匈奴と漢の戦争に関連する人類遺骸の学際的研究
匈奴と漢の戦争に関連する人類遺骸の学際的な分析結果を報告した研究(Ma et al., 2025)が公表されました。本論文は、モンゴルのウムヌゴビ(Umnugovi)県のノムゴン(Nomgon)郡の南方26kmに位置するバヤンボラク遺跡(Bayanbulag site、略してBBS)で発見された人類遺骸について、考古学と遺伝学と同位体の分析を通じて、その出自を特定しています。BBSは当初、匈奴の要塞と考えられていましたが、本論文は、BBS被葬者が遺伝的には現在の漢人および古代華北人口集団と類似しており、ストロンチウム(Sr)同位体分析から、その起源が現在の中国北部と中原で、さらには炭素(C)と窒素(N)の同位体分析から、食性が華北の農耕集団に類似していたことを示します。つまり、BBS個体群が葬られた当時、BBSは漢帝国の国境近くの軍事要塞で、BBS個体群は漢帝国の兵士だった可能性が高い、というわけです。こうした学際的手法によって、歴史学によって提示されてきた歴史像がさらに詳細になっていき、さまざまな地域と時代に応用されていくことが期待されます。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LNNC(Late Neolithic in Northern China、中国北部の後期新石器時代)です。
●要約
漢と匈奴の戦争は、初期鉄器時代ユーラシア東部における最も強力な2帝国間の一連の重要な戦争で、遺伝学と地質学と人類学と考古学を含む、総合的な学際的手法を通じて調べられました。この研究は、当初は匈奴の要塞と特定された、モンゴルのバヤンボラク遺跡(BBS)の集団墓地の分析に焦点を当てます。本論文のおもな目的は、この墓に埋葬された個体の特定、および漢と匈奴の戦争の戦術と相互作用へのより深い洞察の提供です。正確な考古学的および人類学的調査を通じて、要塞の建造物や出土武器や以外の外傷によって証明されるように、BBSの戦争と関連する性質が確証されます。遺骸のゲノム解析は、現在の漢人および古代の中国北部人口集団との遺伝的類似性を明らかにしました。ストロンチウム同位体分析は、この個体が群体に所属していた重要な証拠を提供し、その起源がモンゴル高原を越えており、具体的には中国北部と中原だったことを示唆しており、漢人兵士としての帰属を確証します。この結果は、炭素および窒素の安定同位体分析によってさらに裏づけられ、中国北部の農耕人口集団に特徴的な食性が明らかにされました。相互補完的方法でさまざまな分野からのデータを統合することによって、本論文は漢と匈奴の戦争に関する包括的な説明を提示し、この期間の軍事組織と軍事雇用への洞察を提供します。この学際的手法は歴史叙述を大幅に豊かにして、初期ユーラシア東部の紛争に関する既存の知識体系に寄与します。
●研究史
漢と匈奴の戦争は、初期鉄器時代のユーラシア東部における最も強力だった二つの帝国である漢と匈奴との間の1世紀にわたる一連の紛争で、この地域の歴史と人口動態の形成においてきわめて重要でした。万里の長城周辺の国境地帯で展開されたこれらの戦いは、多くの死傷者、領土の変化、大規模移住をもたらし、それらは、文化と言語と遺伝子の統合および交換を促進しました。しかし、これらの戦争の研究は、限定的な記録と民族的に絶滅した匈奴【と断定してよいのか、おもに漢字文献に依拠していると思われることも含めて、疑問が残りますが】の文字体系が欠如していることで長く妨げられてきており、おもに漢の視点から歴史的遺産が残されています。さらに、ほとんどの利用可能な記録はおもに戦いと指導者に焦点を当てており、これらの事象に関わった人々の大半、つまり、戦争で闘って死んだ兵士には焦点を当てておらず、戦争およびその参加者の詳細についてはは不明か、偏っています。
生物工学の進歩によって、タンパク質とDNAの断片がヒト遺骸から抽出でき、同位体およびゲノムの分析を通じて、出生地や食性構造や遺伝的関係の直接的な判断が可能となりました。これらの証拠は、他の考古学的調査結果とともに、過去の戦いに関わった個体の生活史と生活様式の再構築に役立ちます。これは、さほど客観的ではない文献を強化する、偏りのない生物学的証拠を提供します(Novak et al., 2021、Reitsema et al., 2022)。したがって、生物考古学的視点は、漢と匈奴の戦争への貴重な洞察を提供し、歴史的および考古学的観点を強化する、と期待されます。
1957年のバヤンボラク遺跡(BBS)の発見と、モンゴルとロシアの研究団による2009年のその後の発掘は、考古学と遺伝学両方の調査結果を通じて、漢と匈奴の戦争に加わった個体群に関する研究に重要な機会を提供します。BBSは中華風の建築様式と、漢様式の土器や鉄器や軍需品や硬貨や漢王朝の印のある粘土の印鑑を含めて、漢の人工遺物を特徴とします。これらの調査結果から、BBSは要塞で、おそらくは歴史的記録である『史記(Shiji)』に記載されている受降城(Shouxiangcheng、降伏者を受け入れるための要塞との意味)だろう、と示唆されています。この要塞は、漢帝国(前漢、西漢)によって紀元前104年に建設されました。BBSで発見された20人以上の切断された骨格は、漢と匈奴の戦争の参加者および戦争自体の調査への貴重な生物資料を提供します。これまでに、2点の標本のみが遺伝学的に検証されました。
先行研究(Damgaard et al., 2018)は2点のBBS標本(DA43およびDA45)を、ゴル・モド(Gol Mod)遺跡の共同墓地2号で発見された匈奴の上流階層1個体(DA39)とともに、匈奴に分類しました。その後の研究では、BBS個体群はその明確な100%の漢人関連の遺伝的特性のため漢_2000年前と分類表示されたのに対して、後期匈奴_漢と呼ばれたDA39は40未満の漢人関連祖先系統を有している、とモデル化されました(Jeong et al., 2020)。BBS標本の炭素および窒素の安定同位体分析では、これらの人々の食性構造はかなり複雑だった、と示され、BBS個体のほとんどがさまざまな農耕地域から到来した、と示唆されました(Miller, and Makarewicz., 2019)。これらの発見は、BBSの個人の決定的な認識の難しさを強調します。学際的手法の活用の重要性は、これらの個体の遺伝的多様性および起源を研究するさいに、相反する調査結果と限られた標本規模によって強調されます。
この研究では、古代の漢と匈奴の戦争に関する包括的な理解を得るために、遺伝学と地質学と人類学と考古学を組み合わせた学際的手法が採用されました。BBSで発見されたすべてのヒト骨格が注意深く収集され、ストロンチウムおよび炭素の同位体データが、古代ゲノムデータとともに得られました。その後、これらのデータは考古学的研究および骨格遺骸の外傷の観察とともに分析されました。この徹底した手法は、これらの人々の文化的および生物学的特徴に関する情報を提供し、漢帝国の新兵募集慣行および軍事防衛戦略への洞察をさらに提供します。本論文の結果は、古代社会の複雑な物語の解明における学際的手法の価値を強調します。
●資料と手法
BBSで発見された人類遺骸の同位体分析との対照のため、モンゴルからさらに2点の標本が収集され、それは、モンゴルのトゥブ(Töv)県のエルデネ(Erdene)郡に位置する、紀元前9~紀元前4世紀頃の石板墓(Slabgrave)文化のアグイ・ウール(Agui uul)遺跡で発見された1個体(AT22)と、モンゴルのアルハンガイ(Arkhangay)県のバトツェンゲル(Battsengel)郡に位置する匈奴文化期(紀元前2世紀~紀元後2世紀)のデュンデ・オロンツォ(Dunde-Orontso)の共同墓地で発見された1個体(AT23)です(図1A)。以下は本論文の図1です。
