ウクライナの人口史

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、古代ゲノムデータに基づくウクライナの人口史に関する研究(Saag et al., 2025)が公表されました。本論文は、おもに現在のウクライナを対象とする北ポントス地域の、紀元前7000~紀元後1800年頃の人類91個体の新たなゲノムデータを報告し、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)などを使用し、先史時代から近世までのウクライナを中心とする地域について、人口史を検証しています。本論文は、とくに鉄器時代と中世における歴史的に証明されている移住集団に焦点を当てており、この地域の人類集団の遺伝的構成の高度な時間的異質性とともに、ヨーロッパ東部および中央部に広がっている祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)構成要素が青銅器時代以降にウクライナ地域に存在してきたことを示しています。

 2022年2月に始まったロシアによるウクライナへの直接的な軍事侵攻はすでに3年以上経過し、ウクライナで多数の人々が犠牲になったことは腹立たしい限りですが、ウクライナの経済や国民の財産への大打撃はもちろん、古代ゲノム研究など学術でも多大な損失があるのではないか、と懸念しています。そうした中でも、本論文のような成果が提示されたことについては、関係者に多大な敬意と謝意を払わねばならない、と考えています。ロシアのプーチン政権やその支持者(支持勢力)および支援者(支持勢力)を呪詛したい気持ちは強くありますが、核兵器を大量に保有する覇権主義志向の強い軍事大国のロシアを相手に、日本人の一人として無力感があることも否定できず、それでも、自分にできる範囲でウクライナを支持していこう、と考えています。

 なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。ウクライナ(Ukraine)の略称はUkrです。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、EL(Eneolithic、金石併用時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、FBA(Final Bronze Age、末期青銅器時代)、LBAEIA(Late Bronze Age to Early Iron Age、後期青銅器時代~前期鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、EIA(Early Iron Age、前期鉄器時代)、SEIA(Scythian period Early Iron Age 、スキタイ期前期鉄器時代)、IAEMA(post-Scythian Iron Age to Early Middle Ages、スキタイ期の後の鉄器時代から前期中世まで)、MA(Middle Ages、中世)、EMA(Early Middle Ages、前期中世)、MAEM(Middle Ages and early modern period、中世および近世)、EM(early modern period、近世)です。



●要約

 現在のウクライナを含んでいる北ポントス地域は、広大なユーラシア草原地帯をヨーロッパ中央部とつなぐ移動の十字路でした。この研究は、紀元前7000~紀元後1800年頃の91個体についてショットガン配列決定されたゲノムデータを生成し、この地域における移住および移動性の歴史を、とくに鉄器時代と中世における歴史的に証明されている移住集団に焦点を当てて、調べました。本論文は、さまざまなユーラシアの現代人集団との遺伝的類似性が変動する、祖先系統における高度な時間的異質性を推測します。地理的・文化的・社会的に定義された集団内の祖先系統における、高い異質性も推測されます。それにも関わらず、ヨーロッパ東部および中央部に広がっている祖先系統構成要素が青銅器時代以降にウクライナ地域に存在してきた、と分かりました。要するにこの研究は、頻繁な移動と同化と接触の結果としての、時代を通じてのウクライナ地域における祖先系統の多様な範囲を明らかにします。


●研究史

 移住はヒトの社会と文化と生物学ゲノムを、経時的に形成した大きな要因でした。以前の古代DNA研究では、一次近似値では、現在のヨーロッパ人のゲノムは完新世の主要な3人類集団の祖先系統で構成されている、と示唆されており[1、2]、それは、(1)在来の狩猟採集民(hunter-gatherer、略してHG)、(2)8000年前頃にヨーロッパに到来した近東の初期農耕民、(3)5000年前頃にヨーロッパへと移住した草原地帯牧畜民です。しかし、特定の地域の詳細な遺伝的歴史は必然的により複雑で、より焦点を絞った局所規模の研究が必要です。そのようなこれまで比較的研究されていなかった地域の一つが黒海北部(ポントス)地域における現在のウクライナで、この地域は歴史的および考古学的に、ヨーロッパとアジアの人口集団間の接触地帯として知られています。

 考古学的および遺伝学的データが示唆するのは、上述の広範な規模の3供給源からの祖先系統だけではなく、そこが、草原地帯牧畜民がその西方への移動において到達した初期農耕民の居住する最初の地域だったことです[6]。これら2集団間のその後の混合はとくに興味深く、それは、この混合が、ユーラシア中央部の広範な地域にわたって、縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)やシンタシュタ(Sintashta)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化やスルブナヤ(Srubnaya、Zrubna、ズルブナ)文化の出現に続いてすぐに起きたからです[1、2、8]。さらに、ウクライナ南部は、西方ではハンガリーから東方では中国北東部までずっと広がるユーラシア草原地帯の一部を形成するので、断続的とはしても、広範な遺伝的および文化的流動の進路にありました。ウクライナの草原地帯への近づきやすさ、広範な水文体系の存在、豊富な原材料、開けた草原地帯空間のある肥沃な森林草原地帯の土壌と巨大な森林と山脈の組み合わせは、さまざまな遊牧民集団だけではなく、黒海沿岸で植民地を築いた古代の定住文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の代表も魅了しました。

 何世紀にもわたって、ウクライナの草原地帯と森林草原地帯では、いくつかの方向に動く移住が起きました(図1)。これらの移住は、周期的乾燥化、新たな生計戦略および経済の発展、部族間の文化的接触および紛争、交易、人口統計学的圧力、遊牧民の影響圏の拡大を含めて、さまざまな過程によって引き起こされました。カルパチア・ドナウ川地域やウラル南部やヴォルガ川地域やアジア中央部や北コーカサスなどから大きな移住の流れが来て、ウクライナの領域内でも集中的な人口移動が起きました。以下は本論文の図1です。
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 青銅器時代末と前期鉄器時代の始まりにおいて、北ポントス草原地帯の最も考古学的に目立つ活動は、キンメリア人および小アジアにおけるその軍事作戦と関連していました。キンメリア人の後にスキタイ人とサルマティア人が続き、これらの集団は以前の古代DNA研究[16~18]によって示唆されているように、前期鉄器時代の政治的および軍事的部族連合で、在来の祖先系統とアジア東部祖先系統のさまざまな組み合わせを有していました。この頃に、黒海北部沿岸は都市化されたギリシア人植民地網で覆われていました。森林草原地帯では、同時代の定住人口集団はルサチア(Lusatian)文化とフョソツカ(Vysotska)文化を含めて以前のトゥシネッツ文化圏(Tshinets Cultural Circle)や、イリュリア人とトラキア人とケルト人のハルシュタット(Hallstatt)文化やラ・テーヌ(La Tène)文化期のヨーロッパ中央部の影響と関連していました。文献および考古学的情報によると、ザルビネツカ(Zarubinetska)文化と関連しているスラブ人の前身と考えられている人々はすでに紀元前3世紀以降から、ラ・テーヌ文化期とローマ期においてウクライナに存在していました。

