岡本隆司『倭寇とは何か 中華を揺さぶる「海賊」の正体』
新潮選書の一冊として、新潮社から2025年2月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、多くの人が想像するだろう倭寇の概説ではなく、そうした意味での倭寇も解説しつつ、「倭寇」という言説を通じて、前期倭寇から現代までの「日中関係」も含めての「中国史」を浮き彫りにしています。倭寇や日中関係史の概説は少なくないでしょうが、本書は表題から想像される内容とはかなり異なっており、異色と言えるでしょう。なかなか思いつきにくい構成とも言えそうで、東洋史専攻の博学の著者ならではの内容になっており、色々と教えられるところがありました。
いわゆる倭寇について、前期と後期に区分されることは日本でもわりとよく知られているように思います。前期倭寇は14世紀後半に盛んになり、14世紀末まで朝鮮半島で猛威を振るいました。本書はこれを、大元ウルスと高麗の衰退および日本列島の南北朝時代という、治安悪化が背景にあったことを指摘します。14世紀末から15世紀にかけて、日本列島(室町幕府)と朝鮮半島(李王朝)と中華大陸(明王朝)の政権が安定すると、倭寇は下火となります。倭寇が16世紀に再度活発化する背景としては、明王朝も朝鮮王朝も朱子学を体制教義とし、商業・交易には消極的で、民間で商業・交易が活発化しても、体制や政策を改めず、「民意」と体制の齟齬の拡大が挙げられています。本書はこれと関連して、倭寇の担い手および倭寇の時期区分について問題提起します。近代歴史学では当初、倭寇の担い手は「日本人」とされましたが、これは近代のアジア東部情勢を前近代に投影したとして、次第に実証的研究が進み、日本と朝鮮と中国といった近現代の国境および国民区分を大前提としない、倭寇の実態の解明が進められました。そうした研究では、中華大陸と朝鮮半島日本列島の沿海民は海を生活の場として共有する「海民」として区分でき、「境界」を跨いでいた、と指摘されました。
ただ、本書は、そうした新たな研究の潮流における「境界人」を「倭人」として、前期倭寇と後期倭寇の担い手を大差ないとする認識について、「倭人」は説かれているが「倭寇」には及んでいない、と指摘します。「倭」を明らかにしても、「寇」が分からなければ、「倭寇」を理解できない、というわけです。また、そうした新たな研究の潮流では、日本と比較して朝鮮や明の中央集権は強力だった、との前提があるものの、本書は東洋史の観点から、それが疑わしく、「海民」をほとんど「掌握」できていなかった、と指摘します。前期は、治安悪化が原因で「海民」を「掌握」できておらず、倭寇につながったわけですが、後期は経済発展と商業・交易を求める「民意」に明や朝鮮の体制(王朝)側が対応できなかったことこそ倭寇につながった、と本書は把握します。それが、体制(王朝)側と「民意」との齟齬の拡大につながったわけです。
本書は、先行研究の指摘を踏まえつつ、倭寇が17世紀には消滅していった、と把握されている点について、確かに日本では「海禁」の徹底で日本列島が孤立化していくことで、近世・近代の日本と「日本人」が形成されていくものの、中華大陸では「後期倭寇」が収束し、「日本人」が去っても、「倭寇的状況」の「海域アジア」は消滅しなかった、と指摘します。その具体例が鄭成功に代表される鄭氏政権でしたが、すでに日本列島の「鎖国」状況によってアジア東部海域での「倭人」的要素が焼失しており、「倭寇」ではなかったわけです。鄭氏政権を滅ぼしたダイチン・グルン(大清帝国)は、鄭氏政権のように体制に公然と反旗を翻す勢力に対しては討伐しましたが、そうでなければ在地勢力に深く干渉せず、そもそも在地勢力を強固に統治できる能力がなかったのでしょう。ダイチン・グルンでは、明朝の観念的で原理的な「華夷秩序」から、「華夷同体」と言われる状況が出現します。「夷」が「華」に押し寄せ、「華」人が「夷」人と一体になることも珍しくなくなりました。ダイチン・グルンの領域下の「対外交易」は現在では、「互市体制」と呼ばれています。アジア東部海域では「倭人」が不在となりましたが、「華人」が日本列島に赴いての交易は続きました。ただ、日本列島の貴金属資源の枯渇のため、「日中」交易は17世紀後半から減少し、その傾向は19世紀末まで変わりませんでした。
