完新世の山東半島の人口史および日本列島との関係
完新世の山東半島の人口史および日本列島との関係に関する研究(Liu et al., 2025)が公表されました。Twitterにて大凌河様よりご教示いただき、たいへん興味深い論文なので、当ブログで取り上げます。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、6000~1500年前頃の山東半島の11ヶ所の遺跡から発見された人類遺骸85個体のゲノムデータを報告し、山東半島の完新世の人口史を推測しています。完新世において、山東半島には以前の推定よりも早い時期から、北方と西方と南方からの遺伝子流動があった、と推測しています。さらに本論文では、山東半島への南北からの遺伝子流動は遅くとも7700年前頃までに起きており、6000~4000年前頃の大汶口(DaWenKou、略してDWK)文化期と3500~1500年前頃の初期王朝期の2回、西方の黄河中流域から山東半島への遺伝子流動があった、と推測されています。ごく最近刊行されたばかりなので、本論文では言及されていませんが、最近の研究(Fang et al., 2025)では、山東半島も含めて黄河中流~下流域の完新世人口史の解明がかなり進んでおり、本論文とあわせて読むと、たいへん有益だと思います。
また本論文は、山東半島の古代人集団と日本列島の古代人集団との関係も検証しています。近年では、他の日本列島の人類集団ほどには遺伝学的に詳しく解明されていないアイヌ集団を除いて、日本列島の現代人集団のゲノムは、縄文時代の人類集団、アジア北東部人類集団、現代の漢人と関連するアジア東部集団の3集団的な遺伝的構成要素の地域的差異を伴うさまざまな混合での混合で説明できる、と示されました[7、9]。ただ、本論文では、先行研究[7]で提示された、弥生時代の日本列島にアジア北東部的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、古墳時代にアジア東部的祖先系統が到来した、との想定に従っていますが、最近の研究(Kim et al., 2025)からは、すでに弥生時代においてアジア東部関連祖先系統が日本列島に定着していた可能性は高い、と窺えます。
それはともかく、本論文の見解で興味深いのは、琉球諸島の宮古島の長墓遺跡の古代人と山東半島の古代人との遺伝的つながりです。まず、長墓遺跡の2800年前頃の個体群のゲノムは、縄文関連祖先系統でのみモデル化でき、これは先行研究[6]と一致します。一方、アジア東部の多様な古代人集団との比較において、長墓遺跡の歴史時代の個体群(17世紀以降)のゲノムは、山東半島の龍山(Shandong Longshan、略してLS)文化期の一部の集団と関連する祖先系統(75.0~75.2%)および後期縄文時代の3900~3700年前頃の個体群と関連する祖先系統(24.8~25.0%)の2方向混合でモデル化できる、と示されました。この混合の推定年代は1600~1400年前頃で、『隋書(Sui Shu)』や『中山世譜』や『中山世鑑』などの史書と整合的である可能性も指摘されています。一方で、山東半島古代人集団の遺伝的影響は日本列島の古代人でも宮古島に限られており、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の古墳時代集団では、山東半島古代人集団関連の祖先系統を有するとはモデル化できず、アジア東部関連祖先系統の起源は曖昧なままです。
本論文のこうした知見をどう解釈するのかは、現時点では難問です。そもそも、長墓遺跡のある宮古島は縄文文化が及ばなかったとされる先島諸島の一部で、日本列島「本土」の縄文時代人類集団と遺伝的に一まとまりを形成する2800年前頃の長墓遺跡の人類集団の存在をどう考えるのかも、難問です。この人類集団の遺伝的構成は、当時の先島諸島の人類集団の一般的な遺伝的構成を表していない可能性も考えられます。本論文で明らかになった、歴史時代の長墓遺跡の人類集団と山東半島の一部の古代人集団との遺伝的つながりについて、私の見識では的確な説明ができず、今後の研究の進展を俟つしかないように思います。ただ、あくまでも既知の古代人集団との比較において、両者の遺伝的つながりが示されたわけで、今後、歴史時代の長墓遺跡の人類集団とさらに遺伝的つながりの強い古代人個体(群)が見つかる可能性は低くないだろう、と考えています。
また、宮古島も含めて宮古諸島の現代人の遺伝学的研究(Koganebuchi et al., 2023)では、仮定的な宮古諸島と沖縄諸島のグスク時代集団で、宮古諸島の現代人のゲノムはほぼすべて説明できる、と示されています。琉球諸島のグスク時代集団は、縄文時代人類集団的な遺伝的構成の在来集団と、11~12世紀頃に日本列島「本土」、おそらくは九州から到来した集団との混合によって形成された、と推測されています。歴史時代の長墓遺跡の人類集団が、琉球諸島においてはかなり特異な遺伝的構成で、琉球諸島の現代人への遺伝的影響は小さい可能性も考えられますが、この問題の解明には、奄美・沖縄諸島の貝塚時代およびグスク時代、先島諸島の先史時代およびグスク時代の時空間的に広範な古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。
本論文も含めて、ユーラシア東部における最近の古代ゲノム研究の進展には目覚ましいものがあります。最近の研究(Speidel et al., 2025)では、新たな手法で遺伝的構成の類似した集団間の相互作用をじゅうらいよりも高解像度で推測できる、と示されており、そうした手法では、より詳細な人口史が解明されることも期待されます。その研究が対象としているのは、古代ゲノム研究がとくに進んでいるヨーロッパですが、日本列島も含めてユーラシア東部でもそうした手法が有効になってきているのではないか、と思います。この新たな手法を日本列島も含めてユーラシア東部に適用すれば、どのような人類史が浮かび上がってくるのか、楽しみでもあります。本論文でも指摘されているように、日本列島「本土」現代人の主要な祖先集団の起源についてはまだ曖昧で、紀元前三千年紀後半の時点でどこにいたのか(あるいはまだ形成されていなかったのか)、不明ですし、日本列島の人類史は単純な分岐を想定して解明できるよりずっと複雑かもしれませんが、こうした問題もそのうち今よりずっと解明されるのではないか、と期待しています。現時点では、日本列島「本土」現代人の主要な祖先集団は、まだゲノムデータが解析されておらず、紀元前二千年紀前半には、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域かその周辺にいたのではないか、と考えています。
時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、初期中国王朝期(early Chinese dynastic period、略してCD)、歴史時代(historical era、略してHE)で、「a」は古代(ancient)の略称です。
本論文で取り上げられている山東半島の主要な遺跡は、北阡(BeiQian、略してBQ)遺跡、崗山(GangShang、略してGS)遺跡、傅家(FuJia、略してFJ)遺跡、尹家城(YinJiaCheng、略してYJC)遺跡、城子崖(ChengZiYa、略してCZY)遺跡、後李(Houli、略してHL)遺跡、劉家荘(LiuJiaZhuang、略してLJZ)遺跡、西陳(XiChen、略してXC)遺跡、新智(XinZhi、略してXZ)遺跡、一席(YiXi、略してYX)遺跡、桐林(TongLin、略してTL)遺跡です。
●要約
過去1万年間に複雑な文化的移行を示す、山東地域のアジア東部北方沿岸地域は、アジア東部本土の内陸部地域と日本列島など島嶼部との間の人口集団の相互作用の促進に役立ってきました。山東人口集団が経時的にどのように変わり、島嶼部と内陸部のアジア東部人口集団と相互作用したのか調べるため、6000~1500年前頃の山東地域の11ヶ所の古代遺跡から発見された85個体が配列決定されました。その結果、山東人口集団と関連する祖先系統が、日本列島の弥生時代の後の人口集団、とくに2800年前頃以後の琉球諸島に暮らしていた最近の人口集団で観察されるアジア東部本土祖先系統を説明できる可能性がある、と分かりました。山東地域では、遅くとも7700年前頃までに、この地域の南北の人口集団からの遺伝子流動、および大汶口文化期(6000~4000年前頃)と初期王朝期(3500~1500年前頃)における山東地域への内陸部黄河人口集団と関連する遺伝子流動の2回の波が観察されました。アジア東部北方沿岸の新石器時代と青銅器時代と鉄器時代の人口集団の遺伝的歴史の再構築は、南北と東西(内陸部と沿岸部と島嶼部)両方の規模での遺伝子流動を示します。
●研究史
海上移動はヒトの移住史に大きな影響を及ぼしてきており、ヒトを多くの島や遠い大陸に導いただけではなく、さまざまなヒト集団間の生物学的および文化的相互作用も増加させた、長距離移動を可能としました。アジア東部南方では、人口の混合および置換の2回の波や、文科と言語の拡大が海洋を越えて観察されてきており[2]、アジア東部南方沿岸部からアジア南東部および太平洋南西部へのオーストロネシア語祖語話者の移住は、充分に特徴づけられてきました[3、4]。アジア東部北方では、アジア東部沿岸部と日本列島など太平洋諸島におけるヒトの移動と相互作用がこの地域に大きな影響を及ぼしてきており、それは、アジア東部の東側海岸線が、アジア東部本土から日本列島への作物と交易品(たとえば、イネ)の拡大にとって重要な経路だったからです[6、7]。以前の古代ゲノム研究は、たとえば「縄文人」など日本列島の古代の狩猟採集民から、ボイスマン(Boisman)遺跡の中期新石器時代個体群(ボイスマン_MN)など極東シベリア[8]や西遼河流域[6]の人口集団への遺伝子流動を示しました。
アジア東部本土と日本列島の人口集団との間の遺伝的なつながりおよび歴史の調査の取り組みから、日本列島の古墳時代(1750~1400年前頃)の人口集団と歴史時代の琉球諸島の宮古島の長墓遺跡の人口集団は、アジア東部北方人と関連する部分的な祖先系統を示し、縄文時代狩猟採集民と関連する祖先系統およびアジア東部本土の2供給源を有する、との3祖先系統モデルで説明できる、と示されてきました。日本列島の弥生時代(2300~1750年前頃【現在の有力説では、もちろん地域差はありますが、弥生時代の開始は3000年前頃近くにまでさかのぼります】)に現れた一方のアジア東部本土供給源は、アジア東部北方古代人と関連していました。弥生時代の後に日本列島に到来したもう一方の供給源は、明確には定義されておらず、現在の漢人集団のみが内裏として用いられました[7、9]。現在の日本人集団の3000個体以上の深く配列決定されたゲノムでさえ、適切なアジア東部の祖先供給源人口集団はまだ見つかっていません[10]。以前に刊行された研究では、遺伝的構造の違いは日本列島の人口集団間で観察されており、日本列島「本土」と琉球諸島の人口集団間で異なる遺伝的パターンがあり、先史時代日本列島の人口史をさらに複雑にしています[10]。したがって、標本抽出が少ない場所と期間に限られてきたアジア東部本土沿岸地域からの古代人の標本抽出の増加が、日本列島のヒトの遺伝的組成に大きく寄与したアジア東部祖先系統の判断にきわめて重要です。
