ユーラシア東部内陸部の鉄器時代以降の人口史
ユーラシア東部内陸部の鉄器時代以降の人類のゲノムデータを報告した研究(Li et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタン中央部の鉄器時代から歴史時代の人類8個体のゲノムデータを報告しています。この8個体のうち7個体は、中華人民共和国の行政区分では新疆ウイグル自治区和静(Hejing)県に位置する、霍爾古(Horgutu)水力発電所墓地(以下、霍爾古墓地)で、1個体は巴達木(Badamu)墓地で発見されました。これら8個体と既知の古代人および現代人のゲノムデータによると、東トルキスタン中央部では鉄器時代と歴史時代との間である程度の遺伝的連続性があり、さらに黄河流域の古代の農耕民と関連する祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が鉄器時代から歴史時代にかけて増加した、と示されました。これは、中原の政治権力の浸透に起因するかもしれません。時代区分の略称は、です。
●要約
中国北西部に位置する新疆の人口集団の遺伝的特性は、青銅器時代以降の地域間の移動と混合によって形成されてきました。しかし、新疆、とくに新疆中央部の詳細で地域内の人口史は、不均一な標本分布のため未解決でした。本論文は、新疆中央部における鉄器時代と歴史時代の間の8個体の古代ゲノムを報告しました。東西の祖先系統特性の勾配、および鉄器時代と歴史時代の新疆中央部の個体間のある程度の遺伝的連続性が観察されました。さらに、これら新疆中央部の個体群には、黄河の古代の農耕民と関連する祖先系統がありました。新疆中央部における黄河農耕民関連祖先系統の時間的変化も特定され、鉄器時代から歴史時代にかけての黄河集団との類似性増加が示されます。この調査結果から、鉄器時時代以降の新疆中央部人口集団の遺伝的構造は、地政学的要因に起因する、中国北部からの移民から生じたかもしれない、と示唆されました。したがって、本論文の結果から、中原の支配の深化に伴う地政学的変化が新疆中央部の遺伝的特性に影響を及ぼした、と示唆されました。
●背景
東トルキスタンは地理的に現在の中華人民共和国の実効支配地域の北西部に位置しており、長く人口や文化や技術や農耕や言語のユーラシアを横断する交流の主要な交差点の一つでした。考古学的調査結果によって示唆されるように、東トルキスタンへの多様な文化的影響は地域や時代によって異なっていました[3]。東トルキスタンは青銅器時代以降、ユーラシア西部草原地帯やアジア中央部やシベリアやアジア北東部やアジア東部と文化的つながりを共有してきました。東トルキスタンに関する最近の古ゲノム研究では、青銅器時代の東トルキスタンの遺伝的歴史は、タリム盆地のロプノール(Lop Nur)地域東部の小河(Xiaohe)の近くで発見された前期~中期青銅器時代の人々によって表される在来の祖先系統(タリム_EMBA)に加えて、ユーラシア西部関連とアジア北東部とアジア中央部からの移住によって強く特徴づけられていた、と示唆されました[4~6]。
先行する青銅器時代と比較して鉄器時代(紀元前800~紀元前200年頃)は、東トルキスタンでは広範な人口移動と文化的変化によって特徴づけられます[4、6]。一方では、ユーラシア草原地帯から興った遊牧民集団が東トルキスタンのさまざまな地域に影響を及ぼしました。そうした集団の一つがスキタイ人で、タガール(Tagar)文化やパジリク(Pazyryk)文化やサカ(Saka)文化などいくつかの人口集団の重要な連合体でした[7~9]。東トルキスタンの考古学的遺跡で発見された鉄器や黒陶や動物模様の木製品は、スキタイ文化と関連していました。一方で、東トルキスタンへのアジア東部からの文化的影響は、青銅器時代よりも顕著で広範でした[3]。現在の中国ほくぶの甘青(Gansu and Qinghai、甘粛および青海、略してGan-Qing)地域の彩陶文化は東トルキスタン東部および遠く東トルキスタン南部へと西方に拡大しました。紀元前200年頃以後、中原の中央集権国家は東トルキスタンへの詩派を深めるために、一連の戦略を採用しました。
古ゲノム研究では、青銅器時代後の東トルキスタンは青銅器時代で特定された遺伝的特性を維持しつつも、草原地帯とアジア中央部とアジア東部の人口集団の移動と混合の増加もあった、と論証されました[4、6]。さらに、古代DNA研究では、トカラ語とコータン語の東トルキスタンへの導入は前期および中期青銅器時代(EMBA)草原地帯牧畜民であるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化および鉄器時代のサカ文化の人口拡大と関連しているかもしれない、と示唆されました[6]。古ゲノム研究は、東トルキスタンの北部と西部の古代人の標本からのデータを提示してきました。しかし、東トルキスタン中央部の古代ゲノムデータの不足のため、文化的および技術的移行に伴う東トルキスタン中央部の複雑な人口統計学的変化は依然として曖昧です。たとえば、アジア東部からの文化的変化の機序は、依然として充分には調べられていません。さらに、東トルキスタンと中原との間の人口集団の相互作用が、東トルキスタンへの中原によって及ぼされた支配の変化に応じて変動したのかどうか、依然として不明です。
この研究は、東トルキスタン中央部に位置する、霍爾古墓地の鉄器時代の7個体と、巴達木墓地の古代人1個体からの古代ゲノムの回収に成功しました。霍爾古墓地の年代、後期青銅器時代(LBA)から鉄器時代です。一般的に、東トルキスタン中央部の鉄器時代の察吾乎溝口(Chawuhu)文化は、の天山山脈南部中央の代表的な彩陶文化の一つと考えられています。片耳付流彩素焼鉢は、察吾乎溝口文化の特徴です。霍爾古墓地の回収された土器には、片耳付流彩素焼鉢が含まれていました。したがって、霍爾古墓地は鉄器時代の察吾乎溝口文化と関連している、と考えられています。巴達木墓地は東トルキスタン中央部のトルファン市の歴史時代の墓です。この墓群は、アジア東部および中央部とヨーロッパからの複数の文化的特徴を示します。とりわけ注目すべきことに、唐代の開元通宝(Kaiyuan Tongbao)や絹絵やローマの偽金貨やサーサーン朝の銀貨などがあります。霍爾古墓地と巴達木墓地群からのヒト標本の回収は、東トルキスタン中央部の遺伝的歴史の調査、および彩陶文化の拡大もしくは東トルキスタンへの支配の強化が人口移動につながったのかどうかの回答に、資料を提供します。
●古代DNAデータの生成
