ローマ帝国における授乳期間の違い

 ローマ帝国における授乳期間の違いに関する研究(Cocozza et al., 2025)が公表されました。授乳期間や離乳時期の復元は生活史の復元に役立つので、人類進化史の研究でも注目されています(関連記事1および関連記事2)。本論文は、乳児の摂食習慣がローマ帝国期の居住地の複雑さでどう変わるのか、高解像度の安定同位体分析を用いて調べました。本論文で使用されたのは、炭素(C)および窒素(N)の既知および新規の安定同位体データです。これに基づいて、ローマ帝国期の複数の遺跡の授乳期間には違いがあり、それは居住地の複雑さと関連している、と示されました。つまり、複雑さの高い都市中心部では、ローマ帝国期の医師の指針に従って2歳かそれ以前までに授乳を止める傾向にあったのに対して、農村部では一般的に2歳以後も授乳が続いていた、というわけです。比較対象となったのは、都市遺跡がイタリアのポンペイとギリシアのテッサロニキ(Thessaloniki)、農村部がローマに近いマーレ通り(Via del Mare)のオスティア(Ostia)墓地(オスティアAVM)とイギリスのベイネス(Bainesse)遺跡です。こうした居住地の複雑さと授乳期間との関連は、現代社会でも見られます。


●要約

 本論文は増加する象牙質から得られた高解像度のベイズモデルによる安定同位体測定を通じて、ローマ帝国における乳児の摂食習慣と居住地の複雑さとの間の関係の可能性を調べます。本論文は、さまざまなローマ帝国の遺跡の個体群の永久歯の第一大臼歯から同位体データを収集し、その内訳は、イギリスのベイネス(Bainesse)遺跡の5個体とギリシアのテッサロニキ(Thessaloniki)遺跡遺跡の30個体で、ポンペイ遺跡の4個体およびオスティアマーレ通り(Ostia Via del Mare、略してオスティアAVM)の6個体の新たな炭素および窒素同位体分析も収集されました。本論文の結果は、1.5年~約5年間と、授乳期間における遺跡間の変異性を明らかにしています。とくに、ポンペイとテッサロニキの高度に複雑な都市中心部の個体群は、ローマの医師によって推奨されていた閾値である2歳頃もしくは2歳未満で授乳を止めていました。対照的に、オスティアAVMおよびローマ帝国の北方の辺境に近いベイネスといった農村遺跡の個体群は一般的に、2歳以後に授乳を止めました。本論文で観察された居住地の複雑さと授乳期間との間の関連は、医療指針の順守、支援の社会基盤、および/もしくは家庭内の財政の制約を緩和するための戦略から生じたかもしれません。


●研究史

 都市は、さまざまな規模と期間において、社会的・経済的・技術的側面にわたってよく定義された特性を示す、複雑な体系と説明されてきました。都市の複雑化の影響は現代社会でよく説明されている健康管理の慣行にまで及んでいます。これらには乳児の摂食習慣があり、子供の生存と健康的な発達にとって重要な影響を及ぼします。最近の研究は、確立した小児科の摂食指針および社会経済的もしくは文化的側面の影響にも関わらず、さまざまな国における都市と農村の乳児の摂食習慣の間の明確な二分を示してきました。

 生物学考古学的研究では、イギリスとヨーロッパの古代の都市住民の健康と栄養は、農村部の住民と比較して全体的に良好だった、と示されてきており、類似の減少は現代社会でも見られます。しかし、歴史的な共同体における居住地の複雑さの乳児の摂食習慣への影響は、依然としてほとんど調べられていません。この観点では、ローマ世界には複雑さに顕著な違いを有する居住地があり、現在まで地中海および西洋文化で存続している遺産があります。乳児の摂食習慣と居住地複雑さとの間のつながりを浮き彫りにしている現在の研究に基づいて本論文は、同様のつながりがローマ帝国に存在した、との仮説を調べます。

 ローマ帝国の乳児の摂食習慣の証拠は、おもに考古学的遺物および文献の研究に基づいています。これには、埋葬地で発見された土器の哺乳瓶や授乳の芸術的描写など人工遺物の研究、乳母の雇用を報告する契約など残存している記録、乳児の摂食習慣に関する詳細な指針を示した古代の医学論文が含まれます。後者の注目すべき事例には、ソラノス(Soranus)の『婦人科学』(2世紀初期)や、ガレノス(Galen)の『健康法』(2世紀後期)や、オリバシウス(Oribasius)の『医学集成』(4世紀)があり、これらは乳児の摂食習慣について考察し、定めています。これらの論文では、ダマステース(Damastes)やムネシテウス(Mnesitheus)やアリスタナクス(Aristanax)やアンテュロス(Antyllus)などのギリシアとローマの失われた研究がよく引用され、時には批判されて折れ、こま問題へのさらなる洞察を提供します。全体的にこれらの論文は、生後6ヶ月に始まって2歳までの授乳の停止となる、より広範な食料への漸進的な移行(つまり、補完的な摂食)を提案しています。しかし、これらの医学論文はおもにローマの貴族を対象としており、規範的でしたが、より広範なローマ帝国の人口の乳児の摂食習慣は依然としてほぼ知られていません。

