ユーラシア東部圏の人類史(追記有)

 おもに広範な古代ゲノム研究に基づくユーラシア東部圏の人類史の総説(Bennett et al., 2024)が公表されました。本論文は、現生人類(Homo sapiens)のみならず、ホモ・エレクトス(Homo erectus)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)も対象として、更新世から完新世にかけてのユーラシア東部圏人口史を詳しく解説しています。本論文ではアジア東部が広い地理的範囲に用いられていますが、本論文の対象は、アジア東部というよりは、日本列島なども含めて広義のユーラシア東部圏と言うべきかもしれません。ただ、以下の翻訳では原文に従います。アジア東部を含めてユーラシア東部圏でも古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、本論文では昨年(2024年)の研究がほとんど引用されていないので、現時点でやや古くなっているところもありますが、アジア東部を含めてユーラシア東部圏の人口史と深く関わる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)も簡潔に解説されており、ユーラシア東部圏現代人集団の古代ゲノム研究および更新世にさかのぼっての人口史を把握するための基本文献としてたいへん有益だと思います。

 時代区分の略称は、IUP(Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器)、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、EBA(Early Bronze Age、前期青銅器時代)、MBA(Middle Bronze Age、中期青銅器時代)、EMBA(Early to Middle Bronze Age、前期~中期青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、MLBA(Middle to Late Bronze Age、中期~後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、TK(Three Kingdoms Period、朝鮮半島の三国時代)です。



追記(2025年1月6日)
 長文になったので、目次機能があるnoteにもこの記事を掲載しました。




◎要約

 古代ゲノミクス技術を用いて、アジア東部の人口史が熱心な調査の対象となったのはごく最近でしたが、これらの研究はすでに、過去のアジア東部の人口集団や文化および言語学の拡散の理解の深化に大きく寄与してきました。本論文の目的は、古代ゲノミクスによるアジア東部の人口史に関する現時点での理解の包括的な概説の提供です。本論文は、古代DNAの紹介およびアジア東部の古代型人口集団への最近の洞察で始まります。本論文は次に、現生人類の最初の出現から、新石器時代および金属器時代の大規模な人口集団の研究を経て歴史時代までの、アジア東部全域を網羅する、地域ごとの現在の知識の詳細な要約を提示します。これら最近の結果は、過去の人口移動と混合や、この地域の歴史を形成してきた言語の起源と先史時代の文化的交流網を反映しています。



◎祖先系統の用語集


●AA

 オーストラレーシア(オーストラリアとニュージーランドとその近隣の南太平洋諸島で構成される地域)人(Australasian)の略称で、深く分岐したアジア東部(East Asia、略してEA)3系統(他の2系統は後述のAASIとESEA)のうちの1系統です。


●AASI

 古代の祖先インド南部人(Ancient Ancestral South Indian)の略称で、深く分岐したアジア東部3系統(他の2系統は上述のAAと後述のESEA)のうちの1系統です。このアジア南部狩猟採集民の祖先系統は、おもにインド南部とアジア南部の現代人で見られます。


●ANA

 古代アジア北東部(Ancient Northeast Asian)の略称で、ANA祖先系統はアムール川流域において最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)以降に優勢だったようで、シベリア南部や西遼河(West Liao River、略してWLR)やモンゴルの大半にまで広がっています。ANA祖先系統はアムール川流域に依然として暮らしている一部の現代人集団の祖先系統と類似しており、アムール川流域ではANA祖先系統が少なくとも14000年間持続しています。


●古代福建

 少なくとも新石器時代以降、アジア東部南方沿岸部で見られる祖先系統です。古代福建祖先系統は、より古い福建省の奇和洞(Qihe Cave)遺跡や亮島(Liangdao)遺跡で見られるような福建_ENと、曇石山(Tanshishan)文化などその後の福建_LNとで区別でき、福建_LNにはより大きなアジア東部北方(nEA)構成要素があります。


●古代広西

 独特で初期に分岐したESEA(後述)系統で、現時点では、広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃人類遺骸によって特徴づけられています。この祖先系統は旧石器時代のアジア東部南方内陸部人口集団で見られましたが、混合していない形態ではもはや存在していません。


●ANE

 古代北ユーラシア(Ancient North Eurasian)の略称です。これは重要な旧石器時代の祖先系統で、おそらくはおもにANS(後述)と類似したユーラシア西部系統から派生しました。ANEはシベリアのバイカル湖近くの25000年前頃のマリタ(Mal'ta)遺跡の少年1個体(MA-1)から特徴づけられ、ヨーロッパ北部とアメリカ大陸両方の人口集団に祖先系統をもたらしました。ANA祖先系統は現在、混合していない形態では存在せず、最新の記録は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンのタリム盆地の青銅器時代のミイラ(タリム_EMBA1)の主要な祖先構成要素です。


●ANS

 古代シベリア北部(Ancient North Siberian)の略称です。ANS祖先系統は、ユーラシア東部人の系統から分離して4000~5000年後にユーラシア西部人につながる系統から分岐し、その後にアジア東部系統から約20%の祖先系統を受け取った、と考えられています。ANSはシベリア北部の32000年前頃となるヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site、ヤナ犀角遺跡)に存在し、上部旧石器時代においてユーラシア北東部で見られる分岐した2祖先系統の一方で、もう一方は北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体(田園個体)的な祖先系統です。


●APS

 古代旧シベリア(Ancient Paleo-Siberian)の略称です。APS祖先系統はシベリアのコリマ川(Kolyma River)の1万年前頃の個体とバイカル湖近くのウスチキャフタ3(Ust-Kyakhta-3)遺跡で発見された14000年前頃の個体(UKY)で特定されており、ヤナRHSなどほぼユーラシア西部の分岐したANS的な祖先系統と、アジア東部系統との間の混合としてモデル化できます。最初のアメリカ大陸先住民創始者人口集団は、追加のANA系統と混合したAPS的な祖先系統を含んでいました。


●オーストロネシア

 太平洋南西部とインド洋の島々に4000年前頃以降に植民していった人口集団で、バヌアツの3000年前頃の人類遺骸群と類似した祖先系統を有している、と考えられています。この祖先系統は福建省近くの古代のアジア東部南方沿岸部人口集団の祖先系統と類似しており、より正確な本土の供給源人口集団はまだ見つかっていません。


●BMAC

 元々はアム・ダリヤ(Amu Darya)川上流周辺を中心と下アジア中央部青銅器時代のBMAC(Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合)と関連する個体群で特徴づけられ、BMAC祖先系統はEBAの東トルキスタン人口集団やアルタイ山脈南部のチェムルチェク(ChemurchekもしくはQiemu’erqieke)文化人口集団で見られます。


●EAT

 初期古代チベット(Early Ancient Tibetan)の略称で、5000年前頃のチベット高原のゾングリ(Zongri)遺跡の人口集団によって表される祖先系統です。ゾングリ遺跡の5100年前頃の個体は、黄河祖先系統の前期~中期新石器時代の到来や、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部などチベット高原外の地域からの他の影響に先行する、これまでに見つかった在来のチベット高原祖先系統に最も近い事例です。


●ESEA

 アジア東部および南東部(East and Southeast Asian)の略称で、深く分岐したアジア東部の3系統のうちの1系統です(他の2系統は上述のAAとAASI)。この基底部アジア東部系統は、アジア東部および南東部の人口集団のほとんどの祖先で、田園個体やnEAやsEA(アジア東部南方)や広西やオーストロネシアや縄文(後述)関連の祖先系統が含まれます。


●ホアビニアン

 アジア南東部のホアビン文化複合体(Hòabìnhian Cultural complex)と関連する人類遺骸で最初に特定されました。この祖先系統はアジア南東部地域およびおそらくはアジア東部南方の先住狩猟採集民集団を表している、と考えられており、早ければ8000年前頃には、さまざまなアジア東部系統との混合が見つかっています。ホアビン文化祖先系統は、現在のオーストロアジア語族話者集団と密接に関連しています。


●縄文

 縄文はESEA系統から初期に分岐した別の祖先系統で、古代広西とほぼ同じ頃に分岐し、最大7000年前頃までの日本列島の旧石器時代人口集団で見られますが【先行研究(Cooke et al., 2021)では8991~8646年前頃の個体のゲノムデータが報告されています】、関連文化【縄文文化】は16000年前頃までさかのぼります。


●nEA

 アジア東部北方(northern East Asian)の略称で、この祖先系統はアジア東部北方の多くの集団を含む広義の用語で、そうした集団は少なくとも19000年前頃以降、遺伝的にsEA集団と異なってきました。nEAはANAおよび黄河祖先系統と、山東半島や西遼河やモンゴル南部などの地域の人口集団で見られる共通のアジア東部北方祖先系統を指します。


●オンゲ

 AA系統に属する深く分岐したアジア東部祖先系統で、ホアビニアンと遺伝的祖先系統を一部共有しており、アンダマン諸島の現代人で見られます。


●sEA

 アジア東部南方(southern East Asian)の略称で、古代のアジア東部南方集団に属する関連祖先系統を表しており、nEAとは区別されます。sEAには古代福建祖先系統およびオーストロネシア人と関連する祖先系統が含まれます。


●タリム_EMBA

 バイカル湖周辺で見られる祖先系統と類似した低い割合のANA構成要素を伴う、ほぼANE祖先系統の青銅器時代の存在です。タリム_EMBA祖先系統はより古いタリム盆地のミイラで見られ、遺伝的ボトルネック(瓶首効果)と長い孤立期間の痕跡を示します。


●田園

 4万年前頃のアジア東部北方の個体で、その独特な祖先系統はかつて、モンゴルやアムール川流域を含めてアジア東部北方の全域に広がっていました。田園は特定された最古級のアジア東部祖先系統で、少なくとも最終氷期前の7000年間存続しました。


●WSH

 西方草原地帯牧畜民(Western Steppe Herder)の略称で、シベリア南部のEBAのアファナシェヴォ(Afanasievo)考古学的文化と関連して見つかり、その後は、MLBAのシンタシュタ(Sintashta)文化およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化などのユーラシア西方草原地帯文化と関連した、と説明されます。その後のMLBAのWSH集団は、ヨーロッパの縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)との接触に由来すると考えられるアナトリア半島農耕民祖先系統の存在によって、アファナシェヴォ文化と区別できます。


●黄河

 これは、黄河流域の初期農耕共同体の祖先系統を指します。中期新石器時代の黄河_MNは中原の仰韶(Yangshao)考古学的文化と関連づけることができますが、西遼河からモンゴル南部でも見られます。後期新石器時代の黄河_LNは龍山(Longshan)文化と関連づけることができ、より高い割合のアジア東部南方構成要素によって黄河_MNとは区別されます。シナ・チベット語族の拡大は、黄河祖先系統の拡大を伴っていた、と考えられています。



◎前書き

 10年前、アジア東部の初期現生人類1個体から最初のゲノム情報が回収されました。現在の北京近郊の田園洞窟から発見された上部旧石器時代の1個体は、アジア東部における現在の人口集団とその最初期の現代人の祖先との間の遺伝的連続性を確証しました。それ以来、研究者は古代ゲノミクスによって過去のアジア東部人口集団をしだいに調査し始め、アジア東部における経時的な先史時代人口集団の構造と相互作用の詳細な枠組みをじょじょに構築してきました。この比較的短い期間に、アジア東部の古代核ゲノムの数は、ほぼアジア東部全域のたような場所からの複数の時間深度にわたって、ますます多く利用可能になってきました。これらの分析の結果はすでに、最初の移住と過去の移動のみならず、この地域やそれ以外の地域の歴史を形成してきた、言語の拡散や文化的交流網や遺伝的適応についての理解にも大きな影響を及ぼしてきました。しかし、まだ多くの情報が欠けており、現時点では、利用可能なデータの少なさと地理および時間的空隙の大きさが旧石器時代の知識を制約しています。また、多くの重要な文化と地域はまだ遺伝的に特徴づけられていません。しかし、これらの調査の多くは、解明のため追加の研究を必要とする、興味深い示唆やつながりを明らかにしてきました。それにも関わらず、アジア東部の多様性の情報に基づいた遺伝的景観が、形になり始めつつあります。

 古代DNA研究によるアジア東部の古代の人口移動と相互作用の再構築は、古代DNA研究がユーラシアの他地域、とくにヨーロッパと近東で達成してきた詳細な理解に遅れています。ユーラシア西部への初期の焦点は、おもにヨーロッパを拠点とする研究所と、その考古学者との交流網による、これらの技術の発達に求めることができます。初期の技術を用いての現代人の汚染の克服は難しく、ヒトの起源に関する最初期の問題の一部は、ネアンデルタール人との現生人類の遺伝的関係に焦点を当てることに制約されました(Green et al., 2006、Green et al., 2008、Green et al., 2010、Noonan et al., 2006、Wall, and Kim., 2007)。既知のネアンデルタール人の範囲は東方ではシベリア迄広がりましたが、アジア東部では見つかっていません。しかし、シベリアのネアンデルタール人と古代理解剖学的現代人【現生人類】の遺伝的調査の文脈で、新たな人類のゲノムが発見されました(Reich et al., 2010)。この発見は古代ゲノミクスのみによるもので、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)に居住していた以前には知られていなかった古代の人口集団で、一般にはデニソワ人と呼ばれており、伝統的な考古学と骨格資料の形態学の差異を通じた過去に関する理解の限界の劇的な証明でした。デニソワ人のDNAがオセアニアとアジア東部とアメリカ大陸に今も暮らす現代の人口集団のゲノムに寄与した、という一致した発見(Reich et al., 2010)や、ヨーロッパ最初期現生人類の一部は遺伝的にはヨーロッパ現代人よりもアジア東部現代の方に近かった、とのより新しい調査結果(Prüfer et al., 2021)は、現代人の祖先が現生人類のゲノムの進化の過程で経た移動および混合事象をつなぎ合わせようとするさいに、アジア東部の人口史が果たすだろう重要な役割を示しています。

 本論文は、世界中の研究者がアジア東部の過去の人口集団の理解にもたらしてきた古代ゲノムに基づく最近の結果を調べます。本論文は、さまざまなアジア東部の気候からの古代DNA回収の課題の一般的概要で始まります。本論文は次に、アジア東部全域の最近の調査結果を要約し、増加しつつある最近の研究間の相互関係の理解を目標に、これまでに研究されてきた主要な地域に焦点を当てます。旧石器時代から歴史時代までのこれらの研究で現在検討されている不均一な期間は、特定の期間なの地域間の傾向の包括的な統合ではなく、地域的手法が適しています。可能な限り、充分な重複のある地域間でのつながりが作成されます。


●古代DNAの課題

 劣化した有機物からの確実な古代DNA断片の回収と分析の難しさは、文献で充分に説明されてきました(Briggs et al., 2007)。これらの研究などでは、DNA分子の経年的保存は死後の腐敗段階の結果で、その後続くのが、温度や湿度や塩分やpHなどの環境条件が鎖切断や酸化損傷やシトシンの脱アミノ化の頻度に及ぼす影響である、と明らかにされてきました。さらに、時間の要素がこれらの事象の蓄積を可能とし、分子はより短くなり、塩基変換の損傷はますます多くなります。とくにアジア東部の高温多湿の環境は、古代DNAの回収にはとくに不適と説明されてきました(Wang CC et al., 2021)。古代の資料から通常はともに回収される古代の内在性DNAと比較しての高水準の外因性環境DNAは99%を上回ることも多く、これも全体的な効率性を減少させ、古代DNAの回収費用を大きく引き上げます。錐体骨の密な内耳部分内でよく、ある程度は歯のセメント質層で見られる例外的なDNAの保存状態に関する過去10年間の発見は、実権の効率性と結果の信頼性を向上させ、困難な地域からの古代DNA情報の回収において一部の最近の進歩を可能としてきました。それでも、江蘇省の新石器時代遺跡で報告されたアジア東部最初期の事例となる火葬や、選択的埋葬の可能性などの文化的要因は、遺骸残存率自体の偏りによる過去の理解に注意することを気づかせ、一部の記録は永久に失われることを認識して、慎重に解釈しなければなりません。

 化石資料から回収される遺伝的情報は、長年にわたって配列を変える遺伝的損傷を受けた可能性が高い、DNA分子の断片から生成された短い配列で構成されます。これらの最も一般的なものは、シトシンの脱アミノ化(Briggs et al., 2007)か、シトシンからチミンへの変換として記録された配列に現れるシトシンからウラシルへの変換です。一連の分析のさまざまな点で酵素もしくはコンピュータ上の計算(in silico)手法を用いて、この損傷を除去もしくは修正するため、実験実施要綱が開発されてきました。この形態の損傷の遍在はより低い網羅率ではこれらの塩基の信頼性を低下させますが、この損傷は確実な古代DNAを汚染された現代人のDNAから分離するのに有益な目的を果たすことができます(Fu et al., 2015)。古代資料の内在性DNA含有量は少ないため、最も一般的な古代ゲノム研究は、特定のゲノム遺伝子座の配列であるSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)のみを検証しており、SNPは人口集団間で情報をもたらすとあらかじめ決定されており、そうしたデータには約60万のSNPで構成される「ヒト起源」SNP配列などがあります。標的配列捕獲の技術は、ゲノム間の比較のために必要な塩基を含むDNA断片のみを標的とすることによって、古代DNAの回収効率を高めることができます。この手法は、合成された「断片(bait)」オリゴヌクレオチドを用いて、標的断片(bait)と類似した配列を含む古代DNA断片と混合させ、標本における環境DNA高い背景が標的ではない、「ショットガン」配列決定手法が不可能な場合にとくに役立ちます。



◎中期更新世の古代型のヒト

 考古学的証拠では、アジア東部の古代型のヒト【非現生人類ホモ属、絶滅ホモ属】の最初期の存在はホモ・エレクトスとされており、170万年前頃と推定される雲南省楚雄イ族自治州の元謀(Yuanmou)遺跡で発見された遺骸と、160万年前頃と推定される陝西省藍田県(Lantian County)で発見された部分的な頭蓋および下顎(Zhu et al., 2015)があります。これらの年代はインドネシアのホモ・エレクトスの最初期の出現(Zaim et al., 2011)よりわずかに古いものの、藍田から発見された石器はアジア東部におけるヒトの存在が200万年以上前までさかのぼる可能性を示唆しています(Zhu et al., 2018)。