まず、歯もしくは側頭骨の錐体部から古代の個体で二本鎖DNAライブラリが構築されました。東トルキスタン中央部の古代人16個体が、浅いショットガン配列決定によって検査されました。DNAの充分な保存状態の8個体が得られ、その範囲は3.68~70.21%です。全標本が、古代DNAの特徴的な死後損傷パターンを示しました。このライブラリは低水準の現代人の汚染を示し、全個体のミトコンドリアの推定値では2%未満、全男性の核DNAの推定値では5%未満でした。どの個体も密接な親族関係を共有していませんでした。疑似半数体遺伝子型は、124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)およびアフィメトリクス(Affymetrix)社のヒト起源(Human Origins、略してHO)パネルで呼び出されました[22]。結果として古代人8個体は、124万パネルでは85074~941368ヶ所のSNP、HOパネルでは44522~480931ヶ所のSNPを網羅しました。次に、さらなる分析のため、この新たなデータが2点の参照データセットと統合されました。まず、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が明らかにしたように、年代と考古学的背景と遺伝的特性に基づいて、集団単位の分析のために古代の個体群が分類されました。
●東トルキスタン中央部の古代の個体群の全体的な遺伝的構造
PCAがまず実行され、さまざまなユーラシア人との東トルキスタン中央部の古代の個体群の全体的な遺伝的構造が調べられました(図1b)。ユーラシアの東西間およびアジア東部の南北間で明確な分離が観察されました。本論文で新たに報告される霍爾古墓地個体群は、ユーラシア東西の遺伝的勾配に位置し、2クラスタ(まとまり)に分かれました。一方のクラスタはユーラシア西部人の方へと動いており、もう一方は古代のモンゴル高原北部および西部の人口集団とクラスタ化しました(まとまりました)。巴達木墓地の1個体はアジア東部北方人、とくに黄河地域の古代の個体群とクラスタ化しました。本論文の研究対象の古代の個体群の遺伝的構造は、モデルに基づく教師無ADMIXTURE分析で再現されました(図1c)。異なる5祖先系統が対象のユーラシア人口集団を構成していた、と仮定すると、霍爾古墓地の標本は、東トルキスタン_IA8_aEA(East Asia-affinity、アジア東部との類似性)や石人子溝(Shirenzigou)遺跡の前期鉄器時代個体(東トルキスタン_EIA_石人子溝_1D)と類似したユーラシア東西の混合した遺伝的特性を示しました。以下は本論文の図1です。
霍爾古墓地個体群の片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)系統も、ユーラシア東西の混合した祖先系統を示しました。霍爾古墓地個体群の主要なミトコンドリアDNA(mtDNA)ははユーラシア西部に固有のハプログループ(mtHg)D4およびG2aで、現代および古代のユーラシア西部人口集団で一般的に見られるmtHg-U5もありました。霍爾古墓地個体群の父系のY染色体ハプログループ(YHg)には、アジア北部で優勢なQ1aとEMBAの草原地帯特有のR1bが含まれていました。巴達木墓地の1個体は黄河上流~中流域の古代人(黄河_LNと黄河_LBIAと黄河上流_IAによって表されます)と類似の遺伝的特性を示し、この1個体で見られるYHg-O2a2と一致しました。考古学的年代および遺伝的差異を考慮して、追跡分析のため、霍爾古墓地個体群は下位の2群(東トルキスタン_霍爾古_EIA、東トルキスタン_霍爾古_IA)に再分類されました。
●霍爾古墓地における時間的変化
何世紀にもわたる霍爾古墓地における遺伝的差異を調べるために、f₄形式(ムブティ人、参照人口集団;東トルキスタン_霍爾古_EIA、東トルキスタン_霍爾古_IA)の対でのf₄統計が実行され(図2a)、参照人口集団にはユーラシアの95の現代および古代の人口集団が含まれました。その結果、霍爾古墓地の2群間で有意な遺伝的差異が観察されました。東トルキスタン_霍爾古_EIAは、ユーラシア西部草原地帯牧畜民、アナトリア_N、ユーラシア西部草原地帯集団と関連する祖先系統を有していたヨーロッパ人口集団と、より多くのアレル(対立遺伝子)を共有していました。東トルキスタン_霍爾古_IAは、東トルキスタン_霍爾古_EIAと比較して、ANA(Ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)および古代黄河集団と余分な遺伝的類似性を共有していました。以下は本論文の図2です。
f統計を用いて、霍爾古墓地標本とユーラシア古代人との間の遺伝的類似性がさらに定量化されました。f₃形式(東トルキスタン_霍爾古_EIA/東トルキスタン_霍爾古_IA、ユーラシア古代人;ムブティ人)の外群f₃統計では、霍爾古墓地個体群は、カザフスタンのボタイ(Botai)文化と関連するウマを飼育していたタリム盆地の青銅器時代牧畜民(タリム_EMBA)など、ANE(Ancient North Eurasian、古代北ユーラシア人)祖先系統の水準が増加している人口集団と最高水準の遺伝的浮動を共有していた、と示されました。この遺伝的類似性は、f₄(ムブティ人、東トルキスタン_霍爾古_EIA/東トルキスタン_霍爾古_IA;X、Y)でさらに確証されました。XもしくはYがタリム_EMBAかボタイ文化集団だった場合に、有意なf₄値が観察されました。外群f₃統計も、霍爾古墓地標本が西方草原地帯牧畜民もしくはジュンガリア_EBAや東トルキスタン_BA3などの東トルキスタン人口集団と多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示しました。
そこで、これらANE関連人口集団を用いて、霍爾古墓地個体群がモデル化されました。ANE祖先系統を補完するためにまず、バイカル湖地域のシャマンカ(Shamanka)遺跡の青銅器時代個体(シャマンカ_EBA)や北モンゴル_Nやロシア極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡の個体(悪魔の門_N)や黄河上流_LNなどのユーラシア東部人、および西方草原地帯牧畜民もしくはアジア中央部のBMAC(Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合)とインダス川流域人口集団が、可能性のある祖先系統供給源として含められました。3方向モデルは霍爾古墓地集団では適切に機能せず、ANE関連人口集団からの寄与は負でした。ANEとの高い遺伝的類似性を説明するために、祖先の供給源としてユーラシア東部人と西方草原地帯牧畜民とアジア中央部人が用いられました。その結果、東トルキスタン_霍爾古_EIAのみが、ANE関連人口集団を外群に追加した場合に、ユーラシア東部人と西方草原地帯牧畜民とアジア中央部人の3方向モデルによって説明できる、と分かりました。これは、ANE関連祖先系統からの直接的な寄与ではなく、ANEとの深い類似性の反映として解釈されました。霍爾古墓地集団の東西の混合特性を調べるために、「基本外群一式」に基づく3方向モデルが使用されました(図3)。以下は本論文の図3です。