 ウクライナ地域における移動期の始まりはゴート人などゲルマン部族の到来、およびこの地域にすでに居住していた他の人々を含んでいた多民族のチェルニャヒーウ(Chernyakhiv)文化と関連しています。2~4世紀には、アジア中央部の遊牧民であるフン人が北ポントス草原地帯に出現し、その西方への移動はヨーロッパにおける顕著な経済と文化と社会の変化につながりました。この期間は新たな民族言語集団であるスラブ人の出現と関連しており、スラブ人はヨーロッパ東部の大半に5~10世紀に広がりました。8~10世紀には、ウクライナの大半はハザール可汗国の支配下にありました。ウクライナの考古学ではこれは、複数の民族集団(アラン人やブルガール人やテュルク人やスラブ人やマジャール人)で共有されていた、と考えられているサルティヴ(Saltiv)文化によって表されます。同じ期間に、スラブ人部族の統一の過程があり、9世紀には、キエフ(キーウ)・ルーシ国(キエフ大公国)が形成されました。スラブ人国家の発展は、東方からの絶え間ない遊牧民の侵入を背景に起きました。11~13世紀の期間には、ペチェネグ人(Pecheneg)やトルク人(Torque)やクマン人(Cuman)の波がアジア中央部から北ポントス地域に侵入し、軍事的強さと征服観点で最も重要な侵入は、13世紀における金の大オルド(Golden Horde、ジョチ・ウルス、キプチャク=ハン国、金帳汗国)のモンゴルからのものでした。15世紀まで、ノガイ人(Nogai)などジョチ・ウルスの人口集団の残党は依然として北ポントス草原地帯に暮らしていました。16世紀以降、スラブ人はウクライナの地域において主要な民族言語集団です。

 これまでに、ウクライナから得られた刊行されている利用可能な古代ゲノムデータはほぼ中石器時代~青銅器時代の個体群で、一部は鉄器時代のスキタイ人、わずか数個体が他の期間に由来します[6、16、34~36、38~40]。個体群の集団間を区別する必要性と簡潔さのため、関連づけられてきた考古学的文化の文脈によって、個体群は呼ばれます。文化と遺伝的祖先系統との間に直接的なつながりがある、と仮定すべきではありません。ウクライナにおける狩猟採集民のゲノム研究は、ヨーロッパ西部狩猟採集民(Western European Hunter-Gatherer、略してWHG)ではなくヨーロッパ東部狩猟採集民(Eastern European Hunter-Gatherer、略してEHG)の方とのより密接な遺伝的類似性を示唆します[6、36、40]。トリピリャ文化(Trypillia Culture、略してTC)および球状アンフォラ(両取って付き壺)文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)と関連する個体群によって表されるウクライナの初期農耕民は、狩猟採集民との混合の兆候を示します[6、35]。金石併用時代のチェルナヴォダ1(Cernavodă I)文化およびウサトヴェ(Usatove、略してUSV)文化関連個体群は、草原地帯祖先系統集団との混合を示します[38]。ヤムナ(Yamna)文化(ヤムナヤ文化)と関連する4個体から得られたゲノムデータが近宇越されており、ヨーロッパ初期農耕民との混合を示します[6]。

 利用可能なスキタイ人13個体のゲノムにはかなりの異質性があり、初期農耕民と狩猟採集民/草原地帯個体とアジア東部祖先系統のさまざまな組み合わせです。刊行されているチェルニャヒーウ文化の3個体は現代ヨーロッパ人と類似していますが、遺伝的に均質な集団を形成しません。これらの結果は、ウクライナにおける未解決の遺伝的構造および人口の不連続と、新石器時代以降に始まる遺伝的祖先系統と物質文化の関連との間の断片的な関係の実質的な証拠を提供し、より多くの古ゲノムデータの必要性を示しています。さらに、中世の利用可能なデータはなく、そうしたデータはこの地域の人口統計学的歴史の理解を深めるでしょう。本論文では、青銅器時代から近世までのウクライナの人口統計学的歴史に光が当てられます。本論文は、さまざまな期間において北ポントス地域に居住し、さまざまな文化集団と関連している人々の遺伝的祖先系統の調査に着手しました。在来文化の全体が網羅されるのではなく、広範な遊牧民戦士集団を含む、移民によってもたらされた文化に焦点が当てられます(図1)。特定の文化集団と関連する個体群が遺伝的に均質なのかどうか、あるいは遺伝的構造がそうした個体群内に存在するのかどうか、調べられます。より具体的には、混合が在来集団と移民集団との間で起きた程度と、在来集団が文化的に移民集団へと同化された程度を本論文は評価します。スキタイ人関連個体群については、遊牧対在来および上流階層対非上流階層の考古学的割り当て間や、ウクライナのさまざまな地域間の遺伝的差異が調べられます。


●標本と考古学的背景

 現在のウクライナの33ヶ所の考古学的遺跡から発見された128個体の歯根尖と骨片から、DNAが抽出されました。さらなる配列決定と分析に選択された91個体(図2)からは、平均して49%の内在性DNAが得られました。これらの個体がショットガン配列決定され、平均ゲノム網羅率は0.019~1.95倍(平均すると0.5倍)で、69個体のゲノムが0.3倍超、35個体が0.5倍超、8個体が1倍超に達しました(表1)。以下は本論文の図2です。
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 提示されるゲノム規模データは、新石器時代1個体(UkrN、紀元前7000~紀元前6000年頃)、青銅器時代および末期青銅器時代から鉄器時代開始期の9個体(UkrBAおよびUkrFBA/EIA紀元前3000~紀元前700年頃)、前期鉄器時代の開始期の6個体(UkrEIA、紀元前900~紀元前700年頃)、前期鉄器時代のスキタイ期の29個体(UkrEIA、紀元前700~紀元前300年頃)、前期鉄器時代末の6個体(UkrEIA、紀元前400~紀元前1年)、鉄器時代後半の12個体(UkrIA、1~400年頃)、前期中世の9個体(UkrEMA、800~900年頃)、中世から近世の19個体(UkrEMAおよびUkrEM、900~1800年頃)です(図2)。刊行された古代人と現代のゲノムの背景においてデータが分析され、このデータは、AADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)第54.1版[42]で定義されているように、祖先系統と地理と期間と考古学的文化に基づいて集団に割り当てられました。本論文で配列決定された個体群とともに、同じ考古学的関連のある個体群から以前に刊行されたゲノムが分析され、考察されました。


●後期青銅器時代からスキタイ期鉄器時代の前のウクライナにおけるヨーロッパ南部祖先系統

 後期青銅器時代とスキタイ期の前の前期鉄器時代の個体群(LBAEIA、紀元前3000~紀元前700年頃)ミトコンドリアDNA(mtDNA)は、ハプログループ(mtHg)U・HV・H・T・K・J・N1aに属していましたが、ほんどの男性のY染色体ハプログループ(YHg)はR1aに属しており、これは草原地帯個体からの移住後のヨーロッパ北部の大半で以前に示されたこと[1、2]と同様でした。しかし、キンメリア人の男性は、アジア中央部およびシベリアでは一般的ではあるもののヨーロッパには存在しないYHg-Q1b1b(YP4004)に属しており、トラキアのハルシュタット文化の1個体は、石器時代のヨーロッパ古代人では見られるものの[45、47]、現在ヨーロッパでは稀なYHg-C1a2(V20)の下位系統(Y83490)に属していました(表1)。

