アヴァール期の生殖障壁
古代ゲノムデータに基づいてアヴァール期の生殖障壁を報告した研究(Wang et al., 2025)が公表されました。アヴァール人は遺伝的にはアジア東部的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しており、567~568年にヨーロッパ中央部東方に到達して、そこで大きく異なるヨーロッパ的な祖先系統を有する集団と遭遇しました。本論文は、オーストリアのウィーンの南側の7~8世紀の大規模な墓地から722個体から得られた古代ゲノムデータと学際的分析によって、この間のアヴァール的文化集団間の遺伝的差異を示しています。アヴァールがヨーロッパ中央部東方に到来してすでに200年ほど経過しても、レオバースドルフ(Leobersdorf、略してLEO)遺跡の被葬者の祖先系統がおもにアジア東部的だったのに対して、メートリンク黄金階段(Mödling-An der Goldenen Stiege、略してメートリンク、MGS)遺跡の被葬者の祖先系統はおもにヨーロッパ的で、スラブ人と類似した遺伝的構成でした。レオバースドルフ遺跡とメートリンク遺跡は20km程度しか離れておらず、独特な後期アヴァール文化を共有しているにも関わらず、生物学的近縁性はほとんど見られません。
レオバースドルフ遺跡とメートリンク遺跡の6世代にわたる復元家系図では、両遺跡間の大きく異なる祖先系統にも関わらず、大規模な婚姻網を示す遠い血縁関係とともに、近親婚の欠如や女性族外婚の父系制や逆縁婚などの複数回の婚姻や社会的地位の考古学的指標との生物学的つながりの直接的相関が明らかになりました。レオバースドルフ遺跡とメートリンク遺跡の血縁関係はほぼ女性族外婚に起因しており、これが遺伝的障壁維持の主要な駆動要因だったようです。本論文は、文化と遺伝の多様な関係の具体的事例(関連記事)の一つを新たに提示した点でも、注目されます。今後、日本列島でも古代ゲノムデータに基づく同様の詳細な親族関係が解明されていくよう、期待しています。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。以下の年代は、明記しない場合は西暦(グレゴリオ暦)の紀元後を指し、略称はAD(Anno Domini)で、紀元前の略称はBC(Before Christ)です。本論文では、紀元前はBCE(Before Common Era)、紀元後はCE(Common Era)と表記されていますが、私は今後も当ブログではBCとADを使用し続けます(関連記事)。時代区分の略称は、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、IA(Iron Age、鉄器時代)、前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)です。
●要約
アジア東部祖先系統を有するアヴァール人は長距離移動の後に、567~568年にヨーロッパ中央部東方に到達し、大きく異なるヨーロッパ祖先系統を有する集団と遭遇しました[1]。本論文は、オーストリアのウィーンの南側の近隣に位置する7~8世紀の大規模な共同墓地の722個体の古代ゲノム規模データと詳細な学際的分析を用いて、この遭遇の数世紀にわたる影響に取り組みました。その結果、移住の200年後でさえ、一方の遺跡(レオバースドルフ)の祖先系統がおもにアジア東部的だったのに対して、もう一方の遺跡(メートリンク)は在来のヨーロッパ的祖先系統を示す、と分かりました。これら2ヶ所の近隣の遺跡は、独特な後期アヴァール文化を共有しているにも関わらず、ほとんど生物学的近縁性を示しません。
この両遺跡【レオバースドルフとメートリンク】で6世代の家系図が復元され、それには密接な親族関係にある最大450個体が含まれ、これによって共同体の世代ごとの人口統計学的特性が得られます。異なる祖先系統にも関わらず、これらの家系図は遠い関係の大規模な交流網とともに、近親婚の欠如、女性族外婚の父系パターン、複数回の婚姻関係(たとえば、逆縁婚)、社会的地位の考古学的指標との生物学的つながりの直接的相関を示しています。世代規模の遺伝的障壁は、アヴァール王国の他の遺跡の類似した祖先系統の配偶者を体系的に選択することによって、維持されていました。レオバースドルフ遺跡では、メートリンク遺跡よりもアヴァールの中心地との生物学的つながりが多く、メートリンク遺跡では代わりに、ヨーロッパ的祖先系統のウィーン盆地の他の遺跡とつながっています。遺跡間の移動性はほぼ女性族外婚に起因しており、これは、遺伝的障壁維持の主要な駆動要因としてのさまざまな婚姻網を示しています。
●研究史
552年、突厥は現在のモンゴル高原で漢字文献において「柔然(Rouran)」と呼ばれているアヴァール人の帝国を滅ぼし、多くのアヴァール人や他の草原地帯の騎馬遊牧民はヨーロッパへと移動し、567~568年にカルパチア盆地(おもに現代のハンガリー)に定住しました[1]。文献によると、アヴァール人はブルガール人やゲピド人やスラブ人やローマ人など民族的および文化的に多様な人口集団を支配し、バルカン半島の東ローマ(ビザンツ)帝国の属州を繰り返し襲撃しその中には、626年にはコンスタンティノープルの包囲攻撃に失敗しました。ヨーロッパ中央部東方におけるアヴァール王国は、800年頃にフランク軍が滅ぼすまで、より平和な形で存続しました。
ほぼ10万基の墓から得られた豊富な考古学的記録は、初期アヴァール時代の文化的多様性が8世紀の均質な文化にどのように取って代わられたのか、示しています。民族的多様性の証明は消滅し、文献はアヴァール王国におけるアヴァール人のみに言及しています。最近の考古遺伝学的研究は、7世紀におけるアヴァール人上流階層のアジア東部祖先系統を確証し、アヴァール中核地域やDTI(Danube–Tisza interfluve、ドナウ川とティサ川の河間)地域やティサ川の東側のトランスティサ(Transtisza、略してTT)地域におけるさらなる人口増加を突き止めてきました[1、10]。本論文は、アヴァール支配の後期(650~800年頃)における、アヴァール帝国の周辺地域であるオーストリア東部のウィーン盆地に取り組みます。ここは西方との接触地帯で、新たな集団が定住した7世紀の前には、人口は疎らでした。
文献には、民族の呼称を用いて、集団の多様性や移動が記載されています。そうした民族の分類表示は(過去も現在も)必ずしも共通の起源や共有文化の集団に対応しておらず、遺伝学や考古学や言語学や歴史の証拠が民族集団を定義するために完全に一致するだろう、との一般的認識(たとえば、消費者向けの祖先系統遺伝的検査)とは対照的です。新たな遺伝的データの学際的解釈に基づいて、局所的な共同体の社会構造と行動パターンが再構築され、アヴァール社会内の持続的な生殖障壁を含めて人口発展や文化的習慣への、この歴史的によく証明されている大きな移動の長期にわたり高度に多様な影響が示されました。
アヴァール人の移住と支配の影響を完全に理解するため、レオバースドルフ遺跡(LEO、7~8世紀、155点の標本)およびメートリンク黄金階段遺跡(MGS、7~8世紀、485点の標本)の2ヶ所の共同墓地全体が標本抽出されました。比較のため、この2ヶ所の遺跡以前の小規模埋葬集団も含められ、それは、メートリンクのメートリンク・レールシェンガッセ(Mödling-Lerchengasse、略してMLS)遺跡(2点の標本、4世紀後半)およびメートリンク・レイネリンネン(Mödling-Leinerinnen、略してMLE)遺跡(5点の標本、6世紀半ば)です。さらに、ウィーン・クソコルガッセ(Wien-Csokorgasse、略してクソコルガッセ、CSK)遺跡(745基の墓地、7~9世紀)の大規模墓地から83点の標本が選択され、8世紀半ばの移住との考古学的仮説が検証されました。まとめると、保存状態が良好だったおかげで、ウィーン盆地の722個体の骨格標本から新たに確実なゲノム規模DNAが分析され、いくつかの最先端の手法で近縁性推定(完全なデータセット)および遺伝的祖先系統調査(最小限の汚染率5%の677個体)のため、約626000~124万の中央値が得られました。
●遺伝的祖先系統間の対比
LEOとMGSとCSKはすべて半径20km以内に位置しており、考古学的には典型的な中期~後期アヴァール時代の遺跡(7世紀半ば~9世紀初頭頃)に分類されてきました。しかし、これらの間で根本的な遺伝的差異が見つかりました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)およびFₛₜ(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)によって測定されるように、LEO個体群の主要なクラスタ(まとまり)はMGSおよびCSKの個体群とは異なっており(図1)、ヨーロッパに暮らす現代の人口集団がユーラシア東部の人口集団と異なっているのと最大で同じ水準です。アヴァール王国の辺境でさえ、800年頃のアヴァール支配の最末期まで、アジア東部祖先系統がLEOの局所的共同体において一般的で、LEOの個体群のアジア東部祖先系統の中央値は71.5%でした(図1)。以下は本論文の図1です。