霍爾古墓地集団のユーラシア西部祖先系統は、アンドロノヴォ(Andronovo)文化集団やシンタシュタ(Sintashta)文化集団など中期および後期青銅器時代(MLBA)の西方草原地帯牧畜民からの32~44%と、トルクメニスタンのゴヌルテペ(Gonur Tepe)遺跡の青銅器時代個体(トルクメニスタン_ゴヌル_BA_2)などのアジア中央部人関連人口集団からの約34~58%に由来した、と観察されました。ANA関連祖先系統と黄河関連祖先系統の両方が、霍爾古墓地集団のユーラシア東部関連祖先系統を説明できます。ユーラシア東部関連祖先系統の範囲は、さまざまなモデル化で9~25%でした。DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)の結果から、霍爾古墓地個体群の初期の東西の混合事象は3000年前頃に起きた、と示唆されました。アジア中央部関連祖先系統との混合の発生時期は、西方草原地帯関連祖先系統との混合時期のわずかに後でした。霍爾古墓地の2集団について計算された混合年代間には、時間的隔たりが存在しました。しかし、これは、3300~2300年前頃の間に混合事象が2回のみ起きたことを意味しません。一般的に、実際の混合事象は連続的だった可能性があるのに対して、DATESソフトウェアは人口集団内の平均混合時期のみを推定します。
鉄器時代の前の供給源からの遠位qpAdmモデル化が、霍爾古墓地個体群における、ユーラシア西部関連祖先系統の優勢と最小限のユーラシア東部関連祖先系統を示唆しているのに対して、霍爾古墓地における青銅器時代後の近位モデル化では、異なる2期間を表している2種類の代替モデルが得られます。代替モデルでは、天山のサカ文化個体が東トルキスタン_霍爾古_EIAを説明するのに不充分だったのに対して、東トルキスタン_霍爾古_IAは黄河上流_IAからの追加の祖先系統(約11.2%)を必要とする、と示唆されました。さらに、東トルキスタン_霍爾古_EIAは東トルキスタン_LBA1と天山_サカの2方向混合としてモデル化できます。結論として、本論文で新たに提示された霍爾古墓地個体群は天山のサカ文化集団から同様にモデル化できます。
●鉄器時代から歴史時代の東トルキスタン中央部のアジア東部祖先系統の増加
歴史時代の東トルキスタン中央部の全体的な遺伝的構造を調べるために、東トルキスタン中央部のバイゴリン(Bayinguoleng)地域の刊行されている2個体[6]、つまりXXKD(Xikakandasayi)遺跡の個体(XXKD_HE)とXSQG(Xianshuiquangucheng)遺跡の個体(XSQG_HE)も含められました。PCAとADMIXTUREの結果(図1)では、歴史時代の巴達木墓地の1個体(東トルキスタン_巴達木_HE)は黄河の古代人集団とクラスタ化した(まとまった)、と分かりました。外群f₃統計も、東トルキスタン_巴達木_HEと、古代の黄河流域および西遼河(West Liao River、略してWLR)の人口集団、とくに黄河_LBIAと黄河_LNによって表される黄河中流域集団との高い遺伝的類似性を示しました。さらに、東トルキスタン_巴達木_HEと黄河および西遼河の古代の人口集団との間の遺伝的均質性は、有意ではない、f₄(ムブティ人、X;東トルキスタン_巴達木_HE、黄河/西遼河集団)と、負のf₄(ムブティ人、東トルキスタン_巴達木_HE;X、黄河/西遼河集団)と対でのqpWave分析(図2b)で裏づけられ、例外は陝西省の石峁(Shimao)遺跡の後期新石器時代個体(石峁_LN)です。単一供給源としてWLR_LNかWLR_BAか黄河_LNか黄河_LBIAか黄河上流_IAを用いて、本論文の1方向モデルの堅牢性を検証するために、負のf₄(ムブティ人、X;東トルキスタン_巴達木_HE、WLR_LN/WLR_BA/黄河_LN/黄河_LBIA/黄河上流_IA)で特定された参照人口集団のそれぞれが、qpAdm分析の外群一覧にさらに追加されました。その結果、すべての1方向モデルが依然として良好に適合する、と分かりました。東トルキスタン_巴達木_HEと古代の黄河および西遼河の農耕民との間の遺伝的均質性は、循環qpAdm分析でもさらに証明されました。したがって、東トルキスタン_巴達木_HEは中国北部からの農耕移民の混合していない子孫だった、と推測されました。
さらに、他の歴史時代の東トルキスタン中央部の個体で、アジア東部との遺伝的類似性の増加が見つかりました。まず観察されたのは、XXKD_HEとXSQG_HEが外群f₃統計では、アジア東部人とのより高い類似性を有する、西遼河人口集団やモンゴル高原の古代人集団や東トルキスタンの古代人集団など、アジア東部北方古代人とより高い類似性を示したことです。先行する東トルキスタン中央部集団(つまり、東トルキスタン_霍爾古_IA)と比較すると、正のf₄(ムブティ人、アジア東部古代人;東トルキスタン_霍爾古_IA、XXKD_HE/XSQG_HE)で示されるように、XXKD_HEとXSQG_HEは東トルキスタン_霍爾古_IAよりもアジア東部古代人の方と多くのアレルを共有していました。QpAdmの結果は、歴史時代の東トルキスタン中央部人口集団におけるアジア東部との類似性増加を裏づけました(図3)。XXKD_HEとXSQG_HEは両方とも、祖先系統の大半(約76~85%)が鉄器時代の東トルキスタン中央部の人口集団と関連する集団(東トルキスタン_霍爾古_EIAもしくは東トルキスタン_霍爾古_IAによって表されます)に、残りの祖先系統(約15~24%)は黄河の古代人集団(黄河_LBIAと黄河上流_IAによって表されます)の祖先系統に由来する、とモデル化できます。さらに、初期の匈奴_西部もしくは天山_サカの黄河_LBIAもしくは黄河上流_IAでの代替的な2方向モデルは、歴史時代の東トルキスタン中央部人口集団で機能しました。
●考察
