ヨーロッパのフンと匈奴との関係
カルパチア盆地古代人の新たなゲノムデータを報告した研究(Gnecchi-Ruscone et al., 2025)が公表されました。ヨーロッパのフン人が誰でどこから来たのか、というその起源に関する問題は、フン人の歴史的影響を考えると、学者の関心を超えて、文化的意識にまで浸透してきました。フン人を匈奴と関連づけた最初の仮説以降、学者はこの問題について広く研究して議論してきましたが、おそらくは利用可能な証拠がひじょうに限られていることを除いて、合意に達していません。本論文では、考古遺伝学的データが、慎重な考古学的および歴史的文脈化で解釈するならば、強力な情報源となり得る、と示されます。本論文は、フン期人口集団の起源や、そのかなりの多様性や草原地帯および匈奴上流階層とのつながりに関する、新たな説得力のある証拠を提供します。新興分野である古代ゲノム研究が、伝統的な分野である考古学や歴史学と組み合わされることで、人類の歴史が今後さらに詳しく解明されていくのではないか、と期待されます。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。以下の年代は、明記しない場合は西暦(グレゴリオ暦)の紀元後を指し、略称はAD(Anno Domini)で、紀元前の略称はBC(Before Christ)です。本論文では、紀元前はBCE(Before Common Era)、紀元後はCE(Common Era)と表記されていますが、私は今後も当ブログではBCとADを使用し続けます(関連記事)。
●要約
フン人はヨーロッパに370年代に出現し、ユーラシア西部の歴史を作り変えた、帝国を樹立しました。しかし現在まで、フン人の起源はまださまざまな議論となっています。伝統的な仮説はフン人を、モンゴル草原の最初の遊牧帝国である匈奴の創始者と結びつけます。しかし、匈奴帝国はフン人がヨーロッパに出現する約300年前に消滅しており、この時間的空隙における草原地帯でのフン人の考古学的および歴史的証拠はほとんどありません。さらに、カルパチア盆地の5~6世紀の豊富な考古学的記録にも関わらず、草原地帯とのつながりの文化的要素は少数の発見に限られており、単独の東方様式埋葬はさらに少なくなっています。本論文では、考古学的証拠が新たに配列された35個体および刊行されている個体の合計370個体のゲノムデータと共同分析され、この370個体はカルパチア盆地の5~6世紀の遺跡から発見され、フン期の東方様式の10ヶ所の埋葬、アジア中央部の2~5世紀の遺跡、モンゴル草原全域の紀元前2世紀~紀元前1世紀の匈奴期が含まれます。フン期とフン期後のカルパチア盆地人口集団において、大規模な東方/草原の子孫共同体の存在の証拠は見つかりませんでした。東方様式埋葬における高い遺伝的多様性も観察され、これはユーラシア草原地帯全域で観察された変異性を再現します。これは、侵入してきた草原地帯からの征服者の混合起源を示唆します。それにも関わらず、長い共有されたゲノム領域は、匈奴期の最高位の上流階層の一部の個体を、5~6世紀のカルパチア盆地個体群と直接的に結びつける、遺伝的系統の説得力のある証拠を提供し、一部のヨーロッパのフン人が匈奴期の最高位の上流階層の子孫だったことを示しています。
●ヨーロッパのフン人:歴史的背景
370年代にフン人は突然ヨーロッパの歴史に出現し、この時、国会の北側に到達して、部分的にはアラン人やゴート人などいくつかの民族集団を従属させたり置換したりして、ローマ帝国への一連の移住を引き起こしました。同時代の作家であるアンミアヌス・マルケリヌス(Ammianus Marcellinus)によって新しく謎の敵として記述されたヨーロッパのフンは、現在でさえ起源が依然として議論になっています。18世紀に初めて主張された伝統的な仮説は、ヨーロッパのフンを、最初の遊牧民帝国の創設者である匈奴と結びつけましたが、匈奴はその最盛期(紀元前200~紀元後100年頃)に多様な民族共同体を支配し[2、3]、現代のモンゴル国と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンの地域に相当する、内陸アジア全域に広がっていました。1世紀末に、匈奴帝国は対立する国家へと分裂し、その後は鮮卑や他の草原地帯集団に征服されました。
ほとんどの学者によると、「匈奴」と「フン」という名称は関連しているものの、そうした言語学的つながりの正確な性質は議論になっています。匈奴とフンとの間で民族的および/もしくは文化的連続性があるのかどうかについて、合意はほとんどありません。匈奴帝国末とヨーロッパにおける分の出現との間に、草原地帯のフンに関する証拠はほとんどなく、文献に基づく政治的連続性は認識できません。たとえば、いわゆるフンの大釜や人為的な頭骨の変形および王冠や複合弓矢の鏃など、文化的指標もしくは民族的代理とさえ考えられてきた物質文化の要素に関するかなりの研究にも関わらず、フン期のヨーロッパの墓地および集落をアジア中央部東方と結びつける考古学的証拠は限られています。したがって、多くの研究者はヨーロッパのフンを草原地帯戦士や混合起源の複合体(conglomerate、礫岩)の拡大と考えており、ヨーロッパのフンは、経済や気候や環境の要因を含めて、多様な要因のためゆっくりと西方へ移動しました。本論文で分析されたユーラシアのさまざまな地域から得られた遺伝学的証拠は、ヨーロッパのフンの起源に関する古い問題を解明します。
●フン期におけるカルパチア盆地の考古学
カルパチア盆地におけるフンの征服の結果として、東方ではサルマティア王国、西方ではローマのパンノニアが400年の直後に崩壊しました。多くの集落と墓地は放棄され、一部の事例では焼けた破壊の層を観察できます。しかし、他の遺跡は中断のない使用を示唆しており、他の遺跡は、以前のローマ帝国もしくはサルマティア王国の遺跡内に位置することが多い、新しいより小さな集落および墓地の建設を示唆します。個々の共同体の運命は大きく異なっていたかもしれず、変容は遺跡水準でのみ解釈できます。この斑状の全体像にも関わらず、ドナウ川中流域の変化していく社会では、フンの支配下において新たな統合された物質文化の出現がありました。したがって、人為的な頭蓋変形(artificial cranial deformation、略してACD)の慣行のように、おもに東西に向いた墓の小さな墓地群および共同墓地や、墓にある多数のさまざまな胸飾りおよび首飾りや多角体の耳飾りや櫛が広く観察されます。これらの共同墓地は、強い草原地帯の特徴ではなく、他の以前のローマ辺境地域の人口集団と密接に関連している、ドナウ川中流域の混合人口集団によって作られた5世紀の文化を表しています。