LEOの全個体の遺伝的祖先系統は主要な3祖先系統供給源にたどることができ、おもに、代理としてアムール川(Amur River、略してAR)流域の「AR_鮮卑_AD2世紀」を用いての鉄器時代アジア北東部祖先系統[17]、代理として「北コーカサス_AD7世紀」を用いてのポントス草原地帯の草原地帯祖先系統[18]、および代理としてハンガリーのスゾラッド(Szólád)遺跡個体(ハンガリー_スゾラッド_AD6世紀)を用いての低い割合のアヴァール期の前のカルパチア盆地祖先系統[19]です。以前の調査結果[10]と同様に、代理の祖先系統供給源としての参照人口集団を仮定すると、アジア東部供給源とアヴァール期の前の供給源との間の混合はLEOの142±15年前に始まります。LEOの82個体の祖先系統も、300年前頃(LEOの319±174年前)に始まった混合過程において、コーカサスの北側のポントス草原地帯から0.9~61.4%ほど由来しており、これはアヴァール期社会の草原地帯要素がそれ自体異質だったことを示唆しています。LEO個体群におけるアジア東部祖先系統の平均的な割合は、共同墓地を使用していた約150年間にわたって約70%で安定しており、経時的な均質化は起きていません。
LEOおよびアヴァール中核地域の同時代の遺跡とは対照的に、アジア東部祖先系統はMGSでは最小限です(平均して5%未満)。代わりに、アヴァール期MGS(7~8世紀)人口集団によって形成される主要なクラスタ(まとまり)は、現代ヨーロッパ人のクラスタと類似しており(図1)、その解像度では、先アヴァール期MLEおよびMLS個体群と類似しています。ほぼ同時代の高解像度の状況では、MGSはハンガリー_スゾラッド_AD6世紀の先アヴァール期人口集団と、ヘレニズム期アナトリア半島から鉄器時代イベリア半島にかけて伸びている遺伝的勾配との間に位置しています。このPCAでの配置と一致して、qpWave分析はMLE_AD6世紀とMGSとの間の直接的な局所的連続性を示さず、MGS祖先系統の近位モデル化では、さらなる祖先構成要素が必要になる、と示唆されています。一方で、MGS個体群は、直接的な生物学的近縁性の指標である同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)ゲノム断片を通じて、2ヶ所の小さな先アヴァール期のメートリンク共同墓地とのつながりを示しています(100個体以上の対でのつながり)。墓の服飾品(ピンセットや櫛など)やイヌの埋葬やメートリンク遺跡群の放射性炭素(¹⁴C)範囲の年代的重複は、いくらかの局所的連続性を示唆しているかもしれません。
MGS遺跡個体群の遠位モデル化は、ほぼ初期ローマ帝政期(紀元前1世紀~紀元後2世紀頃)にさかのぼる複雑な混合を明らかにし、地中海東部祖先系統(トルコ_ヘレニズム/トルコ_IA)はヨーロッパ南東部祖先系統(スロヴェニア_EIA/クロアチア_IA)とまず、その後でチェコのポハンスコ(Pohansko)も含めてヨーロッパ北東部祖先系統(リトアニア_BA/ポハンスコ_AD9世紀)と混合しました。アジア東部祖先系統の小さな構成要素はMGSの約200年前に追加され、最も可能性が高いのはアヴァール支配下においてです。ヨーロッパ北東部祖先系統は、それ以前の期間(5~6世紀)にはほぼ欠けており、7~8世紀のMGS個体群において初めて大規模に観察できます。ヨーロッパ中央部東方および南東部における以前に報告された事例はその後に初めて証明され、これはとくに、7~9世紀のヨーロッパ東部において火葬仮想が一般的だったことに起因します[21~23]。類似の祖先系統はロシアのヴォルガ・オカ(Volga-Oka)河間地域およびチェコ共和国のポハンスコにおいて9世紀に見られ[24]、それはヨーロッパ中央部東方の現代の人口集団にも存在します[23]。それはおそらく6世紀半ば以降の同時代人がスラブ人の流入と認識していたことと関連しています。そかし、それはメートリンク遺跡個体群がスラブ人とみなされるべきことを意味していません。それらは混合の長い過程の結果で、おそらくはカルパチア盆地のローマ後期と先アヴァール期の集団を含んでいましたが、アヴァール人によってバルカン半島のローマの属州からパンノニアへと大量に移送された捕虜も含んでいました。対照的に、5~6世紀のカルパチア盆地において顕著だったヨーロッパ北部祖先系統の個体群[28]と、ユーラシア草原地帯の集団は、メートリンク個体群の祖先系統において小さな役割しか果たしませんでした。
隣接するアヴァール期の2ヶ所の共同体、つまりMGSとLEOの間の対照的な遺伝的パターンは、数世代にわたる期間の両者間の限定的な相互作用を示唆しますが、CSK個体群はアヴァール期MGS個体群とひじょうに類似した祖先系統パターンを示します(図1)。MGS個体群のように、アジア東部祖先系統はCSK個体群においてわずかな役割しか果たしませんでした(82個体のうち19個体のアジア東部祖先系統の中央値は6.6%)。考古学的調査結果に基づく当初の仮定とは対照的に、8世紀の東方からの遺伝的流入はCSK個体群では検出されませんでした。モノはヒトがいなくても移動可能なのかどうか、という考古学的議論の文脈において、これは移動なしでの文化的物質の拡大の明確な事例を提供します。LEO個体群におけるアジア東部およびヨーロッパ祖先系統の検出された混合は性別が偏っており、アジア東部構成要素は男性個体を通じてより多く見られました。対照的に、MGS人口集団へのヨーロッパ北東部祖先系統の遺伝子移入は、両性による伝達と一致します。
近隣のLEOとMGSの個体群間の遺伝的障壁は、考古学的記録における大きな差異とは対応していません。両墓地は8世紀のアヴァールの領域の共有された文化の一部で、ほぼ東西方向の墓の列の別々の埋葬穴における土葬によって特徴づけられ、ほとんどの埋葬において少なくとも基本的な副葬品があります。両遺跡に共通する男性の地位の最も目立つ標識はほぼ同一の鋳造銅製合金付属品のある多分裂帯一式で、グリフィンや装飾品で飾られていることが多くあります。女性の墓は質素であることが多いものの、王冠や首輪や銀の腕輪や上着の留め金など特別な威信財を含んでいることもあります。対照的に、西方のフランク王国およびランゴバルド王国では葬儀慣行は根本的に異なっており、副葬品の慣行はすでに廃れていて、ヨーロッパ中央部東方の周辺地域では、スラブ人が出現し、副葬品もしくは供物なしで、死者の火葬が行われていました。MGS人口集団の大半はスラブ人集団と類似した祖先系統を有していましたが、同時代のスラブ人ではなくアヴァール人の文化慣行を共有していました。
埋葬共同体の文化的習慣を共有する遺伝的外れ値が他の遺跡で発見されており[41]、文化的多様性が同じ埋葬共同体内の先行期間で記録されていてますが[10、19、28]、本論文が把握している限りでは、LEOとMGSは圧倒的に共通の文化的特徴を有する2ヶ所の遺跡全体の間での根本的な遺伝的差異のまだ記録されていない事例です。遺伝的不一致は、遺跡の社会的地位もしくは機能における違いによって説明できません。LEOは境界防衛のための軍事集落ではなく、MGSと同様に、墓には戦闘用武器がほんど含まれておらず、馬具はなく、骨格に外傷もしくは負傷の証拠はほとんどありません。アヴァール中核地域、たとえばクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡ではさらに多くの武器が発見されており、ドナウ川沿いの古ローマ街道に位置するCSKではもう少し多くの武器が発見されています。LEOはMGSの地位の低い西洋人の地域を支配する、「本物の」高位アヴァール人の上流階層の集落でもんきもそれは、LEOとMGSにおいて地位の指標が同程度で見られるからです。LEOは帯一式および帯の付属品の平均割合がMGSよりわずかに高く(LEOは26.4%、MGSは19.7%)、この両遺跡では、そうした帯一式および帯の付属品は下位家系の一部とおもに関連しており、明らかにそのより高い地位を誇示するためでした。
●生殖慣行の復元