 現代人の個体群(「現代人の」混合)の常染色体データを用いて、その構成要素に古代人個体群を投影し、PCA(図3)と混合分析(図4)が実行されました。データセットの剪定後に、最大90%の欠損位置のある古代人個体群のみを用いて、現代人の個体群なしでも混合分析が実行され、連鎖不平衡を減少させ(1集団あたり最大5個体)、その後で構成要素に古代人の全個体も投影されました。本論文のズルブナ文化の1個体(紀元前1873~紀元前1566年頃)と以前にウクライナの以前に刊行されたズルブナ文化1個体(紀元前781~紀元前511年頃)は、同じ文化と関連する現在のロシアの個体群とPCA(図3A)上ではクラスタ化します(まとまります)。PCAと混合分析の両方では、ズルブナ文化個体群はヤムナ文化個体群と類似していますが、一部のズルブナ文化個体は初期農耕民との混合の兆候を示します(図3A)。以下は本論文の図3です。
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 ビロゼルスカ(Bilozerska)文化のキンメリア人以前の個体群(考古学的年代測定は紀元前1200~紀元前1000年頃、1個体の放射性炭素年代測定結果は紀元前1281~紀元前1058年、UkrFBA_ビロゼルスカ_先キンメリア人)はズルブナ文化個体群と遺伝的に類似しているようです(図3A)。前期フョソツカ文化個体群(紀元前1300~紀元前800年頃、1個体は紀元前1278~紀元前1055年頃、UkrFBA/EIA_フョソツカ_前期)とルサチア文化個体群(紀元前1000~紀元前700年頃、UkrFBA/EIA_ルサチア)は、鉄器時代から現代のヨーロッパ北部および東部の個体群(現代のウクライナ人を含みます)と類似しているようです(図3Aおよび図4)。キンメリア人の1個体(紀元前1195~紀元前919年頃、UkrFBA/EIA_キンメリア人)はPCA図では以前に刊行されたモルドヴァのキンメリア人を含めて西方草原地帯個体群とクラスタ化しますが(図3A)、ビロゼルスカ文化のキンメリア人以前の個体群と比較して、アジア東部からの遺伝的影響がより大きくなっています(図4)。前期鉄器時代のトラキアのハルシュタット文化個体群(紀元前900~紀元前700年頃、2個体は紀元前996~紀元前830年頃、UkrEIA_トラキアハルシュタット)はPCA図ではヨーロッパ南部人とクラスタ化しますが(図3A)、以前に刊行されたチェコ共和国のハルシュタット文化個体群はヨーロッパ中央部個体群とクラスタ化します。ウクライナの先行する個体群と比較してのより大きな初期農耕民の影響は、混合分析でも見ることができます(図4)。トラキアのハルシュタット文化の1個体(紀元前900~紀元前798年頃、UkrEIA_トラキアハルシュタット_2)は、両方の分析【PCAと混合】で前期フョソツカおよびルサチア文化個体群と類似しています(図3Aおよび図4)。以下は本論文の図4です。
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 次に、考古学的背景に基づいて割り当てられたか、PCAおよび混合分析で特定され集団の単系統群性が、古代人集団の広範な一式でのf4形式()のf4統計の計算と、f4結果の少なくとも95%が0とは実質的に異ならなかった場合(−3 ≤ |Z| ≤ 3)に、ウクライナ集団を単系統性とみなすことによって、検証されました。ズルブナ文化個体群(UkrBA_ズルブナ)とビロゼルスカ部下個体(UkrFBA_ビロゼルスカ_先キンメリア人)の単系統性は確証されますが、前期フョソツカ文化個体群(UkrFBA/EIA_フョソツカ_前期)とルサチア文化個体群(UkrFBA/EIA_ルサチア)は、いくらかのシベリアとアジア東部/西部中央部および西方草原地帯および草原地帯移住後のヨーロッパ集団(しかし、ヨーロッパ初期農耕民との類似性はありません)と追加の類似性を有しているルサチア文化個体群とは単系統群ではありません。トラキアのハルシュタット文化の「外れ値」個体(UkrEIA_トラキアハルシュタット_2)は、同時代のルサチア文化個体群と単系統群となります。さらに、本論文の集団の単系統群性が、同じ文化と関連する以前に刊行されたゲノムで検証され、ウクライナのズルブナ文化個体群およびロシアのスルブナヤ・アラクル(Srubnaya-Alakul)文化個体群は、トラキアのハルシュタット文化の外れ値個体とチェコのハルシュタット文化の外れ値個体(チェコ_IA_ハルシュタット_2)[49]の場合のように単系統群であるものの、ウクライナのキンメリア人個体群(UkrFBA/EIA_キンメリア人)はモルドヴァのキンメリア人個体群(モルドヴァ_キンメリア人)とは単系統群ではなく、モルドヴァ_キンメリア人は一部のシベリアおよびアジア東部集団と相対的により多くの類似性を有している、と分かりました。

 qpAdmを用いて、考古学的/遺伝学的集団の祖先系統の割合がモデル化されました(図5)。まず、本論文の集団の最大数のモデル化に使用できる遠位供給源を見つけ目ために、初期農耕民の1集団(合計5集団)とヤムナ文化関連集団(合計3集団)とアジア東部(モンゴル)集団(合計3集団)のさまざまな組み合わせが検証されました。供給源として、ドイツの中期新石器時代個体群(中央_MN)[8]、ウクライナのヤムナ文化関連個体群(Ukr_ヤムナヤ)[6]、モンゴルの石板墓(Slab-grave)文化関連個体群(モンゴル_EIA_IA_石板墓_1、簡潔のためモンゴル_石板墓)[50]を含めてのモデルは、却下されない妥当な結果の数が最多のモデル(39のモデル化集団のうち27集団)の一つです。以下は本論文の図5です。
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 ウクライナの2供給源での最適な実行モデルには、ウクライナのトリピリャ文化関連個体群(Ukr_トリピリャ)[6、35]、Ukr_ヤムナヤ、モンゴル_石板墓が含まれ、39集団のうち26集団で却下されない妥当な結果が得られます。利用可能な3供給源(中央_MN/ Ukr_トリピリャ、Ukr_ヤムナヤ、モンゴル_石板墓)のうち1もしくは2供給源が削除されるモデルを含めると、却下されない妥当な結果は39集団のうち28集団で生成されます(図5A)。本論文の4集団、つまり、UkrFBA/EIA_ルサチア、ドニプロ川(ドニエプル川)左岸のロクアグル(LocAgr)遺跡のスキタイ人(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_ロクアグル_2)、スラブ人の白クロアチア人(UkrMA_白クロアチア人_スラブ人)、UkrMA_ノガイ人は、検証された3供給源モデルのどれとも却下されない結果をもたらしませんでした。ウクライナの前期中世のサルティヴ文化のアラン人(UkrEMA_サルティヴ_アラン人)を除いて他の全集団は、最高のP値モデルとUkr_トリピリャでのモデルとの間で最大7%異なる、初期農耕民の祖先系統の割合の点推定値でモンゴル_石板墓とUkr_ヤムナヤと中央_MN/ポーランド_GAC/ Ukr_GAC/ Ukr_トリピリャ[6、8、35、51]からモデル化すると、却下されない結果をもたらしますが、この場合でさえ、割合の標準誤差の範囲は2%まで重複しています。この割合における小さな変動のため、Ukr_トリピリャでのモデルを用いて全集団が説明され(図5)、比較として中央_MNでのモデルが提供されます。