かなりの程度の文化的均質化にも関わらず、草原地帯の征服者によって明らかに残されたいくつかの証拠があります。数はひじょうに少ないものの、この地域では先例のない要素があり、新たな種類の人工遺物だけではなく、新たな習慣および心性も示しており、埋葬儀式と関連する、共同体の儀式において明らかに使用された生贄の大釜および「儀式の」倉庫や、騎馬遊牧民の生活様式を示唆する物質(たとえば、馬具)があります(図1)。草原地帯とのつながりのあるいくつかの埋葬慣行が出現し、その後で5世紀に消滅しました。これらはおもに南北向きの人里離れた墓か、小さな墓群、およびウマの頭蓋と脚のあるいくつかの事例で見つかりました(表1)。これら東方の特徴の類例は、草原地帯全域のさまざまな分布パターンを示します。南北の向きや土器のもしくは家畜の供物は北方に向かって置かれ、墓の一部の動物は匈奴の埋葬慣行と似ています。南北の向きはヨーロッパ東部およびアジア中央部や、他のヨーロッパ東部およびポントス草原地帯の文化背景においてフンと関連する集団において一般的な現象で、サルマティア後期の埋葬遺跡や、チェルニャヒーウ・サンタナ・デ・ムレシュ(Chernyakhiv–Sântana de Mureş)文化の共同墓地が含まれます。したがって、5世紀前半のカルパチア盆地におけるそうした文化現象の出現は、フン集団のみと関連しているわけではないかもしれませんが、一般的には新たな東方からの影響です。物質文化の東方とのつながりは、ほぼポントス草原地帯およびコーカサス地域に限られており(たとえば、三日月形の耳飾り)、アジア東部に固有の人工遺物は検出できません。東方の特徴は埋葬において均一に存在するわけではなく、在来要素とともに見られることが多くなっています(たとえば、ローマの慣行に従った土坑墓における土器製水差しやガラス容器)。これらの埋葬(以後、「フン期東方様式埋葬」と呼ばれます)は、カルパチア盆地全域においてたいへん稀で、散在しています(図1)。以下は本論文の図1です。
フン帝国の崩壊後に、カルパチア盆地の東半分はゲピド王国の一部となりました(454年)。しかし、これは物質文化における突然の断絶を表していませんでした。遺跡の板部、とくにより小さな共同墓地群や緩く構造化された埋葬地は、フン期からゲピド期にかけての移行期に使用されました。その後、5世紀後半には、中世初期ヨーロッパで一般的なパターンに従った、より大きな「列墓共同墓地」が現れました。フン期の他の伝統、たとえばACDの慣行は完全に消えました。したがって、考古学的証拠からは、混合したフン期人口集団(の少なくとも一部)はゲピド王国期に存続したようです。
本論文の目的は、古代ゲノムデータの分析による、フン期およびその後のカルパチア盆地ともユーラシア中央部および東部草原地帯の数世紀前の人口集団との間のつながりの可能性の調査です。具体的には、ユーラシア東部草原地帯の匈奴期の人口集団とフン期およびその後のカルパチア盆地人口集団との間の、直接的な遺伝的子孫の証拠の特定が可能なのかどうか、評価が試みられました。この目的のため、35個体の新たなゲノム規模データが提示され、それは第一に、5世紀のフン期東方様式背景の4個体、プスズタタスコニー(Pusztataskony)遺跡遺跡の単葬墓の1個体(PTL013)、ネプフュルド(Népfürdő)通りのブダペスト8(Budapest XIII)遺跡の二重埋葬かもしれない2個体(NEP1およびNEP2)、5~6世紀のティスザジェンダ(Tiszagyenda)遺跡もしくはTGB/TGHかプスズタタスコニー(Pusztataskony)遺跡もしくはPTLかハイドゥーナーナーシュ(Hajdúnánás)遺跡もしくはHNFの19個体で、これらはその大規模な標本一式(228個体)内で混合したアジア中央部もしくは東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示し、第二に、アルタイ山脈の西側斜面に位置する匈奴/フン期のベレル(Berel)遺跡の12個体(ベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_ AD 2-5世紀)です。やこの新たなデータは、カルパチア盆地の4世紀後期~6世紀後期の刊行されているゲノムデータや、ユーラシア東部草原地帯の匈奴期のデータ(紀元前3世紀~1世紀)や、匈奴期に続く最後にアジア中央部草原地帯のデータ(2~6世紀)とともに、と共同分析されました。
●選択された遺跡と個体の説明
合計370個体の古代人で構成される古代ゲノムデータセットが編集され、そのうち275個体は同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)断片共有分析の基準を満たしていました。説明のため、これらの個体は年代順にもとづいて主要な3通りの地理時間的区分に分類され、それは、(1)ユーラシア東部草原地帯の匈奴を背景とする個体群(80個体)で、初期匈奴期(紀元前209~紀元前50年)と後期匈奴期(紀元前49~98年)へとさらに区分でき、(2)2~6世紀のアジア中央部を背景とする個体群(63個体)、(3)カルパチア盆地の4~6世紀を背景とする個体群(143個体)です。遺伝学的比較のため、分析には他の中世初期アジア東部の状況(1)が含められ、その中には、モンゴル草原の南側および天山山脈の東側の東トルキスタンの遺跡群、および甘粛省や中国大陸部や台湾の遺跡群が含まれます。より詳しくは、匈奴集団個体群がユーラシア草原地帯全域に散在する匈奴期の34ヶ所の遺跡から回収され、一部(TAK001、TAK002、DA39)は匈奴期(紀元前1世紀~2世紀)の帝国上流階層(期匈奴_P_1BC-AD2)と関連しており他の個体は在来の上流階層もしくは一般人集団の背景(初期匈奴_P_2BC-1BCと後期匈奴_P_1BC-AD2)となります[2、3、34]。
アジア中央部集団の個体群には、広範な地域とさまざまな考古学的背景からのデータが含まれます。天山山脈の2~6世紀のアジア中央部南方の遺跡群(天山_フン_P_AD2-6世紀)、および康居(Kangju)王国と関連する近隣の定住背景(康居_AD2-4世紀)が含められました[34、35]。広範な地理的地域に沿って散在する3~5世紀の単葬におもに由来する北方草原地帯の遺跡からのデータも含められ、それは、4~5世紀のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡(アクトベ/クライレイ)の上流階層の被葬者(KRY001)1個体[35、36]や、ウマの頭骨や鞍や多くの金製品のある南北方向の墓です。青銅器時代のクルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)へと掘り起こされたハルヴェィ(Halvay)遺跡の5世紀の単葬(DA27)も北方に向いており、ウマの頭骨やヒツジの頭骨や矢や弓が備えられており、他の3~5世紀の単葬があります(中世前期_遊牧民_AD3-5世紀)。これらの埋葬は、ヴォルガ川やポントス草原地帯地域やカルパチア盆地といったさらに西方で発見されたフン期の埋葬と同時代で、文化的に密接に関連しています。
さらに、アジア中央部集団には、ベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_AD2-5世紀(BRE)の18個体が含まれます(新たに配列決定された12個体と刊行されている6個体)。2~5世紀の遊牧民の埋葬は、鉄器時代の紀元前3世紀のパジリク(Pazyryk)文化の考古学的背景内で発見されました。墓の東西方向と墓の構造における石の集中的使用とウマの丸ごとの埋葬は、ユーラシア草原地帯におけるウマの頭骨/皮膚とともに埋葬された南北方向の単葬とは大きく異なります。ベレルにおける埋葬慣行は、数世紀にわたる長い匈奴期の中段によって隔てられているとしても、それ以前のパジリク文化伝統と一致しているようです。しかし、長方形の進退の大きさの石棺もしくは丸太を彫った棺と仰向けに伸ばした身体は両方とも、匈奴の伝統と類似しています。したがって、ベレル遺跡における巨大なパジリク塚の周囲にあるフンおよび匈奴期の埋葬は、九度政権の崩壊後にベレル地域において存続していたか再出現したように見える、アルタイ地域特有の一部の慣行とともに匈奴期においてアジア内陸部の草原全域に出現した慣行の、興味深い文化的混合です。