ストロンチウム同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)は、人類の移動の追跡に使用されます。本論文で分析されたヒトの同位体分析のうち、14個体はBBSに由来し、他の2個体は上述のAT22およびAT23です。人類遺骸のDNA解析では、性別とともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)も決定され、親族関係が推定され、124万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のうち、少なくとも8000ヶ所を網羅している個体で検証されました。集団遺伝学的分析では、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が使用されました(図2)。ADMIXTURE分析では、K(系統構成要素数)=2~9までが検証され、K=7の結果が示されています。以下は本論文の図2です。
人口構造をより詳細に推測するためにf3およびf4統計も実行され、qpAdmでBBS個体群の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が推定されました。基準外群一式として、青銅器時代の前の17の人口集団と、深く孤立している現在の人口集団が用いられ、ムブティ人、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊で発見された続旧石器時代狩猟採集民(ウスチイシム)、続旧石器時代ヨーロッパの狩猟採集民(Hunter-Gatherer、略してHG)であるイタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡個体(ヴィッラブルーナ_HG)、レヴァントのナトゥーフィアン(Natufian、ナトゥーフ文化)個体、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代農耕民(ガンジュダレー_N)、アナトリア半島の新石器時代農耕民(アナトリア_N)、ANE(Ancient North Eurasian、古代北ユーラシア人)、EEHG(Eastern European Hunter-Gatherer、ヨーロッパ東部狩猟採集民)、カザフスタンのボタイ(Botai)文化集団(ボタイ)、旧石器時代アジア東部人(旧石器_アジア東部)、オンゲ人、日本列島の縄文時代集団(日本_縄文)、ネパール北部のチョクホパニ(Chokhopani)遺跡の個体(チョクホパニ)、山東(Shandong、略してSD)半島前期新石器時代個体(SD_EN)、福建省連江県亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体(亮島2号)、モンゴル東部の新石器時代個体(モンゴル東部_N)、河南省滎陽市の汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体(WG_MN)が含まれます。
●考古学的および人類学的調査結果
長期にわたるBBSの広範かつ詳細な発掘は2009年に考古学調査団によって始まり、その後に集中的研究が行なわれました。考古学者は、第2中央発掘区域に開けているこの2ヶ所の巨大な版築の壁と壕が、BBSの軍事的性質を示唆している、と考えています。この結論は、数十個の青銅製の弩の錠、数百個の銅製および鉄製の弩と矢、鉄製甲冑の破片、青銅製の鍔、小刀、緩衝具、青銅製尾錠、帯の留め金、円筒形の柄の先端など(図1B・C)や、何千もの輪の刻まれた灰色の土器によって裏づけられ、これらの人工遺物は、BBSの人々の、漢王朝期にのみ使用された軍事的性格と、武器や道具や土器の使用を示唆しています。
第2発掘区域の南西約150mの、小川の曲がり角で、考古学者は粘土に直系約7m、深さ約1.3mの不規則な平面の穴を彫りました。ほぼ完全な遺体(骨格)のほとんどは、穴の中央に4~5層まで積み重なっており、相互に密に重なりあっていました。首を切断された遺体(S16)は積み重なった遺体と歯別に置かれており、青銅製の剣の帯の留め金や赤い鞘の断片が供えられていました。より小さな遺体の断片は、中央の積み重なった遺体の近くに置かれていました。特別な漢王朝様式の人工遺物も骨格の近くに置かれており、それは、鉄製矛(ji)、鉄製頬当て、鉄製留め金です(図1C)。
穴の総面積が38 m²である事実にも関わらず、ヒト遺骸は12 m²の面積に積み上げられていました。この事実と、穴の不規則な形状と内部における埋葬構造の欠如から、考古学者は、穴は埋葬儀式のための意図的なものではなく、粘土の採掘の結果だった、と結論づけました。全骨格は密に積み重なっており、堆積後の損傷はなく、穴の発掘の痕跡はなかったことから、骨格の積み重なりは、一部の骨格が二次的に積み重なりに入り込んだ可能性を除けば、同時に形成された、と示唆されます。それにも関わらず、BBSにおける乾燥した保存状態と寒冷なゴビ砂漠の気候と長期の発掘過程(凍結と融解の周期の繰り返しを含みます)によって、骨格の外傷と骨格に変化をもたらした可能性が高い化石生成論的変化を正確に区別して特徴づけることは困難になったので、鋭利な力による外傷と鈍い力による外傷の識別は複雑になりました。
墓の識別可能な骨格の数に基づくと、少なくとも17個体を確認できます。一部の骨格は墓穴に捨てられるか、埋葬されなかったかもしれないので、個体数の合計が過小評価されている可能性を、本論文は認識しています。人類学的分析から、比較的完全な骨格の特徴に基づいて、17個体は全員、年齢が20~50歳くらいの成人男性だった、と示唆されました。個々の外傷の特徴づけはおもに、本論文の著者の一人であるアレクセイ・コヴァレフ(Alexey Kovalev)氏によって提供された、直接的な発掘記録と写真と観察に基づいています。主要な発掘者であるコヴァレフ氏は、発掘と関連する損傷を否定しました。この研究では、各骨格の最も明らかな骨の異常に焦点が当てられました(図3)。以下は本論文の図3です。
手足を切断された遺骸が孤立した事例でないことは明らかで、ほとんどの個体で切断が観察されました。一部の傷は、鋭利な物や鈍い物によって起きた外傷に起因しました。埋葬穴に埋め戻された地元の粘土は、個体S5およびS17の膝をついた姿勢など、埋葬時の遺体の元々の姿勢の維持にしっかりと役立ちました(図3)。これらの骨格の特徴から、個人間の暴力がここで起きていた、と示唆され、それはBBSのより広範な歴史的状況と一致します。したがって、すべての上述の考古学的および人類学的調査結果から、BBSは漢と匈奴の戦争期における駐屯地要塞で、集団墓地に埋葬された人々はこの血生臭い戦争の犠牲者に違いない、と示唆されます。
●古代DNA解析
14点の標本の配列決定データの取得に成功しました。ゲノム規模分析のため、124万SNPパネルで網羅された少なくとも5万ヶ所の部位のある11個体が維持されました。とくにBBSと新石器時代以降の中国北部と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンの石人子溝(Shirenzigou)遺跡と匈奴の個体群の集団モデル化のため、刊行されている古代人のデータ一式も統合されました。漢_2000年前の1方向としてモデル化される後期匈奴の外れ値1個体(YUR001)が報告されましたが、この個体を報告した論文(Jeong et al., 2020)の著者は、δ¹³C値により示唆される貯蔵効果のため年代が古すぎるかもしれない、と述べているので、この標本は分析から除外されました。
遺伝的性別決定によると、BBSの全個体は男性と特定されました。標本AT19とDA45は同一で、親族関係分析に充分なSNPのある他の全個体は親族関係ではなかった、と分かりました。より高品質であるため、標本DA45が遺伝学的分析に用いられました。YHgの特定は、そのうち12個体で成功しました(表1)。BBSで最も一般的な系統だったYHg-O2a2b1a1a1(F8)に属しているのは4個体でした。残りの個体が属しているYHgは、C2b1a1a1a(M407)、N1a2a1a(F1998)、O1b1a2b(Z24433)、O2a2b1a2a(F114)、Q1a1a(M120)でした。刊行されている残りの標本2点が属していたYHgはそれぞれ、O2a1b1a1a1a1e2a2(MF2478)とO2a2b2b1b1(MF14317)でした。YHg-C2b1a1a1a(M407)がおもにシベリア南部とアジア東部の現代の人口集団で観察されるのに対して、他のYHgはおもに漢人のようなアジア東部人に分布しています。YHg-O2a2b1a1a1(F8)およびO2a2b1a2a(F114)は早くも新石器時代において中国北部の数ヶ所の遺跡で見つけることができますが、匈奴後期までモンゴル高原には存在しませんでした(Ning et al., 2020)。YHg-Q1a1a(M120)は、モンゴル高原の前期鉄器時代の石板墓文化標本において最も一般的な系統でした(Jeong et al., 2020、Wang et al., 2021)。しかし、詳細な系統樹との比較後に、石板墓文化の全個体が初期に分岐した系統に属しているのに対して、BBSの個体AT7およびAT15は中国北部の古代人標本およびアジア東部現代人とより密接に関連している系統に属している、と分かりました。
