湿潤な熱帯林における人類最古の痕跡
湿潤な熱帯林における人類最古の痕跡を報告した研究(Arous et al., 2025)が公表されました。本論文は、コートジボワール南部のベテI(Bété I)遺跡の堆積物の植物蝋状物質(ワックス)の生体標識や安定同位体や植物珪酸体化石(プラントオパール)や花粉分析から、ベテI遺跡が当時湿潤な森林環境だったことを示しています。さらに、OSL(Optically Stimulated Luminescence、光刺激ルミネッセンス発光)とESR(electron spin resonance、電子スピン共鳴)を組み合わせた年代測定によって、ベテI遺跡におけるヒトの居住開始が、中期更新世末の海洋酸素同位体ステージ(Marine Isotope Stage、略してMIS)6で、中期石器時代(Middle Stone Age、略してMSA)となる15万年前頃にまでさかのぼることも示されました。これは、湿潤な森林環境におけるヒトの居住の最古級の事例となります。本論文は、当時ベテI遺跡に居住していたのは現生人類(Homo sapiens)と断定していますが、非現生人類ホモ属である可能性を念頭に置いておくべきではないか、とも私は考えています。なお、本論文の「ヒト(human)」は基本的に現生人類のみを表しているようです。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
ヒトはアフリカ全域で30万年前頃に出現しました[1~3]。この汎アフリカ的な進化の過程はヒトの来歴における多様な環境を示唆していますが、熱帯林の役割の理解は乏しいままです。本論文は、現在の熱帯雨林地域であるコートジボワール南部における、中期更新世後期の物質文化と湿潤な熱帯林明確な関連を報告します。OSLとESRを組み合わせた年代測定手法によって、ベテI遺跡におけるヒトの居住開始が15万年前頃に絞り込まれ、この居住がホモ・サピエンスと結びつけられました。関連堆積物の植物蝋状物質の生体標識や安定同位体や植物珪酸体化石や花粉の分析はすべて、湿潤な森林環境を示しています。これらの結果は、ヒトのこの種の居住地との間の既知で最古級の明確な関連を表しています。石器群がこの湿潤な森林環境と確実に関連づけられたことから、アフリカの森林は早くも15万年前頃には、ホモ・サピエンスにとって大きな生態学的障壁ではなかった、と論証されます。
●研究史
現生人類は砂漠から密生した熱帯雨林まで、全世界の生物群系を占めるようになるまで拡散する前に、アフリカで30万年前頃の少し前にアフリカで出現した、と考えられています[4、5]。ヒトの出現と拡大[たとえば、7]なついての文化および環境の背景に関する研究では、草原と海岸が通常は重視されてきましたが、最近の証拠は、現生人類の最初期の先史時代におけるいくつかの地域と生態系を示唆してきました[3、9、10]。アジアとオセアニアの熱帯雨林における【現生人類の】居住は、早くも45000年前頃には確実に記録されており[12]、おそらく73000年前頃にまでさかのぼります[13]。しかし、現在のアフリカの熱帯雨林地域におけるMSA石器群の広範な存在の証拠にも関わらず、アフリカにおけるそうした湿潤な熱帯林との確実で密接なヒトの関わりは18000年以上前にはさかのぼりません。ケニア沿岸部のパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡における同位体および動物考古学の証拠は、少なくとも77000年前頃以降の混合熱帯林と移行帯環境の利用を裏づけましたが[18]、湿潤な熱帯林の占有についての明確な証拠はまだ欠けているままです。
●ベテI遺跡
本論文は、アフリカ西部のコートジボワールのアンヤマ(Anyama)地域に位置するベテI遺跡(図1)からの分析の一式を報告し、この分析では、15万年前頃にさかのぼるヒトと湿潤な熱帯林との間の深い時間の関連が論証されます(図2)。この関連は、アフリカ全域で知られている同時代の遺跡とは地理的および生態学的の両方で異なります。ベテI遺跡(北緯5.515度、西経4.06度)はアビジャン(Abidjan)地区の北方約20kmに位置し、先行研究で初めて報告されたように、アビジャン地区では、広範な第四紀の層序が、砕石活動によって明らかになったいくつかの深い堆積物の露出で示されています。これらは6ヶ所の層序区画に区分され(底部から上部にかけてFからA)、さらに14層に細分されていますが、これはコートジボワールとロシアの合同調査団によって1982~1993年の間に行なわれた発掘調査においてのことで、この発掘趙では、14mの深さ階段状の試掘坑に焦点が当てられ、採石場跡地全体でより深い露出が観察されました。これらはおもに、緑泥石泥板岩の岩盤の風化した層準(区画F)、大陸縁辺層に分類される粗粒沖積堆積物(区画E)、より上部の層(区画DおよびC)の細粒のない沖積の低い丘陵(terre de barre)、最近の下層土壌(区画B)、表土層準(区画A)で構成されています。以下は本論文の図1です。
放射性熱発酵研究は当初、区画Eの堆積物を前期および中期更新世と年代測定しました。これらの年代はひじょうに注意深く考えるべきですが、考古学的層準の下にある堆積物での区画Dから得られた254000±51000年前の推定値は、ベテI遺跡におけるヒトの存在の暫定的な上限を提供します。近隣の谷底の堆積物の年代測定から、現代の排水路を建造するための前期完新世もしくは末期更新世の層の切込み、おそらくは段丘堆積物の切断が示唆されます。区画Dから回収された重要な遺物群には、鶴嘴などの重い道具構成が、小さな再加工された道具とともに含まれています。区画Cの遺物群には、ルヴァロワ(Levallois)縮小や小さな再加工された道具があります。残念ながら、これらの石器収集物は2011年の内戦中に失われました。以下は本論文の図2です。
現在、ベテI遺跡は湿潤なアフリカ西部の熱帯雨林の現代の分布内に位置しており、このアフリカ西部の熱帯雨林には、周期的から恒久的に完遂する湿よび河畔林や常緑熱帯雨林を含めて、多様な種類の森林があります。ベテI遺跡はアフリカの(現在の)熱帯林地域でこれまでに見つかった最も深い層序のある遺跡を表しているので、2020年に再調査が行なわれました。ベテI遺跡は残念ながらその後、砕石活動によって2020~2021年の間に破壊されました。