 アジア東部におけるホモ・エレクトスのさらなる痕跡は50万~40万年前頃で、おそらく新しければ23万年前頃となり、この年代はインドネシアの島嶼部で発見されたホモ・エレクトスに分類される108000年前頃の遺骸(Rizal et al., 2020)よりずっと古くなります。ホモ・エレクトス集団はアフリカからアジア東部までの移住に成功し、少なくとも一定期間には100万年以上にわたって適応して存続できましたが、研究者は、この地域で遭遇したこれらホモ・エレクトス集団とその後の古代型集団との間の相互作用の可能性についてより多くの情報をもたらすかもしれない、ホモ・エレクトス遺骸からのDNA回収にまだ成功していません。ジョージア(グルジア)のドマニシ(Dmanisi)遺跡で発見された177万年前頃のホモ・エレクトス【ドマニシ遺跡の前期更新世ホモ属遺骸の分類については、議論があると思います】の歯1点から得られた古代のタンパク質の小片の回収では、役に立つ系統発生分析を可能とする、充分な情報が明らかになりませんでした(Welker et al., 2020)。しかし、その研究は、スペインの80万年前頃のホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)遺骸を姉妹系統と位置づけることができ、この系統は中期更新世に現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人を生み出した系統からそれ以前に分岐しました。現時点では、古代遺伝学ではなく古代プロテオミクスが、超古代型のヒトの系統発生の問題の調査に必須の手法となるでしょう。

 ネアンデルタール人の痕跡はアジア東部ではまだ見つかっていませんが、シベリア南部のアルタイ山脈の麓では、いくつかの洞窟でネアンデルタール人のものとされる遺骸や人工遺物が発見されており、ここがネアンデルタール人の分布の最東端となります。デニソワ洞窟の堆積物に保存されていた遺伝的物質の分析は、ここでのネアンデルタール人の最初の出現を195000年前頃に位置づけ、この期間にはデニソワ人がデニソワ洞窟に断続的に居住していました(Zavala D et al., 2021)。ネアンデルタール人系統に属するミトコンドリアDNA(mtDNA)断片が、デニソワ洞窟の人類のDNAがあるすべての堆積物層から回収されており、この地域のIUPと一致する、44000年前頃の現生人類のミトコンドリア配列の最古級の痕跡まで継続して現れています。12万~97000年前頃の期間および49000年前頃以後の期間を除いて、ネアンデルタール人のDNAを含むすべての層はデニソワ人のDNAも含んでおり、これら古代型の2人口集団【ネアンデルタール人とデニソワ人】は少なくとも断続的に、相互にある程度意識しながら暮らしていた可能性が高い、と明らかになります。

 デニソワ洞窟とチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟とオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟から得られた考古学的および遺伝学的証拠から、ネアンデルタール人の少なくとも二つの連続した人口集団がアルタイ山脈にその15万年以上の居住期間にわたって存在していた、と示唆されます(Kolobova et al., 2020、Zavala D et al., 2021)。デニソワ洞窟の堆積物では、15万年以上前のネアンデルタール人のミトコンドリア配列はより基底的なネアンデルタール人系統に属しており、より新しい配列はアルタイ山脈およびヨーロッパ西部で見られるより新しいネアンデルタール人系統と類似しています(Zavala D et al., 2021)。同じ堆積物層におけるネアンデルタール人とデニソワ人両集団のDNAの共存は、デニソワ洞窟をこれら二つの古代型人口集団に属する重複範囲の地点と示しています。ネアンデルタール人の母親とデニソワ人の父親の子供に属すると判断された9万年前頃の骨の断片のゲノム解析は、これら二つの人口集団が時にはシベリア南部で相互作用していた、という証拠を提供します(Slon et al., 2018)。

 デニソワ人の遺骸はネアンデルタール人よりも特徴づけるのがずっと困難で、それはおもにこの謎めいた人口集団の形態学的情報の不足のためです。これまでに、指骨1点(Bennett et al., 2019)と部分的な下顎1点(Chen et al., 2019)と数点の歯(Reich et al., 2010)のみが、診断可能な形態学的データを提供しているので、デニソワ人遺骸の特定は分子証拠に基づいてのみ確実に結論づけることができます。デニソワ人の形態学的特徴がより深く理解されるにつれて、一部が分類の困難なアジア東部の既存の人類資料は、最終的にデニソワ人と分類できるかもしれません。あるいは、中国の河南省許昌市(Xuchang)霊井(Lingjing)遺跡で発見された2点のネアンデルタール人的頭蓋(Li et al., 2017)や、フィリピンのルソン島で記載された新たなホモ属(Détroit et al., 2019)はおそらくデニソワ人集団に属していた可能性がある、と示唆されてきて、中国の南方の雲南省と北方の黒竜江省の間で発見されている謎めいた特徴のある数点の他の中期更新世頭蓋も、デニソワ人遺骸の候補かもしれない、と示唆されました(Demeter et al.,2022)。この答えは、新たな資料の発見、もしくは既存のアジア東部の古代型のヒト遺骸からの古代の診断可能なアミノ酸あるいはDNA配列の検出を強化する技術改善を待つことになるでしょう。

 デニソワ人の地理的範囲と人口構造はほぼ不明ですが、現代人の遺伝学的研究は、矛盾しているものの、いくつかの興味深い示唆を提供します。低酸素経路遺伝子であるEPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)は、標高の高い地域でのヘモグロビン水準を調節する、と示されており、デニソワ人との古代の混合を通じて現代のチベット人へと遺伝子移入された、と分かっていて、標高の高い地域での過去の選択圧が示唆されます(Huerta-Sánchez et al., 2014)。これは、デニソワ人集団の範囲をチベット高原およびアルタイ山脈周辺に位置づける遺伝学的および考古学的証拠とよく一致します。しかし、現在の人口集団におけるデニソワ人の遺伝的祖先系統の量が最も多く見られるのはフィリピン諸島(Larena et al., 2021a)とパプアニューギニア(Reich et al., 2011)で、【アルタイ山脈やチベット高原から】ずっと遠くに離れていて、より低緯度に位置しており、これらアジア東部の古代型のヒトの範囲と遺伝的多様性について多くの問題を提起します。

 現代人のデニソワ人祖先系統へのより深い分析は、デニソワ人の年代とあり得る場所に関する洞察を提供してきており、現代人の祖先といくつかの遺伝的に異なるデニソワ人集団との間の別々の混合事象を特定してきました。これらの事象もいくらかの地理的制約を示しており、現代のパプア人に限定されるデニソワ人祖先系統の大きな割合はアルタイ山脈のデニソワ人から遺伝的により遠い1人口集団に由来し、この人口集団はアジア東部人とパプア人の両方に存在するより低水準の祖先系統とより密接に一致します(Browning et al., 2018)。EPAS1アレル(対立遺伝子)を現代のチベット人の祖先にもたらした、と考えられている第三のデニソワ人との混合事象は、アルタイ山脈のデニソワ人のゲノムとより密接に関連する1人口集団に由来するようです(Huerta-Sánchez et al., 2014)。これら3回の【混合】事象は49000~30000年前頃に起きた、と推定されており、さまざまなデニソワ人集団により占められていた広範なアジア東部の景観全体にわたる、現生人類とデニソワ人の相互作用を示しています。これまでに、アルタイ地域に居住するデニソワ人のみが、古代DNAから遺伝学的に特徴づけられてきました【後述のように、デニソワ人のmtDNAはチベット高原の洞窟堆積物でも確認されています】。

 デニソワ人の最古級の証拠は、25万年前頃となる最古級の人類のDNAを含む層内で見つかった、デニソワ洞窟の堆積物のミトコンドリア配列にたどることができます。これらの結果は、デニソワ洞窟におけるネアンデルタール人の居住が少なくとも55000年前頃まで続いたことも示しました(Zavala D et al., 2021)。状況証拠によってデニソワ人と分類され、古ければ226000年前頃までさかのぼる人類の手形と足跡が、デニソワ洞窟から約2300knは楡田チベット高原の標高4000m以上で報告されました(Zhang D et al., 2021)。中華人民共和国甘粛省甘南チベット族自治州夏河(Xiahe)県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞(Baishiya Karst Cave)の16万年前頃の下顎1点は、古代タンパク質配列決定によってデニソワ人の可能性が高い、と特徴づけられました(Chen et al., 2019)。この下顎標本から遺伝的情報を回収するにはDNAの保存状態が悪すぎましたが、この標本はデニソワ洞窟外で見つかった最初のデニソワ人資料を表しているかもしれません。

 デニソワ洞窟と同様に、白石崖溶洞のデニソワ人の居住のより詳しいことは堆積物の断面で回収されたデニソワ人の【ミトコンドリア】DNAを通じて明らかになり、チベット高原におけるデニソワ人の存在の最初の遺伝的証明と、デニソワ人の既知の範囲の明確な拡大を提供します(Zhang et al., 2020)。白石崖溶洞ではアルタイ地域とは異なり、ネアンデルタール人のDNAがどの層でも検出されなかったので、デニソワ人のみが居住していたようです。少なくとも2回の居住期間が提案されており、古い方は10万年前頃、新しい方は6万年前頃とおそらくは45000年前頃の間です。白石崖溶洞におけるデニソワ人の存在の真の年代範囲は堆積物だけでは判断できないかもしれないのは明らかで、それは、これらの年代は両方とも、白石崖溶洞で見つかったデニソワ人と提案されている下顎よりかなり新しいからです(Zhang et al., 2020)。堆積物から回収されたミトコンドリア配列の系統発生分析は、6万年前頃となるより新しい白石崖溶洞の居住者が遺伝的にはデニソワ洞窟の相対的に同年代のデニソワ人の居住者(デニソワ3号および4号)と遺伝的に類似しているのに対して、両遺跡【デニソワ洞窟と白石崖溶洞】のより古い居住層はより深く分岐したデニソワ人のミトコンドリア配列を含んでいた、と示しました。デニソワ洞窟の新旧のデニソワ人居住者間の配列の違いは、20万年以上前だったかもしれない2人口集団の分岐時期を示唆しています(Zavala et al., 2021)。

 これらの結果は、チベット高原とアルタイ地域のデニソワ人居住者がより新しく分岐した人口集団に置換された、8万年前頃以後のある時点における広範な人口置換事象を示唆しています。この置換人口集団の起源の可能性があるのは、東側のヒマラヤ山麓に沿った南東に由来するかもしれず、更新世に他の移動動物相とともにアルタイ地域へと移動した可能性があります。この侵入してきた人口集団は必然的に、アジア南東部もしくはワラセアかフィリピン諸島に位置していたかもしれない、パプア人と混合したと分かっているアジア南部のデニソワ人集団とは遺伝的に異なっていたでしょう。こうしたデニソワ人は中国のどこかにも起源があったかもしれませんが、これらの地域のいずれかからの古代の遺伝的情報は依然として欠けています。これは、他のデニソワ人集団の地理的分布および遺伝的特徴に関する知識の大きな間隙を浮き彫りにします。これら南方人口集団の化石資料はまだ見つかっていないか、分子分析では確実に特定されていません。デニソワ人の形態学的特徴を有する、ラオスのフアパン(Huà Pan)県に位置するタム・グ・ハオ2(Tam Ngu Hao 2、略してTNH2)洞窟で発見されたおそらく15万年前頃の大臼歯(TNH2-1)の最近の発見は、これらの不可解な南方デニソワ人集団を表しているかもしれませんが(Demeter et al.,2022)、これらの地域の高温多湿の気候は、この期間の分子証拠のじゅうぶんな保存を難しくしています。デニソワ人の人口構造および人口動態と、これらの人口集団が現代人の多様性に及ぼした影響に関する知識を拡張するには、さらなる発見と研究が必要になるでしょう。



◎アジア東部における最古級の現生人類

 アジア東部への現生人類の最初の到来に関する問題は、時に矛盾する遺伝学と考古学の証拠を伴ってきました。現代人のゲノム研究は、すべての非アフリカ系現代人が、65000年前頃以後のある時点でアフリカ大陸を離れ始めた人口集団の子孫だった、とのデルを裏づけます。中国南部のいくつかの洞窟における、ウラン系列法で年代測定された流華石の下の解剖学的現代人遺骸の出現は、最大12万年前頃にさかのぼる、と示唆されており、この最初の出アフリカ事象に先行するユーラシア南部沿岸での到来の可能性の主張に用いられてきました(Liu et al., 2015)。しかし、最近研究では、水の循環が流華石の下に集まった堆積物資料を運ぶかもしれない、と示されており、じっさい、このより古いとされる資料のどれも放射性炭素年代測定では3万年前頃以前ではありませんでした(Sun et al., 2021)。現時点のデータは、アジア東部への現生人類の到来の年代が55000~50000年前頃以前ではないことを裏づけています(Hublin., 2021)。さらに、ヨーロッパ東部のブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)の45000年前頃の現生人類数個体の最近のゲノム研究では、これらの個体が遺伝的にはヨーロッパの現代人よりアジア東部で見られる現代人の方と近い、と分かりました(Hajdinjak et al., 2021)。現代ヨーロッパ人で見られる祖先系統と類似した最古級の祖先系統は、ヨーロッパでは少なくとも37000年前頃まで出現しません(Seguin-Orlando et al., 2014)。この観察から、アジア東部の住民はユーラシアに最初に居住した現生人類の最初の移動の波とより密接に関連しているかもしれない、と示唆されます。より古い集団がこの成功した移住の前にアジア東部に到来したならば、そうした集団には生き残った子孫はいなかったようです。

 ヒマラヤ山脈の障害は、アジア東部への最初の流入を北方および南方経路に限定したようです。詳細はまだ確立していませんが、古代人と現代人のゲノム研究は、現代のアジア東部に存在する遺伝的多様性の大半については、アジア東部への南方経路を支持しているようです。これはおもに、アジア東部基底部人口集団がオーストラリア先住民やパプア人やより深く分岐したアンダマン諸島人につながるユーラシア南部系統と密接に分岐したことに基づいています(Larena et al., 2021b)。この構造はアジア大陸の南部に沿って拡大し、続いて遺伝的に異なる人口集団へと分離した集団の一般的モデルを説明しています。北京近郊の中国北部で見つかった4万年前頃の田園個体は、アジア東部の南北両系統の基底部として遺伝的にモデル化できるのに注目することが重要で(Yang et al., 2017)、これはアジア東部北方へのこの祖先系統の到来の下限の時間的枠組みを提供します。

 ユーラシア西部において現生人類の最初期の出現の一部と一致するIUPインダストリーは、アジア中央部とシベリアでも報告されており、その最東端の出現は中国北西部です【長野県佐久市の香坂山遺跡の36800年前頃の石器群は、ユーラシアIUPである可能性が指摘されています(国武., 2021)】。IUP人工遺物の初期の出現はデニソワ洞窟(Douka et al., 2019)モンゴル高原北部のトルボル16(Tolbor 16)遺跡(Zwyns et al., 2019)で報告されてきており、これらは考古学的に41000年前頃となる中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou)遺跡と類似しています【最近の研究(Yang et al., 2024)では、中華人民共和国内の遺跡で最古級のIUPは、山西省の峙峪(Shiyu)遺跡の45000年前頃の石器群である可能性が指摘されています】。これらの調査結果は、IUP石器伝統を有する現生人類の、シベリアからアジア北部もしくは中央部を通っての北方内陸経路沿いのアジア東部への拡散の可能性を提起しており(Li et al., 2019)、これはおそらく、47000年前頃に始まるグリーンランド亜間氷期(Greenland Interstadial)12(GI-12)の温帯気候期に促進されました。しかし、これまでこうした遺跡群と関連する遺伝的資料は回収されておらず、こうした遺跡の居住者がどの人口集団に属していたのかについて、情報をもたらすことができません。

 シベリア南部西方のウスチイシム(Ust’ Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された45000年前頃の現生人類1個体から得られたゲノムは、東西両方のユーラシア人の祖先だった1人口集団に由来する現在存続している祖先系統のない1人口集団を表しており、その年代は、これらの人口集団が相互から異なりつつあった時期で、田園個体につながる系統の分岐より前のことです(Vallini et al., 2022)。これらアジア東部のIUP遺跡群がウスチイシム個体と関連する人口集団とつながっていたならば、これらの人々はアジア東部現代人に検出可能な遺伝的遺産を残さなかったでしょう。これらIUP遺跡群の一部の道具が、田園個体につながるか田園個体から分岐したアジア東部系統、もしくはシベリア北部の中期上部旧石器時代にその後に存在したユーラシア西部祖先系統(Sikora et al., 2019)かまだ発見されていない祖先系統に由来する人口集団によって製作されていた、と明らかになるかもしれません。

 アジア東部における追加の現生人類の所産かもしれない後期更新世石器遺跡である尼阿底(Nwya Devu)遺跡がチベット高原で報告され、その年代は4万年前頃で、水洞溝遺跡のIUPインダストリーとの類似性があります(Zhang et al., 2018)。この遺跡は海抜4600m地点で、これまでに発見された最も高い標高の上部旧石器時代遺跡です。この遺跡ではヒト遺骸が発見されていませんが、この遺跡は白石崖溶洞などのチベット高原のデニソワ人集団と近く、この標高における現生人類の居住を促進しただろう、デニソワ人のEPAS1低酸素症軽減アレルの遺伝子移入をもたらした機会があり得たかもしれません。これらアジア東部IUP考古学的遺跡の背後の人々のゲノムの特徴づけは、アジア東部に侵入した現生人類の移動経路と人口動態のより深い理解において重要な一歩となるでしょう。