前期新石器時代の古代山東半島人口集団(9500~7700年前頃)の以前の標本抽出[4]は、黄河流域からアムール川流域にまでわたるアジア東部北方古代人の祖先系統の多様性内に収まる、共有された祖先系統を示しました。しかし、豊富な考古学的背景にも関わらず、山東地域のより新しい人口集団はまだ標本抽出されていませんでした。山東地域には、アジア東部先史時代において、最長で最も影響力のあった新石器時代文化の一つである大汶口文化がありました。大汶口文化は中期および後期新石器時代にまたがり、現在の行政区分ではおもに山東省に位置し、黄河沿いに分布していた仰韶(YangShao)文化と共存していました。この大汶口と仰韶という二つの文化間の相互作用は高度に動的で、仰韶文化からの影響は大汶口文化と関連する遺跡で観察できます。最終的には4600年前(4.6kya、略して4.6k)頃までに、黄河流域と山東地域の人口集団は両方とも龍山文化(4600~4000年前頃)と関連する文化的遺物を示しました。しかし、黄河【中流域】と山東地域の両方における龍山文化への移行と関連する人口移動および相互作用は、依然として不明です。
夏から晋に至る初期王朝【夏王朝の「実在」については議論があるでしょうし、私はかなり懐疑的です】の期間(4000~1500年前頃)について、歴史と考古学の記録は、早くも商(殷)王朝期の交通と紛争の増加につながった、アジア東部の沿岸地域における交易の重要な役割を強調しています。山東半島では、塩の交易を通じて殷王朝期に黄河地域の人口集団から文化的に影響を受けた、東夷(Dongyi)文化が支配的でした。考古学および歴史学の研究は、殷王朝以降の沿岸地域における頻繁に紛争を指摘しており、この紛争は最終的には、西周王朝の支配下における山東地域の統合につながりました。アジア東部北方沿岸の人口構成への、黄河地域と山東地域にまたがる交易と紛争を通じた相互作用増加の影響は不明で、それはこの期間のアジア東部沿岸地域における古代DNAの証拠の欠如に起因します【上述の最近の研究(Fang et al., 2025)などで、この問題は解消に向かいつつある、と言えそうです】。
初期新石器時代から晋王朝にまたがる期間の山東地域の沿岸部人口集団における変化を研究し、黄河地域および日本列島の近隣人口集団への山東地域人口集団の影響を調べるため、中国の海岸線の1/6を占める山東地域の6000~1500年前頃となる11ヶ所の遺跡から、85個体が回収されました。これらの個体から古代DNAの証拠を回収することによって、山東人口集団の歴史が再構築され、大汶口文化期から初期王朝期にかけてのアジア東部の本土と沿岸部と群島の人口動態が解明されました。
●標本
山東地域の11ヶ所の遺跡で標本抽出された古代人85個体から、ゲノム規模データが生成されました。放射性炭素年代測定から、これらの個体の年代は6000~1500年前頃にまたがり、大汶口文化期から晋王朝期までを網羅する、と示唆されます(図1A・B)。これらの個体のゲノム規模データ全体の網羅率は、0.028~2.696倍でした。具体的には、少なくとも4万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のある78個体が下流集団遺伝学的分析に保持され、低網羅率の残りの7個体は「_低」と分類表示され、限られた下流分析にのみ含められました。X染色体(男性)とミトコンドリアゲノム(男女)を用いて、汚染水準が推定されました。少なくとも4万ヶ所のSNPのある標本抽出された77個体と低網羅率の2個体については、汚染水準が5.0%未満と推定されました。高い汚染率(5.0%超)の3個体(TL4773_d_k、BQ4625_d_low_k、YX4790_d_low)については、下流分析での遺伝子型呼び出しを実行するさいには、特徴的な古代DNAの脱アミノ化を示す断片のみに分析が限定されました[28]。以下は本論文の図1です。
山東地域のこれら沿岸部人口集団が近隣のアジア東部本土人や日本列島の島嶼部人口集団と共有する、遺伝的関係について調べられました。次に、観察された遺伝的つながりを用いて、これら沿岸部人口集団が内陸部および島嶼部の近隣の人々にどのように影響を及ぼし、また及ぼされたのか、調べられました。新たに標本抽出された山東地域人口集団は3期間のうち1期間と関連しており、それは、6000~4600年前頃にまたがる新石器時代の大汶口文化期(山東_DWK)、4600~4000年前頃にまたがる新石器時代の龍山文化期(山東_ LS)、3500~1500年前頃にまたがる初期中国王朝期(山東_CD)です(図1A・B)。
●遅くとも7700年前頃以降となる山東人口集団に影響を及ぼした南北の相互作用
まず、山東地域の新たに標本抽出された個体群と、以前に標本抽出されたアジア東部の古代人および現代人との間の、遺伝的関係が調べられました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)やUmapやt-sne[32]を用いると、山東地域個体群は、以前に標本抽出された9500~7700年前頃となる前期新石器時代山東地域人口集団[4]を含めて、アジア東部北方の古代人および現代人の近くに位置する、と分かりました(図1C・D)。外群f3統計でも、山東地域人口集団はアジア東部北方人の遺伝的多様性内に収まる、と論証されました(図2A)。山東地域人口集団はPCAでは、日本列島や西遼河やアムール川(Amur River、略してAR)地域の古代人で観察されたクラスタ(まとまり)とは異なるクラスタを形成しました(図1C・D)。山東地域外では、黄河地域の人口集団がPCAでは新たに標本抽出された個体群と最も密接です。
山東地域人口集団には主要な3クラスタがあり、それは、前期新石器時代(9500~7700年前頃)の人口集団で構成されるクラスタ、大汶口文化期(6000~4600年前頃)の初期山東個体群で構成されるクラスタ(山東_DWK)、龍山文化期および初期王朝期(4600~1500年前頃)のその後の山東人口集団で構成されるクラスタ(山東_LS、山東_CD)です(図1C)。注目すべきことに、大汶口文化および前期新石器時代山東人口集団と比較して、より新しい山東人口集団は古代黄河人口集団の方へと動いており、山東地域外のアジア東部内陸部人口集団からの影響が示唆されます。Treemix分析では、すべての山東人口集団は古代アジア東部北方人口集団とまとまり、山東地域の人口集団は相互に最も近い関係を共有していた、と観察されました(図2B)。山東地域外では、黄河人口集団は山東人口集団と最も近い関係を示します(図2B)。これらのパターンから、山東人口集団はアジア東部北方人の遺伝的多様性内に収まる、と裏づけられます。ADMIXTURE分析では、山東人口集団全体で同じ構成要素が観察されましたが、これらの構成要素の経時的な割合の分布は変化します(図2C)。以下は本論文の図2です。
アジア東部本土の完新世はヒト社会における顕著な変化の期間で、農耕と複雑な社会が急速に台頭しました。まず、前期新石器時代(9500~7700年前頃)および大汶口文化期(6000~4600年前頃)の山東人口集団における社会的変化の影響が調べられました。前期新石器時代においてさまざまな傾向が見つかり、小荊山(Xiaojingshan)遺跡(7700年前頃)は、アムール川地域や極東シベリア(Far East Siberia、略してFE)のアジア東部北方[8、40、41]、および福建省や台湾海峡や広西チワン族自治区地域といった中国南部(South China、略してSC)に位置するアジア東部[3、4]など、山東地域外の人口集団とのより多くの遺伝的つながりを示します。
前期新石器時代山東地域の個体が他のアジア東部古代人と過剰な祖先系統を共有しているのかどうか、f4分析評価では、7700年前頃の小荊山遺跡個体群が、9000年前頃のより古い山東個体群や他のアジア東部北方人と比較して、これらアムール川やシベリア極東のアジア東部北方古代人(aAR/FE)および中国南部のアジア東部南方古代人(aSC)と追加のアレル(対立遺伝子)を共有している、と観察されました。つまり、前者については、山東地域の扁扁(Bianbian)遺跡や淄博(Boshan)遺跡や小高(Xiaogao)遺跡の個体群を用いたf4統計(扁扁/淄博/小高/山東9K/a黄河/a遼河/a山東、小荊山;aAR/FE、ムブティ人)のほとんどは0未満で、後者については、f4統計(扁扁/淄博/小高/山東9K/a黄河/a遼河/a山東、小荊山;aSC、ムブティ人)のほとんどは0未満でした。例外は、アムール川流域の9200年前頃の外れ値(outlier、略してo)個体(AR9.2K_o)で、古代山東人口集団といくらかの遺伝的類似性を共有しています[42]。
小荊山遺跡個体群とこれらアジア東部北方人とのつながりをさらに解析するために、循環qpAdm戦略を用いると、小荊山遺跡個体群は3方向モデルでのみモデル化できると分かり、その内訳は、扁扁遺跡や小高遺跡や淄博遺跡の個体群と関連する前期新石器時代山東祖先系統(山東9K)74.2%、福建の前期新石器時代人口集団と関連する祖先系統(福建_EN)9.8%、14000年前頃以降のアムール川地域人口集団と関連する祖先系統16.0%で、小荊山遺跡個体群は山東地域外のアジア東部の南北からの追加の遺伝的影響を示す、と確証されます。これが示唆するのは、早くも前期新石器時代に、アジア東部本土の他地域からのアジア東部の南北の人口集団とのいくらかの相互作用がすでにあったことです。
●アジア東部北方における内陸部から沿岸部の人口集団への遺伝子流動の2回の波
