戸山為夫『鍛えて最強馬をつくる 「ミホノブルボン」はなぜ名馬になれたのか』第10刷

 情報センター出版局より1994年2月に刊行されました。第1刷の刊行は1993年9月です。近年では競馬への情熱をかなり失ってしまい、当ブログを始めた頃には1週間のうち4本掲載したこともあった競馬関連の記事を掲載することが少なくなりましたが、フォーエバーヤングのサウジカップ勝ちや、『ウイニングポスト10 2025』が今月(2025年3月)27日に発売予定で、おそらく購入しないものの、体験版を少しやったことから(関連記事)、競馬熱が多少高まり、以前古書店で購入してざっと読んだ本書を再読しました。なお、以下の馬齢表記は現在の基準に基づいています。

 本書は、闘病中の著者が書き残した原稿を、著者の妻である戸山美栄子氏と、著者の弟子である当時騎手だった小島貞博氏と小谷内秀夫氏が分かる範囲で訂正し、刊行されました。著者は1991年に食道癌と診断され、その後で治療しつつ調教師を続け、1993年3月に東京の虎ノ門病院に入院し、翌月下旬に退院し、再び調教師として活動している時に、原稿を執筆していたそうです。しかし、おそらく著者にとってはまだ語りたいことがあったのでしょうが、第60回日本ダービー前日の1993年5月29日に著者は亡くなりました。亡くなる直前まで著者は精力的に調教師として活動しており、容体が急変したそうです。本書によって著者には、死後であるものの、1993年のJRA賞馬事文化賞が与えられました。

 本書は、著者の自伝でもあり、競馬論でもあります。著者は、競走馬だけではなく、騎手をはじめとして人間も育てねばならない、との信念を強く持っていました。著書は調教師の前に騎手もやっていましたが、とても成功したとは言えず、そもそも騎乗機会が少ないことに不満を抱いていました。著者は弟子には厳しい調教師だったそうですが、弟子にはなるべく多くの騎乗機会を与えたい、と考えており、競走馬を預かる時点で、馬主には専属騎手を乗せる、と納得してもらっていました。著者によると、弟子の小島貞博氏は寡黙で、不幸な少年時代を過ごしたそうで、ミホノブルボンで大レースを勝たせてやりたい、と著者は強く思っていました。小島貞博氏は後年著者と同じく騎手から調教師に転身しましたが、その最期は不幸なことになりました。本書を読んで、小島貞博氏の最期を改めて残念に思ったものです。

 自伝としての性格も強い本書ですが、著者は京都競馬場の近くで育ち、少年時代に競馬関係者から競走馬に乗るよう勧められて、夢中になったようです。ただ、当時の著者は予科練の方により強く憧れたそうです。しかし、著者は子供の頃には虚弱で、国の役に立ちたいとの一心から、航空工業学校へ進み、飛行機の製造や整備で貢献したい、と考えたそうです。敗戦によって航空工業学校は商業学校となり、月給取りになれ、と厳命していた母親が亡くなったこともあり、隣家の武平三騎手(武豊騎手の大伯父)に内弟子にしてもらい、隣人では甘えになるからといって、坂口正二騎手の内弟子となり、坂口正二騎手が調教師となると、坂口厩舎に所属し、競馬学校を卒業して1952年に騎手となりました。

 上述のように、著者は騎手としては成功せず、師匠の坂口正二調教師、さらには競馬会の慣行に不満も抱いたものの、自身が調教師になると、師匠の苦労も分かるようになった、と述懐しています。著書が開業したのは、1964年でした。著書が厳しい調教を課していたことはよく知られているでしょうが、親族に競馬関係者がいるわけでもなく、若い著者の厩舎に有力な競走馬が入ることはないわけで、鍛えなければ厩舎経営が行き詰まる、といった切羽詰まった状況が大きかったように思います。厳しい調教に競走馬が耐えるためには、実際に担当する厩務員など人間側も変わらねばならない、ということで、著者の競馬論は、競走馬や騎手や調教師といった厩舎から牧場まで多岐にわたります。著者は持ち乗り制度を導入するなど革新的で意欲的なところがありましたが、一言居士でもあり、馬主やと衝突したり、定年制の導入に奔走して年長の調教師から反対されたりしただけではなく、労働組合の幹部ともやり合い、吊し上げられたことも何度かあったそうです。一方で本書からは、著者が義理堅いところも窺えます。著者のそうした多面性は、山野浩一先生からも指摘されていたように記憶しています。

 競走馬の評価で興味深いのは、著者が見た中での名馬として、シンザンとモンテプリンスとメジロマックイーンの3頭を挙げていることです。著者によると、ミホノブルボンは脚があまり丈夫ではなく、ウッドチップコースのある栗東だからこそ逞しく育ったのであり、美穂に入厩していたら、クラシックへの出走さえなかったかもしれないそうです。関東馬のモンテプリンスも、当時ウッドチップコースがあれば、シンザン以上の馬になったかもしれない、と著者は高く評価しています。そう言えば、今は亡き大橋巨泉氏も、モンテプリンスの5歳春の活躍をたいへん高く評価していたように記憶しています。日本の競走馬が強くなった、とよく言われ、それは国際競争での活躍によく表れていますが、海外からの繁殖馬の導入とともに、育成や調教の設備の発展も大きいのでしょう。

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