 さらに、各集団についてすべての検証された315通りのモデルから、最高のP値3方向モデルが示されます。ズルブナ文化個体群(UkrBA_ズルブナ)もしくは前期フョソツカ文化個体群(UkrFBA/EIA_フョソツカ_前期)は、一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)が10万ヶ所未満で、モデル化に充分なデータがありませんでしたが、ビロゼルスカ文化個体群(UkrFBA_ビロゼルスカ_先キンメリア人)は、おもにUkr_ヤムナヤ(84±5%)に、いくらかのUkr_トリピリャ(14±4%)と少量のモンゴル_石板墓(3±2%)としてモデル化でき、キンメリア人の1個体(UkrFBA/EIA_キンメリア人)は、おもにUkr_ヤムナヤ(64±3%)といくらかのモンゴル_石板墓(37±3%)としてモデル化できます(図5A)。トラキアのハルシュタット文化の主要集団(UkrEIA_トラキアハルシュタット)は、いくらかのUkr_ヤムナヤ(22±3%)とおもにUkr_トリピリャ(78±3%)から構成されますが、外れ値の1個体はその逆(Ukr_ヤムナヤが65±5%、Ukr_トリピリャが35±5%)です(図5A)。

 本論文におけるいずれかの集団の祖先系統分布に性別の偏りがあるのかどうか、評価するために、常染色体とX染色体の両方のデータについて広範な古代人一式で外群f3統計が実行されました。常染色体のf3統計は両性からのほぼ均等な寄与を反映していますが、X染色体のf3統計は、2/3が女性、1/3が男性からの寄与を反映しています。両データセットからの結果を比較し、性別の偏った遺伝子流動を示唆しているかもしれない、祖先系統パターンの違いが特定されました。ズルブナ文化関連集団は、X染色体上でレヴァント/アナトリア半島およびヨーロッパの初期農耕民とも常染色体上で前期青銅器時代西方草原地帯集団およびヨーロッパ狩猟採集民とのより高い類似性の傾向を示し、これは、CWC集団で推測されてきたように[53~55]、ほぼ草原地帯からの男性と在来の初期農耕民女性との間で起きた、ヤムナ文化集団のヨーロッパへの移住後の混合と一致します。


●前期鉄器時代のスキタイ期におけるヨーロッパ東部および西方草原地帯祖先系統

 スキタイ期、つまりスキタイ期(SEIA)におけるmtDNAの差異は、それ以前の期間と類似していますが、さらに、mtHg-I・Xが含まれ、1個体のmtHgはC4で(表1)、これは現在アジアにおいて最高頻度です。YHgには、R1a・R1b・E1bと、アジア中央部/東部のQ1b1a3(L330)が含まれます(表1)。

 READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)とKINで実行された親族関係は、本論文のスキタイ期個体群および先行研究の同じ遺跡の以前に刊行された個体群における、いくらかの密接な遺伝的関係を示唆します。キーウ(キエフ)地域のメードヴィン(Medvyn)のクルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)22号の埋葬1には、遺伝的に同一の標本2点(UKR035とUKR038)が含まれ、この標本2点は同一個体に由来する可能性が最も高く(mtHg-U5a1g1、YHg-R1a)、この後のさらなる分析では統合されました(UKR035AB)。しかし、この埋葬には別の男性1個体(MJ-14、mtHg-H6a1b、YHg-R1a)も含まれており、MJ-14は上述の男性(UKR035AB)と親子の関係で、女性1個体(UKR044、mtHg-H6a1b)とも親子関係にあり、この両個体(UKR035ABとUKR044)は密接な親族関係ではありません。これが意味するのは、MJ-14はUKR035ABとUKR044の息子である可能性が高い、ということです。さらに、同じ遺跡にはもう1組の親子関係があり、それは、男性2個体であるMJ-33(mtHg-U5a2a2a、YHg-R1a)とUKR036(mtHg-C4b、YHg-R1a)で、この2個体は親子かもしれません(どちらが父親あるいは息子なのかは、確証できません)。ポルタヴァ(Poltava)地域のビルスク(Bilsk)要塞では、分析によって遺伝学的に同一標本の別の1組(UKR089とUKR091、mtHg-H+152、YHg-E1b)が特定されましたが、両者は異なる年に発掘された異なるクルガンに由来するので、一卵性双生児だった可能性が高そうです。この推定された一卵性双生児は別の男性個体(UKR090、mtHg-H11a1、YHg-E1bと親子の関係にあり、この男性は父親である可能性が高そうです。

 スキタイ期個体群(そのうち9個体の年代は紀元前798~紀元前199年頃)はその地理的位置に基づいて集団に区分され、それは、草原地帯の北黒海地域の森林草原地帯の、ドニプロ川の右岸(つまり、西側)もしくは左岸(つまり、東側)とドネツ川(Siversky Donets)流域です。この集団は考古学的背景から推測される社会文化的関連に基づいてさらに区分され、それは、イリュリア人とトラキア人、地元民か遊牧民か、農耕民か上流階層です。こうした集団は下線によって区切られる以下の構造を用いて命名されており、それは、期間、文化的関連、地理的位置、社会経済的関連、遺伝的下位集団(該当する場合)です(図2および表1)。イリュリア人およびトラキア人との関連があるドニプロ川右岸のスキタイ期個体(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)のほとんどと、ドニプロ川左岸の在来農耕民部族の1個体(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_ロクアグル_2)と、ドネツ川流域の上流階層ではない遊牧民個体群の一部(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民_2)と、同じ地域の上流階層の遊牧民1個体(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_3)は、それ以前の前期フョソツカ文化およびルサチア文化個体群、および現代ウクライナ人とも、PCAと混合分析の両方でと類似しています(図3および図4)。

 イリュリア人およびトラキア人と関連するドニプロ川右岸(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア_2)、およびドニプロ川左岸の在来の農耕集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_ロクアグル)のスキタイ期個体の残りは、西方草原地帯個体群(以前に刊行されたこの地域のスキタイ人関連個体群が含まれます)とより類似しています(図3Bおよび図4)。同じことは、ドネツ川の上流階層ではない遊牧民個体のほとんど(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民)と同じ地域の上流階層遊牧民1個体(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_2)や、イリュリア人およびトラキア人と関連するドニプロ川左岸の1個体(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_イリュリア・トラキア)、北黒海地域の草原地帯の4遊牧民(UkrEIA_スキタイ_黒海_遊牧民)に当てはまります(図3Bおよび図4)。ドニプロ川左岸の在来の上流階層個体群(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_在来上流)は、ヨーロッパ南部個体群とより大きな遺伝的類似性(モルドヴァのスキタイ人とやや類似しています)を有しています(図3Bおよび図4)。ドネツ川流域の上流階層遊牧民(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流)のほとんど(3個体)は、コーカサスの個体群と最高の類似性を共有しています(図3Bおよび図4)。

 f4に基づく単系統群性検定は、ドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連するスキタイ人の主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)が、PCAでクラスタ化する集団のうち2集団とは単系統群であるものの、一部のアジア東部集団およびヨーロッパ狩猟採集民と相対的により多くの類似性を有するドネツ川の上流階層の遊牧民1個体(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_3)とは、単系統群ではないことを裏づけます。また、上流階層ではないドネツ川の遊牧民の主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民)は、PCAでクラスタ化する集団のうち3集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア_2、UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_ロクアグル、UkrEIA_スキタイ_黒海_遊牧民)と単系統群ですが、ドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連するスキタイ人(krEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)と比較して、いくつかのヨーロッパ人集団とより多くを共有しており、ドネツ川の上流階層遊牧民1個体(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_2)よりも一部のシベリアおよびアジア東部集団の方との共有が少なくなっています。ドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連するスキタイ人の主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_イリュリア・トラキア)は、先行するトラキアのハルシュタット文化の外れ値個体(UkrEIA_トラキアハルシュタット_2)および前期フョソツカ文化個体群(UkrFBA/EIA_フョソツカ_前期)や、ハンガリーのスキタイ人の主要な下位集団(ハンガリースキタイ_1)と単系統群です。さらに、ドネツ川の上流階層遊牧民の主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流)は、カザフスタン(Kazakhstan、略してKaz)のスキタイ人1個体(スキタイ_Kaz_2)と単系統群です。