カルパチア盆地集団には、サルマティア後期/フン期からフン期およびゲピド期(4~6世紀)までのさまざまな考古学的背景の個体群が含まれます。これらの背景は、(1)カルパチア盆地におけるサルマティア期の最終段階(4世紀~5世紀初期)の共同墓地、(2)フン期およびゲピド期(5~6世紀)のより大きな埋葬地に属する散在している墓、(3)ゲピド期(5世紀後半~6世紀)の縦列墓共同墓地です[36、40~43]。これらのうち20個体は、この研究で新たに配列決定され、アジア東部との混合があります。(4)残りの10個体は5世紀の典型的なフン期東方様式埋葬に属しており、上述の新たに配列決定された4個体(PTL013、HDB001、NEP1、NEP2)ケチュケメート(Kecskemét、略してKMT)遺跡やアールパーシュ(Árpás、略してA)遺跡やサンタナ・デ・ムレシュ(Sângeorgiu de Mureș、略してMSG)遺跡チュリツェ(Czulice、略してczu)遺跡の最近刊行された6個体(ブダペスト9号もしくはVZ12673、KMT-2785、A181029、MSG-1 czu001、czu002)です。チュリツェ遺跡はカルパチア盆地の北側の現在のポーランド南部に位置していますが、本論文では単純に、カルパチア盆地集団とみなされます。これらはいくつかの新たな東方的特徴を示しており、墓穴の離れた位置と南北方向、ウマの頭骨/皮膚の埋葬、頭部の隣に位置するおもに土器製水差しである容器、三日月形の金製耳飾りなど東方様式の物質と、3点の事例での人為的な頭蓋変形が含まれます。これらの埋葬が、たとえばサルマティア期の集落やローマ期の建造物や先史時代のクルガンの内部など、以前の遺跡の集落跡もしくは埋葬地内で見つかることも一般的です。
●地理時間的集団内のゲノム組成と密接な近縁性
ゲノム祖先系統組成の観点では、匈奴期の個体群や2~6世紀のアジア中央部の個体群(緑色)は、先行研究[23、48]で報告されているように、異質な東方から西方にかけてのユーラシア混合勾配沿いに分布しています(図2)。4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体(青色で示されます)のほとんどは、アジア東部/中央部との遺伝的混合の痕跡を示さず、ヨーロッパ祖先系統のみを有しています(図2A)。これらの背景の間で、19個体はさまざまな量のアジア東部との混合を示します。これら19個体のうち、ティスザジェンダ遺跡内の5~6世紀の副葬品の乏しい個体TGH058とTGH010とTGH015とTGH068とTGB023は、最高量のユーラシア東部祖先系統を有しています。東方祖先系統のより少ない量は、ゲピド期のハイドゥーナーナーシュ共同墓地の個体群でも見られます(図2B)。フン期の東方様式埋葬で見つかった10個体のうち、8個体はユーラシア東西間の混合のさまざまな量と年代を示します。これら混合している全個体間の西方から東方への混合年代および混合割合において、高い異質性があります。そうした個体のほとんどは、多くの匈奴もしくは鮮卑期の個体で見られる同じANA(North East Asian、アジア東部北方)祖先系統[2、3、48]を有しています(図2B)。以下は本論文の図2です。
フン期の東方様式埋葬個体群(たとえば、PTL013、VZ-12673、KMT-2785、MSG-1、czu02)は、匈奴期により近くなるより古い混合年代の傾向にありますが、他の東方系外れ値の19個体は、フン期により近くなるより新しい混合年代の傾向があります。これは、侵入してきた草原地帯関連個体群がすでに混合祖先系統を有していた、と示しており、カルパチア盆地内のヨーロッパ祖先系統を有する人口集団との追加の到来後の混合を示唆しています。さらに、アールパーシュ遺跡の個体A181029やハイドゥーボソルメーニ(Hajdúböszörmény)遺跡の個体HDB001やブダペストのネプフュルド通りの個体(NEP2)といった、フン期の東方様式埋葬の個体群は、他の個体とはひじょうに異なるゲノム特性を有しています(図2B)。個体A181029は、すべての祖先系統がサルマティア/スキタイ/アジア中央部草原地帯の遺伝子プールに由来する、とモデル化でき、この遺伝子プール自体は、鉄器時代のスキタイ関連人口集団(ロシア_後期サルマティア_100BC)が位置していた、より古い混合層の結果です[49]。個体HDB001はひじょうに類似したゲノム祖先系統を有するものの、他の古代コーカサス供給源からの追加の約16%を必要とします。これは、上述の他の個体群と比較して、A181029およびHDB001について推定されたずっと古い混合年代(50~100世代前、紀元前千年紀頃)と一致します。個体NEP2は代わりに、コーカサスからの祖先系統供給源の混合に祖先系統が由来する、とモデル化できます(図2B)。
フン期の東方様式埋葬の2個体(czu001とNEP1)のみが、それぞれヨーロッパの南北の祖先系統を示します(図2A)。個体NEP1は、現在のクロアチアのローマ期の1集団である、検証されたヨーロッパ南部供給源(クロアチア_AD100)の一つ[50]で機能するモデルを提供しました。対照的に、個体czu001は、5~6世紀のカルパチア盆地では変異性の勾配の最北端に位置しており、現在のポーランドのヴァイキング期のボジア(Bodzia)遺跡の個体(ボジア_VA)のより北方の祖先系統供給源[51]での機能するモデルを提供します(図2B)。この両個体【NEP1とczu001】が二重埋葬の一部だったことは注目に値し、NEP1は副葬品がなかったものの、豊かな設備の個体NEP2の上に埋葬されており、czu001も副葬品を欠いていたものの、豊かな設備のczu02の隣にその胃の上で埋葬されているのが発見されました。これらの結果は、フン期のカルパチア盆地に暮らす人口集団、とくにフン期の東方様式埋葬の個体群における高い遺伝的多様性と、草原地帯から到来した人々における混合祖先系統の背景を論証しています。
次に、IBDのDNA断片の対での共有が推定され、IBD断片によってつながる個体の多くの組み合わせが見つかり、地理時間的な3集団相互の内部と集団間の両方での密接な近縁性を示唆しています(図3)。最高のIBD共有の組み合わせは各集団内で見つかり、以前に特定された[2、43]いくつかの1親等および2親等の親族が含まれます(図3A)。フン期の東方様式埋葬の2個体PTL013およびVZ-12673とTGH058の3人組など相対的に密接な親族関係(5~7親等の親族)の個体群も特定され、TGH058はティスザジェンダ遺跡の5~6世紀の集落内の貧相で攪乱されている墓から発見された女性個体で、個体PTL013およびVZ-12673と4~5親等の親族関係となります(図3B)。匈奴期の東方様式単葬の2個体と個体TGH058との間の密接な生物学的近縁性からこれらの祖先のつながりは多様な文化的標識と関連していたか、あるいはフン期の埋葬はゲピド期の文化的背景内に位置する、と証明されます。以下は本論文の図3です。
別の重要な調査結果には、相互に3~5親等の親族関係にあり、ゴル・モド2(Gol Mod 2)遺跡(個体DA39)およびタヒルティン・ホトゴル(Takhiltyn Khotgor、略してTAK)遺跡(個体TAK002)の2ヶ所の上流階層の埋葬、およびアツィン・アム(Atsyn Am、略してATS)遺跡(個体ATS001)の在来の上流階層埋葬に属する匈奴期の個体群が含まれ、これらの遺跡は相互に350~1000kmの範囲に位置しています(図3B)。じっさい、匈奴期には、合計6組の密接な親族関係にある個体が、さまざまな遺跡で発見されています(図3B)。これら長距離にわたる密接な親族の発見はおそらく、匈奴帝国の高い移動性と遊牧の性質および/もしくは匈奴上流階層における連合を示唆しています。