2ヶ所の巨大な共同墓地をできるだけ完全に標本抽出することで、全体的な埋葬共同体の系図の再構築が可能となります。双子の可能性も含めて生物学的に親族関係にある356個体に基づいて、MGSについて大きな一つの系図(図3)と、LEOの共同体のほぼ全体について111個体の6世代にまたがる系図(図2)が構築されました(図2および図3)。平均して、LEO(147個体のうち139個体)およびMGS(492個体のうち450個体)の個体の90%以上は、KIN によって推定される1親等~5親等の近縁性を通じて親族関係にあります。全体的な系図は、両遺跡【LEOとMGS】の一夫多妻の個体群によって関連していることが多い、いくつかの下位系図で構成されています。より遠い親族関係にある一部の個体(LEOでは24個体、MGSでは47個体)は全体的な系図へと組み込むことができませんでしたが、ごくわずかな個体(LEOでは6個体、MGSでは39個体)のみが他の個体と遺伝的にまったく関係がなく、そうした個体の多くは若い生殖年齢の女性で、最も可能性が高いのは、こうした個体が墓地に子供がおらずに埋葬された族外婚の配偶者だった、ということです。以下は本論文の図2です。
本論文の学際的手法によって、生物学的近縁性が社会的親族関係にどの程度対応しているのか、評価が可能となりました。両共同体【LEOとMGS】はおもに生物学的親族によって形成されており、親族関係にない個体はほとんど含まれておらず、生物学的親族が社会的結合の鍵となる要因でした。考古学的データは、生物学的近縁性と社会的近縁性との間の重複を確証し、両遺跡【LEOとMGS】では、下位系図の構成員は小さな埋葬クラスタ(まとまり)を形成しますが、別々の場所を使用していません(図2および図3)。ともに埋葬された2個体はほとんどの場合、親子か夫婦かキョウダイでしたが、生物学的関係のない二重埋葬がいくつかあります。以下は本論文の図3です。
全体的に、系図は明確な生殖戦略を示しており、その戦略はMGSとLEOの間で類似しているものの、一部の重要な側面で異なっています。新たに報告された個体群がhapROH[42]によって推定される、近親交配の指標である同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)を多量に有していないことを考えると、近親婚はMGSとLEOの両遺跡で6世代にわたって厳格に避けられていた、と推測されます。これはおもに族外婚によって達成されており、LEOに埋葬された識別可能な子孫のいる母親19個体のうち17個体(90%)にはLEOで埋葬された祖先がおらず、MGSのずっと大きな共同体では、識別可能な子供のいる母親59個体のうち46個体(78%)に、MGSに埋葬された祖先がいません。多くの娘は他の場所で結婚するために去ったようで、7~17歳の間では、死者の性比は男性対女性で、LEOは1.5:1、MGSでは1.7:1で、成人においては、同じ遺跡で両親の間に産まれた女性個体はほとんど残っていません。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)は同様の状況を示しており、LEOの男性77個体のうち62個体は、アジア東部において一般的なY染色体ハプログループ(YHg)C2bです。対照的に、LEOのケイガにおける女性個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)は多様です。MGSは異なっており、それは、男性個体もいくつかのYHg系統を示すからで、たとえば、ヨーロッパにおいてよく見られる型のR1aやR1bです。
これが意味するのは、程度が異なるとしても(父系性は、LEOでは88%、MGSでは70%)、父方居住と父系制が両遺跡【LEOとMGS】では優勢だった、ということで、残りの事例は、2世代以上によたる一貫した母方居住を示しませんでした。アヴァールの中心地であるラコクズィファルヴァ(Rákóczifalva、略してRK)遺跡[10]では、父系性は98%と計算されました。これは、アヴァールの領域における共通の社会的慣行が中核地域において徹底的に守られていたものの、周辺地域ではより多くの差異があり得たことを示唆しています。さらに、KINおよびIBD分析から、空間的近さにも関わらず、MGSとLEOの人々は、両墓地が同時代に使用されていた約150年間にわたって相互とわずかにしか混合しなかった、と示されました。LEOとMGSとの間のわずか5組の2親等親族関係と限定的なIBDのつながりを証明できますが、CSK個体群のより少ない選択は、MGSとの、17組の1親等および2親等の近縁性およびかなりのIBDのつながりを示します。LEOは、MGSとよりも、たとえばクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡などほぼ400kmの距離のDTI-TT地域の一部の遺跡(図1)の方と多くの遺伝的つながりを有しています。
したがって、LEOとMGSにおける異なる遺伝的祖先系統は、両共同体における配偶者選択の同様のパターンによって説明でき、これは、アジア中央部の文献証拠が示唆するように、おそらく大規模な遭遇で、もしくは氏族間の伝統的関係によって、同様の祖先系統が優勢な共同体でおもに起きていました。LEOにおいてわずか3個体の男性(そのうち2個体は兄弟)が、おもにヨーロッパ祖先系統の女性個体との間に子供を儲けていました。このように、遺跡に埋葬された6世代にわたって、アジア東部祖先系統が優勢なままでした。【LEO遺跡個体群のゲノムに占めるアジア東部祖先系統の】世代ごとの平均割合は下位家系1では6世代にわたって約70%で安定しており、下位家系2では約55%から最終世代では70%に達しさえしました。同様にアジア東部祖先系統を有する生殖の配偶者はLEOで選ばれましたが、MGSではヨーロッパ祖先系統を有する配偶者が選好されました。このように、類似の生殖パターンが用いられ、両遺跡【LEOとMGS】の祖先系統の違いが維持されました。
両遺跡【LEOとMGS】で顕著な特徴は、多婚でした。LEOでは、複数の配偶者との間に子供を儲けたのは、おもに男性でした(14個体のうち10個体)。一夫多妻はアヴァールの複数の可汗に関する文献で証明されており、最も妥当な説明ですが、連続単婚の可能性を完全には除外できません。MGSでは、女性も複数の配偶者と子供を儲けており、男性とほぼ同数でした(31個体のうち15個体)。これらの多婚女性のほとんどの配偶者は相互に親族関係にあったので(兄弟や両親の一方のみを共有する半兄弟や継子)、これらはおそらく、未亡人がなくなった配偶者の男性親族と結婚する取り決めである、逆縁婚でした。これは匈奴や他のアジア中央部草原地帯の人々について現在まで頻繁に証明されている慣行で、氏族の機能性維持を意図しています[10]。LEOでは56組の結婚のうち3組の逆縁婚と14組の多婚が、MGSでは161組の結婚のうち7組の逆縁婚と31組の多婚が見つかりました。MGSでは、逆縁婚はキョウダイのみを対象としていますが、LEOでは、逆縁婚は2世代もしくはそれ以上の世代を含んでいることもあり、男性1個体が同じ世代の女性1個体、および孫息子の配偶者となったより若い女性と子供を儲けました。単婚と多婚の比率は遺跡間で大きく異なり、LEOでは3:1、MGSでは4:1、RK(ラコクズィファルヴァ)では1.5:1なので(図4)、アヴァール中核地域の遺跡との比率の違いは、LEOとMGSとの間の差を上回っています。アヴァールの権力中心地に近いほど、草原地帯の伝統はより大きな役割を果たしていたかもしれず、この事例では他の事例と同様に、共有された文化遺産に基づいて多くの地域的差異が見られます。)以下は本論文の図4です。
LEOとMGSとの間の遺伝的対照性を考慮して、古代の人口集団が独特な表現型の特徴を有していたのかどうか、調べられました。歴史的記録はアヴァール人男性の珍しい髪形に言及していますが、独特な表現型の特徴には言及していません。5点の表現型の特徴の分析は、ほぼ予測と一致しました。ヨーロッパ人において肌の色をより明るくする顕性(優性)の皮膚の色素沈着遺伝子であるSLC24A5(solute carrier family 24 member 5、溶質保因者族24構成員5)については、MGS個体群のアレル(対立遺伝子)頻度はほぼ100%ですが、アジア東部現代人ではほぼ0%であることと比較すると、LEO個体群でも50%に達しています。目の色を表すHERC遺伝子はLEO個体群では約50%ですが、MGS個体群ではわずか約15%です。アジア東部現代人で一般的なシャベル型切歯をエンコードしているEDAR(ectodysplasin A receptor、エクトジスプラシンA受容体)遺伝子はMGS個体群よりもLEO個体群の方で高頻度だったのに対しても、ラクターゼ(Lactase、略してLCT、乳糖分解酵素)活性持続(lactase persistence、略してLP)関連アレルはMGS個体群の方でより高頻度でした[47]。アジア東部本土人におけるアルコール摂取後の顔面紅潮と関連するADH1B(Alcohol Dehydrogenase 1B、アルコール脱水素酵素1B)のアレルは、両遺跡において等しく低頻度でした。LEOとMGSの個体群間で、予測されるように違いはあるものの、明確な区別を確立できる固定された視覚的手がかりはありません。