ベテI遺跡に最初の深い試掘坑が設置され、堆積物層序の上部5.65mmにわたる最初の発掘の最上部の4段が切り取られて覗かれました。この現地調査記録は先行研究で報告された層序と一致し、区画A~Dと呼ばれる4ヶ所の別々の堆積物区画から構成されます。新たな堆積学的および古生態学的分析のため、この層序から37点の堆積物標本一式が回収されました。堆積物の物理的特性の定量化された記述は、現地の記録および先行研究と一致しましたが、区画のCとDの間の不連続の移行も浮き彫りにしました(図2)。堆積学は、考古学的遺物群について高解像度の堆積環境を提示する散発的な間隙がある、低エネルギー沖積環境との解釈を裏づけており、ベテI遺跡における石の打ち割砕屑物の以前のどうていは、堆積後の攪乱の可能性がほとんどないことを示唆しています。
●ベテI遺跡の年代測定
ベテI遺跡の年表は、SA(single-aliquot、単分割)およびSG(single-grain、単一粒)のOSL年代測定【それぞれ、SA-OSLとSG-OSL】とMC(multiple centre、多中心)ESR年代測定【MC-ESR】の組み合わせを用いて得られ、両手法とも、堆積物から抽出された石英粒に適用されました。合計で、8点のSA-OSLおよびSG-OSLの年代と5点のMC-ESRの年代が、区画CおよびDから得られたさまざまな標本で計算されました(図2)。これらの年代は全体的に、ベテI遺跡の層序の基底部から最上部まで、層序学的に一致しており、その範囲は中期更新世から更新世/完新世移行期にまたがっていて、区画CおよびDから発見された同じ場所の石器群についての一貫した年代と深度のモデルの確証に寄与します。
OSLとESRの組み合わされたデータセットの重要な評価は以下の3点で、(1)SG-OSLの結果は堆積物の真の堆積年代の最も信頼できる推定値とみなすことができ、(2)SG-OSLの年表は、最も多くの標本で、SA-OSLとMC-ESRの結果によって提供される半ば独立した年代制御によって裏づけられ、(3)MC手法で得られたESR年代のさまざまな一式のうち、Ti–H(titanium centre of quartz、石英のチタニウムの中心)に基づくTi–H ESRは真の堆積年代により近い推定値を提供すると考えられます。年代測定結果の全部の考察は、補足情報SI-3節に示されています。層序の底部では、最も深い標本であるANY20-09のSG-OSL年代は166000±14000年前で、これは19万~13万年前頃のMIS6となり、堆積物の上限年代を提供します。より大きな道具要素のある、区画Dから発見された石器群の年表は、146000±9000年前(ANY20-08)と55000±3000年前(ANY20-05)のSG-OSLによってまとめられます。比較すると、Ti–H ESRの年代はより古いものの、1σでは一貫しており、それは大きな関連する不確実性のためです。とくに、標本ANY20-08は区画Dの石器の最深の一と関連しており、ベテI遺跡におけるヒトの存在の最古級の証拠に15万年前頃(MIS6)の年代を提供します。
区画DからCへの移行から得られた35000±3000年前(SG-OSL)と44000±19000年前(ESR)は比較的一貫しており、1σでは一致し、区画Dの堆積物の終わりがMIS3末に向かっていることを示唆しています。層序のさらに丈夫では、区画Cから得られた2点のSG-OSL年代から、典型的なMSA人工遺物の年代が20000±1000年前(ANY20-03)と12000±1000年前(ANY20-02)の間に制約され、この区画はMIS2に位置づけられます。
●植物遺骸の分析
炭素の放射性同位体(¹³C)を用いて、ベテI遺跡の層序全体で採取された堆積物から得られたSOM(soil organic matter、土壌有機物)塊のδ¹³C測定値は、図2に示されています。δ¹³Cの値の範囲は−25.4~−27.6‰(−26.6±0.6‰、 35点)で、−24.8~−34.5‰(−28.1±1.9‰、24点)という、スース効果で補正された現在のアフリカの熱帯林の状況から測定されたSOM塊のδ¹³C値と重複しています。SOMのδ¹³Cは通常、立木の生物量およびヒト(たとえば、寝具類や他の利用)もしくは自然(たとえば、風や水での移動)によってもたらされた植物遺骸を表している、と想定されており、SOM塊のδ¹³C値が微生物活動の結果である寄与植物体対して+1~+3パーミル増加します。これを念頭に置くと、ベテI遺跡のSOM塊のδ¹³C値はおもにC3植物の生物量を示唆しており、標本31点(区画D3)から標本29点(区画D2)、深さ4.2mから深さ3.8Mにかけて記録された値は増加し、標本21点(区画D1、深さ2.2m)から得られたδ¹³Cの変動は、層序の最上部に向かって値が着実に増加する傾向にあります。これらの傾向の正確な要因を識別するために、この同位体分析が層序から得られた生物標識分析(葉の蝋状物質)や植物珪酸体化石(プラントオパール)および花粉の調査と組み合わされました。
古環境標本37点のうち31点には、GCMS(gas chromatography mass spectrometry、ガス色層分析質量分析)での植物の蝋状物質(ワックス)生物標識分析に充分な資質がありました。FAME(fatty acid methyl ester、脂肪酸メチル基エステル)としての偶数鎖の中鎖長(C₂₂-₂₄)のn-アルカン酸が生物標識の分布の大半を占めており、ほとんどの標本について、水中もしくは浮上性の植物の蝋状物質供給源からの高い流入が示唆されます。平均鎖長(ACL₂₀₋₃₄)の範囲は23.9~27.3で(25.2±0.84、31点)、これは通常、アフリカの陸生植物から得られた現代のACLの以前の報告より低くなります。水生植物の比率(Paq、C₂₂₊₂₄)の範囲は0.41~0.86(0.66±0.09、31点)で、STR(submerged/terrestrial ratio、浸水/陸上比)について、C₂₄ FAME(STR₂₄)の範囲は0.15~0.44(0.25±0.07、31点)でした(図2)。