BBS集団における高い母方の遺伝的多様性(14個体で14系統のmtHgが特定されました)はミトコンドリアゲノム解析を通じて観察され、そのほとんど(表1)はアジア東部北方関連のmtHg(A、D4、D5、F2、G、64.7%)で、現在の漢人で保存されてきました。
現在の人口集団の異なる二つの一式を用いて、ユーラシアの他の刊行されている古代人標本とともに、これらBBS標本のゲノム規模データでPCAが実行されました(図2)。多様なユーラシアの集団と比較すると、BBS個体群はLNNC(中国北部の後期新石器時代)の古代人標本とクラスタ化し(まとまり)、現在の漢人やチベット人や韓国人や日本人の近くに位置しており、個体DA43およびDA45はユーラシア西部人の方向へとわずかに動いていました。BBSの全個体は、アジア北東部とモンゴル高原とユーラシア北部の古代および現在の個体とひじょうに離れていました。アジア東部の現在の44人口集団一式を用いると、BBSの全標本は他のアジア東部人と比較して漢人のより近くに位置する、と観察されました。ADMIXTURE分析も、BBSとLNNCとの間の祖先系統の類似を裏づけます(図2)。BBS個体群と他の人口集団との間で共有されるアレル(対立遺伝子)の水準を特定するために、外群f3統計を用いて、上述の分析と一致する結果が得られました。
f4統計(ムブティ人、BBS個体群;LNNC_i、LNNC_j)が実行され、有意な値の検定が見つからず、これは、どのBBS個体も一貫して、他のLNNC人口集団よりも一部のLNNC人口集団の方と多くの祖先系統を共有しているかもしれない、との状況が観察されないことを示唆しています。f4統計(ムブティ人、X;LNNC、BBS個体群)も実行され、アジア北東部とユーラシア北部と草原地帯と中国南部を含めて、さまざまな検証人口集団Xにおいて中国北部クレード(単系統群)外からの混合の兆候が調べられました(BBS個体群とXとの間でより多くの祖先系統が共有されると、値が正に増加します)。BBSの全個体のうち、DA43とDA45のみがスキタイ人の有意により高い類似性を示します。これは、PCA図におけるユーラシア西部人へのDA43とDA45の移動を説明できるかもしれません。
循環手法でqpAdmを使用し、BBSの各個体と匈奴人口集団が、1方向もしくはいくつかの供給源の混合としてモデル化されました。本論文の分析は、BBS標本の大半について、LNNCの1方向モデルを許容し、2以上の供給源を却下しました。しかし、DA43とDA45はLNNC とスキタイ_ハンガリーによって表される5~6%の西方草原地帯人口集団の2方向混合としてのみモデル化でき、このモデルは匈奴人口集団に適用すると却下されました。これらのモデルは、数個体の西方草原地帯からの低水準の遺伝子流動を除いて、BBS標本のほぼ均質な遺伝的背景を示唆しています。これらの観察は、PCAとADMIXTUREとf3およびf4統計の観察と一致します。しかし、DA43とDA45における西方草原地帯関連祖先系統が、X染色体と常染色体の汚染水準上昇に反映されている、他の草原地帯標本との交差汚染の結果である可能性を除外できません。
片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)およびゲノム規模分析に基づいて本論文では、BBS個体群は匈奴集団や他のシベリア南部古代人とは遺伝的に異なる、と結論づけられます。一方で、BBS個体群は現在の漢人および後期新石器時代以降の中国北部の古代人との強い類似性を示します。
●同位体分析
ヒトのエナメル質の同位体データの値は表2に掲載され、図4に示されています。BBSのヒトのエナメル質標本の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値の範囲は0.709979~0.711164で、平均は0.710450±0.000320です。モンゴル北部の古代人2個体の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の範囲は0.709322~0.709748で、平均は0.709535±0.000213です。モンゴル北部のゴル・モド遺跡の2号共同墓地のヒト11個体の遺骸を含めて、最近刊行された匈奴の貴族およびその配下のストロンチウム同位体比は、⁸⁷Sr/⁸⁶Srの平均値が0.70882±0.00045と明らかにしています。これらの値は、モンゴルのハヌイ(Khanuy)渓谷の地元のウマの値と近く、その範囲は0.70822~0.70969です。これらの刊行されている⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値および本論文のヒト2個体の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値は、モンゴル北部の生物学的に利用可能なストロンチウムの基準(地元の動物からのデータで確証されています)の範囲内です。BBSがモンゴル南部にあることを考えて、モンゴル南部の2点の刊行されている齧歯類の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比が⁸⁷Sr/⁸⁶Srデータセットに統合され、モンゴル南部における現地で生物学的に利用可能なストロンチウムの範囲が提供されます(図4)。以下は本論文の図4です。
BBS個体群のストロンチウム同位体比は、モンゴル北部の古代人および地元のウマ両方の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比より有意に高く(図4)、中国北部の⁸⁷Sr/⁸⁶Srの範囲へと収まります。さらに、エナメル質のδ¹³C炭酸塩値の範囲は、−10.6‰~−2.1‰(平均は−7.3±2.8‰)で、C₃植物およびC₄植物の食料から構成される混合食性(最も可能性が高いのは、コムギと雑穀)を示唆していますが、BBS個体群におけるδ¹³C炭酸塩値のより大きな差異も、BBS個体群はより広範な領域に起源があることを示唆しています。
●考察
紀元前千年紀以降の千年以上にわたって、ユーラシア東方草原地帯の遊牧民と黄河流域の定住農耕共同体は、文化的交流や経済的相互依存や資源の競合を通じて、相互作用しました。モンゴル高原で勃興した最初の遊牧民帝国である匈奴は、紀元前3世紀後半から紀元後2世紀にかけて漢帝国にとって大きな課題となりました。漢帝国の初期には、【漢帝国】の政府は外交的および防衛的戦術を採用し、2国交易の開始や万里の長城の建設や政略結婚の体系化など、匈奴の相互作用に対処しました【実質的には、この時期には漢は匈奴の属国だった、と言えるように思います】。それにも関わらず、漢帝国7代目の支配者である武帝の治世中に、漢帝国はより強引な戦略に転換しました。したがって、漢帝国は多くの軍事要塞を国境沿いに建設し、軍事力と組織を強化しました。漢と匈奴の戦争は歴史書に記されていますが、戦闘の詳細や兵士の背景など、多くの側面は不明なままです。BBSで発掘されたヒト骨格遺骸は、生物考古学的視点からの漢と匈奴の戦争に絶好の機会を提供します。
●BBSにおけるヒト遺骸の身元確認
