インド・ヨーロッパ語族話者の遺伝的歴史

 インド・ヨーロッパ語族話者の遺伝的歴史に関する研究(Lazaridis et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。5000年前頃以降、ヤムナ(Yamna)文化とも呼ばれるヤムナヤ(Yamnaya)文化と呼ばれる考古学的複合体の担い手は、西方ではハンガリーから東方ではカザフスタンまで、ヨーロッパも含めてユーラシアに広く拡散し、文化と担い手の遺伝的構成を大きく変え、インド・ヨーロッパ語族言語をヨーロッパに広めた、と考えられています[2、12]。しかし、ヤムナヤ文化集団の遺伝的な起源については、詳しく分かっていません。

 本論文は、ポントス・カスピ海草原地帯(黒海とカスピ海に挟まれた、ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)およびその周辺地域から得られた古代人のゲノムデータを分析し、地理と考古学と年代の情報を組み合わせることで、ヤムナヤ文化集団の遺伝的起源を推測しています。本論文は、ヤムナヤ文化集団の形成において、三つの遺伝的勾配(cline、連続体)を示しています。それは、CLV(Caucasus–Lower Volga、コーカサス~ヴォルガ川下流)勾配、ヴォルガ川流域の勾配(ヴォルガ勾配)、ドニプロ(ドニエプル)川流域の勾配(ドニプロ勾配)です。

 CLV勾配はコーカサス狩猟採集民(Caucasus hunter-gatherer、略してCHG)[1]を主要な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)としており、ヤムナヤ文化集団の祖先系統の4/5、ヒッタイト語を話していた青銅器時代アナトリア半島集団の祖先系統の1/10に寄与し、南端はコーカサス新石器時代集団、北端はヴォルガ川下流沿いのベレジェニウカ(Berezhnovka)遺跡個体群にまで及んでいます。双方向の遺伝子流動によって、コーカサス北部のマイコープ(Maykop、Maikop)文化複文化集団や草原地帯のレモントノエ(Remontnoye)村近郊の遺跡の個体群など、遺伝的に中間的な人口集団が形成されました。

 ヴォルガ勾配はCLV集団が東方狩猟採集民(Eastern hunter-gatherer、略してEHG)[2]祖先系統のヴォルガ川上流の人口集団と交雑したさいに形成され、クヴァリンスク(Khvalynsk)文化集団などを含めて、きわめて多様な集団が生じました。ドニプロ勾配はCLV集団が西方へ移動したさいに形成され、ドニプロ川およびドン川沿いのウクライナの新石器時代狩猟採集民祖先系統を有する人々と交雑し、スレドニ・ストグ考古学複合体(Serednii Stih archaeological complex、略してSS)集団が確立し、その集団からヤムナヤ文化集団の祖先が紀元前4000年頃に形成され、紀元前3750~紀元前3350年頃に急速に拡大しました。

 こうした知見から本論文では、アナトリア語派話者およびインド・ヨーロッパ語族話者の両方の祖語だった「原インド・アナトリア語」最終的な統合は、紀元前4400年頃から紀元前4000年頃の間のいずれかの時期にCLV集団で起きた、と提案されています。ただ、本論文の見解はあくまでも現時点での古代ゲノム研究に基づいており、今後の研究の進展によってさらに詳しいインド・ヨーロッパ語族の歴史が解明される可能性は低くないでしょう。また、ヨーロッパの非インド・ヨーロッパ語族言語で、現在も使用されているバスク語の話者(Flores-Bello et al., 2021)と、今では死語なったエトルリア語の話者(Posth et al., 2021)が、ともにインド・ヨーロッパ語族言語を話す現代の近隣のヨーロッパ人と遺伝的に大きく変わらず、遺伝と言語も含めて文化とを安易に相関させられないことも、インド・ヨーロッパ語族の拡大に関する議論で見落としてはならないでしょう。北ポントス地域のとくに鉄器時代以降の人口史については、最近刊行されたばかりの研究(Saag et al., 2025)がたいへん有益だと思います。時代区分の略称は、です。


●要約

 ヤムナヤ考古学的複合体は紀元前3300年頃に黒海およびカスピ海の北側の草原地帯に出現し、紀元前3000年頃までに、西方ではハンガリーから東方ではカザフスタンまで、最大範囲に達しました。ヤムナヤ文化集団の起源を先行する金石併用時代の人々見いだすため、435個体から古代DNAが集められ、三つの遺伝的勾配が論証されました。コーカサス~ヴォルガ川下流(CLV)勾配は、コーカサス狩猟採集民[1]を主要な祖先系統としており、南端はコーカサス新石器時代集団、北端はヴォルガ川下流沿いのベレジェニウカ遺跡個体群にまで及んでいました。双方向の遺伝子流動によって、コーカサス北部のマイコープ文化集団や草原地帯のレモントノエ村の遺跡の個体群など、中間的な人口集団が形成されました。

 ヴォルガ勾配はCLV集団が東方狩猟採集民[2]祖先系統のヴォルガ川上流の人口集団と交雑したさいに形成され、クヴァリンスク文化集団などを含めて、きわめて多様な集団が生じました。ドニプロ勾配はCLV集団が西方へ移動したさいに形成され、ドニプロ川およびドン川沿いのウクライナの新石器時代狩猟採集民祖先系統[3]を有する人々と交雑し、スレドニ・ストグ考古学的複合体集団が確立し、その集団からヤムナヤ文化集団の祖先が紀元前4000年頃に形成され、紀元前3750~紀元前3350年頃に急速に拡大しました。

 CLV集団はヤムナヤ文化集団の祖先系統の4/5に寄与しており、おそらくは東方からアナトリア半島に侵出し、ヒッタイト語を話していた青銅器時代アナトリア半島人の祖先系統の少なくとも1/10に寄与しました。したがって本論文では、アナトリア語派話者およびインド・ヨーロッパ語族話者の両方の祖語だった「原インド・アナトリア語」の最終的な統合は、紀元前4400年頃から紀元前4000年頃の間のいずれかの時期にCLV集団で起きた、と提案されます。


●研究史

 紀元前3300~紀元前1500年頃の間に、ヤムナヤ考古学的複合体の人々とその子孫は、草原地帯からインド・ヨーロッパ語族言語を広め[2、7~12]、ヨーロッパとアジア中央部および南部とシベリアとコーカサスを変容させました。ヤムナヤ文化集団およびその金石併用時代の前身の疎らな標本抽出によって、この青銅器時代文化の起源の理解に問題が生じています。ヤムナヤ文化集団には二つの祖先系統があった、と広く認められており、それは、北方ではヨーロッパ極東のEHG、南方ではジョージア(グルジア)[1]のCHGとザグロス山脈[13]およびコーカサス南部[10、14、15]の新石器時代集団です。これら2集団はアジア西部およびヨーロッパ東部で相互作用しましたが[13]、ヤムナヤ文化集団の金石併用時代の祖先がどこでどのように出現したのか、明らかではありませんでした。可能性がある祖先には、EHG、西方狩猟採集民(western hunter-gatherer、略してWHG)と交雑したEHGが含まれ、たとえばドニプロ川流域[3]については、UNHG(Neolithic hunter-gatherer populations of the Dnipro Valley、ドニプロ川流域の新石器時代狩猟採集民人口集団、ウクライナ_N)が形成されました。しかしヤムナヤ文化集団は、アルメニアのアナシェン(Aknashen)文化およびマシス・ブルール(Masis Blur)遺跡で標本抽出された個体群[10]など、コーカサス新石器時代人口集団によって媒介された、アナトリア半島新石器時代祖先系統も継承しており[9]、さらにヤムナヤ文化集団の出現前にヨーロッパに到来したシベリア祖先系統さえ継承したかもしれません[9]。