次に、大汶口文化と関連する沿岸部山東人口集団(6000~4600年前頃)と、仰韶文化と関連する内陸部黄河人口集団(7000~5000年前頃)との間の、中期および後期新石器時代における遺伝的関係が調べられました。PCA(図1C・D)では、より内陸部の崗山遺跡(GS集団)からより沿岸部の北阡遺跡(BQ集団)および傅家遺跡(FJ集団)まで、大汶口文化期の山東人口集団は前期新石器時代山東人口集団(山東_EN)から離れ、仰韶文化関連の黄河人口集団の方へと動いている、と観察されました。この軸(山東_ENから黄河)に沿って分布する大汶口文化期の3人口集団は黄河人口集団とのさまざまな類似性を示す、と観察できます。具体的には、内陸部のGS集団が黄河人口集団とクラスタ化する(まとまる)一方で、沿岸部のBQ集団およびFJ集団は黄河人口集団と前期新石器時代山東人口集団との間に位置します(図1C・D)。
大汶口文化人口集団が前期新石器時代山東人口集団と比較して追加の黄河祖先系統を示すのかどうか、さらに判断するため、循環qpAdm戦略を採用し、大汶口文化人口集団で見られる祖先構成要素が推定されました。合計で11のアジア東部人口集団(たとえば、AR14K以後やa福建_EN)が、大汶口文化の3集団の潜在的な供給源祖先系統として循環されました。この戦略を用いると、混合モデルに適合するそれらの人口集団のみが、祖先の供給源人口集団とみなされます。循環qpAdm戦略で、大汶口文化人口集団(BQ集団およびGS集団)は前期新石器時代山東人口集団(山東_EN、29~87%)と黄河人口集団(13~71%)の混合としてモデル化できましたが、FJ集団は山東_ENと関連する単一の供給源祖先系統(1方向モデル)もしくはBQ集団によって最適に説明される、と分かりました(図3A)。以下は本論文の図3です。
標本抽出された大汶口文化の3人口集団が黄河人口集団とのさまざまな類似性を示す、との以前の観察と一致して、6000~4600年前頃の山東人口集団における黄河祖先系統についてqpAdmで計算された混合割合は変化し、GS集団は最高水準(50~71%)の黄河祖先系統を示し、それに続くのがBQ集団(13%)とFJ集団(0~13%)です(図3A)。ADMIXTURE分析では、GS集団は他の大汶口文化人口集団と比較して、より高い割合の黄河関連構成要素(橙色)を示します(図2C)。【山東地域ではより】沿岸部のBQ集団およびFJ集団と比較して、【山東地域ではより】内陸部のGS集団におけるより高い割合の黄河関連祖先系統との本論文の調査結果に基づいて、黄河関連祖先系統は沿岸部との近さで影響が減少する、と思われます。しかし、提示されているのはわずか3ヶ所の大汶口文化遺跡なので、この仮説の確証には、山東地域の大汶口文化遺跡のより細かい標本抽出が必要です。まとめると、これらのパターンから、黄河人口集団と関連する祖先系統は大汶口文化期に山東地域の人口集団に影響を及ぼした、と示唆されます(図3B)。
4600~4000年前頃の間に、考古学的記録は黄河人口集団と山東人口集団における高度な文化的同化を示し、龍山文化と呼ばれるこれら内陸部地域と沿岸部地域にまたがる共有文化が生じました。この文化的移行期における人口動態を調べるため、この期間の沿岸部山東人口集団の、とくに尹家城遺跡(YJC集団)と城子崖遺跡(CZY集団)の人口集団における遺伝的祖先系統の変化が調べられました。まず分かったのは、黄河人口集団の遺伝的影響が、龍山文化期と関連する後期新石器時代の山東人口集団(YJC集団とCZY集団)で持続したことです。PCAでは、大汶口文化のGS集団と同様に、尹家城遺跡と城子崖遺跡の個体群は黄河個体群とクラスタ化しました(図1C・D)。ADMIXTURE分析では、YJC集団とCZY集団の個体群は内陸部黄河人口集団と関連する構成要素を示し、これら2集団における黄河関連構成要素の割合は、大汶口文化の3人口集団(GS集団、BQ集団、FJ集団)で観察された割合と重なる範囲内です(図2C)。次にf4分析を用いて、この黄河関連構成要素が黄河人口集団との追加の混合からもたらされたのかどうか、調べられました。その結果、f4統計(山東_DWK、山東_LS;黄河、ムブティ人)は0程度(−2.3~3.3)と分かり、これは、龍山文化人口集団が大汶口文化人口集団よりも黄河人口集団と多くの遺伝的つながりを共有していなかった、と示唆しています。
循環qpAdm分析を用いると(図3A)、龍山文化の両人口集団【YJC集団とCZY集団】は、黄河祖先系統の割合の高い大汶口文化人口集団であるGS集団(50~71%の黄河関連祖先系統)と関連する祖先系統と、もう一方の大汶口文化人口集団(BQ集団)もしくは前期新石器時代山東人口集団と関連する祖先系統(21~32%)の混合としてモデル化できる、と分かりました。興味深いことに、本論文の結果は龍山文化と大汶口文化の人口集団における混合の異なるパターンを示唆しています。龍山文化人口集団は、「山東関連の祖先」と「黄河人口集団」の混合を用いてモデル化できず、山東の2人口集団の混合としてのみモデル化できます。これが示唆するのは、黄河関連人口集団からの継続的な混合ではなく、龍山文化人口集団とより古い山東人口集団との間に遺伝的連続性があったことです。全体的に本論文の結果は、山東のより沿岸部とより内陸部の両地域のより古い大汶口文化人口集団と関連する祖先系統の混合としての龍山文化人口集団を裏づけ、黄河関連人口集団からの追加の影響はありません。
次に、殷(商)王朝が確立する3500年前頃に始まる、中国の初期王朝期の山東地域における遺伝的変化が調べられました。初期王朝の山東人口集団について循環qpAdm戦略を用いると、以下のように3通りの異なる混合パターンによってモデル化できる、と分かりました。(1)後李遺跡(HL集団)と劉家荘遺跡(LJZ集団)と西陳遺跡(XC集団)の人口集団は、龍山文化の「CZY集団」と関連する単一の祖先系統としてモデル化でき、龍山文化人口集団で観察された祖先系統を超える黄河関連祖先系統との追加のつながりはありません。(2)桐林遺跡(TL集団)と新智遺跡(XZ集団)の人口集団は、高い割合の黄河関連祖先系統を示した大汶口文化人口集団である「GS集団」と関連する単一の供給源祖先系統によってのみモデル化できます。これが示唆するのは、この2人口集団【TL集団とXZ集団】は龍山文化人口集団よりも大汶口文化人口集団の方と類似した、より多くの黄河関連祖先系統を有している可能性です。しかし、黄河関連祖先系統の水準は別として、古代山東人口集団は全体的に相互と高度に類似している、と注意することが重要です。二つのあり得る状況が、TL集団とXZ集団について観察されたqpAdmモデルをもたらすかもしれません。それは、(a)GS集団とこれら初期王朝の2集団【TL集団とXZ集団】との間遺伝的連続性か、(b)GS集団とこれら2集団【TL集団とXZ集団】との間の遺伝的類似性につながる追加の黄河関連との混合です。これら二つの状況間の大きな違いは、黄河関連祖先系統が初期王朝期山東人口集団にもたらされた時期です。(3)最後に、一席遺跡人口集団(YX集団)は黄河関連祖先系統(75~92%)と別の山東人口集団と関連する祖先系統(たとえば、CZY集団25%か、山東_9Kの9%)の混合として最適にモデル化される、と分かりました。
さらに、TL集団とXZ集団とYX集団(すべて3000年前頃以降)の混合モデルパターンがすべて、龍山文化集団の混合モデルパターンと異なることも注目されます。初期王朝期のこれら山東地域の3人口集団(XZ集団とYX集団とTL集団)に起きたことを調べるため、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて、混合の時期が推定され、これら3人口集団は3500年以上前の山東人口集団と関連する祖先系統と、黄河人口集団(黄河_MN/黄河_LN)と関連する祖先系統の混合としてモデル化でき、混合の推定年代は王朝期の約4.6~18.9世代前もしくは【現在から】2880~2030年前頃、と分かりました。この調査結果は混合の第二の波を示唆しており、この混合の第二の波では、3人口集団(XZ集団とYX集団とTL集団)は、大汶口文化人口集団と関連する混合事象(少なくとも6000~4600年前頃)とは異なり、龍山文化期の後における第二の黄河関連人口集団から遺伝的に影響を受けたかもしれません。ADMIXTURE分析では、TL集団とXZ集団とYX集団の個体群は他の山東人口集団と比較して、黄河人口集団で見られる構成要素(橙色)をより高い割合で示す、と観察されました(図2C)。すべての標本抽出された山東人口集団に影響を及ぼした大汶口文化期における以前の【混合の】波とは異なり、第二の【混合の】波は初期王朝期山東人口集団の部分集合にしか影響を及ぼさなかったかもしれません。
人口集団の相互作用は双方向かもしれないので、黄河人口集団が山東人口集団に影響を受けたのかどうかも、検証されました。f4分析を用いると、古代黄河人口集団は山東人口集団と同様に関連している、と分かりました。つまり、f4形式(a黄河、a黄河;6000~1500年前頃の山東人口集団、ムブティ人)が0程度(−3.0 ~3.0)で、黄河人口集団は山東人口集団と関連する祖先系統のから異なる遺伝的影響を受けなかった、と示唆されます(図3B)。
●少なくとも2800年前頃以後の琉球諸島における山東地域沿岸アジア東部人と関連する祖先系統の到来
日本列島に居住していた人口集団との山東人口集団の関係を調べるため、次に、新たに標本抽出された個体群が以前に刊行された古代日本列島の人口集団と比較されました。PCAでは、古代日本列島人口集団は主要な2クラスタを形成し、弥生時代以後のより新しい人口集団は、大汶口文化期のBQ集団やGS集団やFJ集団といった山東人口集団と、より古い縄文時代狩猟採集民人口集団との中間に位置します(図1C)。ADMIXTURE分析では、より新しい日本列島人口集団、特に弥生時代と古墳時代と歴史時代の長墓遺跡の人口集団は、6000年前頃以降の山東人口集団で広く分布している遺伝的構成要素を有しており、大汶口文化期と関連する山東人口集団と、日本列島のより新しい人口集団との間の強いつながりが確証されます(図2C)。この構成要素はf4統計によってさらに確証され、ほとんどのf4統計(日本列島の3000年以上前の古代人、日本列島の3000年前頃以降の古代人;6000~1500年前頃の山東人口集団、ムブティ人)は0未満(−21.7~3.1)で、より古い縄文時代の狩猟採集民と比較して、3000年前頃未満の弥生時代以降の日本列島の人口集団と、6000~1500年前頃の山東人口集団との間で、より多くのアレルが共有されていることを示します。
