後期新石器時代から鉄器時代の黄河中流~下流域の人口史
古代ゲノムデータに基づく後期新石器時代から鉄器時代の黄河中流~下流域の人口史に関する研究(Fang et al., 2025)が公表されました。本論文は、後期新石器時代から鉄器時代の黄河中流域の中原~黄河下流域の海岱(Haidai)地域の古代人31個体の新たなゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人のゲノムデータと比較し、黄河中流~下流域の現代人の遺伝的形成に重要なこの期間の人口史を推測しています。海岱地域とは、泰山(Mount Tai)の東側の山東半島を指します。
中期新石器時代の仰韶(Yangshao)文化に続く後期新石器時代の龍山(Longshan)文化の中原では、南方の稲作農耕民からの遺伝子流動が推測されており、それは山東龍山文化期の海岱地域でも確認されました。しかし、龍山文化期において、中原の余庄(Yuzhuang)遺跡や山東半島の一部の遺跡では、この南方の稲作農耕民からの遺伝子流動が確認されず、後期新石器時代の中原における以前には検出されていなかった人口構造が明らかになりました。青銅器時代になると、二里頭(Erlitou)文化集団のゲノムから、中原における遺伝的安定性、および中原と海岱地域との間の相対的な遺伝的均質性が示されます。青銅器時代の前には、中原と海岱地域の間のみならず、海岱地域内部でも一定状の遺伝的多様性がありましたが、青銅器時代には中原と海岱地域(黄河中流~下流域)の人類集団の遺伝的多様性が低下したわけです。
黄河中流~下流域、とくに下流域において完新世には大きな人口変容があり、黄河下流域では初期完新世の狩猟採集民集団の遺伝的構成要素が青銅器時代にはほぼ消滅したようで、特定の地域における大規模な遺伝的構成の変容、さらにはほぼ全面的な人口置換が、完新世においても珍しくなかったこと(関連記事)を示唆しています。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、歴史時代(historical era、略してHE)です。
●要約
黄河流域の居住史は、限られた古代人のゲノム数のため、依然としてほぼ未調査です。本論文は、以前に刊行されたゲノムと、黄河下流域の山東および黄河中流域の中原の後期新石器時代から鉄器時代の新たに生成された31点のゲノムの共同分析によって、黄河の動的な人口史を解明します。この分析は、後期新石器時代の龍山文化期における山東と中原の人口構造を明らかにします。本論文は、龍山文化期の黄河の中流域および下流域の稲作農耕における顕著な増加との観察に、遺伝的類似点を提供します。しかし、龍山文化期における稲作農耕民関連の遺伝子流動は、中原の余庄遺跡もしくは山東の以前に刊行された集団には到来しませんでした。青銅器時代の二里頭文化集団のゲノムは、中原における遺伝的安定性、および中原と山東との間の相対的な遺伝的均質性を確証します。
●研究史
黄河流域は古代中華文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の発祥地です。考古学者の間では、黄河中流域の中原と黄河下流域の海岱地域には二つの異なる文化集団があり、それぞれ華夏(Huaxia)と東夷(Dongyi)に相当する、との一般的な合意があります。地理的には、中原と海岱地域は隣接しており、大きな自然の障壁はありません。考古学的には、中原および海岱地域の初期文明は、独立した発展と相互作用の統合を通じて発展しました。海岱地域の先史時代文化(以下、海岱中心文化と表記されます)には、8300~7400年前頃の後李(Houli)文化、7400~6200年前頃の北辛(Beixin)文化、6200~4600年前頃の大汶口(Dawenkou)文化、4600~4000年前頃の龍山文化、3900~3500年前頃の岳石(Yueshi)文化が含まれます。中原の先史時代文化(以下、中原中心文化と表記されます)には、9000~7000年前頃の裴李崗(Peiligang)文化、7000~5000年前頃の仰韶文化、5000~4000年前頃の龍山文化、3900~3500年前頃の二里頭文化、3600~3000年前頃の商(殷)文化が含まれます。
海岱地域の前期新石器時代の後李文化の人々は、おもに狩猟と漁撈に依拠していました。海岱地域の前期新石器時代の北辛文化および中原の前期新石器時代の李崗文化の生活様式は、狩猟および採集から雑穀に基づく農耕へと変容していきました。中原の中期新石器時代の仰韶文化と中期新石器時代の大汶口文化においては、作物栽培が主要な生計戦略でした。仰韶文化の人々はおもに雑穀農耕に依拠し、それに続くのが少量の構成要素としてのイネでした。雑穀とイネの混合農業の農耕パターンは大汶口文化において形成されましたが、雑穀とイネへの依存の水準は地理的に構造化されていました。定住および農耕の生活様式は、仰韶文化の人々の大規模な人口増加、および海岱地域や西遼河や中国南部への彩色土器(仰韶文化の重要な特徴)を伴う人口集団の急速な拡大につながりました[8~11]。
仰韶文化期および大汶口文化期の後には、後期新石器時代の龍山文化が中原および海岱地域を占めました。それ以前の在来文化に由来する特徴と共通の特徴の両方が、中原の河南龍山文化と海岱地域の山東龍山文化で観察されました。龍山文化期における生計経済の安定的な発展は、社会的階層の強化の物質的基盤を提供しました。龍山文化期における中原および海岱地域において、稲作農耕が顕著に増加しました。中原の初期青銅器時代の二里頭文化と海岱地域の岳石文化が、龍山文化の後に続きました。二里頭文化は中国【本論文で「中国」の指す範囲は明示されていないように思いますが、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省でしょうか】で採取の国家水準の社会でした。二里頭文化期に続く殷王朝が、中国史において記録のある最初の支配王朝でした。
中原と海岱地域との間の長期の継続的な相互作用は中原の李崗文化期に始まり、仰韶文化期から殷代に盛んでした。興味深いことに、中原と海岱地域との間の文化交流における主導的役割は時に変わりました。たとえば、海岱地域の北辛文化への中原の仰韶文化の文化的影響は、仰韶文化期の前期および中期段階において強かったものの、仰韶文化後期から龍山文化期には、海岱地域の大汶口文化が代わりに主導的役割を締めました。繁栄する中原中心文化の強い東方への拡大の下で、海岱中心文化は消滅し、鉄器時代となる春秋時代の中期段階までには、中原中心文化へと完全に統合されました。このよく発展した考古学的言説にも関わらず、中原と海岱地域の人口史は、とくに人口移動が広範な文化的接触を伴っていた程度について、不明なままです。
古代DNAという新興分野は、アジア東部における人口集団の分岐および相互作用の解明に新たな手段をもたらしてきました。アジア東部北方では、本論文が把握している限りでは、少なくとも4系統の生物地理的に構造化されている人口集団が存在し、それは、(1)アジア北東部全域に広がっていた「アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)」[10、17、18]、(2)多数の現在のアジア東部人口集団に寄与した黄河中流域の仰韶文化関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)[10]、(3)海岱地域の山東省から得られた後李文化の狩猟採集民(hunter gatherer、略してHG)で、「山東_HG」と呼ばれる祖先系統を表しており[11]、(4)日本列島の縄文文化関連狩猟採集民[19、20]です。
中原の人口史に焦点当てた先行研究[10]は、在来の龍山文化関連と後期青銅器時代および鉄器時代の人々における、仰韶文化関連祖先系統について支配的な役割を示しました。ここでは、仰韶文化関連祖先系統は汪溝(Wanggou)遺跡と暁塢(Xiaowu)遺跡の個体群を含めて黄河_MNによって、在来の龍山文化関連の人々は郝家台(Haojiatai)遺跡や平糧台(Pingliangtai)遺跡や瓦店(Wadian)遺跡の個体群を含めて黄河_LNによって、後期青銅器時代と鉄器時代の人々は漯河市固廂戦(Luoheguxiang)遺跡や焦作聶村(Jiaozuoniecun)遺跡や郝家台遺跡の個体群を含めて黄河_LBIAによって表されます。黄河_LNと黄河_LBIAは遺伝的に均質で、仰韶文化関連祖先系統とアジア東部南方関連祖先系統の混合として特徴づけることができます。