両方の代理から、豊富な湿地に適応した種が、完全に水没していた植物か浮上植物で、ベテI遺跡への植物の蝋状物質の生物標識の主要な供給源だった、と示唆されます。しかし、STR値から、陸生植物もベテI遺跡の堆積物に植物の蝋状物質の生物標識を供給した、と示唆されます。C₂₄ FAMEとSOM塊のδ¹³Cの量の間の関係で、パターンも変化しているようです。たとえば、2.0m下(区画D3の下部~区画D1の中央部にかけて)では、δ¹³CはSTRおよびPaqと同じ方向で共変動します。しかし、2.0mより上(区画D1の中央部から区画Aの中央部)では、C₂₄ FAMEと堆積物塊のδ¹³Cとの間で逆位相の相関があります。つまり、他のFAMEと比較してC₂₄の存在量が増加すると、δ¹³Cは減少します。さらに、STRとPaq両方の値が増加するにつれて、水没/水生植物の生物標識からの流入が大きくなることを示唆し、堆積物塊のδ¹³Cはより低下します。森林遷移など、局所的な森林の特徴が変化するにつれて、塊の同位体の兆候は陸生もしくは水生植物の存在量と一致して変化したかもしれません。
微細植物学的証拠の保存状態と復元を確証するために、植物珪酸体化石と花粉で9点の標本が、人工遺物密度の頂点と一致し、ベテI遺跡のヒトの居住と相関して、生化学データで観察される傾向へのさらなる洞察を提供するよう、分析されました。植物の微小化石のこれら2種の堆積と保存状態は逆相関しているので、植物珪酸体化石の流入が少ない標本は、花粉の流入が多くなる傾向にありますが、各標本からは植物の微小化石が得られました。
9点の標本(標本10、11、21、22、26、27、30、31、36)によって得られた植物珪酸体化石群から、その保存状態が確証されました。形態型同定から、すべての標本は、樹木/低木を表す、これらの形態型の82~96%で樹木性植物の珪酸体化石形態型によって占められているので、全事例でC3植物の優占する生物量が示唆される、と論証されました。ヤシ科(Arecaceae)の珪酸体化石(ヤシ)は9点の標本のうち7点において2~7%の遺物群が特定され、最上層標本(標本10)では最大に達しました。イネ科(Grass)の珪酸体化石は遺物群の1~18%を占め、最高値は最下層の標本(標本36)に由来します。イネ科は標本27で再び頂点に達し(16%)、最上層の区画(標本10では3%、標本11では1%)では最低の割合に落ち込みました。単子葉植物と双子葉植物によって得られた珪酸体化石の数を直接的に比較できないのは、植物には、珪酸体化石を生み出す能力が琴似るからで、とくに、イネ科は他の単子葉植物よりも多くを生成します。単子葉植物が双子葉植物よりも最大20倍多く珪酸体化石を生成できるので、全標本における樹木性の珪酸体化石の優勢(81%以上)は、相対的に少ない草やヤシで局所的な森林が覆われていた明確な兆候です。
これらの標本における花粉群は、双子葉植物が優占し(70~80%)、それに続くのがイネ科(10~20%)とヤシ科(5~10%)です。花粉の種類は、一部の事例ではヤシ科のギニアアブラヤシ(Elaeis guineensis)のように種まで、およびキョウチクトウ科のフンテリア属(Hunteria)のような属もしくはイネ科(Poaceae)のような科まで分類できました。アフリカ西部の湿潤な熱帯雨林や河畔林や湿地林に典型的な花粉の種類が一貫して存在していました。初期の河畔林の遷移は、ヤシ科のギニアアブラヤシ(Elaeis guineensis)、トウダイグサ科のアミガサギリ属(Alchornea)およびオオバギ属(Macaranga)に属する密集した低木/樹木、リンドウ科のアントクレイスタ属(Anthocleista)などのコロニー形成に感激のある樹木の共存によって示されました。カンラン科のアイエレ(Canarium schweinfurthii)とフクギ科のペンタデスマ属(Pentadesma)は両方とも大型の樹木で、河川と湖の近くの季節的に浸水する環境で森林遷移の後半でよく見られます。これらの花粉の種類は区画D(具体的にはD2の中央部とD3の最上部)においてより一般的で、区画Cには存在せず、多くの河畔林の種がある多様な属である、コミカンソウ科のウアパカ属(Uapaca)によって置換されています。区画Cでも、クリソバラヌス科のパリナリ属種(Parinari sp.)など河畔林に典型的な分類群や、ギニアとコンゴの森林地帯に広がっているキョウチクトウ科のインドジャボク属種(Rauvolfia sp.)などの種類が得られています。区画Dの標本にはより多くのキョウチクトウ科のフンテリア属(Hunteria)の花粉が含まれており、これはおそらく、アフリカ西部の湿潤な熱帯雨林、とくに水路に隣接する森林において一般的なフンテリア・ウンベラータ(Hunteria umbellata)です。区画D3の最上部から得られた標本30におけるギニアアブラヤシとフンテリア属の別の断片の存在(図3)は、植物から直接的に落下し、堆積物基盤に取り込まれた花/葯についての強力な証拠を提示し、局所的な熱帯雨林兆候を裏づけます。以下は本論文の図3です。
●考察
区画CのMSA遺物群の20000~12000年前頃、および区画Dの大型道具構成によって区別される遺物群の150000~55000年前頃とのSG-OSLの年代は、中期更新世後のアンヤマ地域における連続したヒトの居住を記録します。しかし、とくに興味深いのは区画Dにおける石器群で、それは、この石器群が湿潤で森林に覆われた環境と関連しているからです。区画Dの古環境の代理は、草が微小化石記録に過剰に表れる傾向にも関わらず、開けて乾燥した草原や疎らなサバンナや森林サバンナ植生被覆の証拠を示しません。堆積物と生物標識と微小化石の結果は著しく一致しており、熱帯林環境における沖積堆積物の証拠を示し、河畔林や湿地林や熱帯雨林の分類群で構成されています。現時点で、MIS6の区画Dから得られたベテI遺跡の遺物群は、アフリカ西部のサヘルおよびスーダンのサバンナ生物群系外で発見されたものとしては最古級です(図4)。以下は本論文の図4です。