BBSで発掘された資料のほとんどは、弩や矛やゴルジのような武器、および鉄製鎧の破片のような防具など、軍用装備と関連しています。BBS全体の建築の特徴(版築壁や塹壕など)と組み合わせると、BBSは漢帝国によって建設された国境の要塞として機能した、と結論づけることができます。自然人類学的とゲノム両方のデータから、BBSの集団墓地に埋葬された全個体の性別(ジェンダー)は男性で、これは、異常な埋葬様式および手足を切断された遺骸とともに、戦争の暴力を示すだけではなく、BBS個体群の身元が紛争の直接的参加者、つまり兵士だったことを示唆します(図1B)。BBSで埋められていたところを発見された、壊れた弩の金属分析から、これらの武器はおそらく、この要塞がある時点で武帝統治下にあったことを示唆する、BBSの他の場所で見つかった公印によって証明されるように、漢帝国の中央集権化されて標準化された大規模な供給体系に由来する、と示唆されることに要注意です。しかし、BBSは漢と匈奴の紛争の最前線に位置していたため、この地域の支配は何回も変わり、集団墓地の遺骸の出自と貴族の確認が困難になっています。墓に埋葬された非永住民の特定は、漢と匈奴の戦争の詳細の解明に重要で、当時の軍事戦略の研究に大きな学術的重要性を有しています。したがって、BBS個体群の背景と生活様式に関するより徹底的で正確な理解を得るためには、さまざまな分野の研究を統合することが不可欠です。
古代DNA技術の適用によって、民族的帰属や祖先の起源を判断するための、古代の個体群からの正確な遺伝学的情報への貴重な手段が得られました(Ning et al., 2020、Fu et al., 2016)。本論文では、古代BBS個体群の高品質なゲノムが得られ、ゲノム解析の結果から、BBSの全標本は男性で、密接な親族関係ではなかった、と示唆されます。mtDNA解析は、おもにアジア北東部に分布する母方系統の豊富な多様性を明らかにしています。特定されたYHgは、新石器時代に黄河流域に居住していた人口集団の遺伝的特徴と密接に類似しています。全ゲノム解析でも、BBS個体群は遺伝的に黄河流域の古代と現在両方の人口集団と密接に関連している、と明らかになっています。しかし、匈奴はおそらく漢人【という分類を本論文が対象とする紀元前千年紀に用いてよいのか、疑問は残りますが】の構成員を含む多民族連合だったので、遺伝学的証明のみを用いては、BBS個体群を漢軍に決定的に帰属させることはできません。したがって、より徹底的で正確な理解を得るためには、さまざまな分野の研究からの結果の統合が不可欠です。
ストロンチウム同位体分析から、BBS個体群はおそらくモンゴル高原で生まれず、むしろ中国北部および中原起源だった、と示唆されます。この結論は、モンゴルの南北で典型的な地元の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比と比較して、BBS標本で観察されたより後半でより高い⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比によって裏づけられます。具体的には、モンゴル南部の語尾地域の生物学的に利用可能な⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比(0.708170~0.708310)は、モンゴル北部(0.709109~0.709961)よりも相対的に低くなります。BBS個体群のストロンチウム値の範囲は0.709979~0.711164で、中国北部の平均値(0.71106±0.00106)とほぼ一致しており、BBS個体群の中原を含めて中国北部起源であることを示唆しています。これは、食性の安定同位体分析によってさらに裏づけられており、BBS個体群はC₃植物およびC₄植物の混合を消費しており、最も可能性が高いのはコムギと雑穀である、と示されており、中国北部の農耕慣行と一致します。BBSのヒトの歯のエナメル質とコラーゲンから得られたδ¹³C値も、この混合食性を反映しています(表2)。さらに、BBS個体群のコラーゲンの炭素とコラーゲンの炭素および窒素同位体データは、おもに肉と乳製品を消費していたさらに北方の草原地帯の遊牧民とは顕著に異なっており、BBS個体群が非遊牧民起源であることをさらに示唆しています。
まとめると、遺伝的祖先系統とストロンチウム同位体と食性の手がかりはすべて、BBSで発見された個体群が漢帝国に仕えた中国北部出身の兵士で、匈奴との戦いで死亡したのであり、匈奴の兵士ではなかったことを裏づけます。
●学際的手法を通じての漢と匈奴の戦争の調査
歴史的記録によると、漢帝国の軍隊は一般的に徴兵を通じて募集され、全成人男性は少なくとも2年間の兵役が要求されました。西漢(前漢)王朝期の中国の歴史書である『漢書(Hanshu)』【編纂は東漢(後漢)期】の多くの記述では、漢の兵士が西河(Xihe)郡から北西へと向かい、匈奴と対峙した、と記録されています。これは、「西(河)郡(Xi[he] Xuan)」の単語があるBBSで発見された公的な粘土印の発見によって裏づけられ、西河郡の玄雷居(Xuanlei)要塞の駅の位置を示唆しています。結果として本論文では、BBSに埋葬された漢軍の一部は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部に位置する西河郡から募集され、派遣されたかもしれない、と仮定されます。
この研究では、BBSの14個体のうち12点の標本のストロンチウム同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)はひじょうに類似しており、BBS個体群が同様の地域に居住していたことを示唆しています。中国の生物学的に利用可能なストロンチウム同位体地図によると、BBSの12個体の起源がオルドス高原もしくは中国北部である一方で、他の2個体は中原(AT18)と中国北東部(AT24)から徴集された、と示唆されました。これらの発見は、漢帝国期における軍事組織の統制も論証しているかもしれません。漢帝国は匈奴に対する防衛のために、河套(Hetao)地域(ホータオ平原)の朔方(Shuofang)郡や五原(Wuyuan)郡や西河郡のような北方草原地帯に近い地域に、国境地区を設置しました。漢帝国は、インシャン(Yinshan)山脈沿いの全線に、さらに光禄塞(Guanglu sai)など北方の外側の要塞線を強化しました。これらの地域の人口の大半は、秦もしくは西漢(前漢)王朝のある時点で中原から移住させられた農耕民でした。戦時には、中央政府は虎符(Tiger Tally、Hu-fu)やその他の権威の象徴を要塞に届ける指導者を一時的に任命し、さまざまな地域から兵士を募集しました。この制度は軍隊の戦闘効率の維持と、中央政府の権威に挑戦するかもしれない地元の軍事指導者の台頭の防止を意図していました。
さらに、この研究の調査結果を用いて、漢帝国の国境防衛戦略を概略でき、これは木簡で見られる情報によって裏づけられます。この情報は、漢帝国が万里の長城に囲まれた国境地域に永住者のいる軍事農耕集落を築き、攻撃の戦略的拠点として遠くの周辺地域に軍事要塞を建設した、と示しています。本論文では、武器のような考古学的証拠と穴の底で発見されたF32の頭蓋の放射性炭素(¹⁴C)年代測定によって裏づけられるように、BBSは集落ではなく、匈奴に対抗するために漢帝国によって築かれた軍事要塞だった、と示唆されます。また、BBSに埋葬された兵士は漢帝国の北方国境地域の出身で、長期の軍事的中流ではなく、一時的な任務のために派遣されました。これは、敵の土地の占領ではなく、敵を国境外に押し出すという、漢帝国の基本的な防衛戦術を論証します。
本論文では、遺伝学と地理学と人類学と考古学を含む学際的手法が、特定の個体を特定し、古代社会についての新たな洞察を解明するのに役立つ、と示されます。ただ、考古学で用いられるどの科学的手法も、とくに一つの手法もしくは一つの情報源に依拠する場合には、現場の考古学的情報から切り離すべきではないことに要注意です。
参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2
関連記事
Fu Q. et al.(2016): The genetic history of Ice Age Europe. Nature, 534, 7606, 200–205.