最近の古代DNA研究では、すべての刊行された大汶口文化の個体が仰韶文化関連祖先系統を有していたので、山東半島の新石器化は仰韶文化の人口拡散と関連していた、と裏づけられました[8、9]。山東半島の大汶口文化関連の人々は人口構造を示し、遺伝的に3集団に分類でき[8、9]、それは、(1)仰韶文化関連祖先系統の直接的子孫、(2)仰韶文化関連祖先系統と山東_HG関連祖先系統との間の混合、(3)仰韶文化関連祖先系統とアジア東部南方関連祖先系統との間の混合です。先行研究[8]では、五台(Wutai)遺跡や三里河(Sanlihe)遺跡や城子崖(Chengziya)遺跡の個体群によって表される山東半島沿岸部の山東龍山(Shandong Longshan、略してLS)文化関連集団(それぞれ、五台_LS、三里河_LS、城子崖_LSによって表されます)が、山東半島の大汶口文化関連祖先系統を有していた、と示唆しました。青銅器時代から歴史時代にかけて、山東半島の人々は中原関連祖先系統が支配的でした。
これらの毛な今日は中原と山東半島の人口史を明らかにしてきましたが、いくつかの重要な問題がまだ調べられていません。第一に、山東半島北部の後期新石器時代となる龍山文化と関連する古代人のゲノムが刊行されていません。山東半島北部の龍山文化関連の人々が在来の大汶口文化関連祖先系統を有していたのかどうか、判断が困難です。第二に、中原において、仰韶文化関連の人々と龍山文化関連の人々との間で共有されている遺伝的祖先系統の程度、および龍山文化関連の人々の遺伝的多様性があったのかどうか、まだ調べられていません。第三に、中原の初期青銅器時代の二里頭文化は、国家形成段階の重要な時点と考えられていました。二里頭文化と関連する古代人のゲノムは遺伝的に標本抽出されておらず、二里頭文化とその先行する龍山文化関連の人々と二里頭文化後の人口集団との間の遺伝的関係が不明になっています。
本論文は、黄河下流域の山東半島および黄河中流域の中原の後期新石器時代から鉄器時代にわたる31個体の、新たに生成された124万捕獲配列データを提示します。13個体は山東半島から標本抽出され、丁公(Dinggong)遺跡の後期新石器時代の龍山文化関連の10個体のゲノムと、城子崖遺跡および丁公遺跡の青銅器時代および鉄器時代の3個体のゲノムが含まれます。18個体は中原から標本抽出され、後期新石器時代となる龍山文化関連では瓦店遺跡の8個体と余庄遺跡の3個体のゲノムに、王城岡(Wangchenggang)遺跡の初期青銅器時代となる二里頭文化関連の7個体のゲノムが含まれます。研究対象の標本の考古学的遺跡の概要は、図1Aに示されています。新たに配列決定された21個体のうち親族関係にない27個体のデータが刊行されているデータとともに共同分析され、同じ地域の人々が遺伝的にどのようにつながっているのか、中原と海岱地域の人々が相互とどのように興隆したのか、解明されました。以下は本論文の図1です。
●この研究において新たに生成された古代人のゲノム
本論文で研究対象となるヒト31個体の骨格遺骸は、中原と海岱地域の5ヶ所の考古学的遺跡から回収されました。各標本についてUDG(uracil-DNA-glycosylase、ウラシルDNAグリコシラーゼ)処理なしでの二本鎖処理が構築され、溶液内捕獲経由で約124万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のパネルで濃縮されました。すべてのゲノムは古代DNAの典型的な損傷パターンを示しました。すべての個体は低水準(5%未満)の汚染を示しました。各部位における単一のアレル(対立遺伝子)の無作為標本抽出によって疑似遺伝子型が標的のSNPで呼び出され、124万SNPパネル上で36001~1189686ヶ所のSNPの個体が得られました。標的SNPでの平均的な常染色体網羅率の範囲は、0.03~4.8倍(平均値は0.93倍)でした。より高い網羅率の個体と遺伝的に最大2親等の親族である4個体は、下流分析では除外されました。同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)分析では、海岱地域の丁公遺跡の龍山文化の個体M77およびM10と中原の瓦店遺跡の龍山文化関連個体H6は、長いROHを多数有していた、と示唆されました。これらの結果は、龍山文化期の海岱地域における近い過去での近親交配事象を示しました[21]。本論文の新たなデータは、海岱地域の龍山文化関連個体群における近親婚の直接的証拠も提供します。
●中原と海岱地域における人口構造
新たに配列決定されたゲノムの遺伝的と規制を個々に報告するためまず、アジア東部現代人によって構築された差異の最初の二次元へと古代人のゲノムを投影することによって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図1B)。中原の龍山文化関連個体群内の以下の人口下位構造が観察されました。(1)瓦店遺跡の新たに生成された標本4点(黄河中流_瓦店_龍山と分類表示されます)は、先行研究[10]で以前に刊行された瓦店遺跡と平糧台遺跡と郝家台遺跡の標本(本論文では黄河_LNと分類表示されます)とクラスタ化し(まとまり)、この黄河_LNは仰韶文化関連クラスタとはアジア東部南方関連クラスタの方へとわずかに離れていました。(2)余庄遺跡の本論文で新たに生成された3点の標本(黄河中流_余庄_龍山と分類表示されます)と、中原の仰韶村(Yangshaocun)遺跡最近刊行された7点の標本(本論文では黄河_仰韶_龍山と分類表示されます)は、黄河_LNとよりも黄河_MN集団の方と密接な類似性を示しました。
人口の下位構造は、海岱地域の龍山文化関連個体群でも観察されました。本論文で新たに生成された丁公遺跡の龍山文化関連の9個体のゲノムは、PCA図において3下位集団へと区分されました。(1)主要集団には6個体が含まれました(黄河下流_丁公_龍山と分類表示されます)。これらの個体は以前に刊行された、前期新石器時代山東半島狩猟採集民(以後、山東_HGと表示されます)と充分に分離した、黄河_LN関連遺伝的クラスタの最も近くに位置しました。(2)9個体のうち2個体は外れ値(outlier、略してo)として黄河下流_丁公_龍山_o1と分類表示され、山東_HGとの遺伝的類似性に関して、中原関連の遺伝的差異の外側に位置していました。(3)1個体(黄河下流_丁公_龍山_o2と分類表示されます)は新石器時代中原の遺伝的差異内に収まりましたが、黄河下流_丁公_龍山の主要クラスタとはまとまりませんでした。
山東半島の新たに報告された龍山文化関連の個体群は、山東半島の最近刊行された龍山文化関連個体群(つまり、城子崖_LS、三里河_LS、五台_LS)とは、PCAもしくは地理的位置のどちらかで重複しませんでした。遺伝学的観点から、城子崖_LSおよび三里河_LS個体群は黄河下流_丁公_龍山と密接な関係を示し、アジア東部南方関連クラスタとの追加の類似性も示しました。五台_LS個体群は黄河下流_丁公_龍山_o1と密接な関係を示しましたが、黄河下流_丁公_龍山_o1は五台_LSよりも山東_HG関連クラスタと多くの類似性を示しました。最近刊行された後期大汶口文化(Late Dawenkou、略してLDWK)の傅家(Fujia)遺跡(傅家_LDWK)と呉村(Wucun)遺跡(呉村_LDWK)の人々は、山東半島北部の丁公遺跡の新たに調べられた龍山文化関連個体群と地理的に近くに位置しました。PCA図では、丁公遺跡の龍山文化関連集団は傅家_LDWK/呉村_LDWKの遺伝的クラスタと完全には重なりませんでした。これらの結果は、大汶口文化期と龍山文化期との間の遺伝的浮動の可能性、および海岱地域の龍山文化期における遺伝的多様性を反映していました。
新たに生成された前期青銅器時代のゲノムに焦点を当てると、海岱地域の城子崖遺跡の岳石文化関連の1個体(黄河下流_城子崖_岳石と分類表示されます)と中原の王城岡遺跡の二里頭文化関連の6個体(黄河中流_王城岡_二里頭と分類表示されます)は黄河_LN関連遺伝的クラスタへと投影された、と観察されました。後期青銅器時代および鉄器時代のゲノムは、中原における殷王朝と西周王朝と西漢(前漢)王朝の期間の刊行されている古代人のゲノム(黄河_LBIAと分類表示されます)、および本論文で新たに生成された海岱地域の丁公遺跡の漢王朝関連の1個体(黄河下流_丁公_漢王朝と分類表示されます)、海岱地域の城子崖遺跡の2500年前(2.5kya)頃の1個体(黄河下流_城子崖_2.5kyaと分類表示されます)も、黄河_LNとともにクラスタ化しました。