より広範な規模では、区画Dの石器群は。サバンナもしくは現代の沿岸に近いさまざまな生態系地域に位置する他のアフリカの遺跡(16ヶ所)で見つかったMIS6のMSA石器群と同時代で(図1)、具体的には、アフリカ西部のバルニー1(Bargny 1)およびバルニー3(Bargny 3)遺跡、アフリカ北部のビズムーン(Bizmoune)遺跡とイフリ・ナンマル(Ifri n'Ammar)遺跡とワディ・ラザリム(Wadi Lazalim)遺跡とビル・ティルファイ(Bîr Tirfawi)遺跡とタラムサ1(Taramsa 1)遺跡、アフリカ東部のサイ島遺跡 8-B-11(Sai Island Site 8-B-11)とEDAR 135遺跡アブドゥル(Abdur)遺跡、南アフリカ共和国のアマンジ・スプリングス(Amanzi Springs)遺跡とフロリスバッド(Florisbad)遺跡とピナクル・ポイント遺跡13B層(Pinnacle Point 13B)とワンダーワーク洞窟(Wonderwerk Cave)遺跡とボーダー洞窟(Border Cave)遺跡ブンドゥ農場(Bundu Farm)遺跡です。
いくつかの一連の独立した証拠は、少なくとも15万年前頃に始まった、アンヤマ地域におけるヒトと熱帯の湿潤な広葉樹林との間の関連を確証しました。経時的に一貫した森林の兆候からも、アフリカ西部のこの地域おそらく、乾燥期には熱帯雨林の退避地として機能した、と示唆されます。これは、より低緯度の地域における減少したものの継続している被覆率を示す、中期および後期更新世の植生予測を裏づけます。これらのデータは、ヒトの進化と湿潤な熱帯林との間の深い時間のつながりを確証し、この過程におけるアフリカの多くの生物群系と多様な世帯系地域の重要性を浮き彫りにします。区画Cの遺物群はルヴァロワ剥片および尖頭器や側面と端部を再加工した破片を特徴としており、後期更新世末へと向かう、アフリカ西部における年代的に存続したMSAの新たな証拠を追加し、これはおそらく重要な地域的特徴です[7]。
区画Dの遺物群は小型の道具構成とともに大型の道具を特徴としており、アフリカの中央部および西部で見られる多様で頑丈遺物群は熱帯林の居住への収斂的な適応的解決である、との長年の見解を裏づけるかもしれません。MIS6の年代を区画Dの遺物群の生態学的背景と組み合わせることは、アフリカでは前例がありません。結果として、区画Dの考古学的分類には細心の注意とさらなる研究が必要です。これがとくに当てはまるのは、アフリカの他地域と比較して研究が不充分なアフリカ西部の遺骸と、その考古学的層序や特定地域の特徴は、まだ充分には理解されていないからです。しかし、最重要なのは、本論文の結果が、ヒトの進化と熱帯林の生物群系との間の深い時間のつながりを確証し、現生人類が、密で湿潤な熱帯林に広く考えられているよりもずっと早く居住していた、というヒトの過去における新たな章を開いたことです。この関連は、ヒトの進化の汎アフリカモデルの予測を確証し、この仮定におけるアフリカの多くの地域と生態系の重要性を浮き彫りにします[9]。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
人類の進化:初期の人類はアフリカの熱帯雨林に生息していた証拠
アフリカの湿潤熱帯雨林には早くも15万年前には人類が暮らしていたことが示唆する、この生息環境における人類の最古の証拠を報告する論文が、Nature に掲載される。この発見は、古代の熱帯雨林の居住性に関する従来の考え方に疑問を投げかけ、西アフリカが初期の人類進化の重要な中心地であった可能性を示唆している。
人類は、約30万年前にアフリカで誕生し、その後世界中に広がっていったと考えられている。アジアやオセアニアの熱帯雨林には、早くも4万5,000年前から人類が暮らしていたが、アフリカの熱帯雨林と人類のつながりを示す最も古い証拠は、約1万8,000年前まで遡る。Eslem Ben ArousとEleanor Scerriらは、新たな論文でその境界をさらに遡っている。著者らは、現在のコートジボワールにあるベテI(Bété I)と呼ばれる遺跡に注目した。この遺跡には、つるはしなどの石器やその他の小さな遺物など、人類が居住していた痕跡が残っている。この遺跡は15万年前のもので、堆積物の分析から、古代の人々がそこに住んでいた当時は、現在と同様に湿潤な熱帯雨林であったことが明らかになった。
これは、人間とこの種の生態系との関連性が明らかになった最古の事例である。この発見は、古代の熱帯雨林が、かつて考えられていたほど常に人が住めないような場所ではなかったことを示唆している。
考古学:15万年前にアフリカの湿潤熱帯林に居住していた現生人類
考古学:アフリカ熱帯林における人類居住の最古の記録
今回、15万年前にアフリカ西部の熱帯雨林に現生人類が居住していたことを示す証拠が見つかり、熱帯林の居住可能性に関する従来の認識が覆されている。アフリカではこれまで、林冠の閉じた熱帯林と現生人類の居住との確実な関連は、最も古くて約1万8000年前とされていた。
参考文献:
Arous EB. et al.(2025): Humans in Africa’s wet tropical forests 150 thousand years ago. Nature, 640, 8058, 402–407.
https://doi.org/10.1038/s41586-025-08613-y
[1]Hublin JJ. et al.(2017): New fossils from Jebel Irhoud, Morocco and the pan-African origin of Homo sapiens. Nature, 546, 7657, 289–292.
https://doi.org/10.1038/nature22336
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[2]Richter D. et al.(2017): The age of the hominin fossils from Jebel Irhoud, Morocco, and the origins of the Middle Stone Age. Nature, 546, 7657, 293–296.