ダイチン・グルンにとって、その日本に代わって交易相手として台頭してきたのがヨーロッパ勢力でしたが、当初、ヨーロッパ勢力は中華地域の産品を購入し、その対価は産品ではなく銀で、これはかつての中華地域と日本列島との交易、つまり「倭寇的状況」を想起させます。一方で、ヨーロッパ勢力と中華地域との交易の範囲や規模や財の動き、かつての「倭寇(的状況)」を大きく上回っており、それが中華大陸の社会を大きく変えていきます。中華大陸では好況から人口が増加しますが、ダイチン・グルンにはそれに対応できる体制を築くだけの政治力はなく、民間では、紛争でも当事者主義が浸透し、武装化が進みます。こうした治安悪化はかつての「倭寇」と同じで、「倭人」がいないので「倭寇」と呼ばれなかったにすぎない、と本書は指摘します。一方で、ダイチン・グルンの支配層では、好況を反映してか、中華意識が肥大します。ただ本書は、これが好況を反映した自信である側面も、危機の到来を予見しての虚勢の側面もあったかもしれない、と指摘します。これ以降、ダイチン・グルンの支配層では、西洋人は「外夷」で、西洋との交易は互恵的貿易ではなく「中華」からの恩恵との論理が強化されていきます。こうした客観的な民間社会と主観的な政権態度の動向の乖離が以後の歴史を規定するとともに、それは明代で「倭寇」を引き起こした条件そのものだった、と本書は指摘します。アヘン貿易とその結果としてのアヘン戦争も、「倭寇」と「華夷同体」の再現および発展だった、というわけです。
アヘン戦争後、「法の前の平等」と「法の支配」を原則とする「条約体制」が成立します。しかし本書は、これが西洋側からの見方で、ダイチン・グルンの支配層では、最恵国待遇は「外夷」への恩恵と認識されており、治外法権にしても以前から「外夷」商人の引率と取り締まりは外国商館の指導者に任されていました。協定関税にしても、以前の税率を基準に改定されたもので、完全の片務協定も、当時のダイチン・グルンの支配層には保護関税との観念がなかったため、係争にはなりませんでした。商慣行にしても、以前から事実上「自由」で、資本に富む少数の外国商社が前面に出て、多数の零細な「華人」商人と交易業務を行ないました。こうした「華人」商人は、もちろん「倭人」ではなく、「漢奸」でもなく「買辮」と呼ばれ、これには裏切り者的な意味合いもあり、「倭寇」の頃の「倭人」と同様でした。アヘン戦争後も、「条約港」の社会経済は、規模こそ異なるものの、以前の「互市」からの継続だった、と本書は評価します。本書は、表面的には大きく異なるものの、「洋務」も「倭寇」以来の論理で把握します。この時期、ダイチン・グルンの支配層において、西洋への優秀な「華人」留学生が「顕官」になるとは想定されていなかったこともそうした顕れで、この点が同時代の日本との大きな違いでした。太平天国の乱の鎮圧後のダイチン・グルンにおいて、支配層の観念・世界観に決定的な変化があったわけではなく、それを支えていたのは、科挙合格者で顕官でありながら、「洋務」に携わって「実情」を詳しく支えていた李鴻章でした。この状況が大きく変わったのは日清戦争で、「華夷同体」は大きく外に傾きます。西洋列強に新たに日本が加わり、一体たるべき「瓜」が外から切り「分」けられる、つまり「瓜分」との認識が漢字知識層の間で浸透します。そうした人々の間で排外思想が高まり、内外の軋轢が起きた機序はかつての「倭寇」と同じだった、と本書は把握します。義和団事件は、体制側の政権と反体制側の結社が結びつき、列強とそれに与する「華人」、つまり「華夷同体」に挑んだ戦いでした。