 この研究は、新たに報告される367個体(紀元前6400~紀元前2000年頃)の遺伝学的分析を提示し、68個体についてデータ品質を向上させました(合計435個体)。本論文は、これらのうちそれぞれ291個体と63個体の正式な報告で、その80%以上はロシアで発見され、残りの個体はおもにドナウ川流域の西方拡大に由来します。803点のDNAライブラリの詳細(195点は検査で不合格でした)は補足情報項目1および補足表2に、198点の新たな放射性炭素年代は補足表3に掲載されています。北ポントス地域(North Pontic Region、略してNPR、おもに現在のウクライナとモルドヴァ)に関する並行研究[17]は、残りの個体の正式な報告です。地理および時間的情報と考古学的背景と遺伝的クラスタ化(まとめること)に基づいて、個体群は分類表示されました。組み合わされたデータセットは、刊行されている82個体に、ヨーロッパ草原地帯およびその周囲の金石併用時代79個体を追加しています。このデータセットは、以前に刊行されている75個体に、ヤムナヤ文化および関連するアファナシェヴォ(Afanasievo)文化の211個体も追加しました。


●青銅器時代の前の三つの勾配

 ポントス・カスピ海草原地帯および近隣地域の古代の個体群の主成分分析(principal component analysis、略してPCA)から、金石併用時代集団および青銅器時代のヤムナヤ文化集団は重複しない勾配上に位置する、と明らかになります(図1)。右側から左側にかけての主成分1(PC1)は、アジア西部内陸部(コーカサスおよびイラン)人口集団と地中海東部(アナトリア半島~ヨーロッパ)人口集団との区別と相関していますが[14]、この解釈が明確ではないのは、この軸(PC1軸)がシベリア狩猟採集民とヨーロッパ狩猟採集民の区別とも相関しているからです。PC2は、ユーラシア北部人(上部、ヨーロッパとシベリアが含まれます)とアジア西部人(底部、アナトリア半島とメソポタミアとコーカサスとイランが含まれます)を区別します。金石併用時代と青銅器時代の人々は中央を示しており、混合によって形成されたことを示唆しています。以下は本論文の図1です。
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 これらのパターンを説明できる、代替的な混合状況を区別するために、qpWave/qpAdm[2、18]に競合枠組みが実装されました。この着想は、モデルX(混合供給源一式)が標的人口集団Tを説明するのは次の場合です。つまり、遠位外群人口集団および代替的なモデル供給源の両方とTの共有されている遺伝的浮動を最古地区する場合で、また、Xの供給源と共有された浮動をモデルできない場合には、これらのモデルは実行不可能です。したがって、モデルはまず遠位外群に対して選別され、この段階を通過すると、有望なモデル一式を生成するめたに、すべてに対して比較されます。

 PCAの3勾配(ヴォルガ、ドニプロ、CLVと表記)は、クリフャンスキー(Krivyansky)遺跡のドン川下流と、ベレジェニウカ2(Berezhnovka-2)遺跡のヴォルガ川下流、プログレス2(Progress-2)遺跡とヴォニュチュカ1(Vonyuchka-1)遺跡とシャラハルサン(Sharakhalsun)遺跡のコーカサス北部[9]に囲まれた地域から分岐しています。この3勾配はそこから、それは、ヨーロッパ東部のヴォルガ川とドン川とドニプロ川の金石併用時代の前の人々を表しているEHGおよびUNHG、コーカサスおよびアジア西部の金石併用時代の前の人々を表しているCHGとコーカサス新石器時代集団へと伸びています。


●ヴォルガ勾配

 カスピ海へと注ぐ水路に暮らしていた金石併用時代個体群によって形成される明確な上流と下流の勾配は、継続的なヒトの接触地帯を示しています。PCAの位置はヴォルガ川沿いの位置とよく相関しており、ヴォロソヴォ(Volosovo)文化に分類されるサハティシュ(Sakhtysh)遺跡(ヴォルガ川上流)およびムルジハ(Murzikha)遺跡(カマ川とヴォルガ川の合流点)は、EHGとUNHGとの間で上流ヨーロッパ狩猟採集民勾配を構成します。「曲がり角」はこの2勾配を分離し、ヴォルガ川中流集団やロシア北西部のカレリアの集団を含めてEHG集団によって占められており[2、20]、これはEHGがそれ以前に確立した人口集団だったことを示唆する、ひじょうに広範な地理的分布です。下流および「曲がり角」を過ぎて、ヴォルガ勾配が見られ、狩猟採集民との類似性はヴォルガ川中流では、ラバズィ(Labazy)遺跡やレビャジンカ(Lebyazhinka)遺跡やエカテリーノヴカ(Ekaterinovka)遺跡やシュエッジェエ(Syezzheye)遺跡、その後でクヴァリンスク遺跡(紀元前4500~紀元前4350年頃)やフロプコヴ・ブゴール(Khlopkov Bugor)遺跡の個体群で減少し、それはベレジェニウカ2(Berezhnovka-2)遺跡のあるヴォルガ川下流に達する(紀元前4450~紀元前3960年頃)の前のことです(図1a・b)。この現象は、ジョージア(CHGの標本抽出場所[1])とヴォルガ川下流との間のどこかに位置し、EHG集団と相互作用した、標本抽出されていないCHG関連供給源によって引き起こされている、コーカサス集団との類似性の増加によって相殺されています。そうした相互作用の考古学的相関は、紀元前6200年頃のヴォルガ河口周辺のセログラゾフォ(Seroglazovo)遺跡の採食民文化の拡大で始まり、この文化は土器と石器においてコーカサスの文化と類似しており、紀元前4800年頃のナリチク(Nalchik)遺跡の近くのコーカサス北部新石器時代共同墓地まで続きます。

 ヴォルガ勾配の端では、ベレジェニウカ2(Berezhnovka-2)遺跡の4個体は、紀元前4240~紀元前4047年頃のコーカサス北部のプログレス2(Progress-2)遺跡の個体PG2004とともに、BP集団と分類表示されるベレジェニウカ2・プログレス2クラスタ(まとまり)に分類できます。第2のプログレス2遺跡個体であるPG2001(紀元前4994~紀元前4802年頃)は、ヴォニュチュカ1(Vonyuchka-1)遺跡の別のコーカサス北部の1個体(VJ1001、紀元前4337~紀元前4177年頃)[9]とともに、プログレス2遺跡およびヴォニュチュカ1クラスタ(PV集団)に分類されます。BP集団とPV集団は異なっているものの、ほとんど分化しておらず、コーカサス北部山麓とヴォルガ川下流との間の移動を示唆しています。これら2ヶ所の場所は膝を立てて仰向けで、独特な埋葬姿勢を共有しており、これは後にヤムナヤ文化では典型的で、エカテリーノヴカ(Ekaterinovka)遺跡の4個体において最古級(紀元前4800~紀元前4500年頃)となり、個体が脚をまっすぐ伸ばして仰向けで埋葬されていた墓の被葬者、およびレビャジンカ5(Lebyazhinka-5)遺跡の1個体(紀元前4838~紀元前4612年頃)とも対照的です。BP集団はPV集団(図1b)と比較して、上部旧石器時代シベリアのアフォントヴァ・ゴラ3(Afontova Gora-3)遺跡個体[23]やシベリア西部狩猟採集民[8]やアジア中央部のトゥトカウル(Tutkaul、略してTTK)遺跡の7500年前頃となる新石器時代の1個体の方へと動いています。

 自然な解釈は、上流のEHG関連および下流のベレジェニウカ関連の祖先がヴォルガ川沿いにともに到来し、遺伝的勾配を形成した、というものです。上流祖先系統は下流祖先系統とは異なり、長くヨーロッパ東部の先行者を確立しており、その理由は、第一に、ヴォルガ川下流の配列決定されたそれ以前の個体がおらず、第二に、ベレジェニウカ集団は先行集団と異なっており、第三に、BP集団は同時代もしくはそれ以前の集団とはクレード(単系統群)としてモデル化できないからです。BP集団の起源が何であれ、BP集団を、ヴォルガ地域の充分に外側に位置し、したがって河川交配網の一部だった可能性は低い、カレリアのEHG供給源[2、20]とともに、ヴォルガ勾配の1近位供給源として使用できます。ヴォルガ勾配の7人口集団はこのモデルに適合し、一貫して適合度が低いのは、ヴォルガ川上流やムルジハ(Murzikha)遺跡やマシモフカ(Maximovka)遺跡やKlo個体群(Khvalynsk low、ベレジェニウカ遺跡個体群との近縁性の低いクヴァリンスク遺跡個体群)で、クヴァリンスク文化個体群は遠い血縁関係があります。これらのうち3集団(クロ遺跡個体以外)は、上流EHG勾配に並んでいます(図1c)。

