山遺跡の個体群は1人口集団として分析されました。松山遺跡の古代の個体群は3下位集団に区分でき、それは松山と松山_o1と松山_o2です(図1A)。古代の松山遺跡個体群の主要な遺伝的組成を表している松山は、古代の黄河流域人口集団と古代のアジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)人口集団との間に投影され(図1A)、左側では南方漢人(漢人_福建、漢人_広東)、右側では北方漢人(漢人_山東、漢人_山西)の漢人勾配に位置し、貴州省と地理的により近い中央漢人(漢人_湖北、漢人_重慶)とクラスタ化しました(まとまりました)。松山_o2は古代人3個体で構成され、現代のミャオ・ヤオ語族話者人口集団の方とより密接な遺伝的類似性を示し、現在のミャオ・ヤオ語族話者に寄与した、と推測されているGaoHuaHua[10]とクラスタ化しました(図1A)。松山_o1は古代人1個体のみで構成され、松山と松山_o2の間に投影されます。類似のパターンはADMIXTUREの結果および外群f₃分析で観察でき、松山は漢人_湖北および漢人_重慶とより多くの遺伝的浮動を、松山_o2は現代のミャオ・ヤオ語族話者人口集団および古代の広西のGaoHuaHuaとより多くの遺伝的浮動を共有していました。以下は本論文の図1です。
画像

 次に、定量的なf統計に基づくf₄検定およびqpAdm分析を用いて、松山遺跡人口集団の詳細な規模の遺伝的特性が調べられました。まず、松山遺跡人口集団におけるSEA関連の深い祖先系統の遺伝的影響が調べられました。アジア東部の他の古代の個体群と比較して、松山遺跡人口集団はホアビニアン(Hòabìnhian、ホアビン文化)関連狩猟採集民系統と同様の遺伝的類似性を共有しており、それはf₄(ムブティ人、ホアビニアン個体;松山遺跡人口集団、アジア東部古代人)の有意ではないZ得点によって示されます。しかし、松山遺跡人口集団は、古代の広西祖先系統(隆林洞窟個体、宝剣山洞窟個体、独山洞窟個体)、とくに独山洞窟個体[10]との有意な遺伝的類似性を示しており、それはf₄(ムブティ人、広西祖先系統;松山遺跡人口集団、アジア東部古代人)によって示されます。

 さらに、f₄(ムブティ人、松山遺跡人口集団;古代広西1、古代広西2)が実行され、松山遺跡人口集団と最も密接な遺伝的類似性を共有していた古代広西の個体が調べられました。その結果、それぞれ、f₄(ムブティ人、松山遺跡人口集団;独山洞窟個体、隆林洞窟個体/宝剣山洞窟個体)と、f₄(ムブティ人、松山_o2;独山洞窟個体、隆林洞窟個体/宝剣山洞窟個体)によって示されるように、松山と松山_o2が独山洞窟個体と最も密接な遺伝的類似性を共有していました。一方で、、f₄(ムブティ人、松山/松山_o2;宝剣山洞窟個体、隆林洞窟個体)によって示されるように、松山と松山_o2が隆林洞窟個体および宝剣山洞窟個体【によって表される】人口集団と有意ではない遺伝的類似性を示しました。

 そこで、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)黄河上流人口集団(黄河上流_LN)を黄河関連の1供給源として、タイヤル人(Atayal)をSEA関連の1供給源として、古代広西の1供給源として独山洞窟個体を用いて、松山遺跡人口集団がモデル化されました(図1B)。その結果、松山遺跡人口集団は、黄河関連祖先系統から63.6%、SEA関連祖先系統から25.2%、古代広西祖先系統から11.2%が由来する、とモデル化できる、と示されました。松山_o2は古代広西からより多くの祖先系統が由来する、とモデル化でき、黄河関連祖先系統から33.7%、SEA関連祖先系統から40.1%、古代広西関連祖先系統から26.1%となります。松山_o1は古代広西関連祖先系統に由来する祖先系統はない、とモデル化され、黄河関連祖先系統からの65.7%と、SEA関連祖先系統からの34.3%となります。本論文の結果から、宋王朝~明王朝にかけての松山遺跡人口集団はおもに移住してきた漢人集団で構成されており、さまざまな程度で在来祖先系統と混合した、と示唆されます。