 遠位qpAdmモデル化では、ドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連するスキタイ人(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)とドネツ川の上流階層ではない遊牧民(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民_2)は、約半分ずつのUkr_ヤムナヤ(平均50~58%)およびUkr_トリピリャ(平均40~48%)と少量のモンゴル_石板墓(平均1~4%)の祖先系統としてモデル化できます(図5A)。ドネツ川の上流階層遊牧民の主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流)は、Ukr_ヤムナヤ(51±3%)とUkr_トリピリャ(43±3%)に加えてわずかに多いモンゴル_石板墓(7±1%)の祖先系統を有していますが、この集団の「ヨーロッパ外れ値(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_3)」は、モンゴル_石板墓祖先系統無で、Ukr_ヤムナヤ(71±6%)とUkr_トリピリャ(29±6%)でモデル化できます(図5A)。PCAでのいわゆる西方草原地帯クラスタ(まとまり)のほとんどの集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア_2、UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_ロクアグル、UkrEIA_スキタイ_黒海_遊牧民)は、おもにUkr_ヤムナヤ(平均53~61%)と、いくらかのUkr_トリピリャ(平均29~36%)といくらかの追加のモンゴル_石板墓(9~12%)の祖先系統で構成できますが、ドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連する1個体(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)は、わずかに少ないUkr_ヤムナヤ(66±5%)とより多くのUkr_トリピリャ(19±5%)およびモンゴル_石板墓(15±2%)を有しています(図5A)。しかし、ドネツ川の上流階層遊牧民の「草原地帯外れ値(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_2)」が、Ukr_トリピリャ祖先系統無で、Ukr_ヤムナヤ(82±5%)およびモンゴル_石板墓(18±5%)モデル化できる一方で、ドニプロ川左岸の在来上流階層個体群(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_在来上流)はより多くの他のスキタイ人集団を必要とし、Ukr_ヤムナヤ(38±4%)とUkr_トリピリャ(58±4%)およびモンゴル_石板墓(3±1%)です(図5A)。

 次に、スキタイ期から始まる本論文の集団のモデル化も、供給源として以前の期間の関連集団を用いて行なわれました(近位qpAdmモデル化)。分析の結果、PCAにおける「ヨーロッパ」クラスタの集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア、UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民_2、UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_3)が、100%のUkrFBA/EIA_ルサチアもしくはUkrEIA_トラキアハルシュタット_2の祖先系統でモデル化できるのに対して、PCAにおける「西方草原地帯」の集団(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア_2、UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民、UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流_2、UkrEIA_スキタイ_黒海_遊牧民)は、モンゴル_石板墓(15±2%)からそれぞれ追加の流入(7±3%、7±2%、23±6%、13±2%)を示す、と分かりました。ドニプロ川左岸の在来の上流階層個体群(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川左岸_在来上流)は、ほぼ半分ずつのUkrEIA_トラキアハルシュタット_2(52±11%)およびUkrEIA_トラキアハルシュタット(48±11%)祖先系統でモデル化できます(図5B)。


●前期中世までのスキタイ期の後の鉄器時代(ヘレニズム時代)におけるヨーロッパ南部とコーカサスとアジア中央部からの祖先系統特性の出現

 ウクライナにおけるスキタイ期の後の鉄器時代(ヘレニズム時代)および前期中世(IAEMA、紀元前400~紀元後900年頃)の個体群が有するmtDNA系統には、それ以前の期間にすでに見られる多くの系統や、Wおよび1個体のR1a1aが含まれ(表1)、mtHg-R1a1aはコーカサスで見られるものの、現代のヨーロッパ東部ではごく稀にしか観察されていません。さらに、サルティヴ文化関連個体群はとりわけ、mtHg-A・B・D・Fに属する系統を有しており(表1)、これらはすべて現在のアジア東部人口集団では一般的ですが、ヨーロッパでは稀です。この期間の個体群に存在するY染色体系統は、再びR1aとR1bとE1b や、サルティヴ文化関連の1個体におけるアジア中央部のC2a1a1b1b(Y11606)です(表1)。

 このデータセットには、ヘレニズム時代のギリシア人と暫定的に関連づけられてきた2個体が含まれます(表1)。その2個体のうちの一方(紀元前392~紀元前206年頃、UkrEIA_古代_ギリシア人?_1)はヨーロッパ南部人と最高の類似性を有していますが、もう一方の個体(紀元前746~紀元前401年頃、UkrEIA_古代_ギリシア人?_2)はヨーロッパ北部および東部の個体群(現代のウクライナ人を含みます)と最も類似しています(図3Cおよび図4)。特定の考古学的関連のない1個体(紀元前359~紀元前104年頃、UkrEIA_?)とクリミア(Crimea、略してCri)利用可能なすべての後期スキタイ人3個体(紀元前150~紀元前1年頃、UkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民)は、本論文のスキタイ期個体の一部を含めて西方草原地帯個体群と最高の類似性を有しています(図3Cおよび図4)。

 チェルニャヒーウ文化関連個体群(300~400年頃、7個体は131~530年頃)は3遺伝的下位集団へと区分でき、最も類似しているのは、6個体(UkrIA_チェルニャヒーウ_1)がヨーロッパ東部/中央部人と、別の6個体(UkrIA_チェルニャヒーウ_2)が大陸部ヨーロッパ南部人と(この研究のトラキアのハルシュタット文化関連の個体群とクラスタ化)で、他の1個体(UkrIA_チェルニャヒーウ_3)がさらに南方的な遺伝的特性を有しており、キプロス島現代人とクラスタ化します。個体のほとんどは、ポルタヴァ地域のシシャキ(Shyshaky)の1ヶ所の遺跡に由来しますが、第1および第2下位集団の間で区分されます(表1)。利用可能なサルマティア人1個体(1~300年頃、UkrIA_サルマティア人_ドネツ川)と、サルティヴ文化関連のアラン人およびブルガール人のほとんど(800~900年頃、2個体は671~883年頃、UkrEMA_サルティヴ_アラン/ブルガール人_1)は、以前に刊行されたサルティヴ文化個体群およびアラン人と、本論文のドネツ川流域の上流階層遊牧民と同様に、コーカサスの個体群と最高の類似性を有していますが、以前に刊行されたサルマティア人とはそうではありません(図3Cおよび図4)。上述の個体群と同じ遺跡のサルマティア人関連のアラン人およびブルガール人の3個体(800~900年頃、1個体は671~874年頃、UkrEMA_サルティヴ_アラン/ブルガール人_2)は、以前に刊行されたサルティヴ文化もしくはアラン人関連の1個体とは異なり、アジア中央部人と最も類似しています(図3Cおよび図4)。

