奥泉光、原武史『天皇問答』
河出新書の一冊として、河出書房新社より2025年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、前書きを作家の奥泉光氏、後書きを日本政治思想史専攻の原武史氏が担当し、著者二人の対談が主要な構成となっています。前近代の天皇にも多少言及されていますが、主要な対象は近現代の天皇制で、とくに昭和天皇が詳しく取り上げられています。原武史氏の著書『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』が面白かったので(関連記事)、本書を読むことにしました。
まず指摘されているのは、遅くとも平安時代には、日本では革命による王朝交替が意識されなくなり、それが天皇制の重要な特徴であることです。「革命」のなかった日本では、江戸時代には「万世一系」的な観念形態(イデオロギー)が成立してきます。しかし、儒教を確たる思想的基盤とする中華皇帝とは異なり、日本の天皇には存在の確たる思想的基盤となる観念形態はなく、機会主義的な判断がなされていた、と指摘されています。明治維新でも、律令制への「回帰」ではなく、「神武創業」が掲げられ、神武天皇の体制を知る人はいないので、要は新政府の要人が拘束されずに国家制度を構築していこうとしたわけです。復古神道の徹底に新政府が熱心ではなかったのは、復古神道において出雲大社の祭神である大国主神が死後の世界(幽冥界)の主宰神とされていたことも障害になった、と指摘されています。
明治期に天皇が民衆に受容されていった過程については、江戸時代における参勤交代など権力者への民衆の向き合い方が前提にあった、と指摘されています。近代における天皇制の受容の様相については、階層による違いが指摘されており、庶民への浸透には中間層が重要な役割を果たしたのではないか、というわけですが、確かにこの観点は重要だと思います。それでも、明治末には一般大衆にも天皇崇拝がかなり浸透していたようですが、一般大衆が天皇崇拝一辺倒ではなかったのは本書でも指摘されてお借り、それは敗戦以前の「不敬な」落書きからも窺えます。それでも、一般大衆に天皇への敬意は定着していたと言えそうで、敗戦後もそれが大きく失われることはありませんでした。これに関して本書では、中間層と一般大衆での天皇受容の違いが大きかったのではないか、との見通しを提示しており、中間層とは違って一般大衆には天皇の観念形態としての権威が内在化されていなかったのではないか、というわけです。逆に、中間層の方こそ、敗戦後に天皇崇拝から一転して反天皇制に傾く人が少ないとはいえそれなりにいたのではないか、とも指摘されています。
宮中行事に関して、近代の天皇では、明治天皇が熱心ではなく、昭和天皇が熱心だったのは、わりとよく知られているように思いますが、本書もこの点に改めて言及しています。昭和天皇が宮中儀礼に対して熱心だった理由として、その母親だった貞明皇后の影響の大きさが指摘されています。昭和天皇が皇太子時代に宮中改革を打ち出した時に、宮中祭祀を理由に強く反対したのが貞明皇后でした。昭和天皇以上に宮中祭祀に熱心だったのはその後継者となった現在の上皇で、上皇后からの影響が推測されています。現在の天皇も宮中祭祀には熱心なようで、こうして近現代において、祈る存在としての天皇の印象が強化されていったようです。
昭和期に進んだ天皇の神格化については、大正天皇が病気にならずに在位を続けて、「大正流」が定着していればなかった、と指摘されています。これはなかなか興味深い視点ですが、その場合、世界大恐慌以降の歴史はどう変わったのでしょうか。昭和天皇の神格化については、成人した弟がいなかった明治天皇および大正天皇とは異なり、年齢の近い成人した弟がいたことにも起因しているかもしれない、と推測されています。これもなかなか興味深い視点で、とくに昭和天皇の1歳差の弟である秩父宮は、誕生日が同じこともあって母親の貞明皇后に可愛がられていたため、昭和天皇にとって微妙な存在だったようです。二・二六事件で昭和天皇が即時鎮圧を強硬に主張したのも、秩父宮の上京が大きいのではないか、と推測されています。
本書は平成期も取り上げており、平成期になって天皇の在り様が大きく変わったことを指摘しています。この「平成流」について本書は、大衆が下から仰ぎ見る対象で一対多だった昭和天皇に対して、水平的で一対一と評価しています。こうした点も含めて、現在の上皇は平成最初期には、昭和天皇と比較して軽いなどといった否定的評価が珍しくありませんでしたが、「平成流」がやがて新たな天皇像を形成していき、昭和天皇と異なる権威を獲得していった側面は大きいようです。この「平成流」は現在の上皇が皇太子時代だった頃には萌芽が見られ、現在の上皇后の影響が大きかったのではないか、と推測されています。「平成流」と現在(令和期)の比較もあり、「平成流」への批判や冷笑が目立つようになってきたことも指摘されています。
