オマーンの中部旧石器時代の遺跡
オマーンの中部旧石器時代の遺跡を報告した研究(Chlachula et al., 2025)が公表されました。本論文は、オマーンのホクフ(Huqf)地域のワディ・バウ・イースト(Wadi Baw East)として知られる地域で発見された、中部旧石器時代の遺跡を報告しています。この地域のワディ・バウ3(Wadi Baw 3、略してWB3)遺跡およびワディ・バウ4(Wadi Baw 4、略してWB4)遺跡では、ルヴァロワ(Levallois)技術に基づくヌビア式ルヴァロワ尖頭器(Nubian Levallois Point)が確認され、その担い手が現生人類(Homo sapiens)系統なのか否か、不明ですが、現生人類系統でも不思議ではなく、現生人類のアフリカからの拡散においてペルシア湾が重要な役割を果たした可能性も指摘されているので(関連記事)、アラビア半島の中部旧石器時代はたいへん注目されます。
●要約
アラビア半島の初期の移住については、議論が続いています。アラビア半島南東部のホフク地域におけるルヴァロワ石器技術の最初の証拠は今や、人類の活動の中部旧石器時代の記録をオマーン中央部へと拡張し、アラビア半島の先史時代の状況の多様化に貢献します。
●研究史
アラビア半島南部の中部旧石器時代(20万~4万年前頃)の研究計画の件数は最近数十年間で増加しており、石器の地表散乱および層序遺跡から得られた多様な考古学的データを提供しています。古環境および考古学のデータは、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)5(13万~71000年前頃)における、低緯度香水体系の強化と北方への移動を示唆しています。アラビア半島南部の中部旧石器時代の居住は広範だった可能性が高いものの、より乾燥したMIS4(71000~57000年前頃)において孤立化が後に起きたかもしれません。
オマーン中央部のホフク地域(図1)は、一連の集中的な調査後でさえ、中部旧石器時代の居住に関して空白地帯のままでした。後期更新世(129000~11700年前頃)のこの地域における高品質な燵岩や天然の泉谷淡水湖の豊富な存在にも関わらず、中部旧石器時代の発見を得ることは困難です。本論文は、多数量手法を用いての以前には調べられていなかった場所の分析によって、この知識の空白を埋めることに寄与します。以下は本論文の図1です。
●研究の問題と手法
この計画の目的は、アラビア半島南部の後期更新世におけるヒトの居住の時期と性質を評価し、それが散発的で退避的だったのか、それとも広範で相互に関連していたのか、確認することです。旧石器時代の遺跡を位置づけるのに用いられた調査手法は、オマーン南部および中央部の景観の地質図や現地報告や地質構造に由来する、可能性がある場所に基づいています。中部旧石器時代の発見の特定に続いて、石核と診断用の発見の収集に的が絞られました。石器標本の詳細な技術類型学的分析によって、この地域および周辺地域(アフリカ東部、レヴァント、中東)の他の中部旧石器時代遺跡との比較が可能となりました。
●分析結果
遠征隊は、ホフク地域南部のドゥクム(Duqm)の南西に位置するワディ・バウ・イーストとして知られる地域で、中部旧石器の特徴を示す2ヶ所の新たな遺跡を報告しました。WB3(ワディ・バウ3)は、残丘の頂上に位置するひじょうに低密度の考古学的遺跡で、石材の露出はありません(図2A・B)。以下は本論文の図2です。
収集された遺物群(表1)には、1点の風化が著しく進んだ優先求心ルヴァロワ石核や2点の単方向平坦石核や石屑が含まれます。WB4(ワディ・バウ4)は大きく(長さ100m超)比較的密な(1m²あたり30点超の人工遺物)石器の散乱で、わずかに高い石灰岩の尾根に位置しており、その底部と側面には燵岩の塊が露出しています(図2C・D)。WB3とWB4の両遺跡は、微細物質の風食によって生じた収縮表面である可能性が最も高そうです。過去の湿潤期には、粗粒物質の移動があったかもしれません。以下は本論文の表1です。