 f4に基づく単系統群性検定では、アラン人とブルガール人は遺伝的下位集団1および2内で相互に単系統群である(UkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_1とUkrEMA_サルティヴ_アラン人_1、およびUkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_2、UkrEMA_サルティヴ_アラン人_2)、と確証されます。さらに、単系統群性は「ヨーロッパ東部/中央部(UkrEIA_古代_ギリシア人?_2、UkrIA_チェルニャヒーウ_1)」および「西方草原地帯(UkrEIA_?、UkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民)」PCAクラスタ内で確証されますが、ドネツ川のサルマティア人(UkrIA_サルマティア人_ドネツ川)はコーカサス的なアラン人(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_1)と単系統群ではなく、UkrIA_サルマティア人_ドネツ川は一部のシベリアおよびアジア東部集団とより多くの祖先系統を共有しています。ヨーロッパ東部/中央部のチェルニャヒーウ文化集団(UkrIA_チェルニャヒーウ_1)はドニプロ川右岸のイリュリア人およびトラキア人と関連するスキタイ人(UkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキア)と単系統群で、それは、クリミアの後期スキタイ人遊牧民(UkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民)がドネツ川の先行するスキタイ人の上流階層ではない遊牧民(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民)と、およびコーカサス的なアラン人(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_1)がドネツ川のスキタイ人の上流階層遊牧民の先行する主要集団(UkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流)と単系統群であることと同様です。上述のアラン人集団(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_1)はロシアのカスピ海草原地帯のサルトヴォ・マヤキ(Saltovo Mayaki)遺跡個体群(サルトヴォ・マヤキ)[17]とは単系統群ですが、ロシアのコーカサスのアラン人[17]とは単系統群ではなく、コーカサスのアラン人はアジア西部/中央部や西方草原地帯やヨーロッパの集団とより多くの類似性を有しています。

 遠位qpAdmモデル化から、ギリシア人の可能性がある個体のうち1個体(UkrEIA_古代_ギリシア人?_1)は、少量のUkr_ヤムナヤ(9±4%)とほぼ完全なUkr_トリピリャ(91±4%)としてモデル化できますが、もう一方のギリシア人の可能性がある個体(UkrEIA_古代_ギリシア人?_2)とドネツ川のサルマティア人1個体(UkrIA_サルマティア人_ドネツ川)は、同じ供給源のほぼ等しい割合(それぞれ、60±5%と40±5%、および51±4%と49±4%)としてモデル化できる、と示唆されます(図5A)。「ヨーロッパ東部/中央部」チェルニャヒーウ文化集団(UkrIA_チェルニャヒーウ_1)はおもにUkr_ヤムナヤ(56±3%)、やや少ないUkr_トリピリャ(42±3%)、少量のモンゴル_石板墓(2±1%)でまとめられますが、他の2下位集団(UkrIA_チェルニャヒーウ_2、UkrIA_チェルニャヒーウ_3)はより多くのUkr_トリピリャ祖先系統を有しており(66±3%)、他にUkr_ヤムナヤ(33±3%)およびモンゴル_石板墓(3±2%)祖先系統を有しています(図5A)。PCAにおける「西方草原地帯/コーカサス」クラスタ(UkrEIA_?、UkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民、UkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_1)は、おもにUkr_ヤムナヤ(52~73%)といくらかのUkr_トリピリャ(15~35%)とわずかに少ないモンゴル_石板墓(9~15%)の祖先系統の組み合わせによって説明できます(図5A)。一方で、アジア中央部的なアラン人(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_2)およびブルガール人(UkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_2)は、Ukr_ヤムナヤ(平均16~25%)およびUkr_トリピリャ(平均16~24%)の祖先系統のほぼ同じ割合としてモデル化できますが、おもにモンゴル_石板墓の祖先系統(57~61%)に由来します。

 近位qpAdmモデル化を用いて、「ヨーロッパ東部/中央部」PCAクラスタ(UkrEIA_古代_ギリシア人?_2、UkrIA_チェルニャヒーウ_1)が100%のUkrEIA_スキタイ_ドニプロ川右岸_イリュリア・トラキアとしてモデル化できる一方で、「西方草原地帯」PCAクラスタ(UkrEIA_?、UkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民)は100%のUkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民もしくはUkrEIA_スキタイ_黒海_遊牧民としてモデル化できます(図5B)。「コーカサス」クラスタ(UkrIA_サルマティア人_ドネツ川、UkrEMA_サルティヴ_アラン人_1、UkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_1)は100%のUkrEIA_スキタイ_ドネツ川_遊牧民上流でまとめられますが、「アジア中央部」クラスタ(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_2、UkrEMA_サルティヴ_ブルガール人_2)は平均して54~59%のモンゴル_石板墓も示します。ヨーロッパ南部的なチェルニャヒーウ文化個体群(UkrIA_チェルニャヒーウ_2、UkrIA_チェルニャヒーウ_3)は、100%のUkrEIA_トラキアハルシュタットとしてモデル化できます(図5B)。

 外群f3分析から、UkrIA_チェルニャヒーウ_3は常染色体と比較してX染色体上でレヴァント/アナトリア半島初期農耕民とより多くの類似性を有している、と明らかになり、南方人口集団との類似性は男性による移住ではなく、より多くの女性による移住に由来する、と示唆されます。


●中世および近世におけるアジア東部やヨーロッパ東部のゲノム

 中世から近世にかけてのウクライナの個体群(900~1800年頃、MAEM)におけるmtDNAの差異には、ヨーロッパでは一般的な系統(mtHg-U・H・J・X2)や、アジアにおいてより高頻度の一部の系統(以前の期間には検出されなかった、mtHg-A・V・C・M65a・M7)が含まれます(表1)。Y染色体系統に含まれるのは、ヨーロッパ東部現代人で一般的なYHgであるR1aやR1bやN1a1a1a1a4の下位系統(Y10755)やG2a1a1a1(Z6679)に、シベリアおよびアジア東部において頻繁に見られる系統C2a1a3(M504)もしくは近東で一般的なJ1a2a1a2(P58)です(表1)。

 クマン期の2個体(900~1400年頃、UkrMA_クマン人)とクマン期後の1個体(1300~1400年頃、UkrMA_クマン後_クマン人?)とジョチ・ウルス関連遊牧民2個体(1200~1400年頃、UkrMA_ジョチウルス_遊牧民)はPCAで西方草原地帯個体群とクラスタ化しますが、混合分析を用いると、先行するスキタイ人と比較した場合、「アジア東部」祖先系統構成要素をより多く示します(図3Dおよび図4)。クマン人関連の別の個体(991~1149年頃、UkrMA_クマン人_2)はアジア中央部人とクラスタ化し、東方からのより大きな影響を示します(図3Dおよび図4)。白クロアチア人のスラブ人(1100~1300年頃、UkrMA_白クロアチア人_スラブ人)と、考古学的関連がスラブ人と遊牧民の間を区別しないジョチ・ウルス気の個体群(UkrMA_ジョチウルス_スラブ人/遊牧?)はチェルニャヒーウ文化個体群の第1遺伝的下位集団と類似しており、現代のウクライナ人とも類似しています(図3Dおよび図4)。ザポリージャ(Zaporizhzhia)地域のマメイ・ゴラ(Mamay-Gora)の本論文のノガイ人関連個体群(1400~1500年頃)は3遺伝的下位集団に区分でき、その第1(UkrMA_ノガイ人_1)が東方のサルティヴ文化およびクマン人関連個体群と遺伝的に類似しているのに対して、残りの2下位集団(UkrMA_ノガイ人_2、UkrMA_ノガイ人_3)ではさらに多い東方祖先系統構成要素が推測され、UkrMA_ノガイ人_3はPCAではモンゴル人とクラスタ化します(図3Dおよび図4)。コサックのスラブ人関連の2個体(1600~1800年頃、UkrEM_コサック_スラブ人)は先行するスラブ人関連個体群や現代のウクライナ人と最高の遺伝的類似性を有しています(図3Dおよび図4)。