●中期新石器時代から歴史時代の間の海岱地域における動的な人口史
大汶口文化関連の人々と比較して、海岱地域龍山文化関連の人々への中原関連からの遺伝子流動の新たな到来があったのかどうか、調べるため、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN;五台_LS、五台_LDWK)および(ヨルバ人、黄河_MN;三里河_LS、三里河_LDWK)および(ヨルバ人、黄河_MN;黄河下流_丁公_龍山、傅家_LDWK/呉村_LDWK)のf₄統計が実行され、傅家_LDWKと呉村_LDWKは地理的に本論文で新たに調べられた丁公遺跡に近く、本論文では、傅家_LDWKと呉村_LDWKが丁公遺跡の大汶口文化関連祖先系統を表すものとして用いられました。有意ではないf₄値(Z得点が−0.901超で0.696未満)から、龍山文化関連集団は在来の大汶口文化関連集団と比較して、追加の中原関連の遺伝子流動を受けなかった、と示唆されました。
次に、海岱地域の龍山文化期における中心的な集落の一つである丁公遺跡の、この地域における大汶口文化期と龍山文化期との間の共有された遺伝的浮動が定量的に調べられました。外群f₃統計では、黄河下流_丁公_龍山は傅家_LDWKおよび呉村_LDWKと高い遺伝的浮動を共有していました。傅家_LDWKおよび呉村_LDWKと比較すると、黄河下流_丁公_龍山は、台湾の漢本(Hanben)遺跡の鉄器時代個体群(台湾_漢本)を用いたf₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;黄河下流_丁公_龍山、傅家_LDWK/呉村_LDWK)によって示されるように、アジア東部南方関連祖先系統との遺伝的類似性を示しました。qpAdmモデル化では、黄河下流_丁公_龍山は約80%の傅家_LDWK/呉村_LDWKと約20%の台湾先住民のアミ人(Ami)によって表されるアジア東部南方の混合としてモデル化できる、と示唆されました。黄河下流_丁公_龍山は、30.5%の淄博(Boshan)遺跡個体によって表される山東_HG、51.2%の黄河_MNによって表される中原、18.3%のアミ人によって表されるアジア東部南方の混合としてもモデル化できます。
すべてのf₄統計(ヨルバ人、X;黄河下流_丁公_龍山_o1、傅家_LDWK/呉村_LDWK)における有意ではない値から、黄河下流_丁公_龍山_o1(2個体が含まれます)は傅家_LDWK/呉村_LDWKの直接的子孫だった、と示唆されました(図2)。この結果はqpAdm分析によって裏づけられました。別の1個体によって表される黄河下流_丁公_龍山_o2は、すべてのf₄統計(ヨルバ人、X;黄河下流_丁公_龍山_o2、黄河_MN)における有意ではない値によってしめされるように、アジア東部南方関連の遺伝的寄与と傅家_LDWK/呉村_LDWK関連の遺伝的寄与の必要がない、仰韶文化関連祖先系統の直接的子孫でした(図2)。黄河下流_丁公_龍山_o2は、仰韶文化関連祖先系統と遺伝的に均質だった、山東半島の西夏侯(Xixiahou)遺跡の後期大汶口文化個体(西夏侯_LDWK)および二村(Ercun)遺跡の中期~後期大汶口文化(MLDWK)の個体(二村_LDWK)とも遺伝的に均質でした。以下は本論文の図2です。
以前に刊行された3000年前(3k)頃となる五台遺跡の個体(山東_3k_五台)および両醇(Liangchun)遺跡の個体(山東_3k_両醇)は、その近い地理的位置として丁公遺跡の3000年前頃の人々を表すのに使用できます。先行研究[23]で以前に刊行された山東_HE個体群と本論文で新たに生成された丁公遺跡の漢王朝期の1個体(黄河下流_丁公_漢王朝)は、その近い地理的位置として丁公遺跡の歴史時代の人々を表すのに使用できます。外群f₃統計では、山東_3k_呉村は中原関連祖先系統と高い遺伝的浮動を共有していた、と裏づけられました。f₄統計(ヨルバ人、黄河_MN;山東_3k_呉村、呉村_LDWK/黄河下流_丁公_龍山)の有意な負の値も、龍山文化期の4000寝間と3000年前頃の間における丁公遺跡/呉村遺跡を網羅する地域への中原関連の遺伝子流動を示唆しました。f₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;山東_3k_呉村、呉村_LDWK /黄河_MN/黄河_LN)の有意な負の値から、山東_3k_呉村が呉村_LDWK /黄河_MN/黄河_LNと比較してアジア東部南方関連祖先系統と余分な類似性を共有していたのに対して、このアジア東部南方関連の遺伝子流動は、f₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;山東_3k_呉村、黄河下流_丁公_龍山)では黄河下流_丁公_龍山と比較して観察されなかった、と示唆されました。
f₄統計(ヨルバ人、山東_HG;山東_3k_呉村、黄河_MN/黄河_LN)の負の有意な値は、中原関連祖先系統と比較して、山東_3k_呉村における追加の山東_HG関連の兆候を示唆しませんでした。f₄統計(ヨルバ人、黄河下流_丁公_龍山/呉村_LDWK;山東_3k_呉村、黄河_MN/黄河_LN)のわずかに有意な負の値から、山東_3k_呉村は黄河_MN/黄河_LNと比較して、在来の大汶口文化および龍山文化関連祖先系統と余分な類似性を有しているかもしれない、と示唆されました。したがって、黄河_MN/黄河_LNとアジア東部南方と黄河下流_丁公_龍山/呉村_LDWKを山東_3k_呉村の潜在的供給源として用いて、1方向と2方向と3方向のqpAdmモデル化が実行されました。その結果、山東_3k_呉村は約92%の黄河_LNと約8%のアジア東部南方の混合としてのみモデル化できる、と分かりました。この2方向モデル化が、在来の大汶口文化および龍山文化集団(つまり、呉村_LDWKと黄河下流_丁公_龍山)が外群一式に追加されてさえ充分に適合したのに対して、山東_3k_呉村と新たに報告された青銅器時代および鉄器時代の個体群(黄河下流_城子崖_岳石と黄河下流_城子崖_2.5kya)や山東_HEおよび黄河下流_丁公_漢王朝は、すべてのf₄統計およびqpAdm分析における負の有意な値によって示唆されるように、黄河_LNの直接的子孫でした。
●仰韶文化と龍山文化との間の文化的移行には中原における人口置換が必ずしも伴っていませんでした
海岱地域への中原関連祖先系統の広範な遺伝的影響があるので、本論文は次に、海岱地域固有の山東_HG関連系統が中原に及ぼした影響を調べました。山東_HGと関連する遺伝子流動は、仰韶文化関連人口集団と比較して龍山文化期には検出されず、それは、f₄統計(ヨルバ人、山東_HG;黄河_LN/黄河中流_瓦店_龍山/黄河中流_余庄_龍山、黄河_MN)によると、山東_HGが中原における黄河_MNおよび全ての龍山文化関連集団と同じ量のアレルを共有していたからです。二村_LDWKや西夏侯_LDWKなど山東半島における一部の大汶口文化関連集団がすでに黄河_MNの直接的子孫だったことを考えると、文化的相互作用によって伴われる中原への海岱地域固有の山東_HG関連祖先系統の痕跡がない、大汶口文化集団の人口移動の筋書きを除外できません。
瓦店考古学的遺跡から新たに生成された龍山文化人口集団は、f₄形式(ヨルバ人、X;黄河中流_瓦店_龍山、黄河_LN)のf₄統計すべてに基づくと、以前に刊行された黄河_LNのゲノムと遺伝的に均質でした。黄河中流_瓦店_龍山と黄河_LNとの間の遺伝的均質性は、qpAdm分析によってさらに裏づけることができます。中原の別の新たに報告された龍山文化関連集団が、余庄遺跡から新たに標本抽出されました(つまり、黄河中流_余庄_龍山)。余庄遺跡は現時点で、中原地域において最大の龍山文化期の集落です。余庄遺跡には周辺地域との文化的交流がありました。余庄遺跡における赤い土器の盃や彩色土器や精巧な葬儀は、湖北省武漢市の江漢(Jianghan)地域の屈家嶺(Qujialing)文化および石家河(Shijiahe)文化に影響を受けた、と考えられています。発掘された卵殻土器と埋葬物としてのノロジカの歯の使用は、山東半島の大汶口文化および龍山文化の要素と類似しています。山東半島および江漢地域から余庄遺跡への文化的影響に遺伝子流動が伴っていたのかどうか、不明でした。本論文では、外群f₃統計において余庄遺跡個体は黄河_MN関連祖先系統と最も多くの遺伝的浮動を共有していた、と分かりました。f₄形式(ヨルバ人、X;黄河中流_余庄_龍山、黄河_MN)のf₄統計では、Xをアジア東部南方および山東半島の古代人としてさえも、有意な値が得られませんでした。qpAdm分析も、黄河_MNと黄河中流_余庄_龍山との間の遺伝的均質性を裏づけました。したがって、遺伝学的観点からは、龍山文化関連の余庄遺跡の人々は、先行する仰韶文化関連祖先系統と比較して、山東半島およびアジア東部南方関連祖先系統からの遺伝子流動を受けませんでした。