https://doi.org/10.1038/nature17993
関連記事
Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015
関連記事
Ma P. et al.(2025): Bioarchaeological perspectives on the ancient Han-Xiongnu war: Insights from the Iron Age site of Bayanbulag. Journal of Archaeological Science, 177, 106184.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2025.106184
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w
関連記事
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事
Novak M, Olalde I, Ringbauer H, Rohland N, Ahern J, Balen J, et al. (2021) Genome-wide analysis of nearly all the victims of a 6200 year old massacre. PLoS ONE 16(3): e0247332.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0247332
関連記事
Reitsema LJ. et al.(2022): The diverse genetic origins of a Classical period Greek army. PNAS, 119, 41, e2205272119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2205272119
関連記事
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事
●要約
漢と匈奴の戦争は、初期鉄器時代ユーラシア東部における最も強力な2帝国間の一連の重要な戦争で、遺伝学と地質学と人類学と考古学を含む、総合的な学際的手法を通じて調べられました。この研究は、当初は匈奴の要塞と特定された、モンゴルのバヤンボラク遺跡(BBS)の集団墓地の分析に焦点を当てます。本論文のおもな目的は、この墓に埋葬された個体の特定、および漢と匈奴の戦争の戦術と相互作用へのより深い洞察の提供です。正確な考古学的および人類学的調査を通じて、要塞の建造物や出土武器や以外の外傷によって証明されるように、BBSの戦争と関連する性質が確証されます。遺骸のゲノム解析は、現在の漢人および古代の中国北部人口集団との遺伝的類似性を明らかにしました。ストロンチウム同位体分析は、この個体が群体に所属していた重要な証拠を提供し、その起源がモンゴル高原を越えており、具体的には中国北部と中原だったことを示唆しており、漢人兵士としての帰属を確証します。この結果は、炭素および窒素の安定同位体分析によってさらに裏づけられ、中国北部の農耕人口集団に特徴的な食性が明らかにされました。相互補完的方法でさまざまな分野からのデータを統合することによって、本論文は漢と匈奴の戦争に関する包括的な説明を提示し、この期間の軍事組織と軍事雇用への洞察を提供します。この学際的手法は歴史叙述を大幅に豊かにして、初期ユーラシア東部の紛争に関する既存の知識体系に寄与します。
●研究史
漢と匈奴の戦争は、初期鉄器時代のユーラシア東部における最も強力だった二つの帝国である漢と匈奴との間の1世紀にわたる一連の紛争で、この地域の歴史と人口動態の形成においてきわめて重要でした。万里の長城周辺の国境地帯で展開されたこれらの戦いは、多くの死傷者、領土の変化、大規模移住をもたらし、それらは、文化と言語と遺伝子の統合および交換を促進しました。しかし、これらの戦争の研究は、限定的な記録と民族的に絶滅した匈奴【と断定してよいのか、おもに漢字文献に依拠していると思われることも含めて、疑問が残りますが】の文字体系が欠如していることで長く妨げられてきており、おもに漢の視点から歴史的遺産が残されています。さらに、ほとんどの利用可能な記録はおもに戦いと指導者に焦点を当てており、これらの事象に関わった人々の大半、つまり、戦争で闘って死んだ兵士には焦点を当てておらず、戦争およびその参加者の詳細についてはは不明か、偏っています。
生物工学の進歩によって、タンパク質とDNAの断片がヒト遺骸から抽出でき、同位体およびゲノムの分析を通じて、出生地や食性構造や遺伝的関係の直接的な判断が可能となりました。これらの証拠は、他の考古学的調査結果とともに、過去の戦いに関わった個体の生活史と生活様式の再構築に役立ちます。これは、さほど客観的ではない文献を強化する、偏りのない生物学的証拠を提供します(Novak et al., 2021、Reitsema et al., 2022)。したがって、生物考古学的視点は、漢と匈奴の戦争への貴重な洞察を提供し、歴史的および考古学的観点を強化する、と期待されます。
1957年のバヤンボラク遺跡(BBS)の発見と、モンゴルとロシアの研究団による2009年のその後の発掘は、考古学と遺伝学両方の調査結果を通じて、漢と匈奴の戦争に加わった個体群に関する研究に重要な機会を提供します。BBSは中華風の建築様式と、漢様式の土器や鉄器や軍需品や硬貨や漢王朝の印のある粘土の印鑑を含めて、漢の人工遺物を特徴とします。これらの調査結果から、BBSは要塞で、おそらくは歴史的記録である『史記(Shiji)』に記載されている受降城(Shouxiangcheng、降伏者を受け入れるための要塞との意味)だろう、と示唆されています。この要塞は、漢帝国(前漢、西漢)によって紀元前104年に建設されました。BBSで発見された20人以上の切断された骨格は、漢と匈奴の戦争の参加者および戦争自体の調査への貴重な生物資料を提供します。これまでに、2点の標本のみが遺伝学的に検証されました。
先行研究(Damgaard et al., 2018)は2点のBBS標本(DA43およびDA45)を、ゴル・モド(Gol Mod)遺跡の共同墓地2号で発見された匈奴の上流階層1個体(DA39)とともに、匈奴に分類しました。その後の研究では、BBS個体群はその明確な100%の漢人関連の遺伝的特性のため漢_2000年前と分類表示されたのに対して、後期匈奴_漢と呼ばれたDA39は40未満の漢人関連祖先系統を有している、とモデル化されました(Jeong et al., 2020)。BBS標本の炭素および窒素の安定同位体分析では、これらの人々の食性構造はかなり複雑だった、と示され、BBS個体のほとんどがさまざまな農耕地域から到来した、と示唆されました(Miller, and Makarewicz., 2019)。これらの発見は、BBSの個人の決定的な認識の難しさを強調します。学際的手法の活用の重要性は、これらの個体の遺伝的多様性および起源を研究するさいに、相反する調査結果と限られた標本規模によって強調されます。
この研究では、古代の漢と匈奴の戦争に関する包括的な理解を得るために、遺伝学と地質学と人類学と考古学を組み合わせた学際的手法が採用されました。BBSで発見されたすべてのヒト骨格が注意深く収集され、ストロンチウムおよび炭素の同位体データが、古代ゲノムデータとともに得られました。その後、これらのデータは考古学的研究および骨格遺骸の外傷の観察とともに分析されました。この徹底した手法は、これらの人々の文化的および生物学的特徴に関する情報を提供し、漢帝国の新兵募集慣行および軍事防衛戦略への洞察をさらに提供します。本論文の結果は、古代社会の複雑な物語の解明における学際的手法の価値を強調します。
●資料と手法
BBSで発見された人類遺骸の同位体分析との対照のため、モンゴルからさらに2点の標本が収集され、それは、モンゴルのトゥブ(Töv)県のエルデネ(Erdene)郡に位置する、紀元前9~紀元前4世紀頃の石板墓(Slabgrave)文化のアグイ・ウール(Agui uul)遺跡で発見された1個体(AT22)と、モンゴルのアルハンガイ(Arkhangay)県のバトツェンゲル(Battsengel)郡に位置する匈奴文化期(紀元前2世紀~紀元後2世紀)のデュンデ・オロンツォ(Dunde-Orontso)の共同墓地で発見された1個体(AT23)です(図1A)。以下は本論文の図1です。
ストロンチウム同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)は、人類の移動の追跡に使用されます。本論文で分析されたヒトの同位体分析のうち、14個体はBBSに由来し、他の2個体は上述のAT22およびAT23です。人類遺骸のDNA解析では、性別とともにミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)とY染色体ハプログループ(YHg)も決定され、親族関係が推定され、124万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のうち、少なくとも8000ヶ所を網羅している個体で検証されました。集団遺伝学的分析では、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)とADMIXTURE分析が使用されました(図2)。ADMIXTURE分析では、K(系統構成要素数)=2~9までが検証され、K=7の結果が示されています。以下は本論文の図2です。