 クマン人個体群の主要集団(UkrMA_クマン人)は、f4に基づく検定ではクマン期後の1個体(UkrMA_クマン期後_クマン人?)と単系統群ですが、ジョチ・ウルスの遊牧民(UkrMA_ジョチウルス_遊牧民)とは単系統群ではなく、UkrMA_クマン期後_クマン人?は一部のシベリアおよびアジア東部集団と相対的により高い遺伝的類似性を有しています。さらに、外れ値のクマン人1個体(UkrMA_クマン人_2)は先行するアジア中央部的アラン人(UkrEMA_サルティヴ_アラン人_2)と単系統群です。白クロアチア人のスラブ人(UkrMA_白クロアチア人_スラブ人)は、過去(UkrIA_チェルニャヒーウ_1)と同時代(UkrMA_ジョチウルス_スラブ人/遊牧?)とその後(UkrEM_コサック_スラブ人)の「ヨーロッパ東部/中央部」PCAクラスタ集団と単系統群です。

 遠位qpAdmモデル化を使用すると、「西方草原地帯」PCAクラスタ集団(UkrMA_クマン人、UkrMA_クマン期後_クマン人?、UkrMA_ジョチウルス_遊牧)は全体的に、約半分のUkr_ヤムナヤ(35~62%)といくらかのUkr_トリピリャ(18~39%)といくらかのモンゴル_石板墓(14~28%)の祖先系統で説明できます(図5A)。「ヨーロッパ東部/中央部」PCAクラスタの集団(UkrMA_ジョチウルス_スラブ人/遊牧?、UkrEM_コサック_スラブ人)は平均して、おもにUkr_ヤムナヤ(53~62%)といくらかのUkr_トリピリャ(37~45%)と少量のモンゴル_石板墓(1~2%)の祖先系統で説明できます(図5A)。「アジア中央部」クラスタ(UkrMA_クマン人_2、UkrMA_ノガイ人_1)については全体的に、いくらかのUkr_ヤムナヤ(25~36%)およびUkr_トリピリャ(14~22%)の祖先系統で説明できるものの、約半分(48~56%)の祖先系統はモンゴル_石板墓となる一方で、アジア東部的なノガイ人の下位集団(UkrMA_ノガイ人_3)は、少量のUkr_トリピリャ(6±3%)およびいくらかのUkr_ヤムナヤ(8±4%)の祖先系統で説明できるものの、おもにモンゴル_石板墓祖先系統(85±2%)に由来します(図5A)。

 近位qpAdmモデル化を使用すると、外れ値のクマン人1個体(UkrMA_クマン人_2)は100%のUkrEMA_サルティヴ_アラン人_2としてモデル化でき、クマン期後の1個体(UkrMA_クマン後_クマン人?)は100%のUkrMA_クマン人_としてモデル化できる、と分かりました(図5A)。ジョチ・ウルスの遊牧民(UkrMA_ジョチウルス_遊牧)が95±4%のUkrEIA_後期スキタイ_Cri_遊牧民および5±4%のモンゴル_石板墓祖先系統としてモデル化できるのに対して、アジア東部的なノガイ人の下位集団(UkrMA_ノガイ人_3)は43±5%のUkrEMA_サルティヴ_アラン人_2および57±5%のモンゴル_石板墓祖先系統としてモデル化されます(図5B)。「ヨーロッパ東部/中央部」PCAクラスタの中世集団(UkrMA_白クロアチア人_スラブ人、UkrMA_ジョチウルス_スラブ人/遊牧?)は100%のUkrIA_チェルニャヒーウ_1に供給源をたどることができ、同じクラスタの近世集団(UkrEM_コサック_スラブ人)は同様に100%のUkrMA_白クロアチア人_スラブ人に由来します(図5B)。


●ウクライナおよびユーラシア西部の他地域における異質性

 相対的な遺伝的異質性を推定する手段として、PCAの個体間の多次元ユークリッド距離が分析され(図6)、これは上述の4期の年代範囲、つまりLBAEIAとSEIAとIAEMAとMAEMに分類されています。先行研究に従ってPCAで得られた、祖先系統における共変動の連続軸として上位主成分をみなし、遺伝的祖先系統における類似性もしくは非類似性を表す、最初の25構成要素にまたがるユークリッド距離が計算されました。これは、調べられた個体間の高い異質性の一般的傾向を示し、例外は異質性がやや減少したSEIA期集団です(図6)。これらPCAに基づく異質性推定を文脈化するため、同じ期間のユーラシア西部について基準が生成されました。最大100の無作為に地理的に分布する個体群の下位集団(各年代範囲で、ウクライナの調査対象個体群と相互の同じ地理的距離内にいます)も、同様に分析されました。これらの核心密度推定値の図は、全年代範囲の基準と比較すると、本論文のウクライナ人のゲノム間のより長いユークリッド距離への変化を示します。注目すべきことに、ユーラシア西部のデータから得られた一致する無作為部分集合は、本論文で報告されたウクライナ人のゲノムから得られたものよりも長い平均ユークリッド距離を返しませんでした(図6A~D)。以下は本論文の図6です。
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●考察

 ウクライナ地域の地理的位置と景観と生態型によって、ウクライナ地域は東西の隣人間の交差と相互作用の場所となり、これは在来人口集団の遺伝的組成に痕跡を残してきました。ウクライナの中石器時代および新石器時代の狩猟採集民の遺伝的特性は、ヨーロッパ東西の狩猟採集民の中間です[6、36、40]。その後の初期農耕民(トリピリャ文化およびGACと関連しています)は、ヨーロッパの他地域の初期農耕民と類似しています[6、35]。東方から到来した青銅器時代のヤムナ文化の人々は、北ポントス地域で同化されただけではなく、ヨーロッパへのさらなる人口流動の供給源でもありました[1、2]。

 ヤムナ文化後の期間には、BA/EIA人口集団の明確な遺伝的差異が観察されます。東方および草原地帯集団は遺伝的に、ヤムナ文化集団(BAのズルブナ文化およびFBAのビロゼルスカ文化個体群)もしくは西方草原地帯の東側の個体群(FBA/EIAのキンメリア人)のどちらかと類似しています。西方の草原森林草原の個体群のゲノムは、ヨーロッパの中央部/東部(FBA/EIAのフョソツカ文化およびルサチア文化)および南東部(トラキアのハルシュタット文化)の個体群とより類似しています。注目すべきことに、ズルブナ文化個体群において明らかな性別の偏った混合の兆候が検出されます。ズルブナ文化は、CWCと同様に、東方のポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへの移住の産物なので[8、16]、以前にCWCについて示唆された、移民がほぼ男性で、ヨーロッパの在来の女性と混合した、との想定[52、55、68]がズルブナ文化についても妥当です。