 本論文は、ミャオ・ヤオ語族話者の3人口集団、つまり広西の馬江鎮(Majiang)のシェ人(She)と貴州省の冊亨(Ceheng)県のミャオ人(Miao)と貴州省の望謨(Wangmo)県ヤオ人(Yao)、タイ・カダイ語族話者の2人口集団、つまり、貴州省冊亨県のプイ人(Bouyei)と貴州省の平塘(Pingtang)県のマオナン人(Maonan)も報告し、現代の貴州省の民族集団への松山遺跡人口集団の寄与を調べます。PCAの結果では、タイ・カダイ語族話者の2人口集団であるプイ人とマオナン人は、他の現代のタイ・カダイ語族話者人口集団と緊密にクラスタ化し、仮定的なタイ・カダイ語族話者の祖先がその近くに投影されます。ミャオ・ヤオ語族話者の2人口集団であるシェ人_馬江鎮と冊亨_ミャオ人は、現代のミャオ・ヤオ語族話者勾配に投影されます。

 興味深いことに、ミャオ・ヤオ語族話者の望謨_ヤオ人はミャオ・ヤオ語族話者勾配な投影されないものの、タイ・カダイ語族話者クラスタとモン人(Hmong)との間に投影され、プイ人_冊亨やマオナン人_平塘と比較しての、タイ・カダイ語族話者人口集団との密接な遺伝的類似性を示唆しています。f₄(ムブティ人、松山_o2/GaoHuaHua;GaoHuaHua/松山_o2、古代広西)の結果は、PCAで見られる結果と一致して、GaoHuaHuaとの松山_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。そこで、ミャオ・ヤオ語族話者の祖先として松山_o2とGaoHuaHuaを、タイ・カダイ語族話者の祖先として、歴史時代の他の広西の個体群、つまり、腊邑(Layi)遺跡やシェンシアン(Shenxian)遺跡やラセン(Lacen)遺跡イヤン(Yiyang)遺跡の個体とBaBanQinCen集団を用いて、本論文で研究対象の現代の貴州省人口集団の遺伝的特性が調べられました。f₄(ムブティ人、研究対象の現代の貴州省人口集団;タイ・カダイ語族話者の祖先、ミャオ・ヤオ語族話者の祖先)の結果は、ミャオ・ヤオ語族話者のシェ人_馬江鎮やミャオ人_冊亨やヤオ人_望謨とのミャオ・ヤオ語族話者の祖先(GaoHuaHua、松山_o2)の遺伝的類似性、およびタイ・カダイ語族話者のマオナン人_平塘やプイ人_冊亨とのタイ・カダイ語族話者の祖先(イヤン遺跡個体、BaBanQinCen)との遺伝的類似性を示唆します。

 qpAdmによって、研究対象の現代の貴州省人口集団がさらにモデル化されました。ミャオ・ヤオ語族話者のシェ人_馬江鎮およびミャオ人_冊亨はPCAの結果と一致して、モン人関連祖先系統(モン人もしくは松山_o2)に100%由来する、とモデル化できますが、ヤオ人_望謨はPCAの結果と一致して、余分なタイ・カダイ語族話者関連祖先系統を必要としました。タイ・カダイ語族話者のプイ人_冊亨およびマオナン人_平塘の祖先系統は、タイ・カダイ語族話者の祖先かもしれない集団(イヤン遺跡個体によって表されます)からが大半(74.6~80.2%)、残りが黄河関連供給源およびモン人関連供給源に由来します(図1D)。


●まとめ

 本論文は、宋王朝から明王朝にかけての990~1649年にさかのぼる、貴州省の古代の個体群の最初のゲノム規模データを提供します。本論文の結果は、松山遺跡個体群の経時的な遺伝的多様性と一貫性を示し、この地域における長期の安定した社会を示唆しています。黄河関連の遺伝的特性が明らかになり、これは北方から南方への大規模な漢人の移住に関する歴史的記録と一致しており、漢王朝以降の【現在の】中国南西部への漢文化の人口拡散モデルを裏づけます。さらに、ミャオ・ヤオ語族話者関連の松山遺跡集団の祖先系統の現代のタイ・カダイ語族話者およびミャオ・ヤオ語族話者人口集団への遺伝的寄与が観察され、松山遺跡集団の中国南西部の現在の少数民族との遺伝的つながりを提供します。本論文は、歴史時代の貴州省人口集団のゲノム構成への洞察を提供します。


参考文献:
Zhu K. et al.(2024): The demic diffusion of Han culture into the Yunnan-Guizhou plateau inferred from ancient genomes. National Science Review, 11, 12, nwae387.
https://doi.org/10.1093/nsr/nwae387

[1]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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[5]Chen F. et al.(2015): Agriculture facilitated permanent human occupation of the Tibetan Plateau after 3600 BP. Science, 347, 6219, 248-250.
https://doi.org/10.1126/science.1259172
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[8]Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
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[10]Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
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