人口構造をより詳細に推測するためにf3およびf4統計も実行され、qpAdmでBBS個体群の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が推定されました。基準外群一式として、青銅器時代の前の17の人口集団と、深く孤立している現在の人口集団が用いられ、ムブティ人、シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’-Ishim)近郊で発見された続旧石器時代狩猟採集民(ウスチイシム)、続旧石器時代ヨーロッパの狩猟採集民(Hunter-Gatherer、略してHG)であるイタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡個体(ヴィッラブルーナ_HG)、レヴァントのナトゥーフィアン(Natufian、ナトゥーフ文化)個体、イランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代農耕民(ガンジュダレー_N)、アナトリア半島の新石器時代農耕民(アナトリア_N)、ANE(Ancient North Eurasian、古代北ユーラシア人)、EEHG(Eastern European Hunter-Gatherer、ヨーロッパ東部狩猟採集民)、カザフスタンのボタイ(Botai)文化集団(ボタイ)、旧石器時代アジア東部人(旧石器_アジア東部)、オンゲ人、日本列島の縄文時代集団(日本_縄文)、ネパール北部のチョクホパニ(Chokhopani)遺跡の個体(チョクホパニ)、山東(Shandong、略してSD)半島前期新石器時代個体(SD_EN)、福建省連江県亮島(Liangdao)遺跡の前期新石器時代個体(亮島2号)、モンゴル東部の新石器時代個体(モンゴル東部_N)、河南省滎陽市の汪溝(Wanggou)遺跡の中期新石器時代個体(WG_MN)が含まれます。
●考古学的および人類学的調査結果
長期にわたるBBSの広範かつ詳細な発掘は2009年に考古学調査団によって始まり、その後に集中的研究が行なわれました。考古学者は、第2中央発掘区域に開けているこの2ヶ所の巨大な版築の壁と壕が、BBSの軍事的性質を示唆している、と考えています。この結論は、数十個の青銅製の弩の錠、数百個の銅製および鉄製の弩と矢、鉄製甲冑の破片、青銅製の鍔、小刀、緩衝具、青銅製尾錠、帯の留め金、円筒形の柄の先端など(図1B・C)や、何千もの輪の刻まれた灰色の土器によって裏づけられ、これらの人工遺物は、BBSの人々の、漢王朝期にのみ使用された軍事的性格と、武器や道具や土器の使用を示唆しています。
第2発掘区域の南西約150mの、小川の曲がり角で、考古学者は粘土に直系約7m、深さ約1.3mの不規則な平面の穴を彫りました。ほぼ完全な遺体(骨格)のほとんどは、穴の中央に4~5層まで積み重なっており、相互に密に重なりあっていました。首を切断された遺体(S16)は積み重なった遺体と歯別に置かれており、青銅製の剣の帯の留め金や赤い鞘の断片が供えられていました。より小さな遺体の断片は、中央の積み重なった遺体の近くに置かれていました。特別な漢王朝様式の人工遺物も骨格の近くに置かれており、それは、鉄製矛(ji)、鉄製頬当て、鉄製留め金です(図1C)。
穴の総面積が38 m²である事実にも関わらず、ヒト遺骸は12 m²の面積に積み上げられていました。この事実と、穴の不規則な形状と内部における埋葬構造の欠如から、考古学者は、穴は埋葬儀式のための意図的なものではなく、粘土の採掘の結果だった、と結論づけました。全骨格は密に積み重なっており、堆積後の損傷はなく、穴の発掘の痕跡はなかったことから、骨格の積み重なりは、一部の骨格が二次的に積み重なりに入り込んだ可能性を除けば、同時に形成された、と示唆されます。それにも関わらず、BBSにおける乾燥した保存状態と寒冷なゴビ砂漠の気候と長期の発掘過程(凍結と融解の周期の繰り返しを含みます)によって、骨格の外傷と骨格に変化をもたらした可能性が高い化石生成論的変化を正確に区別して特徴づけることは困難になったので、鋭利な力による外傷と鈍い力による外傷の識別は複雑になりました。
墓の識別可能な骨格の数に基づくと、少なくとも17個体を確認できます。一部の骨格は墓穴に捨てられるか、埋葬されなかったかもしれないので、個体数の合計が過小評価されている可能性を、本論文は認識しています。人類学的分析から、比較的完全な骨格の特徴に基づいて、17個体は全員、年齢が20~50歳くらいの成人男性だった、と示唆されました。個々の外傷の特徴づけはおもに、本論文の著者の一人であるアレクセイ・コヴァレフ(Alexey Kovalev)氏によって提供された、直接的な発掘記録と写真と観察に基づいています。主要な発掘者であるコヴァレフ氏は、発掘と関連する損傷を否定しました。この研究では、各骨格の最も明らかな骨の異常に焦点が当てられました(図3)。以下は本論文の図3です。
手足を切断された遺骸が孤立した事例でないことは明らかで、ほとんどの個体で切断が観察されました。一部の傷は、鋭利な物や鈍い物によって起きた外傷に起因しました。埋葬穴に埋め戻された地元の粘土は、個体S5およびS17の膝をついた姿勢など、埋葬時の遺体の元々の姿勢の維持にしっかりと役立ちました(図3)。これらの骨格の特徴から、個人間の暴力がここで起きていた、と示唆され、それはBBSのより広範な歴史的状況と一致します。したがって、すべての上述の考古学的および人類学的調査結果から、BBSは漢と匈奴の戦争期における駐屯地要塞で、集団墓地に埋葬された人々はこの血生臭い戦争の犠牲者に違いない、と示唆されます。
●古代DNA解析
14点の標本の配列決定データの取得に成功しました。ゲノム規模分析のため、124万SNPパネルで網羅された少なくとも5万ヶ所の部位のある11個体が維持されました。とくにBBSと新石器時代以降の中国北部と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンの石人子溝(Shirenzigou)遺跡と匈奴の個体群の集団モデル化のため、刊行されている古代人のデータ一式も統合されました。漢_2000年前の1方向としてモデル化される後期匈奴の外れ値1個体(YUR001)が報告されましたが、この個体を報告した論文(Jeong et al., 2020)の著者は、δ¹³C値により示唆される貯蔵効果のため年代が古すぎるかもしれない、と述べているので、この標本は分析から除外されました。
遺伝的性別決定によると、BBSの全個体は男性と特定されました。標本AT19とDA45は同一で、親族関係分析に充分なSNPのある他の全個体は親族関係ではなかった、と分かりました。より高品質であるため、標本DA45が遺伝学的分析に用いられました。YHgの特定は、そのうち12個体で成功しました(表1)。BBSで最も一般的な系統だったYHg-O2a2b1a1a1(F8)に属しているのは4個体でした。残りの個体が属しているYHgは、C2b1a1a1a(M407)、N1a2a1a(F1998)、O1b1a2b(Z24433)、O2a2b1a2a(F114)、Q1a1a(M120)でした。刊行されている残りの標本2点が属していたYHgはそれぞれ、O2a1b1a1a1a1e2a2(MF2478)とO2a2b2b1b1(MF14317)でした。YHg-C2b1a1a1a(M407)がおもにシベリア南部とアジア東部の現代の人口集団で観察されるのに対して、他のYHgはおもに漢人のようなアジア東部人に分布しています。YHg-O2a2b1a1a1(F8)およびO2a2b1a2a(F114)は早くも新石器時代において中国北部の数ヶ所の遺跡で見つけることができますが、匈奴後期までモンゴル高原には存在しませんでした(Ning et al., 2020)。YHg-Q1a1a(M120)は、モンゴル高原の前期鉄器時代の石板墓文化標本において最も一般的な系統でした(Jeong et al., 2020、Wang et al., 2021)。しかし、詳細な系統樹との比較後に、石板墓文化の全個体が初期に分岐した系統に属しているのに対して、BBSの個体AT7およびAT15は中国北部の古代人標本およびアジア東部現代人とより密接に関連している系統に属している、と分かりました。
BBS集団における高い母方の遺伝的多様性(14個体で14系統のmtHgが特定されました)はミトコンドリアゲノム解析を通じて観察され、そのほとんど(表1)はアジア東部北方関連のmtHg(A、D4、D5、F2、G、64.7%)で、現在の漢人で保存されてきました。
現在の人口集団の異なる二つの一式を用いて、ユーラシアの他の刊行されている古代人標本とともに、これらBBS標本のゲノム規模データでPCAが実行されました(図2)。多様なユーラシアの集団と比較すると、BBS個体群はLNNC(中国北部の後期新石器時代)の古代人標本とクラスタ化し(まとまり)、現在の漢人やチベット人や韓国人や日本人の近くに位置しており、個体DA43およびDA45はユーラシア西部人の方向へとわずかに動いていました。BBSの全個体は、アジア北東部とモンゴル高原とユーラシア北部の古代および現在の個体とひじょうに離れていました。アジア東部の現在の44人口集団一式を用いると、BBSの全標本は他のアジア東部人と比較して漢人のより近くに位置する、と観察されました。ADMIXTURE分析も、BBSとLNNCとの間の祖先系統の類似を裏づけます(図2)。BBS個体群と他の人口集団との間で共有されるアレル(対立遺伝子)の水準を特定するために、外群f3統計を用いて、上述の分析と一致する結果が得られました。
f4統計(ムブティ人、BBS個体群;LNNC_i、LNNC_j)が実行され、有意な値の検定が見つからず、これは、どのBBS個体も一貫して、他のLNNC人口集団よりも一部のLNNC人口集団の方と多くの祖先系統を共有しているかもしれない、との状況が観察されないことを示唆しています。f4統計(ムブティ人、X;LNNC、BBS個体群)も実行され、アジア北東部とユーラシア北部と草原地帯と中国南部を含めて、さまざまな検証人口集団Xにおいて中国北部クレード(単系統群)外からの混合の兆候が調べられました(BBS個体群とXとの間でより多くの祖先系統が共有されると、値が正に増加します)。BBSの全個体のうち、DA43とDA45のみがスキタイ人の有意により高い類似性を示します。これは、PCA図におけるユーラシア西部人へのDA43とDA45の移動を説明できるかもしれません。