このつながりが他のアジア東部北方人口集団ではなく6000~1500年前頃の山東人口集団に特有なのかどうか、判断するため、次に、山東人口集団が異なる最近の日本列島の人口集団(長墓_2.8K、古墳時代、長墓_ HE)の必要な祖先供給源人口集団として説明できるのかどうか、循環qpAdm分析で検証されました。その結果、以下の主要な3パターンが見つかりました。(1)2800年前頃の長墓遺跡人口集団は、「縄文人」とのみ関連する祖先系統としてモデル化できる、と分かりました。(2)次に、歴史時代の長墓遺跡人口集団は、2祖先系統の混合としてのみモデル化できる、と分かり、一方は山東地域の龍山文化期の4600~3500年前頃のCZY集団およびYJC集団と関連する祖先系統(75.0~75.2%)で、もう一方は後期縄文時代の3900~3700年前頃の個体群と関連する祖先系統(24.8~25.0%)でした。黄河_LNと山東地域の龍山文化期人口集団(YJC集団/CZY集団)と縄文時代人口集団が、最適な3祖先系統モデルに含まれることも分かりました。この3祖先系統モデルと2祖先系統モデルは相互に矛盾せず、それは、これらの山東人口集団(CZY集団とYJC集団)がすでにアジア東部北方内陸部(黄河関連)およびアジア東部沿岸部の構成要素を有しているからで、アジア東部沿岸部構成要素は山東人口集団に固有で、以前に標本抽出された古代アジア東部人口集団では確認されませんでした。
歴史時代の長墓遺跡人口集団に関する以前の分析では、この集団は縄文祖先系統とアジア東部北方祖先系統と現在の漢人集団と関連する曖昧な祖先系統で構成される3祖先系統モデルによって最適に説明される、と示されました。本論文では、山東人口集団と関連するアジア東部沿岸部祖先系統が、漢人によって以前に表されていた祖先系統をより適切に表している、と分かり、歴史時代の長墓遺跡人口集団は、縄文祖先系統および黄河人口集団と関連するアジア東部北方内陸部祖先系統および山東人口集団と関連する追加のアジア東部北方沿岸祖先系統の混合として、3祖先系統モデルによって最適に説明されます。(3)山東人口集団の遺伝的影響は琉球諸島に限られており、日本列島「本土」の古墳時代人口集団では観察されません。つまり、qpAdm分析では、古墳時代個体群は山東関連祖先系統を有するものとしてモデル化できず、機能する3祖先系統モデルは、縄文祖先系統および黄河人口集団と関連するアジア東部北方内陸部祖先系統および曖昧なアジア東部北方関連祖先系統を示します。
f4検定では、長墓遺跡人口集団と古墳時代の人口集団山東人口集団との間の遺伝的つながりにおける違いも観察されました。ほとんどの山東人口集団、とくに6000年前頃のBQ集団は、他のアジア東部北方人よりも歴史時代の長墓遺跡集団と多くのアレルを共有する傾向にあります。つまり、多くのf4統計(WLR/黄河/AR、6000~1500年前頃の山東人口集団;長墓_HE、ムブティ人)は未満(−2.5未満)ですが(図4)、ほとんどのf4統計(WLR/黄河/AR、6000~1500年前頃の山東人口集団;日本_古墳、ムブティ人)は0程度(3未満)です(図4)。以下は本論文の図4です。
歴史時代の長墓遺跡人口集団におけるアジア東部北方沿岸部祖先系統をさらに分析し、山東人口集団と結びつけるために、f4分析を用いての模擬実験検定が設計されました[44、45]。その結果、以下の主要な2パターンが見つかりました。(1)第一に、模擬実験分析からさらに、歴史時代の長墓遺跡人口集団と山東人口集団との間に追加の遺伝的つながりがある、と確証されます。f4統計(X、長墓_HE;山東_EN/小荊山/BQ集団、ムブティ人)が検証され、Xは模擬実験の人口集団で、(1-x)%の縄文時代人口集団とx%の龍山文化期山東人口集団(YJC集団とCZY集団)が想定されます。模擬実験検定のすべての2組(山東人口集団は山東_EN/小荊山)で、x%が循環qpAdm戦略を用いて計算された龍山文化期山東人口集団の割合(75%)の範囲内の場合、f4検定の値はほぼゼロになります。これは、山東人口集団と関連するアジア東部北方沿岸部人口集団の構成要素を含む、歴史時代の長墓遺跡人口集団についての循環qpAdm混合モデルを裏づけます。模擬実験検定の1組(山東人口集団はBQ集団)では、で、x%が循環qpAdm戦略を用いて計算された龍山文化期山東人口集団の割合の87%の範囲内の場合、f4検定の値はほぼゼロになります。これは、BQ集団が約87%の山東関連祖先系統と約13%の黄河関連祖先系統の混合だからです。
これらのパターンから、山東人口集団と歴史時代の長墓遺跡人口集団との間に、一般的なアジア東部北方のつながりを超えて追加の遺伝的つながりがあった、と裏づけられます。(2)古墳時代人口集団と比較しての、歴史時代の長墓遺跡人口集団における山東人口集団と関連するアジア東部北方沿岸部構成要素の追加の寄与について検証するために、f4統計(X、長墓_HE;古墳時代、ムブティ人)が実行され、ここでのXは模擬実験の人口集団で、(1-x)%の古墳時代人口集団とx%の山東人口集団が想定され、標本規模は30です。模擬試験検定のすべての4組において、f4値は、人口集団Xにおけるさまざまな山東構成要素が増加するにつれて、4集団すべてで次第に減少し、歴史時代の長墓遺跡人口集団は古墳時代人口集団と比較して、山東人口集団と追加の遺伝的つながりを共有している、と示唆されます。さらに、循環qpAdm分析では祖先供給源として古墳時代人口集団を用いての長墓遺跡人口集団のモデル化はできなかったので、ほぼ0と等しいf4検定の値は観察されませんでした。
本論文では、2800年前頃の長墓遺跡人口集団において山東人口集団と関連する構成要素がないので(ADMIXTUREとf4結果の両方、それぞれ図2Cと図4)、琉球諸島の長墓遺跡人口集団へのアジア東部北方沿岸部祖先系統と関連する混合は、少なくとも2800年前頃以後に起きた、と推測されました。次にDATESを用いて、歴史時代の長墓遺跡人口集団へと山東祖先系統を統合した混合の時期が推定されました。アジア東部本土供給源として、アジア東部北方沿岸部人口集団を表す山東人口集団(CZY集団、LJZ集団、XC集団、HL集団)、およびアジア東部北方内陸部人口集団を表す西遼河人口集団(WLR_LN、WLR_BA)と、別の供給源として「縄文人」を用いると、約102~43世代前との一貫した混合時期が得られます。1世代を28年と仮定すると、混合の最も可能性の高い時期は1600~1400年前頃です(LJZ集団が祖先供給源として最適です)。これは、『隋書(Sui Shu)』や『中山世譜』や『中山世鑑』などの歴史的記録によると起きたと知られている、隋王朝(1400年前頃)と琉球諸島人口集団との間の人口相互作用とつながっているかもしれず、関連する具体的な歴史的事象については、考古学的研究からのさらなる裏づけを必要とします。
●考察
アジア東部の山東地域の北方沿岸部からの古代の個体群の標本抽出を通じて、過去9000年間の詳細な人口動態が再構築され、アジア東部北方の文化形成期における人口集団の相互作用と変化のみならず、日本列島へのアジア東部本土祖先系統の供給源についても、いくつかの長年の問題に答えることが可能となりました。まず、アジア東部本土の人口史が再構築され、とくに新石器時代と関連する主要な文化期にまたがる相互作用について、とくに焦点が当てられました。沿岸部の大汶口文化の出現前に、少なくとも7700年前頃までに、一部の山東人口集団はさらに北方と南方の人口集団から影響を受けた、と分かり、これは先行研究[48]で推定されていたよりも3000年ほど古くなります。その後、アジア東部における二つの主要な新石器時代文化である仰韶文化と大汶口文化が確立すると、山東地域の沿岸部の大汶口文化人口集団への、黄河地域の内陸部の仰韶文化人口集団と関連する遺伝子流動が観察され、これは考古学的記録で観察された文化的相互作用と一致するパターンです。
6000年前頃以降、主要な3文化期において、さまざまな相互作用のパターンが観察されました。第一に、大汶口文化期における黄河関連人口集団から山東人口集団への混合が観察され、6000~4600年前頃の仰韶文化の拡大と関連している可能性が高そうです。第二に、4600~4000年前頃の山東地域への外部地域からの遺伝子流動は、殆ど若しくは全く観察されず、この期間には、黄河地域と山東地域の両方が、龍山文化期につながった類似した文化的変化を経ました。このパターンから、この期間には、地域内の人口連続性が山東地域においては支配的だった、と示唆されます。最後に、3500年前頃以後の初期王朝期には、黄河関連人口集団から一部の山東人口集団への遺伝子流動の第二波が観察され、これは、殷王朝と東夷人口集団との間の交易および紛争の増加と関連しているかもしれず、それは海塩への要求によって被告、と歴史記録では示されました。この動的な期間において、社会経済構造の確立が、山東地域への黄河関連祖先系統の第二波に寄与したかもしれません。大汶口文化期と龍山文化期と初期王朝期に起きた遺伝子流動のさまざまなパターンは、山東人口集団の遺伝的構造合が6000~1500年前頃の間のどのように形成されたのか、という歴史を示しています。
さらなる研究では、日本列島の弥生時代以後の人口集団(たとえば、長墓_2.8K、日本_古墳、長墓_HE)の祖先系統が、少なくとも3供給源に由来する、と示されました。それは、縄文時代の狩猟採集民、弥生時代の移民と関連している可能性が高いアジア東部北方祖先系統、弥生時代の後に日本列島に侵入した、現在の漢人と関連しているアジア東部本土祖先系統【冒頭で述べたように、この祖先系統はすでに弥生時代に日本列島に到来していた可能性が高そうです】です[6、7、9、10]。しかし、アジア東部本土祖先系統の起源と関連する混合の時期は不明でした。本論文では、漢人と関連する以前には知られていなかったアジア東部祖先系統が、古代山東人口集団(たとえば、CZY集団、YJC集団、LJZ集団)でも見られたアジア東部北方沿岸祖先系統として特定され、DATES分析を用いて、この祖先系統は1600~1400年前頃の混合を通じてもたらされた、と推定されました。興味深いことに、このモデルは、琉球諸島民における未知の遺伝的構成要素のみを説明でき、日本列島「本土」で見られるアジア東部本土祖先系統は不明なままです。したがって、日本列島の最近の人口集団に関する遺伝学が、「縄文人」とアジア東部北方内陸部人(以前に提案された、弥生時代と関連するアジア東部北方祖先系統と類似しています)とアジア東部北方沿岸部祖先系統(以前に提案された、弥生時代の後の時代と関連するアジア東部本土祖先系統と類似しています)の関連する3祖先系統のモデルと適合しますが、アジア東部北方沿岸部祖先系統は、日本列島のさまざまな人口集団内でさらに区別できます。この観察は、現在の日本人で以前に観察された人口構造とも一致し、日本列島のさまざまな地域内の複雑な人口史を浮き彫りにします。
