黄河流域の新石器時代人類のゲノムデータ

 黄河流域の新石器時代人類のゲノムデータを報告した研究(Ma et al., 2025)が公表されました。本論文は、黄河中流域に位置する中華人民共和国河南省鄭州市の大河村(Dahecun)遺跡で発見された、新石器時代の人類2個体の新たなゲノムデータを報告しています。これまで、仰韶(Yangshao)文化人類集団と比較して龍山(Longshan)文化人類集団には、福建省など現在の中国南方に存在した新石器時代人類集団(新石器時代華南集団)からの遺伝子流動が推測されていました。しかし、大河村遺跡の仰韶文化から龍山文化への移行期の1個体には、そうした新石器時代華南集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)が検出されませんでした。これは、龍山文化期の黄河流域への稲作農耕の拡散には、必ずしも人口移動が伴っていなかったかもしれないことを示唆しています。やはり、遺伝と文化の関係を安易に断定してはならず、個別に判断しなければならない、と改めて思います(関連記事)。時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、EL(Eneolithic、金石併用時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。


●要約

 黄河流域は中国文明の起源および発展の理解にとって重要な地域です。以前のゲノムデータは、集団遺伝学的な中国南方の特性への時間的変化を示唆しており、それはおそらく、完新世における稲作農耕の導入と気候変化に起因します。本論文は、仰韶文化期と仰韶文化から龍山文化への移行期(龍山化)の大河村遺跡の2個体の古代ゲノムを報告します。中期新石器時代黄河流域における遺伝的均質性が見つかりましたが、龍山化期の本論文の標本では黄河農耕民において南方関連祖先系統が検出されませんでした。本論文の結果は、仰韶文化から龍山文化への移行期の黄河流域農耕民におけるゲノム下部構造を示唆しています。中原への稲作農耕の最初の導入、必ずしも人口拡散を伴わなかったかもしれません。新石器時代黄河流域農耕民は、現代漢人の形成に大きく寄与した、と示唆されました。


●研究史

 中華文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発祥地である黄河流域には、大きな農耕および考古学的重要性があります。その肥沃な平原は何千年も農耕を支え、コムギや雑穀やダイズのような主要作物の耕作を促進しました。黄河流域で行なわれた学際的研究は、中華文明の起源と発展の理解に重要な役割を果たしました(Wang et al., 2021)。代表的な文化の観点から、中国【本論文で「中国」の指す範囲は明示されていないように思いますが、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省でしょうか】の新石器時代は、先裴李崗(Peiligang)文化期(紀元前7000年以前)、裴李崗文化期(紀元前7000~紀元前5000年頃)、仰韶文化期(紀元前5000~紀元前3000年頃)、龍山文化期(紀元前3000~紀元前2000年頃)の4期間に区分できます。最初の2期【先裴李崗文化期と裴李崗文化期】は中国の新石器時代文化の形成と最初の発展を表していますが、後半の2期【仰韶文化期と龍山文化期】は発展の加速と文明の初期の形成を示します。既存の古代ゲノム研究では、黄河農耕民は他奉公に広がった、と例証されており、ヒトの人口統計学的構造および生活様式の選択における顕著な変化が示されています。そうした変化の重要な事例には、西遼河流域における雑穀農耕の確立(Ning et al., 2020)や、中国南西部におけるこれらの慣行の拡大(Tao et al., 2023)や、河西回廊地域内の歴史時代の人口置換(Xiong et al., 2024)が含まれます。これの事例研究は、黄河農耕共同体によって始められた農耕慣行の拡大が、広範囲で社会文化的移行をどのように引き起こしたのか、例証しています。