●ユーラシアを横断するゲノムのつながり
本論文の最も目立つ調査結果は、偽陽性の発見を最小化するために、8~12cM(センチモルガン)で3ヶ所以上のIBD領域と、長さですべて12cM超のIBD領域を検討した場合でさえ、地理時間的な3集団を結びつけるハプロタイプIBD共有です(図4A)。3親等および5親等のアジア中央部草原地帯の埋葬を経て、4世紀後半~6世紀までのカルパチア盆地まで、これらはモンゴル草原地帯の後期匈奴期の相互につながっている97個体の接続網を形成します(図4)。この接続網の中核では、ユーラシアを横断するつながりのほとんどが見つかり、上述の密接な親族関係にあるカルパチア盆地と匈奴帝国の上流階層の3人組、別の東方様式埋葬(個体MSG-1)とアクトベ/クライレイ遺跡およびハルヴェィ遺跡のフン期のアジア中央部の単葬2個体(KRY001と)DA27など、約20個体が含まれます。以下は本論文の図4です。
興味深いことに、アジア中央部集団と他の2集団との間のつながりはほぼ、アジア中央部全域の限られた数の遺跡と埋葬を通じて媒介されており、それは、個体KRY001・DA27・DA95の3ヶ所の単葬とベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_AD2-5世紀の10個体です。これらの単葬墓は文化的にヨーロッパにおけるフン期の東方様式埋葬と関連していますが、同じことはベレル遺跡では主張できません。これらのIBDのつながりの解釈は、遺伝学的結果からは、ベレル遺跡とフン期カルパチア盆地の人口集団間の直接的なつながりと、共通の供給源の両方の状況があり得ますが、異なる埋葬伝統からは、共通の供給源が支持されます。アジア中央部草原地帯の南部とのIBDのつながりは未知狩らず、唯一の例外は、康居(Kangju)王国の領域内のオトラル(Otrar)オアシスの定住状況で発見されたアジア東部祖先系統の外れ値個体(KNT004)によって表されます。
さらに、匈奴期若しくは4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体群と、天山山脈の遊牧民背景の個体群(2~6世紀)との間では、長い(20cM以上)IBDのつながりが検出されず、ひじょうに限られたより短い(8cM以上)IBDのつながりが検出されます。これは、天山の集団が通常文献で「フン」と説明されるものの、その物質文化はヨーロッパのフン期の考古学的発見との類似性を示さない、という考古学的観察を確証します。それにも関わらず、4~5世紀のアジア中央部南方における人口変化の理解は限られており、それは、草原地帯様式の単葬もしくは、たとえばキダーラ(Kidarite)王国もしくはエフタル(Hephthalite)王国に属する、「フン的」とみなされる遺跡の個体群が欠けているからです。
他の中世初期アジア東部遺跡の個体群と近隣の東トルキスタン地域の個体群との間のひじょうに限られたIBD共有も見つかり、カルパチア盆地とアジア中央部と匈奴期の個体群の間で観察されたIBD共有の量は、アジア東部のゲノム構成要素の一般的な共有に起因しないかもしれない、と示唆されます。さらに、後期匈奴期の相互につながっている個体群と4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体群との間でのIBD共有のパターンをモデル化すると、500年の分岐時間が見つかり、これはフン期と匈奴期を分離する中間の年代差に相当します。これは、後期匈奴期の一部の個体(匈奴帝国上流階層埋葬で見つかった2個体を含み暈巣)が、一部のフン期の個体の直接的祖先か、数世代でその直接的祖先が系図的につながっていることを示します。何世代にもわたる長距離移動を行なった、少数の上流階層の匈奴系統もしくは「家族」が存在した、と推測したくなります。しかし、この生物学的な祖先のつながりに、とくに長年経過した後で、文化的もしくは社会的意味が伴っていたのか、確証できません。上流階層の個体群がより多くのIBDのつながりを要していた理由の他の妥当な解釈は、何世代によもわたって遺伝的兆候を広げた生物学的子孫の数がより多くなるような、より多くの機会を決定した、草原地帯の支族の結婚の社会的慣行[42]もしくは社会的条件(たとえば、より高い資源/生活の質)に起因するかもしれません。
●考察
先行研究[35、36、43]の結果と一致して、ヨーロッパにおいてフン期東方様式埋葬で発見された個体群は、さまざまな量のアジア北東部祖先系統を要していた、と確証されます。同様の混合ゲノム特性は、紀元前千年紀のユーラシア草原地帯全域で一般的に見られました[2、3、34、35、53]。したがって、そうした混合ゲノム特性を、特定の先行する考古学的文化および人々と結びつけることは、明らかではありません。本論文では、新たなデータと改良されたハプロタイプIBD分析の追加によって、後期匈奴期最高位の上流階層の一部を、カルパチア盆地の少数の考古学的に定義されたフン期東方様式埋葬の一部の個体や、アジア東部との混合の遺伝的痕跡を有するその地域の他の5~6世紀の状況で発見された一部の他の個体を結びつける、直接的な遺伝的子孫系統の説得力のある証拠が見つかりました。
さらに、カルパチア盆地(本論文では143個体が含まれています)の他の5~6世紀の背景の合計371個体についてのデータ調査によって、アジア東部北方もしくは草原地帯との混合の痕跡があるのは、わずか26個体(6%)しか見つかりませんでした。これには、フン期東方様式埋葬の10個体のうち8個体が含まれています。これらの墓は数が少なく、すべての単葬もしくは小さな墓群で、地理的にドナウ川のおもに東側に散在しています(図1)。したがって、これらの個体を東方祖先系統と結びつけるこれら直接的な子孫系統を除くと、考古学と遺伝学の両方で、この期間におけるより大きな東方/草原地帯の子孫共同体の存在の証拠は見つかりませんでした。
全体的に、本論文の結果から、ヨーロッパのフンの歴史についていくつかの結論が認められます。第一に、ヨーロッパにおけるフン王国の人口集団は遺伝的に高度に異質でした。これはとくに、フン期東方様式埋葬で発見された個体群に当てはまります。これらは、同時代人がフンとみなし、その祖先系統がユーラシア東西全体の遺伝的勾配に沿って広がった、軍事上流階層とその家族に属すると解釈できるかもしれません。しかし、第二に、5世紀のヨーロッパ中央部東方に埋葬された個体の一部は、ユーラシア中央部および東部の草原地帯におけるそれ以前の被葬者とのIBDのつながりを有していた、との明らかな兆候があり、これには匈奴の以前の領地が含まれますが、それだけではなく、これは、一部のヨーロッパのフン人がそうした地域の子孫だったことを証明します。これらのつながりには、以前の匈奴の領地の西側に埋葬された個体(つまり、アルタイ山脈の西側のベレル遺跡)も含まれており、そこでは匈奴の一部がその敗北後に撤退したかもしれません。アルタイ山脈の西側の被葬者はヨーロッパとのIBDのつながりを有していますが、考古学的には共通点がほとんどありません。北カザフスタンのさらに西方の遺跡群(アクトベ/クライレイなど)は、フン期ヨーロッパ中央部とのいくらかの考古学的類似性を示します。これらの単葬は4~5世紀にヨーロッパを席巻した同じフンの移動の痕跡かもしれません。第三に、匈奴もしくはヨーロッパのフンのいずれかと南カザフスタンの天山およびオトラルのオアシス地域との間の実質的な直接的つながりは、確証できません。しかし、これはまだ予備的な結論で、アジア中央部草原地帯南方のより広範な地域から得られたデータで検証されるべきです。