東トルキスタンの考古学的調査結果から、青銅器時代後の東トルキスタンはユーラシア東西の人々の混合した連合だった、と示唆されてきました。先行研究は、青銅器時代後の東トルキスタン人口集団の高い移動性と混合を明らかにしました[4、6]。青銅器時代後の東トルキスタンの遺伝子プールは、タリム_EMBA1によって表される在来の祖先系統と、西方草原地帯牧畜民ややアジア中央部人やANAやアジア東部人と関連する祖先系統を含めて、さまざまな祖先系統によって形成されました[6]。しかし、地域的な東トルキスタンの詳細な遺伝的歴史は、とくに東トルキスタン中央部において依然として未解明です。本論文は、東トルキスタン中央部の鉄器時代と歴史時代の8個体のゲノム規模データを提示しました。本論文のデータは、鉄器時代の東トルキスタン個体群の遺伝的特性によって特徴づけられる、ユーラシア東西の混合パターンを示しました。鉄器時代の東トルキスタン個体群は、そのユーラシア西部祖先系統がMLBAの西方草原地帯牧畜民(約32~44%)とアジア中央部のインダス川流域集団(約34~58%)に、ユーラシア東部祖先系統がANAもしくは黄河人口集団(約10~25%)に由来します。したがって、この結果から、西方草原地帯とアジア中央部とユーラシア東部から侵入してきた祖先系統は、鉄器時代の東トルキスタン中央部人口集団の遺伝的構成を形成し続けている、と示唆されました。さらに、歴史時代の東トルキスタン中央部個体群の分析によって、東トルキスタン中央部の混合した祖先系統におけるある程度の遺伝的連続性が見つかりました。歴史時代の東トルキスタン中央部個体群は、その祖先系統の大半(約76~85%)が東トルキスタン_霍爾古_EIAもしくは東トルキスタン_霍爾古_IAに、残り(約15~24%)が黄河集団に由来する、とモデル化できます。
鉄器時代にはユーラシア草原地帯の牧畜民が出現し、つまりは西方および中央草原地帯のスキタイ人と、東方草原地帯の匈奴です。中央草原地帯は複数の遊牧民政権の人口拡大の中心地として機能しました。これらの事象には近隣の東トルキスタンが含まれ、東トルキスタン中央部の人口史に大きな影響を及ぼしました。考古学的調査結果、つまり東トルキスタンにおける中央部の蘇貝希(Subeixi)文化と南部のツァグンルケ(Zhagunluke、扎滾魯克)文化は、スキタイ人との密接な文化的つながりを示しました。本論文ではデータから、鉄器時代と歴史時代の東トルキスタン人口集団は天山のサカ文化集団から同様にモデル化される、と示されました。霍爾古墓地個体群の祖先系統は、約89~100%が天山のサカ文化集団と関連する祖先系統(キルギス_天山サカによって表されます)に、最大で約11%が黄河の古代人集団と関連する祖先系統(黄河上流_IA)に由来するとモデル化できる、と分かりました。したがって、鉄器時代の霍爾古墓地人口集団のユーラシア西部関連祖先系統は、主要な祖先系統が西方草原地帯かアジア中央部のBMACかインダス川流域と関連する人口集団に由来した、サカ文化集団の遺伝的導入にまでさかのぼるかもしれません[7、8]。一方で、歴史時代の東トルキスタン中央部個体群については、天山のサカ文化集団および古代黄河集団の組み合わせでの適したモデルも許容できました。本論文の結果から、スキタイ人の南方への移動が東トルキスタン中央部人口集団の遺伝子プールに影響を及ぼした、と示唆されました。初期匈奴_西部と黄河_LBIAもしくは黄河上流_IAの代替モデルは、XXKD_HEとXSQG_HEに適合モデルを提供しました。したがって、鉄器時代の草原地帯祖先系統の代理は、東トルキスタンへの匈奴の拡大および4~5世紀のフン・スキタイ人の形成と一致しました[7]。
文化伝播と経済交流と政治方針は、人口移動を促進するかもしれません。東トルキスタン地域の考古学的調査結果によると、甘青地域の彩陶の西方への拡大は鉄器時代以降に東トルキスタンのほとんどの地域に影響を及ぼしており[3]、この文化伝播は霍爾古墓地でも示されました。鉄器時代の東トルキスタン中央部の個体群は黄河上流の古代の農耕民と関連する祖先系統を有していたので、本論文の結果は東トルキスタン中央部への甘青地域の彩陶文化と人口の拡大の共拡散モデルを裏づけました。さらに、東トルキスタンと絹の道(シルクロード)の支配は、中原と東トルキスタンとの間の経済的および人口統計学的交流を促進しました。考古学および頭蓋顔面の研究も、中原と東トルキスタンとの間の密接なつながりを証明してきました。たとえば、中原からの移住は巴達木墓地群で観察されました。さらに、東トルキスタン東部の昌吉(Changji)市の石城子(Shichengzi)遺跡における古遺伝学的研究は、漢王朝期の東トルキスタンにおける中国北部からの移民の存在を明らかにしました[33]。本論文の結果は、中原から東トルキスタンへの移住を再確証しました。
さらに、東トルキスタン中央部における黄河農耕民と関連する祖先系統の時間的変化が観察されました。後期鉄器時代の霍爾古墓地個体群は、前期鉄器時代の霍爾古墓地個体群と比較すると、黄河人口集団と関連する祖先系統の水準が増加していました。比較すると、黄河農耕民関連祖先系統の割合は、後期鉄器時代の霍爾古墓地個体群よりも歴史時代の東トルキスタン中央部の個体群の方で高くなりました。歴史時代の東トルキスタン中央部において、黄河もしくは西遼河からの農耕移民の子孫も確認されました。本論文の結果から、中国北部の遺伝的影響の増加はおそらく、中原と東トルキスタンとの間のつながりの深化を反映していた、と示唆されました。中原の中央集権国家は、漢王朝以降に東トルキスタンへの支配を深める、一連の戦略を採用しました。政治的支配には、屯田(agricultural garrison、tun tian)と紀元前1世紀後の西方辺境司令部の設立が含まれていました。漢王朝の後の中原の王朝は、北庭鎮および北庭大都護府(Anxi and Beiting Frontier Commands)や易州(Yizhou)県や西州(Xizhou)県や汀州(Tingzhou)県の設置によって、東トルキスタンの統治を拡大しました。強化された支配は東トルキスタンにおいて、中原からの古代漢人【漢人という枠組みを紀元前千年紀や千年紀にさかのぼらせてよいのか、疑問もありますが】の移住と定住につながりました。結論として、東トルキスタン中央部における経時的な黄河関連祖先系統の増加が見つかりました。本論文の結果から、東トルキスタンにおける統治の強化は東トルキスタン中央部への中原の遺伝的影響を促進した、と裏づけられました。
●まとめ
本論文は、東トルキスタン中央部の鉄器時代および歴史時代の8個体の古代ゲノムを報告し、東トルキスタンの地域的な詳しい遺伝的歴史を補完しました。鉄器時代の霍爾古墓地では、西方草原地帯とアジア中央部とアジア東部関連のユーラシア東西の混合した祖先系統特性が観察されました。一方で、鉄器時代の匈奴もしくはサカ文化集団と東トルキスタン中央部の歴史時代の人口集団での近位混合モデルから、匈奴の東トルキスタンへの拡大とフン・スキタイ人の形成がユーラシア西部関連祖先系統の供給源を説明できるかもしれない、と示唆されました。より重要なことに、本論文の結果は、鉄器時代から歴史時代までの東トルキスタン中央部における黄河農耕民関連祖先系統の増加を確認しました。これが示唆したのは、人口拡大を伴う中国北部の農耕文化の拡大と東トルキスタンの中原支配の深化が、東トルキスタン中央部の遺伝的歴史に影響を及ぼしたことです。しかし、東トルキスタン中央部の不充分な標本規模および考古学的遺跡の包含を含めて一定の限界が認められ、これでは、東トルキスタンの小さな地域における遺伝的歴史の時間的変化を垣間見ただけです。東トルキスタンおよび周辺の甘青地域にまたがる、長期にわたる古代ゲノムの将来の研究が必要です。