 これまでに、黄河中流域で利用可能な古代ゲノムデータは限られていました(Ning et al., 2020、Wang et al., 2021)。先行研究では、仰韶文化と龍山文化の黄河流域人類集団の遺伝的特性は経時的に変わっていき、中国南部およびアジア南東部の人々との遺伝的類似性が増加した、と明らかにされました(Ning et al., 2020)。考古学的証拠では、完新世の温暖湿潤期における、南方からの遺伝子流動は雑穀の混合農耕と稲作農耕の北方への拡大に起因するかもしれない、と示唆されています。新たな農耕慣行と変化する環境条件への適応は、黄河流域における古代の人口集団の遺伝的景観の形成に大きな役割を果たした可能性が高そうです。この研究分野には、未解決の問題がまだ残っています。よく説明されている南方からの影響以外に、他の下部構造が存在したのかどうか、不明です。黄河への周辺の人口集団の影響の可能性は、まだ調査の余地があります。さらに、これら可能性のある影響が起きた可能性のある正確な時期が、仰韶文化期と、仰韶文化から龍山文化への移行期のどちらなのか、科学的研究ではまだ確証されていませんでした。

 本論文では、仰韶文化期と仰韶文化から龍山文化への移行期の、黄河流域の大河村遺跡から発見された古代人2個体のゲノムが報告されます。本論文は、以下の問題の検証に焦点を当てており、それは、(1)中原地域の新石器時代における他の人口集団からの遺伝的混合、(2)仰韶文化期から龍山文化期への文化的移行に人口移動や他の集団との遺伝的混合が伴っていたのかどうか、(3)現代の漢人民族集団の形成が黄河農耕民と関連している程度です。これらの問題に取り組むことによって、黄河流域の先史時代人口集団を形成した、遺伝的および文化的動態のより深い理解への寄与と、それによって中華文明の初期の起源に関する知識を豊かにすることが目指されます。


●標本

 中華人民共和国河南省鄭州市の大河村遺跡博物館から、骨格標本が収集されました。古代DNA解析のため、両個体の歯が標本抽出されました。一方の個体(H481)は灰の孔から回収され、四肢を曲げた横向きの姿勢で発見されました。このH481個体の共伴物には、土器断片や赤い焼けた土壌や木炭の粒子や二枚貝の貝殻や動物の骨が含まれていました。もう一方の個体(M228)は、棺の証拠がない一次埋葬を表している、長方形の垂直のアファナシェヴォ文化で発見されました。この個体(M228)は仰向けで四肢を伸ばしていましたが、上半身の骨格の保存状態の悪さを示しました。保存状態のため、どちらの個体も肉眼分析で性別と死亡時年齢は判断できませんでした。この2個体の較正された放射性炭素年代は、M228が大河村遺跡第3期の4400±30年前、H481が大河村遺跡第4期の4150±30年前で、H481の年代は仰韶文化から龍山文化への移行期に相当します。


●大河村遺骸の考古学的情報

 大河村遺跡は1972年に初めて発掘され、それ以降追加の30回の発掘がありました。大河村遺跡は、文明の起源と国家の出現にとって重要な地域である鄭州市に位置しており、この地域で発見された多くの先史時代遺跡の中で際立っています。大河村遺跡には、異なる4考古学的文化があり、それは、仰韶文化(5800~紀元前4400年前頃)、龍山文化(4400~4100年前頃)、二里頭(Erlitou)文化(3700~3480年頃)、二里岡(Erligang)文化(3550~3350年前頃)で、鄭州市の初期の歴史の発展の縮図を反映しています。さらに、大河村遺跡は周囲の堀や埋葬地や家屋の基盤と貯蔵穴のある居住区域を含めて、包括的な一連の遺物で構成される完全な先史時代の集落を表しています。大河村遺跡から発掘された多くの人工遺物は、その時代の社会や組織構造や生産の水準の研究に、重要な役割を果たしています。大河村博物館の「彩陶双連壺(Painted Pottery Double-Linked Pot)」は独特な容器で、文化要素の複雑な融合を表しており、仰韶文化第3期の双耳壺と薄緑色の胴部の土器の形態的特徴が組み合わせていますが、伝統的な装飾を保持しています。