LEOとMGSとの間では特定の考古学的特徴が異なり、最も重要なのは、墓の土器がMGS(63.8%)ではLEO(10.9%)より高頻度で、より高品質の場合が多いことです。MGSでは、女性の装身具類の種類がより多く、より多くのガラス製の玉のある首飾りがありました。耳飾りや首飾りや紡錘車の女性の基本的な一式は女性の墓において、LEOでは28%、MGSでは63%で見られます。全体的に、MGSでは検出できる社会的もしくは性別(ジェンダー)の違いがより少なくなっています。しかし、これらは、墓における土器の容器の埋葬など、共有された文化の表現形態一式に基づく緩やかな違いで、一貫した文化的区別を確証するわけではありません。
系図によって明らかになるLEOとMGSにおける人口統計学的発展は同様のパターンを示し(図4)、両遺跡は7世紀後半に比較的散在した墓のある少数の創始者によって定住されたものの、一度に大集団が定住したわけではありません。第3世代においてやっと、構造化された社会生活のある大規模な親族集団によって支配される安定した共同体と、定まった葬儀慣行が出現しました(図2および図3)。8世紀半ば頃の第4および第5世代において、LEOとMGSの両遺跡は人口統計学的安定性と最多の人口数に達し(図2および図3)、全埋葬の65%は第4および第5世代に属します。第6世代において、土葬の数が再び減少し、第6世代はほぼ子供の墓によって表されます。成人まで生き残った人々は、おそらく790年代のフランク人の征服によって、去ったか、他の場所に埋葬されました。
●IBD網と長距離のつながり
IBD網分析が、高品質な古代DNAの利用可能な、ウィーン盆地とカルパチア盆地のアヴァール期の遺跡群の個体間の対でのIBDのつながりの大きな行列に適用されました(図4)。このIBD網の最も明らかな特徴は、各大規模遺跡の個体がともにクラスタ化している(まとまっている)ことです。これは密接な遺伝的近縁性によって起きており、YHgと関連していることが多くあります。LEOでは、ほとんどの男性個体が同じYHgを共有しており、個体群は単一のクレード(単系統群)を形成し、RK(ラコクズィファルヴァ)ではでは、連続する2クラスタが権力の再編成と解釈される2系統の非となるYHgを示します[10]。MGS個体群は、多様なYHgにも関わらず、単一の緩やかにつながったクラスタを形成します。CSKの選択された標本は他の全遺跡とは対照的に独自のクラスタを形成しませんが、MGSクラスタでしっかりと固定されており、CSKとMGSの個体群で観察された似の祖先系統を裏づけ、CSKとMGSの2ヶ所の遺跡間の強い遺伝的つながりを示唆しています。
IBDのつながりのさらなる分析は遺跡間の女性の近縁性を示し、これは、カルパチア盆地(DTIおよびTT地域)のように、おもに女性個体が結婚のため父系共同体間を移動した、と示唆しています[10]。このパターンは、LEOとMGS/CSKの両方で統計的に優位です。したがって、遺跡内では、男性の子孫が出生地に留まったため、より多くの男性間のIBDのつながりが見つかりました。IBD網に新たな形式回帰モデルを適用すると、同じ統計的枠組みにおいて考古学と遺伝学の変数をともにまとめることができるようになりました。指数無作為図モデル(exponential random graph models、略してERGM)では、女性同士の組み合わせと比較して、遺跡内と遺跡間の女性と男性の組み合わせは1.35倍、男性と男性の組み合わせは2.54倍、相互に関連している可能性が有意に高い、と分かりました。そうしたERGMにおすて地位の考古学的痕跡を検証すると、男性個体にとっての帯一式や女性個体にとっての上着の留め金などなど地位と関連する品目はIBDのつながりと有意に関連している、と分かりました。1組の個体の一方の威信財の存在はIBDのつながりを1.27倍増加させ、両者が威信財を有しているならば、2.55倍に増加しました。したがって、両性の社会的地位はより高水準のつながりと関連しているかもしれません。
連続的変数(たとえば、地理的距離や祖先系統)を調べるために、一般化ERGM(generalized ERGM、略してGERGM)が遺跡水準の交流網に適用されました。地理的距離はどのモデルでもつながりの予測因子ではありませんでしたが、祖先系統(アジア東部的もしくはヨーロッパ的)はIBDのつながり(16cM超のIBD断片)と有意に相関しました。高い割合のアジア東部関連祖先系統を有する共同体は、とくにLEOからDTIおよび/もしくはTT地域の遺跡において、相互によりつながっていました(図4)。それはおもに、LEOの独特な祖先系統の維持に役立った女性のつながりでしたが、遺跡間の男性の移動性の証拠はほとんど見つかりませんでした。
●まとめ
ウィーン盆地のアヴァール帝国における7世紀および8世紀の3ヶ所の考古学的遺跡において、ひじょうに多様な遺伝的祖先系統間の強い対照性と共有された文化的習慣と類似の社会構造が見つかりました。LEO個体群が低い割合のポントス草原地帯祖先系統のあるアジア東部祖先系統と、過去200年間に起きたヨーロッパ人との混合を示すのたに対して、MGS個体群は過去に何度か獲得したヨーロッパ的祖先系統の混合と、より新しいアジア東部人との混合のごくわずかな要素を示しました。共同墓地全体の標本抽出手法と最大356個体の系図の復元とより正確な年代測定で、近隣の2ヶ所の遺跡間の遺伝的障壁が数世代にわたって存続した、と示されました。遺跡および地域全体にわたる系図とIBD網の包括的分析から、この遺伝的障壁は、異なる遺伝的祖先系統にも関わらず、父系制と逆縁婚と女性族外婚の高度に類似した慣行を維持した共同体の意図的な生殖戦略によって維持された、と明らかになりました。IBDの関係が示すように、LEOとアヴァール帝国の中核地域との間では、近隣のMGSおよびCSK遺跡とよりも、多くの遺伝的相互作用が起きました。草原地帯人口集団でよく証明されている、LEOにおける父系制の発生率と多婚および逆縁婚の数は、TT地域より低い者の、MGSよりは高くなります。これは、アヴァールの領域における社会的慣行の差異の範囲を示していますが、そうした社会的慣行は基本的に、異なる祖先背景にも関わらず、さまざまなアヴァール共同体で共有されていました。
6~7世紀のウィーン盆地やヨーロッパ中央部東方の他地域におけるアジア中央部の「アヴァール人」集団の到来は、大規模な移住の影響の研究にひじょうに適した事例を提供します。アジア東部祖先系統は8世紀までウィーン盆地に存在しましたが、その後は消滅し、これについては将来の研究を必要とします。地域的な人口集団との混合過程は複雑で、異なる集団間の厳密に閉鎖的なモデルに従うことも、混合の着実な過程につながることもありませんでした。代わりに、さまざまな局所的もしくは地域的な状況が浮かび上がり、そうした状況では、共有された文化と政治と民族の基準枠が、局所的な差異およびかなりの遺伝的多様性と共存していました。文献における「アヴァール人」としての人々の認識と文化的慣習の統一と遺伝的混合は、類似した律動を取らず、これらの変化はさまざまな局所的共同体におけるかなり多様な遺伝的祖先系統につながりました。
大きく異なる過去の軌跡や異なる祖先系統および文化的習慣の共同体の相互作用は、ヒトの過去も現在も重要な問題です。単置換や同化や着実な同化といった単純な状況が、しばしば提起されます。古典的な集団遺伝学的モデルでは、生殖は均一な無作為過程と仮定されていますが、最近の研究ではすでに、より地域的で局所的な差異を許容せねばならない、と示されてきました。類似した条件でも、かなり異なる結果につながるかもしれません。これはとくに、親族関係と生殖を考慮しており、ヒトの生殖は親族関係制度の全体や結婚規則や個人間の関係や出生の社会的意味によって伝えられます。本論文の証拠から、配偶者についての選択はほぼ無作為ではなかった、と示されます。異なる祖先系統の集団間で共有された生殖慣行と行動のパターンは逆説的に、その遺伝的差異を永続させるかもしれません。