WB3とWB4の両遺跡の石器は、堆積後の異なる二つの軌跡を示唆する、特有の風化パターンを示します(表1)。高度な隆起の丸みや端部損傷や表面侵食や鍋蓋状の裂片や一般的に暗色のマンガン被膜を示す人工遺物は、中部旧石器時代の技術範囲内に収まります。中程度の鋭い隆起および端部損傷がある高度な砂漠の光沢面を示す人工遺物は、石刃および両面石器に分類できます(図3)。石器の両一式の製作に用いられた石材は同じながら、標本で観察された端部損傷と丸みから明らかなように同じ場所ではなく、中部旧石器時代の発見はその後の風化がさほど進んでいない石刃/両面石器群とは明確に識別できます。再利用され、二重に緑青で覆われた人工遺物(図3E)は、提案された相対的な年代をさらに裏づけます。以下は本論文の図3です。
中部旧石器時代の石核のほとんどは、利用面の打設台および凸面のごくわずかな調整の有無に関わらず、剥片については単方向並行および直交平面石核として分類できます(表2)。以下は本論文の表2です。
5点の石核は狭義のルヴァロワとして分類でき、これらには、3点の優先求心ルヴァロワ石核と1点の優先双方向石核と1点のヌビア式ルヴァロワ尖頭器(Nubian Levallois Point)が含まれます(図4)。石核縮小戦略の他にも、石器群には1点の著しく風化し、小さな(最大100mm)の両面石器かもしれない石器と3点の両面の薄い剥片が含まれます(図4)。以下は本論文の図4です。
WB3とWB4の両遺跡において、典型的な砂漠の光沢の風化を示す石器群は、単方向の単一基盤石核からの石刃や小規模から中規模の両凸で両尖型の両面石器の製作と関連しています。類似のインダストリーはこの地域でよく証明されており、ドファール(Dhofar)の類似の遺跡群に基づくと、末期更新世/中期完新世(14000~6000年前頃)と暫定的に年代測定できるかもしれません。
●考察
WB3とWB4は、ホクフ地域における中部旧石器時代の活動の最初の証拠を表しています。この石器群は、技術的変異性と風化の不均一性を示しており、更新世と完新世の居住段階の上書きを示唆しています。表面侵食はWB3とWB4の両遺跡に影響を及ぼしており、石器は堆積以降に力学的な風化に曝されました。おそらくは完新世人類集団による石材の採石場としてのこの遺跡のその後の利用は、より大きな中部旧石器時代の人工遺物の再利用につながり、石器群に偏りをもたらしました。
それにも関わらず、いくつかの予備的観察が可能です。WB4のヌビア式ルヴァロワ石核は、アラビア半島のヌビア式技術複合体との弱い関連を示唆しているかもしれず、この弱い関連は今後さらに調査すべきですが、残りの石器群は隣接するドファールのヌビア式の遺跡とは似ていません。求心ルヴァロワ石核はドファールのヌビア式石器群内では稀ですが、アラビア半島の南部~西部および中央部では報告されています。さらに、中部旧石器時代のWB4の石器群の大半は、単純で単方向の時に直行する剥片製作を示します。ルヴァロワ構成要素の風化は、非ルヴァロワ(平坦)石核と同様の堆積後の作因への類似の露出期間を示していますが、これにの技術はジェベル・フアヤ(Jebel Faya)遺跡の事例を除いて、ほとんど報告されていません。
WB3とWB4の石器は、ホフク地域および恐らくはアラビア半島東部のより広範な地域の文化的分離を示唆しているかもしれず、ヌビア式製作の遺跡は稀にしか存在しません。この分離は、他の場所でも示唆されているように、ジッダト・アルハラーシス(Jiddat al-Harasis)砂漠砂漠の地理的障壁に起因するかもしれず、連続的な居住ではなく散発的な訪問のみを可能としました。現在、複数の技術の年代測定手法を通じて、これらの遺跡について堅牢な年代層序的枠組みの確立が進行中です。
参考文献:
Chlachula D. et al.(2024): Evidence of Middle Palaeolithic human occupation in south-central Oman. Antiquity, 99, 404, e9.