 双耳壺様式が初期大汶口(Dawenkou)文化に影響を受けた地域的異形を表していることは注目に値し、既存の文化的つながりの存在を示唆しています。大河村の分析された2個体(M228とH481)は、黄河流域の仰韶文化から龍山文化への移行期を捉えている、充分に記録されている文化系列内に位置しています。この期間の物質文化遺物は、3点の側面で連続性と革新の両方を論証しています。第一に、仰韶文化伝統の明確な継承があり、幾何学模様のある彩色土器と赤塗り容器の連続的製作によって証明されています。第二に、大きな革新が起きており、多色から単色への土器装飾の変化や深胴鉢などの新たな容器形態の導入が含まれます。農耕技術の革新も見つけることができ、石製シャベルや柄のついた石製鋤や石製鎌や長方形の石包丁のような複合道具が出現し、農耕慣行の進歩を示唆しています。第三に、龍山文化要素、とくに表面が磨かれている優れた黒陶の漸進的採用が観察されます。注目すべきことに、衰退する仰韶文化様式の彩色土器と出現してきた龍山文化の特徴の共存は、急激な置換ではなく、内部発展のパターンを示唆しています。


●DNA抽出と解析手法

 大河村遺跡で発見された仰韶文化期個体M228と仰韶文化から龍山文化への移行期個体H481は、DNA解析によって、汚染率、性別、母系のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)および父系のY染色体ハプログループ(YHg)が推定されました。この2個体から得られたゲノムデータは、既知の古代人および現代人のゲノムデータと比較されました。解析手法として、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)や教師無ADMIXTURE分析や外群f₃統計やf₄統計や対でのqpWave分析が用いられ、ADMIXTURE分析では、K(系統構成要素数)=5で交差検証誤差が最小となりました。

 qpWave分析で比較対象となった人口集団は、非アフリカ系集団すべての外群として機能するアフリカの狩猟採集民であるムブティ人、ヨーロッパ西部狩猟採集民を表すルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の個体(ルクセンブルク_ロシュブール)、アジア南部とアジア南東部の人口集団の初期の分岐系統を表すアンダマン諸島のオンゲ人、近東の初期農耕集団を表すイランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体(イラン_ガンジュダレー_N)、古代北ユーラシア人関連系統を表してウマを飼育していたカザフスタンの金石併用時代のボタイ(Botai)遺跡の個体(カザフスタン_EL_ボタイ)、ロシア極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡の個体(悪魔の門_N)、ロシアのバイカル湖地域のシャマンカ(Shamanka)遺跡の金石併用時代個体(ロシア_シャマンカ_EL)、初期アジア東部島嶼部人口集団を表す日本列島の縄文時代狩猟採集民集団(日本_縄文)、アジア東部の前期新石器時代農耕人口集団を表す山東半島の小荊山(Xiaojingshan)遺跡や小高(Xiaogao)遺跡や淄博(Boshan)遺跡や扁扁(Bianbian)遺跡の個体(山東_EN)、アジア東部南方沿岸部関連祖先系統を表す台湾の漢本(Hanben)遺跡の鉄器時代個体(台湾_漢本)です。


●大河村遺跡の古代人のゲノム規模データ

 まず、古代人の標本2点からDNAが抽出され、ショットガン配列決定が実行されましたが、充分なデータを得ることができませんでした。次に、溶液内混合他機手法が使用され、短い断片長やmtDNAによる低い推定汚染率(3%未満)や古代DNAに特徴的な損傷パターンによって、古代DNAと証明されました。124万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)データセットでは標本2点についてそれぞれ、344851ヶ所と863244ヶ所の重複部位が得られました。これらの新たなデータは、最近刊行された黄河流域古代人のDNAデータ(Du et al., 2024、Li et al., 2024)も含めて、既知の古代人(Wang et al., 2024)および現代人のデータと統合されました。