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レオバースドルフ遺跡とメートリンク遺跡の6世代にわたる復元家系図では、両遺跡間の大きく異なる祖先系統にも関わらず、大規模な婚姻網を示す遠い血縁関係とともに、近親婚の欠如や女性族外婚の父系制や逆縁婚などの複数回の婚姻や社会的地位の考古学的指標との生物学的つながりの直接的相関が明らかになりました。レオバースドルフ遺跡とメートリンク遺跡の血縁関係はほぼ女性族外婚に起因しており、これが遺伝的障壁維持の主要な駆動要因だったようです。本論文は、文化と遺伝の多様な関係の具体的事例(関連記事)の一つを新たに提示した点でも、注目されます。今後、日本列島でも古代ゲノムデータに基づく同様の詳細な親族関係が解明されていくよう、期待しています。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。以下の年代は、明記しない場合は西暦(グレゴリオ暦)の紀元後を指し、略称はAD(Anno Domini)で、紀元前の略称はBC(Before Christ)です。本論文では、紀元前はBCE(Before Common Era)、紀元後はCE(Common Era)と表記されていますが、私は今後も当ブログではBCとADを使用し続けます(関連記事)。時代区分の略称は、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、IA(Iron Age、鉄器時代)、前期鉄器時代(Early Iron Age、略してEIA)です。
●要約
アジア東部祖先系統を有するアヴァール人は長距離移動の後に、567~568年にヨーロッパ中央部東方に到達し、大きく異なるヨーロッパ祖先系統を有する集団と遭遇しました[1]。本論文は、オーストリアのウィーンの南側の近隣に位置する7~8世紀の大規模な共同墓地の722個体の古代ゲノム規模データと詳細な学際的分析を用いて、この遭遇の数世紀にわたる影響に取り組みました。その結果、移住の200年後でさえ、一方の遺跡(レオバースドルフ)の祖先系統がおもにアジア東部的だったのに対して、もう一方の遺跡(メートリンク)は在来のヨーロッパ的祖先系統を示す、と分かりました。これら2ヶ所の近隣の遺跡は、独特な後期アヴァール文化を共有しているにも関わらず、ほとんど生物学的近縁性を示しません。
この両遺跡【レオバースドルフとメートリンク】で6世代の家系図が復元され、それには密接な親族関係にある最大450個体が含まれ、これによって共同体の世代ごとの人口統計学的特性が得られます。異なる祖先系統にも関わらず、これらの家系図は遠い関係の大規模な交流網とともに、近親婚の欠如、女性族外婚の父系パターン、複数回の婚姻関係(たとえば、逆縁婚)、社会的地位の考古学的指標との生物学的つながりの直接的相関を示しています。世代規模の遺伝的障壁は、アヴァール王国の他の遺跡の類似した祖先系統の配偶者を体系的に選択することによって、維持されていました。レオバースドルフ遺跡では、メートリンク遺跡よりもアヴァールの中心地との生物学的つながりが多く、メートリンク遺跡では代わりに、ヨーロッパ的祖先系統のウィーン盆地の他の遺跡とつながっています。遺跡間の移動性はほぼ女性族外婚に起因しており、これは、遺伝的障壁維持の主要な駆動要因としてのさまざまな婚姻網を示しています。
●研究史
552年、突厥は現在のモンゴル高原で漢字文献において「柔然(Rouran)」と呼ばれているアヴァール人の帝国を滅ぼし、多くのアヴァール人や他の草原地帯の騎馬遊牧民はヨーロッパへと移動し、567~568年にカルパチア盆地(おもに現代のハンガリー)に定住しました[1]。文献によると、アヴァール人はブルガール人やゲピド人やスラブ人やローマ人など民族的および文化的に多様な人口集団を支配し、バルカン半島の東ローマ(ビザンツ)帝国の属州を繰り返し襲撃しその中には、626年にはコンスタンティノープルの包囲攻撃に失敗しました。ヨーロッパ中央部東方におけるアヴァール王国は、800年頃にフランク軍が滅ぼすまで、より平和な形で存続しました。
ほぼ10万基の墓から得られた豊富な考古学的記録は、初期アヴァール時代の文化的多様性が8世紀の均質な文化にどのように取って代わられたのか、示しています。民族的多様性の証明は消滅し、文献はアヴァール王国におけるアヴァール人のみに言及しています。最近の考古遺伝学的研究は、7世紀におけるアヴァール人上流階層のアジア東部祖先系統を確証し、アヴァール中核地域やDTI(Danube–Tisza interfluve、ドナウ川とティサ川の河間)地域やティサ川の東側のトランスティサ(Transtisza、略してTT)地域におけるさらなる人口増加を突き止めてきました[1、10]。本論文は、アヴァール支配の後期(650~800年頃)における、アヴァール帝国の周辺地域であるオーストリア東部のウィーン盆地に取り組みます。ここは西方との接触地帯で、新たな集団が定住した7世紀の前には、人口は疎らでした。
文献には、民族の呼称を用いて、集団の多様性や移動が記載されています。そうした民族の分類表示は(過去も現在も)必ずしも共通の起源や共有文化の集団に対応しておらず、遺伝学や考古学や言語学や歴史の証拠が民族集団を定義するために完全に一致するだろう、との一般的認識(たとえば、消費者向けの祖先系統遺伝的検査)とは対照的です。新たな遺伝的データの学際的解釈に基づいて、局所的な共同体の社会構造と行動パターンが再構築され、アヴァール社会内の持続的な生殖障壁を含めて人口発展や文化的習慣への、この歴史的によく証明されている大きな移動の長期にわたり高度に多様な影響が示されました。
アヴァール人の移住と支配の影響を完全に理解するため、レオバースドルフ遺跡(LEO、7~8世紀、155点の標本)およびメートリンク黄金階段遺跡(MGS、7~8世紀、485点の標本)の2ヶ所の共同墓地全体が標本抽出されました。比較のため、この2ヶ所の遺跡以前の小規模埋葬集団も含められ、それは、メートリンクのメートリンク・レールシェンガッセ(Mödling-Lerchengasse、略してMLS)遺跡(2点の標本、4世紀後半)およびメートリンク・レイネリンネン(Mödling-Leinerinnen、略してMLE)遺跡(5点の標本、6世紀半ば)です。さらに、ウィーン・クソコルガッセ(Wien-Csokorgasse、略してクソコルガッセ、CSK)遺跡(745基の墓地、7~9世紀)の大規模墓地から83点の標本が選択され、8世紀半ばの移住との考古学的仮説が検証されました。まとめると、保存状態が良好だったおかげで、ウィーン盆地の722個体の骨格標本から新たに確実なゲノム規模DNAが分析され、いくつかの最先端の手法で近縁性推定(完全なデータセット)および遺伝的祖先系統調査(最小限の汚染率5%の677個体)のため、約626000~124万の中央値が得られました。
●遺伝的祖先系統間の対比
LEOとMGSとCSKはすべて半径20km以内に位置しており、考古学的には典型的な中期~後期アヴァール時代の遺跡(7世紀半ば~9世紀初頭頃)に分類されてきました。しかし、これらの間で根本的な遺伝的差異が見つかりました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)およびFₛₜ(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)によって測定されるように、LEO個体群の主要なクラスタ(まとまり)はMGSおよびCSKの個体群とは異なっており(図1)、ヨーロッパに暮らす現代の人口集団がユーラシア東部の人口集団と異なっているのと最大で同じ水準です。アヴァール王国の辺境でさえ、800年頃のアヴァール支配の最末期まで、アジア東部祖先系統がLEOの局所的共同体において一般的で、LEOの個体群のアジア東部祖先系統の中央値は71.5%でした(図1)。以下は本論文の図1です。
LEOの全個体の遺伝的祖先系統は主要な3祖先系統供給源にたどることができ、おもに、代理としてアムール川(Amur River、略してAR)流域の「AR_鮮卑_AD2世紀」を用いての鉄器時代アジア北東部祖先系統[17]、代理として「北コーカサス_AD7世紀」を用いてのポントス草原地帯の草原地帯祖先系統[18]、および代理としてハンガリーのスゾラッド(Szólád)遺跡個体(ハンガリー_スゾラッド_AD6世紀)を用いての低い割合のアヴァール期の前のカルパチア盆地祖先系統[19]です。以前の調査結果[10]と同様に、代理の祖先系統供給源としての参照人口集団を仮定すると、アジア東部供給源とアヴァール期の前の供給源との間の混合はLEOの142±15年前に始まります。LEOの82個体の祖先系統も、300年前頃(LEOの319±174年前)に始まった混合過程において、コーカサスの北側のポントス草原地帯から0.9~61.4%ほど由来しており、これはアヴァール期社会の草原地帯要素がそれ自体異質だったことを示唆しています。LEO個体群におけるアジア東部祖先系統の平均的な割合は、共同墓地を使用していた約150年間にわたって約70%で安定しており、経時的な均質化は起きていません。