https://doi.org/10.15184/aqy.2024.198
●要約
アラビア半島の初期の移住については、議論が続いています。アラビア半島南東部のホフク地域におけるルヴァロワ石器技術の最初の証拠は今や、人類の活動の中部旧石器時代の記録をオマーン中央部へと拡張し、アラビア半島の先史時代の状況の多様化に貢献します。
●研究史
アラビア半島南部の中部旧石器時代(20万~4万年前頃)の研究計画の件数は最近数十年間で増加しており、石器の地表散乱および層序遺跡から得られた多様な考古学的データを提供しています。古環境および考古学のデータは、海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)5(13万~71000年前頃)における、低緯度香水体系の強化と北方への移動を示唆しています。アラビア半島南部の中部旧石器時代の居住は広範だった可能性が高いものの、より乾燥したMIS4(71000~57000年前頃)において孤立化が後に起きたかもしれません。
オマーン中央部のホフク地域(図1)は、一連の集中的な調査後でさえ、中部旧石器時代の居住に関して空白地帯のままでした。後期更新世(129000~11700年前頃)のこの地域における高品質な燵岩や天然の泉谷淡水湖の豊富な存在にも関わらず、中部旧石器時代の発見を得ることは困難です。本論文は、多数量手法を用いての以前には調べられていなかった場所の分析によって、この知識の空白を埋めることに寄与します。以下は本論文の図1です。
●研究の問題と手法
この計画の目的は、アラビア半島南部の後期更新世におけるヒトの居住の時期と性質を評価し、それが散発的で退避的だったのか、それとも広範で相互に関連していたのか、確認することです。旧石器時代の遺跡を位置づけるのに用いられた調査手法は、オマーン南部および中央部の景観の地質図や現地報告や地質構造に由来する、可能性がある場所に基づいています。中部旧石器時代の発見の特定に続いて、石核と診断用の発見の収集に的が絞られました。石器標本の詳細な技術類型学的分析によって、この地域および周辺地域(アフリカ東部、レヴァント、中東)の他の中部旧石器時代遺跡との比較が可能となりました。
●分析結果
遠征隊は、ホフク地域南部のドゥクム(Duqm)の南西に位置するワディ・バウ・イーストとして知られる地域で、中部旧石器の特徴を示す2ヶ所の新たな遺跡を報告しました。WB3(ワディ・バウ3)は、残丘の頂上に位置するひじょうに低密度の考古学的遺跡で、石材の露出はありません(図2A・B)。以下は本論文の図2です。
収集された遺物群(表1)には、1点の風化が著しく進んだ優先求心ルヴァロワ石核や2点の単方向平坦石核や石屑が含まれます。WB4(ワディ・バウ4)は大きく(長さ100m超)比較的密な(1m²あたり30点超の人工遺物)石器の散乱で、わずかに高い石灰岩の尾根に位置しており、その底部と側面には燵岩の塊が露出しています(図2C・D)。WB3とWB4の両遺跡は、微細物質の風食によって生じた収縮表面である可能性が最も高そうです。過去の湿潤期には、粗粒物質の移動があったかもしれません。以下は本論文の表1です。
WB3とWB4の両遺跡の石器は、堆積後の異なる二つの軌跡を示唆する、特有の風化パターンを示します(表1)。高度な隆起の丸みや端部損傷や表面侵食や鍋蓋状の裂片や一般的に暗色のマンガン被膜を示す人工遺物は、中部旧石器時代の技術範囲内に収まります。中程度の鋭い隆起および端部損傷がある高度な砂漠の光沢面を示す人工遺物は、石刃および両面石器に分類できます(図3)。石器の両一式の製作に用いられた石材は同じながら、標本で観察された端部損傷と丸みから明らかなように同じ場所ではなく、中部旧石器時代の発見はその後の風化がさほど進んでいない石刃/両面石器群とは明確に識別できます。再利用され、二重に緑青で覆われた人工遺物(図3E)は、提案された相対的な年代をさらに裏づけます。以下は本論文の図3です。