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また本論文は、山東半島の古代人集団と日本列島の古代人集団との関係も検証しています。近年では、他の日本列島の人類集団ほどには遺伝学的に詳しく解明されていないアイヌ集団を除いて、日本列島の現代人集団のゲノムは、縄文時代の人類集団、アジア北東部人類集団、現代の漢人と関連するアジア東部集団の3集団的な遺伝的構成要素の地域的差異を伴うさまざまな混合での混合で説明できる、と示されました[7、9]。ただ、本論文では、先行研究[7]で提示された、弥生時代の日本列島にアジア北東部的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が、古墳時代にアジア東部的祖先系統が到来した、との想定に従っていますが、最近の研究(Kim et al., 2025)からは、すでに弥生時代においてアジア東部関連祖先系統が日本列島に定着していた可能性は高い、と窺えます。
それはともかく、本論文の見解で興味深いのは、琉球諸島の宮古島の長墓遺跡の古代人と山東半島の古代人との遺伝的つながりです。まず、長墓遺跡の2800年前頃の個体群のゲノムは、縄文関連祖先系統でのみモデル化でき、これは先行研究[6]と一致します。一方、アジア東部の多様な古代人集団との比較において、長墓遺跡の歴史時代の個体群(17世紀以降)のゲノムは、山東半島の龍山(Shandong Longshan、略してLS)文化期の一部の集団と関連する祖先系統(75.0~75.2%)および後期縄文時代の3900~3700年前頃の個体群と関連する祖先系統(24.8~25.0%)の2方向混合でモデル化できる、と示されました。この混合の推定年代は1600~1400年前頃で、『隋書(Sui Shu)』や『中山世譜』や『中山世鑑』などの史書と整合的である可能性も指摘されています。一方で、山東半島古代人集団の遺伝的影響は日本列島の古代人でも宮古島に限られており、本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の古墳時代集団では、山東半島古代人集団関連の祖先系統を有するとはモデル化できず、アジア東部関連祖先系統の起源は曖昧なままです。
本論文のこうした知見をどう解釈するのかは、現時点では難問です。そもそも、長墓遺跡のある宮古島は縄文文化が及ばなかったとされる先島諸島の一部で、日本列島「本土」の縄文時代人類集団と遺伝的に一まとまりを形成する2800年前頃の長墓遺跡の人類集団の存在をどう考えるのかも、難問です。この人類集団の遺伝的構成は、当時の先島諸島の人類集団の一般的な遺伝的構成を表していない可能性も考えられます。本論文で明らかになった、歴史時代の長墓遺跡の人類集団と山東半島の一部の古代人集団との遺伝的つながりについて、私の見識では的確な説明ができず、今後の研究の進展を俟つしかないように思います。ただ、あくまでも既知の古代人集団との比較において、両者の遺伝的つながりが示されたわけで、今後、歴史時代の長墓遺跡の人類集団とさらに遺伝的つながりの強い古代人個体(群)が見つかる可能性は低くないだろう、と考えています。
また、宮古島も含めて宮古諸島の現代人の遺伝学的研究(Koganebuchi et al., 2023)では、仮定的な宮古諸島と沖縄諸島のグスク時代集団で、宮古諸島の現代人のゲノムはほぼすべて説明できる、と示されています。琉球諸島のグスク時代集団は、縄文時代人類集団的な遺伝的構成の在来集団と、11~12世紀頃に日本列島「本土」、おそらくは九州から到来した集団との混合によって形成された、と推測されています。歴史時代の長墓遺跡の人類集団が、琉球諸島においてはかなり特異な遺伝的構成で、琉球諸島の現代人への遺伝的影響は小さい可能性も考えられますが、この問題の解明には、奄美・沖縄諸島の貝塚時代およびグスク時代、先島諸島の先史時代およびグスク時代の時空間的に広範な古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。
本論文も含めて、ユーラシア東部における最近の古代ゲノム研究の進展には目覚ましいものがあります。最近の研究(Speidel et al., 2025)では、新たな手法で遺伝的構成の類似した集団間の相互作用をじゅうらいよりも高解像度で推測できる、と示されており、そうした手法では、より詳細な人口史が解明されることも期待されます。その研究が対象としているのは、古代ゲノム研究がとくに進んでいるヨーロッパですが、日本列島も含めてユーラシア東部でもそうした手法が有効になってきているのではないか、と思います。この新たな手法を日本列島も含めてユーラシア東部に適用すれば、どのような人類史が浮かび上がってくるのか、楽しみでもあります。本論文でも指摘されているように、日本列島「本土」現代人の主要な祖先集団の起源についてはまだ曖昧で、紀元前三千年紀後半の時点でどこにいたのか(あるいはまだ形成されていなかったのか)、不明ですし、日本列島の人類史は単純な分岐を想定して解明できるよりずっと複雑かもしれませんが、こうした問題もそのうち今よりずっと解明されるのではないか、と期待しています。現時点では、日本列島「本土」現代人の主要な祖先集団は、まだゲノムデータが解析されておらず、紀元前二千年紀前半には、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域かその周辺にいたのではないか、と考えています。
時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、初期中国王朝期(early Chinese dynastic period、略してCD)、歴史時代(historical era、略してHE)で、「a」は古代(ancient)の略称です。
本論文で取り上げられている山東半島の主要な遺跡は、北阡(BeiQian、略してBQ)遺跡、崗山(GangShang、略してGS)遺跡、傅家(FuJia、略してFJ)遺跡、尹家城(YinJiaCheng、略してYJC)遺跡、城子崖(ChengZiYa、略してCZY)遺跡、後李(Houli、略してHL)遺跡、劉家荘(LiuJiaZhuang、略してLJZ)遺跡、西陳(XiChen、略してXC)遺跡、新智(XinZhi、略してXZ)遺跡、一席(YiXi、略してYX)遺跡、桐林(TongLin、略してTL)遺跡です。
●要約
過去1万年間に複雑な文化的移行を示す、山東地域のアジア東部北方沿岸地域は、アジア東部本土の内陸部地域と日本列島など島嶼部との間の人口集団の相互作用の促進に役立ってきました。山東人口集団が経時的にどのように変わり、島嶼部と内陸部のアジア東部人口集団と相互作用したのか調べるため、6000~1500年前頃の山東地域の11ヶ所の古代遺跡から発見された85個体が配列決定されました。その結果、山東人口集団と関連する祖先系統が、日本列島の弥生時代の後の人口集団、とくに2800年前頃以後の琉球諸島に暮らしていた最近の人口集団で観察されるアジア東部本土祖先系統を説明できる可能性がある、と分かりました。山東地域では、遅くとも7700年前頃までに、この地域の南北の人口集団からの遺伝子流動、および大汶口文化期(6000~4000年前頃)と初期王朝期(3500~1500年前頃)における山東地域への内陸部黄河人口集団と関連する遺伝子流動の2回の波が観察されました。アジア東部北方沿岸の新石器時代と青銅器時代と鉄器時代の人口集団の遺伝的歴史の再構築は、南北と東西(内陸部と沿岸部と島嶼部)両方の規模での遺伝子流動を示します。
●研究史
海上移動はヒトの移住史に大きな影響を及ぼしてきており、ヒトを多くの島や遠い大陸に導いただけではなく、さまざまなヒト集団間の生物学的および文化的相互作用も増加させた、長距離移動を可能としました。アジア東部南方では、人口の混合および置換の2回の波や、文科と言語の拡大が海洋を越えて観察されてきており[2]、アジア東部南方沿岸部からアジア南東部および太平洋南西部へのオーストロネシア語祖語話者の移住は、充分に特徴づけられてきました[3、4]。アジア東部北方では、アジア東部沿岸部と日本列島など太平洋諸島におけるヒトの移動と相互作用がこの地域に大きな影響を及ぼしてきており、それは、アジア東部の東側海岸線が、アジア東部本土から日本列島への作物と交易品(たとえば、イネ)の拡大にとって重要な経路だったからです[6、7]。以前の古代ゲノム研究は、たとえば「縄文人」など日本列島の古代の狩猟採集民から、ボイスマン(Boisman)遺跡の中期新石器時代個体群(ボイスマン_MN)など極東シベリア[8]や西遼河流域[6]の人口集団への遺伝子流動を示しました。
アジア東部本土と日本列島の人口集団との間の遺伝的なつながりおよび歴史の調査の取り組みから、日本列島の古墳時代(1750~1400年前頃)の人口集団と歴史時代の琉球諸島の宮古島の長墓遺跡の人口集団は、アジア東部北方人と関連する部分的な祖先系統を示し、縄文時代狩猟採集民と関連する祖先系統およびアジア東部本土の2供給源を有する、との3祖先系統モデルで説明できる、と示されてきました。日本列島の弥生時代(2300~1750年前頃【現在の有力説では、もちろん地域差はありますが、弥生時代の開始は3000年前頃近くにまでさかのぼります】)に現れた一方のアジア東部本土供給源は、アジア東部北方古代人と関連していました。弥生時代の後に日本列島に到来したもう一方の供給源は、明確には定義されておらず、現在の漢人集団のみが内裏として用いられました[7、9]。現在の日本人集団の3000個体以上の深く配列決定されたゲノムでさえ、適切なアジア東部の祖先供給源人口集団はまだ見つかっていません[10]。以前に刊行された研究では、遺伝的構造の違いは日本列島の人口集団間で観察されており、日本列島「本土」と琉球諸島の人口集団間で異なる遺伝的パターンがあり、先史時代日本列島の人口史をさらに複雑にしています[10]。したがって、標本抽出が少ない場所と期間に限られてきたアジア東部本土沿岸地域からの古代人の標本抽出の増加が、日本列島のヒトの遺伝的組成に大きく寄与したアジア東部祖先系統の判断にきわめて重要です。
前期新石器時代の古代山東半島人口集団(9500~7700年前頃)の以前の標本抽出[4]は、黄河流域からアムール川流域にまでわたるアジア東部北方古代人の祖先系統の多様性内に収まる、共有された祖先系統を示しました。しかし、豊富な考古学的背景にも関わらず、山東地域のより新しい人口集団はまだ標本抽出されていませんでした。山東地域には、アジア東部先史時代において、最長で最も影響力のあった新石器時代文化の一つである大汶口文化がありました。大汶口文化は中期および後期新石器時代にまたがり、現在の行政区分ではおもに山東省に位置し、黄河沿いに分布していた仰韶(YangShao)文化と共存していました。この大汶口と仰韶という二つの文化間の相互作用は高度に動的で、仰韶文化からの影響は大汶口文化と関連する遺跡で観察できます。最終的には4600年前(4.6kya、略して4.6k)頃までに、黄河流域と山東地域の人口集団は両方とも龍山文化(4600~4000年前頃)と関連する文化的遺物を示しました。しかし、黄河【中流域】と山東地域の両方における龍山文化への移行と関連する人口移動および相互作用は、依然として不明です。