 エカテリーノヴカ(Ekaterinovka)遺跡に埋葬された人々(海洋貯蔵効果の影響を受けていない3点の草食動物の骨の放射性炭素年代に基づくと、紀元前5050~紀元前4450年頃)は、すでにヴォルガ川下流のベレジェニウカ遺跡関連の人々と混合していました(24.3±1.3%)。これは、レビャジンカ遺跡のそれ以前の狩猟採集民とは対照的です(混合の割合は7.9±3.6%)。エカテリーノヴカ遺跡から120km離れている、1世紀もしくは2世紀後のクヴァリンスク遺跡(2点の草食動物の骨に基づくと、紀元前4500~紀元前4350年頃)では、混合の勾配があり、便宜上、クヴァリンスク高(Khvalynsk high、略してKhi、76.8±1.9%のBP集団)、クヴァリンスク中(Khvalynsk medium、略してKmed、57.3±1.7%のBP集団)、クヴァリンスク低(Khvalynsk low、略してKlo、41.2±1.6%のBP集団)に区分されます。ヴォルガ勾配個体群は約14~89%のベレジェニウカ祖先系統を有しており(図1c)、古い在来のEHG集団にもヴォルガ川下流の新参者も優性ではありません。ヴォルガ川下流(BP集団)とエカテリーノヴカ遺跡集団との間の遺伝的分化はFₛₜ(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)=0.030±0.001と強く、おそらくは異なる言語文化共同体を反映しています。

 ハンガリーのチョングラード・ケッテェシャロム(Csongrád-Kettőshalom)遺跡の遺伝的にヴォルガ勾配の1個体(紀元前4331~紀元前4073年頃)は、87.9±3.5%のBP集団祖先系統を有しており、Khi個体群と類似しています。この個体は、ウクライナのマヤキ(Mayaky)遺跡の共同墓地[17、25]およびモルドヴァのジュジュレシュティ(Giurgiuleşti)遺跡の共同墓地を含んでいる、ヨーロッパ南東部の紀元前五千年紀後半の草原地帯的な墓から発見され、ジュジュレシュティ遺跡の1個体(I20072、紀元前4330~紀元前4058年頃)はBP集団と単系統群です。考古学では、クヴァリンスク文化のヴォルガ勾配遺跡でバルカン半島の銅が記録されており、チョングラードおよびジュジュレシュティ遺跡個体群はこの文化交流の一部で、間に位置するドニプロ川流域とドン川流域を飛び越え、両流域から祖先系統を継承しなかった可能性が高そうです。


●ドニプロ勾配

 ドニプロ勾配は、ドニプロ川の急流沿いに暮らしていた新石器時代個体群(UNHG、紀元前6242~紀元前4542年)と、13個体によって表されるスレドニ・ストグ考古学複合体(SS)人口集団(紀元前4996~紀元前337年頃、淡水貯蔵効果で補正されていません)によって形成されています。この勾配はほとんどの後期ヤムナヤ文化個体も含んでおり、これは高品質で遺伝的に均質な部分集合(104個体)で、中核ヤムナヤと命名されます。中核ヤムナヤの近く(図1b)には一部の金石併用時代個体が位置し、クドン川下流のリフャンスキー(Krivyansky)遺跡のSSの1個体(紀元前4359~紀元前4251年頃)と、コーカサス北部のPV集団です。それにも関わらず、中核ヤムナヤ集団は、そうした一部の金石併用時代個体もしくは他の単一の供給源に由来するとは、モデル化できません。ドニプロ勾配集団もヴォルガ勾配個体群とは異なっており、それは、河川間の組み合わせが単系統群を形成しないからです。ドン川下流の地理的に局在しているヤムナヤ文化人口集団は、多く(17個体)がクリフャンスキー遺跡個体に由来し、クリフャンスキー遺跡の金石併用時代の1個体とは異なり(図1b)、そうした個体と単系統群ではありません。したがって、ヤムナヤ文化集団は、コーカサス北部(PV集団)かドン川下流(クリフャンスキー遺跡個体)かヴォルガ川(BP集団およびヴォルガ勾配の残り)たどることができません。ドニプロ勾配の位置は、SS文化集団の子孫のとしての混合の過程による形成であることを示唆します。

 SS集団の異質性は中核ヤムナヤ集団の均質性とは対照的で(図1b)、これは、中核ヤムナヤ集団がハンガリーからシベリア南部まで5000kmにわたる標本抽出だったことを考えると、注目に値します。ヤムナヤ文化集団はこの広大な領域に広がり、少なくとも、当初、クルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)に埋葬された上流階層の個体群については、在来個体群とはほぼ混合しませんでした。SS文化の個体群は、ドニプロ勾配に沿って並んでいます。ウィノゲㇻデノイェ(Vinogradnoe)遺跡の1個体はオレクサンドリーヤ(Oleksandria)遺跡の2個体およびイグレン(Igren)遺跡の1個体とまとまり、最大の中核ヤムナヤ集団との類似性を有するものの、中核ヤムナヤ集団と単系統群ではないSShiクラスタ(まとまり)に位置します。コパチフ(Kopachiv)遺跡の女性1個体(I7585)は、オレクサンドリーヤ(Oleksandria)遺跡の3個体およびデレイフカ(Deriivka)遺跡の3個体も含んでいる、この勾配にさらに沿ってSSmedクラスタの一部です。SShiとSSmedは大半が連続的ですが、モリウヒフ・ブゴル(Moliukhiv Bugor)遺跡遺跡の個体I1424(SSlo)はそれらの個体とは離れており、UNHGの近くに位置します。SS集団内の差異はこの勾配に沿った間隙にいるか、標本抽出された差異を超えている、標本抽出されていない個体群を含んでいる可能性が高そうです。ドン川のヤムナヤ文化集団はほぼSS集団と重なっており、ドン川下流のコンスタンチノフカ(Konstantinovka)文化の層序化された遺跡では、SS集落に居住し続けており、これはヴォルガ川とウラル山脈の草原地帯では観察されていない連続性です。

 すべてのドニプロ勾配集団は、一方の極にUNHGかドン川中流の紀元前5610~紀元前5390年頃となるゴルバヤ・クリニッツァ(Golubaya Krinitsa、略してGK)遺跡の個体I12490により表されるGK2、もう一方の極に中核ヤムナヤ集団で適切にモデル化できます。しかし、この勾配の狩猟採集民の端は明確にどちらか一方ではなく、SSmed上流の供給源はUNHGもしくはGK2と同様に適合しますが、中核ヤムナヤの上流供給源はUNHGのみとして適合し、GK2とは適合せず、SShi上流の供給源はGK2としてのみ適合し、UNHGとしては適合しません。したがって、UNHG・EHG勾配全体に沿った特定地点から個体群がモデル化され、UNHGもしくはGK2のどちらかを供給源として仮定しないと、UNHG祖先系統が優勢ではあるものの、より多くのEHG祖先系統も存在する(GK2と同様に)、と分かりました。したがって、狩猟採集民供給源はドニプロ・ドン川(UNHG・GK2)に由来し、ヴォルガ川(EHG)には由来しません。GK2はドニプロ川のヴァシリフカ(Vasylivka)遺跡の中石器時代狩猟採集民とクラスタ化し(まとまり)、そこでのそれ以前の人口集団の標本抽出されていない生存者の代理となるかもしれません。先行人口集団の供給源としての中核ヤムナヤ集団は歴史的ではなく、標本抽出されていない金石併用時代の供給源を表さねばなりません。