中部旧石器時代の石核のほとんどは、利用面の打設台および凸面のごくわずかな調整の有無に関わらず、剥片については単方向並行および直交平面石核として分類できます(表2)。以下は本論文の表2です。
5点の石核は狭義のルヴァロワとして分類でき、これらには、3点の優先求心ルヴァロワ石核と1点の優先双方向石核と1点のヌビア式ルヴァロワ尖頭器(Nubian Levallois Point)が含まれます(図4)。石核縮小戦略の他にも、石器群には1点の著しく風化し、小さな(最大100mm)の両面石器かもしれない石器と3点の両面の薄い剥片が含まれます(図4)。以下は本論文の図4です。
WB3とWB4の両遺跡において、典型的な砂漠の光沢の風化を示す石器群は、単方向の単一基盤石核からの石刃や小規模から中規模の両凸で両尖型の両面石器の製作と関連しています。類似のインダストリーはこの地域でよく証明されており、ドファール(Dhofar)の類似の遺跡群に基づくと、末期更新世/中期完新世(14000~6000年前頃)と暫定的に年代測定できるかもしれません。
●考察
WB3とWB4は、ホクフ地域における中部旧石器時代の活動の最初の証拠を表しています。この石器群は、技術的変異性と風化の不均一性を示しており、更新世と完新世の居住段階の上書きを示唆しています。表面侵食はWB3とWB4の両遺跡に影響を及ぼしており、石器は堆積以降に力学的な風化に曝されました。おそらくは完新世人類集団による石材の採石場としてのこの遺跡のその後の利用は、より大きな中部旧石器時代の人工遺物の再利用につながり、石器群に偏りをもたらしました。
それにも関わらず、いくつかの予備的観察が可能です。WB4のヌビア式ルヴァロワ石核は、アラビア半島のヌビア式技術複合体との弱い関連を示唆しているかもしれず、この弱い関連は今後さらに調査すべきですが、残りの石器群は隣接するドファールのヌビア式の遺跡とは似ていません。求心ルヴァロワ石核はドファールのヌビア式石器群内では稀ですが、アラビア半島の南部~西部および中央部では報告されています。さらに、中部旧石器時代のWB4の石器群の大半は、単純で単方向の時に直行する剥片製作を示します。ルヴァロワ構成要素の風化は、非ルヴァロワ(平坦)石核と同様の堆積後の作因への類似の露出期間を示していますが、これにの技術はジェベル・フアヤ(Jebel Faya)遺跡の事例を除いて、ほとんど報告されていません。
WB3とWB4の石器は、ホフク地域および恐らくはアラビア半島東部のより広範な地域の文化的分離を示唆しているかもしれず、ヌビア式製作の遺跡は稀にしか存在しません。この分離は、他の場所でも示唆されているように、ジッダト・アルハラーシス(Jiddat al-Harasis)砂漠砂漠の地理的障壁に起因するかもしれず、連続的な居住ではなく散発的な訪問のみを可能としました。現在、複数の技術の年代測定手法を通じて、これらの遺跡について堅牢な年代層序的枠組みの確立が進行中です。
参考文献:
Chlachula D. et al.(2024): Evidence of Middle Palaeolithic human occupation in south-central Oman. Antiquity, 99, 404, e9.
https://doi.org/10.15184/aqy.2024.198
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