本書はこうした状況を踏まえて、太平天国の乱の鎮圧以後の中華世界を、官・清対民濁と外・夷対中・華の2軸で分類しています。つまり、四象限のどこかに中華世界の集団や勢力あるいは個人が位置づけられるわけです。本書は、16世紀の「倭寇的状況」でもそうした構図が存在した可能性を指摘しつつ、史料的制約から本書では具体的には分類されていません。ただ、李鴻章に代表される「洋務」が四象限のすべての跨るように、後の「変法」派や「革命」派も、四象限のいずれかのみに収まるわけではありません。本書はこれを踏まえて、日清戦争後の中国史を把握します。本書が取り上げている「変法」派の代表は康有為と梁啓超で、孫文は「革命」派に位置づけられますが、康有為も梁啓超も孫文も海外とつながりの深い「華夷同体」地帯の出身であることに、本書は注目しています。孫文は康有為や梁啓超のような旧型の知識人ではなく、思想信条も違っていたものの、それは王朝・官界との距離や海外との関係の深さの違いで、両者の違いが程度の差であった側面も、本書は指摘します。つまり、ともに「中国」の一統を目標としながら、「変法」派はダイチン・グルンを存続させねば、「革命」派はダイチン・グルンを滅ぼさねば、目標を達成できない、と考えたわけです。本書は、孫文の「三民主義」と「革命」にしても、「華夷同体」に起源があり、既存の体制と中央政府に外から反抗する、かつての「倭寇」水準に留まっていた側面も指摘します。孫文が「歴史の主人公」に見えるのは、政権を掌握した国民党と共産党の「正統史観」の影響だった、と本書は把握しています。しかし本書は、孫文が「革命の父」と認識されるようになったのは、「三民主義」が中華民国期に変容し、孫文が「規律」と「統制」を志向するようになり、その中華王朝的な「専政君主主義」が蒋介石と毛沢東に継承されたからだったことを、指摘します。孫文の民族主義も現在に継承され、そこでは明朝ではなくダイチン・グルンの規模での一民族が提唱され、「五族」のうち「漢族」の圧倒的優位と「漢族」への「同化」が主張されました。
共産党とも提携し、日本にも妥協的なところがあった孫文とは異なり、蒋介石は両者との本格的な対決を選びます。本書は、この時点で満洲に勢力を有しており、やがて満州事変で満洲を明確に中華民国から切り離そうとした日本ことについて、「華夷同体」構造の出現であり、「倭寇的状況」と変わらないことを指摘します。第二次世界大戦での日本の敗北とその後の内戦を経て、1949年に中華人民共和国が成立します。かつての歴史学では、ここが一つの到達点とされましたが、マルクス史観が退潮した今となっては、もはや通用しません。本書は、日中戦争が「倭寇的状況」であり、日本の敗北で「倭寇」は終焉したものの、「倭寇勢力」としての国共両勢力は生き残っており、「華夷同体」構造は消えなかった、と把握します。本書は、国共内戦後のアジア東部の国際情勢が、ダイチン・グルンと鄭氏政権と日本の鼎立と類似していることを指摘します。つまり、中華人民共和国と台湾(中華民国)と日本です。
毛沢東政権の中華人民共和国は蒋介石でも失敗した幣制改革を達成し、領土と経済の一体性を高めました。しかし本書は、その過程で農民からの収奪が過酷だったことと、チベットやモンゴルやウイグルなどで大きな民族的抑圧があったことを指摘します。毛沢東は大躍進で凄惨な状況を招来し、劉少奇に国家主席の座を譲りますが、文化大革命で「復権」に成功します。本書は、毛沢東が劉少奇や鄧小平などを「走資派」や「修正主義」と呼んで迫害弾圧したことについて、ダイチン・グルン末の「漢奸」や明朝末の「倭寇」と同じ意味合いで、中華地域の中央政権の立場として、明朝以降には、海外の思想や財貨に傾倒する人々を同化・一元化するのか、一定の「猶予」を認めるのか、という二者択一がずっと課題になっていたことを指摘します。中華人民共和国の政治史において、同化・一元化を強く志向したのが毛沢東、一定の「猶予」を認めたのが鄧小平で、「倭寇」以来の「華夷同体」構造がまだ存続していたこ、と本書は把握しています。一方で、鄧小平の「改革開放」政策が「中華」の一体性を損なう方向に動くことも、「倭寇」の頃から続く構造で、その噴出である1989年の(第二次)天安門事件は「倭寇」的紛糾の一例かもしれない、と本書は指摘します。中華人民共和国は「改革開放」政策による経済成長の恩恵を受けつつも、一体性を損なう方向も懸念しており、そうした状況の「改善」を図っているのが習近平政権である、というのが本書の見通しです。