LEOおよびアヴァール中核地域の同時代の遺跡とは対照的に、アジア東部祖先系統はMGSでは最小限です(平均して5%未満)。代わりに、アヴァール期MGS(7~8世紀)人口集団によって形成される主要なクラスタ(まとまり)は、現代ヨーロッパ人のクラスタと類似しており(図1)、その解像度では、先アヴァール期MLEおよびMLS個体群と類似しています。ほぼ同時代の高解像度の状況では、MGSはハンガリー_スゾラッド_AD6世紀の先アヴァール期人口集団と、ヘレニズム期アナトリア半島から鉄器時代イベリア半島にかけて伸びている遺伝的勾配との間に位置しています。このPCAでの配置と一致して、qpWave分析はMLE_AD6世紀とMGSとの間の直接的な局所的連続性を示さず、MGS祖先系統の近位モデル化では、さらなる祖先構成要素が必要になる、と示唆されています。一方で、MGS個体群は、直接的な生物学的近縁性の指標である同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)ゲノム断片を通じて、2ヶ所の小さな先アヴァール期のメートリンク共同墓地とのつながりを示しています(100個体以上の対でのつながり)。墓の服飾品(ピンセットや櫛など)やイヌの埋葬やメートリンク遺跡群の放射性炭素(¹⁴C)範囲の年代的重複は、いくらかの局所的連続性を示唆しているかもしれません。
MGS遺跡個体群の遠位モデル化は、ほぼ初期ローマ帝政期(紀元前1世紀~紀元後2世紀頃)にさかのぼる複雑な混合を明らかにし、地中海東部祖先系統(トルコ_ヘレニズム/トルコ_IA)はヨーロッパ南東部祖先系統(スロヴェニア_EIA/クロアチア_IA)とまず、その後でチェコのポハンスコ(Pohansko)も含めてヨーロッパ北東部祖先系統(リトアニア_BA/ポハンスコ_AD9世紀)と混合しました。アジア東部祖先系統の小さな構成要素はMGSの約200年前に追加され、最も可能性が高いのはアヴァール支配下においてです。ヨーロッパ北東部祖先系統は、それ以前の期間(5~6世紀)にはほぼ欠けており、7~8世紀のMGS個体群において初めて大規模に観察できます。ヨーロッパ中央部東方および南東部における以前に報告された事例はその後に初めて証明され、これはとくに、7~9世紀のヨーロッパ東部において火葬仮想が一般的だったことに起因します[21~23]。類似の祖先系統はロシアのヴォルガ・オカ(Volga-Oka)河間地域およびチェコ共和国のポハンスコにおいて9世紀に見られ[24]、それはヨーロッパ中央部東方の現代の人口集団にも存在します[23]。それはおそらく6世紀半ば以降の同時代人がスラブ人の流入と認識していたことと関連しています。そかし、それはメートリンク遺跡個体群がスラブ人とみなされるべきことを意味していません。それらは混合の長い過程の結果で、おそらくはカルパチア盆地のローマ後期と先アヴァール期の集団を含んでいましたが、アヴァール人によってバルカン半島のローマの属州からパンノニアへと大量に移送された捕虜も含んでいました。対照的に、5~6世紀のカルパチア盆地において顕著だったヨーロッパ北部祖先系統の個体群[28]と、ユーラシア草原地帯の集団は、メートリンク個体群の祖先系統において小さな役割しか果たしませんでした。
隣接するアヴァール期の2ヶ所の共同体、つまりMGSとLEOの間の対照的な遺伝的パターンは、数世代にわたる期間の両者間の限定的な相互作用を示唆しますが、CSK個体群はアヴァール期MGS個体群とひじょうに類似した祖先系統パターンを示します(図1)。MGS個体群のように、アジア東部祖先系統はCSK個体群においてわずかな役割しか果たしませんでした(82個体のうち19個体のアジア東部祖先系統の中央値は6.6%)。考古学的調査結果に基づく当初の仮定とは対照的に、8世紀の東方からの遺伝的流入はCSK個体群では検出されませんでした。モノはヒトがいなくても移動可能なのかどうか、という考古学的議論の文脈において、これは移動なしでの文化的物質の拡大の明確な事例を提供します。LEO個体群におけるアジア東部およびヨーロッパ祖先系統の検出された混合は性別が偏っており、アジア東部構成要素は男性個体を通じてより多く見られました。対照的に、MGS人口集団へのヨーロッパ北東部祖先系統の遺伝子移入は、両性による伝達と一致します。
近隣のLEOとMGSの個体群間の遺伝的障壁は、考古学的記録における大きな差異とは対応していません。両墓地は8世紀のアヴァールの領域の共有された文化の一部で、ほぼ東西方向の墓の列の別々の埋葬穴における土葬によって特徴づけられ、ほとんどの埋葬において少なくとも基本的な副葬品があります。両遺跡に共通する男性の地位の最も目立つ標識はほぼ同一の鋳造銅製合金付属品のある多分裂帯一式で、グリフィンや装飾品で飾られていることが多くあります。女性の墓は質素であることが多いものの、王冠や首輪や銀の腕輪や上着の留め金など特別な威信財を含んでいることもあります。対照的に、西方のフランク王国およびランゴバルド王国では葬儀慣行は根本的に異なっており、副葬品の慣行はすでに廃れていて、ヨーロッパ中央部東方の周辺地域では、スラブ人が出現し、副葬品もしくは供物なしで、死者の火葬が行われていました。MGS人口集団の大半はスラブ人集団と類似した祖先系統を有していましたが、同時代のスラブ人ではなくアヴァール人の文化慣行を共有していました。
埋葬共同体の文化的習慣を共有する遺伝的外れ値が他の遺跡で発見されており[41]、文化的多様性が同じ埋葬共同体内の先行期間で記録されていてますが[10、19、28]、本論文が把握している限りでは、LEOとMGSは圧倒的に共通の文化的特徴を有する2ヶ所の遺跡全体の間での根本的な遺伝的差異のまだ記録されていない事例です。遺伝的不一致は、遺跡の社会的地位もしくは機能における違いによって説明できません。LEOは境界防衛のための軍事集落ではなく、MGSと同様に、墓には戦闘用武器がほんど含まれておらず、馬具はなく、骨格に外傷もしくは負傷の証拠はほとんどありません。アヴァール中核地域、たとえばクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡ではさらに多くの武器が発見されており、ドナウ川沿いの古ローマ街道に位置するCSKではもう少し多くの武器が発見されています。LEOはMGSの地位の低い西洋人の地域を支配する、「本物の」高位アヴァール人の上流階層の集落でもんきもそれは、LEOとMGSにおいて地位の指標が同程度で見られるからです。LEOは帯一式および帯の付属品の平均割合がMGSよりわずかに高く(LEOは26.4%、MGSは19.7%)、この両遺跡では、そうした帯一式および帯の付属品は下位家系の一部とおもに関連しており、明らかにそのより高い地位を誇示するためでした。
●生殖慣行の復元
2ヶ所の巨大な共同墓地をできるだけ完全に標本抽出することで、全体的な埋葬共同体の系図の再構築が可能となります。双子の可能性も含めて生物学的に親族関係にある356個体に基づいて、MGSについて大きな一つの系図(図3)と、LEOの共同体のほぼ全体について111個体の6世代にまたがる系図(図2)が構築されました(図2および図3)。平均して、LEO(147個体のうち139個体)およびMGS(492個体のうち450個体)の個体の90%以上は、KIN によって推定される1親等~5親等の近縁性を通じて親族関係にあります。全体的な系図は、両遺跡【LEOとMGS】の一夫多妻の個体群によって関連していることが多い、いくつかの下位系図で構成されています。より遠い親族関係にある一部の個体(LEOでは24個体、MGSでは47個体)は全体的な系図へと組み込むことができませんでしたが、ごくわずかな個体(LEOでは6個体、MGSでは39個体)のみが他の個体と遺伝的にまったく関係がなく、そうした個体の多くは若い生殖年齢の女性で、最も可能性が高いのは、こうした個体が墓地に子供がおらずに埋葬された族外婚の配偶者だった、ということです。以下は本論文の図2です。
本論文の学際的手法によって、生物学的近縁性が社会的親族関係にどの程度対応しているのか、評価が可能となりました。両共同体【LEOとMGS】はおもに生物学的親族によって形成されており、親族関係にない個体はほとんど含まれておらず、生物学的親族が社会的結合の鍵となる要因でした。考古学的データは、生物学的近縁性と社会的近縁性との間の重複を確証し、両遺跡【LEOとMGS】では、下位系図の構成員は小さな埋葬クラスタ(まとまり)を形成しますが、別々の場所を使用していません(図2および図3)。ともに埋葬された2個体はほとんどの場合、親子か夫婦かキョウダイでしたが、生物学的関係のない二重埋葬がいくつかあります。以下は本論文の図3です。