 ドニプロ川とヴォルガ川との間に位置するドン川の人類集団は、ドン川中流のゴルバヤ・クリニッツァ遺跡個体群とドン川下流のクリフャンスキー遺跡個体群によって表されます。ゴルバヤ・クリニッツァ遺跡は考古学的に対照的な墓を含んでおり、一方はドニプロ川新石器時代の墓と、もう一方はSS文化の墓と類似しています。GK2は66.6±4.7%のUNHGと33.4±4.7%のEHGとしてモデル化されます。最古級の供給源を用いると(カレリアのEHGとUNHGとCHG)、クリフャンスキー遺跡の金石併用時代個体群とゴルバヤ・クリニッツァ遺跡の個体群は様割合のCHG関連祖先系統を有しており(図2a)、クリフャンスキー遺跡個体群で最大となり(58.9±2.4%)、GK1として分類されるゴルバヤ・クリニッツァ遺跡の3個体(25.3±2.1%)では少なく(図1)、GK2はCHG関連祖先系統を全く若しくはほとんど有していません(4.0±2.2%)。したがって、ドン川集団の混合史はその中間的地理と類似しており、南方のCHG関連祖先系統を含んでいました(図2a)。これはすでにGK1(個体I12491、紀元前5557~紀元前5381年頃)に存在しており、初期の存在を示唆していますが、同様の年代のGK2におけるCHG関連祖先系統の欠如は、この祖先系統が一般的に存在したわけではなかったことを示しています。GK1とGK2の年代は、ゴルバヤ・クリニッツァ遺跡が考古学的に、ずっと後の金石併用時代のSS文化と文化的に接触していた、と解釈されたので、過大評価されているかもしれません。さらに、イグレン遺跡のSS文化の外れ値1個体(I27930、紀元前4337~紀元前4063年頃)はGK2と単系統群で、これはSS文化の時間枠におけるドン川からドニプロ川への長距離移住の証拠かもしれません。ゴルバヤ・クリニッツァ遺跡における放射性炭素(¹⁴C)年代は、淡水魚の消費のため過大評価されているかもしれず、それはこの地域の年代を千年ほどさかのぼらせます。以下は本論文の図2です。
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 ヤムナヤ文化集団は約35%のCHG関連祖先系統と約65%のゴルバヤ・クリニッツァ祖先系統を有しており、後者はすでに20~30%のCHG関連祖先系統を有していて、主要なヤムナヤ文化集団の供給源はドン川地域の狩猟採集民だったかもしれない、と示唆されました[11]。このモデルに反して、ヤムナヤ文化集団はCHG関連供給源とGK1もしくはGK2のどちらかの供給源のモデルに適合しません[11]。これをより深く理解するため、ヤムナヤ文化集団をカレリアのEHGとCHGのモデルに適合させ、このモデルは、上部旧石器時代シベリアのアフォントヴァ・ゴラ3遺跡の個体とアナトリア半島新石器時代集団の両方を有する中核ヤムナヤ集団の共有された浮動を過小評価している、と分かりました。シベリア関連祖先系統のヴォルガ供給源は、同じモデルをヴォルガ勾配集団に適用しても、アフォントヴァ・ゴラ3遺跡の個体との共有された浮動を過小評価するとの事実によって示唆され、シベリア祖先系統は、図1bにおいてシベリア人に向かうドニプロ勾配の逸脱でも明らかです。このシベリア関連祖先系統は、BP集団が約76%のクリフャンスキー個体的な祖先系統と約24%のアジア中央部の(シベリア関連の)トゥトカウル遺跡個体的[20]な祖先系統としてモデル化できることからも、確証されます。クリフャンスキー遺跡個体とBP集団を、関連する祖先系統であるCHGとGK2とトゥトカウル(図2b)に適合させると、とクリフャンスキー遺跡個体のアジア中央部祖先系統は殆どないか皆無で(5.1±3.6%)、56.7±2.6%のCHG関連祖先系統と43.3±2.6%のGK2祖先系統の単純な2方向混合として適合します。対照的に、BP集団は29.3±2.2%のトゥトカウル遺跡個体的祖先系統を必要とします。しかし、シベリア関連祖先系統(トゥトカウル遺跡個体)を追加してさえも中核ヤムナヤ集団のモデル化には不十分で、それは、図2bの3方向モデルが依然として、アナトリア半島新石器時代個体群と共有される浮動を説明できないからです。

 したがって、アジア中央部もしくはシベリア祖先系統はコーカサス北部草原地帯とヴォルガ川田流域においてすでに新石器時代には存在していたものの、それがさせに西方のドン川に存在した証拠はありません。ヴォルガ勾配の個体群について、第三の西方(UNHG)もしくは東方(トゥトカウル遺跡個体)供給源を2供給源のBP集団+EHGモデルを追加すると、これら2供給源だけでも依然として適切にモデル化されます(図2c)。一部の個体は、より多くのトゥトカウル的祖先系統を有しています。しかし、偏差はわずかです(Khiについては、4.4±2.6%の祖先系統)。重要なことに、中核ヤムナヤ集団は図2a~dの全モデルに当てはまらないので、これらのモデルのCHGとEHGとUNHGとトゥトカウルの混合から形成されたわけではありません。


●CLV勾配
 中核ヤムナヤ集団はUNHGおよびGK2とはドニプロ勾配の反対側の端に位置しており、より低い割合の祖先系統の未知の供給源を有しているか、そうした祖先系統を有してさえいません。中核ヤムナヤ集団に一貫して適合する湯飯野一貫した2方向モデルは、SS文化集団のSShi部分集合の73.7±3.4%と、ドン川下流とカスピ海との間のマヌィチ(Manych)低地の北側のレモントノイエ(Remontnoye)村の近くに位置する、スハヤ・テルミスタ1(Sukhaya Termista I)遺跡(個体I28682)およびウラン4(Ulan IV)遺跡(個体I28683)の金石併用時代の2個体によって表される人口集団からの26.3±3.4%を含んでいました。レモントノイエ村個体はヴォルガ勾配とドニプロ勾配のどちらにも位置せず、他のどの集団とも単系統群を形成しません。レモントノイエ集団は少なくとも二つの供給源を有しており、一方は南方のコーカサス供給源で、アナシェン(Aknashen)文化で新石器時代のアルメニアに居住していた集団のような個体群の子孫か、コーカサス北部のマイコープ文化集団の祖先で構成されており、北方の供給源は、BP集団的な人口集団に由来し、南方の構成要素はアナシェン文化集団(44.6±2.7%)かマイコープ文化集団(48.1±2.9%)のどちらかかの約半分の祖先系統を有している、とモデル化できます。

 アナシェン文化集団+BP集団のモデルに第三の供給源としてUNHGもしくはGK2を追加すると、-0.3±2.9%のUNHG祖先系統もしくは-0.5±3.5%のGK2祖先系統が推定されるので、レモントノイエ集団は、ヤムナヤ文化集団の未知の供給源に識別できないUNHG/GK2関連祖先系統を有していません。さらに、主要なマイコープ文化クラスタは、クラディ(Klady)遺跡およびドリッナヤ・ポリアナ(Dlinnaya-Polyana)遺跡のクルガンに埋葬された個体群を含めて、86.2±2.9%のアナシェン祖先系統を有していました。したがって、CLV勾配は存在し、それはアナシェン文化集団とマイコープ文化集団とレモントノイエ集団とベレジェニウカ遺跡集団です。これら4集団は、コーカサス新石器時代構成要素の減少順に並んでおり、その南北の位置と一致します。プログレス2遺跡およびヴォニュチュカ1遺跡の新石器時代コーカサス集団は、井戸の傾向に逆らっており、マイコープ文化の隣人とは異なり、コーカサス新石器時代祖先系統をほとんど有していません。これらの違背はCLV地域にまたがる長距離のつながりを説明しており、遺伝学と地理が常に一致するわけではない、重要な事例を提供します。

