本村凌二『地中海世界の歴史5 勝利を愛する人々 共和政ローマ』

 講談社選書メチエの一冊として、2025年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。『地中海世界の歴史』全8巻も後半に入り、いよいよ著者が専門とするローマ史となり、4巻までよりもさらに筆が乗っている感もあります。本書は、ローマの起源から第三次ポエニ戦争の終結までを対象としています。この時点ではまだローマ帝政期ではありませんが、第三次ポエニ戦争の終結時点で、ローマはすでにアッシリアやペルシアと比肩するような大国になっていました。イタリア半島の1都市国家にすぎなかったローマがこのように拡大した背景に、子弟教育の拠り所となった「父祖の遺風」があったのではないか、と本書は推測します。ローマ人にとって、父祖の遺風はあらゆる考えや行動の基準でした。ギリシア人にもそうした基準や伝統はあったものの、ローマ人の古来の伝統に固執する精神はとにかく強かった、と本書は指摘します。

 ローマの建国は曖昧な神話に彩られており、それはローマ市民の知識層も自覚していたようです。ローマの建国神話には、アエネアスを創設者とするものがありますが、これはギリシア人と交流していたエトルリア人に伝えられ、その後でローマに伝わり、他にも多くの神話が伝えられた中で、ローマ人はアエネアスの物語を選択したのだろう、と本書は推測します。初期のローマは王政で、王政後半期の王はエトルリア人だった、と伝わっています。本書はエトルリアもやや詳しく取り上げており、ローマ人がエトルリア人から多くを学んだ、と指摘しています。ただ、エトルリア人の王の支配はローマ人にとって「専制支配」と受け止められたようで、ローマ人がエトルリア人の文化の痕跡すら消し去ろうとしていたのではないか、と本書は推測します。エトルリア人は、複数の都市から構成される「エトルリア連合」を形成していたようです。エトルリアは王政から貴族政へと移行したようで、この点はローマと似ています。

 共和政ローマの特徴として本書は、ギリシア人のポリスとは異なり、貴族(パトリキ)の元老院と平民(プレブス)との間の身分の違いが堂々と明示されていることを指摘します。共和政期初期のローマでは貴族と平民の対立が激しかったようで、その「身分闘争」の中から護民官職が設置され、成文法が公開されます。こうして貴族と平民との間の妥協が進んでいきますが、ローマにとって外敵も深刻な脅威で、ローマが近隣の都市の征服に成功しつつあった期間にも、ガリア人の侵入によってローマが蹂躙されたこともあり、破壊と再興の考古学的痕跡も残っているそうです。本書は、初期ローマの多様な伝承を紹介しつつも、そうした伝承に後世の人々の思惑や潤色がある可能性も指摘します。一方で本書は、そうした伝承が古代ローマ人の心の鏡であることも指摘します。

 このようにローマは時に危機に陥りつつも勢力圏を拡大していき、紀元前3世紀前半にはイタリア半島をほぼ統一します。本書は強力な覇権主義国家である共和政期のローマを「共和政ファシズム」と呼んでいますが、ここでのファシズムとは、「強力な権力の下に結集する群衆」という程度の中立的な意味合いです。イタリア半島をほぼ統一し、さらに海を越えて拡大しようとしたローマの前に立ちはだかったのが、古くからの海洋民であるフェニキア人の中でも最大勢力だったカルタゴです。カルタゴとローマの接触は紀元前6世紀末以前にさかのぼる可能性があり、その後も紀元前4世紀半ばの両者の友好条約が伝わっていますが、条約締結の主導権はカルタゴ側にあったようです。そのローマとカルタゴの間でシチリア島をめぐって戦争(第一次ポエニ戦争)が始まったのは紀元前264年で、両者ともに疲弊し、カルタゴがローマに巨額の賠償金を支払い、シチリア島を放棄することで和平が成立します。

 第一次ポエニ戦争で敗れたカルタゴは、名将のハミルカルがイベリア半島へ渡って勢力を拡大したものの、増水した川で部下を助けようとして溺死し、その後継者となったのが息子のハンニバルで、この時18歳でした。ローマとカルタゴはイベリア半島で条約によって境界を定めていたものの、いずれの責任かはともかくこの条約は敗れ、紀元前218年、ハンニバルが率いるカルタゴ軍は、イベリア半島でローマの勢力圏への侵攻を本格的に始めます(第二次ポエニ戦争)。ハンニバルに率いられたカルタゴ軍はアルプスを越えてイタリア半島に侵入し、ローマ軍は大敗続きとなります。そこでファビウス・マクシムスが独裁官に起用され、カルタゴ軍との直接対決を避けて、その消耗を図ります。しかし、ファビウス・マクシムスではない統領2人が率いるローマ軍は、紀元前216年、兵数で上回り、地の利があったにも関わらず、カンナエの戦いでハンニバルの巧みな用兵の前に大敗します。ローマは、スキピオ兄弟をイベリア半島に派遣し、イベリア半島のカルタゴ軍とハンニバル軍の合流を阻止しようとします。スキピオ兄弟は健闘したものの、ともに討ち死にします。イタリア半島では、カンナエの戦いで圧勝したカルタゴに与する都市も現れたものの、続出したわけではなく、敵地で補給に難のあるカルタゴ軍の勢いは鈍り、イベリア半島に派遣されたスキピオ兄弟の兄であるプブリウス・スキピオの息子である、大スキピオがアフリカ北岸へと渡り、カルタゴの周辺地域を攻略すると、ハンニバルはアフリカへと帰還し、紀元前202年、ザマの戦いでローマ軍はカルタゴ軍に勝ち、カルタゴは過酷な条件を受け入れてローマに降伏します。ハンニバルは敗戦後のカルタゴの復興に努めますが、反対派強い抵抗に遭い、分裂を避けるため亡命します。本書は、カルタゴがハンニバルを受け入れられず、裏切ったのに対して、ローマはハンニバルから深く学び、それは「父祖の遺風」に学ぶローマ人の生き方そのものだった、と評価しています。

 ローマは地中海東部への関心は当初さほど強くなかったようで、地中海東部諸国が反ローマの大勢力を築かなければそれでよかったわけですが、東方諸国が第二次ポエニ戦争に勝って地中海世界随一のローマを頼るようになると、東方で戦うことも増えていき、ローマの東方政策にとってとくに大きな転機となったのは、紀元前168年に終結した第三次マケドニア戦争で、地中海東部におけるローマの覇権が唱えられます。こうした状況で大カトーなどローマの保守派にとって問題となったのは、ローマにおけるギリシアを中心とした東方文化の浸透で、これはローマの強大化に伴う富の拡大の結果としての奢侈化もあり、大スキピオはそうした風潮の先駆けとも言える存在でした。大スキピオの政敵でもあった大カトーは、第二次ポエニ戦争における敗北後のカルタゴの急速な復興をローマにとっての脅威と考え、カルタゴを滅ぼすよう、訴え続けます。紀元前149年に始まった第三次ポエニ戦争の結果、紀元前146年、カルタゴは滅亡します。その少し後、ユーラシア東方世界では、前漢(西漢)が長く従属していた匈奴に対して優勢に立ち、ユーラシアの東西で巨大帝国が出現し、本書はこれを「帝国の古典時代」と呼んでいます。本書は最後に、地理的に近いローマとギリシアを比較し、祖国こそギリシア人も創り出せなかったローマ人の唯一の発明品ではないか、と指摘しています。

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