 考古学的な象牙質の増加への炭素安定同位体(δ¹³C)および窒素安定同位体(δ¹⁵N)の測定を用いて、約6ヶ月の個体の時間解像度で過去の摂食習慣の直接的な復元が達成できます。永久歯の組織は、一度形成されると、再生せず、乳児期および思春期の同位体痕跡を封じ込めます。ヒトの永久歯の第一大臼歯(M1)は、生後約3か月から9.5歳頃までの同位体兆候を記録しており、授乳および補完的摂食を含めて、子供期の最も危険な段階を生き残った個体の初期の食性の研究を可能とします。これによって、同位体の記録は、乳児の摂食習慣と環境を調べ、「骨学的矛盾」、つまり、乳児期を行きの媚びなかった個体の遺骸を用いての過去の乳児の健康の研究という課題を回避するための、信頼できる代理となります。M1の増加分測定から得られた同位体値の時系列の典型的なパターンは、とくにδ¹⁵Nの初期の増加で、これは、ヒトの母乳消費のみから補完食の導入までの移行を特定します。母親もしくは乳母からの乳は、その食性と比較して¹⁵Nが豊富で、離乳期には、乳児は比較的¹⁵Nが少ない食料源(たとえば、穀類の調理食品や果物)で育てられます。δ¹⁵Nでの減少が停止し、その後の同位体が平坦となる同位体点は、授乳の終了を示すのに使用されます。

 増加同位体分析し以前に、ローマ帝国の北方境界に位置する小さな民間人の居住地であるイギリスのベイネス遺跡と、繁栄した商業都市であるテッサロニキにおける、ローマ帝国の乳児の摂食習慣の調査に採用されました。ローマ帝国の乳児の摂食習慣における差異の可能性を調べ、これらの居住地の複雑さとも関連しているかもしれない、との仮説を検証するために、刊行されているデータが、ポンペイ市(4個体)や農村地域のオスティアAVM墓地(6)個体のローマ帝国の個体群の新たな歯の象牙質の増加分同位体データと組み合わされました(図1)。以下は本論文の図1です。
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 ポンペイは79年のヴェスヴィオ山の噴火で火砕物に埋もれ、ローマ帝国の1都市の日常生活の断面を保存しています。オスティアAVMの考古学的遺跡は、ローマとオスティアの都市の農耕環境に関する農村の活動の保存状態良好な貯蔵所です。ローマとオスティアの位置はそれぞれ、テッサロニキとベイネスの居住地の複雑さにおいて類似性を有しており、553点の同位体測定に相当する45個体のデータセットについて、ローマ帝国の中核と属州環境との間のより広範な比較分析が可能となります。


●分析結果と考察

 各象牙質増加分の炭素と窒素の同位体比および元素濃度の測定結果は、補足資料S3.3に示されています。炭素と窒素の元素濃度から、オスティアAVMの標本OS1を除いて標本の保存状態は良好と示唆され、オスティアAVMの標本OS1は以後の考察から除外されました。年齢間隔は、歯の長さに沿った成長速度の差異を考慮して、各増加分に割り当てられました。しかし、異なる個体における同じ増加分は同じ年齢間隔に対応していないかもしれず、同位体値の直接的比較を妨げます。したがって、ベイズモデルOsteoBioRが使用され、断面全体の歯の同位体測定値が、時間全体にわたる同位体範囲へと変換されました。ローマ帝国の乳児の摂食習慣に関する他の先行研究は、骨もしくは歯全体の測定、あるいはさまざまなよう初期の年数を反映した象牙質の増加分の分析に依拠していました。歯の増加分研究(6ヶ月)と比較してより低い時間解像度(複数年)を考慮して、あるいは2番目の事例において授乳期間におけるデータの間隙のため、これらは本論文では検討されませんでした。