 本論文が知りたかったのは、どの集団がCLV勾配の南方祖先系統を媒介したのか、ということです。それは。地理的に遠く、ずっと古い(紀元前5985~紀元前5836年頃)のアナシェン文化集団ではありません。それは、地理的により近いものの、より新しい(紀元前3932~紀元前2934年頃)マイコープ文化集団ではありません。標本抽出されていないメショコ(Meshoko)遺跡およびスフォボドエ(Svobodnoe)遺跡の集落(紀元前4466~紀元前3810年頃)の集団が、アナシェン文化集団的祖先系統の北方への拡大と、ベレジェニウカ遺跡集団的な祖先系統の南方への拡大に関わった可能性が高そうで、それは、この集団が外部の石や銅や石製戦斧をヴォルガ勾配の遺跡群と交換していたからです。この集団はコーカサス北部において金石併用時代のウナコゾヴォスカヤ(Unakozovskaya)遺跡(紀元前4607~紀元前4450年頃)に先行しており[9]、との後にはマイコープ文化が続きました。ウナコゾヴォスカヤ遺跡人口集団はレモントノイエ集団の適切な遺伝的供給源ではなく、それは、BP集団+ウナコゾヴォスカヤ集団のモデルがCHG関連の浮動の過大評価によって失敗するからです。ウナコゾヴォスカヤ集団は95.3±6.3%のマイコープ文化集団と4.7±6.3%のCHGで適切にモデル化されるので、この集団はマイコープ文化集団的ではあるものの、遺伝的には異なります(図1b)。最近刊行されたナリチク(Nalchik)遺跡の1個体(紀元前5000~紀元前4800年頃)[32]は、標本抽出されたウナコゾヴォスカヤ個体よりも多くの草原地帯との類似性を有しており、ウナコゾヴォスカヤ人口集団と草原地帯人口集団の混合としてモデル化できます。したがって、金石併用時代のコーカサス北部には、新石器時代の拡大を表しているアナシェン文化集団的祖先系統、マイコープ文化集団とウナコゾヴォスカヤ集団の対比によって示唆されるCHG関連祖先系統、標本抽出されたマイコープ文化個体の祖先系統の約1/7を構成する北方のヴォルガ川下流祖先系統が存在しました。

 レモントノイエ集団とベレジェニウカ集団とマイコープ文化集団はすべて、多様なCLV勾配集団において紀元前5000~紀元前3000年頃に一般的だったクルガン埋葬を使用していました。対照的に、個体は膝を立てて仰向けの姿勢で、赤いオーカー(鉄分を多く含んだ粘土)で覆われた埋葬坑の床がある、独特な埋葬の特徴は、SS文化やヴォルガ勾配を含めてほぼ全ての草原地帯集団によって共有されていましたが、レモントノイエ集団とマイコープ文化の埋葬は片側が収縮していました。埋葬を草原地帯と結びつける埋葬慣行もあれば、両者を切り離す埋葬慣行もありました。

 CLV勾配は、ドニプロ勾配のSS文化集団とヤムナヤ文化集団の祖先が、ドニプロ川・ドン川地域へと移動し、在来集団と混合したレモントノイエ集団と同様に、CLV勾配の集団だった、と明らかにします。ヤムナヤ文化集団のじっさいの供給源は、標本抽出されたレモントノイエ集団とSShiでは異なっていたかもしれません。ドニプロ勾配は、ドニプロ川もしくはドン川狩猟採集民供給源がアナシェン文化集団とベレジェニウカ集団の混合祖先系統の集団と混合した、という3方向モデル(図2e)に適合できます。GK2もしくはUNHGのどちらかは北方の河川供給源として適合できますが、図2eではGK2が用いられており、それは、このモデルが代替のUNHG(P=0.04)より高いP値(P=0.93)を有しているからです。ヤムナヤ文化集団はドニプロ川/ドン川狩猟採集民からの祖先系統を約1/5有している、と推測され、22.5±1.8%のGK2もしくは17.7±1.3%のUNHGのどちらかです。

 CLV勾配は、コーカサス由来の祖先系統がヤムナヤ文化集団の祖先へと流れ込んだ供給源でした[10]。レモントノイエ集団+SShiのモデルは、アナトリア半島新石器時代祖先系統を欠いているモデルとは異なり、新石器時代アナトリア半島集団との共有された遺伝的浮動を適切に予測します(図2a~d)。考古学では、紀元前五千年紀後半における、スフォボドエ(Svobodnoe)などコーカサス北部農耕民の遺跡およびクヴァリンスク文化などヴォルガ川へのバルカン半島の銅の交易があり、スフォボドエ遺跡の壺と類似している新石器時代の壺が、ノヴォダニロフカ(Novodanilovka)遺跡などのSS文化とつながっているドニプロ川・ドン川草原地帯の遺跡に出現した、と確証されてきました。この文化的交流は、BP集団/アナシェン文化集団の混合集団のドニプロ川・ドン川草原地帯への侵入の状況を説明します。


●アルメニアとアナトリア半島におけるCLVの影響

 CLV勾配の集団は南方にも行き(図2f)、これは銅器時代アルメニアの紀元前4000年頃となるアレニ1(Areni-1)遺跡個体で発見された草原地帯祖先系統[13]を説明し、そこでは、ヴォルガ川下流祖先系統(26.9±2.3%のBP集団)が在来のマシス・ブルール遺跡集団関連の新石器時代基層と混合しました。これは、基層がアナシェン文化集団関連だったコーカサス北部のマイコープ文化集団とは対照的です。マシス・ブルール遺跡集団は33.9±8.6%のアナシェン文化集団と、メソポタミアのティグリス川流域のチャヨニュ(Çayönü)遺跡の先土器新石器時代集団66.1±8.6%としてモデル化でき[33]、新石器時代のチャヨニュ遺跡とマシス・ブルール遺跡とアナシェン文化の勾配の一部です。アルメニアの人口集団はCHGを異なって保持しており、マシス・ブルール遺跡集団(13.7±4.0%)よりもアナシェン文化集団(42.0±3.8%)の方で多くなっています。一部のアナトリア半島銅器時代および青銅器時代集団が完全にコーカサス・メソポタミア勾配の祖先系統に由来すると考えることができる(図2f)のに対して、他の集団はメソポタミア・アナトリア半島勾配の祖先系統も有しており、草原地帯祖先系統が欠けています[10、15、34~36]。

 前期青銅器時代(紀元前2750~紀元前2500年頃)[34]とアッシリアの植民地期(紀元前2000~紀元前1750年頃)と古ヒッタイト期(紀元前1750~紀元前1500年頃)のアナトリア半島中央部個体群は、アナトリア半島の景観では珍しく、それは、これらの個体がメソポタミア(チャヨニュ遺跡)祖先系統と組み合わさったCLV祖先系統を有していたからです(図2f)。非メソポタミア祖先系統はCLVからの流入に応じて異なり、BP集団からの10.8±1.7%の祖先系統か、レモントノイエ集団からの19.0±2.4%の祖先系統か、アルメニア_CAからの33.5±4.8%です。

 アナトリア半島集団における草原地帯祖先系統の正確な供給源は的確には判断できませんが、すべての適合モデルにはその一部が含まれています。草原地帯関連祖先系統供給源の一部は年代的もしくは言語学的立場では可能性が低そうで、たとえば、中核ヤムナヤ集団(12.2±2.0%)や、ボヤノヴォ(Boyanovo)遺跡やマヤキ遺跡の前期青銅器時代集団など、ヨーロッパ南東部の西方のヤムナヤ文化集団起源の人口集団です。オヴァエレン(Ovaören)遺跡の前期青銅器時代(紀元前2750~紀元前2500年頃)アナトリア半島集団[34]は時間的にヤムナヤ文化期と重なりませんが、ヤムナヤ文化集団の拡大時期は、内インド・ヨーロッパ語族中核の言語とは外群を形成するアナトリア語派のずっと古い言語学的分岐と一致しません。