いわゆる倭寇について、前期と後期に区分されることは日本でもわりとよく知られているように思います。前期倭寇は14世紀後半に盛んになり、14世紀末まで朝鮮半島で猛威を振るいました。本書はこれを、大元ウルスと高麗の衰退および日本列島の南北朝時代という、治安悪化が背景にあったことを指摘します。14世紀末から15世紀にかけて、日本列島(室町幕府)と朝鮮半島(李王朝)と中華大陸(明王朝)の政権が安定すると、倭寇は下火となります。倭寇が16世紀に再度活発化する背景としては、明王朝も朝鮮王朝も朱子学を体制教義とし、商業・交易には消極的で、民間で商業・交易が活発化しても、体制や政策を改めず、「民意」と体制の齟齬の拡大が挙げられています。本書はこれと関連して、倭寇の担い手および倭寇の時期区分について問題提起します。近代歴史学では当初、倭寇の担い手は「日本人」とされましたが、これは近代のアジア東部情勢を前近代に投影したとして、次第に実証的研究が進み、日本と朝鮮と中国といった近現代の国境および国民区分を大前提としない、倭寇の実態の解明が進められました。そうした研究では、中華大陸と朝鮮半島日本列島の沿海民は海を生活の場として共有する「海民」として区分でき、「境界」を跨いでいた、と指摘されました。
ただ、本書は、そうした新たな研究の潮流における「境界人」を「倭人」として、前期倭寇と後期倭寇の担い手を大差ないとする認識について、「倭人」は説かれているが「倭寇」には及んでいない、と指摘します。「倭」を明らかにしても、「寇」が分からなければ、「倭寇」を理解できない、というわけです。また、そうした新たな研究の潮流では、日本と比較して朝鮮や明の中央集権は強力だった、との前提があるものの、本書は東洋史の観点から、それが疑わしく、「海民」をほとんど「掌握」できていなかった、と指摘します。前期は、治安悪化が原因で「海民」を「掌握」できておらず、倭寇につながったわけですが、後期は経済発展と商業・交易を求める「民意」に明や朝鮮の体制(王朝)側が対応できなかったことこそ倭寇につながった、と本書は把握します。それが、体制(王朝)側と「民意」との齟齬の拡大につながったわけです。
本書は、先行研究の指摘を踏まえつつ、倭寇が17世紀には消滅していった、と把握されている点について、確かに日本では「海禁」の徹底で日本列島が孤立化していくことで、近世・近代の日本と「日本人」が形成されていくものの、中華大陸では「後期倭寇」が収束し、「日本人」が去っても、「倭寇的状況」の「海域アジア」は消滅しなかった、と指摘します。その具体例が鄭成功に代表される鄭氏政権でしたが、すでに日本列島の「鎖国」状況によってアジア東部海域での「倭人」的要素が焼失しており、「倭寇」ではなかったわけです。鄭氏政権を滅ぼしたダイチン・グルン(大清帝国)は、鄭氏政権のように体制に公然と反旗を翻す勢力に対しては討伐しましたが、そうでなければ在地勢力に深く干渉せず、そもそも在地勢力を強固に統治できる能力がなかったのでしょう。ダイチン・グルンでは、明朝の観念的で原理的な「華夷秩序」から、「華夷同体」と言われる状況が出現します。「夷」が「華」に押し寄せ、「華」人が「夷」人と一体になることも珍しくなくなりました。ダイチン・グルンの領域下の「対外交易」は現在では、「互市体制」と呼ばれています。アジア東部海域では「倭人」が不在となりましたが、「華人」が日本列島に赴いての交易は続きました。ただ、日本列島の貴金属資源の枯渇のため、「日中」交易は17世紀後半から減少し、その傾向は19世紀末まで変わりませんでした。