●全体的なゲノム構造から示唆される黄河農耕民との密接な関係

 大河村遺跡の標本2点(いずれも女性)のmtDNAハプログループ(mtHg)は、Z3とR11bです。mtHg-Z3は現代のアジア北東部で一般的に確認されており、青海省の大槽子(Dacaozi)遺跡の鉄器時代の刊行されている古代ゲノムデータ(黄河上流_IA)で観察されましたが(Ning et al., 2020)、mtHg-R11bは中国南東部において一般的です。mtHg-Z3はmtHg-Zの下位ハプログループで、おもにアジア北部および東部で見られます。黄河流域におけるmtHg-Z3の存在は、戦時時代以降にこれらの地域で暮らしてきた人口集団とのつながりを示唆しています。現代の人口集団では、mtHg-Z3は、中国やモンゴルや一部のシベリアの人口集団を含めて、さまざまなアジア東部集団において低頻度で観察されます。mtHg-Z3の分布パターンは、アジア中央部もしくはシベリア南部起源と、その後のアジア東部への拡大の可能性を示唆しています。

 古代DNA研究では、mtHg-Z3はユーラシア草原地帯(Jeong et al., 2018)および歴史時代の中国南西部の青銅器時代および鉄器時代標本と、中国の新石器時代標本で特定されてきており、本論文の調査結果と一致します。mtHg-R11bはmtHg-R11の下位ハプログループで、アジア東部起源と考えられています。mtHg-R11とその下位ハプログループは現在のアジア東部、特に中国およびその周辺地域の人口集団で最も一般的に見られます。現代の人口集団では、mtHg-R11bはさまざまな中国の民族集団において異なる頻度で見られ、一部の韓国人および日本人集団にも存在します。本論文の標本におけるmtHg-Z3とmtHg-R11bの共存はとくに興味深く、さまざまな起源の人口集団間の遺伝的混合を示唆しており、mtHg-Z3はより多くの北方もしくは西方の影響を、mtHg-R11bはより多くの局所的なアジア東部系統を表しているかもしれません。この遺伝的多様性は、中国の新石器時代における文化的交流および人口移動の考古学的証拠と一致します。

 大河村遺跡の全体的な遺伝的構造は、PCA図のアジア東部人口集団のより広範な状況内で示されています(図1C)。アジア東部の遺伝的パターンは3方向に分極化しており、それは、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)とチベット関連とアジア北東部(Northeast Asia、略してNEA)です。本論文で調べられた大河村遺跡の人口集団は、以前に刊行された中期新石器時代黄河農耕民(黄河_MN)、および汪溝(Wanggou)遺跡や暁塢(Xiaowu)遺跡や仰韶村(Yangshaocun)遺跡といった近隣の仰韶文化関連集団(黄河_仰韶村_仰韶)と重なりました。西夏侯(Xixiahou)遺跡の大汶口文化関連の後期大汶口文化(Late Dawenkou、略してLDWK)遺跡の個体群(西夏侯_LDWK)も、本論文の大河村遺跡標本とクラスタ化しました(まとまりました)。このパターンは定量的な外群f₃統計で一貫して確証されており(図3)、大河村遺跡の両標本【M228とH481】はその遺伝的類似性において一貫したパターンを示し、黄河_MN農耕民および大汶口文化関連個体群と最高の遺伝的浮動を共有しています。以下は本論文の図1です。
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 注目すべきことに、大河村遺跡個体群はPCA図では、黄河流域の龍山文化期の個体群を表している、後期新石器時代黄河人口集団(黄河_LN)とも離れています。黄河_LNは黄河_MNの場合よりも中国南部の古代の個体群とより密接です。K=5の教師無ADMIXTURE分析(図2)は収容那5祖先系統構成要素を仮定し、それは、アジア東部南方人口集団で最大化される桃色の構成要素、アジア北東部人口集団で優勢な緑色の構成要素、ユーラシア西部関連人口集団と関連する青色の構成要素、チベット関連人口集団で最大化される橙色の構成要素、山東半島の新石器時代狩猟採集民において最も一般的な黄色の構成要素です。本論文の古代人標本における祖先構成要素のこの最大化は、真に異なる祖先人口集団ではなく、遺伝的浮動を表しているかもしれないことに要注意です。大河村遺跡標本でも、上述の集団と類似した遺伝的組成パターンが観察され、その密接な遺伝的類似性を裏づけます。まとめると、これらの結果から、大河村遺跡の標本は中期新石器時代黄河農耕民および黄河下流域に暮らしていた大汶口文化個体群と密接な遺伝的関係を共有している、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
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●新石器時代の黄河中下流域における遺伝的連続性