◎古代のアジア東部現生人類集団の概要

 アジア東部古代人のゲノムへの最近の関心の高まりによって、過去数千年間のアジア東部への現生人類の移住とその後の移動および相互作用の識別に使用できる、地域的な祖先系統の複雑な分布が明らかにされてきました。多くの場合、これらの系統はESEA(アジア東部および南東部)と呼ばれる基底部アジア東部系統(Yang., 2022)にたどることができ、ESEAはアジア東部および南東部の現代人集団のほとんどの祖先です。ESEA祖先系統の広範なクレード(単系統群)には、ポリネシアのオーストロネシア祖先系統や中国北部の基底部上部旧石器時代田園個体が含まれます。ESEA系統の姉妹群には、現代のパプア人やオーストラリア先住民や近隣の島々の住民などそれ以前に分岐したAA(オーストラレーシア)や、アジア南部狩猟採集民祖先系統の分枝で、おもに現在のインド南部で見られる集団に寄与したAASI系統が含まれますが、AASIはアジア南部全域においても低水準で見られます(Narasimhan et al., 2019)。オンゲ人集団によって表されるアンダマン諸島人は、おそらくAA系統と初期に分岐した、アジア東部の拡大の深く分岐した系統に属しますが、AASI祖先系統とのいくらかの遺伝的類似性も含んでいます(Narasimhan et al., 2019、図1)。中国および旧石器時代日本の沿岸の多くのESEA集団に存在するものの、古代内陸部人口集団には存在しないおけるオンゲ人関連祖先系統は、アジア東部へのヒトの移動の沿岸経路の兆候と提案されてきました(Wang CC et al., 2021)。この深く分岐した兆候の時期と方向性に関するより多くの情報は、その起源をより深く解決できるかもしれません。以下は本論文の図1です。
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 アジア東部で見られる支配的な系統であるESEAは、進行中の古代ゲノム研究を通じてさらに地域的な祖先系統へと細分されており、通常は最初に検出された場所に因んで命名されますが、植民パターンとその後の人口移動によって、祖先系統が全期間では地域の境界内にしっかり適合しないことも多くあります。本論文で焦点を当てるアジア東部地域は、最古級のアジア東部人口集団の一部が特徴づけられてきた北東部のアムール川および西遼河地域から、深く分岐した失われた系統を含む広西や福建や太平洋公開のオーストロネシア人の祖先の故地を含む南部地域まで、中国やモンゴルや日本や韓国の現代の国境の範囲を網羅しています。本論文は次に、山東半島の黄河下流域から河南省を経て黄土高原の北方内陸地域へと至る、黄河流域の初期雑穀農耕民に注目します。西方については、青銅器時代以降のチベット高原の人口集団と東トルキスタンおよび近隣のモンゴルの人口構造の起源に関する知識を要約し、東方については、日本列島と朝鮮半島の移住の新たな理解を考察します。これらの地域の古代の人口集団に関する最近の分析を通じて多くのことが分かってきましたが、多くの重要なパズルの断片が依然として欠けており、とくに、稲作農耕が最初に行なわれたかもしれない長江流域については、依然として詳細な研究が俟たれ、多くの重要なアジア東部先史時代の人口集団および文化の遺伝的相互関係はまだ調べられていません。



◎アジア北東部

 アジア東部の主要な推定進入地点から地理的に遠いものの、アジア東部の北東部にはユーラシア東部で遺伝的に特徴づけられた最古級の現生人類の一部が含まれます。この地域は、北方ではシベリアと接し、西方ではシベリアとモンゴルと中国北東部にまたがるアムール川(Amur River、略してAR)流域および西遼河を含みます。アムール川は中国とシベリアとの間の自然の境界を形成し、支流の松花江(Songhua River)と嫩江(Nen River)を含んでいます。この広範な沖積平野に沿って回収されたヒト遺骸のゲノムは、3万年以上の居住にわたる詳細な時間横断区研究で分析されました。これらのヒト遺骸のうち最古級となる33000年前頃の個体は、考古学的背景なしで見つかり、AR33Kとして知られており、7000年は約1100KM南西に居住していた田園個体と類似した基底部アジア東部祖先系統を共有していました(Mao et al., 2021)。田園個体的祖先系統は、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に先行するアジア東部北東に存在する、とこれまでに明らかになっている唯一の祖先系統です。

 AR33Kが発見された場所から約3000km離れたシベリア北部では、ヤナ川沿いの32000年前頃の居住遺跡で子供2個体から回収されたわずかに新しいゲノムが、ユーラシア東部人の祖先系統と分離してから4000~5000年後となるユーラシア西部人につながる系統から分岐した、異なる祖先系統を記載しています。さらに、ヤナRHSに存在するユーラシア西部祖先系統は、その祖先系統の約20%のアジア東部系統からの初期の流入を受け取った、と分かりました。ヤナRHSの祖先系統はANS(古代シベリア北部)と呼ばれており、その後のシベリアの人口集団およびアメリカ大陸に入植した集団に重要な遺伝的役割を果たしたでしょう(Sikora et al., 2019)。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)のほぼ同年代の遺跡では、頭蓋断片も混合祖先系統を有しており、75%が田園個体関連祖先系統、25%がANS関連祖先系統です(Massilani et al., 2020)。これらの調査結果から、少なくとも二つの分岐した人口集団が上部旧石器時代にユーラシア北東部で確立しており、それはシベリアのANSと中国北東部の田園関連で、その相互作用の証拠はモンゴルの34000年前頃の1個体で見られた、と示されます。田園個体とAR33Kとの間の広範な時空間的距離を考えると、田園個体的祖先系統は中国北東部全域に広がっており、少なくとも中期上部旧石器時代まで存続した、と考えられます。

 LGM末までこの地域の利用可能な人口集団の情報はそれ以上なく、LGMにはアジア東部北東の人口集団の特性が変わったようです。田園個体遺伝的クラスタ(まとまり)は記録から消滅し、AR33Kが居住していた松花江の近くからさほど遠くない場所で、19000年前頃の個体の遺骸AR19Kは、代わりにアジア東部現代人とより密接に関連している、と確認されました。AR19Kも考古学的背景がない状態で見つかり、LGMの終盤に居住しており、その頃にはアジア東部北方の寒冷草原地帯環境で温暖化が始まりつつありましたが、AR19K関連の人口集団がいつ最初にこの地域に移住してきたのか、あるいは、田園個体的祖先系統がいつ消滅したのか、およびこの人口置換において何がLGMの厳しい気候および環境変化がどのような役割を果たしたのか、依然として不明です。いくつかの統計的モデルでは、AR19K祖先系統は古代のアジア東部北方沿岸部全域で見られるより新しい祖先系統の基底部であることと、AR19Kは古代のアジア東部南方沿岸部祖先系統とよりも古代のアジア東部北方沿岸部人口集団の方と密接にクラスタ化する(まとまる)ことも示されています(Mao et al., 2021)。アジア東部の南北の人口集団間のこの顕著な遺伝的差異はより新しい標本で観察されてきましたが(Yang et al., 2020)、これらの結果から、19000年前頃までにこの人口構造はすでに存在していたもと示唆されます。


●EDAR多様体

 EDAR(ectodysplasin A receptor、エクトジスプラシンA受容体)遺伝子の適応的な遺伝的多様体はアジア東部およびアメリカ大陸先住民痔の祖先で発生して、これらの集団では正の選択を通じて高頻度に上昇し、いくつかのアジア東部の人口集団では平均91.6%の頻度となります。多様体EDAR_V370Aはシャベル型切歯の表現型や太い毛幹や汗腺増加をもたらす、外胚葉発達と関連する細胞表面の受容体をコードしています。正の選択がこの多様体に作用した具体的な選択圧、およびどこでいつこの過程が始まったのかについて、いくつかの理論がありますが、答えはまだ充分には判明していません。さまざまなモデルを用いてのこの変異の年代推定値は22000~3000年前頃の間で、おそらく43000年前頃までさかのぼる可能性があります。

 提案された選択的利点は、このアレルが23000年前頃となるLGMの低紫外線環境におけるビタミンD摂取を増加させたか、4万年前頃に始まる高湿度の温暖期に熱放散を助けたかもしれない、と考えられてきました。EDAR_V370A多様体を有すると特定された最古級の個体はアムール川地域のAR19Kで、このアレルをLGM末の遅い頃に位置づけます。このアレルはその後のアジア東部北東個体群では一般的ですが、LGM前のAR33Kと田園個体には存在しません(Mao et al., 2021)。このアレルが古代の縄文時代個体群やパプア人に存在しないことも、報告されてきました(Wang CC et al., 2021)。この多様体の起源と選択的利点のより深い理解にはより多くの情報が必要ですが、現時点でのデータはこのアレルのおそらくLGMにおけるアジア東部内陸系統での起源を示唆しており、これは選択圧が厳しい寒冷気候期において起きたことを示唆しているのでしょう。


●古代アジア北東部祖先系統

 14000~2000年前頃の間のアムール川流域周辺のいくつかの新石器時代集団が遺伝的に分析され、ANAと記載される共通の祖先系統とともにクラスタ化する、と分かってきました(Mao et al., 2021、Ning et al., 2020、Robbeets et al., 2021、Siska et al., 2017、Wang CC et al., 2021)。ANA祖先系統はAR19Kのような共通の系統からの分岐としてモデル化できますが、いくらかの遺伝的距離がこれら2祖先系統を分離します(Mao et al., 2021)。ANA祖先系統は、東方ではアムール川地域や極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域、およびシベリアのバイカル湖地域やモンゴル高原南部や西遼河に居住していた新石器時代狩猟採集民人口集団で見つかってきました。ANA祖先系統は新石器時代には、松花江や吉林省大安(Da’an)市の后套木嘎(Houtaomuga)遺跡やモンゴル南部東方のジャライノール(Jalainur、扎賚諾爾)遺跡および悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡およびボイスマン2(Boisman-2)共同墓地の沿岸部人口集団に存在しており、これらの地域では少なくとも旧石器時代以降存在していたようです。

 関連する考古学的資料を含むアジア東部北東のこれらおよび同時代の遺跡群から、これらの集団は漁撈の強化と限定的な園耕によって補完される狩猟採集民生計戦略を行なっていたものの、この時期には大規模な組織的農耕を行なっていなかった、と示唆されます。新石器時代ヨーロッパの一般的な解釈とは対照的に、ユーラシア東部の新石器時代は体系的な農耕慣行の開始ではなく、完新世に先行する土器の出現などより広範なヒトの行動変化によって特徴づけられます。アジア東部北方では、土器は14000年以上前に報告されてきましたが、体系的な雑穀栽培はアムール川流域では6000年前頃以後まで出現しませんでした。追加の東西の遺伝的勾配がANA人口集団で報告されてきており、西方ではモンゴル高原の新石器時代人との類似性がより高く、東方では旧石器時代日本列島の縄文時代人口集団と関連する祖先系統の割合がより高くなっています(Robbeets et al., 2021)。

 現在の人口集団と比較すると、ANA祖先系統はウリチ人(Ulchi)やオロチョン人(Oroqen)やホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)やニブフ人など、ツングース語族やニヴフ語の話者と最も類似しており、これらの集団はすべて新石器時代ANA人口集団と同じ地理的地域に依然として居住しているので(Ning et al., 2020)、少なくとも14000年前頃にまでさかのぼる遺伝的および地理的連続性を表しています。ANA人口集団のこれほど長い存続の考えられる理由は、農耕の遅い採用と関連していたかもしれず、中期~後期新石器時代までアムール川地域には農耕は到来しませんでした。農耕をより温暖な気候からより寒冷な気候へと伝えることの難しさと、代替的な食料源への依存が、この地域を農耕に基づく社会に影響する可能性がある厳しい地域的な気候変動から保護し、農耕の拡大と結びついた南方からの人口拡大への抵抗に役立ったのかもしません(Mao et al., 2021、Ning et al., 2020)。同じゲノム断片の長さを調べることで人口動態や人口規模を得るのに使用できるROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)分析によって測定されるように、新石器時代を通じてアムール川地域の遺伝的近縁性は着実に減少しており、これはこの地域の資源の連続的な成功した利用を示唆する人口拡大と関連づけられてきました(Mao et al., 2021)。


●西遼河農耕民とトランスユーラシア語族の起源

 西遼河はモンゴル南部の草原地帯で東遼河と合流する支流に端を発し、黄海の遼東湾に流れ込みます。北東のアムール川地域の新石器時代の生計戦略慣行とは異なり、西遼河流域の紅山(Hongshan)文化は中期新石器時代までに主要作物としてキビを栽培しており、これは6500年前頃に始まります。西遼河地域のこれら初期農耕民のいくつかの遺伝学的研究では、西遼河の中期新石器時代の紅山文化および前期青銅器時代の夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化関連集団は両方とも、南方では【現在の】山東省や河南省の黄河沿いで見られ、新石器時代の龍山(Longshan)文化と関連する農耕社会の祖先系統と混合した、ANA祖先系統を含んでいた、と結論づけられてきました(Ning et al., 2020)。3000年前頃に始まった夏家店下層文化から夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化への文化的移行では逆の傾向が見られ、黄河祖先系統よりもANA祖先系統の増加が起きました。この人口変化は完新世最適期末における中期完新世のより寒冷で乾燥した期間への気候変化および西遼河周辺のより牧畜的な生活様式の採用と一致しており、これは北方からの人口拡大と関連していたようです(Ning et al., 2020)。


●トランスユーラシア語族の拡散

 ANA祖先系統を、おもにモンゴル語族やテュルク語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族(日琉諸語)を含むトランスユーラシア語族【「トランスユーラシア語族」との設定自体に、異論が多いかもしれませんが】のすべての現在の話者が有している、との発見はトランスユーラシア語族の起源の遺伝学的および学際的調査につながりました(Ning et al., 2020、Robbeets et al., 2021、Wang CC et al., 2021)。これらの研究は古代の遺伝的な祖先構成要素の拡散に関する情報を活用し、これらの語族は新石器時代において西遼河流域から雑穀農耕の広がりとともに拡大した祖語から生じた、と仮定するトランスユーラシア語族仮説の有効性を検証しました。ANA祖先系統とこれらの言語の言語史との間には、時空間的にかなり重複が見つかってきましたるこれらの結果の一部は、別々の西遼河人口集団のプリモライ地域および朝鮮半島への前期新石器時代の東方への移動と一致しており、これはアルタイ諸語祖語および日本語朝鮮語祖語言語集団とそれぞれ対応しているかもしれず、後者の集団は混合したANA祖先系統および黄河祖先系統と関連していました。

 夏家店上層文化関連祖先系統に相当する青銅器時代の移動は遼東半島から朝鮮半島を経由して日本列島へと到来し、これにはイネやオオムギやコムギを含めて拡大農耕一括が伴っていました。青銅器時代における西遼河人口集団からユーラシア東方草原地帯への東進の拡大では、到来したユーラシア西部祖先系統との混合があり、モンゴル語族祖語やテュルク語族祖語集団で見られる農耕と牧畜についての顕著な言語借用を説明できるかもしれません(Robbeets et al., 2021)。これらの調査結果の複雑な一点は、西遼河の最初期のゲノムは、ANA祖先系統に加えて、アムール川地域もしくはプリモライ地域では見られない黄河祖先系統も含んでいたことです(Ning et al., 2020)。これまでに特徴づけられてきた西遼河のゲノムは中期新石器時代までとなり、西遼河地域のより古いゲノムは黄河祖先系統との混合事象に先行するはずである、と主張されてきました(Robbeets et al., 2021)。別の複雑な点は、アムール川地域在来の祖先系統との西遼河由来の新石器時代ANA祖先系統間の類似性が、この地域へのそうした移動の遺伝的追跡を困難にしていることです。


●アメリカ大陸先住民への寄与

 アジア東部北方の遺伝的歴史の調査は、アメリカ大陸先住民集団の起源に関する理解にも大きな影響を及ぼしてきました。シベリア北東部のコリマ川近くの遺跡から得られた1万年前頃の個体のゲノムは、独特な遺伝的祖先系統であるAPSを含んでいる、と分かりました(Sikora et al., 2019)。APSは、ヤナRHSなどでユーラシア西部の分岐したANS的祖先系統とアジア東部系統との間の混合としてモデル化できます。シベリアのバイカル湖近くのマリタ遺跡の25000年前頃の1個体(MA-1)などANE祖先系統はアメリカ大陸先住民と祖先系統を共有していた、と知られており、ANE祖先系統がアメリカ大陸先住民創始者集団に近似するには、ANE祖先系統が追加のアジア東部からの遺伝子流動を必要とすることは明らかでした(Moreno-Mayar et al., 2018、Raghavan et al., 2014)。コリマ1号で見られるAPS祖先系統は、北アメリカ大陸の11500年前頃となるアップウォードサン川(Upward Sun River、略してUSR)の遺跡で発見されたアラスカの子供2個体【USR1とUSR2のうちUSR1】から回収されたゲノムによって表されるこの創始者集団(Moreno-Mayar et al., 2018)と最も近く一致していましたが、統計遺伝学を用いてのAPS祖先系統とUSR1との間の関係を最適にモデル化する試みでは、コリマ1号は依然として特定されていないアジア東部の1供給源からの追加の祖先系統を書いていました。

 現時点で利用可能な古代の供給源では、アムール川地域のAR14Kがこのアジア東部供給源の最も近い候補と判断されており、アメリカ大陸先住民USR1は、20~30%のAR14K関連アジア東部祖先系統と70~80%のAPS祖先系統の混合としてモデル化できます(Mao et al., 2021)。人口統計学的モデルでは、APSとアメリカ大陸先住民の祖先人口集団との間の分岐は24000年前頃に起きた、と推定されています(Sikora et al., 2019)。他の解釈は単一の初期の創始者人口集団の単純なモデルに疑問を呈し、さまざまな水準のANA祖先系統でのベーリンジア(ベーリング陸橋)を横断するいくつかの移住を提案しています。これらの分離事象により近い可能性のある供給源人口集団と、それが起きた可能性の高い地域をより適切に特定し、またアメリカ大陸先住民創始者集団との関連で上部旧石器時代ユーラシア北東部およびベーリンジアの複雑な人口動態を判断するには、追加の研究と標本が必要でしょう。