370年代におけるフンのヨーロッパ東部への移動は、2世紀後のアヴァールの移動[36]とは異なっていた、と結論づけることができます。6世紀のアヴァールの中核集団は、アジア東部における柔然(Rouran)帝国の敗北後、直接的にヨーロッパへと逃れ、おもにアジア東部および中央部祖先系統を有していました。4~5世紀のヨーロッパのフンは、1~2世紀の最新の匈奴人口集団とは時間的に離れており、遺伝的および文化的に多様でした。遠大なIBDのつながりだけではなく、多様な祖先系や広範な混合年代や考古学的差異も、一度だけの長距離移動よりも複雑な移動性と混合の仮定を示唆しています。
参考文献:
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●要約
フン人はヨーロッパに370年代に出現し、ユーラシア西部の歴史を作り変えた、帝国を樹立しました。しかし現在まで、フン人の起源はまださまざまな議論となっています。伝統的な仮説はフン人を、モンゴル草原の最初の遊牧帝国である匈奴の創始者と結びつけます。しかし、匈奴帝国はフン人がヨーロッパに出現する約300年前に消滅しており、この時間的空隙における草原地帯でのフン人の考古学的および歴史的証拠はほとんどありません。さらに、カルパチア盆地の5~6世紀の豊富な考古学的記録にも関わらず、草原地帯とのつながりの文化的要素は少数の発見に限られており、単独の東方様式埋葬はさらに少なくなっています。本論文では、考古学的証拠が新たに配列された35個体および刊行されている個体の合計370個体のゲノムデータと共同分析され、この370個体はカルパチア盆地の5~6世紀の遺跡から発見され、フン期の東方様式の10ヶ所の埋葬、アジア中央部の2~5世紀の遺跡、モンゴル草原全域の紀元前2世紀~紀元前1世紀の匈奴期が含まれます。フン期とフン期後のカルパチア盆地人口集団において、大規模な東方/草原の子孫共同体の存在の証拠は見つかりませんでした。東方様式埋葬における高い遺伝的多様性も観察され、これはユーラシア草原地帯全域で観察された変異性を再現します。これは、侵入してきた草原地帯からの征服者の混合起源を示唆します。それにも関わらず、長い共有されたゲノム領域は、匈奴期の最高位の上流階層の一部の個体を、5~6世紀のカルパチア盆地個体群と直接的に結びつける、遺伝的系統の説得力のある証拠を提供し、一部のヨーロッパのフン人が匈奴期の最高位の上流階層の子孫だったことを示しています。
●ヨーロッパのフン人:歴史的背景
370年代にフン人は突然ヨーロッパの歴史に出現し、この時、国会の北側に到達して、部分的にはアラン人やゴート人などいくつかの民族集団を従属させたり置換したりして、ローマ帝国への一連の移住を引き起こしました。同時代の作家であるアンミアヌス・マルケリヌス(Ammianus Marcellinus)によって新しく謎の敵として記述されたヨーロッパのフンは、現在でさえ起源が依然として議論になっています。18世紀に初めて主張された伝統的な仮説は、ヨーロッパのフンを、最初の遊牧民帝国の創設者である匈奴と結びつけましたが、匈奴はその最盛期(紀元前200~紀元後100年頃)に多様な民族共同体を支配し[2、3]、現代のモンゴル国と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部と【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンの地域に相当する、内陸アジア全域に広がっていました。1世紀末に、匈奴帝国は対立する国家へと分裂し、その後は鮮卑や他の草原地帯集団に征服されました。
ほとんどの学者によると、「匈奴」と「フン」という名称は関連しているものの、そうした言語学的つながりの正確な性質は議論になっています。匈奴とフンとの間で民族的および/もしくは文化的連続性があるのかどうかについて、合意はほとんどありません。匈奴帝国末とヨーロッパにおける分の出現との間に、草原地帯のフンに関する証拠はほとんどなく、文献に基づく政治的連続性は認識できません。たとえば、いわゆるフンの大釜や人為的な頭骨の変形および王冠や複合弓矢の鏃など、文化的指標もしくは民族的代理とさえ考えられてきた物質文化の要素に関するかなりの研究にも関わらず、フン期のヨーロッパの墓地および集落をアジア中央部東方と結びつける考古学的証拠は限られています。したがって、多くの研究者はヨーロッパのフンを草原地帯戦士や混合起源の複合体(conglomerate、礫岩)の拡大と考えており、ヨーロッパのフンは、経済や気候や環境の要因を含めて、多様な要因のためゆっくりと西方へ移動しました。本論文で分析されたユーラシアのさまざまな地域から得られた遺伝学的証拠は、ヨーロッパのフンの起源に関する古い問題を解明します。
●フン期におけるカルパチア盆地の考古学
カルパチア盆地におけるフンの征服の結果として、東方ではサルマティア王国、西方ではローマのパンノニアが400年の直後に崩壊しました。多くの集落と墓地は放棄され、一部の事例では焼けた破壊の層を観察できます。しかし、他の遺跡は中断のない使用を示唆しており、他の遺跡は、以前のローマ帝国もしくはサルマティア王国の遺跡内に位置することが多い、新しいより小さな集落および墓地の建設を示唆します。個々の共同体の運命は大きく異なっていたかもしれず、変容は遺跡水準でのみ解釈できます。この斑状の全体像にも関わらず、ドナウ川中流域の変化していく社会では、フンの支配下において新たな統合された物質文化の出現がありました。したがって、人為的な頭蓋変形(artificial cranial deformation、略してACD)の慣行のように、おもに東西に向いた墓の小さな墓地群および共同墓地や、墓にある多数のさまざまな胸飾りおよび首飾りや多角体の耳飾りや櫛が広く観察されます。これらの共同墓地は、強い草原地帯の特徴ではなく、他の以前のローマ辺境地域の人口集団と密接に関連している、ドナウ川中流域の混合人口集団によって作られた5世紀の文化を表しています。
かなりの程度の文化的均質化にも関わらず、草原地帯の征服者によって明らかに残されたいくつかの証拠があります。数はひじょうに少ないものの、この地域では先例のない要素があり、新たな種類の人工遺物だけではなく、新たな習慣および心性も示しており、埋葬儀式と関連する、共同体の儀式において明らかに使用された生贄の大釜および「儀式の」倉庫や、騎馬遊牧民の生活様式を示唆する物質(たとえば、馬具)があります(図1)。草原地帯とのつながりのあるいくつかの埋葬慣行が出現し、その後で5世紀に消滅しました。これらはおもに南北向きの人里離れた墓か、小さな墓群、およびウマの頭蓋と脚のあるいくつかの事例で見つかりました(表1)。これら東方の特徴の類例は、草原地帯全域のさまざまな分布パターンを示します。南北の向きや土器のもしくは家畜の供物は北方に向かって置かれ、墓の一部の動物は匈奴の埋葬慣行と似ています。南北の向きはヨーロッパ東部およびアジア中央部や、他のヨーロッパ東部およびポントス草原地帯の文化背景においてフンと関連する集団において一般的な現象で、サルマティア後期の埋葬遺跡や、チェルニャヒーウ・サンタナ・デ・ムレシュ(Chernyakhiv–Sântana de Mureş)文化の共同墓地が含まれます。したがって、5世紀前半のカルパチア盆地におけるそうした文化現象の出現は、フン集団のみと関連しているわけではないかもしれませんが、一般的には新たな東方からの影響です。物質文化の東方とのつながりは、ほぼポントス草原地帯およびコーカサス地域に限られており(たとえば、三日月形の耳飾り)、アジア東部に固有の人工遺物は検出できません。東方の特徴は埋葬において均一に存在するわけではなく、在来要素とともに見られることが多くなっています(たとえば、ローマの慣行に従った土坑墓における土器製水差しやガラス容器)。これらの埋葬(以後、「フン期東方様式埋葬」と呼ばれます)は、カルパチア盆地全域においてたいへん稀で、散在しています(図1)。以下は本論文の図1です。