 大河村遺跡の標本と黄河流域の中期および後期新石器時代の個体群との間の遺伝的差異をさらに定量化するため、f₄統計(大河村、黄河中下流域;アジア東部、ムブティ人)が計算され、ここではアジア東部(East Asia、略してEA)は、利用可能なアジア東部の古代および現代の人口集団の参照人口集団を表します。以下は本論文の図3です。
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 有意な結果(Z|>3)の欠如から、大河村遺跡の個体M228(大河村_DM228)は複数の黄河流域中期および後期新石器時代人口集団とクレード(単系統群)を形成し、この中には大汶口_LDWKや二村(Ercun)遺跡の中期~後期大汶口文化(MLDWK)個体(二村_LDWK)や五台(Wutai)遺跡の個体(五台_LDWK)や西夏侯(Xixiahou)遺跡のMLDWK個体(西夏侯_LDWK)や黄河_MNや黄河_仰韶村_仰韶が含まれる、と明らかになりました。注目すべきことに、大河村_DM228の約250年後なる大河村遺跡個体(DH481)は、DM228とほぼ同様の遺伝的特性を維持していたものの、五台_LDWKおよび山東龍山(Shandong Longshan、略してLS)文化の三里河(Sanlihe)遺跡標本(三里河_LS)との関連で具体的に異なるパターンを示しました。山東半島の龍山文化期におけるかなりの南方からの祖先系統の遺伝的流入の証拠を示しながらも(Du et al., 2024)、この南方の遺伝的構成要素はとくにDH481で顕著に欠けていました。この際のパターンは、龍山文化期への移行期の黄河地域における、地理的孤立もしくは選択的な人口集団の相互作用を示唆しています。本論文のさらなる対でのqpWave均質性検定結果から、黄河_MNと黄河_LNは区別できる、と示され、本論文で選択された外群は両者【、黄河_MNと黄河_LN】間の遺伝的構成要素の差異を検証できる、と証明されました(図4)。以下は本論文の図4です。
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 大河村遺跡の両標本(M228とH481)は黄河_MNと黄遺伝的均質性を示し、黄河流域の中期新石器時代人口集団との強い遺伝的類似性を示唆しています。すべての参照人口集団にわたって、ユーラシア西部の現代と古代両方の人口集団を用いてのf₄統計(大河村、黄河流域;ユーラシア西部、ムブティ人)分析では一貫して、有意ではない結果が得られました。さらに、祖先供給源として黄河流域に近い人口集団を用いての本論文のqpAdmモデル化では、モデルの制約を改善するために、外群として草原地帯人口集団を循環させてさえも、1方向モデルが充分な適合を提供した、と論証されました。これらの結果から、大河村遺跡標本は当時の黄河流域においてユーラシア西部関連祖先系統を呼び出さずに完全に説明できる、と示唆されます。


●黄河流域人口集団と現代の漢人集団との間の遺伝的つながり

 先行研究では、新石器時代黄河農耕民が現代の漢人集団の形成に主要な役割を果たした、と示唆されています。アフィメトリクス(Affymetrix)社のヒト起源(Human Origins、略してHO)データセットの現代の漢人集団が、大河村遺跡から新たに生成されたデータによってどの程度モデル化できるのか、調べられました。まず、大河村遺跡標本や黄河新石器時代農耕民やアジア東部人口集団を含めて、漢人13集団で混合f₃計算が実行され、混合兆候の可能性が調べられました。Z < −3の有意な負の結果は、より高い可能性の混合事象を意味します。