 スキタイ期には、考古学とよく一致する地理的構造が観察され、北ポントス草原地帯および森林草原地帯全域にまたがる広がりを反映しています。ウクライナ西部のスキタイ文化と関連する個体のほとんど(イリュリア人およびトラキア人の基盤)が遺伝的に「在来」であるのに対して、ウクライナ東部個体群のゲノムは西方草原地帯およびアジア東部人口集団とより多くの遺伝的祖先系統を共有しています。ウクライナ東部の個体群は考古学的に「在来上流階層」と関連しており、「在来農耕民」と比較すると、そのゲノム(YHg-E1bを含みます)にはより多くのヨーロッパ南東部からの影響(近東祖先系統)があります。「遊牧民上流階層」個体のほとんど(ドネツ川流域)は、コーカサスの人々と類似した遺伝的特性を有しています。埋葬の特徴や考古学的人工遺物によって判断される社会集団間の遺伝的差異のパターンは、地理に基づく場合よりも複雑なようです。上流階層においては、在来の遺伝的特性を有する個体群と、IA西方草原地帯祖先系統を有する個体群の両方が存在します。在来の農耕民と低位の遊牧民には、中間的な特性があります。そうしたパターンは、スキタイ人の在来社会への統合およびその逆によって説明でき、これには人口混合過程の一部としての上流階層の混交が含まれます。

 遊牧民の侵入の場合において性別の偏った混合を予測するのは当然で、本論文のデータは間接的にそうした仮定を裏づけており、在来の考古学的背景のスキタイ人集団(ドニプロ川の左右両岸)では男性8個体と女性7個体がいますが、遊牧民の考古学的背景(ドネツ川、北黒海)の集団では男性11個体に対して、女性は3個体しかいません。ドニプロ川の左右両岸のクルガンにおけるスキタイの家族埋葬と8点の標本で確証された2世代の親族集団は、少なくとも非遊牧民起源の個体の一部における、定住生活様式を示唆しています。北ポントス森林草原地帯におけるスキタイ人の低い移動性は、ストロンチウム(Sr)同位体分析を用いて、以前に推測されました。

 ウクライナの中央部および東部森林草原地帯のIAチェルニャヒーウ文化個体群は二つの遺伝的下位集団を形成し、一方はより多くの「ヨーロッパ北部/中央部」遺伝的特性を、もう一方はより多くの「ヨーロッパ南部」遺伝的特性を有しており、これは1ヶ所の地域内でさえ可視化されている、チェルニャヒーウ文化集団の多民族性を反映しています。遺伝的により北方の個体群は、北ポントス地域へのゴート人の移転と関連しているかもしれません。と同時に、東カルパチア盆地の1個体(チェルニャヒーウ_3)の珍しい近東の母方祖先系統は、以前の考古学的観察の説明に役立つかもしれません。この若い女性が発見されたコマリフ1(Komariv-1)集落には、ローマ帝国外で唯一の既知のガラス生産地があり、古代のガラス生産はおもに中東に集中していました。珍しい近東祖先系統は、この集落に暮らしていた地中海の工芸職人に由来するかもしれません。

 本論文で調べられたEMAのアラン人およびブルガール人の遺伝的組成は、コーカサスもしくはアジア中央部の個体群と類似しています。アジア中央部の構成要素は、アジア中央部からの新たな移民の不断の流入を示唆しており、これは以前の考古学的主張と一致します。本論文のデーから、アジア中央部関連集団はこの地域に永住し、男女両方から構成されており、男女の遺伝的特性は常染色体およびミトコンドリアのデータを含めて、在来集団との混合の証拠を示さない、と示唆されます。埋葬儀式(アラン人は地下墓地、ブルガール人は土坑埋葬)に基づいてアラン人およびブルガール人と考えられている個体における高度な遺伝的類似性および他の特徴は、アラン人とブルガール人が単一の遺伝的に均質な人口集団に由来することと一致します。埋葬儀式がアラン人とブルガール人から区別する堅牢な手段を提供する可能性は低そうです。この見解は、地下墓地だけではなく、コーカサスから到来したアラン人と関連しているウクライナの森林草原地帯におけるサルティヴ文化の土坑埋葬など、他の考古学的解釈と一致します。

 本論文のクマン期とジョチ・ウルス期とクマン期後の個体群は、西方草原地帯の人々と遺伝的に最も類似しています。しかし、北ポントスにおける最後の遊牧民集団であるノガイ人は、ハザール人やペチェネグ人やクマン人やモンゴル人の残党を含んでいた、と考えられており、高水準のアジア東部祖先系統を示唆する遺伝的特性があります。アジア東部祖先系統を有するノガイ人の遊牧移民は、上述のアラン人と同様に、在来集団との混合のゲノム兆候がない男女両方を含んでいます。同時代の中世スラブ人の遺伝的組成は、その後のウクライナのコサックおよび現代ウクライナ人と類似しています。さらに、そうした遺伝的特性はLBA以降のそれ以前の期間の一部の個体群たどることができ、明らかに、在来のヨーロッパ東部祖先系統です。

 紀元前9000~紀元後1800年頃の年代間隔のウクライナのさまざまな地域を表している考古学的遺跡から採取された標本のDNA解析から、古代の人口集団は頻繁な移動と同化と接触の結果として多様な範囲の祖先系統を有していた、と示されます。中石器時から青銅器時代末のフョソツカ文化およびビロゼルスカ文化まで、大まかな祖先系統の割合はヨーロッパの他地域の同時代の人口集団と類似しており、つまり、最初は狩猟採集民、次に初期農耕民、再議に初期農耕民と草原地帯牧畜民との間の混合です。キンメリア期(EIA)に始まり中世まで、ポントス地域における東方遊牧民の出現は定期的に発生しました。その遺伝的組成は、スキタイ人やクマン人のような在来個体群に重なったヤムナ文化集団的な組成から、アラン人・ブルガール人およびノガイ人のような高度なアジア東部祖先系統および最小限の在来集団との混合まで、さまざまでした。当時、遊牧民的な人口集団が草原地帯において記録されていたのに対して、ウクライナの残りの地域の個体群は、在来の先行者およびトラキア人やギリシア人やゴート人と関連するヨーロッパ祖先系統をおもに有していました。

 ウクライナ地域における移住と人口混合の重複堆積物(palimpsest、複数の行動事象の空間的重複により生じた考古学的記録)は、地理的・文化的・社会的に均質な集団における高い遺伝的異質性に寄与し、同じ遺跡に、同時に、同じ考古学的関連の個体群の間で、さまざまな遺伝的特性が存在したでしょう。本論文は、局所的な人口集団ではなく、歴史的に証明されている移住集団にとくに焦点を当てており、標本抽出は、地理的にはほぼウクライナの東部に、時間的には鉄器時代と中世に偏っていることに注意するのは重要です。それにも関わらず、広い規模の局所的な遺伝的特性は現代間ウクライナ人と類似しており、この標本一式内でも経時的にこの地域に存続しています。この祖先系統組成は少なくともズルブナ文化個体群にたどることができ、フョソツカ文化およびルサチア文化個体群や、西方のスキタイ人および同時代の東方の農耕民や、チェルニャヒーウ人口集団や、中世および近世のスラブ人で見られます。アジア東部を含む高度な移住活動や広範な混合の明確な痕跡にも関わらず、少なくとも青銅器時代以降に、ウクライナ祖先系統には大きな在来構成要素が推測されます。


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