ダイチン・グルンにとって、その日本に代わって交易相手として台頭してきたのがヨーロッパ勢力でしたが、当初、ヨーロッパ勢力は中華地域の産品を購入し、その対価は産品ではなく銀で、これはかつての中華地域と日本列島との交易、つまり「倭寇的状況」を想起させます。一方で、ヨーロッパ勢力と中華地域との交易の範囲や規模や財の動き、かつての「倭寇(的状況)」を大きく上回っており、それが中華大陸の社会を大きく変えていきます。中華大陸では好況から人口が増加しますが、ダイチン・グルンにはそれに対応できる体制を築くだけの政治力はなく、民間では、紛争でも当事者主義が浸透し、武装化が進みます。こうした治安悪化はかつての「倭寇」と同じで、「倭人」がいないので「倭寇」と呼ばれなかったにすぎない、と本書は指摘します。一方で、ダイチン・グルンの支配層では、好況を反映してか、中華意識が肥大します。ただ本書は、これが好況を反映した自信である側面も、危機の到来を予見しての虚勢の側面もあったかもしれない、と指摘します。これ以降、ダイチン・グルンの支配層では、西洋人は「外夷」で、西洋との交易は互恵的貿易ではなく「中華」からの恩恵との論理が強化されていきます。こうした客観的な民間社会と主観的な政権態度の動向の乖離が以後の歴史を規定するとともに、それは明代で「倭寇」を引き起こした条件そのものだった、と本書は指摘します。アヘン貿易とその結果としてのアヘン戦争も、「倭寇」と「華夷同体」の再現および発展だった、というわけです。
アヘン戦争後、「法の前の平等」と「法の支配」を原則とする「条約体制」が成立します。しかし本書は、これが西洋側からの見方で、ダイチン・グルンの支配層では、最恵国待遇は「外夷」への恩恵と認識されており、治外法権にしても以前から「外夷」商人の引率と取り締まりは外国商館の指導者に任されていました。協定関税にしても、以前の税率を基準に改定されたもので、完全の片務協定も、当時のダイチン・グルンの支配層には保護関税との観念がなかったため、係争にはなりませんでした。商慣行にしても、以前から事実上「自由」で、資本に富む少数の外国商社が前面に出て、多数の零細な「華人」商人と交易業務を行ないました。こうした「華人」商人は、もちろん「倭人」ではなく、「漢奸」でもなく「買辮」と呼ばれ、これには裏切り者的な意味合いもあり、「倭寇」の頃の「倭人」と同様でした。アヘン戦争後も、「条約港」の社会経済は、規模こそ異なるものの、以前の「互市」からの継続だった、と本書は評価します。本書は、表面的には大きく異なるものの、「洋務」も「倭寇」以来の論理で把握します。この時期、ダイチン・グルンの支配層において、西洋への優秀な「華人」留学生が「顕官」になるとは想定されていなかったこともそうした顕れで、この点が同時代の日本との大きな違いでした。太平天国の乱の鎮圧後のダイチン・グルンにおいて、支配層の観念・世界観に決定的な変化があったわけではなく、それを支えていたのは、科挙合格者で顕官でありながら、「洋務」に携わって「実情」を詳しく支えていた李鴻章でした。この状況が大きく変わったのは日清戦争で、「華夷同体」は大きく外に傾きます。西洋列強に新たに日本が加わり、一体たるべき「瓜」が外から切り「分」けられる、つまり「瓜分」との認識が漢字知識層の間で浸透します。そうした人々の間で排外思想が高まり、内外の軋轢が起きた機序はかつての「倭寇」と同じだった、と本書は把握します。義和団事件は、体制側の政権と反体制側の結社が結びつき、列強とそれに与する「華人」、つまり「華夷同体」に挑んだ戦いでした。