●初期青銅器時代の二里頭文化関連の人々は黄河_LN関連祖先系統の直接的子孫でした
本論文では、中原の王城岡遺跡から得られた二里頭文化関連のゲノムの最初の一群(つまり、黄河中流_王城岡_二里頭)が初めて報告されます。f₄統計(ヨルバ人、X;黄河中流_王城岡_二里頭、黄河_MN/黄河_LN)では、Xを山東_HG/山東半島の大汶口文化および龍山文化関連集団としてさえも、有意な負の値が得られませんでした。qpAdm分析では、黄河中流_王城岡_二里頭が黄河_MNの混合していない子孫だった、とのモデルが却下されました。黄河中流_王城岡_二里頭の人々は、黄河_LNによって1方向でモデル化できます。これは、新石器時代の山東半島関連祖先系統の痕跡がない、中原における後期新石器時代の黄河_LN関連祖先系統の遺伝的安定性を示唆しています。
●考察
中原中心と海岱地域中心の中華文明との間の関係には、過去何十年にもわたって大きな関心が寄せられてきました。以前の古代ゲノム研究では、中原(中期新石器時代の仰韶文化関連の古代人によって表されます)および海岱地域(前期新石器時代の後李文化関連の古代人によって表されます)の最古級のゲノムとは対照的に、中原と海岱地域のその後の人口集団は相互との小さな遺伝的分化を示し、これはおもに中原から海岱地域への人口移動の広範な過程に起因するかもしれず、それが中原関連祖先系統を有する中期新石器時代の後期大汶口文化と関連する集団につながった、と示唆されました[8、9]。本論文では、後期新石器時代から青銅器時代にかけての中原と山東半島北部の集団の人口史に関する新たな観察が提供されます。
仰韶文化および大汶口文化期の後には、龍山文化が中原と海岱地域を締めました。先行する在来の文化に由来する固有の特徴と共通の特徴の両方が、中原の河南省の龍山文化と海岱地域の山東龍山文化で観察されました。遺伝学的観点からは、山東半島と中原においてそれぞれ、大汶口文化関連祖先系統と仰韶文化関連祖先系統の遺伝的遺産が観察されました。山東半島と中原の両方で、大汶口文化/仰韶文化期と龍山文化期との間において遺伝的変化も観察されました。しかし、これらの遺伝的変化は、中原と山東半島の狩猟採集民関連祖先系統の移動とは関連していませんでした。
山東半島では、以前に刊行された龍山文化関連集団(五台_LS、三里河_LS、城子崖_LS)は、同じ考古学的遺跡の大汶口文化関連集団と比較して、中原関連祖先系統との余分な類似性を示しませんでした。丁公遺跡の本論文で新たに報告された龍山文化関連のゲノムは人口下位構造を示し、2個体(黄河下流_丁公_龍山_o1)は在来の大汶口文化関連の遺伝的特性(傅家_LDWKと呉村_LDWKによって表されます)の直接的子孫で(図2)、6個体(黄河下流_丁公_龍山)は在来の大汶口文化関連の遺伝的特性を維持し、アジア東部南方の稲作農耕民と関連しているかもしれない追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました(図2)。この結果は、龍山文化期の黄河下流域における稲作農耕の顕著な増加との観察に遺伝的類似性を提供しました。一部の山東半島集団が大汶口文化期において黄河_MNの直接的子孫だったことを考えると、丁公遺跡における100%の黄河_MN関連祖先系統の単一個体(黄河下流_丁公_龍山_o2)は、山東半島の他地域からの移民だった可能性がより高そうです。
中原において、以前に刊行された龍山文化関連の古代人も新たに生成された龍山文化関連の古代人も、仰韶文化関連祖先系統と比較して、山東_HG関連の遺伝的影響を受けませんでした。本論文で新たに生成された余庄遺跡の龍山文化関連個体群は、仰韶文化関連の人々(黄河_MN)と遺伝的に均質でした。余庄遺跡の龍山文化関連個体群は遺伝的に、黄河_LNおよび本論文で新たに生成された瓦店遺跡の個体群と遺伝的に均質でした(図2)。これは、黄河_MNおよび龍山文化関連の余庄遺跡の人々と比較しての、黄河_LNおよび新たに生成された瓦店遺跡の個体群における追加のアジア東部南方関連祖先系統(約10%)に起因するかもしれません。丁公遺跡の龍山文化関連の9個体のうち6個体も、大汶口文化関連の人々と比較して、追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました。これらの結果は、アジア東部南方の人々が龍山文化期に海岱地域と中原に別々に移住したことを反映しています。余庄遺跡の人々は、黄河_MNの直接的子孫でした。余庄遺跡の事例から、仰韶文化と龍山文化との間の文化的移行は、中原においては必ずしも人口置換を伴わなかった、と示唆されます。さらに、考古学的情報に基づくと、余庄遺跡の龍山文化期の女性1個体M64XRは、生贄でした(墓の所有者からは充分なゲノムデータが得られませんでした)。しかし、この個体【M64XR】と他の余庄遺跡の2個体との間に有意な遺伝的違いも、仰韶文化関連祖先系統の違いもありませんでした。
龍山文化期の山東半島における遺伝的置換は、中原関連祖先系統の強い拡大と関連していました。山東半島北部の青銅器時代の人々は、以前に刊行された山東_3k_呉村および山東_3k_両醇によって表されました。これら2集団の遺伝的特性は、黄河_LNおよび/もしくはアジア東部南方により適切に説明され、在来の大汶口文化および龍山文化関連の人々として、山東_HG関連祖先系統は必要ありませんでした(図2)。中原の中央部において、本論文で新たに生成された二里頭文化関連の人々によって表される初期青銅器時代の人々は黄河_LNと遺伝的に均質で、中原の中央部における遺伝的安定性が示唆されます(図2)。中原西部では、最近刊行された仰韶村遺跡の龍山文化関連のゲノム(黄河_仰韶村_龍山によって表されます)[24]と路糸茜(Lusixi)遺跡の青銅器時代のゲノム(黄河_西周王朝によって表されます)[25]によって示されるように、龍山文化期と青銅器時代との間の黄河_LN関連祖先系統の移住によって引き起こされた人口置換がありました。黄河_仰韶村_龍山は黄河_LNと遺伝的に均質でしたが、少なくとも西周王朝において、人々(黄河_西周王朝によって表されます)は黄河_LNと遺伝的に均質でした。考古学的観点から、中原の二里頭文化への岳石関連文化の影響の程度に関して、さまざまな見解もあります。二里頭文化関連の人々は、黄河_LNおよび黄河_MNと比較して、山東_HG/山東_大汶口文化/山東_龍山文化関連の祖先系統が欠けています。これらの結果から、中期新石器時代以降の海岱地域の文化的拡散は、中原への顕著な山東_HG関連祖先系統を有する大規模な人口移動を伴わなかったかもしれない、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
本論文の限られた標本抽出が、中原と海岱地域の遺伝的多様性を完全には把握できない可能性に注意すべきです。裴李崗文化期から現在のさまざまな考古学的遺跡からのさらなる標本抽出、とくに高網羅率の古代人のゲノムを探すことが、海岱地域と中原との間の遺伝的相互作用に関するより包括的な理解を得るのに必要でしょう。
参考文献:
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[8]Du P. et al.(2024): Genomic dynamics of the Lower Yellow River Valley since the Early Neolithic. Current Biology, 34, 17, 3996–4006.E11.
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[9]Wang F. et al.(2024): Neolithization of Dawenkou culture in the lower Yellow River involved the demic diffusion from the Central Plain. Science Bulletin, 69, 23, 3677-3681.