フン帝国の崩壊後に、カルパチア盆地の東半分はゲピド王国の一部となりました(454年)。しかし、これは物質文化における突然の断絶を表していませんでした。遺跡の板部、とくにより小さな共同墓地群や緩く構造化された埋葬地は、フン期からゲピド期にかけての移行期に使用されました。その後、5世紀後半には、中世初期ヨーロッパで一般的なパターンに従った、より大きな「列墓共同墓地」が現れました。フン期の他の伝統、たとえばACDの慣行は完全に消えました。したがって、考古学的証拠からは、混合したフン期人口集団(の少なくとも一部)はゲピド王国期に存続したようです。
本論文の目的は、古代ゲノムデータの分析による、フン期およびその後のカルパチア盆地ともユーラシア中央部および東部草原地帯の数世紀前の人口集団との間のつながりの可能性の調査です。具体的には、ユーラシア東部草原地帯の匈奴期の人口集団とフン期およびその後のカルパチア盆地人口集団との間の、直接的な遺伝的子孫の証拠の特定が可能なのかどうか、評価が試みられました。この目的のため、35個体の新たなゲノム規模データが提示され、それは第一に、5世紀のフン期東方様式背景の4個体、プスズタタスコニー(Pusztataskony)遺跡遺跡の単葬墓の1個体(PTL013)、ネプフュルド(Népfürdő)通りのブダペスト8(Budapest XIII)遺跡の二重埋葬かもしれない2個体(NEP1およびNEP2)、5~6世紀のティスザジェンダ(Tiszagyenda)遺跡もしくはTGB/TGHかプスズタタスコニー(Pusztataskony)遺跡もしくはPTLかハイドゥーナーナーシュ(Hajdúnánás)遺跡もしくはHNFの19個体で、これらはその大規模な標本一式(228個体)内で混合したアジア中央部もしくは東部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示し、第二に、アルタイ山脈の西側斜面に位置する匈奴/フン期のベレル(Berel)遺跡の12個体(ベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_ AD 2-5世紀)です。やこの新たなデータは、カルパチア盆地の4世紀後期~6世紀後期の刊行されているゲノムデータや、ユーラシア東部草原地帯の匈奴期のデータ(紀元前3世紀~1世紀)や、匈奴期に続く最後にアジア中央部草原地帯のデータ(2~6世紀)とともに、と共同分析されました。
●選択された遺跡と個体の説明
合計370個体の古代人で構成される古代ゲノムデータセットが編集され、そのうち275個体は同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)断片共有分析の基準を満たしていました。説明のため、これらの個体は年代順にもとづいて主要な3通りの地理時間的区分に分類され、それは、(1)ユーラシア東部草原地帯の匈奴を背景とする個体群(80個体)で、初期匈奴期(紀元前209~紀元前50年)と後期匈奴期(紀元前49~98年)へとさらに区分でき、(2)2~6世紀のアジア中央部を背景とする個体群(63個体)、(3)カルパチア盆地の4~6世紀を背景とする個体群(143個体)です。遺伝学的比較のため、分析には他の中世初期アジア東部の状況(1)が含められ、その中には、モンゴル草原の南側および天山山脈の東側の東トルキスタンの遺跡群、および甘粛省や中国大陸部や台湾の遺跡群が含まれます。より詳しくは、匈奴集団個体群がユーラシア草原地帯全域に散在する匈奴期の34ヶ所の遺跡から回収され、一部(TAK001、TAK002、DA39)は匈奴期(紀元前1世紀~2世紀)の帝国上流階層(期匈奴_P_1BC-AD2)と関連しており他の個体は在来の上流階層もしくは一般人集団の背景(初期匈奴_P_2BC-1BCと後期匈奴_P_1BC-AD2)となります[2、3、34]。
アジア中央部集団の個体群には、広範な地域とさまざまな考古学的背景からのデータが含まれます。天山山脈の2~6世紀のアジア中央部南方の遺跡群(天山_フン_P_AD2-6世紀)、および康居(Kangju)王国と関連する近隣の定住背景(康居_AD2-4世紀)が含められました[34、35]。広範な地理的地域に沿って散在する3~5世紀の単葬におもに由来する北方草原地帯の遺跡からのデータも含められ、それは、4~5世紀のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡(アクトベ/クライレイ)の上流階層の被葬者(KRY001)1個体[35、36]や、ウマの頭骨や鞍や多くの金製品のある南北方向の墓です。青銅器時代のクルガン(Kurgan、墳墓、墳丘)へと掘り起こされたハルヴェィ(Halvay)遺跡の5世紀の単葬(DA27)も北方に向いており、ウマの頭骨やヒツジの頭骨や矢や弓が備えられており、他の3~5世紀の単葬があります(中世前期_遊牧民_AD3-5世紀)。これらの埋葬は、ヴォルガ川やポントス草原地帯地域やカルパチア盆地といったさらに西方で発見されたフン期の埋葬と同時代で、文化的に密接に関連しています。
さらに、アジア中央部集団には、ベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_AD2-5世紀(BRE)の18個体が含まれます(新たに配列決定された12個体と刊行されている6個体)。2~5世紀の遊牧民の埋葬は、鉄器時代の紀元前3世紀のパジリク(Pazyryk)文化の考古学的背景内で発見されました。墓の東西方向と墓の構造における石の集中的使用とウマの丸ごとの埋葬は、ユーラシア草原地帯におけるウマの頭骨/皮膚とともに埋葬された南北方向の単葬とは大きく異なります。ベレルにおける埋葬慣行は、数世紀にわたる長い匈奴期の中段によって隔てられているとしても、それ以前のパジリク文化伝統と一致しているようです。しかし、長方形の進退の大きさの石棺もしくは丸太を彫った棺と仰向けに伸ばした身体は両方とも、匈奴の伝統と類似しています。したがって、ベレル遺跡における巨大なパジリク塚の周囲にあるフンおよび匈奴期の埋葬は、九度政権の崩壊後にベレル地域において存続していたか再出現したように見える、アルタイ地域特有の一部の慣行とともに匈奴期においてアジア内陸部の草原全域に出現した慣行の、興味深い文化的混合です。