まず指摘されているのは、遅くとも平安時代には、日本では革命による王朝交替が意識されなくなり、それが天皇制の重要な特徴であることです。「革命」のなかった日本では、江戸時代には「万世一系」的な観念形態(イデオロギー)が成立してきます。しかし、儒教を確たる思想的基盤とする中華皇帝とは異なり、日本の天皇には存在の確たる思想的基盤となる観念形態はなく、機会主義的な判断がなされていた、と指摘されています。明治維新でも、律令制への「回帰」ではなく、「神武創業」が掲げられ、神武天皇の体制を知る人はいないので、要は新政府の要人が拘束されずに国家制度を構築していこうとしたわけです。復古神道の徹底に新政府が熱心ではなかったのは、復古神道において出雲大社の祭神である大国主神が死後の世界(幽冥界)の主宰神とされていたことも障害になった、と指摘されています。
明治期に天皇が民衆に受容されていった過程については、江戸時代における参勤交代など権力者への民衆の向き合い方が前提にあった、と指摘されています。近代における天皇制の受容の様相については、階層による違いが指摘されており、庶民への浸透には中間層が重要な役割を果たしたのではないか、というわけですが、確かにこの観点は重要だと思います。それでも、明治末には一般大衆にも天皇崇拝がかなり浸透していたようですが、一般大衆が天皇崇拝一辺倒ではなかったのは本書でも指摘されてお借り、それは敗戦以前の「不敬な」落書きからも窺えます。それでも、一般大衆に天皇への敬意は定着していたと言えそうで、敗戦後もそれが大きく失われることはありませんでした。これに関して本書では、中間層と一般大衆での天皇受容の違いが大きかったのではないか、との見通しを提示しており、中間層とは違って一般大衆には天皇の観念形態としての権威が内在化されていなかったのではないか、というわけです。逆に、中間層の方こそ、敗戦後に天皇崇拝から一転して反天皇制に傾く人が少ないとはいえそれなりにいたのではないか、とも指摘されています。
宮中行事に関して、近代の天皇では、明治天皇が熱心ではなく、昭和天皇が熱心だったのは、わりとよく知られているように思いますが、本書もこの点に改めて言及しています。昭和天皇が宮中儀礼に対して熱心だった理由として、その母親だった貞明皇后の影響の大きさが指摘されています。昭和天皇が皇太子時代に宮中改革を打ち出した時に、宮中祭祀を理由に強く反対したのが貞明皇后でした。昭和天皇以上に宮中祭祀に熱心だったのはその後継者となった現在の上皇で、上皇后からの影響が推測されています。現在の天皇も宮中祭祀には熱心なようで、こうして近現代において、祈る存在としての天皇の印象が強化されていったようです。
昭和期に進んだ天皇の神格化については、大正天皇が病気にならずに在位を続けて、「大正流」が定着していればなかった、と指摘されています。これはなかなか興味深い視点ですが、その場合、世界大恐慌以降の歴史はどう変わったのでしょうか。昭和天皇の神格化については、成人した弟がいなかった明治天皇および大正天皇とは異なり、年齢の近い成人した弟がいたことにも起因しているかもしれない、と推測されています。これもなかなか興味深い視点で、とくに昭和天皇の1歳差の弟である秩父宮は、誕生日が同じこともあって母親の貞明皇后に可愛がられていたため、昭和天皇にとって微妙な存在だったようです。二・二六事件で昭和天皇が即時鎮圧を強硬に主張したのも、秩父宮の上京が大きいのではないか、と推測されています。
本書は平成期も取り上げており、平成期になって天皇の在り様が大きく変わったことを指摘しています。この「平成流」について本書は、大衆が下から仰ぎ見る対象で一対多だった昭和天皇に対して、水平的で一対一と評価しています。こうした点も含めて、現在の上皇は平成最初期には、昭和天皇と比較して軽いなどといった否定的評価が珍しくありませんでしたが、「平成流」がやがて新たな天皇像を形成していき、昭和天皇と異なる権威を獲得していった側面は大きいようです。この「平成流」は現在の上皇が皇太子時代だった頃には萌芽が見られ、現在の上皇后の影響が大きかったのではないか、と推測されています。「平成流」と現在(令和期)の比較もあり、「平成流」への批判や冷笑が目立つようになってきたことも指摘されています。
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