循環手法でqpAdmを使用し、BBSの各個体と匈奴人口集団が、1方向もしくはいくつかの供給源の混合としてモデル化されました。本論文の分析は、BBS標本の大半について、LNNCの1方向モデルを許容し、2以上の供給源を却下しました。しかし、DA43とDA45はLNNC とスキタイ_ハンガリーによって表される5~6%の西方草原地帯人口集団の2方向混合としてのみモデル化でき、このモデルは匈奴人口集団に適用すると却下されました。これらのモデルは、数個体の西方草原地帯からの低水準の遺伝子流動を除いて、BBS標本のほぼ均質な遺伝的背景を示唆しています。これらの観察は、PCAとADMIXTUREとf3およびf4統計の観察と一致します。しかし、DA43とDA45における西方草原地帯関連祖先系統が、X染色体と常染色体の汚染水準上昇に反映されている、他の草原地帯標本との交差汚染の結果である可能性を除外できません。
片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)およびゲノム規模分析に基づいて本論文では、BBS個体群は匈奴集団や他のシベリア南部古代人とは遺伝的に異なる、と結論づけられます。一方で、BBS個体群は現在の漢人および後期新石器時代以降の中国北部の古代人との強い類似性を示します。
●同位体分析
ヒトのエナメル質の同位体データの値は表2に掲載され、図4に示されています。BBSのヒトのエナメル質標本の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値の範囲は0.709979~0.711164で、平均は0.710450±0.000320です。モンゴル北部の古代人2個体の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比の範囲は0.709322~0.709748で、平均は0.709535±0.000213です。モンゴル北部のゴル・モド遺跡の2号共同墓地のヒト11個体の遺骸を含めて、最近刊行された匈奴の貴族およびその配下のストロンチウム同位体比は、⁸⁷Sr/⁸⁶Srの平均値が0.70882±0.00045と明らかにしています。これらの値は、モンゴルのハヌイ(Khanuy)渓谷の地元のウマの値と近く、その範囲は0.70822~0.70969です。これらの刊行されている⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値および本論文のヒト2個体の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr値は、モンゴル北部の生物学的に利用可能なストロンチウムの基準(地元の動物からのデータで確証されています)の範囲内です。BBSがモンゴル南部にあることを考えて、モンゴル南部の2点の刊行されている齧歯類の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比が⁸⁷Sr/⁸⁶Srデータセットに統合され、モンゴル南部における現地で生物学的に利用可能なストロンチウムの範囲が提供されます(図4)。以下は本論文の図4です。
BBS個体群のストロンチウム同位体比は、モンゴル北部の古代人および地元のウマ両方の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比より有意に高く(図4)、中国北部の⁸⁷Sr/⁸⁶Srの範囲へと収まります。さらに、エナメル質のδ¹³C炭酸塩値の範囲は、−10.6‰~−2.1‰(平均は−7.3±2.8‰)で、C₃植物およびC₄植物の食料から構成される混合食性(最も可能性が高いのは、コムギと雑穀)を示唆していますが、BBS個体群におけるδ¹³C炭酸塩値のより大きな差異も、BBS個体群はより広範な領域に起源があることを示唆しています。
●考察
紀元前千年紀以降の千年以上にわたって、ユーラシア東方草原地帯の遊牧民と黄河流域の定住農耕共同体は、文化的交流や経済的相互依存や資源の競合を通じて、相互作用しました。モンゴル高原で勃興した最初の遊牧民帝国である匈奴は、紀元前3世紀後半から紀元後2世紀にかけて漢帝国にとって大きな課題となりました。漢帝国の初期には、【漢帝国】の政府は外交的および防衛的戦術を採用し、2国交易の開始や万里の長城の建設や政略結婚の体系化など、匈奴の相互作用に対処しました【実質的には、この時期には漢は匈奴の属国だった、と言えるように思います】。それにも関わらず、漢帝国7代目の支配者である武帝の治世中に、漢帝国はより強引な戦略に転換しました。したがって、漢帝国は多くの軍事要塞を国境沿いに建設し、軍事力と組織を強化しました。漢と匈奴の戦争は歴史書に記されていますが、戦闘の詳細や兵士の背景など、多くの側面は不明なままです。BBSで発掘されたヒト骨格遺骸は、生物考古学的視点からの漢と匈奴の戦争に絶好の機会を提供します。
●BBSにおけるヒト遺骸の身元確認
BBSで発掘された資料のほとんどは、弩や矛やゴルジのような武器、および鉄製鎧の破片のような防具など、軍用装備と関連しています。BBS全体の建築の特徴(版築壁や塹壕など)と組み合わせると、BBSは漢帝国によって建設された国境の要塞として機能した、と結論づけることができます。自然人類学的とゲノム両方のデータから、BBSの集団墓地に埋葬された全個体の性別(ジェンダー)は男性で、これは、異常な埋葬様式および手足を切断された遺骸とともに、戦争の暴力を示すだけではなく、BBS個体群の身元が紛争の直接的参加者、つまり兵士だったことを示唆します(図1B)。BBSで埋められていたところを発見された、壊れた弩の金属分析から、これらの武器はおそらく、この要塞がある時点で武帝統治下にあったことを示唆する、BBSの他の場所で見つかった公印によって証明されるように、漢帝国の中央集権化されて標準化された大規模な供給体系に由来する、と示唆されることに要注意です。しかし、BBSは漢と匈奴の紛争の最前線に位置していたため、この地域の支配は何回も変わり、集団墓地の遺骸の出自と貴族の確認が困難になっています。墓に埋葬された非永住民の特定は、漢と匈奴の戦争の詳細の解明に重要で、当時の軍事戦略の研究に大きな学術的重要性を有しています。したがって、BBS個体群の背景と生活様式に関するより徹底的で正確な理解を得るためには、さまざまな分野の研究を統合することが不可欠です。
古代DNA技術の適用によって、民族的帰属や祖先の起源を判断するための、古代の個体群からの正確な遺伝学的情報への貴重な手段が得られました(Ning et al., 2020、Fu et al., 2016)。本論文では、古代BBS個体群の高品質なゲノムが得られ、ゲノム解析の結果から、BBSの全標本は男性で、密接な親族関係ではなかった、と示唆されます。mtDNA解析は、おもにアジア北東部に分布する母方系統の豊富な多様性を明らかにしています。特定されたYHgは、新石器時代に黄河流域に居住していた人口集団の遺伝的特徴と密接に類似しています。全ゲノム解析でも、BBS個体群は遺伝的に黄河流域の古代と現在両方の人口集団と密接に関連している、と明らかになっています。しかし、匈奴はおそらく漢人【という分類を本論文が対象とする紀元前千年紀に用いてよいのか、疑問は残りますが】の構成員を含む多民族連合だったので、遺伝学的証明のみを用いては、BBS個体群を漢軍に決定的に帰属させることはできません。したがって、より徹底的で正確な理解を得るためには、さまざまな分野の研究からの結果の統合が不可欠です。
ストロンチウム同位体分析から、BBS個体群はおそらくモンゴル高原で生まれず、むしろ中国北部および中原起源だった、と示唆されます。この結論は、モンゴルの南北で典型的な地元の⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比と比較して、BBS標本で観察されたより後半でより高い⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比によって裏づけられます。具体的には、モンゴル南部の語尾地域の生物学的に利用可能な⁸⁷Sr/⁸⁶Sr比(0.708170~0.708310)は、モンゴル北部(0.709109~0.709961)よりも相対的に低くなります。BBS個体群のストロンチウム値の範囲は0.709979~0.711164で、中国北部の平均値(0.71106±0.00106)とほぼ一致しており、BBS個体群の中原を含めて中国北部起源であることを示唆しています。これは、食性の安定同位体分析によってさらに裏づけられており、BBS個体群はC₃植物およびC₄植物の混合を消費しており、最も可能性が高いのはコムギと雑穀である、と示されており、中国北部の農耕慣行と一致します。BBSのヒトの歯のエナメル質とコラーゲンから得られたδ¹³C値も、この混合食性を反映しています(表2)。さらに、BBS個体群のコラーゲンの炭素とコラーゲンの炭素および窒素同位体データは、おもに肉と乳製品を消費していたさらに北方の草原地帯の遊牧民とは顕著に異なっており、BBS個体群が非遊牧民起源であることをさらに示唆しています。
まとめると、遺伝的祖先系統とストロンチウム同位体と食性の手がかりはすべて、BBSで発見された個体群が漢帝国に仕えた中国北部出身の兵士で、匈奴との戦いで死亡したのであり、匈奴の兵士ではなかったことを裏づけます。
●学際的手法を通じての漢と匈奴の戦争の調査