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●要約
中国北西部に位置する新疆の人口集団の遺伝的特性は、青銅器時代以降の地域間の移動と混合によって形成されてきました。しかし、新疆、とくに新疆中央部の詳細で地域内の人口史は、不均一な標本分布のため未解決でした。本論文は、新疆中央部における鉄器時代と歴史時代の間の8個体の古代ゲノムを報告しました。東西の祖先系統特性の勾配、および鉄器時代と歴史時代の新疆中央部の個体間のある程度の遺伝的連続性が観察されました。さらに、これら新疆中央部の個体群には、黄河の古代の農耕民と関連する祖先系統がありました。新疆中央部における黄河農耕民関連祖先系統の時間的変化も特定され、鉄器時代から歴史時代にかけての黄河集団との類似性増加が示されます。この調査結果から、鉄器時時代以降の新疆中央部人口集団の遺伝的構造は、地政学的要因に起因する、中国北部からの移民から生じたかもしれない、と示唆されました。したがって、本論文の結果から、中原の支配の深化に伴う地政学的変化が新疆中央部の遺伝的特性に影響を及ぼした、と示唆されました。
●背景
東トルキスタンは地理的に現在の中華人民共和国の実効支配地域の北西部に位置しており、長く人口や文化や技術や農耕や言語のユーラシアを横断する交流の主要な交差点の一つでした。考古学的調査結果によって示唆されるように、東トルキスタンへの多様な文化的影響は地域や時代によって異なっていました[3]。東トルキスタンは青銅器時代以降、ユーラシア西部草原地帯やアジア中央部やシベリアやアジア北東部やアジア東部と文化的つながりを共有してきました。東トルキスタンに関する最近の古ゲノム研究では、青銅器時代の東トルキスタンの遺伝的歴史は、タリム盆地のロプノール(Lop Nur)地域東部の小河(Xiaohe)の近くで発見された前期~中期青銅器時代の人々によって表される在来の祖先系統(タリム_EMBA)に加えて、ユーラシア西部関連とアジア北東部とアジア中央部からの移住によって強く特徴づけられていた、と示唆されました[4~6]。
先行する青銅器時代と比較して鉄器時代(紀元前800~紀元前200年頃)は、東トルキスタンでは広範な人口移動と文化的変化によって特徴づけられます[4、6]。一方では、ユーラシア草原地帯から興った遊牧民集団が東トルキスタンのさまざまな地域に影響を及ぼしました。そうした集団の一つがスキタイ人で、タガール(Tagar)文化やパジリク(Pazyryk)文化やサカ(Saka)文化などいくつかの人口集団の重要な連合体でした[7~9]。東トルキスタンの考古学的遺跡で発見された鉄器や黒陶や動物模様の木製品は、スキタイ文化と関連していました。一方で、東トルキスタンへのアジア東部からの文化的影響は、青銅器時代よりも顕著で広範でした[3]。現在の中国ほくぶの甘青(Gansu and Qinghai、甘粛および青海、略してGan-Qing)地域の彩陶文化は東トルキスタン東部および遠く東トルキスタン南部へと西方に拡大しました。紀元前200年頃以後、中原の中央集権国家は東トルキスタンへの詩派を深めるために、一連の戦略を採用しました。
古ゲノム研究では、青銅器時代後の東トルキスタンは青銅器時代で特定された遺伝的特性を維持しつつも、草原地帯とアジア中央部とアジア東部の人口集団の移動と混合の増加もあった、と論証されました[4、6]。さらに、古代DNA研究では、トカラ語とコータン語の東トルキスタンへの導入は前期および中期青銅器時代(EMBA)草原地帯牧畜民であるアファナシェヴォ(Afanasievo)文化および鉄器時代のサカ文化の人口拡大と関連しているかもしれない、と示唆されました[6]。古ゲノム研究は、東トルキスタンの北部と西部の古代人の標本からのデータを提示してきました。しかし、東トルキスタン中央部の古代ゲノムデータの不足のため、文化的および技術的移行に伴う東トルキスタン中央部の複雑な人口統計学的変化は依然として曖昧です。たとえば、アジア東部からの文化的変化の機序は、依然として充分には調べられていません。さらに、東トルキスタンと中原との間の人口集団の相互作用が、東トルキスタンへの中原によって及ぼされた支配の変化に応じて変動したのかどうか、依然として不明です。
この研究は、東トルキスタン中央部に位置する、霍爾古墓地の鉄器時代の7個体と、巴達木墓地の古代人1個体からの古代ゲノムの回収に成功しました。霍爾古墓地の年代、後期青銅器時代(LBA)から鉄器時代です。一般的に、東トルキスタン中央部の鉄器時代の察吾乎溝口(Chawuhu)文化は、の天山山脈南部中央の代表的な彩陶文化の一つと考えられています。片耳付流彩素焼鉢は、察吾乎溝口文化の特徴です。霍爾古墓地の回収された土器には、片耳付流彩素焼鉢が含まれていました。したがって、霍爾古墓地は鉄器時代の察吾乎溝口文化と関連している、と考えられています。巴達木墓地は東トルキスタン中央部のトルファン市の歴史時代の墓です。この墓群は、アジア東部および中央部とヨーロッパからの複数の文化的特徴を示します。とりわけ注目すべきことに、唐代の開元通宝(Kaiyuan Tongbao)や絹絵やローマの偽金貨やサーサーン朝の銀貨などがあります。霍爾古墓地と巴達木墓地群からのヒト標本の回収は、東トルキスタン中央部の遺伝的歴史の調査、および彩陶文化の拡大もしくは東トルキスタンへの支配の強化が人口移動につながったのかどうかの回答に、資料を提供します。
●古代DNAデータの生成
まず、歯もしくは側頭骨の錐体部から古代の個体で二本鎖DNAライブラリが構築されました。東トルキスタン中央部の古代人16個体が、浅いショットガン配列決定によって検査されました。DNAの充分な保存状態の8個体が得られ、その範囲は3.68~70.21%です。全標本が、古代DNAの特徴的な死後損傷パターンを示しました。このライブラリは低水準の現代人の汚染を示し、全個体のミトコンドリアの推定値では2%未満、全男性の核DNAの推定値では5%未満でした。どの個体も密接な親族関係を共有していませんでした。疑似半数体遺伝子型は、124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)およびアフィメトリクス(Affymetrix)社のヒト起源(Human Origins、略してHO)パネルで呼び出されました[22]。結果として古代人8個体は、124万パネルでは85074~941368ヶ所のSNP、HOパネルでは44522~480931ヶ所のSNPを網羅しました。次に、さらなる分析のため、この新たなデータが2点の参照データセットと統合されました。まず、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が明らかにしたように、年代と考古学的背景と遺伝的特性に基づいて、集団単位の分析のために古代の個体群が分類されました。