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[10]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
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[18]Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
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[19]Gakuhari T. et al.(2020): Ancient Jomon genome sequence analysis sheds light on migration patterns of early East Asian populations. Communications Biology, 3, 437.
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[21]Ning C. et al.(2021): Ancient genome analyses shed light on kinship organization and mating practice of Late Neolithic society in China. iScience, 24, 11, 103352.
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[24]Li S. et al.(2024): Ancient genomic time transect unravels the population dynamics of Neolithic middle Yellow River farmers. Science Bulletin, 69, 21, 3365-3370.
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[25]Ma H. et al.(2025): Ancient genomes shed light on the long-term genetic stability in the Central Plain of China. Science Bulletin, 70, 3, 333-337.
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中期新石器時代の仰韶(Yangshao)文化に続く後期新石器時代の龍山(Longshan)文化の中原では、南方の稲作農耕民からの遺伝子流動が推測されており、それは山東龍山文化期の海岱地域でも確認されました。しかし、龍山文化期において、中原の余庄(Yuzhuang)遺跡や山東半島の一部の遺跡では、この南方の稲作農耕民からの遺伝子流動が確認されず、後期新石器時代の中原における以前には検出されていなかった人口構造が明らかになりました。青銅器時代になると、二里頭(Erlitou)文化集団のゲノムから、中原における遺伝的安定性、および中原と海岱地域との間の相対的な遺伝的均質性が示されます。青銅器時代の前には、中原と海岱地域の間のみならず、海岱地域内部でも一定状の遺伝的多様性がありましたが、青銅器時代には中原と海岱地域(黄河中流~下流域)の人類集団の遺伝的多様性が低下したわけです。
黄河中流~下流域、とくに下流域において完新世には大きな人口変容があり、黄河下流域では初期完新世の狩猟採集民集団の遺伝的構成要素が青銅器時代にはほぼ消滅したようで、特定の地域における大規模な遺伝的構成の変容、さらにはほぼ全面的な人口置換が、完新世においても珍しくなかったこと(関連記事)を示唆しています。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、歴史時代(historical era、略してHE)です。
●要約
黄河流域の居住史は、限られた古代人のゲノム数のため、依然としてほぼ未調査です。本論文は、以前に刊行されたゲノムと、黄河下流域の山東および黄河中流域の中原の後期新石器時代から鉄器時代の新たに生成された31点のゲノムの共同分析によって、黄河の動的な人口史を解明します。この分析は、後期新石器時代の龍山文化期における山東と中原の人口構造を明らかにします。本論文は、龍山文化期の黄河の中流域および下流域の稲作農耕における顕著な増加との観察に、遺伝的類似点を提供します。しかし、龍山文化期における稲作農耕民関連の遺伝子流動は、中原の余庄遺跡もしくは山東の以前に刊行された集団には到来しませんでした。青銅器時代の二里頭文化集団のゲノムは、中原における遺伝的安定性、および中原と山東との間の相対的な遺伝的均質性を確証します。
●研究史
黄河流域は古代中華文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します】の発祥地です。考古学者の間では、黄河中流域の中原と黄河下流域の海岱地域には二つの異なる文化集団があり、それぞれ華夏(Huaxia)と東夷(Dongyi)に相当する、との一般的な合意があります。地理的には、中原と海岱地域は隣接しており、大きな自然の障壁はありません。考古学的には、中原および海岱地域の初期文明は、独立した発展と相互作用の統合を通じて発展しました。海岱地域の先史時代文化(以下、海岱中心文化と表記されます)には、8300~7400年前頃の後李(Houli)文化、7400~6200年前頃の北辛(Beixin)文化、6200~4600年前頃の大汶口(Dawenkou)文化、4600~4000年前頃の龍山文化、3900~3500年前頃の岳石(Yueshi)文化が含まれます。中原の先史時代文化(以下、中原中心文化と表記されます)には、9000~7000年前頃の裴李崗(Peiligang)文化、7000~5000年前頃の仰韶文化、5000~4000年前頃の龍山文化、3900~3500年前頃の二里頭文化、3600~3000年前頃の商(殷)文化が含まれます。
海岱地域の前期新石器時代の後李文化の人々は、おもに狩猟と漁撈に依拠していました。海岱地域の前期新石器時代の北辛文化および中原の前期新石器時代の李崗文化の生活様式は、狩猟および採集から雑穀に基づく農耕へと変容していきました。中原の中期新石器時代の仰韶文化と中期新石器時代の大汶口文化においては、作物栽培が主要な生計戦略でした。仰韶文化の人々はおもに雑穀農耕に依拠し、それに続くのが少量の構成要素としてのイネでした。雑穀とイネの混合農業の農耕パターンは大汶口文化において形成されましたが、雑穀とイネへの依存の水準は地理的に構造化されていました。定住および農耕の生活様式は、仰韶文化の人々の大規模な人口増加、および海岱地域や西遼河や中国南部への彩色土器(仰韶文化の重要な特徴)を伴う人口集団の急速な拡大につながりました[8~11]。
仰韶文化期および大汶口文化期の後には、後期新石器時代の龍山文化が中原および海岱地域を占めました。それ以前の在来文化に由来する特徴と共通の特徴の両方が、中原の河南龍山文化と海岱地域の山東龍山文化で観察されました。龍山文化期における生計経済の安定的な発展は、社会的階層の強化の物質的基盤を提供しました。龍山文化期における中原および海岱地域において、稲作農耕が顕著に増加しました。中原の初期青銅器時代の二里頭文化と海岱地域の岳石文化が、龍山文化の後に続きました。二里頭文化は中国【本論文で「中国」の指す範囲は明示されていないように思いますが、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省でしょうか】で採取の国家水準の社会でした。二里頭文化期に続く殷王朝が、中国史において記録のある最初の支配王朝でした。
中原と海岱地域との間の長期の継続的な相互作用は中原の李崗文化期に始まり、仰韶文化期から殷代に盛んでした。興味深いことに、中原と海岱地域との間の文化交流における主導的役割は時に変わりました。たとえば、海岱地域の北辛文化への中原の仰韶文化の文化的影響は、仰韶文化期の前期および中期段階において強かったものの、仰韶文化後期から龍山文化期には、海岱地域の大汶口文化が代わりに主導的役割を締めました。繁栄する中原中心文化の強い東方への拡大の下で、海岱中心文化は消滅し、鉄器時代となる春秋時代の中期段階までには、中原中心文化へと完全に統合されました。このよく発展した考古学的言説にも関わらず、中原と海岱地域の人口史は、とくに人口移動が広範な文化的接触を伴っていた程度について、不明なままです。