歴史的記録によると、漢帝国の軍隊は一般的に徴兵を通じて募集され、全成人男性は少なくとも2年間の兵役が要求されました。西漢(前漢)王朝期の中国の歴史書である『漢書(Hanshu)』【編纂は東漢(後漢)期】の多くの記述では、漢の兵士が西河(Xihe)郡から北西へと向かい、匈奴と対峙した、と記録されています。これは、「西(河)郡(Xi[he] Xuan)」の単語があるBBSで発見された公的な粘土印の発見によって裏づけられ、西河郡の玄雷居(Xuanlei)要塞の駅の位置を示唆しています。結果として本論文では、BBSに埋葬された漢軍の一部は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部に位置する西河郡から募集され、派遣されたかもしれない、と仮定されます。
この研究では、BBSの14個体のうち12点の標本のストロンチウム同位体比(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)はひじょうに類似しており、BBS個体群が同様の地域に居住していたことを示唆しています。中国の生物学的に利用可能なストロンチウム同位体地図によると、BBSの12個体の起源がオルドス高原もしくは中国北部である一方で、他の2個体は中原(AT18)と中国北東部(AT24)から徴集された、と示唆されました。これらの発見は、漢帝国期における軍事組織の統制も論証しているかもしれません。漢帝国は匈奴に対する防衛のために、河套(Hetao)地域(ホータオ平原)の朔方(Shuofang)郡や五原(Wuyuan)郡や西河郡のような北方草原地帯に近い地域に、国境地区を設置しました。漢帝国は、インシャン(Yinshan)山脈沿いの全線に、さらに光禄塞(Guanglu sai)など北方の外側の要塞線を強化しました。これらの地域の人口の大半は、秦もしくは西漢(前漢)王朝のある時点で中原から移住させられた農耕民でした。戦時には、中央政府は虎符(Tiger Tally、Hu-fu)やその他の権威の象徴を要塞に届ける指導者を一時的に任命し、さまざまな地域から兵士を募集しました。この制度は軍隊の戦闘効率の維持と、中央政府の権威に挑戦するかもしれない地元の軍事指導者の台頭の防止を意図していました。
さらに、この研究の調査結果を用いて、漢帝国の国境防衛戦略を概略でき、これは木簡で見られる情報によって裏づけられます。この情報は、漢帝国が万里の長城に囲まれた国境地域に永住者のいる軍事農耕集落を築き、攻撃の戦略的拠点として遠くの周辺地域に軍事要塞を建設した、と示しています。本論文では、武器のような考古学的証拠と穴の底で発見されたF32の頭蓋の放射性炭素(¹⁴C)年代測定によって裏づけられるように、BBSは集落ではなく、匈奴に対抗するために漢帝国によって築かれた軍事要塞だった、と示唆されます。また、BBSに埋葬された兵士は漢帝国の北方国境地域の出身で、長期の軍事的中流ではなく、一時的な任務のために派遣されました。これは、敵の土地の占領ではなく、敵を国境外に押し出すという、漢帝国の基本的な防衛戦術を論証します。
本論文では、遺伝学と地理学と人類学と考古学を含む学際的手法が、特定の個体を特定し、古代社会についての新たな洞察を解明するのに役立つ、と示されます。ただ、考古学で用いられるどの科学的手法も、とくに一つの手法もしくは一つの情報源に依拠する場合には、現場の考古学的情報から切り離すべきではないことに要注意です。
参考文献:
Damgaard PB. et al.(2018): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2
関連記事
Fu Q. et al.(2016): The genetic history of Ice Age Europe. Nature, 534, 7606, 200–205.
https://doi.org/10.1038/nature17993
関連記事
Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015
関連記事
Ma P. et al.(2025): Bioarchaeological perspectives on the ancient Han-Xiongnu war: Insights from the Iron Age site of Bayanbulag. Journal of Archaeological Science, 177, 106184.
https://doi.org/10.1016/j.jas.2025.106184
Miller ARV, and Makarewicz CA.(2019): Intensification in pastoralist cereal use coincides with the expansion of trans-regional networks in the Eurasian Steppe. Scientific Reports, 9, 8363.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35758-w
関連記事
Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事
Novak M, Olalde I, Ringbauer H, Rohland N, Ahern J, Balen J, et al. (2021) Genome-wide analysis of nearly all the victims of a 6200 year old massacre. PLoS ONE 16(3): e0247332.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0247332
関連記事
Reitsema LJ. et al.(2022): The diverse genetic origins of a Classical period Greek army. PNAS, 119, 41, e2205272119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2205272119
関連記事
Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事
この記事へのコメント
この図を素直に解釈すると縄文は南方漢族を主体としてシベリア20%と西ユーラシア系が10%で構成できる?
西ユーラシア10%?南方漢族が最大となるのもどうなんでしょうか?
縄文ゲノムと言えば中国南部とも西ユーラシアともかなり遠かったのでは
僅かに入っている西ユーラシア成分もアナトリアや草原地帯ではなくトルクメニスタンで最大のシベリア南部系?
PCAでも縄文と長墓後期貝塚サンプルが一まとまりで西ユーラシアに若干寄っている?
総合的には現代の東南アジア人に近い?
色々と微妙ですが、縄文を対象にした研究では無いためこういう図になっているのでしょうか
査読前論文では、「縄文人」系統とアジア東部現代人の主要な祖先集団の系統とは27000~19000年前頃の単純な分岐と推定されていますが、
https://doi.org/10.1101/2024.05.03.591810
おそらく「縄文人」の形成は他の論文で推測されているようにもっと複雑な過程で、
https://doi.org/10.3389/fevo.2022.853391
https://www.frontiersin.org/files/Articles/853391/fevo-10-853391-HTML/image_m/fevo-10-853391-g004.jpg
この推定系統関係だと、本論文のADMIXTURE分析の結果と整合するところもあるかもしれません。
また、以前の研究で推測された、「縄文人」と古代北ユーラシア人系統に位置づけられるシベリアの3万年前頃の個体との遺伝的つながりも、本論文のADMIXTURE分析の結果と整合するところがあるかもしれません。
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
とはいえ、上述の推定系統関係でも、まだ実際の人口史をかなり単純化しているのではないか、と思いますが。
濃緑が多いトルクメニスタンやパキスタンもそうですが、確かANEゲノムは西ユーラシアと東ユーラシアの交雑個体(西ユーラシアと共通が1/3程度)でしたね。
縄文祖先に対しANEから僅かな流動があった事は私も知っていますが、それはANEに含まれる西ユーラシア祖先側に由来するのか東ユーラシア祖先側に由来するのかが現段階では分かりませんね。
この東西交雑個体に類似というのが微妙でとても厄介ですね。
今回の論文の縄文3サンプルは船泊・三貫地・伊川津のいつもの面子でしょうか?
ANEからの流動は船泊だけと篠田謙一が適当に言っていた記憶がありますが、PCAで一まとまりの長墓サンプルも含めると縄文祖先全体に共通みたいですね。
おそらく列島に到達する前に大陸側で流動があったと。
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
シベリアの3万年前頃の個体との「縄文人」の遺伝的つながりについては、情報を見落としているかもしれませんが、「縄文人」の間で有意な時空間的差異は報告されていなかった、と記憶しています。
整合すると、今回北海道縄文・千葉縄文・宮古島縄文には少なくとも東西ユーラシア交雑集団からの流動が確認され、先行研究でもANEからの流動に時空間的な差異は無いと
やはり縄文祖先全体に共通のものでしょうね
南方漢族とシベリアに類似している成分の解釈も難しいですね
アンダマン関連祖先が消えている?研究によってばらつきがありますね
ただ私も現代人と比較した今回のAdmixture図には先行研究と一定の整合性があると思います
ただ、そうした集団がユーラシア南方に存在していた場合は、現在では海面下の地域に拡散していた可能性も高く、古代ゲノム研究の解明には厳しいかもしれませんが、白保竿根田原洞窟で発見された27000万年前頃の男性遺骸の核ゲノム解析に成功したそうなので、たいへん注目しています。