 授乳中止年齢のベイズ推定は、点変化検出用のMCP 一括に基づくChangeR演算法を用いて行なわれました(図2A)。比較の基準として、現代およびローマ帝国期の医師により提案された、2歳の授乳中止推奨年齢が考慮されました。テッサロニキの個体METi_197とMETi_125とMETi_67については、ChangeR演算法は授乳中止を推定できませんでした。これは、この3個体における有意なδ¹⁵N減少傾向の欠如に起因します。先行研究によると、この傾向の欠如は授乳の欠如を示唆しているかもしれません。これはあり得る説明ですが、本論文は、当時において授乳無での生存の可能性はひじょうに低かっただろう、と主張します。本論文が代わりに主張するのは、そうしたδ¹⁵Nのパターンは母親もしくは乳母における顕著な食性の変化を示唆しているかもしれず、そうした食性の変化がその後で母乳におけるδ¹⁵N値を変えた、ということです。残りのデータセットについては、授乳中止の推定は約18ヶ月から5年近くまでさまざまです。ベイネスとオスティアAVMの両遺跡では、個体の80%(ベイネス遺跡とオスティアAVM遺跡では5個体のうち4個体)が、68%および98%の信用区間で、授乳中止の推定値が2歳の閾値を超えています。逆ら、ポンペイの都市遺跡では、個体の75%(4個体のうち3個体)が68%と95%の信用区間で授乳中止の推定値が2歳の閾値を下回っています。テッサロニキの都市遺跡では、68%と95%の信用区間で授乳中止の推定値が22歳の閾値の頃もしくはそれ未満に集中しています。生物学的性別によると、授乳中止年齢に明確な違いはありません。以下は本論文の図2です。
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 ポンペイとオスティアAVMについては、消費された可能性の高い食料群の同位体基準の確立が可能でした。ベイズ混合モデルReSourcesを用いて、さまざまなタンパク質源の熱量寄与の個別の時間推定値が生成されました(図2B)。ベイズ食性推定値から、母乳はじょじょに陸生C₃植物資源に置換され、それには、穀類(コムギやオオムギやライムギ)や豆類や野菜などが含まれ、これらの共同体において子供には二次製品が主要なタンパク質源だった、と示唆されます。雑穀やモロコシの可能性が高いC₄穀類の消費も、中程度で推定されています。ローマ帝国期のイタリア半島におけるこれらの穀類の利用の証拠は、ポンペイからの直接的証拠を含めてありますが、これらはローマ人において最も好まれた穀類ではありませんでした。この推定値は海洋性タンパク質の最小限の消費も示唆しており、ポンペイが沿岸部に位置していることと、ナポリ湾の交易路の重要性を考えると、とくに驚くべきことです。しかし、これは以前のローマ帝国の同位体研究と一致しており、その先行研究では、乳児とは対照的に、成人による海洋性食料の顕著な消費が特定されました。ローマ社会では、乳児は地位がより低い個体とみなされ、海洋魚の高い経済的価値のため、海洋性食料を子供が消費することは少なかったかもしれません。

 現代の都市化過程の研究は、都市の急速な拡大と関連する利点と危険性を明らかにしています。都市居住地の組織的複雑さが増加し、資源や健康管理や社会事業の利用可能性が高くなると、公衆衛生全体に正の影響を及ぼします。都市は情報拠点としても機能し、知識が通常は家庭の交流網内で共有され、伝統的慣行が優勢かもしれない農村集落と比較して、医療指針への順守を促進します。このパターンは、乳児の摂食習慣に当てはまります農村地域における医療情報と医療機関の標準的水準は、授乳習慣に関する医療の韓国の順守率がより低いことと関連づけられてきました。乳児の摂食習慣は、富の不平等にも影響を受けます。貧困家庭では、授乳は資源不足を緩和し、子供の追加の食料購入の財政的負担を軽減する手段として、用いられることが多くあります。一方で、より裕福な家族は母乳の代用食品を購入する余裕があり、より短い授乳期間の傾向を示します。

 現在の乳児の授乳習慣は、情報および医療の社会基盤の普及と社会経済的差異に大きな影響を受けます。これらの要因は結びついていることが多く、居住地の複雑さと関連しています。移民間の地位の差異もしくは多様な伝統習慣への固執は、本論文の調査結果における授乳中止で観察された限定的な遺跡内の変異性を説明できるかもしれません(図2A)。本論文のデータセットに社会経済的地位に関する情報は含まれていませんが、ポンペイやテッサロニキのような充分につながっていて複雑な都市中心部において、より高水準の社会経済的不平等とヒトの空間移動性を予測することは合理的です。ポンペイでは、ヴェスヴィオ山の79年噴火が同じ考古学的地層における奴隷や解放奴隷や外国人や市民の遺骸を保存しており、社会的地位と文化的帰属の割り当てを複雑にすることが多くあります。