夏から晋に至る初期王朝【夏王朝の「実在」については議論があるでしょうし、私はかなり懐疑的です】の期間(4000~1500年前頃)について、歴史と考古学の記録は、早くも商(殷)王朝期の交通と紛争の増加につながった、アジア東部の沿岸地域における交易の重要な役割を強調しています。山東半島では、塩の交易を通じて殷王朝期に黄河地域の人口集団から文化的に影響を受けた、東夷(Dongyi)文化が支配的でした。考古学および歴史学の研究は、殷王朝以降の沿岸地域における頻繁に紛争を指摘しており、この紛争は最終的には、西周王朝の支配下における山東地域の統合につながりました。アジア東部北方沿岸の人口構成への、黄河地域と山東地域にまたがる交易と紛争を通じた相互作用増加の影響は不明で、それはこの期間のアジア東部沿岸地域における古代DNAの証拠の欠如に起因します【上述の最近の研究(Fang et al., 2025)などで、この問題は解消に向かいつつある、と言えそうです】。
初期新石器時代から晋王朝にまたがる期間の山東地域の沿岸部人口集団における変化を研究し、黄河地域および日本列島の近隣人口集団への山東地域人口集団の影響を調べるため、中国の海岸線の1/6を占める山東地域の6000~1500年前頃となる11ヶ所の遺跡から、85個体が回収されました。これらの個体から古代DNAの証拠を回収することによって、山東人口集団の歴史が再構築され、大汶口文化期から初期王朝期にかけてのアジア東部の本土と沿岸部と群島の人口動態が解明されました。
●標本
山東地域の11ヶ所の遺跡で標本抽出された古代人85個体から、ゲノム規模データが生成されました。放射性炭素年代測定から、これらの個体の年代は6000~1500年前頃にまたがり、大汶口文化期から晋王朝期までを網羅する、と示唆されます(図1A・B)。これらの個体のゲノム規模データ全体の網羅率は、0.028~2.696倍でした。具体的には、少なくとも4万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のある78個体が下流集団遺伝学的分析に保持され、低網羅率の残りの7個体は「_低」と分類表示され、限られた下流分析にのみ含められました。X染色体(男性)とミトコンドリアゲノム(男女)を用いて、汚染水準が推定されました。少なくとも4万ヶ所のSNPのある標本抽出された77個体と低網羅率の2個体については、汚染水準が5.0%未満と推定されました。高い汚染率(5.0%超)の3個体(TL4773_d_k、BQ4625_d_low_k、YX4790_d_low)については、下流分析での遺伝子型呼び出しを実行するさいには、特徴的な古代DNAの脱アミノ化を示す断片のみに分析が限定されました[28]。以下は本論文の図1です。
山東地域のこれら沿岸部人口集団が近隣のアジア東部本土人や日本列島の島嶼部人口集団と共有する、遺伝的関係について調べられました。次に、観察された遺伝的つながりを用いて、これら沿岸部人口集団が内陸部および島嶼部の近隣の人々にどのように影響を及ぼし、また及ぼされたのか、調べられました。新たに標本抽出された山東地域人口集団は3期間のうち1期間と関連しており、それは、6000~4600年前頃にまたがる新石器時代の大汶口文化期(山東_DWK)、4600~4000年前頃にまたがる新石器時代の龍山文化期(山東_ LS)、3500~1500年前頃にまたがる初期中国王朝期(山東_CD)です(図1A・B)。
●遅くとも7700年前頃以降となる山東人口集団に影響を及ぼした南北の相互作用
まず、山東地域の新たに標本抽出された個体群と、以前に標本抽出されたアジア東部の古代人および現代人との間の、遺伝的関係が調べられました。主成分分析(principal component analysis、略してPCA)やUmapやt-sne[32]を用いると、山東地域個体群は、以前に標本抽出された9500~7700年前頃となる前期新石器時代山東地域人口集団[4]を含めて、アジア東部北方の古代人および現代人の近くに位置する、と分かりました(図1C・D)。外群f3統計でも、山東地域人口集団はアジア東部北方人の遺伝的多様性内に収まる、と論証されました(図2A)。山東地域人口集団はPCAでは、日本列島や西遼河やアムール川(Amur River、略してAR)地域の古代人で観察されたクラスタ(まとまり)とは異なるクラスタを形成しました(図1C・D)。山東地域外では、黄河地域の人口集団がPCAでは新たに標本抽出された個体群と最も密接です。
山東地域人口集団には主要な3クラスタがあり、それは、前期新石器時代(9500~7700年前頃)の人口集団で構成されるクラスタ、大汶口文化期(6000~4600年前頃)の初期山東個体群で構成されるクラスタ(山東_DWK)、龍山文化期および初期王朝期(4600~1500年前頃)のその後の山東人口集団で構成されるクラスタ(山東_LS、山東_CD)です(図1C)。注目すべきことに、大汶口文化および前期新石器時代山東人口集団と比較して、より新しい山東人口集団は古代黄河人口集団の方へと動いており、山東地域外のアジア東部内陸部人口集団からの影響が示唆されます。Treemix分析では、すべての山東人口集団は古代アジア東部北方人口集団とまとまり、山東地域の人口集団は相互に最も近い関係を共有していた、と観察されました(図2B)。山東地域外では、黄河人口集団は山東人口集団と最も近い関係を示します(図2B)。これらのパターンから、山東人口集団はアジア東部北方人の遺伝的多様性内に収まる、と裏づけられます。ADMIXTURE分析では、山東人口集団全体で同じ構成要素が観察されましたが、これらの構成要素の経時的な割合の分布は変化します(図2C)。以下は本論文の図2です。
アジア東部本土の完新世はヒト社会における顕著な変化の期間で、農耕と複雑な社会が急速に台頭しました。まず、前期新石器時代(9500~7700年前頃)および大汶口文化期(6000~4600年前頃)の山東人口集団における社会的変化の影響が調べられました。前期新石器時代においてさまざまな傾向が見つかり、小荊山(Xiaojingshan)遺跡(7700年前頃)は、アムール川地域や極東シベリア(Far East Siberia、略してFE)のアジア東部北方[8、40、41]、および福建省や台湾海峡や広西チワン族自治区地域といった中国南部(South China、略してSC)に位置するアジア東部[3、4]など、山東地域外の人口集団とのより多くの遺伝的つながりを示します。
前期新石器時代山東地域の個体が他のアジア東部古代人と過剰な祖先系統を共有しているのかどうか、f4分析評価では、7700年前頃の小荊山遺跡個体群が、9000年前頃のより古い山東個体群や他のアジア東部北方人と比較して、これらアムール川やシベリア極東のアジア東部北方古代人(aAR/FE)および中国南部のアジア東部南方古代人(aSC)と追加のアレル(対立遺伝子)を共有している、と観察されました。つまり、前者については、山東地域の扁扁(Bianbian)遺跡や淄博(Boshan)遺跡や小高(Xiaogao)遺跡の個体群を用いたf4統計(扁扁/淄博/小高/山東9K/a黄河/a遼河/a山東、小荊山;aAR/FE、ムブティ人)のほとんどは0未満で、後者については、f4統計(扁扁/淄博/小高/山東9K/a黄河/a遼河/a山東、小荊山;aSC、ムブティ人)のほとんどは0未満でした。例外は、アムール川流域の9200年前頃の外れ値(outlier、略してo)個体(AR9.2K_o)で、古代山東人口集団といくらかの遺伝的類似性を共有しています[42]。
小荊山遺跡個体群とこれらアジア東部北方人とのつながりをさらに解析するために、循環qpAdm戦略を用いると、小荊山遺跡個体群は3方向モデルでのみモデル化できると分かり、その内訳は、扁扁遺跡や小高遺跡や淄博遺跡の個体群と関連する前期新石器時代山東祖先系統(山東9K)74.2%、福建の前期新石器時代人口集団と関連する祖先系統(福建_EN)9.8%、14000年前頃以降のアムール川地域人口集団と関連する祖先系統16.0%で、小荊山遺跡個体群は山東地域外のアジア東部の南北からの追加の遺伝的影響を示す、と確証されます。これが示唆するのは、早くも前期新石器時代に、アジア東部本土の他地域からのアジア東部の南北の人口集団とのいくらかの相互作用がすでにあったことです。
●アジア東部北方における内陸部から沿岸部の人口集団への遺伝子流動の2回の波
次に、大汶口文化と関連する沿岸部山東人口集団(6000~4600年前頃)と、仰韶文化と関連する内陸部黄河人口集団(7000~5000年前頃)との間の、中期および後期新石器時代における遺伝的関係が調べられました。PCA(図1C・D)では、より内陸部の崗山遺跡(GS集団)からより沿岸部の北阡遺跡(BQ集団)および傅家遺跡(FJ集団)まで、大汶口文化期の山東人口集団は前期新石器時代山東人口集団(山東_EN)から離れ、仰韶文化関連の黄河人口集団の方へと動いている、と観察されました。この軸(山東_ENから黄河)に沿って分布する大汶口文化期の3人口集団は黄河人口集団とのさまざまな類似性を示す、と観察できます。具体的には、内陸部のGS集団が黄河人口集団とクラスタ化する(まとまる)一方で、沿岸部のBQ集団およびFJ集団は黄河人口集団と前期新石器時代山東人口集団との間に位置します(図1C・D)。
大汶口文化人口集団が前期新石器時代山東人口集団と比較して追加の黄河祖先系統を示すのかどうか、さらに判断するため、循環qpAdm戦略を採用し、大汶口文化人口集団で見られる祖先構成要素が推定されました。合計で11のアジア東部人口集団(たとえば、AR14K以後やa福建_EN)が、大汶口文化の3集団の潜在的な供給源祖先系統として循環されました。この戦略を用いると、混合モデルに適合するそれらの人口集団のみが、祖先の供給源人口集団とみなされます。循環qpAdm戦略で、大汶口文化人口集団(BQ集団およびGS集団)は前期新石器時代山東人口集団(山東_EN、29~87%)と黄河人口集団(13~71%)の混合としてモデル化できましたが、FJ集団は山東_ENと関連する単一の供給源祖先系統(1方向モデル)もしくはBQ集団によって最適に説明される、と分かりました(図3A)。以下は本論文の図3です。