◎アジア東部南方

 アジア東部北方における現生人類の最初の到来に関する詳細とは対照的に、中国南部沿岸では福建省と台湾、および西方ではアジア南東部との境界を網羅する、アジア東部南方における上部旧石器時代の話はずっと不明確です。この期間を解明する試みは、有機物とDNA両方の保存の可能性がずっと低くなる、アジア東部南方の温暖湿潤気候によって妨げられています。前期新石器時代の数点の標本が福建省の南東部沿岸と広西チワン族自治区で分析されており、アジア東部南方人口集団の複雑な人口史が示唆されており、それには、そうした人口集団間およびより遠い集団との孤立および混合の両方が含まれています。考古学的結果と組み合わせると、浮かび上がる全体像は、アジア東部南方とアジア南東部とアジア東部北方沿岸集団の間の初期の文化的接触です(Wang CC et al., 2021、Wang T et al., 2021)。アジア東部南方は、5系統の語族、つまりオーストロアジア語族とオーストロネシア語族とタイ・カダイ語族とミャオ・ヤオ語族とシナ・チベット語族を含めて、遺伝的および文化的寄せ集めのままなので、そうした複雑さが予想されるかもしれません。混合モデルはこの期間のアジア東部南方の主要な祖先系統が、より古い田園個体およびAR33Kではなく、アジア東部北方の他の同時代の集団とより密接に関連するアジア東部系統に属していた、と示唆します(McColl et al., 2018、Wang T et al., 2021、Yang et al., 2020)。これが示唆するのは、前期新石器時代アジア東部南方人とLGM後にアジア東部北方に現れた集団が、どちらかの集団が上部旧石器時代の田園個体関連集団と分岐したよりも新しく相互と分岐したことです。上述のように、アジア東部の南北の遺伝的勾配はLGM末にはすでに存在しており、これは前期新石器時代アジア東部南方人のゲノムでも見られます(Yang et al., 2020)。

 以前には、アジア東部とアジア南東部にわたるヒトの移動と相互作用の説明に、頭蓋形態計測と歯の特徴に基づいて「2層」モデルが提案されてきました(Matsumura et al., 2019)。このモデルでは、第1層は独特な骨格の特徴に基づいて狩猟採集民を表しており、この特徴は第2層人口集団によってほぼ置換され、アジア東部および南東部の現代人南方ではより一般的で、農耕や伸展葬や新石器時代の一括と関連する物質の慣行と関連している骨格の特徴となりました。この仮説に基づくと、第1層人口集団は第2層人口集団に属する人々への遺伝的寄与をほとんど示さないはずです。しかし、最近の古代DNA研究は過去の形態学的研究と矛盾しており(Lipson et al., 2018、McColl et al., 2018、Wang T et al., 2021)、アジア東部農耕民と在来の狩猟採集民の両方がアジア東部南方およびアジア南東部現代人の遺伝的多様性に寄与しました。第1層の頭蓋形態を示す12000~8000年前頃のアジア南東部人は遺伝的に、推定される第2層のアジア東部人口集団とより密接に関連しており、形態のみに依拠した人口統計学的モデルはLGM後のアジア東部における人口集団の移動や置換や混合の説明には充分ではない、と論証されます(Lipson et al., 2018、McColl et al., 2018、Wang T et al., 2021)。


●福建省沿岸人口集団

 福建省は山がちで、台湾海峡を挟んで台湾島と面している狭くて低い沿岸平野を含む、東シナ海沿岸の中国南東部に位置しています。福建省の沿岸は多くの小さな島で特徴づけられ、8300年前頃の人類遺骸が石と骨の両方で製作された土器や道具を含む貝塚の下で回収された、亮島(Liangdao)が含まれます。この個体(亮島1号)のゲノム解析では、その約600年後に生きていた第二の個体(亮島2号)とともに、この2個体が福建省本土の奇和洞(Qihe Cave)遺跡で発掘された2個体(8400年前頃の奇和洞2号と12000年前頃の奇和洞3号)とともにクラスタ化する、と分かりました。この古代アジア東部沿岸祖先系統は、後に古代福建祖先系統と呼ばれ、アジア南東部新石器時代人および太平洋南西部のオーストロネシア人関連の島民との密接な遺伝的類似性を有しており、統計検定ではすべて、アジア東部北方集団とよりも相互の方と多くの類似性を共有している、と示されました(Wang T et al., 2021、Yang et al., 2020)。

 後期新石器時代には、曇石山(Tanshishan)文化が福建省の岷江下流域で5000年以上前に出現しました。曇石山遺跡は少なくとも5000年前頃となる混合の稲作および雑穀農耕の証拠と、黄河流域の龍山文化との共有された文化的特徴を示します。中国南東部沿岸人口集団の長期の人口統計学的変化を特徴づけるため、曇石山文化の2ヶ所の遺跡である、曇石山と渓頭村(Xitoucun)の4500年前頃の人口集団が、台湾海峡の澎湖(Penghu)諸島の南東部沿岸に位置する同時代の鎖港(Suogang)遺跡とともに調べられました。これらのより新しいアジア東部南方沿岸人口集団も前期新石器時代のより古い福建祖先系統とクラスタ化し、8000年以上にわたる地域的な人口の持続性を示しますが、これら南方人口集団はアジア東部北方の沿岸部および内陸部人口集団と等しく分化していませんでした。一部の後期新石器時代福建(福建_LN)祖先系統は遺伝的に、アジア東部北方の内陸部集団とよりも沿岸部集団の方と密接で、これは顕著ではないものの、前期新石器時代福建(福建_EN)祖先系統でも依然として観察されます(Yang et al., 2020)。母系の遺伝学(Liu et al., 2021)でも裏づけられるこれらのつながりは、沿岸部人口集団間の遺伝子流動の増加によって説明できますが、いくらかのより深い人口構造も除外できません。


●オーストロネシア人

 新石器時代南方本土沿岸部人口集団と台湾に6000年前頃に居住したオーストロネシア人集団との間では、以前から文化的つながりが指摘されてきました。オーストロネシア人はその約2000年後以降に太平洋南西部とインド洋の島々に移住し、最終的には遠くアフリカ沿岸や太平洋の遠方の島々にまで到達しましたが、その大陸の起源地の特定は困難でした。3通りのモデルが台湾の新石器時代の起源について提案されており、それは、(1)アジア東部本土相互作用圏モデルは台湾海峡横断の本土新石器時代の局所的拡大を提案しており、農耕前の土器の類似性に裏づけられ、(2)北東部海岸理論は中国北東部沿岸、とくに山東半島周辺起源を説明しており、オーストロネシア語族の提案されているシナ・チベット語族起源によって裏づけられ、(3)河姆渡(Hemudu)文化関連の稲作農耕民の長江下流域沿いの拡大に由来する長江下流(Lower Yangtze、略してLY)起源モデルです。

 古代ゲノム研究は、初期オーストロネシア人をその古代の起源かもしれない人口集団と直接的に比較することによって、この議論に光を当てることができます。こうすることで、バヌアツの3000年前頃となるオーストロネシア人関連の太平洋南西部の島民数個体(Skoglund et al., 2016)は、アジア東部南方本土の福建_LN人口集団とは姉妹集団と分かりました(Yang et al., 2020)。台湾の3000~1000年前頃のオーストロネシア人は、いくらかの北方祖先系統も含んでいる、と分かり、西遼河か黄河もしくは山東半島で見られる祖先系統と類似したアジア東部北方祖先系統を約25%、タイ・カダイやオーストロアジア語族やオーストロネシア語族の話者にも存在する祖先系統である、亮島の8300年前頃の遺骸によって表される福建_ENと一致するアジア東部南方祖先系統を約75%有している、とモデル化できます(Wang CC et al., 2021)。アジア東部北方祖先系統の存在からは、この北方構成要素を欠いている古代太平洋南西部オーストロネシア人について、台湾で発見されて配列決定されたオーストロネシア人のゲノムは供給源として不充分となりますが、本土集団との関係は本土の新石器時代のデータでより明確になります。

 さらに、福建_ENと福建_LNの両方は、他のアジア東部南方現代人集団とよりも、台湾の現在の先住民集団の方と多くのアレルを共有しています(Yang et al., 2020)。ミトコンドリア配列も、この関係を裏づけます。亮島1号から回収されたmtDNAハプログループ(mtHg)Eは現在のアジア東部本土では稀ですが、オーストロネシア語族話者では高頻度で見られます。亮島1号のミトコンドリア配列は、台湾の先住民であるタイヤル人(Atayal)およびアミ人(Ami)集団で見られるミトコンドリア配列の基底部の位置を占めています。まとめると、古代福建人口集団とバヌアツ古代人との間で共有されている祖先系統や、台湾の人口集団と共有される遺伝子流動は、オーストロネシア人の地理的起源を中国南部沿岸のどこかであると示していますが、直接的祖先としてモデル化できる祖型オーストロネシア人の具体的な人口集団はまだ見つかっていません。これらの結果はおそらく、アジア東部本土相互作用圏モデルモデル(1)と、アジア東部北方構成要素の出現年代に依拠した北東部海岸モデル(2)の組み合わせを支持しているようですが、新石器時代の長江人口集団は遺伝的にまだ完全には調べられておらず、将来の研究が追加のつながりを明らかにするかもしれません。


●古代広西祖先系統と混合

 広西チワン族自治区は、山がちでカルスト地形で洞窟が多いことによって特徴づけられ、ベトナムおよびトンキン湾との境界となる中国南部に位置しています。広西チワン族自治区隆林(Longlin)県の老磨󠄀槽洞窟(Laomocao Cave)における1979年の発掘では、古代型と現代型両方の特徴が混在する、珍しい形態の頭蓋を含むヒト遺骸(隆林個体)が発見されました。この頭蓋は元々、遅くまで生き残った古代型人口集団に属していた、と提案されており、その放射性炭素年代測定結果はわずか11000年前頃でした。しかし、その外見にも関わらず、隆林頭蓋の遺伝的祖先系統は完全に現生人類の差異内に収まる、と分かりました(Wang T et al., 2021)。隆林頭蓋によって表される古代広西に存在する祖先系統を特徴づけることは、困難でした。

 新石器時代のアジア東部の南北両方の古代人は、そのどちらかが隆林頭蓋と共有しているよりも多くの祖先系統を、相互と共有していましたが、田園個体やパプア人やアンダマン諸島人やアジア南東部のホアビン文化の8000年前頃の狩猟採集民で見られる深く分岐した祖先系統(McColl et al., 2018)など、より深く分岐したアジア東部系統と比較すると、隆林頭蓋は遺伝的にアジア東部の南北両方の集団とより密接でした。これが示唆しているのは、古代広西祖先系統と呼ばれる隆林県の老磨󠄀槽洞窟の隆林個体で発見された祖先系統が、以前には特徴づけられていなかった深く分岐したアジア東部系統(Wang T et al., 2021)を表していることです(図1)。隆林個体で特定されたmtHg-M71dの合着(合祖)年代と、関連する系統の地理的分布は、少なくとも22000年前頃までのアジア東部南方とアジア南東部本土との間の初期の移動の可能性を示唆しました。

 興味深いことに、古代広西祖先系統は現在の広西チワン族自治区出見られる主要な2語族であるタイ・カダイ語族およびミャオ・ヤオ語族のどちらかの話者とよりも、日本列島の旧石器時代【縄文時代を旧石器時代と位置づけるのが妥当なのか、たいへん疑問ですが】の縄文時代集団の方と密接な遺伝的関係を共有しています。縄文および広西祖先系統は両方とも、アジア東部本土祖先系統の南北両方の分枝と同様に関連しており、これは同様の分離年代を示唆していますが、それぞれはこれらの集団の構成員とさまざまな固有の関係を共有しています。したがって、縄文および広西祖先系統は広範なアジア東部南北の系統の多様化の前に共通のアジア東部祖先系統から初期に分離したようですが、その間のいくらかの追加の複雑さは、これら深く分岐した2祖先系統の歴史をより完全に再構築できるまでは、まだ明らかではありません(Wang T et al., 2021)。

 古代広西祖先系統は現代の人口集団に子孫を残さなかったようですが、隆林県の老磨󠄀槽洞窟から400km離れた独山洞窟(Dushan Cave)で発見された9000年前頃の1個体は、古代福建と類似した祖先系統83%と、隆林個体関連人口集団からの17%の祖先の寄与としてモデル化でき、広西祖先系統が少なくとも前期新石器時代にはこの地域において混合した形態で存続していた、と示されます。これは、福建の南方沿岸部人口集団と関連する侵入してきた人口集団が、9000年前頃以前のある時点で、在来の広西人口集団を完全に置換したのではなく、混合したことによって説明できるかもしれません。さらなる分析では、独山洞窟の古代福建構成要素は、奇和洞や亮島などより古い福建_EN人口集団とよりも、曇石山遺跡個体など福建_LN人口集団や2000年前頃の台湾島民の方からより密接に派生している、と示されました(Wang T et al., 2021)。

 独山洞窟個体の混合した福建および広西祖先系統は、8300~6400年前頃の間となる、ベトナムとの国境近くの宝剣山(Baojianshan)洞窟で発見された親族関係にある2個体でも特定されました。しかし、宝剣山個体の祖先系統はアジア東部では以前には見られない追加のアジア南東部要素を有しており、72%の独山洞窟個体関連祖先系統と28%のホアビニアン関連個体と類似した祖先系統としてモデル化できます(Wang T et al., 2021)。ホアビニアン祖先系統はラオスマレーシアのホアビン文化複合体と関連する遺骸で最初に特定され、おもにアジア南東部本土に集中している事例で、アジア南東部本土では、ホアビニアン祖先系統は在来のアジア南東部狩猟採集民集団を表している、と推定されてきました。ホアビニアン祖先系統は現在のオーストロアジア語族話者集団とも密接に関連しています(McColl et al., 2018、図1)。宝剣山洞窟の調査結果は、アジア南東部のホアビニアン祖先系統を有する集団の範囲をアジア東部へと拡大し、アジア東部ではホアビニアン祖先系統を有する集団が古代の福建および在来の広西人口集団の混合子孫と相互作用しました。この解釈は、他の中国南部の遺跡における提案されているホアビン文化資料(宝剣山洞窟にはありませんが)によってさらに裏づけられます。古代広西におけるこれらの研究の遺伝学的結果は、深く分岐した隆林個体関連人口集団の長期の孤立存続、およびアジア東部南方とアジア南東部北方で起きた異なる人口集団間の頻繁な相互作用の両方を浮き彫りにします。農耕関連の拡大に先行すると特定された驚くべき量の混合は、この地域における広範な移動性と交流網を物語っています。



◎黄河と中国北部中央

 黄河は青海省のバヤンカラ(Bayan Har、巴顔喀拉)山脈に端を発し、中国の9ヶ所の省を通って東方へと流れ、渤海に至ります。黄河下流域は河南省の中原(Zhongyuan)盆地を通って、続いて華北平原を通り、山東省沿岸に至ります。黄河中流域は黄土高原に始まり、そこでは黄河は山峡や峡谷や深い渓谷の険しい地形を通って湾曲します。黄河上流域はチベット高原の西部に位置しています(図2)。黄河流域はアジア東部における農耕発展の中心地の一つで、現代の漢民族の起源にとって重要な地域と考えられています。大規模なキビおよびアワの農耕の初期の証拠は、黄河上流の大地湾(Dadiwan)文化や磁山(Cishan)文化や黄河下流の後李(Houli)文化の月荘(Yuezhuang)遺跡や8000年前頃の小荊山(Xiaojingshan)遺跡など、初期完新世の黄河の集落で観察されます。黄河流域は、6000~4000年前頃の間となる新石器時代の仰韶(Yangshao)文化もしくは馬家窯(Majiayao)文化の拡大と関連している可能性の高い、西方と東方と南方への最終的な拡散前の、シナ・チベット語族の地理的起源としても提案されてきました。以下は本論文の図2です。
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 新石器時代黄河農耕民は北方ではANA祖先系統特性(Ning et al., 2020、Wang CC et al., 2021)と、南方では福建祖先系統(Wang CC et al., 2021、Yang et al., 2020)と異なる遺伝的クラスタを形成し、現在の北方漢人の主要に構成要素であり続けています(Wang CC et al., 2021)。黄河祖先系統は、90%が共通のアジア東部田園個体的祖先系統から分岐した北方内陸部系統に由来し、同様に深く分岐した沿岸部集団からの10%の寄与がある、とモデル化できます(Wang CC et al., 2021)。黄河祖先系統の広範な分布は、少なくとも中期新石器時代以降の雑穀農耕の拡大と関連づけられてきました。上述の中期新石器時代以降の西遼河の農耕流域にあけるANA祖先系統との混合に加えて、黄河祖先系統は、黄河上流の前期青銅器時代の斉家(Qijia)文化遺跡群、モンゴル南部の中期新石器時代の廟子溝(Miaozigou)遺跡、黄土高原の後期新石器時代の石峁(Shimao)遺跡では、約20%のANA祖先系統との混合が見つかっており(Ning et al., 2020)、類似の構成要素は3400年前頃のネパール人でも報告されていて(Liu et al., 2022)、4700年前頃以後のチベットのゾングリ(Zongri、宗日)遺跡では約50%の祖先系統となります(Wang et al., 2023)。黄河祖先系統は現代チベット人の主要な遺伝的構成要素としても表れています(He et al., 2021、Ning et al., 2020)。