古代DNAという新興分野は、アジア東部における人口集団の分岐および相互作用の解明に新たな手段をもたらしてきました。アジア東部北方では、本論文が把握している限りでは、少なくとも4系統の生物地理的に構造化されている人口集団が存在し、それは、(1)アジア北東部全域に広がっていた「アジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)」[10、17、18]、(2)多数の現在のアジア東部人口集団に寄与した黄河中流域の仰韶文化関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)[10]、(3)海岱地域の山東省から得られた後李文化の狩猟採集民(hunter gatherer、略してHG)で、「山東_HG」と呼ばれる祖先系統を表しており[11]、(4)日本列島の縄文文化関連狩猟採集民[19、20]です。
中原の人口史に焦点当てた先行研究[10]は、在来の龍山文化関連と後期青銅器時代および鉄器時代の人々における、仰韶文化関連祖先系統について支配的な役割を示しました。ここでは、仰韶文化関連祖先系統は汪溝(Wanggou)遺跡と暁塢(Xiaowu)遺跡の個体群を含めて黄河_MNによって、在来の龍山文化関連の人々は郝家台(Haojiatai)遺跡や平糧台(Pingliangtai)遺跡や瓦店(Wadian)遺跡の個体群を含めて黄河_LNによって、後期青銅器時代と鉄器時代の人々は漯河市固廂戦(Luoheguxiang)遺跡や焦作聶村(Jiaozuoniecun)遺跡や郝家台遺跡の個体群を含めて黄河_LBIAによって表されます。黄河_LNと黄河_LBIAは遺伝的に均質で、仰韶文化関連祖先系統とアジア東部南方関連祖先系統の混合として特徴づけることができます。
最近の古代DNA研究では、すべての刊行された大汶口文化の個体が仰韶文化関連祖先系統を有していたので、山東半島の新石器化は仰韶文化の人口拡散と関連していた、と裏づけられました[8、9]。山東半島の大汶口文化関連の人々は人口構造を示し、遺伝的に3集団に分類でき[8、9]、それは、(1)仰韶文化関連祖先系統の直接的子孫、(2)仰韶文化関連祖先系統と山東_HG関連祖先系統との間の混合、(3)仰韶文化関連祖先系統とアジア東部南方関連祖先系統との間の混合です。先行研究[8]では、五台(Wutai)遺跡や三里河(Sanlihe)遺跡や城子崖(Chengziya)遺跡の個体群によって表される山東半島沿岸部の山東龍山(Shandong Longshan、略してLS)文化関連集団(それぞれ、五台_LS、三里河_LS、城子崖_LSによって表されます)が、山東半島の大汶口文化関連祖先系統を有していた、と示唆しました。青銅器時代から歴史時代にかけて、山東半島の人々は中原関連祖先系統が支配的でした。
これらの毛な今日は中原と山東半島の人口史を明らかにしてきましたが、いくつかの重要な問題がまだ調べられていません。第一に、山東半島北部の後期新石器時代となる龍山文化と関連する古代人のゲノムが刊行されていません。山東半島北部の龍山文化関連の人々が在来の大汶口文化関連祖先系統を有していたのかどうか、判断が困難です。第二に、中原において、仰韶文化関連の人々と龍山文化関連の人々との間で共有されている遺伝的祖先系統の程度、および龍山文化関連の人々の遺伝的多様性があったのかどうか、まだ調べられていません。第三に、中原の初期青銅器時代の二里頭文化は、国家形成段階の重要な時点と考えられていました。二里頭文化と関連する古代人のゲノムは遺伝的に標本抽出されておらず、二里頭文化とその先行する龍山文化関連の人々と二里頭文化後の人口集団との間の遺伝的関係が不明になっています。
本論文は、黄河下流域の山東半島および黄河中流域の中原の後期新石器時代から鉄器時代にわたる31個体の、新たに生成された124万捕獲配列データを提示します。13個体は山東半島から標本抽出され、丁公(Dinggong)遺跡の後期新石器時代の龍山文化関連の10個体のゲノムと、城子崖遺跡および丁公遺跡の青銅器時代および鉄器時代の3個体のゲノムが含まれます。18個体は中原から標本抽出され、後期新石器時代となる龍山文化関連では瓦店遺跡の8個体と余庄遺跡の3個体のゲノムに、王城岡(Wangchenggang)遺跡の初期青銅器時代となる二里頭文化関連の7個体のゲノムが含まれます。研究対象の標本の考古学的遺跡の概要は、図1Aに示されています。新たに配列決定された21個体のうち親族関係にない27個体のデータが刊行されているデータとともに共同分析され、同じ地域の人々が遺伝的にどのようにつながっているのか、中原と海岱地域の人々が相互とどのように興隆したのか、解明されました。以下は本論文の図1です。
●この研究において新たに生成された古代人のゲノム
本論文で研究対象となるヒト31個体の骨格遺骸は、中原と海岱地域の5ヶ所の考古学的遺跡から回収されました。各標本についてUDG(uracil-DNA-glycosylase、ウラシルDNAグリコシラーゼ)処理なしでの二本鎖処理が構築され、溶液内捕獲経由で約124万ヶ所のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のパネルで濃縮されました。すべてのゲノムは古代DNAの典型的な損傷パターンを示しました。すべての個体は低水準(5%未満)の汚染を示しました。各部位における単一のアレル(対立遺伝子)の無作為標本抽出によって疑似遺伝子型が標的のSNPで呼び出され、124万SNPパネル上で36001~1189686ヶ所のSNPの個体が得られました。標的SNPでの平均的な常染色体網羅率の範囲は、0.03~4.8倍(平均値は0.93倍)でした。より高い網羅率の個体と遺伝的に最大2親等の親族である4個体は、下流分析では除外されました。同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)分析では、海岱地域の丁公遺跡の龍山文化の個体M77およびM10と中原の瓦店遺跡の龍山文化関連個体H6は、長いROHを多数有していた、と示唆されました。これらの結果は、龍山文化期の海岱地域における近い過去での近親交配事象を示しました[21]。本論文の新たなデータは、海岱地域の龍山文化関連個体群における近親婚の直接的証拠も提供します。
●中原と海岱地域における人口構造
新たに配列決定されたゲノムの遺伝的と規制を個々に報告するためまず、アジア東部現代人によって構築された差異の最初の二次元へと古代人のゲノムを投影することによって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図1B)。中原の龍山文化関連個体群内の以下の人口下位構造が観察されました。(1)瓦店遺跡の新たに生成された標本4点(黄河中流_瓦店_龍山と分類表示されます)は、先行研究[10]で以前に刊行された瓦店遺跡と平糧台遺跡と郝家台遺跡の標本(本論文では黄河_LNと分類表示されます)とクラスタ化し(まとまり)、この黄河_LNは仰韶文化関連クラスタとはアジア東部南方関連クラスタの方へとわずかに離れていました。(2)余庄遺跡の本論文で新たに生成された3点の標本(黄河中流_余庄_龍山と分類表示されます)と、中原の仰韶村(Yangshaocun)遺跡最近刊行された7点の標本(本論文では黄河_仰韶_龍山と分類表示されます)は、黄河_LNとよりも黄河_MN集団の方と密接な類似性を示しました。
人口の下位構造は、海岱地域の龍山文化関連個体群でも観察されました。本論文で新たに生成された丁公遺跡の龍山文化関連の9個体のゲノムは、PCA図において3下位集団へと区分されました。(1)主要集団には6個体が含まれました(黄河下流_丁公_龍山と分類表示されます)。これらの個体は以前に刊行された、前期新石器時代山東半島狩猟採集民(以後、山東_HGと表示されます)と充分に分離した、黄河_LN関連遺伝的クラスタの最も近くに位置しました。(2)9個体のうち2個体は外れ値(outlier、略してo)として黄河下流_丁公_龍山_o1と分類表示され、山東_HGとの遺伝的類似性に関して、中原関連の遺伝的差異の外側に位置していました。(3)1個体(黄河下流_丁公_龍山_o2と分類表示されます)は新石器時代中原の遺伝的差異内に収まりましたが、黄河下流_丁公_龍山の主要クラスタとはまとまりませんでした。