●東トルキスタン中央部の古代の個体群の全体的な遺伝的構造
PCAがまず実行され、さまざまなユーラシア人との東トルキスタン中央部の古代の個体群の全体的な遺伝的構造が調べられました(図1b)。ユーラシアの東西間およびアジア東部の南北間で明確な分離が観察されました。本論文で新たに報告される霍爾古墓地個体群は、ユーラシア東西の遺伝的勾配に位置し、2クラスタ(まとまり)に分かれました。一方のクラスタはユーラシア西部人の方へと動いており、もう一方は古代のモンゴル高原北部および西部の人口集団とクラスタ化しました(まとまりました)。巴達木墓地の1個体はアジア東部北方人、とくに黄河地域の古代の個体群とクラスタ化しました。本論文の研究対象の古代の個体群の遺伝的構造は、モデルに基づく教師無ADMIXTURE分析で再現されました(図1c)。異なる5祖先系統が対象のユーラシア人口集団を構成していた、と仮定すると、霍爾古墓地の標本は、東トルキスタン_IA8_aEA(East Asia-affinity、アジア東部との類似性)や石人子溝(Shirenzigou)遺跡の前期鉄器時代個体(東トルキスタン_EIA_石人子溝_1D)と類似したユーラシア東西の混合した遺伝的特性を示しました。以下は本論文の図1です。
霍爾古墓地個体群の片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)系統も、ユーラシア東西の混合した祖先系統を示しました。霍爾古墓地個体群の主要なミトコンドリアDNA(mtDNA)ははユーラシア西部に固有のハプログループ(mtHg)D4およびG2aで、現代および古代のユーラシア西部人口集団で一般的に見られるmtHg-U5もありました。霍爾古墓地個体群の父系のY染色体ハプログループ(YHg)には、アジア北部で優勢なQ1aとEMBAの草原地帯特有のR1bが含まれていました。巴達木墓地の1個体は黄河上流~中流域の古代人(黄河_LNと黄河_LBIAと黄河上流_IAによって表されます)と類似の遺伝的特性を示し、この1個体で見られるYHg-O2a2と一致しました。考古学的年代および遺伝的差異を考慮して、追跡分析のため、霍爾古墓地個体群は下位の2群(東トルキスタン_霍爾古_EIA、東トルキスタン_霍爾古_IA)に再分類されました。
●霍爾古墓地における時間的変化
何世紀にもわたる霍爾古墓地における遺伝的差異を調べるために、f₄形式(ムブティ人、参照人口集団;東トルキスタン_霍爾古_EIA、東トルキスタン_霍爾古_IA)の対でのf₄統計が実行され(図2a)、参照人口集団にはユーラシアの95の現代および古代の人口集団が含まれました。その結果、霍爾古墓地の2群間で有意な遺伝的差異が観察されました。東トルキスタン_霍爾古_EIAは、ユーラシア西部草原地帯牧畜民、アナトリア_N、ユーラシア西部草原地帯集団と関連する祖先系統を有していたヨーロッパ人口集団と、より多くのアレル(対立遺伝子)を共有していました。東トルキスタン_霍爾古_IAは、東トルキスタン_霍爾古_EIAと比較して、ANA(Ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)および古代黄河集団と余分な遺伝的類似性を共有していました。以下は本論文の図2です。
f統計を用いて、霍爾古墓地標本とユーラシア古代人との間の遺伝的類似性がさらに定量化されました。f₃形式(東トルキスタン_霍爾古_EIA/東トルキスタン_霍爾古_IA、ユーラシア古代人;ムブティ人)の外群f₃統計では、霍爾古墓地個体群は、カザフスタンのボタイ(Botai)文化と関連するウマを飼育していたタリム盆地の青銅器時代牧畜民(タリム_EMBA)など、ANE(Ancient North Eurasian、古代北ユーラシア人)祖先系統の水準が増加している人口集団と最高水準の遺伝的浮動を共有していた、と示されました。この遺伝的類似性は、f₄(ムブティ人、東トルキスタン_霍爾古_EIA/東トルキスタン_霍爾古_IA;X、Y)でさらに確証されました。XもしくはYがタリム_EMBAかボタイ文化集団だった場合に、有意なf₄値が観察されました。外群f₃統計も、霍爾古墓地標本が西方草原地帯牧畜民もしくはジュンガリア_EBAや東トルキスタン_BA3などの東トルキスタン人口集団と多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた、と示しました。
そこで、これらANE関連人口集団を用いて、霍爾古墓地個体群がモデル化されました。ANE祖先系統を補完するためにまず、バイカル湖地域のシャマンカ(Shamanka)遺跡の青銅器時代個体(シャマンカ_EBA)や北モンゴル_Nやロシア極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡の個体(悪魔の門_N)や黄河上流_LNなどのユーラシア東部人、および西方草原地帯牧畜民もしくはアジア中央部のBMAC(Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合)とインダス川流域人口集団が、可能性のある祖先系統供給源として含められました。3方向モデルは霍爾古墓地集団では適切に機能せず、ANE関連人口集団からの寄与は負でした。ANEとの高い遺伝的類似性を説明するために、祖先の供給源としてユーラシア東部人と西方草原地帯牧畜民とアジア中央部人が用いられました。その結果、東トルキスタン_霍爾古_EIAのみが、ANE関連人口集団を外群に追加した場合に、ユーラシア東部人と西方草原地帯牧畜民とアジア中央部人の3方向モデルによって説明できる、と分かりました。これは、ANE関連祖先系統からの直接的な寄与ではなく、ANEとの深い類似性の反映として解釈されました。霍爾古墓地集団の東西の混合特性を調べるために、「基本外群一式」に基づく3方向モデルが使用されました(図3)。以下は本論文の図3です。