https://doi.org/10.1038/nature22335
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[3]Scerri EML, Chikhi L, and Thomas MG.(2019): Beyond multiregional and simple out-of-Africa models of human evolution. Nature Ecology & Evolution, 3, 10, 1370–1372.
https://doi.org/10.1038/s41559-019-0992-1
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[4]Roberts P, and Stewart BA.(2018): Defining the ‘generalist specialist’ niche for Pleistocene Homo sapiens. Nature Human Behaviour, 2, 8, 542–550.
https://doi.org/10.1038/s41562-018-0394-4
関連記事
[5]Groucutt HS. et al.(2021): Multiple hominin dispersals into Southwest Asia over the past 400,000 years. Nature, 597, 7876, 376–380.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03863-y
関連記事
[7]Scerri EML. et al.(2021): Continuity of the Middle Stone Age into the Holocene. Scientific Reports, 11, 70.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-79418-4
関連記事
[9]Scerri EML. et al.(2018): Did Our Species Evolve in Subdivided Populations across Africa, and Why Does It Matter? Trends in Ecology & Evolution, 33, 8, 582-594.
https://doi.org/10.1016/j.tree.2018.05.005
関連記事
[10]Ragsdale AP. et al.(2023): A weakly structured stem for human origins in Africa. Nature, 617, 7962, 755–763.
https://doi.org/10.1038/s41586-023-06055-y
関連記事
[12]Summerhayes GR. et al.(2010): Human Adaptation and Plant Use in Highland New Guinea 49,000 to 44,000 Years Ago. Science, 330, 6000, 78-81.
https://doi.org/10.1126/science.1193130
関連記事
[13]Westaway KE. et al.(2017): An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago. Nature, 548, 7667, 322–325.
https://doi.org/10.1038/nature23452
関連記事
[18]Shipton C. et al.(2018): 78,000-year-old record of Middle and Later stone age innovation in an East African tropical forest. Nature Communications, 9, 1832.
https://dx.doi.org/10.1038/s41467-018-04057-3
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●要約
ヒトはアフリカ全域で30万年前頃に出現しました[1~3]。この汎アフリカ的な進化の過程はヒトの来歴における多様な環境を示唆していますが、熱帯林の役割の理解は乏しいままです。本論文は、現在の熱帯雨林地域であるコートジボワール南部における、中期更新世後期の物質文化と湿潤な熱帯林明確な関連を報告します。OSLとESRを組み合わせた年代測定手法によって、ベテI遺跡におけるヒトの居住開始が15万年前頃に絞り込まれ、この居住がホモ・サピエンスと結びつけられました。関連堆積物の植物蝋状物質の生体標識や安定同位体や植物珪酸体化石や花粉の分析はすべて、湿潤な森林環境を示しています。これらの結果は、ヒトのこの種の居住地との間の既知で最古級の明確な関連を表しています。石器群がこの湿潤な森林環境と確実に関連づけられたことから、アフリカの森林は早くも15万年前頃には、ホモ・サピエンスにとって大きな生態学的障壁ではなかった、と論証されます。
●研究史
現生人類は砂漠から密生した熱帯雨林まで、全世界の生物群系を占めるようになるまで拡散する前に、アフリカで30万年前頃の少し前にアフリカで出現した、と考えられています[4、5]。ヒトの出現と拡大[たとえば、7]なついての文化および環境の背景に関する研究では、草原と海岸が通常は重視されてきましたが、最近の証拠は、現生人類の最初期の先史時代におけるいくつかの地域と生態系を示唆してきました[3、9、10]。アジアとオセアニアの熱帯雨林における【現生人類の】居住は、早くも45000年前頃には確実に記録されており[12]、おそらく73000年前頃にまでさかのぼります[13]。しかし、現在のアフリカの熱帯雨林地域におけるMSA石器群の広範な存在の証拠にも関わらず、アフリカにおけるそうした湿潤な熱帯林との確実で密接なヒトの関わりは18000年以上前にはさかのぼりません。ケニア沿岸部のパンガ・ヤ・サイディ(Panga ya Saidi)洞窟遺跡における同位体および動物考古学の証拠は、少なくとも77000年前頃以降の混合熱帯林と移行帯環境の利用を裏づけましたが[18]、湿潤な熱帯林の占有についての明確な証拠はまだ欠けているままです。
●ベテI遺跡