●黄河下流:山東半島

 山東省は華北平原東部に位置する沿岸部地域で、黄河の河口と、渤海と黄海を隔てる山東半島が含まれています。山東省には、9500年前頃の扁扁(Bianbian)遺跡など数ヶ所の重要な考古学的遺跡があり、いくつかの連続した新石器時代文化がありました。これらの文化のうち最古級は、雑穀およびイネの穀粒の証拠が得られている後李文化(8250~7350年前頃)でしたが、同位体分析では、これらはまだ重要な役割を果たしていなかった、と結論づけられました。北辛(Beixin)文化(7350~6150年前頃)は小規模な農耕を行なっており、家畜化されたニワトリを含めて食性多様化の証拠があります。その後、二つの主要な考古学的分化が続き、それは大汶口(Dawenkou)文化と山東龍山文化です。大汶口文化(6000~4000年前頃)は黄河中流域を中心とするより大きな仰韶文化と共存しており、社会階層化の明確な痕跡があり、家畜化されたブタやニワトリやウシおよびイネや雑穀の農耕といった広範な農耕一式を有していました。南方の長江下流域の崧沢(Songze)文化および良渚(Liangzhu)文化も大汶口文化と交流し、大汶口文化と西遼河流域との間の接触も膠東(Jiaodong)半島経由で起きました。山東龍山文化(4600~4000年前頃)は西方の河南省の後期龍山文化と同時で、泰山(Mount Tai)の近くの平原の集落で知られています。山東龍山文化期には文化的および社会的洗練度の増加があり、独特な黒陶や加工された翡翠や小規模な養蚕の熟練した生産がありました。4000年前頃以後、歴史的記録では、夏王朝が設立され、中国史は王朝時代に入った、と示唆されています。

 山東省の最古級の配列決定されたゲノムの年代は9500~8000年前頃の間で、独特ではあるものの、同時代の8000年前頃となるモンゴル南部の裕民(Yumin)遺跡の1個体によって表される、さらに内陸で見つかった祖先系統から分岐し、アジア東部北方現代人の大半で見られる祖先系統と類似している、と説明されてきました。これはnEA(アジア東部北方)祖先系統として広く知られており、シナ・チベット語族の分布によって示されるように(Sagart et al., 2019、Wang T et al., 2021)、新石器時代に近隣地域へと拡大下黄河農耕人口集団との関連のため、現在広く分布している可能性が高そうですが(Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)、これらの移動に先行するアジア東部北方祖先基盤も説明するかもしれません。前期新石器時代山東省では、この祖先系統は南方沿岸部古代福建祖先系統とわずかに混合している、と分かっており、これは、南北の沿岸部集団間の相互作用拡大がより均一化した人口集団につながったようなので(Yang et al., 2020)、沿岸部人口集団間の交流が前期新石器時代~後期新石器時代にかけて増加した考古学的証拠と一致します【最近の研究(Wang et al., 2024)では、山東半島において、前期新石器時代集団は戦国時代以降の集団に遺伝的影響を及ぼしていない、と示されました】。

 中期新石器時代以降の山東半島人口集団の大規模なゲノム研究はまだありませんが【最近、山東半島の中期新石器時代以降の人類の古代ゲノム研究が相次いで刊行されています(Du et al., 2024、Wang B et al., 2024、Wang F et al., 2024)】、母系継承の古代mtDNA研究は、この地域の変化する人口統計学的構造および重要な文化的移行との関連に洞察を与えてきました。これらの研究は山東半島における母系連続性を示してきており【上述のように、最近の研究(Wang et al., 2024)では、山東半島において、前期新石器時代集団は戦国時代以降の集団に遺伝的影響を及ぼしていない、と示されました】、山東半島で最古級の配列決定された個体である9500年前頃の扁扁遺跡の1個体を、傅家(Fujia)遺跡や阡(Beiqian)遺跡の4600年前頃となる大汶口文化と関連する人口集団と関連づけており、注目すべきことに、アジア東部北方現代人で依然として見られるmtHg-B5b2の基底部の事例があります。

 この期間の山東人口集団はアジア東部の北部(mtHg-D)と南部(mtHg-B・F)両方の現代人において高頻度で見られるmtHgを有している、と分かりました(Liu et al., 2021)。これは、アジア東部南方沿岸部祖先系統構成要素を示すより古い山東半島の個体群から得られたゲノムデータと一致し、北辛文化および大汶口文化を南方の長江流域沿岸の馬家浜(Majiabang、Maijabang)文化および良渚文化、とくに江蘇省の華亭(Huating)遺跡とつなぐ考古学的証拠と一致します。山東半島におけるmtHg-M8・Aなど内陸部人口集団からのmtHgの最初の観察は3100年前頃で、これは黄河中流域の龍山文化の沿岸部への影響拡大、およびその1500年以上前(4600年前頃)に始まった山東龍山文化への文化的移行に相当します(4600~3100年前頃の期間で標本抽出された個体はありません)。在来の龍山文化の開始と新たなmtHgのこの流入との間のつながりは、依然として調査の必要がありますが、4600年前頃以後のある時点で、沿岸部と内陸部の人口集団間の遺伝的違いの減少に相当する、山東半島人口集団の母系構造の多様性増加が見られます。この過程の結果として、アジア東部現代人はより古い山東半島人口集団ではなく、より新しい山東半島人口集団の方との大きな遺伝的密接さを有しています(Liu et al., 2021)【こうした山東半島における人口集団の遺伝的構成の変容は、核ゲノムでの最近の研究(Du et al., 2024、Wang B et al., 2024、Wang F et al., 2024)によってさらに具体的に解明されました】。


●黄河中流:河南省

 黄河中流域は山東半島からさらに内陸の、現在の河南省に位置しており、新石器時代にまでさかのぼって中国の過去の社会の発展に大きな影響を与えてきました。諸河川に囲まれた肥沃な中原にあるこの地域の戦略的位置のため、移動と文化的交流を促進するこの地域理想的な場所となり、中国文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の初期の始まりの主要な中心地と長く考えられてきました。農耕の最古級の証拠の一部は黄河中流の沖積平野に沿って見つかってきており、前期新石器時代以降、連続して影響力のある複雑な文化が出現し、それには裴李崗(Peiligang)文化(9000~7000年前頃)や仰韶文化(7000~5000年前頃)や龍山文化(5000~4000年前頃)が含まれ、その後で青銅器時代の二里頭(Erlitou)文化や二里岡(Erligang)文化、さらには商(殷)および周王朝が続きました。

 黄河流域農耕民は仰韶文化期に河南省において半永久的な集落を築き始め、急速に拡大しました。黄河流域農耕民から得られた前期新石器時代のゲノム情報は依然として欠けていますが、中期新石器時代の仰韶文化期のゲノム規模解析から、仰韶文化の汪溝(Wanggou、Wangou )遺跡と暁塢(Xiaowu)遺跡の住民は相互に高い類似性を有している、と示され、多くのアジア東部北方人口集団とクラスタ化する(まとまめ)仰韶文化集落間の遺伝的均一性が論証されます(Ning et al., 2020)。西方の甘青(Gan-Qing)地域およびチベット高原における仰韶土器の出現と、長江河口近くの崧沢における版築建設技術は、仰韶文化が周辺地域に及ぼしたかもしれない広範な影響を論証しています。黄河中流の仰韶文化関連黄河祖先系統(黄河_MN)は、同様に西遼河からモンゴル南部(Ning et al., 2020)とチベット高原(Wang et al., 2023、Wang T et al., 2021)の中期新石器時代人口集団に広がっていた、と分かってきました。アジア東部北方現代人のmtHg分布(たとえば、A・D4・D5・F2・G)は、調査された仰韶文化遺跡の住民の大半で見つかってきました。とくにmtHg-D5a2a1の出現と分布パターンは、急速な拡大を示唆しています。これは、比較的短期間での仰韶文化集落の広範囲な出現に対応しており、おそらくは温暖な中期完新世気候最適期と関連しています。

 その後の龍山文化期(5000~2900年前頃)には、黄河流域の集落遺跡は、家畜動物の消費増加と農耕強化や、土器様式の独特な変化とともに特徴づけられますが、仰韶文化と龍山文化との間の人口統計学的変化は明確には理解されていません【最近の研究(Li et al., 2024)では、仰韶文化の基準遺跡となる仰韶遺跡の仰韶文化~龍山文化期の人類のゲノムデータが報告され、これまで認識されていなかった後期龍山文化期人類集団における遺伝的多様性が示されています】。龍山文化人口集団は、先行する仰韶文化人口集団との全体的な遺伝的連続性を示します。しかし、仰韶文化人口集団と比較すると、龍山文化関連人口集団(黄河_LN)は顕著により高い割合のアジア東部南方構成要素を有しており、4800年前頃以後の南方人口集団からの北方への遺伝子流動を反映しています(Ning et al., 2020)。このアジア東部南方祖先系統り流入増加は、後期龍山文化期における人口密度および集落の増加と並行しています龍山文化期に観察された黄河中流人口集団のゲノム祖先系統は青銅器時代および鉄器時代まで存続しており(Ning et al., 2020)、それはmtHg-D・Fも同様で、少なくとも中期新石器時代以降に黄河中流域に存在していました。現在の中国の人口集団と比較して、黄河_MN祖先系統は中国西部のヒマラヤ山麓近くを中心とするナシ人(Naxi)およびイー人(Yi)集団と最も類似していますが、現在の漢人は中期新石器時代もしくは鉄器時代の黄河流域人口集団の場合よりも、アジア東部南方沿岸部人とのさらなる類似性を示します(Ning et al., 2020)。


●シナ・チベット語族の黄河起源

 シナ・チベット語族は現在の中国(シナ語派)とミャンマーとインド北東部とマレーシアとチベット高原(チベット・ビルマ語派)で話されている、大規模で複雑な言語群です。最古級の文献の証明は3000年以上前の河南省の商王朝にまでさかのぼり、おそらくは黄河中流の陶寺(Taosi)遺跡では800年さかのぼります。この言語群の起源と拡散経路についての提案には、いくつかの故地候補からの一連の外側への拡散が含まれており、それは、中国南西部の四川省、最大の言語学的多様性が存在するチベット高原もしくはインド北東部の西方起源、黄河中流もしくは上流の初期農耕社会の起源です。最近の言語学と遺伝学の研究は、シナ・チベット語族の起源について、前期~中期新石器時代の黄河流域人口集団で話されていた言語をますます示しています。時間較正されたベイズ言語系統発生は、チベット・ビルマ語派とシナ語派との間の最初の分岐が8000~7200年前頃に起き、その後の拡散には雑穀農耕の導入が伴った、と推定しました(Sagart et al., 2019、Zhang et al., 2019)。この筋書きは、シナ語派とチベット・ビルマ語派の話者に普遍的に存在する黄河祖先系統の遺伝学による特定と一致します(Ning et al., 2020、Wang T et al., 2021)。まとめると、これらの結果から示唆されるのは、8000年前頃以後のある時点における語族の最初の分離と、チベット・ビルマ語派祖語を話す雑穀農耕民が、黄河中流域もしくは上流域からの西方へ拡大して5000年前頃のある時点でチベット高原に到来したのに対して、シナ語派祖語話者は中原を横断して東方と南方へ拡大した、ということです。



◎チベット高原

 チベット高原は、ヒトがこれまでに居住した中で最も困難な環境の一つです。チベット高原は海抜が平均4500m以上で、この低酸素で乾燥した環境は、疎らな植生、生物多様性の減少、乾燥した草原地帯や湖や聳える山脈間の急峻な横断渓谷などの過酷で険しい地形によって特徴づけられます。チベットは地球上で最高にして最大の高原として、中国の四川省と甘粛省と新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)およびチベットのほとんどや、ネパールとブータンとインド北東部とパキスタンの一部も含んでいます。チベット高原は、黄河と長江とメコン川とヤルンツァンポ川(ブラマプトラ川)とインダス川の源流です。過酷な環境にも関わらず、チベット高原には数万年間も現生人類が居住してきましたが、農耕もしくは牧畜生活様式に先行する考古学的遺跡は稀です。チベット高原は、世界で最も居住の疎らな地域でもあります。現在の人口の90%以上はチベット民族で構成されており、残りは漢人もしくは多くの少数民族に属しており、一部は非チベット・ビルマ語派言語を話します。チベット民族の祖先系統の大半(74~86%)はアジア東部起源に由来し、わずかな構成要素はアジア南部および中央部人とシベリア人にたどれますが(Wang CC et al., 2021、Wang et al., 2023)、これらの構成要素の起源と過去の分布は最近になってようやく古ゲノミクスで調べ始められたばかりです。チベット人は新石器時代における黄河上流および中流からの雑穀農耕民の拡大と関連するシナ・チベット語族を話しますが、その祖先系統の再構築は、局所的混合を伴う農耕民による拡大の単純なモデルと一致しない、驚くべき複雑さを明らかにしてきました。

 現代チベット人の遺伝学的分析は、現在のナシ人やツー人(Tu)やイー人の集団と遺伝的に最も近くに位置する、青海省と雲南省のチベット高原の東側斜面の低地アジア東部人と共有される祖先系統の東西の勾配を明らかにしてきました。チベット高原西端のネパールのシェルパ人はこの勾配に沿って最も遠い空間を示しており、距離による孤立モデルによって説明できるパターンをもたらしました。このモデルを裏づけて、現在のチベット高原人口集団間の遺伝的類似性は地理的近さと相関しており、高い標高のチベット人は相互と密接にクラスタ化し、それに続くのが中国の青海省と甘粛省のチベット高原北東部低地のアムド(Amdo)地域チベット人と、四川省と雲南省のチベット高原南東部地域のカム(Kham)地域のチベット人です。

 チベット人の下位人口集団内では、アジア中央部やシベリアやアジア南部などいくつかの非アジア東部祖先系統が同様に特定されており、アムド地域のチベット人はテュルク語族間話者のカザフ人集団と類似したユーラシア西部祖先系統を2~3%と、低水準のシベリア祖先系統を有しています(He et al., 2021)。さらに、現在のネパールのチベット高原西部に暮らすシェルパ人は、チベット高原中央部よりも高水準のアジア中央部祖先系統を有しており(Wang et al., 2023)、ヒマラヤ山脈の南側のインド北東部のチベット・ビルマ語派話者であるナガ人(Naga)とは、他のチベット人よりも高い遺伝的類似性を共有している、と分かりました(Liu et al., 2022)。


●チベット高原の人口構造へのアジア東部からの影響

 いくつかのゲノム解析は、チベット高原への農耕の導入に先行する、12600~6600年前頃か15000~9000年前頃となる漢人系統とチベット人系統との間の初期の分岐時期について証拠を提示しており、いくつかの片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)はさらに早い分岐年代を示しています。これは、完新世に先行する先住チベット人と黄河上流域集団との間の接触の可能性を提起しますが、系統分岐時期は実際の人口集団の分離年代を反映しておらず、これらがどこで起きたのか、特定しません。その後の接触もしくは複数回の移住もこれらの時期を短縮するかもしれませんが、シェルパ人と漢人の16000~11000年前頃の分岐時期などの追加の証拠と、5600年前頃の高地雑穀農耕のずっと前のチベット高原北東端から遠いヒマラヤ弧に沿った黄河祖先系統の出現は、先住チベット人と甘粛省か青海省か四川省北部の黄河上流採食民との、おそらくは低標高地での農耕相互作用前の相互作用を支持します。そうした接触は、より高い標高の地域への初期の西進移動を可能にした、氷期末の温暖化気候と一致するでしょう。この筋書きでは、馬家窯(Majiayao)文化期における農耕に基づく拡大は、アジア東部北方祖先系統とすでにある程度混合していたチベット人の基盤と遭遇したかもしれません。7300年前頃となるヤクの初期の局所的な家畜化から、遊牧民は高地では農耕社会に先行し、低地農耕人口集団と交易を行なっていたかもしれない、と示唆されます。 

 チベット高原最古級のゲノムはゾングリ遺跡から回収された5100年前頃の個体(ゾングリ5.1K)で、ゾングリ遺跡はチベット高原北東部の海抜3000mの共和(Gonghe)盆地に位置します(Wang et al., 2023)。ゾングリ文化は局所的なチベット文化で、近隣の黄河上流域の同時代の馬家窯文化強い影響を受けました。ゾングリ遺跡の4700~3900年前頃とより新しい年代の数個体から得られたゲノム情報や、近隣のより新しくより高い標高の遺跡である青海省の2900年前頃となる普卡貢瑪(Pukagongma)から得られた人口集団のゲノムデータは、チベット高原と黄河上流の人口集団間の中期~後期新石器時代の人口統計学的パターンを評価するための、時間横断区を提供します(図3)。ゾングリ5.1Kの祖先系統はゾングリ遺跡のより新しい個体群とは、黄河祖先系統の減少に加えてアジア東部南方構成要素が欠けている点で異なっており、EAT(初期古代チベット人)を表すのに使用されてきました。現在の個体群と比較すると、EAT祖先系統はチアン人(Qiang)とチベットとシェルパ人において最高の割合なので、チベット高原において依然として混合した形態で見つけることができます(Wang et al., 2023)。EAT祖先系統は、ヒマラヤ弧の3400年前頃となるルブラク(Lubrak)遺跡の1個体でも特定されました(Liu et al., 2022)。最も新しいゾングリ遺跡の個体群は、前期~中期新石器時代黄河流域人口集団の祖先系統に加えて、40~74%のEAT祖先系統を有し、モンゴル南部の裕民遺跡個体と類似した追加の祖先系統もいくらかある、とモデル化できます。4700年前頃以前となる低地アジア東部祖先系統のこの流入は、ほぼ2000年後のより高い標高の普卡貢瑪遺跡の個体には現れず、チベット高原への新石器時代の移住が散発的で局所的だった可能性を表しているかもしれません(Wang et al., 2023)。以下は本論文の図3です。
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 チベット高原全域で見られるアジア東部祖先系統の起源の解明によって、この地域の新石器時代の人口統計学的変化の根底にある時期と経路と文化的接触をより深く理解できるようになります。一般的に、この流入してきた祖先系統は黄河からモンゴル南部の前期および中期新石器時代集団によって共有されています(Wang et al., 2023)。ヒマラヤ弧では、この祖先系統は黄河流域中期新石器時代に属する人口集団よりも、黄河上流後期新石器時代人口集団の方と密接に類似している、と示されてきました(Liu et al., 2022)。チベット人における黄河関連祖先系統の主要な構成要素に加えて、いくつかの他の供給源がチベット高原全域のさまざまな時期と場所に現れ、複数回の移住と相互作用が過去数千年間に周辺地域間で起きたことを証明しています。チベット高原南東部では、アジア東部南方祖先系統が少なくとも2800年前頃に出現し、ヒマラヤ弧全域に広がっているようではあるものの、現在のシェルパ人ではより低水準であるアジア中央部祖先系統は1500年前頃までさかのぼって見つかりました。トルクメニスタンの青銅器時代1個体のゲノムによって表されるアジア南部祖先系統は、2300年前頃から最近までの個体群においてチベット高原西部に沿って6~14%の間の水準で存在しました(Wang et al., 2023)。