 チャヨニュ遺跡個体を1供給源として固定し、草原地帯供給源(ヴォルガ勾配とドニプロ勾配とCLV勾配に沿って祖先系統が自在に拡大することを許容します)の組み合わせを追加すると、狩猟採集民の寄与はヴォルガ勾配(-3.4±2.6%のEHG)およびドニプロ勾配(-2.3±2.7%のUNHG、および-3.9±3.5%のGK2)では負なので、混合人口集団は、これらヴォルガとドニプロの2勾配のBP集団もしくは中核ヤムナヤ集団の終末点の場合よりも、EHGやUNHGやGK2の祖先系統を多く有してはいません。混合人口集団をCLV勾配に位置づけると成功し、BP集団祖先系統の量は有意で(8.8±2.7%)、CLVおよびコーカサスの北側の山脈の金石併用時代起源を確証します。草原地帯+メソポタミアのモデルはアナトリア半島中央部青銅器時代集団には適合しますが、銅器時代/青銅器時代アナトリア半島地域集団の部分集合には適合せず、その成功は一般的な適用性には起因しません。さらに、アナトリア半島中央部青銅器時代集団の草原地帯祖先系統は、クズルウルマク(Kızılırmak)川の南側の前期青銅器時代のオヴァエレン遺跡や、ちょうどクズルウルマク川の湾曲帯内にある中期もしくは後期青銅器時代のカレヒユク(KaleHöyük)遺跡を含めて、個体や期間を超えて観察されます[34]。これはクズルウルマク川と一致するアナトリア語派とハッティ語(Hattic)の言語学的境界と一致し、この境界は紀元前1730年頃にヒッタイトによるハットゥッシャ(Hattusa、ハットゥッサ)の征服の前に破られました。標本抽出された個体群の(本質的に不可知の)言語学的帰属性に関係なく、その祖先系統の独特な混合は説明を要します。

 アナトリア半島中央部への経路に沿った人口集団は、BP集団祖先系統と度徳と那コーカサス・メソポタミア基層でモデル化でき、コーカサス北部のマイコープ文化集団ではアナシェン文化集団関連祖先系統、銅器時代のアルメニア集団ではマシス・ブルール遺跡集団的祖先系統、アナトリア半島中央部青銅器時代集団ではメソポタミア新石器時代集団的祖先系統です。これらの混合は紀元前4300~紀元前4000年頃に始まっており(アルメニア_CA人口集団[13]の年代範囲)、本論文での年代測定は紀元前4382±63年となります。チャヨニュ遺跡の先土器新石器時代人口集団は遺伝的に、東方約200kmに位置するトルコ南東部のマルマラ(Marmara)地域のマルディン(Mardin)県の個体[14]と、チャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡のアナトリア半島中央部土器新石器時代個体の中間に、マルディン個体とチャタルヒュユク個体の勾配に沿って位置しました。アナトリア半島南東部および中央部の銅器時代/青銅器時代の集団はすべて、同じチャタルヒュユク遺跡個体とマルディン個体の連続体に由来しました。祖型アナトリア半島人が東方から到来したならば、その子孫はアルミ(Armi)国にいたかもしれず、アルミ国の正確な位置は不明ですが、そのアナトリア語派的な名称がシリアのエブラ王国の隣人によって紀元前25世紀に記録されており、これはアナトリア語派の言語が証明される500年ほど前で、提案されている移住経路のちょうど南側に位置します。したがって本論文では、CLV勾配の人々はヤムナヤ文化の千年前となる紀元前4400年頃に南方へと移動し、途中で混合し、最終的には東方からアナトリア半島中央部に到達した、と提案されます。

 この再構築と一致するY染色体の証拠が見つかり、前期青銅器時代(紀元前3300~紀元前2500年頃)には、アナトリア半島東部ではアルスランテペ(Arslantepe)遺跡においてアジア西部で[15]、アルメニアではカラヴァン(Kalavan)遺跡[15]において、ゲノムのY染色体以外の領域では検出可能な草原地帯祖先系統のない個体群[10、13]で、草原地帯関連のY染色体ハプログループ(YHg)R1b1a2(V1636)の散発的な事例があります。アルスランテペ遺跡のYHg-R1b1a2(V1636)の個体(ART038)は、明確にはBP集団祖先系統を有していないものの(3.6±3.1%)、同じアルスランテペ遺跡の個体ART027(紀元前3370~紀元前3100年頃)はBP集団祖先系統を有しており(16.7±3.5%)、前期青銅器時代アナトリア半島中央部における同じ混合に数世紀先行します。レモントノイエ集団の男性におけるYHg-R1b1a2(V1636)は、両方ともプログレス2遺跡に由来し[9]、ベレジェニウカ遺跡の3個体のうち2個体と、ヴォルガ勾配の11個体は、YHg-R1b1a2(V1636)が先ヤムナヤ文化草原地帯集団の主要な祖先系統であることを示しており、YHg-R1b1a2(V1636)は遠くヨーロッパ北部にも出現しました。シャラハルサン(Sharakhalsun)遺跡の単一個体(SA6010、紀元前2886~紀元前2671年頃)のYHg-R1b1a2(V1636)[9]は、CLV祖先系統と一致しており(図2)、ヤムナヤ文化後に発見された、このかつては広がっていた系統の最後の抵抗です(図3)。以下は本論文の図3です。
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●ヤムナヤ文化集団の拡大

 中核ヤムナヤ集団の混合の平均年代は、UNHG/EHG狩猟採集民およびアジア西部/コーカサス関連集団と関連する供給源(図1b)で、紀元前4038±48年と推定されます。そうした年代は、この混合がそれ以前に始まったか、その後も続いた可能性を除外しませんが、この年代はSS文化の急速な出現と驚くほど一致しています。中核ヤムナヤ集団の祖先(図1b)は地理的に限られていたに違いなく[17]、これは、高い遺伝的類似性(Fₛₜ=0.005)を維持しながらでさえも、その後に中国からハンガリーにかけて分布したこととは対照的です。ドン川のヤムナヤ文化集団は、79.4±1.1%の中核ヤムナヤ集団と20.6±1.1%のUNHGとしてモデル化されます。あり得るように、中核ヤムナヤ集団が部分的なUNHG祖先系統のSS人口集団と混合していたならば、非ヤムナヤ構成要素は過小評価されているかもしれません。ドン川のヤムナヤ文化集団は紀元前四千年紀後半に形成され、この頃には、混合していないUNHGは稀だった、と想定できるかもしれません。

 西方への拡大によってヤムナヤ文化集団はヨーロッパ南東部にも広がり、遠くアルバニアやブルガリアにも到達しました[3、10]。これらの多くは中核ヤムナヤ集団とクラスタ化しますが(まとまりますが)、他の集団はヨーロッパ南東部および中央部の新石器時代および銅器時代人口集団の方へと逸れています。これらの集団とのヤムナヤ文化集団の混合は紀元前四千年紀後半に起き、これは草原地帯からヨーロッパ南東部への散発的な初期銅器時代の移住の後のことです[3、25]。対照的に、ドン川のヤムナヤ文化集団はほとんど拡大せず、それは、ドン川以外で高品質なデータのある個体は、ほぼまったく中核ヤムナヤ集団と単系統群ではないからで、ドン川下流集団はヤムナヤ文化集団の拡大にとって袋小路でした。

 YHgの共有は中核ヤムナヤ集団の起源に情報をもたらしませんが、YHg-I2a1b1a2a2a(L699)が優勢なドン川のヤムナヤ文化集団(20個体のうち17個体)は、SS文化集団および新石器時代狩猟採集民の祖先との連続性を有していた、と示します(図3)。中核ヤムナヤ集団にはYHg-R1b1a1b(M269)があり(51個体のうち49個体)、そのほとんど(51個体のうち41個体)はYHg-R1b1a1b1b(Z2103)で、YHg-R1b1a1b1b(Z2103)はヤムナヤ文化期の前には検出されず、鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、略してBBC)の埋葬[7]や非草原地帯のヨーロッパにおいて優勢なYHg-R1b1a1b1a(L51)と関連しています(図3)。ギリシアのミケーネ文化集団では、わずかにより遠いYHg-R1b1a1b2a(PF7563)が見つかっています[42]。YHg-R1b1a1b1(L23)は紀元前4450年頃に形成され、金石併用時代のBBC集団やヤムナヤ文化集団やミケーネ文化集団において統合されています。人口集団の相違はYHgの相違よりも小さいため、これらのYHg系統はヤムナヤ文化集団内で共存していたかもしれません。YHg-R1b1a1b1(L23)の創始者人口集団を見つけるのは依然として困難ですが、これまで標本抽出できなかったのは、創始者人口集団が小規模で孤立していたならば、驚くことではありません。