山東半島の新たに報告された龍山文化関連の個体群は、山東半島の最近刊行された龍山文化関連個体群(つまり、城子崖_LS、三里河_LS、五台_LS)とは、PCAもしくは地理的位置のどちらかで重複しませんでした。遺伝学的観点から、城子崖_LSおよび三里河_LS個体群は黄河下流_丁公_龍山と密接な関係を示し、アジア東部南方関連クラスタとの追加の類似性も示しました。五台_LS個体群は黄河下流_丁公_龍山_o1と密接な関係を示しましたが、黄河下流_丁公_龍山_o1は五台_LSよりも山東_HG関連クラスタと多くの類似性を示しました。最近刊行された後期大汶口文化(Late Dawenkou、略してLDWK)の傅家(Fujia)遺跡(傅家_LDWK)と呉村(Wucun)遺跡(呉村_LDWK)の人々は、山東半島北部の丁公遺跡の新たに調べられた龍山文化関連個体群と地理的に近くに位置しました。PCA図では、丁公遺跡の龍山文化関連集団は傅家_LDWK/呉村_LDWKの遺伝的クラスタと完全には重なりませんでした。これらの結果は、大汶口文化期と龍山文化期との間の遺伝的浮動の可能性、および海岱地域の龍山文化期における遺伝的多様性を反映していました。
新たに生成された前期青銅器時代のゲノムに焦点を当てると、海岱地域の城子崖遺跡の岳石文化関連の1個体(黄河下流_城子崖_岳石と分類表示されます)と中原の王城岡遺跡の二里頭文化関連の6個体(黄河中流_王城岡_二里頭と分類表示されます)は黄河_LN関連遺伝的クラスタへと投影された、と観察されました。後期青銅器時代および鉄器時代のゲノムは、中原における殷王朝と西周王朝と西漢(前漢)王朝の期間の刊行されている古代人のゲノム(黄河_LBIAと分類表示されます)、および本論文で新たに生成された海岱地域の丁公遺跡の漢王朝関連の1個体(黄河下流_丁公_漢王朝と分類表示されます)、海岱地域の城子崖遺跡の2500年前(2.5kya)頃の1個体(黄河下流_城子崖_2.5kyaと分類表示されます)も、黄河_LNとともにクラスタ化しました。
●中期新石器時代から歴史時代の間の海岱地域における動的な人口史
大汶口文化関連の人々と比較して、海岱地域龍山文化関連の人々への中原関連からの遺伝子流動の新たな到来があったのかどうか、調べるため、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN;五台_LS、五台_LDWK)および(ヨルバ人、黄河_MN;三里河_LS、三里河_LDWK)および(ヨルバ人、黄河_MN;黄河下流_丁公_龍山、傅家_LDWK/呉村_LDWK)のf₄統計が実行され、傅家_LDWKと呉村_LDWKは地理的に本論文で新たに調べられた丁公遺跡に近く、本論文では、傅家_LDWKと呉村_LDWKが丁公遺跡の大汶口文化関連祖先系統を表すものとして用いられました。有意ではないf₄値(Z得点が−0.901超で0.696未満)から、龍山文化関連集団は在来の大汶口文化関連集団と比較して、追加の中原関連の遺伝子流動を受けなかった、と示唆されました。
次に、海岱地域の龍山文化期における中心的な集落の一つである丁公遺跡の、この地域における大汶口文化期と龍山文化期との間の共有された遺伝的浮動が定量的に調べられました。外群f₃統計では、黄河下流_丁公_龍山は傅家_LDWKおよび呉村_LDWKと高い遺伝的浮動を共有していました。傅家_LDWKおよび呉村_LDWKと比較すると、黄河下流_丁公_龍山は、台湾の漢本(Hanben)遺跡の鉄器時代個体群(台湾_漢本)を用いたf₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;黄河下流_丁公_龍山、傅家_LDWK/呉村_LDWK)によって示されるように、アジア東部南方関連祖先系統との遺伝的類似性を示しました。qpAdmモデル化では、黄河下流_丁公_龍山は約80%の傅家_LDWK/呉村_LDWKと約20%の台湾先住民のアミ人(Ami)によって表されるアジア東部南方の混合としてモデル化できる、と示唆されました。黄河下流_丁公_龍山は、30.5%の淄博(Boshan)遺跡個体によって表される山東_HG、51.2%の黄河_MNによって表される中原、18.3%のアミ人によって表されるアジア東部南方の混合としてもモデル化できます。
すべてのf₄統計(ヨルバ人、X;黄河下流_丁公_龍山_o1、傅家_LDWK/呉村_LDWK)における有意ではない値から、黄河下流_丁公_龍山_o1(2個体が含まれます)は傅家_LDWK/呉村_LDWKの直接的子孫だった、と示唆されました(図2)。この結果はqpAdm分析によって裏づけられました。別の1個体によって表される黄河下流_丁公_龍山_o2は、すべてのf₄統計(ヨルバ人、X;黄河下流_丁公_龍山_o2、黄河_MN)における有意ではない値によってしめされるように、アジア東部南方関連の遺伝的寄与と傅家_LDWK/呉村_LDWK関連の遺伝的寄与の必要がない、仰韶文化関連祖先系統の直接的子孫でした(図2)。黄河下流_丁公_龍山_o2は、仰韶文化関連祖先系統と遺伝的に均質だった、山東半島の西夏侯(Xixiahou)遺跡の後期大汶口文化個体(西夏侯_LDWK)および二村(Ercun)遺跡の中期~後期大汶口文化(MLDWK)の個体(二村_LDWK)とも遺伝的に均質でした。以下は本論文の図2です。
以前に刊行された3000年前(3k)頃となる五台遺跡の個体(山東_3k_五台)および両醇(Liangchun)遺跡の個体(山東_3k_両醇)は、その近い地理的位置として丁公遺跡の3000年前頃の人々を表すのに使用できます。先行研究[23]で以前に刊行された山東_HE個体群と本論文で新たに生成された丁公遺跡の漢王朝期の1個体(黄河下流_丁公_漢王朝)は、その近い地理的位置として丁公遺跡の歴史時代の人々を表すのに使用できます。外群f₃統計では、山東_3k_呉村は中原関連祖先系統と高い遺伝的浮動を共有していた、と裏づけられました。f₄統計(ヨルバ人、黄河_MN;山東_3k_呉村、呉村_LDWK/黄河下流_丁公_龍山)の有意な負の値も、龍山文化期の4000寝間と3000年前頃の間における丁公遺跡/呉村遺跡を網羅する地域への中原関連の遺伝子流動を示唆しました。f₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;山東_3k_呉村、呉村_LDWK /黄河_MN/黄河_LN)の有意な負の値から、山東_3k_呉村が呉村_LDWK /黄河_MN/黄河_LNと比較してアジア東部南方関連祖先系統と余分な類似性を共有していたのに対して、このアジア東部南方関連の遺伝子流動は、f₄統計(ヨルバ人、台湾_漢本;山東_3k_呉村、黄河下流_丁公_龍山)では黄河下流_丁公_龍山と比較して観察されなかった、と示唆されました。
f₄統計(ヨルバ人、山東_HG;山東_3k_呉村、黄河_MN/黄河_LN)の負の有意な値は、中原関連祖先系統と比較して、山東_3k_呉村における追加の山東_HG関連の兆候を示唆しませんでした。f₄統計(ヨルバ人、黄河下流_丁公_龍山/呉村_LDWK;山東_3k_呉村、黄河_MN/黄河_LN)のわずかに有意な負の値から、山東_3k_呉村は黄河_MN/黄河_LNと比較して、在来の大汶口文化および龍山文化関連祖先系統と余分な類似性を有しているかもしれない、と示唆されました。したがって、黄河_MN/黄河_LNとアジア東部南方と黄河下流_丁公_龍山/呉村_LDWKを山東_3k_呉村の潜在的供給源として用いて、1方向と2方向と3方向のqpAdmモデル化が実行されました。その結果、山東_3k_呉村は約92%の黄河_LNと約8%のアジア東部南方の混合としてのみモデル化できる、と分かりました。この2方向モデル化が、在来の大汶口文化および龍山文化集団(つまり、呉村_LDWKと黄河下流_丁公_龍山)が外群一式に追加されてさえ充分に適合したのに対して、山東_3k_呉村と新たに報告された青銅器時代および鉄器時代の個体群(黄河下流_城子崖_岳石と黄河下流_城子崖_2.5kya)や山東_HEおよび黄河下流_丁公_漢王朝は、すべてのf₄統計およびqpAdm分析における負の有意な値によって示唆されるように、黄河_LNの直接的子孫でした。
●仰韶文化と龍山文化との間の文化的移行には中原における人口置換が必ずしも伴っていませんでした
海岱地域への中原関連祖先系統の広範な遺伝的影響があるので、本論文は次に、海岱地域固有の山東_HG関連系統が中原に及ぼした影響を調べました。山東_HGと関連する遺伝子流動は、仰韶文化関連人口集団と比較して龍山文化期には検出されず、それは、f₄統計(ヨルバ人、山東_HG;黄河_LN/黄河中流_瓦店_龍山/黄河中流_余庄_龍山、黄河_MN)によると、山東_HGが中原における黄河_MNおよび全ての龍山文化関連集団と同じ量のアレルを共有していたからです。二村_LDWKや西夏侯_LDWKなど山東半島における一部の大汶口文化関連集団がすでに黄河_MNの直接的子孫だったことを考えると、文化的相互作用によって伴われる中原への海岱地域固有の山東_HG関連祖先系統の痕跡がない、大汶口文化集団の人口移動の筋書きを除外できません。