霍爾古墓地集団のユーラシア西部祖先系統は、アンドロノヴォ(Andronovo)文化集団やシンタシュタ(Sintashta)文化集団など中期および後期青銅器時代(MLBA)の西方草原地帯牧畜民からの32~44%と、トルクメニスタンのゴヌルテペ(Gonur Tepe)遺跡の青銅器時代個体(トルクメニスタン_ゴヌル_BA_2)などのアジア中央部人関連人口集団からの約34~58%に由来した、と観察されました。ANA関連祖先系統と黄河関連祖先系統の両方が、霍爾古墓地集団のユーラシア東部関連祖先系統を説明できます。ユーラシア東部関連祖先系統の範囲は、さまざまなモデル化で9~25%でした。DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)の結果から、霍爾古墓地個体群の初期の東西の混合事象は3000年前頃に起きた、と示唆されました。アジア中央部関連祖先系統との混合の発生時期は、西方草原地帯関連祖先系統との混合時期のわずかに後でした。霍爾古墓地の2集団について計算された混合年代間には、時間的隔たりが存在しました。しかし、これは、3300~2300年前頃の間に混合事象が2回のみ起きたことを意味しません。一般的に、実際の混合事象は連続的だった可能性があるのに対して、DATESソフトウェアは人口集団内の平均混合時期のみを推定します。
鉄器時代の前の供給源からの遠位qpAdmモデル化が、霍爾古墓地個体群における、ユーラシア西部関連祖先系統の優勢と最小限のユーラシア東部関連祖先系統を示唆しているのに対して、霍爾古墓地における青銅器時代後の近位モデル化では、異なる2期間を表している2種類の代替モデルが得られます。代替モデルでは、天山のサカ文化個体が東トルキスタン_霍爾古_EIAを説明するのに不充分だったのに対して、東トルキスタン_霍爾古_IAは黄河上流_IAからの追加の祖先系統(約11.2%)を必要とする、と示唆されました。さらに、東トルキスタン_霍爾古_EIAは東トルキスタン_LBA1と天山_サカの2方向混合としてモデル化できます。結論として、本論文で新たに提示された霍爾古墓地個体群は天山のサカ文化集団から同様にモデル化できます。
●鉄器時代から歴史時代の東トルキスタン中央部のアジア東部祖先系統の増加
歴史時代の東トルキスタン中央部の全体的な遺伝的構造を調べるために、東トルキスタン中央部のバイゴリン(Bayinguoleng)地域の刊行されている2個体[6]、つまりXXKD(Xikakandasayi)遺跡の個体(XXKD_HE)とXSQG(Xianshuiquangucheng)遺跡の個体(XSQG_HE)も含められました。PCAとADMIXTUREの結果(図1)では、歴史時代の巴達木墓地の1個体(東トルキスタン_巴達木_HE)は黄河の古代人集団とクラスタ化した(まとまった)、と分かりました。外群f₃統計も、東トルキスタン_巴達木_HEと、古代の黄河流域および西遼河(West Liao River、略してWLR)の人口集団、とくに黄河_LBIAと黄河_LNによって表される黄河中流域集団との高い遺伝的類似性を示しました。さらに、東トルキスタン_巴達木_HEと黄河および西遼河の古代の人口集団との間の遺伝的均質性は、有意ではない、f₄(ムブティ人、X;東トルキスタン_巴達木_HE、黄河/西遼河集団)と、負のf₄(ムブティ人、東トルキスタン_巴達木_HE;X、黄河/西遼河集団)と対でのqpWave分析(図2b)で裏づけられ、例外は陝西省の石峁(Shimao)遺跡の後期新石器時代個体(石峁_LN)です。単一供給源としてWLR_LNかWLR_BAか黄河_LNか黄河_LBIAか黄河上流_IAを用いて、本論文の1方向モデルの堅牢性を検証するために、負のf₄(ムブティ人、X;東トルキスタン_巴達木_HE、WLR_LN/WLR_BA/黄河_LN/黄河_LBIA/黄河上流_IA)で特定された参照人口集団のそれぞれが、qpAdm分析の外群一覧にさらに追加されました。その結果、すべての1方向モデルが依然として良好に適合する、と分かりました。東トルキスタン_巴達木_HEと古代の黄河および西遼河の農耕民との間の遺伝的均質性は、循環qpAdm分析でもさらに証明されました。したがって、東トルキスタン_巴達木_HEは中国北部からの農耕移民の混合していない子孫だった、と推測されました。
さらに、他の歴史時代の東トルキスタン中央部の個体で、アジア東部との遺伝的類似性の増加が見つかりました。まず観察されたのは、XXKD_HEとXSQG_HEが外群f₃統計では、アジア東部人とのより高い類似性を有する、西遼河人口集団やモンゴル高原の古代人集団や東トルキスタンの古代人集団など、アジア東部北方古代人とより高い類似性を示したことです。先行する東トルキスタン中央部集団(つまり、東トルキスタン_霍爾古_IA)と比較すると、正のf₄(ムブティ人、アジア東部古代人;東トルキスタン_霍爾古_IA、XXKD_HE/XSQG_HE)で示されるように、XXKD_HEとXSQG_HEは東トルキスタン_霍爾古_IAよりもアジア東部古代人の方と多くのアレルを共有していました。QpAdmの結果は、歴史時代の東トルキスタン中央部人口集団におけるアジア東部との類似性増加を裏づけました(図3)。XXKD_HEとXSQG_HEは両方とも、祖先系統の大半(約76~85%)が鉄器時代の東トルキスタン中央部の人口集団と関連する集団(東トルキスタン_霍爾古_EIAもしくは東トルキスタン_霍爾古_IAによって表されます)に、残りの祖先系統(約15~24%)は黄河の古代人集団(黄河_LBIAと黄河上流_IAによって表されます)の祖先系統に由来する、とモデル化できます。さらに、初期の匈奴_西部もしくは天山_サカの黄河_LBIAもしくは黄河上流_IAでの代替的な2方向モデルは、歴史時代の東トルキスタン中央部人口集団で機能しました。
●考察
東トルキスタンの考古学的調査結果から、青銅器時代後の東トルキスタンはユーラシア東西の人々の混合した連合だった、と示唆されてきました。先行研究は、青銅器時代後の東トルキスタン人口集団の高い移動性と混合を明らかにしました[4、6]。青銅器時代後の東トルキスタンの遺伝子プールは、タリム_EMBA1によって表される在来の祖先系統と、西方草原地帯牧畜民ややアジア中央部人やANAやアジア東部人と関連する祖先系統を含めて、さまざまな祖先系統によって形成されました[6]。しかし、地域的な東トルキスタンの詳細な遺伝的歴史は、とくに東トルキスタン中央部において依然として未解明です。本論文は、東トルキスタン中央部の鉄器時代と歴史時代の8個体のゲノム規模データを提示しました。本論文のデータは、鉄器時代の東トルキスタン個体群の遺伝的特性によって特徴づけられる、ユーラシア東西の混合パターンを示しました。鉄器時代の東トルキスタン個体群は、そのユーラシア西部祖先系統がMLBAの西方草原地帯牧畜民(約32~44%)とアジア中央部のインダス川流域集団(約34~58%)に、ユーラシア東部祖先系統がANAもしくは黄河人口集団(約10~25%)に由来します。したがって、この結果から、西方草原地帯とアジア中央部とユーラシア東部から侵入してきた祖先系統は、鉄器時代の東トルキスタン中央部人口集団の遺伝的構成を形成し続けている、と示唆されました。さらに、歴史時代の東トルキスタン中央部個体群の分析によって、東トルキスタン中央部の混合した祖先系統におけるある程度の遺伝的連続性が見つかりました。歴史時代の東トルキスタン中央部個体群は、その祖先系統の大半(約76~85%)が東トルキスタン_霍爾古_EIAもしくは東トルキスタン_霍爾古_IAに、残り(約15~24%)が黄河集団に由来する、とモデル化できます。