カルパチア盆地集団には、サルマティア後期/フン期からフン期およびゲピド期(4~6世紀)までのさまざまな考古学的背景の個体群が含まれます。これらの背景は、(1)カルパチア盆地におけるサルマティア期の最終段階(4世紀~5世紀初期)の共同墓地、(2)フン期およびゲピド期(5~6世紀)のより大きな埋葬地に属する散在している墓、(3)ゲピド期(5世紀後半~6世紀)の縦列墓共同墓地です[36、40~43]。これらのうち20個体は、この研究で新たに配列決定され、アジア東部との混合があります。(4)残りの10個体は5世紀の典型的なフン期東方様式埋葬に属しており、上述の新たに配列決定された4個体(PTL013、HDB001、NEP1、NEP2)ケチュケメート(Kecskemét、略してKMT)遺跡やアールパーシュ(Árpás、略してA)遺跡やサンタナ・デ・ムレシュ(Sângeorgiu de Mureș、略してMSG)遺跡チュリツェ(Czulice、略してczu)遺跡の最近刊行された6個体(ブダペスト9号もしくはVZ12673、KMT-2785、A181029、MSG-1 czu001、czu002)です。チュリツェ遺跡はカルパチア盆地の北側の現在のポーランド南部に位置していますが、本論文では単純に、カルパチア盆地集団とみなされます。これらはいくつかの新たな東方的特徴を示しており、墓穴の離れた位置と南北方向、ウマの頭骨/皮膚の埋葬、頭部の隣に位置するおもに土器製水差しである容器、三日月形の金製耳飾りなど東方様式の物質と、3点の事例での人為的な頭蓋変形が含まれます。これらの埋葬が、たとえばサルマティア期の集落やローマ期の建造物や先史時代のクルガンの内部など、以前の遺跡の集落跡もしくは埋葬地内で見つかることも一般的です。
●地理時間的集団内のゲノム組成と密接な近縁性
ゲノム祖先系統組成の観点では、匈奴期の個体群や2~6世紀のアジア中央部の個体群(緑色)は、先行研究[23、48]で報告されているように、異質な東方から西方にかけてのユーラシア混合勾配沿いに分布しています(図2)。4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体(青色で示されます)のほとんどは、アジア東部/中央部との遺伝的混合の痕跡を示さず、ヨーロッパ祖先系統のみを有しています(図2A)。これらの背景の間で、19個体はさまざまな量のアジア東部との混合を示します。これら19個体のうち、ティスザジェンダ遺跡内の5~6世紀の副葬品の乏しい個体TGH058とTGH010とTGH015とTGH068とTGB023は、最高量のユーラシア東部祖先系統を有しています。東方祖先系統のより少ない量は、ゲピド期のハイドゥーナーナーシュ共同墓地の個体群でも見られます(図2B)。フン期の東方様式埋葬で見つかった10個体のうち、8個体はユーラシア東西間の混合のさまざまな量と年代を示します。これら混合している全個体間の西方から東方への混合年代および混合割合において、高い異質性があります。そうした個体のほとんどは、多くの匈奴もしくは鮮卑期の個体で見られる同じANA(North East Asian、アジア東部北方)祖先系統[2、3、48]を有しています(図2B)。以下は本論文の図2です。
フン期の東方様式埋葬個体群(たとえば、PTL013、VZ-12673、KMT-2785、MSG-1、czu02)は、匈奴期により近くなるより古い混合年代の傾向にありますが、他の東方系外れ値の19個体は、フン期により近くなるより新しい混合年代の傾向があります。これは、侵入してきた草原地帯関連個体群がすでに混合祖先系統を有していた、と示しており、カルパチア盆地内のヨーロッパ祖先系統を有する人口集団との追加の到来後の混合を示唆しています。さらに、アールパーシュ遺跡の個体A181029やハイドゥーボソルメーニ(Hajdúböszörmény)遺跡の個体HDB001やブダペストのネプフュルド通りの個体(NEP2)といった、フン期の東方様式埋葬の個体群は、他の個体とはひじょうに異なるゲノム特性を有しています(図2B)。個体A181029は、すべての祖先系統がサルマティア/スキタイ/アジア中央部草原地帯の遺伝子プールに由来する、とモデル化でき、この遺伝子プール自体は、鉄器時代のスキタイ関連人口集団(ロシア_後期サルマティア_100BC)が位置していた、より古い混合層の結果です[49]。個体HDB001はひじょうに類似したゲノム祖先系統を有するものの、他の古代コーカサス供給源からの追加の約16%を必要とします。これは、上述の他の個体群と比較して、A181029およびHDB001について推定されたずっと古い混合年代(50~100世代前、紀元前千年紀頃)と一致します。個体NEP2は代わりに、コーカサスからの祖先系統供給源の混合に祖先系統が由来する、とモデル化できます(図2B)。
フン期の東方様式埋葬の2個体(czu001とNEP1)のみが、それぞれヨーロッパの南北の祖先系統を示します(図2A)。個体NEP1は、現在のクロアチアのローマ期の1集団である、検証されたヨーロッパ南部供給源(クロアチア_AD100)の一つ[50]で機能するモデルを提供しました。対照的に、個体czu001は、5~6世紀のカルパチア盆地では変異性の勾配の最北端に位置しており、現在のポーランドのヴァイキング期のボジア(Bodzia)遺跡の個体(ボジア_VA)のより北方の祖先系統供給源[51]での機能するモデルを提供します(図2B)。この両個体【NEP1とczu001】が二重埋葬の一部だったことは注目に値し、NEP1は副葬品がなかったものの、豊かな設備の個体NEP2の上に埋葬されており、czu001も副葬品を欠いていたものの、豊かな設備のczu02の隣にその胃の上で埋葬されているのが発見されました。これらの結果は、フン期のカルパチア盆地に暮らす人口集団、とくにフン期の東方様式埋葬の個体群における高い遺伝的多様性と、草原地帯から到来した人々における混合祖先系統の背景を論証しています。
次に、IBDのDNA断片の対での共有が推定され、IBD断片によってつながる個体の多くの組み合わせが見つかり、地理時間的な3集団相互の内部と集団間の両方での密接な近縁性を示唆しています(図3)。最高のIBD共有の組み合わせは各集団内で見つかり、以前に特定された[2、43]いくつかの1親等および2親等の親族が含まれます(図3A)。フン期の東方様式埋葬の2個体PTL013およびVZ-12673とTGH058の3人組など相対的に密接な親族関係(5~7親等の親族)の個体群も特定され、TGH058はティスザジェンダ遺跡の5~6世紀の集落内の貧相で攪乱されている墓から発見された女性個体で、個体PTL013およびVZ-12673と4~5親等の親族関係となります(図3B)。匈奴期の東方様式単葬の2個体と個体TGH058との間の密接な生物学的近縁性からこれらの祖先のつながりは多様な文化的標識と関連していたか、あるいはフン期の埋葬はゲピド期の文化的背景内に位置する、と証明されます。以下は本論文の図3です。
別の重要な調査結果には、相互に3~5親等の親族関係にあり、ゴル・モド2(Gol Mod 2)遺跡(個体DA39)およびタヒルティン・ホトゴル(Takhiltyn Khotgor、略してTAK)遺跡(個体TAK002)の2ヶ所の上流階層の埋葬、およびアツィン・アム(Atsyn Am、略してATS)遺跡(個体ATS001)の在来の上流階層埋葬に属する匈奴期の個体群が含まれ、これらの遺跡は相互に350~1000kmの範囲に位置しています(図3B)。じっさい、匈奴期には、合計6組の密接な親族関係にある個体が、さまざまな遺跡で発見されています(図3B)。これら長距離にわたる密接な親族の発見はおそらく、匈奴帝国の高い移動性と遊牧の性質および/もしくは匈奴上流階層における連合を示唆しています。
●ユーラシアを横断するゲノムのつながり
本論文の最も目立つ調査結果は、偽陽性の発見を最小化するために、8~12cM(センチモルガン)で3ヶ所以上のIBD領域と、長さですべて12cM超のIBD領域を検討した場合でさえ、地理時間的な3集団を結びつけるハプロタイプIBD共有です(図4A)。3親等および5親等のアジア中央部草原地帯の埋葬を経て、4世紀後半~6世紀までのカルパチア盆地まで、これらはモンゴル草原地帯の後期匈奴期の相互につながっている97個体の接続網を形成します(図4)。この接続網の中核では、ユーラシアを横断するつながりのほとんどが見つかり、上述の密接な親族関係にあるカルパチア盆地と匈奴帝国の上流階層の3人組、別の東方様式埋葬(個体MSG-1)とアクトベ/クライレイ遺跡およびハルヴェィ遺跡のフン期のアジア中央部の単葬2個体(KRY001と)DA27など、約20個体が含まれます。以下は本論文の図4です。