全体的に、系図は明確な生殖戦略を示しており、その戦略はMGSとLEOの間で類似しているものの、一部の重要な側面で異なっています。新たに報告された個体群がhapROH[42]によって推定される、近親交配の指標である同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)を多量に有していないことを考えると、近親婚はMGSとLEOの両遺跡で6世代にわたって厳格に避けられていた、と推測されます。これはおもに族外婚によって達成されており、LEOに埋葬された識別可能な子孫のいる母親19個体のうち17個体(90%)にはLEOで埋葬された祖先がおらず、MGSのずっと大きな共同体では、識別可能な子供のいる母親59個体のうち46個体(78%)に、MGSに埋葬された祖先がいません。多くの娘は他の場所で結婚するために去ったようで、7~17歳の間では、死者の性比は男性対女性で、LEOは1.5:1、MGSでは1.7:1で、成人においては、同じ遺跡で両親の間に産まれた女性個体はほとんど残っていません。片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)は同様の状況を示しており、LEOの男性77個体のうち62個体は、アジア東部において一般的なY染色体ハプログループ(YHg)C2bです。対照的に、LEOのケイガにおける女性個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)は多様です。MGSは異なっており、それは、男性個体もいくつかのYHg系統を示すからで、たとえば、ヨーロッパにおいてよく見られる型のR1aやR1bです。
これが意味するのは、程度が異なるとしても(父系性は、LEOでは88%、MGSでは70%)、父方居住と父系制が両遺跡【LEOとMGS】では優勢だった、ということで、残りの事例は、2世代以上によたる一貫した母方居住を示しませんでした。アヴァールの中心地であるラコクズィファルヴァ(Rákóczifalva、略してRK)遺跡[10]では、父系性は98%と計算されました。これは、アヴァールの領域における共通の社会的慣行が中核地域において徹底的に守られていたものの、周辺地域ではより多くの差異があり得たことを示唆しています。さらに、KINおよびIBD分析から、空間的近さにも関わらず、MGSとLEOの人々は、両墓地が同時代に使用されていた約150年間にわたって相互とわずかにしか混合しなかった、と示されました。LEOとMGSとの間のわずか5組の2親等親族関係と限定的なIBDのつながりを証明できますが、CSK個体群のより少ない選択は、MGSとの、17組の1親等および2親等の近縁性およびかなりのIBDのつながりを示します。LEOは、MGSとよりも、たとえばクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡などほぼ400kmの距離のDTI-TT地域の一部の遺跡(図1)の方と多くの遺伝的つながりを有しています。
したがって、LEOとMGSにおける異なる遺伝的祖先系統は、両共同体における配偶者選択の同様のパターンによって説明でき、これは、アジア中央部の文献証拠が示唆するように、おそらく大規模な遭遇で、もしくは氏族間の伝統的関係によって、同様の祖先系統が優勢な共同体でおもに起きていました。LEOにおいてわずか3個体の男性(そのうち2個体は兄弟)が、おもにヨーロッパ祖先系統の女性個体との間に子供を儲けていました。このように、遺跡に埋葬された6世代にわたって、アジア東部祖先系統が優勢なままでした。【LEO遺跡個体群のゲノムに占めるアジア東部祖先系統の】世代ごとの平均割合は下位家系1では6世代にわたって約70%で安定しており、下位家系2では約55%から最終世代では70%に達しさえしました。同様にアジア東部祖先系統を有する生殖の配偶者はLEOで選ばれましたが、MGSではヨーロッパ祖先系統を有する配偶者が選好されました。このように、類似の生殖パターンが用いられ、両遺跡【LEOとMGS】の祖先系統の違いが維持されました。
両遺跡【LEOとMGS】で顕著な特徴は、多婚でした。LEOでは、複数の配偶者との間に子供を儲けたのは、おもに男性でした(14個体のうち10個体)。一夫多妻はアヴァールの複数の可汗に関する文献で証明されており、最も妥当な説明ですが、連続単婚の可能性を完全には除外できません。MGSでは、女性も複数の配偶者と子供を儲けており、男性とほぼ同数でした(31個体のうち15個体)。これらの多婚女性のほとんどの配偶者は相互に親族関係にあったので(兄弟や両親の一方のみを共有する半兄弟や継子)、これらはおそらく、未亡人がなくなった配偶者の男性親族と結婚する取り決めである、逆縁婚でした。これは匈奴や他のアジア中央部草原地帯の人々について現在まで頻繁に証明されている慣行で、氏族の機能性維持を意図しています[10]。LEOでは56組の結婚のうち3組の逆縁婚と14組の多婚が、MGSでは161組の結婚のうち7組の逆縁婚と31組の多婚が見つかりました。MGSでは、逆縁婚はキョウダイのみを対象としていますが、LEOでは、逆縁婚は2世代もしくはそれ以上の世代を含んでいることもあり、男性1個体が同じ世代の女性1個体、および孫息子の配偶者となったより若い女性と子供を儲けました。単婚と多婚の比率は遺跡間で大きく異なり、LEOでは3:1、MGSでは4:1、RK(ラコクズィファルヴァ)では1.5:1なので(図4)、アヴァール中核地域の遺跡との比率の違いは、LEOとMGSとの間の差を上回っています。アヴァールの権力中心地に近いほど、草原地帯の伝統はより大きな役割を果たしていたかもしれず、この事例では他の事例と同様に、共有された文化遺産に基づいて多くの地域的差異が見られます。)以下は本論文の図4です。
LEOとMGSとの間の遺伝的対照性を考慮して、古代の人口集団が独特な表現型の特徴を有していたのかどうか、調べられました。歴史的記録はアヴァール人男性の珍しい髪形に言及していますが、独特な表現型の特徴には言及していません。5点の表現型の特徴の分析は、ほぼ予測と一致しました。ヨーロッパ人において肌の色をより明るくする顕性(優性)の皮膚の色素沈着遺伝子であるSLC24A5(solute carrier family 24 member 5、溶質保因者族24構成員5)については、MGS個体群のアレル(対立遺伝子)頻度はほぼ100%ですが、アジア東部現代人ではほぼ0%であることと比較すると、LEO個体群でも50%に達しています。目の色を表すHERC遺伝子はLEO個体群では約50%ですが、MGS個体群ではわずか約15%です。アジア東部現代人で一般的なシャベル型切歯をエンコードしているEDAR(ectodysplasin A receptor、エクトジスプラシンA受容体)遺伝子はMGS個体群よりもLEO個体群の方で高頻度だったのに対しても、ラクターゼ(Lactase、略してLCT、乳糖分解酵素)活性持続(lactase persistence、略してLP)関連アレルはMGS個体群の方でより高頻度でした[47]。アジア東部本土人におけるアルコール摂取後の顔面紅潮と関連するADH1B(Alcohol Dehydrogenase 1B、アルコール脱水素酵素1B)のアレルは、両遺跡において等しく低頻度でした。LEOとMGSの個体群間で、予測されるように違いはあるものの、明確な区別を確立できる固定された視覚的手がかりはありません。
LEOとMGSとの間では特定の考古学的特徴が異なり、最も重要なのは、墓の土器がMGS(63.8%)ではLEO(10.9%)より高頻度で、より高品質の場合が多いことです。MGSでは、女性の装身具類の種類がより多く、より多くのガラス製の玉のある首飾りがありました。耳飾りや首飾りや紡錘車の女性の基本的な一式は女性の墓において、LEOでは28%、MGSでは63%で見られます。全体的に、MGSでは検出できる社会的もしくは性別(ジェンダー)の違いがより少なくなっています。しかし、これらは、墓における土器の容器の埋葬など、共有された文化の表現形態一式に基づく緩やかな違いで、一貫した文化的区別を確証するわけではありません。
系図によって明らかになるLEOとMGSにおける人口統計学的発展は同様のパターンを示し(図4)、両遺跡は7世紀後半に比較的散在した墓のある少数の創始者によって定住されたものの、一度に大集団が定住したわけではありません。第3世代においてやっと、構造化された社会生活のある大規模な親族集団によって支配される安定した共同体と、定まった葬儀慣行が出現しました(図2および図3)。8世紀半ば頃の第4および第5世代において、LEOとMGSの両遺跡は人口統計学的安定性と最多の人口数に達し(図2および図3)、全埋葬の65%は第4および第5世代に属します。第6世代において、土葬の数が再び減少し、第6世代はほぼ子供の墓によって表されます。成人まで生き残った人々は、おそらく790年代のフランク人の征服によって、去ったか、他の場所に埋葬されました。
●IBD網と長距離のつながり