 チベット高原全体の人口構造も特定されてきました。これらは共有祖先系統によって地理的な3クラスタ(まとまり)に区分され、それは、「北東部」クラスタと「南東部~中央部」クラスタとネパールのヒマラヤ弧を含む「南部~南西部」クラスタです(図3)。これら3クラスタはそれぞれ、より最近の時期よりも過去において相互の間でより大きい遺伝的多様性を示しており、これはチベット高原横断の人口集団の漸進的な均一化に起因します。南部~南西部クラスタは、現在チベット高原で最も人口密度の高いヤルンツァンポ川流域に密接に沿っており、初期(3400年以上前)の定住パターンと遺伝的均一性の維持の重要性を示しています(Wang et al., 2023)。


●新石器時代と後期上部旧石器時代と深い旧石器時代の起源

 チベット人のゲノムの最古級のアジア東部構成要素の混合年代は前期新石器時代もしくは新石器時代の前と推定されていますが、Y染色体ハプログループ(YHg)の合着(合祖)年代を用いての、他のアジア東部人との中核チベット創始者人口集団の分岐時期特定の試みは、チベット人に固有かより遠い人口集団でも見られるずっと深く分岐した集団と混合した、前期新石器時代アジア東部ハプログループの興味深いパターンを明らかにしてきました。チベット人【男性】の半分以上はYHg-D1(M174)で、これは6万~32000年前頃に起源のあるYHgで、姉妹系統はアンダマン諸島と日本列島の両方で見られます(Liu et al., 2022)。対照的に、7000年前頃にさかのぼるYHg-O2a2b1a1(M117)は中期~後期新石器時代の黄河上流では一般的で、それぞれ農耕の仰韶文化および斉家文化と関連しています(Liu et al., 2022)。一般的なチベット人のミトコンドリア系統も、深く分岐したハプログループとより新しく分岐したハプログループを示します。チベット高原で見られるmtHgのうち、M62(以前にはM16)の年代は28000年前頃にさかのぼり、チベット高原以外では稀にしか見られませんが、アジア東部南方人において高頻度で見られるM9aは9500年前頃までさかのぼり、チベット人固有のmtHg-Aの年代は13000~7000年前頃にさかのぼります。

 深い上部旧石器時代と【相対的に新しい】前期新石器時代両方の片親性染色体系統のパターンは、核ゲノム燧石で裏づけられます。チベット高原全域の主要な祖先系統は、おもに9500~4000年前頃の黄河流域およびモンゴル南部に由来するアジア東部北方供給源にたどることができますが、チベット人のゲノムの6~26%はチベット高原のみの未知の起源の深く分岐した現生人類祖先系統に由来します(Liu et al., 2022、Wang et al., 2023)。この深く分岐した「亡霊(ゴースト)」人口集団に相当する祖先の照合はまだ発見されていませんが、4万年前頃の田園個体につながる系統の前にアジア系統から分岐した、と大まかにモデル化されてきており、同様に謎めいた45000年前頃となるウスチイシム個体やアンダマン諸島人(オンゲ人)につながる深く分岐したアジア東部南方の分枝から同様に遠く、オンゲ人につながる系統が、旧石器時代日本列島も含めてアジア東部沿岸において低水準で出現することも報告されてきました(Wang T et al., 2021)。同様に古代ANA祖先系統とのいくらかのつながりもあったかもしれず、それは、統計的検定が19000~14000年前頃のアムール川地域個体群との類似性の可能性を示しているからです(Wang et al., 2023)。競合仮説では、この深く分岐したチベット祖先系統は、出アフリカ事象の直後に他の現生人類系統から分岐し、混合した古代型のチベット高原人口集団の残存と混合した、シベリアのごく初期の現生人類集団に由来したかもしれない、と提案されてきました。2016年の研究によるとこの人口集団の子孫はアジア東部人が前期新石器時代にチベット高原に到来するまで残っていたでしょうが、この説明は妥当ではないようで、それは、その後の分析で、チベット人には古代型祖先系統の対応する増加が欠けているようだ、と示されたからです(Liu et al., 2022)。

 チベット高原人口集団全体のこの祖先系統の同様の割合から、この祖先系統は共通の供給源人口集団に由来するので、LGM後のアジア東部人の到来前の在来のチベット高原人口集団を表している可能性が高い、と示されます。この系統の深さを考えると、この人口集団の起源は、LGM前にチベット高原に最初に到来し、残存デニソワ人集団と混合して、高地居住に有利なEPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)遺伝子を獲得したかもしれません(Huerta-Sánchez et al., 2014)。この期間は、このアレル(対立遺伝子)の最新の推定遺伝子移入年代である48000年前頃(59500~16000年前頃)に近くなっています(Zhang X et al., 2021)。4万~3万年前頃の間の上部旧石器時代でより温暖湿潤な期間には、チベット高原は現在より居住に適しており、初期現生人類のLGM前の拡散を促進したかもしれません。しかし、このアレルへの選択圧は潜在変異でずっと後(9000年前頃)まで始まらなかった、と考えられているので、あるいはこのアレルは、より低い標高の地域でもたらされ(Zhang X et al., 2021)、チベット高原でその後に人口集団が定着するまで、高頻度には上昇しなかったかもしれません。旧石器時代のチベット高原の遺跡群とアジア東部の同時代の遺跡群との間で報告されている類似性は、この亡霊人口集団の地理的起源に関する何らかの手がかりをもたらすかもしれません。

 古代の遺伝的データで得られた現時点での理解から、現在のチベット人集団の形成は、部分的にしか特定されていない深く分岐した現生人類の「亡霊」集団による、完新世の前の穏やかな気候期におけるチベット高原への【現生人類】最初の移住と関わっていた可能性が高そうです。LGMにおけるチベット高原へり移住の証拠は見つかっていませんが、チベット高原東端での相互作用は気候改善後に起きたかもしれません。その後、周辺の低地人口集団からの遺伝子流動の増加が、農耕の導入で最大に達し、その後で歴史時代への散発的移住が続いたかもしれません。上部旧石器時代の基盤をより完全に特徴づけ、観察された後期新石器時代と青銅器時代の人口構造の形成の機序を解明するには、さらなる研究が必要でしょう。


●高地適応:EPAS1とELGN1

 チベット高原の低酸素の高地で暮らすヒトの能力は、低酸素環境で血液による酸素の利用をより効率的にできる遺伝的適応によって大きく促進されました。これらのうち、EPAS1とその負の調節因子であるEGLN1(Egl nine homolog 1)は、分岐した遺伝的多様体の選択的一掃の強化によって特定されてきました。EPAS1遺伝子の遺伝子移入されたデニソワ人型多様体は、低ヘモグロビンおよび低酸素への生理学的反応と相関しています。追加の有益なELGN1多様体は現在のチベット人では64.3~75.8%の頻度で見られ、頻度は標高と相関しています。ELGN1_D4Eアレルの選択の開始は、8400年前頃と推定されてきました。これはそれ以前のEPAS1多様体に石損する役割を果たし、活性を向上させるので、より新しい選択動態となります。過去5100年間のチベット高原全域のEPAS1の発生を観察すると、最古級の個体Zongri5.1Kが派生的なEPAS1アレルを同型接合で有しており、経時的な頻度増加が観察できる、と明らかになりました(Wang et al., 2023)。派生的なEPAS1多様体のアレル頻度はチベット高原人口集団では、5100~2500年前頃には36%、2400~1900年前頃には47%、1600~700年前頃には59%で(Wang et al., 2023)、チベット人における派生的なEPAS1アレルの現在の頻度86%にまで上昇しました。EPAS1のアレル頻度で観察された増加率は、この多様体について報告されたずっと古い遺伝子移入(Zhang X et al., 2021)と比較して、最近の選択圧を裏づけているようです。



◎モンゴルと東方草原地帯

 モンゴル高原には、中国とシベリアとの間の現在のモンゴル全域と、山や砂漠や草原の多様な地理が含まれます。モンゴル高原は、アムール川の源流がある東方から、西方と南西部ではアルタイ山脈まで広がっています。サヤン(Sayan)山脈とヘンティー(Khentii)山脈が北方で接し、ハンガイ(Khangai)山脈は西部中央で見られます。これらの山脈は2ヶ所の湖渓谷に水を供給し、ゴビ無渓谷湖地域は北方のハンガイ山脈によって水を供給され、大湖渓谷(Great Lakes Valley)は西方でアルタイ山脈とサヤン山脈とハンガイ山脈の間の盆地に位置しています。この領域の中央部と西部には、広大なモンゴル・マンチュリア草原地帯が含まれ、その草原地帯は華北平原の上に【北側に】位置します。南側には幅1600kmのゴビ砂漠が広がっています(図4)。以下は本論文の図4です。
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 北方では考古学的層準が43000~15000年前頃トルボル(Tolbor)遺跡群、あるいは、ゴビ砂漠中央部ではツァガーン・アグイ(Tsagaan-Agui)およびチヘン・アグイ(Chikhen-Agui)洞窟遺跡など、いくつかの遺跡では上部旧石器時代のモンゴルにおける現生人類の存在が証明されています。全体的に、モンゴルの完新世遺跡群は、水路や湖盆の周辺に集中しているようで、この地域はシベリアから北方のバイカル湖地域より人口は疎らだった、と推定されてきました。モンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34000年前頃の頭蓋冠は、これまでに回収された唯一の上部旧石器時代のヒト資料です。サルキート頭蓋で特定された祖先系統は、基底部アジア東部の田園個体的祖先系統とシベリアのANS祖先系統の混合で、他の個体ではまだ特定されておらず(Massilani et al., 2020)、モンゴルで特徴づけられる中期完新世のゲノムの前に、LGMまでにアジア東部北東の田園祖先系統の消滅とともに、モンゴルから消滅した可能性が高そうです(Mao et al., 2021)。

 モンゴルの景観の多くは露出し、大規模で発達した農耕が欠けており、そのため青銅器時代の前の考古学的遺跡の特定が困難になっていて、この期間の人口史のほとんどが不明です。さらに、前期青銅器時代以来のモンゴル草原地帯の大半にわたる先史時代人口集団の遊牧慣行は、野営地もしくは集落の検出を制約します。石や古墳で埋葬を示す慣行は青銅器時代に始まり、古代の遺伝学的研究の大半は、青銅器時代とその後の期間に焦点を当てることになりました(Jeong et al., 2020)。農耕は新石器時代に東方の河川流域において限定的な意味でのみ行なわれてきたようですが、前期青銅器時代における遊牧の到来は、数千年にわたって持続する生活様式と生計慣行に特大の影響を及ぼしました。ヒツジやヤギやウシなどの家畜による牧畜経済は、西方の草原地帯からアルタイ提起をアファナシェヴォ文化集団の到来とともに、5000年以上前にもたらされたようです。アファナシェヴォ文化人口集団は、ポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のインド・ヨーロッパ語族祖語話者であるヤムナヤ(Yamnaya)文化と密接な類似性を示し、これは文化と遺伝両方の類似性によって裏づけられます(Allentoft et al., 2015)。アファナシェヴォ文化の埋葬はまずハンガイ山脈地域の西部と中央部に出現し、盛り上がった石塚を特徴としており、時には家畜動物の遺骸もしくは解体された車輪付き荷馬車が含まれます。いくらかの時間的重複とともに、さまざまな埋葬伝統のある同様の牧畜民文化がモンゴル(およびアルタイ山脈と東トルキスタンでも)でアファナシェヴォ文化の埋葬に従い、チェムルチェク文化として知られています。チェムルチェク文化の埋葬は形が長方形で、擬人化された像の彫られた石碑とともに示されていることが多くなっています。アファナシェヴォ文化とチェムルチェク文化の埋葬の歯石の古代タンパク質解析は、乳タンパク質を特定し、これは少なくとも5000年前頃にさかのぼる両考古学的文化【アファナシェヴォ文化とチェムルチェク文化】における動物の乳の消費を論証します。


●新石器時代と前期青銅器時代

 モンゴルで特徴づけられた最古級のLGM後のゲノムは7000~5000年前頃の後期新石器時代と前期青銅器時代にさかのぼり、この初期の年代において、モンゴルにはすでにさまざまな地理的地域に居住する多様な人口集団が暮らしていた、と示されます。モンゴル北東部では、小規模な農耕活動を行なう狩猟と漁撈に基づく文化ケルレン川(Kerulen River)周辺の新石器時代遺跡群が、さらに東方のアムール川地域およびプリモライ地域周辺の同時代の人口集団と類似のANA祖先系統を有している、と分かりました(Jeong et al., 2020、Wang CC et al., 2021)。じっさい、ANA祖先系統は後期新石器時代と前期青銅器時代においてモンゴル北部および東部の大半で主要な祖先構成要素だったようです。ANA祖先系統は新石器時代からMLBAまでモンゴル東部において混合せずに存続しており、モンゴル東部では、MLBAのウランズーク(Ulaanzuukh)文化関連の埋葬でも見られます。モンゴル東部以外では、ANA祖先系統は他の少数の祖先構成要素とともに混合して見られます。モンゴル北部のエグリン・ゴル川流域(Egiyn-Gol River Valley)近くの新石器時代の被葬者には、ANE関連供給源と関連する17%の祖先系統と混合したANA祖先系統があります。この祖先系統特性は、シベリアのバイカル湖周辺のさらに北方となる前期新石器時代のフォフォノヴォ(Fofonovo)文化埋葬遺跡の祖先系統と一致し、バイカル湖地域では、個体群は83~87%のANA祖先系統とANE関連構成要素に属する残りの祖先系統と明らかになりました。この特別な混合祖先系統はバイカル湖地域では新石器時代のキトイ(Kitoi)文化から前期青銅器時代のグラズコボ(Glazkovo)文化とその後を経て存続しており、その期間にANE構成要素は6%~20%へと次第に上昇しました(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020)。

 モンゴルにおける西方草原地帯文化の最初の出現は前期青銅器時代に見られ、おそらくはエニセイ川上流とサヤン山脈もしくはアルタイ山脈を通ってモンゴルに侵入しました。モンゴル中央部のハンガイ山脈近くのシャタール・チュルー(Shatar Chuluu)遺跡の5000年前頃のアファナシェヴォ文化被葬者は遺伝的に、アルタイ山脈のエニセイ川のアファナシェヴォ文化集団で見られるWSH(西方草原地帯牧畜民)祖先系統と同一でした(Allentoft et al., 2015、Jeong et al., 2020)。これは、モンゴルにおける牧畜の導入を西方草原地帯文化の東方への拡大と結びつけます。モンゴル西部のチェムルチェク文化の被葬者は、考古学的にさらに西方の遺跡群と関連づけられており、より大きな遺伝的多様性を示しました。アルタイ山脈南部のヤグシイン・フゥドゥー(Yagshiin Huduu)遺跡のチェムルチェク文化被葬者は、で見られる祖先系統は、西方草原地帯祖先系統としてモデル化できますが、カザフスタンのボタイ(Botai)文化集団と同様のANE日宇製要素があります。より小さな構成要素は、以前にカザフスタンで特定された、アジア中央部青銅器時代のBMACと関連する古代イラン祖先系統と同様でした(Narasimhan et al., 2019)。しかし、アルタイ山脈北部のチェムルチェク文化被葬者は80%のANA祖先系統で特徴づけられ、残りの祖先系統は、アルタイ山脈南部のチェムルチェク文化個体群のもので、これは、侵入してきた西方のチェムルチェク文化関連集団が、おそらくはアルタイ山脈もしくは西方のサヤン山脈の周辺地域で、局所的にANA祖先系統と混合したこと説明できるかもしれません(Jeong et al., 2020)。

 ANA祖先系統は南方ではモンゴル南部の8400年前頃となるウランチャブ(Wulanchabu)市近郊の裕民村の8400年前頃の1個体でも現れていますが、このANA祖先系統はチベット人勾配に沿ってアジア東部祖先系統と混合しているようです(Yang et al., 2020)。上述のように、ANA祖先系統に沿った東西の勾配が特定されており、モンゴル西部の遺跡群はANEとの混合祖先系統の増加を示し、東方のアムール川地域では、日本列島の旧石器時代の縄文時代集団で見られる祖先系統との類似性を有する構成要素が最大13%【最近の研究(Wang K et al., 2023)では、外れ値の1個体がこの構成要素を約30%有している、と示されました】存在しました(Wang CC et al., 2021)。モンゴルとその周辺地域におけるANA祖先系統の分布パターンから、共通のアジア東部北方祖先系統がシベリアのバイカル湖地域西部からアジア北東部沿岸のプリモライ地域およびアムール川流域、南方モンゴル南部までの広範な地域に拡散し、シベリアのANE集団、時にはモンゴル北西部で西方草原地帯から侵入してきた青銅器時代人口集団と混合した、と示唆されます。上述のように、この祖先系統の現在のトランスユーラシア語族話者との関連は、トランスユーラシア語族の地理的起源のいくらかの示唆を提供するかもしれません(Robbeets et al., 2021)。