興味深いことに、アジア中央部集団と他の2集団との間のつながりはほぼ、アジア中央部全域の限られた数の遺跡と埋葬を通じて媒介されており、それは、個体KRY001・DA27・DA95の3ヶ所の単葬とベレル_アルタイ_鮮卑_フン_P_AD2-5世紀の10個体です。これらの単葬墓は文化的にヨーロッパにおけるフン期の東方様式埋葬と関連していますが、同じことはベレル遺跡では主張できません。これらのIBDのつながりの解釈は、遺伝学的結果からは、ベレル遺跡とフン期カルパチア盆地の人口集団間の直接的なつながりと、共通の供給源の両方の状況があり得ますが、異なる埋葬伝統からは、共通の供給源が支持されます。アジア中央部草原地帯の南部とのIBDのつながりは未知狩らず、唯一の例外は、康居(Kangju)王国の領域内のオトラル(Otrar)オアシスの定住状況で発見されたアジア東部祖先系統の外れ値個体(KNT004)によって表されます。
さらに、匈奴期若しくは4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体群と、天山山脈の遊牧民背景の個体群(2~6世紀)との間では、長い(20cM以上)IBDのつながりが検出されず、ひじょうに限られたより短い(8cM以上)IBDのつながりが検出されます。これは、天山の集団が通常文献で「フン」と説明されるものの、その物質文化はヨーロッパのフン期の考古学的発見との類似性を示さない、という考古学的観察を確証します。それにも関わらず、4~5世紀のアジア中央部南方における人口変化の理解は限られており、それは、草原地帯様式の単葬もしくは、たとえばキダーラ(Kidarite)王国もしくはエフタル(Hephthalite)王国に属する、「フン的」とみなされる遺跡の個体群が欠けているからです。
他の中世初期アジア東部遺跡の個体群と近隣の東トルキスタン地域の個体群との間のひじょうに限られたIBD共有も見つかり、カルパチア盆地とアジア中央部と匈奴期の個体群の間で観察されたIBD共有の量は、アジア東部のゲノム構成要素の一般的な共有に起因しないかもしれない、と示唆されます。さらに、後期匈奴期の相互につながっている個体群と4世紀後半~6世紀のカルパチア盆地の個体群との間でのIBD共有のパターンをモデル化すると、500年の分岐時間が見つかり、これはフン期と匈奴期を分離する中間の年代差に相当します。これは、後期匈奴期の一部の個体(匈奴帝国上流階層埋葬で見つかった2個体を含み暈巣)が、一部のフン期の個体の直接的祖先か、数世代でその直接的祖先が系図的につながっていることを示します。何世代にもわたる長距離移動を行なった、少数の上流階層の匈奴系統もしくは「家族」が存在した、と推測したくなります。しかし、この生物学的な祖先のつながりに、とくに長年経過した後で、文化的もしくは社会的意味が伴っていたのか、確証できません。上流階層の個体群がより多くのIBDのつながりを要していた理由の他の妥当な解釈は、何世代によもわたって遺伝的兆候を広げた生物学的子孫の数がより多くなるような、より多くの機会を決定した、草原地帯の支族の結婚の社会的慣行[42]もしくは社会的条件(たとえば、より高い資源/生活の質)に起因するかもしれません。
●考察
先行研究[35、36、43]の結果と一致して、ヨーロッパにおいてフン期東方様式埋葬で発見された個体群は、さまざまな量のアジア北東部祖先系統を要していた、と確証されます。同様の混合ゲノム特性は、紀元前千年紀のユーラシア草原地帯全域で一般的に見られました[2、3、34、35、53]。したがって、そうした混合ゲノム特性を、特定の先行する考古学的文化および人々と結びつけることは、明らかではありません。本論文では、新たなデータと改良されたハプロタイプIBD分析の追加によって、後期匈奴期最高位の上流階層の一部を、カルパチア盆地の少数の考古学的に定義されたフン期東方様式埋葬の一部の個体や、アジア東部との混合の遺伝的痕跡を有するその地域の他の5~6世紀の状況で発見された一部の他の個体を結びつける、直接的な遺伝的子孫系統の説得力のある証拠が見つかりました。
さらに、カルパチア盆地(本論文では143個体が含まれています)の他の5~6世紀の背景の合計371個体についてのデータ調査によって、アジア東部北方もしくは草原地帯との混合の痕跡があるのは、わずか26個体(6%)しか見つかりませんでした。これには、フン期東方様式埋葬の10個体のうち8個体が含まれています。これらの墓は数が少なく、すべての単葬もしくは小さな墓群で、地理的にドナウ川のおもに東側に散在しています(図1)。したがって、これらの個体を東方祖先系統と結びつけるこれら直接的な子孫系統を除くと、考古学と遺伝学の両方で、この期間におけるより大きな東方/草原地帯の子孫共同体の存在の証拠は見つかりませんでした。
全体的に、本論文の結果から、ヨーロッパのフンの歴史についていくつかの結論が認められます。第一に、ヨーロッパにおけるフン王国の人口集団は遺伝的に高度に異質でした。これはとくに、フン期東方様式埋葬で発見された個体群に当てはまります。これらは、同時代人がフンとみなし、その祖先系統がユーラシア東西全体の遺伝的勾配に沿って広がった、軍事上流階層とその家族に属すると解釈できるかもしれません。しかし、第二に、5世紀のヨーロッパ中央部東方に埋葬された個体の一部は、ユーラシア中央部および東部の草原地帯におけるそれ以前の被葬者とのIBDのつながりを有していた、との明らかな兆候があり、これには匈奴の以前の領地が含まれますが、それだけではなく、これは、一部のヨーロッパのフン人がそうした地域の子孫だったことを証明します。これらのつながりには、以前の匈奴の領地の西側に埋葬された個体(つまり、アルタイ山脈の西側のベレル遺跡)も含まれており、そこでは匈奴の一部がその敗北後に撤退したかもしれません。アルタイ山脈の西側の被葬者はヨーロッパとのIBDのつながりを有していますが、考古学的には共通点がほとんどありません。北カザフスタンのさらに西方の遺跡群(アクトベ/クライレイなど)は、フン期ヨーロッパ中央部とのいくらかの考古学的類似性を示します。これらの単葬は4~5世紀にヨーロッパを席巻した同じフンの移動の痕跡かもしれません。第三に、匈奴もしくはヨーロッパのフンのいずれかと南カザフスタンの天山およびオトラルのオアシス地域との間の実質的な直接的つながりは、確証できません。しかし、これはまだ予備的な結論で、アジア中央部草原地帯南方のより広範な地域から得られたデータで検証されるべきです。
370年代におけるフンのヨーロッパ東部への移動は、2世紀後のアヴァールの移動[36]とは異なっていた、と結論づけることができます。6世紀のアヴァールの中核集団は、アジア東部における柔然(Rouran)帝国の敗北後、直接的にヨーロッパへと逃れ、おもにアジア東部および中央部祖先系統を有していました。4~5世紀のヨーロッパのフンは、1~2世紀の最新の匈奴人口集団とは時間的に離れており、遺伝的および文化的に多様でした。遠大なIBDのつながりだけではなく、多様な祖先系や広範な混合年代や考古学的差異も、一度だけの長距離移動よりも複雑な移動性と混合の仮定を示唆しています。
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