本論文は、アフリカ西部のコートジボワールのアンヤマ(Anyama)地域に位置するベテI遺跡(図1)からの分析の一式を報告し、この分析では、15万年前頃にさかのぼるヒトと湿潤な熱帯林との間の深い時間の関連が論証されます(図2)。この関連は、アフリカ全域で知られている同時代の遺跡とは地理的および生態学的の両方で異なります。ベテI遺跡(北緯5.515度、西経4.06度)はアビジャン(Abidjan)地区の北方約20kmに位置し、先行研究で初めて報告されたように、アビジャン地区では、広範な第四紀の層序が、砕石活動によって明らかになったいくつかの深い堆積物の露出で示されています。これらは6ヶ所の層序区画に区分され(底部から上部にかけてFからA)、さらに14層に細分されていますが、これはコートジボワールとロシアの合同調査団によって1982~1993年の間に行なわれた発掘調査においてのことで、この発掘趙では、14mの深さ階段状の試掘坑に焦点が当てられ、採石場跡地全体でより深い露出が観察されました。これらはおもに、緑泥石泥板岩の岩盤の風化した層準(区画F)、大陸縁辺層に分類される粗粒沖積堆積物(区画E)、より上部の層(区画DおよびC)の細粒のない沖積の低い丘陵(terre de barre)、最近の下層土壌(区画B)、表土層準(区画A)で構成されています。以下は本論文の図1です。
放射性熱発酵研究は当初、区画Eの堆積物を前期および中期更新世と年代測定しました。これらの年代はひじょうに注意深く考えるべきですが、考古学的層準の下にある堆積物での区画Dから得られた254000±51000年前の推定値は、ベテI遺跡におけるヒトの存在の暫定的な上限を提供します。近隣の谷底の堆積物の年代測定から、現代の排水路を建造するための前期完新世もしくは末期更新世の層の切込み、おそらくは段丘堆積物の切断が示唆されます。区画Dから回収された重要な遺物群には、鶴嘴などの重い道具構成が、小さな再加工された道具とともに含まれています。区画Cの遺物群には、ルヴァロワ(Levallois)縮小や小さな再加工された道具があります。残念ながら、これらの石器収集物は2011年の内戦中に失われました。以下は本論文の図2です。
現在、ベテI遺跡は湿潤なアフリカ西部の熱帯雨林の現代の分布内に位置しており、このアフリカ西部の熱帯雨林には、周期的から恒久的に完遂する湿よび河畔林や常緑熱帯雨林を含めて、多様な種類の森林があります。ベテI遺跡はアフリカの(現在の)熱帯林地域でこれまでに見つかった最も深い層序のある遺跡を表しているので、2020年に再調査が行なわれました。ベテI遺跡は残念ながらその後、砕石活動によって2020~2021年の間に破壊されました。
ベテI遺跡に最初の深い試掘坑が設置され、堆積物層序の上部5.65mmにわたる最初の発掘の最上部の4段が切り取られて覗かれました。この現地調査記録は先行研究で報告された層序と一致し、区画A~Dと呼ばれる4ヶ所の別々の堆積物区画から構成されます。新たな堆積学的および古生態学的分析のため、この層序から37点の堆積物標本一式が回収されました。堆積物の物理的特性の定量化された記述は、現地の記録および先行研究と一致しましたが、区画のCとDの間の不連続の移行も浮き彫りにしました(図2)。堆積学は、考古学的遺物群について高解像度の堆積環境を提示する散発的な間隙がある、低エネルギー沖積環境との解釈を裏づけており、ベテI遺跡における石の打ち割砕屑物の以前のどうていは、堆積後の攪乱の可能性がほとんどないことを示唆しています。
●ベテI遺跡の年代測定
ベテI遺跡の年表は、SA(single-aliquot、単分割)およびSG(single-grain、単一粒)のOSL年代測定【それぞれ、SA-OSLとSG-OSL】とMC(multiple centre、多中心)ESR年代測定【MC-ESR】の組み合わせを用いて得られ、両手法とも、堆積物から抽出された石英粒に適用されました。合計で、8点のSA-OSLおよびSG-OSLの年代と5点のMC-ESRの年代が、区画CおよびDから得られたさまざまな標本で計算されました(図2)。これらの年代は全体的に、ベテI遺跡の層序の基底部から最上部まで、層序学的に一致しており、その範囲は中期更新世から更新世/完新世移行期にまたがっていて、区画CおよびDから発見された同じ場所の石器群についての一貫した年代と深度のモデルの確証に寄与します。
OSLとESRの組み合わされたデータセットの重要な評価は以下の3点で、(1)SG-OSLの結果は堆積物の真の堆積年代の最も信頼できる推定値とみなすことができ、(2)SG-OSLの年表は、最も多くの標本で、SA-OSLとMC-ESRの結果によって提供される半ば独立した年代制御によって裏づけられ、(3)MC手法で得られたESR年代のさまざまな一式のうち、Ti–H(titanium centre of quartz、石英のチタニウムの中心)に基づくTi–H ESRは真の堆積年代により近い推定値を提供すると考えられます。年代測定結果の全部の考察は、補足情報SI-3節に示されています。層序の底部では、最も深い標本であるANY20-09のSG-OSL年代は166000±14000年前で、これは19万~13万年前頃のMIS6となり、堆積物の上限年代を提供します。より大きな道具要素のある、区画Dから発見された石器群の年表は、146000±9000年前(ANY20-08)と55000±3000年前(ANY20-05)のSG-OSLによってまとめられます。比較すると、Ti–H ESRの年代はより古いものの、1σでは一貫しており、それは大きな関連する不確実性のためです。とくに、標本ANY20-08は区画Dの石器の最深の一と関連しており、ベテI遺跡におけるヒトの存在の最古級の証拠に15万年前頃(MIS6)の年代を提供します。
区画DからCへの移行から得られた35000±3000年前(SG-OSL)と44000±19000年前(ESR)は比較的一貫しており、1σでは一致し、区画Dの堆積物の終わりがMIS3末に向かっていることを示唆しています。層序のさらに丈夫では、区画Cから得られた2点のSG-OSL年代から、典型的なMSA人工遺物の年代が20000±1000年前(ANY20-03)と12000±1000年前(ANY20-02)の間に制約され、この区画はMIS2に位置づけられます。
●植物遺骸の分析