 中核ヤムナヤ集団がドニプロ勾配の一部であることは、ドニプロ川流域自体に起源があることを示唆しているかもしれません。しかし、ドニプロ勾配はドニプロ川・ドン川の集団(UNHG/GK2と関連しています)との混合によって生じており、ドン川のヤムナヤ文化集団もこの勾配の一部なので、ドン川地域の代替的起源を除外できません。さらに東方である、と解明される可能性は低そうで、それは、ヤムナヤ文化集団がヴォルガ勾配とCLV勾配のどちらにも位置していないからです。この状況はドニプロ川の西側との解明についても同様で、中核ヤムナヤ集団はヨーロッパ(西方からの)農耕民祖先系統を殆どもしくは全く有していません[17](図1b)。中核ヤムナヤ集団のより西方起源なら、その最新の祖先は、起源自体が問題になっているものの、中核ヤムナヤ集団の西が世の球状アンフォラ(両取って付き壺)文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)によって占められていたヨーロッパ中央部東方地域に存在したはずの、縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)の創始者と近接していた可能性が高そうです。

 ほとんどのCWC個体は、祖先系統の大半をヤムナヤ文化集団にたどることができ[2、12]、ヤムナヤ文化の拡大と同時期に起きた混合によって形成され、ケイガの時間枠のつながりを示す同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)断片を共有しており、ヤムナヤ文化集団と区別できない非ヨーロッパ農耕民関連祖先系統について、祖先構成要素の均衡を取っていました。CWC人口集団の紀元前三千年紀初期の歴史はヤムナヤ文化集団の拡大と絡み合っており、それは、CWC人口集団の歴史には、考古学的には必ずしもそうでないとしても、遺伝的にヤムナヤ文化集団と関連していたからです。SS文化のドニプロ川・ドン川地域は遺伝的、データに適合しており、それは、この地域の集団が初期の中核ヤムナヤ集団の祖先系統を説明するからです。SS文化集団で発見され、他地域で欠けているすべての祖先構成要素は中核ヤムナヤ集団で見られ、ドニプロ川・ドン川地域からは、西方のCWCおよびヨーロッパ南東部ヤムナヤ文化集団と、東方のドン川ヤムナヤ文化集団が、それぞれヨーロッパ農耕民およびUNHGの子孫との中核ヤムナヤ集団の混合によって出現したかもしれません。

 低網羅率の古代DNAデータにおいて有効人口規模の変動を推測する、HapNe-LDを用いて、中核ヤムナヤ集団の人口増加が推定されました。本論文の標本抽出の中核ヤムナヤ集団の最初の300年間(25個体)とその後の300年間(26個体)では、人口増加前の年代についてそれぞれ、95%信頼区間は紀元前3829年~紀元前3374年および紀元前3642~紀元前3145年となります(図4)。両者とも、これらの推定は数千の有効繁殖個体数からの成長に相当します。これらの間隔は紀元前3642~紀元前3374年で重なっており、これはSS文化後期です。混合年代測定とまとめると、浮かび上がってくる状況は、ヤムナヤ文化集団の祖先が紀元前4000年頃に混合によって形成され、その500年後に、その下部集団が文化的革新を開発もしくは採用し、紀元前3300年頃に劇的に拡大して考古学的に現れた、というものです。以下は本論文の図4です。
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 個体間の少なくとも20cM(センチモルガン)のIBDゲノム断片が、ヤムナヤ文化の前に地域人口集団間には存在していましたが、ヤムナヤ文化期にはそれはずっと一般的になりました(図5b)。500km以上にわたって共有されている断片はヤムナヤ文化の前にはきわめて稀でしたが(図5c)、ヤムナヤ文化期には500km~5000kmの間で数%存在しました(図5d)。密接な遺伝的親族は、20cM以上の断片を少なくとも3ヶ所(約5親等の親族)か、100cM以上のIBDの合計を有しており、ヤムナヤ文化期とその前の両方の期間において500km以内で見られ、各共同墓地内ではずっと高い割合で存在していました(図5e・f)。クルガン内のヤムナヤ文化・アファナシェヴォ文化の個体の組み合わせの約14.4%が密接な親族で、同じ共同墓地のクルガン間の被葬者の7.4%が密接な親族ですが、これは紀元前3700年頃のブリテン島のヘイズルトン・ノース(Hazleton North)遺跡の玄室墓の緊密につながっている系図における29%よりずっと低くなっています。したがって、クルガンは生物学的親族の家族墓ではなく、じっさい、クルガンにおける生物学的親族関係はおもに何世紀も前の共通の家系に起因しており、クルガン内の密接な親族関係のつながりはほぼ非生物学的でした。以下は本論文の図5です。
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●インド・アナトリア語族の起源

 じゅうらいの見解では、インド・ヨーロッパ語族は最初に分岐したアナトリア語派を含む、と定義されています。本論文は新たな用語を使い、その用法では、語族全体がインド・アナトリア語族を意味しており、インド・ヨーロッパ語族は、トカラ語やギリシア語やサンスクリット語を含めて、非アナトリア語派の語族と関連する語族に限定されます。インド・アナトリア語族の分岐は言語学的に紀元前4300~紀元前3500年頃に分岐し、この年代は、アナトリア半島中央部のヒッタイト語の証明(紀元前2000年頃以後)およびヤムナヤ文化の拡大の両方に先行します。ヤムナヤ文化集団は、いくつかの理由でインド・ヨーロッパ語族祖語話者として特定されます。第一に、紀元前4000年頃のヤムナヤ文化の形成と、紀元前四千年紀数以降のその拡大は、インド・ヨーロッパ語族とアナトリア語派の分岐に対応しています。第二に、おそらくはトカラ語の祖語を話していただろうアファナシェヴォ文化集団の移住[12]は、第二の、アナトリア語派の後の分岐と広く認識されています。ヤムナヤ文化集団は紀元前2500年頃以後にアルメニア集団に、前期青銅器時代以降にはバルカン半島集団に寄与し[3、10]、バルカン半島では、ギリシア語と、イリュリア語やトラキア語などあまり知られていないバルカン半島インド・ヨーロッパ語族言語が話されていました[10、35、42]。残りのインド・ヨーロッパ語族言語については、伝播は、草原地帯を大きく越えて拡大した、混合したヤムナヤ文化集団とヨーロッパ農耕民起源の子孫の文化を通じた間接的なもので、現在のインド・ヨーロッパ語族話者の大半は、この文化の子孫です。これらには、非地理的に補完的な紀元前三千年紀のCWC[2、12]およびBBC[7]を通じての、バルカン半島のヨーロッパ言語(イタリック語派やケルト語派やゲルマン語派やバルト語派やスラブ語派)話者が含まれています。インド・イラン語派はアジアの最大の現存インド・ヨーロッパ語族で、こちらも究極的にはCWC集団の子孫で、ファチャノヴォ(Fatyanovo)文化[51]およびシンタシュタ(Sintashta)文化[8、34]への東方の移住の長い連鎖を経ました。

 ヤムナヤ文化集団とアナトリア半島集団はCLV祖先系統を共有しており(図2e・f)、CLV祖先系統は、混合のない初期の言語移転の可能性を除けば、インド・アナトリア語族祖語話者に由来するに違いありません。ヒッタイト存在期のアナトリア半島中央部集団におけるCLV祖先系統にはヴォルガ川関連祖先系統が含まれていたことは、コーカサスの北側の起源を示唆します(図2f)。のベレジェニウカ2遺跡個体と共有される、SS文化のイグレン8遺跡およびアレニ1(Areni-1)遺跡個体長い(30cM以上)IBD断片は、ヴォルガ川下流祖先系統の金石併用時代のつながりを記録しており、コーカサス北部のフォニュッカ1(Vonyucka-1)遺跡個体と前期青銅器時代のオヴァエレン遺跡の個体(MA2213)のつながりは、アナトリア半島中央部をこのかつての広範な交流網に結びつけます。それでも、インド・アナトリア語族の2集団のみが、その言語を子孫に伝えており、それは、馬車技術の助けを得たヤムナヤ文化集団と、紀元前2000年頃に粘土に刻まれるまで充分に言語が長く生き延びたアナトリア語派話者で、アナトリア語派は古代後期に消滅し、幸いにも20世紀に解読されました。遺伝学に基づく本論文の再構築は、両集団【ヤムナヤ文化集団とアナトリア語派話者集団】がコーカサス北部のCLV集団にたどりましたが、インド・アナトリア語族祖語を最初に話していたのが誰なのか、識別できません。