瓦店考古学的遺跡から新たに生成された龍山文化人口集団は、f₄形式(ヨルバ人、X;黄河中流_瓦店_龍山、黄河_LN)のf₄統計すべてに基づくと、以前に刊行された黄河_LNのゲノムと遺伝的に均質でした。黄河中流_瓦店_龍山と黄河_LNとの間の遺伝的均質性は、qpAdm分析によってさらに裏づけることができます。中原の別の新たに報告された龍山文化関連集団が、余庄遺跡から新たに標本抽出されました(つまり、黄河中流_余庄_龍山)。余庄遺跡は現時点で、中原地域において最大の龍山文化期の集落です。余庄遺跡には周辺地域との文化的交流がありました。余庄遺跡における赤い土器の盃や彩色土器や精巧な葬儀は、湖北省武漢市の江漢(Jianghan)地域の屈家嶺(Qujialing)文化および石家河(Shijiahe)文化に影響を受けた、と考えられています。発掘された卵殻土器と埋葬物としてのノロジカの歯の使用は、山東半島の大汶口文化および龍山文化の要素と類似しています。山東半島および江漢地域から余庄遺跡への文化的影響に遺伝子流動が伴っていたのかどうか、不明でした。本論文では、外群f₃統計において余庄遺跡個体は黄河_MN関連祖先系統と最も多くの遺伝的浮動を共有していた、と分かりました。f₄形式(ヨルバ人、X;黄河中流_余庄_龍山、黄河_MN)のf₄統計では、Xをアジア東部南方および山東半島の古代人としてさえも、有意な値が得られませんでした。qpAdm分析も、黄河_MNと黄河中流_余庄_龍山との間の遺伝的均質性を裏づけました。したがって、遺伝学的観点からは、龍山文化関連の余庄遺跡の人々は、先行する仰韶文化関連祖先系統と比較して、山東半島およびアジア東部南方関連祖先系統からの遺伝子流動を受けませんでした。
●初期青銅器時代の二里頭文化関連の人々は黄河_LN関連祖先系統の直接的子孫でした
本論文では、中原の王城岡遺跡から得られた二里頭文化関連のゲノムの最初の一群(つまり、黄河中流_王城岡_二里頭)が初めて報告されます。f₄統計(ヨルバ人、X;黄河中流_王城岡_二里頭、黄河_MN/黄河_LN)では、Xを山東_HG/山東半島の大汶口文化および龍山文化関連集団としてさえも、有意な負の値が得られませんでした。qpAdm分析では、黄河中流_王城岡_二里頭が黄河_MNの混合していない子孫だった、とのモデルが却下されました。黄河中流_王城岡_二里頭の人々は、黄河_LNによって1方向でモデル化できます。これは、新石器時代の山東半島関連祖先系統の痕跡がない、中原における後期新石器時代の黄河_LN関連祖先系統の遺伝的安定性を示唆しています。
●考察
中原中心と海岱地域中心の中華文明との間の関係には、過去何十年にもわたって大きな関心が寄せられてきました。以前の古代ゲノム研究では、中原(中期新石器時代の仰韶文化関連の古代人によって表されます)および海岱地域(前期新石器時代の後李文化関連の古代人によって表されます)の最古級のゲノムとは対照的に、中原と海岱地域のその後の人口集団は相互との小さな遺伝的分化を示し、これはおもに中原から海岱地域への人口移動の広範な過程に起因するかもしれず、それが中原関連祖先系統を有する中期新石器時代の後期大汶口文化と関連する集団につながった、と示唆されました[8、9]。本論文では、後期新石器時代から青銅器時代にかけての中原と山東半島北部の集団の人口史に関する新たな観察が提供されます。
仰韶文化および大汶口文化期の後には、龍山文化が中原と海岱地域を締めました。先行する在来の文化に由来する固有の特徴と共通の特徴の両方が、中原の河南省の龍山文化と海岱地域の山東龍山文化で観察されました。遺伝学的観点からは、山東半島と中原においてそれぞれ、大汶口文化関連祖先系統と仰韶文化関連祖先系統の遺伝的遺産が観察されました。山東半島と中原の両方で、大汶口文化/仰韶文化期と龍山文化期との間において遺伝的変化も観察されました。しかし、これらの遺伝的変化は、中原と山東半島の狩猟採集民関連祖先系統の移動とは関連していませんでした。
山東半島では、以前に刊行された龍山文化関連集団(五台_LS、三里河_LS、城子崖_LS)は、同じ考古学的遺跡の大汶口文化関連集団と比較して、中原関連祖先系統との余分な類似性を示しませんでした。丁公遺跡の本論文で新たに報告された龍山文化関連のゲノムは人口下位構造を示し、2個体(黄河下流_丁公_龍山_o1)は在来の大汶口文化関連の遺伝的特性(傅家_LDWKと呉村_LDWKによって表されます)の直接的子孫で(図2)、6個体(黄河下流_丁公_龍山)は在来の大汶口文化関連の遺伝的特性を維持し、アジア東部南方の稲作農耕民と関連しているかもしれない追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました(図2)。この結果は、龍山文化期の黄河下流域における稲作農耕の顕著な増加との観察に遺伝的類似性を提供しました。一部の山東半島集団が大汶口文化期において黄河_MNの直接的子孫だったことを考えると、丁公遺跡における100%の黄河_MN関連祖先系統の単一個体(黄河下流_丁公_龍山_o2)は、山東半島の他地域からの移民だった可能性がより高そうです。
中原において、以前に刊行された龍山文化関連の古代人も新たに生成された龍山文化関連の古代人も、仰韶文化関連祖先系統と比較して、山東_HG関連の遺伝的影響を受けませんでした。本論文で新たに生成された余庄遺跡の龍山文化関連個体群は、仰韶文化関連の人々(黄河_MN)と遺伝的に均質でした。余庄遺跡の龍山文化関連個体群は遺伝的に、黄河_LNおよび本論文で新たに生成された瓦店遺跡の個体群と遺伝的に均質でした(図2)。これは、黄河_MNおよび龍山文化関連の余庄遺跡の人々と比較しての、黄河_LNおよび新たに生成された瓦店遺跡の個体群における追加のアジア東部南方関連祖先系統(約10%)に起因するかもしれません。丁公遺跡の龍山文化関連の9個体のうち6個体も、大汶口文化関連の人々と比較して、追加のアジア東部南方関連祖先系統を受け取りました。これらの結果は、アジア東部南方の人々が龍山文化期に海岱地域と中原に別々に移住したことを反映しています。余庄遺跡の人々は、黄河_MNの直接的子孫でした。余庄遺跡の事例から、仰韶文化と龍山文化との間の文化的移行は、中原においては必ずしも人口置換を伴わなかった、と示唆されます。さらに、考古学的情報に基づくと、余庄遺跡の龍山文化期の女性1個体M64XRは、生贄でした(墓の所有者からは充分なゲノムデータが得られませんでした)。しかし、この個体【M64XR】と他の余庄遺跡の2個体との間に有意な遺伝的違いも、仰韶文化関連祖先系統の違いもありませんでした。
龍山文化期の山東半島における遺伝的置換は、中原関連祖先系統の強い拡大と関連していました。山東半島北部の青銅器時代の人々は、以前に刊行された山東_3k_呉村および山東_3k_両醇によって表されました。これら2集団の遺伝的特性は、黄河_LNおよび/もしくはアジア東部南方により適切に説明され、在来の大汶口文化および龍山文化関連の人々として、山東_HG関連祖先系統は必要ありませんでした(図2)。中原の中央部において、本論文で新たに生成された二里頭文化関連の人々によって表される初期青銅器時代の人々は黄河_LNと遺伝的に均質で、中原の中央部における遺伝的安定性が示唆されます(図2)。中原西部では、最近刊行された仰韶村遺跡の龍山文化関連のゲノム(黄河_仰韶村_龍山によって表されます)[24]と路糸茜(Lusixi)遺跡の青銅器時代のゲノム(黄河_西周王朝によって表されます)[25]によって示されるように、龍山文化期と青銅器時代との間の黄河_LN関連祖先系統の移住によって引き起こされた人口置換がありました。黄河_仰韶村_龍山は黄河_LNと遺伝的に均質でしたが、少なくとも西周王朝において、人々(黄河_西周王朝によって表されます)は黄河_LNと遺伝的に均質でした。考古学的観点から、中原の二里頭文化への岳石関連文化の影響の程度に関して、さまざまな見解もあります。二里頭文化関連の人々は、黄河_LNおよび黄河_MNと比較して、山東_HG/山東_大汶口文化/山東_龍山文化関連の祖先系統が欠けています。これらの結果から、中期新石器時代以降の海岱地域の文化的拡散は、中原への顕著な山東_HG関連祖先系統を有する大規模な人口移動を伴わなかったかもしれない、と示唆されます。以下は本論文の要約図です。
●この研究の限界
本論文の限られた標本抽出が、中原と海岱地域の遺伝的多様性を完全には把握できない可能性に注意すべきです。裴李崗文化期から現在のさまざまな考古学的遺跡からのさらなる標本抽出、とくに高網羅率の古代人のゲノムを探すことが、海岱地域と中原との間の遺伝的相互作用に関するより包括的な理解を得るのに必要でしょう。
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