標本抽出された大汶口文化の3人口集団が黄河人口集団とのさまざまな類似性を示す、との以前の観察と一致して、6000~4600年前頃の山東人口集団における黄河祖先系統についてqpAdmで計算された混合割合は変化し、GS集団は最高水準(50~71%)の黄河祖先系統を示し、それに続くのがBQ集団(13%)とFJ集団(0~13%)です(図3A)。ADMIXTURE分析では、GS集団は他の大汶口文化人口集団と比較して、より高い割合の黄河関連構成要素(橙色)を示します(図2C)。【山東地域ではより】沿岸部のBQ集団およびFJ集団と比較して、【山東地域ではより】内陸部のGS集団におけるより高い割合の黄河関連祖先系統との本論文の調査結果に基づいて、黄河関連祖先系統は沿岸部との近さで影響が減少する、と思われます。しかし、提示されているのはわずか3ヶ所の大汶口文化遺跡なので、この仮説の確証には、山東地域の大汶口文化遺跡のより細かい標本抽出が必要です。まとめると、これらのパターンから、黄河人口集団と関連する祖先系統は大汶口文化期に山東地域の人口集団に影響を及ぼした、と示唆されます(図3B)。
4600~4000年前頃の間に、考古学的記録は黄河人口集団と山東人口集団における高度な文化的同化を示し、龍山文化と呼ばれるこれら内陸部地域と沿岸部地域にまたがる共有文化が生じました。この文化的移行期における人口動態を調べるため、この期間の沿岸部山東人口集団の、とくに尹家城遺跡(YJC集団)と城子崖遺跡(CZY集団)の人口集団における遺伝的祖先系統の変化が調べられました。まず分かったのは、黄河人口集団の遺伝的影響が、龍山文化期と関連する後期新石器時代の山東人口集団(YJC集団とCZY集団)で持続したことです。PCAでは、大汶口文化のGS集団と同様に、尹家城遺跡と城子崖遺跡の個体群は黄河個体群とクラスタ化しました(図1C・D)。ADMIXTURE分析では、YJC集団とCZY集団の個体群は内陸部黄河人口集団と関連する構成要素を示し、これら2集団における黄河関連構成要素の割合は、大汶口文化の3人口集団(GS集団、BQ集団、FJ集団)で観察された割合と重なる範囲内です(図2C)。次にf4分析を用いて、この黄河関連構成要素が黄河人口集団との追加の混合からもたらされたのかどうか、調べられました。その結果、f4統計(山東_DWK、山東_LS;黄河、ムブティ人)は0程度(−2.3~3.3)と分かり、これは、龍山文化人口集団が大汶口文化人口集団よりも黄河人口集団と多くの遺伝的つながりを共有していなかった、と示唆しています。
循環qpAdm分析を用いると(図3A)、龍山文化の両人口集団【YJC集団とCZY集団】は、黄河祖先系統の割合の高い大汶口文化人口集団であるGS集団(50~71%の黄河関連祖先系統)と関連する祖先系統と、もう一方の大汶口文化人口集団(BQ集団)もしくは前期新石器時代山東人口集団と関連する祖先系統(21~32%)の混合としてモデル化できる、と分かりました。興味深いことに、本論文の結果は龍山文化と大汶口文化の人口集団における混合の異なるパターンを示唆しています。龍山文化人口集団は、「山東関連の祖先」と「黄河人口集団」の混合を用いてモデル化できず、山東の2人口集団の混合としてのみモデル化できます。これが示唆するのは、黄河関連人口集団からの継続的な混合ではなく、龍山文化人口集団とより古い山東人口集団との間に遺伝的連続性があったことです。全体的に本論文の結果は、山東のより沿岸部とより内陸部の両地域のより古い大汶口文化人口集団と関連する祖先系統の混合としての龍山文化人口集団を裏づけ、黄河関連人口集団からの追加の影響はありません。
次に、殷(商)王朝が確立する3500年前頃に始まる、中国の初期王朝期の山東地域における遺伝的変化が調べられました。初期王朝の山東人口集団について循環qpAdm戦略を用いると、以下のように3通りの異なる混合パターンによってモデル化できる、と分かりました。(1)後李遺跡(HL集団)と劉家荘遺跡(LJZ集団)と西陳遺跡(XC集団)の人口集団は、龍山文化の「CZY集団」と関連する単一の祖先系統としてモデル化でき、龍山文化人口集団で観察された祖先系統を超える黄河関連祖先系統との追加のつながりはありません。(2)桐林遺跡(TL集団)と新智遺跡(XZ集団)の人口集団は、高い割合の黄河関連祖先系統を示した大汶口文化人口集団である「GS集団」と関連する単一の供給源祖先系統によってのみモデル化できます。これが示唆するのは、この2人口集団【TL集団とXZ集団】は龍山文化人口集団よりも大汶口文化人口集団の方と類似した、より多くの黄河関連祖先系統を有している可能性です。しかし、黄河関連祖先系統の水準は別として、古代山東人口集団は全体的に相互と高度に類似している、と注意することが重要です。二つのあり得る状況が、TL集団とXZ集団について観察されたqpAdmモデルをもたらすかもしれません。それは、(a)GS集団とこれら初期王朝の2集団【TL集団とXZ集団】との間遺伝的連続性か、(b)GS集団とこれら2集団【TL集団とXZ集団】との間の遺伝的類似性につながる追加の黄河関連との混合です。これら二つの状況間の大きな違いは、黄河関連祖先系統が初期王朝期山東人口集団にもたらされた時期です。(3)最後に、一席遺跡人口集団(YX集団)は黄河関連祖先系統(75~92%)と別の山東人口集団と関連する祖先系統(たとえば、CZY集団25%か、山東_9Kの9%)の混合として最適にモデル化される、と分かりました。
さらに、TL集団とXZ集団とYX集団(すべて3000年前頃以降)の混合モデルパターンがすべて、龍山文化集団の混合モデルパターンと異なることも注目されます。初期王朝期のこれら山東地域の3人口集団(XZ集団とYX集団とTL集団)に起きたことを調べるため、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)を用いて、混合の時期が推定され、これら3人口集団は3500年以上前の山東人口集団と関連する祖先系統と、黄河人口集団(黄河_MN/黄河_LN)と関連する祖先系統の混合としてモデル化でき、混合の推定年代は王朝期の約4.6~18.9世代前もしくは【現在から】2880~2030年前頃、と分かりました。この調査結果は混合の第二の波を示唆しており、この混合の第二の波では、3人口集団(XZ集団とYX集団とTL集団)は、大汶口文化人口集団と関連する混合事象(少なくとも6000~4600年前頃)とは異なり、龍山文化期の後における第二の黄河関連人口集団から遺伝的に影響を受けたかもしれません。ADMIXTURE分析では、TL集団とXZ集団とYX集団の個体群は他の山東人口集団と比較して、黄河人口集団で見られる構成要素(橙色)をより高い割合で示す、と観察されました(図2C)。すべての標本抽出された山東人口集団に影響を及ぼした大汶口文化期における以前の【混合の】波とは異なり、第二の【混合の】波は初期王朝期山東人口集団の部分集合にしか影響を及ぼさなかったかもしれません。
人口集団の相互作用は双方向かもしれないので、黄河人口集団が山東人口集団に影響を受けたのかどうかも、検証されました。f4分析を用いると、古代黄河人口集団は山東人口集団と同様に関連している、と分かりました。つまり、f4形式(a黄河、a黄河;6000~1500年前頃の山東人口集団、ムブティ人)が0程度(−3.0 ~3.0)で、黄河人口集団は山東人口集団と関連する祖先系統のから異なる遺伝的影響を受けなかった、と示唆されます(図3B)。
●少なくとも2800年前頃以後の琉球諸島における山東地域沿岸アジア東部人と関連する祖先系統の到来
日本列島に居住していた人口集団との山東人口集団の関係を調べるため、次に、新たに標本抽出された個体群が以前に刊行された古代日本列島の人口集団と比較されました。PCAでは、古代日本列島人口集団は主要な2クラスタを形成し、弥生時代以後のより新しい人口集団は、大汶口文化期のBQ集団やGS集団やFJ集団といった山東人口集団と、より古い縄文時代狩猟採集民人口集団との中間に位置します(図1C)。ADMIXTURE分析では、より新しい日本列島人口集団、特に弥生時代と古墳時代と歴史時代の長墓遺跡の人口集団は、6000年前頃以降の山東人口集団で広く分布している遺伝的構成要素を有しており、大汶口文化期と関連する山東人口集団と、日本列島のより新しい人口集団との間の強いつながりが確証されます(図2C)。この構成要素はf4統計によってさらに確証され、ほとんどのf4統計(日本列島の3000年以上前の古代人、日本列島の3000年前頃以降の古代人;6000~1500年前頃の山東人口集団、ムブティ人)は0未満(−21.7~3.1)で、より古い縄文時代の狩猟採集民と比較して、3000年前頃未満の弥生時代以降の日本列島の人口集団と、6000~1500年前頃の山東人口集団との間で、より多くのアレルが共有されていることを示します。
このつながりが他のアジア東部北方人口集団ではなく6000~1500年前頃の山東人口集団に特有なのかどうか、判断するため、次に、山東人口集団が異なる最近の日本列島の人口集団(長墓_2.8K、古墳時代、長墓_ HE)の必要な祖先供給源人口集団として説明できるのかどうか、循環qpAdm分析で検証されました。その結果、以下の主要な3パターンが見つかりました。(1)2800年前頃の長墓遺跡人口集団は、「縄文人」とのみ関連する祖先系統としてモデル化できる、と分かりました。(2)次に、歴史時代の長墓遺跡人口集団は、2祖先系統の混合としてのみモデル化できる、と分かり、一方は山東地域の龍山文化期の4600~3500年前頃のCZY集団およびYJC集団と関連する祖先系統(75.0~75.2%)で、もう一方は後期縄文時代の3900~3700年前頃の個体群と関連する祖先系統(24.8~25.0%)でした。黄河_LNと山東地域の龍山文化期人口集団(YJC集団/CZY集団)と縄文時代人口集団が、最適な3祖先系統モデルに含まれることも分かりました。この3祖先系統モデルと2祖先系統モデルは相互に矛盾せず、それは、これらの山東人口集団(CZY集団とYJC集団)がすでにアジア東部北方内陸部(黄河関連)およびアジア東部沿岸部の構成要素を有しているからで、アジア東部沿岸部構成要素は山東人口集団に固有で、以前に標本抽出された古代アジア東部人口集団では確認されませんでした。