炭素の放射性同位体(¹³C)を用いて、ベテI遺跡の層序全体で採取された堆積物から得られたSOM(soil organic matter、土壌有機物)塊のδ¹³C測定値は、図2に示されています。δ¹³Cの値の範囲は−25.4~−27.6‰(−26.6±0.6‰、 35点)で、−24.8~−34.5‰(−28.1±1.9‰、24点)という、スース効果で補正された現在のアフリカの熱帯林の状況から測定されたSOM塊のδ¹³C値と重複しています。SOMのδ¹³Cは通常、立木の生物量およびヒト(たとえば、寝具類や他の利用)もしくは自然(たとえば、風や水での移動)によってもたらされた植物遺骸を表している、と想定されており、SOM塊のδ¹³C値が微生物活動の結果である寄与植物体対して+1~+3パーミル増加します。これを念頭に置くと、ベテI遺跡のSOM塊のδ¹³C値はおもにC3植物の生物量を示唆しており、標本31点(区画D3)から標本29点(区画D2)、深さ4.2mから深さ3.8Mにかけて記録された値は増加し、標本21点(区画D1、深さ2.2m)から得られたδ¹³Cの変動は、層序の最上部に向かって値が着実に増加する傾向にあります。これらの傾向の正確な要因を識別するために、この同位体分析が層序から得られた生物標識分析(葉の蝋状物質)や植物珪酸体化石(プラントオパール)および花粉の調査と組み合わされました。
古環境標本37点のうち31点には、GCMS(gas chromatography mass spectrometry、ガス色層分析質量分析)での植物の蝋状物質(ワックス)生物標識分析に充分な資質がありました。FAME(fatty acid methyl ester、脂肪酸メチル基エステル)としての偶数鎖の中鎖長(C₂₂-₂₄)のn-アルカン酸が生物標識の分布の大半を占めており、ほとんどの標本について、水中もしくは浮上性の植物の蝋状物質供給源からの高い流入が示唆されます。平均鎖長(ACL₂₀₋₃₄)の範囲は23.9~27.3で(25.2±0.84、31点)、これは通常、アフリカの陸生植物から得られた現代のACLの以前の報告より低くなります。水生植物の比率(Paq、C₂₂₊₂₄)の範囲は0.41~0.86(0.66±0.09、31点)で、STR(submerged/terrestrial ratio、浸水/陸上比)について、C₂₄ FAME(STR₂₄)の範囲は0.15~0.44(0.25±0.07、31点)でした(図2)。両方の代理から、豊富な湿地に適応した種が、完全に水没していた植物か浮上植物で、ベテI遺跡への植物の蝋状物質の生物標識の主要な供給源だった、と示唆されます。しかし、STR値から、陸生植物もベテI遺跡の堆積物に植物の蝋状物質の生物標識を供給した、と示唆されます。C₂₄ FAMEとSOM塊のδ¹³Cの量の間の関係で、パターンも変化しているようです。たとえば、2.0m下(区画D3の下部~区画D1の中央部にかけて)では、δ¹³CはSTRおよびPaqと同じ方向で共変動します。しかし、2.0mより上(区画D1の中央部から区画Aの中央部)では、C₂₄ FAMEと堆積物塊のδ¹³Cとの間で逆位相の相関があります。つまり、他のFAMEと比較してC₂₄の存在量が増加すると、δ¹³Cは減少します。さらに、STRとPaq両方の値が増加するにつれて、水没/水生植物の生物標識からの流入が大きくなることを示唆し、堆積物塊のδ¹³Cはより低下します。森林遷移など、局所的な森林の特徴が変化するにつれて、塊の同位体の兆候は陸生もしくは水生植物の存在量と一致して変化したかもしれません。
微細植物学的証拠の保存状態と復元を確証するために、植物珪酸体化石と花粉で9点の標本が、人工遺物密度の頂点と一致し、ベテI遺跡のヒトの居住と相関して、生化学データで観察される傾向へのさらなる洞察を提供するよう、分析されました。植物の微小化石のこれら2種の堆積と保存状態は逆相関しているので、植物珪酸体化石の流入が少ない標本は、花粉の流入が多くなる傾向にありますが、各標本からは植物の微小化石が得られました。
9点の標本(標本10、11、21、22、26、27、30、31、36)によって得られた植物珪酸体化石群から、その保存状態が確証されました。形態型同定から、すべての標本は、樹木/低木を表す、これらの形態型の82~96%で樹木性植物の珪酸体化石形態型によって占められているので、全事例でC3植物の優占する生物量が示唆される、と論証されました。ヤシ科(Arecaceae)の珪酸体化石(ヤシ)は9点の標本のうち7点において2~7%の遺物群が特定され、最上層標本(標本10)では最大に達しました。イネ科(Grass)の珪酸体化石は遺物群の1~18%を占め、最高値は最下層の標本(標本36)に由来します。イネ科は標本27で再び頂点に達し(16%)、最上層の区画(標本10では3%、標本11では1%)では最低の割合に落ち込みました。単子葉植物と双子葉植物によって得られた珪酸体化石の数を直接的に比較できないのは、植物には、珪酸体化石を生み出す能力が琴似るからで、とくに、イネ科は他の単子葉植物よりも多くを生成します。単子葉植物が双子葉植物よりも最大20倍多く珪酸体化石を生成できるので、全標本における樹木性の珪酸体化石の優勢(81%以上)は、相対的に少ない草やヤシで局所的な森林が覆われていた明確な兆候です。
これらの標本における花粉群は、双子葉植物が優占し(70~80%)、それに続くのがイネ科(10~20%)とヤシ科(5~10%)です。花粉の種類は、一部の事例ではヤシ科のギニアアブラヤシ(Elaeis guineensis)のように種まで、およびキョウチクトウ科のフンテリア属(Hunteria)のような属もしくはイネ科(Poaceae)のような科まで分類できました。アフリカ西部の湿潤な熱帯雨林や河畔林や湿地林に典型的な花粉の種類が一貫して存在していました。初期の河畔林の遷移は、ヤシ科のギニアアブラヤシ(Elaeis guineensis)、トウダイグサ科のアミガサギリ属(Alchornea)およびオオバギ属(Macaranga)に属する密集した低木/樹木、リンドウ科のアントクレイスタ属(Anthocleista)などのコロニー形成に感激のある樹木の共存によって示されました。カンラン科のアイエレ(Canarium schweinfurthii)とフクギ科のペンタデスマ属(Pentadesma)は両方とも大型の樹木で、河川と湖の近くの季節的に浸水する環境で森林遷移の後半でよく見られます。これらの花粉の種類は区画D(具体的にはD2の中央部とD3の最上部)においてより一般的で、区画Cには存在せず、多くの河畔林の種がある多様な属である、コミカンソウ科のウアパカ属(Uapaca)によって置換されています。区画Cでも、クリソバラヌス科のパリナリ属種(Parinari sp.)など河畔林に典型的な分類群や、ギニアとコンゴの森林地帯に広がっているキョウチクトウ科のインドジャボク属種(Rauvolfia sp.)などの種類が得られています。区画Dの標本にはより多くのキョウチクトウ科のフンテリア属(Hunteria)の花粉が含まれており、これはおそらく、アフリカ西部の湿潤な熱帯雨林、とくに水路に隣接する森林において一般的なフンテリア・ウンベラータ(Hunteria umbellata)です。区画D3の最上部から得られた標本30におけるギニアアブラヤシとフンテリア属の別の断片の存在(図3)は、植物から直接的に落下し、堆積物基盤に取り込まれた花/葯についての強力な証拠を提示し、局所的な熱帯雨林兆候を裏づけます。以下は本論文の図3です。