 次に、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部の廟子溝(Miaozigou)遺跡の中期新石器時代個体(廟子溝_MN)や黄河_MNや黄河_LNやDH481やDM228が、黄河流域の潜在的な供給源とされました。本論文のモデル化では、福建省の亮島(Liangdao)遺跡の個体(亮島2号)およびBaBanQinCen(Banda遺跡とQinCen遺跡とBalong遺跡)個体群が、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)古代人の供給源として使用されました。成功した1方向モデルを調べると、標本DH481とDM228と黄河_MNは、これらの間の高度の遺伝的均質性の論証によって際立っていました。次に、全ての成功した漢人のモデルは、大半の大河村遺跡標本関連祖先系統(87.2~91%)と低い割合(9~12.8%)のSEA構成要素でおもに構成されている、と分かりました(図5)。これは、現代の漢人、とくに中国北部の漢人の形成における、新石器時代農耕民の大きな影響を示唆しています。以下は本論文の図5です。
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●考察

 裴李崗文化から仰韶文化を経て龍山文化までの考古学的層序は、中原、とくに現在の河南省における新石器時代社会の重要な発展段階を表しています。これらの変容における変化と連続性の識別は、この地域内の新石器時代考古学の分野における基本的な研究の追及です。大河村遺跡は、中期および後期新石器時代から青銅器時代までの3200年間にまたがる広範な時間枠と、直接的な重層およびさまざまな期間の文化層の明確な断絶関係があり、これらの文化的移行の解明に優れたモデルを提示します。遺跡の土器群などの証拠は、河南省中央部の原始的文化の独特な地域的特徴と継承パターンを強調し、局所的な文化伝統が経時的にどのように開発されて発展したのかについて、貴重な洞察を提供します。

 農耕は、古代文明における社会的発達と文化的発展の触媒として、広く認識されています。黄河流域の肥沃な平原におけるコムギや雑穀やダイズなど主要作物の耕作は、安定した食料生産と持続的な居住パターンの基礎を提供しました。この農耕生活様式は定住共同体の成長を促進し、複雑な社会構造の出現と技術的進歩につながりました。前期新石器時代の裴李崗文化期には、イネが長江中下流域から中原へともたらされました。先行研究(Ning et al., 2020)は、中原における仰韶文化から龍山文化への過程における遺伝的組成の変化を、南方稲作農耕民の北方への拡大とみなしました。しかし、このあり得る想定は、在来の龍山文化期のより多くの古代ゲノムによってまだ検証されていませんでした。

 本論文では、中原の仰韶文化期から龍山文化期にまたがる大河村遺跡の新たに生成された古代人2個体のゲノムが報告されました。考古学的報告は大河村遺跡における稲作農耕の痕跡を明らかにしていますが、本論文の龍山化期【仰韶文化から龍山文化への移行期】の標本における南方関連祖先系統の欠如は上述の解釈と矛盾しており、在来の人口集団が移住してきた南方の稲作農耕民の影響に対して回復力に富んでいたかもしれない、と示唆されます。少なくとも、本論文の標本DH481の放射性炭素年代測定データの4150±30年前の陣では、南方の遺伝的構成要素はまだ完全には中原の遺伝的地図には統合されていませんでした。大河村遺跡標本と周辺の黄河流域の他の中期新石器時代農耕民との間で観察された持続的な遺伝的均質性は、広範な時間枠にわたる遺伝的連続性の維持を示唆しています。以前に刊行された黄河_MNの研究データにおける黄河_MNの遺伝的構成要素の保存期間を数百年後へと延長することによって、本論文はこの期間における重要な間隙を埋めます。これが示唆するのは、中原地域の遺伝的景観がおもに長期の在来系統を示していることで、この地域の歴史的な遺伝的構成における在来人口集団の重要な役割を補強します。