●青銅器時代の3人口集団

 MLBAに始まる300個体以上の大規模な古代ゲノム研究は、異なる3人口集団から構成されるモンゴル全域における地理と遺伝の構造の出現を明らかにしました(Jeong et al., 2020)。これらの祖先系統は、フブスグル_LBA、アルタイ_MLBA、ウランズーク_石板墓と命名され、それぞれ、モンゴルの北部中央、モンゴル西部、モンゴル東部のフブスグル(Khovsgol、Khövsgöl)県で見つかっています。フブスグル_LBAは、おもにハンガイ山脈とバイカル湖地域との間で見られるANEと混合した多数派のANAで以前に説明された祖先系統を定義します。遺伝的連続性が、後期青銅器時代牧畜民とこの地域の新石器時代居住者および北方のバイカル湖地域の狩猟採集民の両方を含むと分かり、この地域における3000年以上のこの祖先系統の存続が論証されます(図4)。

 アルタイ_MLBA祖先系統は、ウラル山脈の東側に起源があるシンタシュタ(Sintashta)文化関連草原地帯牧畜民と一致する、新たに出現した西方草原地帯祖先系統と混合したフブスグル_LBAとして定義されます(Allentoft et al., 2015、Narasimhan et al., 2019)。この侵入してきたWSH人口集団は、ヨーロッパ中央部および東部の縄目文土器文化(Corded Ware culture、略してCWC)との遺伝的つながりを有しており(Mathieson et al., 2015)、西方草原地帯からのシンタシュタ文化の東方への拡大の一部として到来した可能性が高く、おもにモンゴルの西部および北部で見られます。モンゴル西部のMLBA被葬者におけるシンタシュタ文化WSH構成要素の分析は、その到来が分析された個体が生きた約300年前もしくは今から3500年前頃と推定し、アファナシェヴォ文化と関連するより古いWSH祖先系統とは異なる、と分かりました(Jeong et al., 2020)。この時期は、モンゴル草原地帯における輸送動物としてのウマの使用の出現と一致しており、ウマの搾乳の最古級の既知の出現が含まれます。シンタシュタ文化の拡大と関連するウマは現代の家畜ウマの祖先で、この期間のウマの使用強化は、侵入してきた草原地帯牧畜民と関連しているかもしれません(Librado et al., 2021)。

 アルタイ_MLBA集団内の数個体は、それ以前のチェムルチェク文化個体群で現れる祖先系統と類似した、BMACと関連する追加の祖先の寄与を必要としました(Jeong et al., 2020)。モンゴルのMLBA人口集団の調査の興味深い側面は、アファナシェヴォ文化およびチェムルチェク文化人口集団で見られたEBA祖先系統特性の明らかな置換でしたが、これらEBA人口集団の運命により適切に取り組むには、より広い地域にまたがるMLBA人口集団の分析が必要でしょう。アルタイ_MLBA祖先系統は鉄器時代まで存続し、モンゴル北西部におけるその後のスキタイ・シベリアのサグリ・ウユク(Sagly/Uyuk)文化のBMACとともに見られます。イラン関連BMAC的祖先系統と混合したアルタイ_MLBAであるサグリ・ウユク文化集団の遺伝的特性は、他のスキタイ複合文化でも表されており、サヤン山脈の北側のタガール(Tagar)文化集団や西方のサカ(Saka)文化集団と類似しています(Jeong et al., 2020)。モンゴル西部における進化する祖先系統の痕跡は、少なくとも前期青銅器時代以来の草原地帯人口集団とモンゴル西部の住民との間の進行中の交流と移動性を証明しています。

 第三の特定された祖先系統であるウランズーク_石板墓は、モンゴルの中央部と東部と南東部に限定されていました。モンゴル中央部および西部の同時代の集団のように、ウランズーク文化も牧畜経済を行なっていましたが、ウランズーク文化の埋葬はさらに西方とは異なっており、遺体は平らな意思で構成された長方形の構造にうつ伏せの姿勢で安置されていて、時には装飾のない立石で目立たれていました。ウランズーク文化の資料は後期青銅器時代ですが、金属の使用をほとんど示さず、おもに石器と土器で構成されています。ウランズーク文化の墓と関連するウランズーク_石板墓祖先系統は、平均75%のANAを含んでいる、と判断され、これはアムール川流域全体で見られる青銅器時代の前のモンゴル東部祖先系統と類似していますが、モンゴル北部のフブスグル_LBA祖先系統に由来する25%の構成要素があり、ウランズーク文化の1個体は63.5%のフブスグル_LBAを有しています。その後の石板文化のモンゴル中央部および東部の個体群もこの祖先系統を有しており、一部の個体はさらに高い割合のフブスグル_LBAを有しています(Lee et al., 2023)。


●匈奴と現在のモンゴル人の形成

 新石器時代から鉄器時代のモンゴル東部および西部に暮らしていた人口集団間の遺伝的分離は注目され、それは、顕著で、それはとくに、同じ遊牧が青銅器時代にまでさかのぼってモンゴル全体で行なわれており、西方起源の家畜動物が広範に使用されていたからです。この構造は、東方の人口集団への大規模で検出可能な遺伝的影響なしでの、西方から東方への経済的慣行の移行を示唆しています。この状態は、鉄器時代の匈奴期に変わります。遊牧騎乗の草原地帯文化である匈奴連合は、ユーラシア東方草原地帯の最初に歴史的に証明された帝国で、最終的にはモンゴル【現在のモンゴル国の領域】から現在のモンゴル南部やロシアやカザフスタンやキルギスタンや中国北西部に広がりました。

 60ヶ所の匈奴の埋葬が、2200年前頃から300年間ほどとなる、匈奴期の初期から末期まで遺伝学的に分析されました。モンゴル北部中央の一部の匈奴初期の個体群は、その祖先系統の大半がモンゴル西部のアルタイ地域の前期鉄器時代スキタイ複合体関連のサグリ・ウユク文化集団と類似した人口集団に由来し、追加の約8%のイランBMAC祖先系統と混合し、同じ地域の他の個体はサグリ・ウユク祖先系統とウランズーク_石板墓と類似した祖先系統の間で混合しており、他の個体は依然として混合していないウランズーク_石板墓祖先系統を有していました(Jeong et al., 2020)。モンゴル全域の前期鉄器時代祖先系統の混合した形態と混合していない形態を含んでいる初期匈奴に存在する異質性は、その後の匈奴期の個体群で増加し、追加の祖先要素があります。初期匈奴構成要素や、フブスグル_LBAなどMLBAにおいてモンゴルに存在した祖先系統を含むより広範な混合に加えて、後期匈奴にはサグリ・ウユク文化とは異なる別のWSHスキタイ関連文化、つまりアジア中央部の西方草原地帯に起源があるサルマティア人と関連する祖先系統も含まれていました。これらの結果は、青銅器時代に始まったモンゴルにおける西方草原地帯文化間の相互作用の持続を示しています。現代の漢人と近い、ANAから分離したアジア東部祖先系統も表されており、これは、軍事的紛争と外交関係保証のための婚姻同盟の利用の両方を含めて、漢帝国との相互作用の増加を反映しているかもしれません(Jeong et al., 2020)。

 漢王朝による最終的な匈奴打倒の後に、いくつかの連合がモンゴル高原で勢力を強めました。中世の突厥およびウイグル可汗国から得られたゲノム情報は、一貫して異質な人口集団の変化する人口動態を記録しています。サルマティア人よりもアラン人の方と近い追加の西方草原地帯祖先系統が数ヶ所のウイグルの埋葬に現れており、イラン関連のウランズーク_石板墓祖先系統は突厥期とウイグル期両方の個体群で見られます(Jeong et al., 2020)。最終的にユーラシア大陸の大半を包含した13および14世紀のモンゴル帝国は、モンゴルおよび近隣地域にまたがるいくつかの多様な遊牧民連合の統合から始まりました。モンゴル帝国期の61個体が分析され、この地域の先行する人口集団よりも大きな遺伝的異質性を示し、モンゴルの現在の人口集団との密接な連続性が論証されます。この特性はアジア東部との遺伝的類似性の増加や、モンゴル北部中央や西部地域のそれ以前の祖先系統に存在したANE関連構成要素の消滅によって特徴づけられます。全体的に、モンゴル帝国期の人口集団は3要素から構成されており、その大半はウランズーク_石板墓祖先系統によって表され、漢人関連構成要素およびアラン人と最も密接に一致するユーラシア西部構成要素が含まれます(Jeong et al., 2020)。モンゴル帝国期の個体群を現在の人口集団と比較すると、過半数が現在のモンゴル語族話者と密接に関連する、と示されました。これらの分析は、匈奴など遊牧民連合の台頭で始まったモンゴル高原全域での遺伝的異質化の過程が、モンゴル帝国期までに現在のモンゴル人集団の初期の特性にどのようにつながったのか、示しています。



◎東トルキスタン

 アルタイ山脈を横断してモンゴルの西方には、現在の中国北西部の東トルキスタン地域があります。東トルキスタンは、山脈にほぼ囲まれた2ヶ所の大きな半乾燥盆地で構成されています。南方のタリム盆地は南でチベット高原の崑崙山脈、西でパミール山脈、北で天山山脈とせっしており、タクラマカン砂漠を含んでいます。その中心部は恒久的な居住には乾燥しすぎていますが、周囲の山々から流れ込む川を水源とするオアシスが、タリム盆地の周辺で居住可能な地域と農地を提供します。北方のより穏やかなジュンガル盆地は天山山脈とアルタイ山脈の間に位置し、北西にはカザフスタンのタルバガタイ山脈があります。タルバガタイ山脈とアルタイ山脈の間には、ジュンガル門として知られる地域が、西方草原地帯に開けています。天山山脈の北側には、イリ川がカザフスタンへと北西に流れています。イリ川流域の肥沃な平原沿いの考古学的遺跡は、旧石器時代にさかのぼる疎らなヒトの居住を記録してきましたが、青銅器時代以降にはより広範に居住されてきました。東トルキスタンには、ユーラシア西部から西方草原地帯を通るか、天山山脈越えのいくつかの峠を通って、ジュンガル盆地に行きやすくなります。アジア中央部および南部からは、テレク峠がパミール・アライ山脈を横断してタリム盆地西部へと至ります。甘粛省につながる狭い河西回廊は、東トルキスタンを東方と結ぶ主要な交易路で、モンゴルにはアルタイ山脈を通る峠によって到達できます。まとめると、これらの経路はユーラシア東西間の文化的に重要な着想や物質が好感されたIAMC(Inner Asian Mountain Corridor、内陸アジア山地回廊)を構成しています(図5)。以下は本論文の図5です。
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 ユーラシア東西間の出入口としての東トルキスタンの役割は、人口史の理解をとくに重要とします。ヒツジやヤギやウシなどの家畜動物やその生産物がアジア東部に4000年以上前に到来したのは、この地域、おそらくは河西回廊を通ってのことでした。アジア東部の雑穀などの農作物は西方では同時期に現在のカザフスタンに初めて出現し、コムギやオオムギなど西方の作物はアジア東部において最初に、青銅器時代牧畜民と関連して東トルキスタンとアルタイ地域に出現しました。東トルキスタンにおける来訪文化の存在のさらなる証拠は、トカラ語として知られている初期に分岐したインド・ヨーロッパ語族言語で書かれた3~8世紀の文書の発見に見ることができます。トカラ語祖語系統はインド・ヨーロッパ語族の西方の分枝と5000年前頃に分岐した、と推定されており、アファナシェヴォ文化と関連づけられてきました。インド・イラン語派もサカ人の到来とともに東トルキスタンで、およびタリム盆地西部にまで広がった鉄器時代のホータン王国(Kingdom of Khotan)で話されていました。

 東トルキスタンの最初期の住民の起源は、考古学者と人類学者によって何十年間にもわたって強い関心の対象となってきており、最古級の青銅器時代の埋葬、つまりタリム盆地のミイラに関して特別な関心が寄せられました。競合する2通りの仮説はともに二層起源を提案し、タリム盆地人口集団の起源は、その主要層が、アファナシェヴォ文化もしくはチェムルチェク文化と関連する集団など青銅器時代草原地帯牧畜民か、あるいはパミール山脈を横断するアジア中央部のアム・ダリヤ川周辺に集中しているBMAC農耕民で構成される、と説明されてきました。アンドロノヴォ文化関連のMLBA牧畜民からの第二の影響が、両仮説で提唱されました。草原地帯起源は自然人類学的データと文化的人工遺物と埋葬慣行で裏づけられ、トカラ人の到来との関連も提供するかもしれませんが、農耕慣行と織物や麻黄の儀式使用はBMAC関連起源を裏づけます。最近の古ゲノム研究によって、証拠にいくらかの明確さがもたらされてきました。


●タリム盆地のミイラ

 青銅器時代と鉄器時代の個体群の自然にミイラ化した遺骸を含む、タリム盆地周辺の多くの埋葬地が発掘されてきました。これらの遺跡の年代は4100~2000年前頃で、より古い埋葬はこの地域における完新世最初期の考古学的文化に位置づけられます。これらのミイラではユーラシア東西両方の身体的特徴が報告されてきており、発酵チーズや毛織物の衣類などの関連する副葬品はユーラシア西方草原地帯起源を示唆しています。ユーラシア東西両方となる西方のコムギと東方の雑穀の栽培穀物が、墓の一部から発見されてきました。これらの埋葬のユーラシア西部的特徴を考えて、これらの人口集団はこの地域にトカラ語をもたらしたインド・ヨーロッパ語族話者集団だったかもしれない、と提案されてきました。これらのミイラのうち最古級は、タリム盆地のロプノール(Lop Nur)地域東部の小河(Xiaohe)の近くで発見されました。この遺跡の被葬者のミトコンドリアおよびY染色体の分析は、HやU5やKなどのユーラシア西部mtHg系統と、DやC4などユーラシア東部mtHg系統の混合を特定してきており、これらはシベリア南部で見られるmtHgと類似しており、ユーラシア東西両方の人類が青銅器時代にタリム盆地に居住していた、と論証されます。より新しい層の個体群も、おそらくBMAC 関連祖先系統のより遅い到来を表しているかもしれない、U7やM5などアジア南部および中央部でより一般的に見られるmtHgを有しています。MLBAのアンドロノヴォ西方草原地帯文化と関連するYHg-R1a1aは、数人の男性で見つかりました。

 まとめると、これらの結果は、タリム盆地のミイラのユーラシア東西の起源の最初の遺伝的確証でした。タリム盆地の墓地被葬者の、東方では小河遺跡や古墓溝(Gumugou)遺跡、南方では克里雅北方(Beifang)遺跡のゲノム解析は、タリム盆地のミイラの祖先の起源、およびこれらの人口集団が経時的にどのように変化したのかについて、より詳細な状況を提供しました。以前のミトコンドリアおよびY染色体の調査結果とは対照的に、東方の遺跡群の最古級の層の個体群はユーラシア西方草原地帯祖先系統を欠いていたものの、代わりにその祖先系統の72%はシベリアのエニセイ川の16000年前頃となる中石器時代のアフォントヴァ・ゴラ(Afontova Gora)遺跡の1個体(アフォントヴァ・ゴラ3号)と密接に関連するANE構成要素、に富んでおり、残りの祖先系統はバイカル湖地域の前期青銅器時代祖先系統と類似していました。この祖先特性はタリム_EMBA1として知られており、西方からの集団の到来前のこの地域に存在した祖先系統を表していた、と考えられています。さらに南方の北方遺跡の被葬者は類似の祖先系統特性を有していますが、わずかにバイカル_EBA祖先系統がより多くなっています。

 タリム_EMBA1祖先系統の特定によって、バイカル_EBA祖先系統がANA祖先系統75%とタリム_EMBA1祖先系統25%の混合として代替的に説明できるようになりました。さらに、タリム祖先系統は低水準の多様性で比較的均質であり、人口ボトルネック(瓶首効果)の可能性が示され、長期にわたって遺伝的には孤立してきた、と分かり、ANA祖先系統とバイカル_EBA祖先系統の混合の推定年代は9000年前頃でした(Zhang F et al., 2021)。数個体のミイラのプロテオーム(タンパク質の総体)解析は、この人口集団における乳製品摂取の採用を確証しましたが、モンゴルの他の牧畜民と同様ではあるものの、この人口集団にはラクターゼ(Lactase、略してLCT、乳糖分解酵素)持続をもたらすアレル多様体が欠けていました(Zhang F et al., 2021)。これは、遺伝的交換とは関係のない、タリム盆地における牧畜の初期の採用と他の西方からの影響も示唆しています。EMBAタリム盆地人口集団が話していた言語は不明ですが、これらの結果は、少なくともアファナシェヴォ文化関連集団との相互作用の前には、トカラ語がこの時期にタリム盆地人口集団で話されていた、との見解に疑問を呈します。


●青銅器時代の東トルキスタン

 ユーラシア西部および他の祖先系統がタリム盆地人口集団に到来した時期と過程は、より広範な東トルキスタン地域全体の青銅器時代人口集団のより大規模な古代ゲノム研究によって対処されました。東トルキスタンの北部と西部と南部の6ヶ所の遺跡の20個体のゲノム解析は、東トルキスタンの北部と北西部において青銅器時代にさまざまな程度ですでに混合していた、4祖先系統を特定しました。イリ川流域とアルタイ山脈に近い東トルキスタン北部では、主要な青銅器時代祖先系統は、ANE(タリム_EMBA1と類似)とアファナシェヴォ文化関連祖先系統で、新石器時代バイカル湖地域人口集団によってモデル化される低い割合のアジア東部ANA祖先系統と、稀なアジア中央部BMAC関連構成要素があります(Kumar et al., 2022)。これらの個体のほとんどは相互に高い類似性を有しており、ある程度の局所的均一性を示しますが、全体的な祖先系統構成要素は人口集団間と個体間でひじょうに動的で、外れ値の数個体は相対的に混合していませんでした。