 テッサロニキでは、埋葬の一部はおそらく地元の中流階級と関連しています。地位および空間的移動ライの違いは、オスティアAVMのような複雑さの少ない居住地にも存在しており、そこでは、碑文がより裕福な火葬墓とともにギリシア人の解放奴隷の名前および数基の石棺を明らかにしています。しかし、本論文のデータセットにおける個体群は、副葬品のない単純な土坑で発見されており、低い社会的地位を示唆しています。これはオスティアAVM共同墓地において最も一般的な埋葬慣行で、標本抽出された個体群は人口集団のより貧しい農民層の一部だった可能性が高い、と示唆されます。ベイネス遺跡は小規模でローマ帝国の端に位置するため、低い複雑さの居住地によって特徴づけられます。ベイネス遺跡はローマの北方境界のぐんじようさいの近くに設置された民間人の集落で、おもに地元の工芸活動と交易に重点が置かれていました。したがって、ローマ帝国の他地域からの商人や兵士の存在の可能性が遺跡内の社会経済的差異を示唆している可能性は、除外できません。

 しかし、授乳期間中止の推定値における差異は、低い複雑さの居住地(ベイネス遺跡とオスティアAVM遺跡)と高い複雑さの居住地(ポンペイとテッサロニキ)の間で明らかです。たとえば、ブリテン島北部のベイネス遺跡では、地元の鉄器時代の慣行がローマ期を通じて存続したかもしれませんが、比較分析用の高解像度の同位体データの不足のため、その検証は困難です。それでも、この仮説は、ともにローマ帝国の「イタリア本土第一行政区(Latium et Campania)」地域に位置する、ポンペイとオスティアAVMとの間で観察された差異を充分には説明していません。ポンペイとオスティアAVMとテッサロニキは同様の条件を経ているので、気候および環境要因も差異の主因である可能性は低そうです。しかし、ベイネス遺跡では、より厳しい気候条件が、乳児の世話で異なる戦略を促進して、それによって授乳期間の延長が生じたかもしれません。結果はむしろ、乳児の授乳習慣と居住地の複雑さとの間の関連の提案された仮説とより一貫して一致します。対照的な生活様式が、ウェルギリウス(Virgil)や大カトー(Cato the Elder)やウァロ(Varro)やホラティウス(Horace)やコルメラ(Columella)やテレンティウス(Terence)など、古典期の作家の作品でも述べられています。これらの作家は具体的な乳児の摂食習慣を論じていませんが、牧歌的な田園生活を半狂乱の都市中心部の生活と対比させています。

 高度に複雑なローマ帝国の居住地の負の特徴にも関わらず、そうした居住地では医療施設の利用可能性や医療知識の普及が進んだでしょう。現在の研究では、複雑さの少ない居住地が受け取る医療支援や医療情報は、より発展した居住地と比較して低水準である、と示唆されてきました。これら低い複雑さの環境では、医療施設の限定的な利用可能性は、伝統的な家族の習慣への依存をもたらすことが多く、医学の推奨とは異なることの多い乳児摂食の知識の垂直伝達につながります。ローマ帝国の医学に関する利用可能な証拠から、より裕福な個体群は家庭を訪れる個人的医師を雇う余裕があったのに対して、より貧しい人々は公衆浴場や寺院や診療所(tabernae medicae)の医師に相談しなければならなかった、と示唆されています。病院(valetudinaria)は軍野営地の兵士のみが利用可能でした。この枠組みの中で、ベイネス遺跡とオスティアAVM遺跡における公共医療の社会基盤は相対的に限られており、おもにそれぞれオスティアとポルトゥス(Portus)の、近隣のカタラクトニウム(Cataractonium)の軍事要塞か都市部地域に集中していた、と仮定することは合理的です。逆に、ポンペイとテッサロニキは商業と文化の豊かな中心地として、医師により多くの経済的機会と、医療施設へのより高い利用可能性および住民への医療推奨のより高度な順守を提供した可能性が高そうです。1770年にポンペイの「外科医の家」で多くの外科器具が発見されたことはとくに、この都市中心部における医療慣行の高度な状態を浮き彫りにします。

 本論文で収集されたデータセットの分析は、ローマ世界において居住地の複雑さと乳児の摂食習慣を結びつける仮説と一致します。居住地の複雑さは、授乳の中止速度に影響を及ぼした可能性が高い、社会経済的不平等やヒトの空間移動性の程度や医療知識の利用可能性や社会基盤の水準と関連しています。しかし、要注意なのは、本論文のデータセットが将来、本論文の結果の堅牢性の検証、および文化もしくは環境要因の影響の調査に拡張されるべきことです。標本の保存状態の悪さもしくは葬儀慣行の過去の選択(たとえば、火葬)を考えると、高い時間解像度の同位体技術を常に採用できるとは限らないかもしれず、労力と費用が高くなります。しかし、そうした技術は、過去の人口集団の広範な階層の個々の伝記への新たな洞察を提供できます。


参考文献:
Cocozza C. et al.(2025): High-resolution isotopic data link settlement complexification to infant diets within the Roman Empire. PNAS Nexus, 4, 1, pgae566.
https://doi.org/10.1093/pnasnexus/pgae566

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