 インド・ヨーロッパ語族祖語の問題には、2世紀以上にわたってさまざまな解決を支持する言語学的証拠が提出されてきており、本論文は、初期のインド・アナトリア語族/インド・ヨーロッパ語族の歴史に関する本論文の再構築と関連する、いくつかの最近の提案を再検討します。

 第一に、インド・アナトリア語族/インド・ヨーロッパ語族言語における穀物用語は、インド・アナトリア語族の起源を、金石併用時代の農耕生計の最東端である、ドニプロ川流域に制約するかもしれません。本論文の調査結果はこれと矛盾しませんが、CLV勾配を通じてのこの語彙について、コーカサス(ヨーロッパではなく)新石器時代起源の可能性を提起します。

 第二に、おもにアナトリア半島中央部~西部におけるアナトリア語派の証拠は、(バルカン半島経由での)西方からの侵入によって最も節約的に説明できますが、遺伝的データは東方経路を支持する強力な証拠を提供しており、それは、アナトリア半島中央部青銅器時代集団の2供給源である、CLVだけではなく、とくにメソポタミアの新石器時代集団が、東方に存在するからです。さらなる証拠は、アナトリア半島中央部青銅器時代集団におけるヨーロッパ農耕民もしくは狩猟採集民祖先系統がない、との観察に由来し、これは、西方からのバルカン半島経路で予測できることですが、これらの集団が在来のヨーロッパ集団を迂回するか、海上経路を用いた場合には、ヨーロッパ人集団との混合は見られないでしょう。東方侵入仮説の弱点は常に、提案されている移住経路沿いのアナトリア半島東部において、アナトリア語派話者の言語学的証拠がないことでした。しかし、この主張は西方侵入仮説に相対的な重みを追加するわけではなく、それは、移住してきたアナトリア語派以前の言語話者に関する言語学的証拠が、この仮説によって提案されているヨーロッパ南東部経路で見つかっていないからです。アナトリア半島東部における言語学的痕跡の欠如は、紀元前3000年頃以後のコーカサスおよびアナトリア半島東部におけるクラ・アラクセス(Kura-Araxes)文化の考古学的に重要な拡大よって説明できるかもしれず、この拡大は、草原地帯とアジア西部のインド・アナトリア語族話者間に楔を生じさせ、相互に孤立させ、アナトリア半島西部における記録されている歴史へのアナトリア語派言語の存続を説明できるかもしれません。クラ・アラクセス考古学的文化の拡大が、アナトリア語派話者を追い出すのに充分なほど大きな人口統計学的影響を及ぼした可能性は、アルメニアにおいて、クラ・アラクセス文化の拡大が銅器時代にアルメニアにおいて出現したCLV祖先系統の完全な消滅を伴っていた、と示す遺伝学的証拠[10、13]によって直接的に証明されています(図2f)。

 クラ・アラクセス文化は、インド・アナトリア語族の分岐の唯一の理由ではないかもしれません。紀元前四千年紀のヤムナヤ文化集団の祖先人口集団の常染色体とY染色体の均質化は、孤立が言語学的分岐を促進したという、起源を理解するための、別の視点を提供します。これは拡大後にも持続したかもしれず、以前の住民は、例外もあるものの[17]、ヤムナヤ文化集団の巨大な力に直面して、ほぼ消滅しました。おそらく、クルガンに埋葬されるような上流階層によって避けられた混合が、クルガンに埋葬されなかった在来集団とヤムナヤ文化個体群との間で起きました。草原地帯におけるヤムナヤ文化の出現は先行集団を犠牲にしており、その約1000年後に、CWC集団の子孫に置換され、消滅しました。これは、クルガンの上流階層の没落だったのか、それとも人口全体の没落だったのでしょうか?

 草原地帯はその後も依然として、鉄器時代の遊牧民であるスキタイ人やサルマティア人など、多くの多様な集団に支配されました。これらの集団は確実に遺伝的に多様でしたが、草原地帯全域で見られるそのクルガンは、コーカサスおよびヴォルガ川地域で隆盛の7000年前頃に始まった文化の少なくとも一部の要素が、ドニプロ川・ドン川地域で、初めて草原地帯を統合し、ユーラシアの大半に影響を及ぼしたヤムナヤ文化まで存続したことを証明しています。ヤムナヤ文化集団とその祖先がどのような象徴的目的でこれらの塚を築いたのか、決して完全には知ることができないでしょう。ヤムナヤ文化集団がクルガンの下に埋葬された人々の記憶を保存するよう意図していたならば、ユーラシア草原地帯の景観に点在するクルガンは、何世代にもわたって考古学者と人類学者を研究に惹きつけ、本論文で提示されたその建造者の遺伝的再構築を可能にしたわけですから、その目的を果たしたわけです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


遺伝学:古代のゲノムがヤムナ文化の起源の手がかりとなる

 5,000年前にユーラシアステップ(steppe:草原)からヨーロッパへと移住した遊牧民ヤムナ(Yamna)族(別名ヤムナヤ〔Yamnaya〕族)の起源を明らかにする2つの論文が、今週のNature に掲載される。ウクライナとロシアの現代の古代ゲノムデータから、これらの遊牧民がどのようにして祖先、文化、そして恐らくは言語を広めていったのかについての洞察が得られた。

 ヤムナの人々は、インド・ヨーロッパ語族をユーラシアステップ(東ヨーロッパからアジアに広がる地域)からヨーロッパ大陸に広めるのに重要な役割を果たしたと考えられている。しかし、この民族の正確な起源は依然として不明である。

 今回Nature に掲載される2つの論文では、ポントス・カスピ海ステップ(Pontic–Caspian steppe:黒海とカスピ海に挟まれたヨーロッパとアジアにまたがる地域)とその周辺地域から最大435人の古代DNAを分析し、これまでサンプルが採取されていなかった多数の集団をデータセットに導入することで、ヤムナ人の起源を調査している。これらのデータは、地理的、考古学的、および時間的な情報を組み合わせて、ヤムナ人の歴史をモデル化するために使用された。

 Iosif Lazaridisらは、ヤムナ人の新石器時代(銅器時代)の祖先について、3つの異なるサブグループ(クライン〔clines〕と呼ばれる、集団内の勾配に沿った測定可能な変化によって定義されるもの)を提案している。すなわち、コーカサス・下ヴォルガ(Caucasus–lower Volga)クライン、ヴォルガ(Volga)クライン、およびドニエプル(Dnipro)クラインである。これらのクラインは、既存のヨーロッパの集団と混ざり合った。コーカサス・下ヴォルガのクラインは、ヤムナ族の祖先の約80%を占め、また、青銅器時代のアナトリアの人々(現在のトルコの大半を占める西アジアの半島)の人々の祖先の約10%を占めている。著者らは、アナトリア人とインド・ヨーロッパ人の共通の祖先の言語を話す人々は、紀元前4400年から紀元前4000年の間にコーカサス・下ヴォルガから派生したと示唆しているが、この結論については慎重に扱うべきである。

 2つ目の論文では、上記の分析に含まれた81人の個人のDNAの配列について説明しており、Alexey Nikitinらは、ヤムナ人の祖先は2つの波に分かれて広がり、その後、地元の住民と混ざり合ってヤムナ人が拡大していったと示唆している。著者らは、ヤムナ族の起源は、おそらく紀元前3635年から3383年頃のウクライナのミハイリフカ(Mykhailivka)であると提案している。この時期に、最も初期にサンプリングされた遺伝的にコアなヤムナ族の個体が特定された。

 これらの結果は、ヤムナ族がどのようにして発生し、東ヨーロッパ全体に新しい文化と言語を広めていったのかについて、新たな光を投げかけている。


古代ゲノミクス:インド・ヨーロッパ人の遺伝的起源

古代ゲノミクス:古代DNAが明かすヤムナ人の起源

 今回、古代DNAの解析によって、青銅器時代にユーラシアの各地に広がったヤムナ(ヤムナヤ)人の地理的起源が特定された。



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