IBD網分析が、高品質な古代DNAの利用可能な、ウィーン盆地とカルパチア盆地のアヴァール期の遺跡群の個体間の対でのIBDのつながりの大きな行列に適用されました(図4)。このIBD網の最も明らかな特徴は、各大規模遺跡の個体がともにクラスタ化している(まとまっている)ことです。これは密接な遺伝的近縁性によって起きており、YHgと関連していることが多くあります。LEOでは、ほとんどの男性個体が同じYHgを共有しており、個体群は単一のクレード(単系統群)を形成し、RK(ラコクズィファルヴァ)ではでは、連続する2クラスタが権力の再編成と解釈される2系統の非となるYHgを示します[10]。MGS個体群は、多様なYHgにも関わらず、単一の緩やかにつながったクラスタを形成します。CSKの選択された標本は他の全遺跡とは対照的に独自のクラスタを形成しませんが、MGSクラスタでしっかりと固定されており、CSKとMGSの個体群で観察された似の祖先系統を裏づけ、CSKとMGSの2ヶ所の遺跡間の強い遺伝的つながりを示唆しています。
IBDのつながりのさらなる分析は遺跡間の女性の近縁性を示し、これは、カルパチア盆地(DTIおよびTT地域)のように、おもに女性個体が結婚のため父系共同体間を移動した、と示唆しています[10]。このパターンは、LEOとMGS/CSKの両方で統計的に優位です。したがって、遺跡内では、男性の子孫が出生地に留まったため、より多くの男性間のIBDのつながりが見つかりました。IBD網に新たな形式回帰モデルを適用すると、同じ統計的枠組みにおいて考古学と遺伝学の変数をともにまとめることができるようになりました。指数無作為図モデル(exponential random graph models、略してERGM)では、女性同士の組み合わせと比較して、遺跡内と遺跡間の女性と男性の組み合わせは1.35倍、男性と男性の組み合わせは2.54倍、相互に関連している可能性が有意に高い、と分かりました。そうしたERGMにおすて地位の考古学的痕跡を検証すると、男性個体にとっての帯一式や女性個体にとっての上着の留め金などなど地位と関連する品目はIBDのつながりと有意に関連している、と分かりました。1組の個体の一方の威信財の存在はIBDのつながりを1.27倍増加させ、両者が威信財を有しているならば、2.55倍に増加しました。したがって、両性の社会的地位はより高水準のつながりと関連しているかもしれません。
連続的変数(たとえば、地理的距離や祖先系統)を調べるために、一般化ERGM(generalized ERGM、略してGERGM)が遺跡水準の交流網に適用されました。地理的距離はどのモデルでもつながりの予測因子ではありませんでしたが、祖先系統(アジア東部的もしくはヨーロッパ的)はIBDのつながり(16cM超のIBD断片)と有意に相関しました。高い割合のアジア東部関連祖先系統を有する共同体は、とくにLEOからDTIおよび/もしくはTT地域の遺跡において、相互によりつながっていました(図4)。それはおもに、LEOの独特な祖先系統の維持に役立った女性のつながりでしたが、遺跡間の男性の移動性の証拠はほとんど見つかりませんでした。
●まとめ
ウィーン盆地のアヴァール帝国における7世紀および8世紀の3ヶ所の考古学的遺跡において、ひじょうに多様な遺伝的祖先系統間の強い対照性と共有された文化的習慣と類似の社会構造が見つかりました。LEO個体群が低い割合のポントス草原地帯祖先系統のあるアジア東部祖先系統と、過去200年間に起きたヨーロッパ人との混合を示すのたに対して、MGS個体群は過去に何度か獲得したヨーロッパ的祖先系統の混合と、より新しいアジア東部人との混合のごくわずかな要素を示しました。共同墓地全体の標本抽出手法と最大356個体の系図の復元とより正確な年代測定で、近隣の2ヶ所の遺跡間の遺伝的障壁が数世代にわたって存続した、と示されました。遺跡および地域全体にわたる系図とIBD網の包括的分析から、この遺伝的障壁は、異なる遺伝的祖先系統にも関わらず、父系制と逆縁婚と女性族外婚の高度に類似した慣行を維持した共同体の意図的な生殖戦略によって維持された、と明らかになりました。IBDの関係が示すように、LEOとアヴァール帝国の中核地域との間では、近隣のMGSおよびCSK遺跡とよりも、多くの遺伝的相互作用が起きました。草原地帯人口集団でよく証明されている、LEOにおける父系制の発生率と多婚および逆縁婚の数は、TT地域より低い者の、MGSよりは高くなります。これは、アヴァールの領域における社会的慣行の差異の範囲を示していますが、そうした社会的慣行は基本的に、異なる祖先背景にも関わらず、さまざまなアヴァール共同体で共有されていました。
6~7世紀のウィーン盆地やヨーロッパ中央部東方の他地域におけるアジア中央部の「アヴァール人」集団の到来は、大規模な移住の影響の研究にひじょうに適した事例を提供します。アジア東部祖先系統は8世紀までウィーン盆地に存在しましたが、その後は消滅し、これについては将来の研究を必要とします。地域的な人口集団との混合過程は複雑で、異なる集団間の厳密に閉鎖的なモデルに従うことも、混合の着実な過程につながることもありませんでした。代わりに、さまざまな局所的もしくは地域的な状況が浮かび上がり、そうした状況では、共有された文化と政治と民族の基準枠が、局所的な差異およびかなりの遺伝的多様性と共存していました。文献における「アヴァール人」としての人々の認識と文化的慣習の統一と遺伝的混合は、類似した律動を取らず、これらの変化はさまざまな局所的共同体におけるかなり多様な遺伝的祖先系統につながりました。
大きく異なる過去の軌跡や異なる祖先系統および文化的習慣の共同体の相互作用は、ヒトの過去も現在も重要な問題です。単置換や同化や着実な同化といった単純な状況が、しばしば提起されます。古典的な集団遺伝学的モデルでは、生殖は均一な無作為過程と仮定されていますが、最近の研究ではすでに、より地域的で局所的な差異を許容せねばならない、と示されてきました。類似した条件でも、かなり異なる結果につながるかもしれません。これはとくに、親族関係と生殖を考慮しており、ヒトの生殖は親族関係制度の全体や結婚規則や個人間の関係や出生の社会的意味によって伝えられます。本論文の証拠から、配偶者についての選択はほぼ無作為ではなかった、と示されます。異なる祖先系統の集団間で共有された生殖慣行と行動のパターンは逆説的に、その遺伝的差異を永続させるかもしれません。
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この記事へのコメント
ユーラシア大陸の東西の人類集団の移動や交流が(平和的であったかどうかは別として)盛んであったことの証拠ですね。
以前にネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親との間の娘が確認された時に、研究者が報道記事で、「平和的」な交雑だったのか定かではない、と指摘していたように記憶しています。
アメリカ先住民とヨーロッパ人の混血ほどでなくても、非平和的、もしくは性に偏った混血は世界各地でみられますね。
それらの「非平和的な」混血の事例について取り上げた論文があったらいつか紹介していただけますと幸いです。
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0144223
「非平和的」な事例なのか否かは分かりませんが、ブリテン島で鐘状ビーカー文化の到来で考古資料と人類集団の遺伝的構成に劇的な変化が起きた期間に、オークニー諸島の少なくとも一部では、大きな変化を示唆する考古資料はほぼないものの、常染色体ではほぼ完全に近い置換があった一方で、父系は在来系が圧倒的に優勢でした。
https://doi.org/10.1073/pnas.2108001119
とても興味深い内容ですね。
パナマなど中南米の人々の遺伝子解析結果の論文は何度か読んだことがありますが、どれも恐ろしいほどの父系と母型の偏りでした。(むしろ今回のデータをみて先住民のY染色体が多いとおもったほどです)。
オークニー諸島の場合は父系制と女性族外婚(いわゆる嫁入り)が地域レベルで起こったようにみえます。
ブログ主さんの紹介してくださったなかでは、中国の回族についての論文も印象的でした。
やはり人類の混血はとても複雑で多様ですね。今後も研究が進んで新たな事実が発表されるのが楽しみです。
管理人さんは遺伝学に異様に詳しくて、俺は非常に驚いたが、俺自身が素人であるので、このブログ記事や管理人さんの書き込みをどこまで信用してよいのかがわからない。そもそも、管理人さんの背景がよくわからないので...
現代人の形成でも、現生人類の初期のアフリカからの拡散において、単純な地域集団の分岐だけではなく、まだ明確には検出されていない大きな遺伝的混合があった可能性も想定しています。
なお、私は遺伝学の研究者ではなく、遺伝学を専攻したこともありません。
近年の古代ゲノム研究の進展が目覚ましいので、ブログで取り上げることが多くなっていますが、元々は古人類学全般に興味があります。
当ブログで詳しく述べている記事は基本的に、要約以下の項目は私見を除いて取り上げた論文の日本語訳なので、当ブログの信頼性については参考文献と照合してください。