 本論文の調査結果は、古代中国における文化的伝達と技術的拡散の機序の理解にとって、重要な意味を有しています。対応する南方遺伝的祖先系統がない稲作の証拠から、文化と技術の交流は大規模な人口移動とは関係なく起こるかもしれない、と示唆されます。これは、文化的移行と遺伝的移行との間の直接的な相関を想定することの多い、伝統的なモデルに異議を唱えます。さらに、本論文の結果は、考古学的文化と人口移動との間の関係についての進行中の議論に寄与し、先史時代の社会における文化的変化は人口置換ではなく在来の発展と文化交流によって引き起こされたかもしれない、と示唆しています。

 この重要な移行期において黄河流域で観察された遺伝的連続性は、古代中国における国家形成過程の理解にも重要な意味を有しています。この安定性は、複雑な社会組織の発展にとって基盤を提供し、最終的には初期中華文明の出現に寄与したかもしれません。在来系統の持続から、この地域における社会の複雑さは以前に考えられていたよりも漸進的で、内部で起きていたかもしれない、と示唆されます。

 シナ・チベット語族の起源に関する現在の主流の仮説には、黄河流域説と中国南西部説が含まれます。諸研究では、現代のシナ語派の形成は600年前頃の黄河流域の初期シナ・チベット語族祖語の分化に由来した、と示されてきました(Zhang et al., 2019)。現代漢人の遺伝的特性は、これら新石器時代黄河農耕民が全方向に拡大しながら、新石器時代黄河農耕民と先住民の融合によって形成されました(Ning et al., 2020、Tao et al., 2023、Xiong et al., 2024)。本論文の遺伝的モデル化は、新石器時代黄河農耕民から現代の漢人集団の遺伝子プールへのかなりの遺伝子流動を示す、以前の証拠と一致します。本質的に、大河村遺跡人口集団の遺伝的識別特性は、現代の漢人に共通する領域を示唆しており、中原地域の在来農耕人口集団からのかなりの遺伝的寄与を確証します。したがって、これらの観察は、漢人集団の深く根差した人口統計学的歴史を強調し、漢人集団は黄河流域の古代の人口集団と本質的に絡みついています。

 本論文は、黄河流域の新石器時代人口集団の遺伝的連続性、および現代の漢人集団の遺伝的構成への影響についての貴重な洞察を提供しますが、おもな制約の一つは、小さな標本規模です。本論文の観察は大河村遺跡のわずか2個体のゲノムに基づいており、それは中原地域全体の複雑な人口動態を包括的に表していないかもしれません。今後、さまざまな考古学的遺跡にまたがるより広範な標本抽出配列によって、新石器時代における中原の全容をより包括的に理解できるようになるでしょう。


●まとめ

 本論文では、黄河流域の仰韶文化期および仰韶文化から龍山文化への移行期にさかのぼる、大河村遺跡の2個体の遺伝的特性が調べられました。本論文の調査結果は中期新石器時代黄河流域における遺伝的均質性を明らかにし、本論文の龍山化期【仰韶文化から龍山文化への移行期】の黄河農耕民においては、中期新石器時代黄河農耕民と比較して、南方関連祖先系統が検出されませんでした。この遺伝的連続性の持続から、中原への稲作農耕の初期の導入は人口拡散を伴っていたかもしれないものの、研究対象期間における在来人口集団の遺伝的構成を大きくは変えなかった、と示唆されます。大河村遺跡標本の遺伝的識別特性は新石器時代黄河農耕民と密接に一致しており、広範な時間枠にわたる持続的な連続性を示唆しています。さらに、本論文の遺伝的モデル化では、現代の漢人集団、とくに中国北部の漢人集団は、その祖先系統がおもにこれら新石器時代農耕民に由来し、アジア東部南方構成要素からの寄与はごくわずかである、と示されました。これらの結果は、漢人集団の深く根差した人口統計学的歴史を強調し、中原の遺伝的景観の形成における在来人口集団の重要な役割を浮き彫りにします。しかし、本論文の結論は限られた標本規模に基づいており、この地の新石器時代における遺伝的動態の包括的な理解には、さまざまな考古学的遺跡にまたがるより広範な標本抽出が必要です。