●考察
区画CのMSA遺物群の20000~12000年前頃、および区画Dの大型道具構成によって区別される遺物群の150000~55000年前頃とのSG-OSLの年代は、中期更新世後のアンヤマ地域における連続したヒトの居住を記録します。しかし、とくに興味深いのは区画Dにおける石器群で、それは、この石器群が湿潤で森林に覆われた環境と関連しているからです。区画Dの古環境の代理は、草が微小化石記録に過剰に表れる傾向にも関わらず、開けて乾燥した草原や疎らなサバンナや森林サバンナ植生被覆の証拠を示しません。堆積物と生物標識と微小化石の結果は著しく一致しており、熱帯林環境における沖積堆積物の証拠を示し、河畔林や湿地林や熱帯雨林の分類群で構成されています。現時点で、MIS6の区画Dから得られたベテI遺跡の遺物群は、アフリカ西部のサヘルおよびスーダンのサバンナ生物群系外で発見されたものとしては最古級です(図4)。以下は本論文の図4です。
より広範な規模では、区画Dの石器群は。サバンナもしくは現代の沿岸に近いさまざまな生態系地域に位置する他のアフリカの遺跡(16ヶ所)で見つかったMIS6のMSA石器群と同時代で(図1)、具体的には、アフリカ西部のバルニー1(Bargny 1)およびバルニー3(Bargny 3)遺跡、アフリカ北部のビズムーン(Bizmoune)遺跡とイフリ・ナンマル(Ifri n'Ammar)遺跡とワディ・ラザリム(Wadi Lazalim)遺跡とビル・ティルファイ(Bîr Tirfawi)遺跡とタラムサ1(Taramsa 1)遺跡、アフリカ東部のサイ島遺跡 8-B-11(Sai Island Site 8-B-11)とEDAR 135遺跡アブドゥル(Abdur)遺跡、南アフリカ共和国のアマンジ・スプリングス(Amanzi Springs)遺跡とフロリスバッド(Florisbad)遺跡とピナクル・ポイント遺跡13B層(Pinnacle Point 13B)とワンダーワーク洞窟(Wonderwerk Cave)遺跡とボーダー洞窟(Border Cave)遺跡ブンドゥ農場(Bundu Farm)遺跡です。
いくつかの一連の独立した証拠は、少なくとも15万年前頃に始まった、アンヤマ地域におけるヒトと熱帯の湿潤な広葉樹林との間の関連を確証しました。経時的に一貫した森林の兆候からも、アフリカ西部のこの地域おそらく、乾燥期には熱帯雨林の退避地として機能した、と示唆されます。これは、より低緯度の地域における減少したものの継続している被覆率を示す、中期および後期更新世の植生予測を裏づけます。これらのデータは、ヒトの進化と湿潤な熱帯林との間の深い時間のつながりを確証し、この過程におけるアフリカの多くの生物群系と多様な世帯系地域の重要性を浮き彫りにします。区画Cの遺物群はルヴァロワ剥片および尖頭器や側面と端部を再加工した破片を特徴としており、後期更新世末へと向かう、アフリカ西部における年代的に存続したMSAの新たな証拠を追加し、これはおそらく重要な地域的特徴です[7]。
区画Dの遺物群は小型の道具構成とともに大型の道具を特徴としており、アフリカの中央部および西部で見られる多様で頑丈遺物群は熱帯林の居住への収斂的な適応的解決である、との長年の見解を裏づけるかもしれません。MIS6の年代を区画Dの遺物群の生態学的背景と組み合わせることは、アフリカでは前例がありません。結果として、区画Dの考古学的分類には細心の注意とさらなる研究が必要です。これがとくに当てはまるのは、アフリカの他地域と比較して研究が不充分なアフリカ西部の遺骸と、その考古学的層序や特定地域の特徴は、まだ充分には理解されていないからです。しかし、最重要なのは、本論文の結果が、ヒトの進化と熱帯林の生物群系との間の深い時間のつながりを確証し、現生人類が、密で湿潤な熱帯林に広く考えられているよりもずっと早く居住していた、というヒトの過去における新たな章を開いたことです。この関連は、ヒトの進化の汎アフリカモデルの予測を確証し、この仮定におけるアフリカの多くの地域と生態系の重要性を浮き彫りにします[9]。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。
人類の進化:初期の人類はアフリカの熱帯雨林に生息していた証拠
アフリカの湿潤熱帯雨林には早くも15万年前には人類が暮らしていたことが示唆する、この生息環境における人類の最古の証拠を報告する論文が、Nature に掲載される。この発見は、古代の熱帯雨林の居住性に関する従来の考え方に疑問を投げかけ、西アフリカが初期の人類進化の重要な中心地であった可能性を示唆している。
人類は、約30万年前にアフリカで誕生し、その後世界中に広がっていったと考えられている。アジアやオセアニアの熱帯雨林には、早くも4万5,000年前から人類が暮らしていたが、アフリカの熱帯雨林と人類のつながりを示す最も古い証拠は、約1万8,000年前まで遡る。Eslem Ben ArousとEleanor Scerriらは、新たな論文でその境界をさらに遡っている。著者らは、現在のコートジボワールにあるベテI(Bété I)と呼ばれる遺跡に注目した。この遺跡には、つるはしなどの石器やその他の小さな遺物など、人類が居住していた痕跡が残っている。この遺跡は15万年前のもので、堆積物の分析から、古代の人々がそこに住んでいた当時は、現在と同様に湿潤な熱帯雨林であったことが明らかになった。
これは、人間とこの種の生態系との関連性が明らかになった最古の事例である。この発見は、古代の熱帯雨林が、かつて考えられていたほど常に人が住めないような場所ではなかったことを示唆している。
考古学:15万年前にアフリカの湿潤熱帯林に居住していた現生人類
考古学:アフリカ熱帯林における人類居住の最古の記録
今回、15万年前にアフリカ西部の熱帯雨林に現生人類が居住していたことを示す証拠が見つかり、熱帯林の居住可能性に関する従来の認識が覆されている。アフリカではこれまで、林冠の閉じた熱帯林と現生人類の居住との確実な関連は、最も古くて約1万8000年前とされていた。
参考文献:
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