歴史時代の長墓遺跡人口集団に関する以前の分析では、この集団は縄文祖先系統とアジア東部北方祖先系統と現在の漢人集団と関連する曖昧な祖先系統で構成される3祖先系統モデルによって最適に説明される、と示されました。本論文では、山東人口集団と関連するアジア東部沿岸部祖先系統が、漢人によって以前に表されていた祖先系統をより適切に表している、と分かり、歴史時代の長墓遺跡人口集団は、縄文祖先系統および黄河人口集団と関連するアジア東部北方内陸部祖先系統および山東人口集団と関連する追加のアジア東部北方沿岸祖先系統の混合として、3祖先系統モデルによって最適に説明されます。(3)山東人口集団の遺伝的影響は琉球諸島に限られており、日本列島「本土」の古墳時代人口集団では観察されません。つまり、qpAdm分析では、古墳時代個体群は山東関連祖先系統を有するものとしてモデル化できず、機能する3祖先系統モデルは、縄文祖先系統および黄河人口集団と関連するアジア東部北方内陸部祖先系統および曖昧なアジア東部北方関連祖先系統を示します。
f4検定では、長墓遺跡人口集団と古墳時代の人口集団山東人口集団との間の遺伝的つながりにおける違いも観察されました。ほとんどの山東人口集団、とくに6000年前頃のBQ集団は、他のアジア東部北方人よりも歴史時代の長墓遺跡集団と多くのアレルを共有する傾向にあります。つまり、多くのf4統計(WLR/黄河/AR、6000~1500年前頃の山東人口集団;長墓_HE、ムブティ人)は未満(−2.5未満)ですが(図4)、ほとんどのf4統計(WLR/黄河/AR、6000~1500年前頃の山東人口集団;日本_古墳、ムブティ人)は0程度(3未満)です(図4)。以下は本論文の図4です。
歴史時代の長墓遺跡人口集団におけるアジア東部北方沿岸部祖先系統をさらに分析し、山東人口集団と結びつけるために、f4分析を用いての模擬実験検定が設計されました[44、45]。その結果、以下の主要な2パターンが見つかりました。(1)第一に、模擬実験分析からさらに、歴史時代の長墓遺跡人口集団と山東人口集団との間に追加の遺伝的つながりがある、と確証されます。f4統計(X、長墓_HE;山東_EN/小荊山/BQ集団、ムブティ人)が検証され、Xは模擬実験の人口集団で、(1-x)%の縄文時代人口集団とx%の龍山文化期山東人口集団(YJC集団とCZY集団)が想定されます。模擬実験検定のすべての2組(山東人口集団は山東_EN/小荊山)で、x%が循環qpAdm戦略を用いて計算された龍山文化期山東人口集団の割合(75%)の範囲内の場合、f4検定の値はほぼゼロになります。これは、山東人口集団と関連するアジア東部北方沿岸部人口集団の構成要素を含む、歴史時代の長墓遺跡人口集団についての循環qpAdm混合モデルを裏づけます。模擬実験検定の1組(山東人口集団はBQ集団)では、で、x%が循環qpAdm戦略を用いて計算された龍山文化期山東人口集団の割合の87%の範囲内の場合、f4検定の値はほぼゼロになります。これは、BQ集団が約87%の山東関連祖先系統と約13%の黄河関連祖先系統の混合だからです。
これらのパターンから、山東人口集団と歴史時代の長墓遺跡人口集団との間に、一般的なアジア東部北方のつながりを超えて追加の遺伝的つながりがあった、と裏づけられます。(2)古墳時代人口集団と比較しての、歴史時代の長墓遺跡人口集団における山東人口集団と関連するアジア東部北方沿岸部構成要素の追加の寄与について検証するために、f4統計(X、長墓_HE;古墳時代、ムブティ人)が実行され、ここでのXは模擬実験の人口集団で、(1-x)%の古墳時代人口集団とx%の山東人口集団が想定され、標本規模は30です。模擬試験検定のすべての4組において、f4値は、人口集団Xにおけるさまざまな山東構成要素が増加するにつれて、4集団すべてで次第に減少し、歴史時代の長墓遺跡人口集団は古墳時代人口集団と比較して、山東人口集団と追加の遺伝的つながりを共有している、と示唆されます。さらに、循環qpAdm分析では祖先供給源として古墳時代人口集団を用いての長墓遺跡人口集団のモデル化はできなかったので、ほぼ0と等しいf4検定の値は観察されませんでした。
本論文では、2800年前頃の長墓遺跡人口集団において山東人口集団と関連する構成要素がないので(ADMIXTUREとf4結果の両方、それぞれ図2Cと図4)、琉球諸島の長墓遺跡人口集団へのアジア東部北方沿岸部祖先系統と関連する混合は、少なくとも2800年前頃以後に起きた、と推測されました。次にDATESを用いて、歴史時代の長墓遺跡人口集団へと山東祖先系統を統合した混合の時期が推定されました。アジア東部本土供給源として、アジア東部北方沿岸部人口集団を表す山東人口集団(CZY集団、LJZ集団、XC集団、HL集団)、およびアジア東部北方内陸部人口集団を表す西遼河人口集団(WLR_LN、WLR_BA)と、別の供給源として「縄文人」を用いると、約102~43世代前との一貫した混合時期が得られます。1世代を28年と仮定すると、混合の最も可能性の高い時期は1600~1400年前頃です(LJZ集団が祖先供給源として最適です)。これは、『隋書(Sui Shu)』や『中山世譜』や『中山世鑑』などの歴史的記録によると起きたと知られている、隋王朝(1400年前頃)と琉球諸島人口集団との間の人口相互作用とつながっているかもしれず、関連する具体的な歴史的事象については、考古学的研究からのさらなる裏づけを必要とします。
●考察
アジア東部の山東地域の北方沿岸部からの古代の個体群の標本抽出を通じて、過去9000年間の詳細な人口動態が再構築され、アジア東部北方の文化形成期における人口集団の相互作用と変化のみならず、日本列島へのアジア東部本土祖先系統の供給源についても、いくつかの長年の問題に答えることが可能となりました。まず、アジア東部本土の人口史が再構築され、とくに新石器時代と関連する主要な文化期にまたがる相互作用について、とくに焦点が当てられました。沿岸部の大汶口文化の出現前に、少なくとも7700年前頃までに、一部の山東人口集団はさらに北方と南方の人口集団から影響を受けた、と分かり、これは先行研究[48]で推定されていたよりも3000年ほど古くなります。その後、アジア東部における二つの主要な新石器時代文化である仰韶文化と大汶口文化が確立すると、山東地域の沿岸部の大汶口文化人口集団への、黄河地域の内陸部の仰韶文化人口集団と関連する遺伝子流動が観察され、これは考古学的記録で観察された文化的相互作用と一致するパターンです。
6000年前頃以降、主要な3文化期において、さまざまな相互作用のパターンが観察されました。第一に、大汶口文化期における黄河関連人口集団から山東人口集団への混合が観察され、6000~4600年前頃の仰韶文化の拡大と関連している可能性が高そうです。第二に、4600~4000年前頃の山東地域への外部地域からの遺伝子流動は、殆ど若しくは全く観察されず、この期間には、黄河地域と山東地域の両方が、龍山文化期につながった類似した文化的変化を経ました。このパターンから、この期間には、地域内の人口連続性が山東地域においては支配的だった、と示唆されます。最後に、3500年前頃以後の初期王朝期には、黄河関連人口集団から一部の山東人口集団への遺伝子流動の第二波が観察され、これは、殷王朝と東夷人口集団との間の交易および紛争の増加と関連しているかもしれず、それは海塩への要求によって被告、と歴史記録では示されました。この動的な期間において、社会経済構造の確立が、山東地域への黄河関連祖先系統の第二波に寄与したかもしれません。大汶口文化期と龍山文化期と初期王朝期に起きた遺伝子流動のさまざまなパターンは、山東人口集団の遺伝的構造合が6000~1500年前頃の間のどのように形成されたのか、という歴史を示しています。
さらなる研究では、日本列島の弥生時代以後の人口集団(たとえば、長墓_2.8K、日本_古墳、長墓_HE)の祖先系統が、少なくとも3供給源に由来する、と示されました。それは、縄文時代の狩猟採集民、弥生時代の移民と関連している可能性が高いアジア東部北方祖先系統、弥生時代の後に日本列島に侵入した、現在の漢人と関連しているアジア東部本土祖先系統【冒頭で述べたように、この祖先系統はすでに弥生時代に日本列島に到来していた可能性が高そうです】です[6、7、9、10]。しかし、アジア東部本土祖先系統の起源と関連する混合の時期は不明でした。本論文では、漢人と関連する以前には知られていなかったアジア東部祖先系統が、古代山東人口集団(たとえば、CZY集団、YJC集団、LJZ集団)でも見られたアジア東部北方沿岸祖先系統として特定され、DATES分析を用いて、この祖先系統は1600~1400年前頃の混合を通じてもたらされた、と推定されました。興味深いことに、このモデルは、琉球諸島民における未知の遺伝的構成要素のみを説明でき、日本列島「本土」で見られるアジア東部本土祖先系統は不明なままです。したがって、日本列島の最近の人口集団に関する遺伝学が、「縄文人」とアジア東部北方内陸部人(以前に提案された、弥生時代と関連するアジア東部北方祖先系統と類似しています)とアジア東部北方沿岸部祖先系統(以前に提案された、弥生時代の後の時代と関連するアジア東部本土祖先系統と類似しています)の関連する3祖先系統のモデルと適合しますが、アジア東部北方沿岸部祖先系統は、日本列島のさまざまな人口集団内でさらに区別できます。この観察は、現在の日本人で以前に観察された人口構造とも一致し、日本列島のさまざまな地域内の複雑な人口史を浮き彫りにします。
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この記事へのコメント
宮古島長墓サンプルからはゲノムが縄文祖先100%だった貝塚後期時代個体でD1a2a、
縄文祖先20〜30%のグスク時代〜近世個体群からはC1a1、O1b2a1a1が検出されていますが、
先島の中近世個体群からは、本土の「弥生時代人」に類似する集団が南下して交雑した結果のような印象を受けますね
しかしNEAのみならずEAも細分化できる可能性が出てきましたね
グスク時代に本土九州から南下した人々は、より後続で来た現代本土日本人のEA祖先供給源集団(現代では特に関西・四国に多い)に押し出された結果でしょうか
琉球人と本土日本人では主要なEA祖先の供給源が異なると
日本列島の人類史は紀元前千年紀以降もかなり複雑だったかもしれず、確かに、グスク時代集団の主要な祖先が九州「本土」にいたとしても、その後に、完全置換ではないとしても、「上書き」があったかもしれず、この研究の知見はそれを反映しているのかもしれない、とも思います。
「上書き」があると、現代人のゲノムデータとごく一部の古代人のゲノムデータだけでは人口史の推測が難しくなり、時空間的により広範囲の標本抽出が必要になるでしょう。
10世紀の古代集落の消滅から中世後期(近世初期)における「伝統社会」の形成にかけての期間の、九州を中心とした古代ゲノム研究が進めば、琉球諸島のグスク時代集団の遺伝的起源や、日本列島の人類史についてもさらに解明されるのではないか、と期待しています。