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https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
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Wang F. et al.(2024): Neolithization of Dawenkou culture in the lower Yellow River involved the demic diffusion from the Central Plain. Science Bulletin, 69, 23, 3677-3681.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.08.016
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Xiong J. et al.(2024): Inferring the demographic history of Hexi Corridor over the past two millennia from ancient genomes. Science Bulletin, 69, 5, 606-611.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2023.12.031
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Zhang M. et al.(2019): Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic. Nature, 569, 7754, 112–115.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z
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この記事へのコメント

砂の器
2025年03月01日 01:46
篠田謙一が、長江流域などの南方漢族祖先が現代日本人へ与えた遺伝的影響を譫言のように未だに語っていますね
水稲を持ってきた南方系と西遼寧の集団が混血して日本に来たのだろうと
南方漢族系祖先はEAとして僅かに流入したと思いますが、篠田の言うような主流ではない
中原ですら混血無しで水稲が伝播している訳ですから日本列島への渡来はかなり少なかったと見るのが自然でしょう
特に根拠の無いC1a1縄文説を広めたのも篠田ですが、とにかく自説への執着が凄いのではと思いますね
管理人
2025年03月01日 05:56
福建省の遺跡の前期新石器時代や末期更新世の人類遺骸の遺伝的構成要素が華南もしくは長江的な初期新石器時代人類集団を表していると考えると、そうした人類集団が現代日本人集団に及ぼした遺伝的影響は、限定的である可能性が高いでしょう。

やはり、日本列島における弥生時代以降の水田稲作の意義を重視する前提から、遺伝的にも長江流域からの影響を想定したくなるのかな、とは思います。
砂の器
2025年03月01日 10:12
>福建省の遺跡の前期新石器時代や末期更新世の人類遺骸の遺伝的構成要素が華南もしくは長江的な初期新石器時代人類集団を表していると考えると、そうした人類集団が現代日本人集団に及ぼした遺伝的影響は、限定的である可能性が高いでしょう。

本当にその通りです

篠田は時代遅れとも言うべき長江流域からの遺伝的影響を主張する一方、日本人の三重構造を軽視しています
篠田は最近youtubeのプレジデントオンラインの動画に出て「弥生時代の日本人は多様」と語っていたので、東北などに見られる未知のNEA集団に言及するのかなと思いましたが、
「縄文との交雑割合が個体によって違った」のいつもの十八番でしたので、動画内でも言及していた埴原の二重構造説から一番抜け出ていないのは彼でしょう
あと縄文に地域差があると言っていたが、ゲノムデータを見る限りそう大した差ではありません(確かに多少の遺伝的分化の兆候が見られるが、マーカー程度の話で大きな差では無い)
他にも篠田の主張に対する問題点は色々ありました

記事のネタにしやすいのか、とにかく大袈裟・時代錯誤・針小棒大な主張が好きなようです
これで科学者と言えるのでしょうか、文筆家なら分かります
管理人
2025年03月02日 09:26
篠田氏は重責を担ってきたので、進展の速い古代ゲノム研究の最新の研究成果の把握という点では若手研究者に及ばないところもあるのかもしれません。

また、篠田氏は、国立科学博物館の責任者時代に一般層も対象とした資金調達を行なったことがあるように、研究環境の厳しい現在の日本社会において一般層から注目されることを重視し、それも最新研究との齟齬につながっている可能性が考えられます。

若手研究者は多忙でしょうから、一般向けの解説は研究者ではなく科学記者が主体となるべきだろう、とは昔から考えてきましたが、科学記者でも進展の速い古代ゲノム研究の最新の研究成果を詳しく把握するのは、なかなか難しいかもしれません。