鉄器時代にはユーラシア草原地帯の牧畜民が出現し、つまりは西方および中央草原地帯のスキタイ人と、東方草原地帯の匈奴です。中央草原地帯は複数の遊牧民政権の人口拡大の中心地として機能しました。これらの事象には近隣の東トルキスタンが含まれ、東トルキスタン中央部の人口史に大きな影響を及ぼしました。考古学的調査結果、つまり東トルキスタンにおける中央部の蘇貝希(Subeixi)文化と南部のツァグンルケ(Zhagunluke、扎滾魯克)文化は、スキタイ人との密接な文化的つながりを示しました。本論文ではデータから、鉄器時代と歴史時代の東トルキスタン人口集団は天山のサカ文化集団から同様にモデル化される、と示されました。霍爾古墓地個体群の祖先系統は、約89~100%が天山のサカ文化集団と関連する祖先系統(キルギス_天山サカによって表されます)に、最大で約11%が黄河の古代人集団と関連する祖先系統(黄河上流_IA)に由来するとモデル化できる、と分かりました。したがって、鉄器時代の霍爾古墓地人口集団のユーラシア西部関連祖先系統は、主要な祖先系統が西方草原地帯かアジア中央部のBMACかインダス川流域と関連する人口集団に由来した、サカ文化集団の遺伝的導入にまでさかのぼるかもしれません[7、8]。一方で、歴史時代の東トルキスタン中央部個体群については、天山のサカ文化集団および古代黄河集団の組み合わせでの適したモデルも許容できました。本論文の結果から、スキタイ人の南方への移動が東トルキスタン中央部人口集団の遺伝子プールに影響を及ぼした、と示唆されました。初期匈奴_西部と黄河_LBIAもしくは黄河上流_IAの代替モデルは、XXKD_HEとXSQG_HEに適合モデルを提供しました。したがって、鉄器時代の草原地帯祖先系統の代理は、東トルキスタンへの匈奴の拡大および4~5世紀のフン・スキタイ人の形成と一致しました[7]。
文化伝播と経済交流と政治方針は、人口移動を促進するかもしれません。東トルキスタン地域の考古学的調査結果によると、甘青地域の彩陶の西方への拡大は鉄器時代以降に東トルキスタンのほとんどの地域に影響を及ぼしており[3]、この文化伝播は霍爾古墓地でも示されました。鉄器時代の東トルキスタン中央部の個体群は黄河上流の古代の農耕民と関連する祖先系統を有していたので、本論文の結果は東トルキスタン中央部への甘青地域の彩陶文化と人口の拡大の共拡散モデルを裏づけました。さらに、東トルキスタンと絹の道(シルクロード)の支配は、中原と東トルキスタンとの間の経済的および人口統計学的交流を促進しました。考古学および頭蓋顔面の研究も、中原と東トルキスタンとの間の密接なつながりを証明してきました。たとえば、中原からの移住は巴達木墓地群で観察されました。さらに、東トルキスタン東部の昌吉(Changji)市の石城子(Shichengzi)遺跡における古遺伝学的研究は、漢王朝期の東トルキスタンにおける中国北部からの移民の存在を明らかにしました[33]。本論文の結果は、中原から東トルキスタンへの移住を再確証しました。
さらに、東トルキスタン中央部における黄河農耕民と関連する祖先系統の時間的変化が観察されました。後期鉄器時代の霍爾古墓地個体群は、前期鉄器時代の霍爾古墓地個体群と比較すると、黄河人口集団と関連する祖先系統の水準が増加していました。比較すると、黄河農耕民関連祖先系統の割合は、後期鉄器時代の霍爾古墓地個体群よりも歴史時代の東トルキスタン中央部の個体群の方で高くなりました。歴史時代の東トルキスタン中央部において、黄河もしくは西遼河からの農耕移民の子孫も確認されました。本論文の結果から、中国北部の遺伝的影響の増加はおそらく、中原と東トルキスタンとの間のつながりの深化を反映していた、と示唆されました。中原の中央集権国家は、漢王朝以降に東トルキスタンへの支配を深める、一連の戦略を採用しました。政治的支配には、屯田(agricultural garrison、tun tian)と紀元前1世紀後の西方辺境司令部の設立が含まれていました。漢王朝の後の中原の王朝は、北庭鎮および北庭大都護府(Anxi and Beiting Frontier Commands)や易州(Yizhou)県や西州(Xizhou)県や汀州(Tingzhou)県の設置によって、東トルキスタンの統治を拡大しました。強化された支配は東トルキスタンにおいて、中原からの古代漢人【漢人という枠組みを紀元前千年紀や千年紀にさかのぼらせてよいのか、疑問もありますが】の移住と定住につながりました。結論として、東トルキスタン中央部における経時的な黄河関連祖先系統の増加が見つかりました。本論文の結果から、東トルキスタンにおける統治の強化は東トルキスタン中央部への中原の遺伝的影響を促進した、と裏づけられました。
●まとめ
本論文は、東トルキスタン中央部の鉄器時代および歴史時代の8個体の古代ゲノムを報告し、東トルキスタンの地域的な詳しい遺伝的歴史を補完しました。鉄器時代の霍爾古墓地では、西方草原地帯とアジア中央部とアジア東部関連のユーラシア東西の混合した祖先系統特性が観察されました。一方で、鉄器時代の匈奴もしくはサカ文化集団と東トルキスタン中央部の歴史時代の人口集団での近位混合モデルから、匈奴の東トルキスタンへの拡大とフン・スキタイ人の形成がユーラシア西部関連祖先系統の供給源を説明できるかもしれない、と示唆されました。より重要なことに、本論文の結果は、鉄器時代から歴史時代までの東トルキスタン中央部における黄河農耕民関連祖先系統の増加を確認しました。これが示唆したのは、人口拡大を伴う中国北部の農耕文化の拡大と東トルキスタンの中原支配の深化が、東トルキスタン中央部の遺伝的歴史に影響を及ぼしたことです。しかし、東トルキスタン中央部の不充分な標本規模および考古学的遺跡の包含を含めて一定の限界が認められ、これでは、東トルキスタンの小さな地域における遺伝的歴史の時間的変化を垣間見ただけです。東トルキスタンおよび周辺の甘青地域にまたがる、長期にわたる古代ゲノムの将来の研究が必要です。
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