本書はこうした状況を踏まえて、太平天国の乱の鎮圧以後の中華世界を、官・清対民濁と外・夷対中・華の2軸で分類しています。つまり、四象限のどこかに中華世界の集団や勢力あるいは個人が位置づけられるわけです。本書は、16世紀の「倭寇的状況」でもそうした構図が存在した可能性を指摘しつつ、史料的制約から本書では具体的には分類されていません。ただ、李鴻章に代表される「洋務」が四象限のすべての跨るように、後の「変法」派や「革命」派も、四象限のいずれかのみに収まるわけではありません。本書はこれを踏まえて、日清戦争後の中国史を把握します。本書が取り上げている「変法」派の代表は康有為と梁啓超で、孫文は「革命」派に位置づけられますが、康有為も梁啓超も孫文も海外とつながりの深い「華夷同体」地帯の出身であることに、本書は注目しています。孫文は康有為や梁啓超のような旧型の知識人ではなく、思想信条も違っていたものの、それは王朝・官界との距離や海外との関係の深さの違いで、両者の違いが程度の差であった側面も、本書は指摘します。つまり、ともに「中国」の一統を目標としながら、「変法」派はダイチン・グルンを存続させねば、「革命」派はダイチン・グルンを滅ぼさねば、目標を達成できない、と考えたわけです。本書は、孫文の「三民主義」と「革命」にしても、「華夷同体」に起源があり、既存の体制と中央政府に外から反抗する、かつての「倭寇」水準に留まっていた側面も指摘します。孫文が「歴史の主人公」に見えるのは、政権を掌握した国民党と共産党の「正統史観」の影響だった、と本書は把握しています。しかし本書は、孫文が「革命の父」と認識されるようになったのは、「三民主義」が中華民国期に変容し、孫文が「規律」と「統制」を志向するようになり、その中華王朝的な「専政君主主義」が蒋介石と毛沢東に継承されたからだったことを、指摘します。孫文の民族主義も現在に継承され、そこでは明朝ではなくダイチン・グルンの規模での一民族が提唱され、「五族」のうち「漢族」の圧倒的優位と「漢族」への「同化」が主張されました。
共産党とも提携し、日本にも妥協的なところがあった孫文とは異なり、蒋介石は両者との本格的な対決を選びます。本書は、この時点で満洲に勢力を有しており、やがて満州事変で満洲を明確に中華民国から切り離そうとした日本ことについて、「華夷同体」構造の出現であり、「倭寇的状況」と変わらないことを指摘します。第二次世界大戦での日本の敗北とその後の内戦を経て、1949年に中華人民共和国が成立します。かつての歴史学では、ここが一つの到達点とされましたが、マルクス史観が退潮した今となっては、もはや通用しません。本書は、日中戦争が「倭寇的状況」であり、日本の敗北で「倭寇」は終焉したものの、「倭寇勢力」としての国共両勢力は生き残っており、「華夷同体」構造は消えなかった、と把握します。本書は、国共内戦後のアジア東部の国際情勢が、ダイチン・グルンと鄭氏政権と日本の鼎立と類似していることを指摘します。つまり、中華人民共和国と台湾(中華民国)と日本です。
毛沢東政権の中華人民共和国は蒋介石でも失敗した幣制改革を達成し、領土と経済の一体性を高めました。しかし本書は、その過程で農民からの収奪が過酷だったことと、チベットやモンゴルやウイグルなどで大きな民族的抑圧があったことを指摘します。毛沢東は大躍進で凄惨な状況を招来し、劉少奇に国家主席の座を譲りますが、文化大革命で「復権」に成功します。本書は、毛沢東が劉少奇や鄧小平などを「走資派」や「修正主義」と呼んで迫害弾圧したことについて、ダイチン・グルン末の「漢奸」や明朝末の「倭寇」と同じ意味合いで、中華地域の中央政権の立場として、明朝以降には、海外の思想や財貨に傾倒する人々を同化・一元化するのか、一定の「猶予」を認めるのか、という二者択一がずっと課題になっていたことを指摘します。中華人民共和国の政治史において、同化・一元化を強く志向したのが毛沢東、一定の「猶予」を認めたのが鄧小平で、「倭寇」以来の「華夷同体」構造がまだ存続していたこ、と本書は把握しています。一方で、鄧小平の「改革開放」政策が「中華」の一体性を損なう方向に動くことも、「倭寇」の頃から続く構造で、その噴出である1989年の(第二次)天安門事件は「倭寇」的紛糾の一例かもしれない、と本書は指摘します。中華人民共和国は「改革開放」政策による経済成長の恩恵を受けつつも、一体性を損なう方向も懸念しており、そうした状況の「改善」を図っているのが習近平政権である、というのが本書の見通しです。
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