 アファナシェヴォ文化関連祖先系統は、東トルキスタンにおけるインド・ヨーロッパ語族西方草原地帯牧畜民の定着を論証し、アファナシェヴォ文化関連祖先系統を有する個体の67%で見られるアファナシェヴォ文化関連のYHg-R1b1aの存在によって、さらに裏づけられました。東トルキスタン北部の松樹溝(Songshugou)遺跡の5000年前頃の1個体は92%のアジア東部関連祖先系統を有する、と分かり、モンゴルのANA祖先系統とよりも、バイカル湖地域の同時代のシャマンカ(Shamanka)遺跡で見られる祖先系統の方と類似しており、この個体の祖先系統の残りはタリム_EMBA1です。チェムルチェク文化関連の2個体はBMAC構成要素を含んでおり、上述のモンゴルのチェムルチェク文化人口集団と類似した遺伝的特性を示し、チェムルチェク文化におけるアルタイ山脈を横切る遺伝的連続性が確証されます。このBMAC構成要素の統合年代は5300~4600年前頃と推定されており、6400年前頃となる東トルキスタン人口集団におけるANA祖先系統の混合年代より新しくなります。このBMAC構成要素は、アファナシェヴォ文化関連祖先系統との混合について計算された4900~4600年前頃の混合年代とわずかに重なります。

 まとめると、これらの年代は、この地域におけるさまざまな祖先系統の相互作用の相対的順序に大まかな見解を提供できます。これらの推定混合年代をより正確に改良するには、より大きな人口集団の標本抽出が必要でしょうが、アファナシェヴォ文化集団との混合年代は、トカラ語の他のインド・ヨーロッパ語族言語との分岐時期に関する言語学的証拠を裏づけます(Kumar et al., 2022)。ジュンガル盆地周辺を中心にアファナシェヴォ文化と関連する5000年前頃の3ヶ所の遺跡から発見された5個体の別の研究(Zhang F et al., 2021)は、同様の遺伝的特性を示しており、祖先構成要素は、アファナシェヴォ文化関連が50~70%、タリム_EMBA1(ANE)が19~36%、バイカル_EBA(ANA)が9~21%です。その研究(Zhang F et al., 2021)では、この特性(ジュンガル_EBA)が、ジュンガル_EBAとタリム_EMBA1とBMACの混合としてのチェムルチェク文化関連祖先系統のモデル化にさらに使用できる、と分か、チェムルチェク文化人口集団の形成のより明確な状況が得られました。

 考古学的証拠は、少なくとも3000年前頃となるMLBA開始期までのタリム盆地におけるアンドロノヴォ文化およびシンタシュタ文化の出現を記録しており、東方フョードロヴォ(Eastern Fedorovo)異形と呼ばれ根こともあります。遺伝的に類似していますが、アンドロノヴォ文化および後続のシンタシュタWSH文化と関連する個体群は、それ以前のアファナシェヴォ文化関連WSH個体群とは、CWCのヨーロッパ農耕民との相互作用から派生した、と推測されてきた(Allentoft et al., 2015、Damgaard et al., 2018)、アナトリア半島農耕民祖先系統の存在によって区別できます。東トルキスタンの北部および北西部におけるMLBAへの移行はじっさい、アナトリア半島農耕民祖先系統の増加によって特徴づけられ、イリ川流域の1個体は、混合していないシンタシュタ祖先系統を有しています(Kumar et al., 2022)。天山山脈東部の拝格託別(Baigetuobie)遺跡の1個体に関する別のゲノム研究は、早ければ3600年前頃となる東トルキスタンにおけるアンドロノヴォ文化関連祖先系統を報告しています。考古学的データと組み合わせると、これらの結果がともに確証するのは、東トルキスタンへのアンドロノヴォ草原地帯文化のMLBA拡大がその始まり以降に、アンドロノヴォの物質の水平拡大ではなく、これらの文化と関連する人口集団の移動を伴っていた、ということです。

 したがって、完新世最初期の東トルキスタン人口集団の起源に関する問題は、有力な仮説よりも複雑になります。アジア中央部および南部の草原地帯に由来する祖先系統や、シベリアに由来するアジア東部祖先系統を有する集団の存在は、青銅器時代の開始期に東トルキスタンですべて確立されていることが注目されます。BMAC構成要素の起源はアルタイ地域におけるチェムルチェク文化関連人口集団との接触で説明できますが、IAMC経路を通っての東トルキスタンへのこの祖先系統の到来は無視出来ません。驚くべきことに、タリム盆地の最古級のヒト遺骸はこれらの集団のどれにも属していないものの、深く分岐した、現在の人口集団では消滅した混合していない形態での、旧石器時代シベリアに由来するANE祖先系統の最新の生存保有者それ以前の基盤を表している、と分かりました(Raghavan et al., 2014)。これらの人々は、西方草原地帯およびアジア中央部の伝統由来の物質と家畜動物が採用された農耕牧畜文化を行なっており、その関連する祖先系統とともに、こうした伝統は東トルキスタン北部において、最終的な遺伝的交換が小河に到達するよりも少なくとも1000年以上前に活発でした。ジュンガル盆地周辺では、WSHおよびANA集団との混合が分かっているタリム_EMBA1祖先構成要素から、タリム_EMBA1はかつてより大きな領域を占めていた、と示唆されますが、ジュンガル盆地の青銅器時代の人々の人口史がより詳細に再構築できるには。それ以前、つまり青銅器時代の前の人口集団からのより多くの遺伝的情報が必要でしょう。


●鉄器時代と現在の人口集団

 モンゴルと同様に、鉄器時代の始まりには遊牧民の騎乗の拡大と関連する移動性増加が見られ、これはし周辺地域から東トルキスタンへの祖先系統の新たな流入によって特徴づけられます。アンドロノヴォ文化関連草原地帯MLBA祖先系統における継続的な増加とともに、アジア中央部のBMAC祖先系統および多様なアジア東部祖先系統の両方が観察されます。MLBA草原地帯祖先系統の拡大にも関わらず、アファナシェヴォ文化関連のEBA草原地帯祖先系統は依然としてこの地域に残っていました。ジュンガル盆地の鉄器時代の石人子溝(Shirenzigou)遺跡個体の分析では、住民はサカ文化祖先系統とアファナシェヴォ文化草原地帯祖先系統で構成され、アンドロノヴォ文化集団からの遺伝子流動を示唆するアナトリア半島農耕民構成要素の証拠はない、と分かりました。他の遺跡では、WSH祖先系統が、この期間に観察されるアファナシェヴォ文化関連のYHg-R1bおよびアンドロノヴォ文化関連のYHg-R1a1aの両方と共存していた、と分かりました。4ヶ所の遺跡の人口集団は、この二つの草原地帯祖先系統【アファナシェヴォ文化関連とアンドロノヴォ文化関連】間の混合と分かり、より新しく到来したアンドロノヴォ文化人口集団による、置換ではなく、既存のアファナシェヴォ文化関連の子孫との統合の事例を提示します(Kumar et al., 2022)。

 鉄器時代におけるBMAC祖先系統の増加は、より広範なスキタイ文化集団のインド・イラン語派話者部族で、カザフスタン草原地帯東部と天山山脈に紀元前千年紀に出現し、その後でタリム盆地に定住した、サカ文化の侵入してきた移住と関連づけられてきました。タリム盆地では、サカ連合はホータンの都市を中心とした大きな領域を、1006年にテュルク系カラ・ハン可汗国に負けるまで支配していました。天山山脈のサカ祖先系統は大まかに、シベリア南部のアジア東部祖先系統、および鉄器時代を通じて増加したかもしれないBMAC構成要素と関連するイラン祖先系統(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020)と混合した、おもにMLBA祖先系統としてモデル化されてきました(Gnecchi-Ruscone et al., 2021)。一部の個体では、アンダマン諸島人(オンゲ人)と関連する新たなアジア南部構成要素も現れ、おそらくは変化する人口動態およびIAMC経由でアジアの中央部と南部との間で拡大する接触を反映しています(Kumar et al., 2022)。

 アジア東部祖先系統の増加は、東トルキスタンとアジア東部との間のより多くの接触を示しているだけではなく、アジア東部祖先系統の起源も拡大しているようです。青銅器時代には存在していたシベリア南部とモンゴルのANA関連祖先系統は増加し続け、これは部分的には、アルタイ地域のスキタイ関連のパジリク(Pazyryk)文化の拡散に起因するかもしれません(Kumar et al., 2022)。さらに、匈奴や、黄河および現在の漢人祖先系統とより密接に関連する祖先系統が、出現し始めました。これらより新しい祖先系統は、匈奴が支配地域を確立しようとしたさいの、匈奴の西方への拡大を反映しています。河西回廊経由での秦および漢王朝との拡大する交易網および軍事的接触も、侵入してきた黄河関連祖先系統の供給源である可能性が高そうです(Allen et al., 2022)。

 O2a2bなどの新たなアジア東部のYHgは、鉄器時代に東トルキスタンの南部および東部で初めて出現します(Kumar et al., 2022)。東トルキスタンのその後の歴史時代の人口集団の特性は、先行する鉄器時代と密接に類似しており、サカ文化および草原地帯人口集団とほぼクラスタ化しますが(まとまりますが)、アジア東部もしくはBMAC関連祖先系統が増加した個体も見られます。これらの集団との人口連続性は、一部の東トルキスタン人口集団において依然として検出できます。鉄器時代東トルキスタンの祖先構成要素は、ウイグルとアジア中央部の現代人の下マムで見られ、現在のウイグル人集団との類似性増加に対応して、鉄器時代個体群において草原地帯祖先系統が増加しています(Kumar et al., 2022)。おそらくこれまでに研究された人口統計学的に最も複雑なアジア東部地域である東トルキスタンの、古ゲノム解析によって示された人口集団と文化の相互作用の複雑さは、文化的な物質と着想の両方が、ユーラシア大陸の東西の境界を移動するさいに流れた、人口移動と交流網に関する以前の見解への貴重な洞察を提供してきました。しかし、この地域が青銅器時代の前に果たしたかもしれない役割に関して依然として謎があるものの、この期間のヒト遺骸の少なさは、この地域の将来の研究をさらに困難にするでしょう。



◎日本列島

 日本列島におけるヒトの活動の最古級の考古学的証拠は38000年前頃の旧石器時代までさかのぼり、最古級のヒト遺骸には沖縄島で発見された港川や山下の標本と、宮古島で発見されたピンザアブ(ヤギの洞穴)遺骸があり、その年代は32000~20000年前頃です。更新世を通じて、日本列島のさまざまな島が相互につながっており、本土ともいくつかの場所でつながっていました。最新の本土とのつながりは6万年前頃に北方のより浅い海峡から現れ、北宗谷海峡が海面上昇によっておそらく遅くとも12000年前頃には水没するまで、海道を樺太島(サハリン島)経由でプリモライ地域およびアムール川地域をつなげていました。日本列島の旧石器時代には舟が記録されてきており、これによってこの頃には海上経路によって南方からの日本の島々への到来を可能としたかもしれません。

 日本列島最古級の文化期である縄文文化は16000年前頃以前のある時点に出現し【縄文時代の開始をいつとするのかは議論があるでしょうが、早くても16000年前頃なので、それ以前の旧石器時代の方縄文時代より長いことになります】、世界で最古級の土器伝統の一つと関連しています。縄文時代は13000年以上にわたり【縄文時代の開始をいつと考えるかによって、もっと短くなる可能性もあります】、狩猟採集民と漁撈民の生計様式から、ある程度の局所的農耕を取り込んだ戦略の採用へと発展しました。縄文時代には次第に定住生活様式が発展し、竪穴住居が建設され、漁具や丸木舟が縄文時代の遺跡で発掘されてきたので、外洋での漁撈が行なわれていた、と推測されました。縄文時代は3000~2300年前頃に始まり、朝鮮半島からの無文文化関連の移民の到来と関連している、弥生文化と日本の新石器化への移行まで続きました。弥生時代には、沿岸部本土からの水田稲作と穀物農耕の大規模な導入や、社会構造と建築および土器様式の変化が見られました。弥生時代は日本列島へのトランスユーラシア語族言語の導入も示していた、と考えられています(Robbeets et al., 2021)。次の重要な文化的移行は古墳時代で、1700年前頃に始まり、中国および朝鮮半島からの文化と経済と社会の影響増加によって特徴づけられ、それらには仏教や中国の文字体系の導入が含まれていました。政治的な中央集権化と有力な支族の台頭も古墳時代に始まり、日本の皇室は539年の古墳時代末に確立しました【この見解は議論となりそうです】。


●縄文時代集団の起源

 日本列島の旧石器時代人口集団の起源には大きな関心が寄せられてきており、それは一方では、旧石器時代を通じての長い文化的連続性のためで、もう一方では、旧石器時代の遺骸と現在の本土【大陸部】アジア東部人および日本人との間の明らかな形態学的差異のためです。縄文時代人口集団ではある程度の形態学的多様性も特定されてきており、さまざまな人口集団の骨格と歯の特徴は、アジア南東部人(Matsumura et al., 2019)か、上部旧石器時代アジア人か、アジア北東部人か、北海道のアイヌおよび琉球諸島民の先住民集団と類似している、と分かりました。これとは対照的に、アジア東部本土人との多くの現在の日本人の類似性は、日本人集団の起源に関する二重モデルの提案につながりました。このモデルでは、旧石器時代の「縄文人」によって表される形態学的に異なる創始者人口集団が、アイヌおよび琉球諸島民の祖先かもしれず、後に新石器時代に朝鮮半島から到来した集団と混合したことになります。

 縄文時代の人々の遺伝的起源を特定する初期の試みは、ミトコンドリアとY染色体と低網羅率のゲノム情報を用いました。これらの研究は縄文時代人口集団の独自性を確証し、チベット人やシベリア南部人やアジア南東部のアンダマン諸島関連のホアビニアン集団からのさまざまな影響を提案しました(McColl et al., 2018)。チベット人とのつながりは、アイヌの多くに存在する深く分岐したYHg-D1a2a(M55)の存在に基づいて主張されており(Watanabe et al., 2019)、チベット人では高頻度で見られる稀なYHg-D1(M174)の下位系統です。22000~20000年前頃の系統であるN9bなど、北海道と本州の縄文文化関連個体群において支配的で、シベリア南部人でも見られるものの、現在の日本人や他のアジア東部人集団では稀なmtHgに依拠した、シベリア南部からの遺伝子流動が提案されました。追加の古代縄文時代個体群からのより高い網羅率の古代ゲノムDNAによって、いくらかの明確性がこれら初期の調査結果にもたらされました。共有される稀なYHgのつながりにも関わらず、特別なゲノムの類似性は「縄文人」と古代もしくは現代のチベット人との間では検出されませんでした(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。ホアビニアン集団からの特定の遺伝子流動も見つかりませんでしたが(Cooke et al., 2021、Gakuhari et al., 2020、Yang et al., 2020)、ある集団が、ホアビニアン集団でも見られるアンダマン諸島人(オンゲ人)と関連する構成要素を44%含むとして、「縄文人」をモデル化できたことに要注意です(Wang CC et al., 2021)。

 この深く分岐した祖先系統の痕跡はアジア南東部沿岸人口集団に沿って見つかってきたので、これはアジア東部の初期の沿岸移住経路での居住の残存だった、と提案されました(Wang T et al., 2021)。これらより高い解像度の分析は、「縄文人」と沿岸部集団との間で共有され、内陸部集団との間では共有されない遺伝的祖先系統の要素を、とくにシベリア沿岸部のオホーツク・プリモライ地域の人口集団などのシベリア東部や、台湾島のオーストロネシア人のアミ人(Ami)およびタイヤル人(Atayal)や、アジア東部南方沿岸人といった、アジア東部の南北両方の人口集団で特定しました(Gakuhari et al., 2020、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、Wang T et al., 2021)。これがアジア東部への初期の沿岸経路を示唆する深い祖先の流れをか、あるいは沿岸部人口集団間のより最近の相互作用か、おそらくはその両方を表しているのかどうか、まだ充分に調査されていません。さらなる謎は、縄文祖先系統と、シベリア北部の上部旧石器時代のヤナRHS個体によって表されるANS祖先系統との間のある程度の遺伝子流動を報告した研究に由来します(Cooke et al., 2021)。あり得る一つの説明は、「縄文人」の田園個体的な初期の祖先が北方移動経路を通ってシベリアに侵入した集団と相互作用した、というものですが、このつながりの可能性は、より深く理解するには、現時点で存在するよりも豊富なデータセットを必要とするでしょう。

 現時点での理解は、「縄文人」は基底部アジア東部系統から、田園個体関連およびオンゲ人関連系統の分岐後ではあるものの、アジアの北部および東部の集団とアメリカ大陸先住民に寄与しただろう集団の分離の前に、38000~25000年前頃の間に分離した独特なアジア東部系統を表している(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、というものです(図1)。「縄文人」は比較的孤立したままだったようですが、おそらく周期的に近隣の本土沿岸部集団と相互作用していました。同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)分析では、「縄文人」は人口瓶首効果を経てきており、比較的小さな人口規模を維持してきた、と推定されています。別の分析は、日本列島への最後の陸路の閉鎖と関連していたかもしれない、20000~15000年前頃とより新しい人口集団の分岐時期を提案しており(Cooke et al., 2021、Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、mtHgや縄文時代人口集団において高頻度で見られる深く分岐したmtHg-N1bおよびYHg-D1a2aの合着推定とより一致します(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)。

 日本列島の先住民族集団である北方の島々のアイヌおよび南方の琉球諸島の琉球人への「縄文人」の寄与も、現代人と古代人の遺伝学を用いて調べられてきました。人類学者は日本列島の両端に居住する二つの先住民集団をつなぐ共通起源を長く提案してきており、それは二重モデルの発達の基盤となってきました。これはアイヌと琉球人が緊密にともにクラスタ化し、続いて現在の日本人集団とクラスタ化することを見つけた、現代の人口集団のゲノム華夷ら期によって論証されました。アイヌおよび琉球人集団は両方とも本土起源からのより最近の混合を示しましたが、オーストロネシア人起源からの遺伝子流動は、新石器時代にさかのぼる南琉球諸島で観察されたオーストロネシア人の文化的影響にも関わらず、琉球人では最小限でした。最初の古代「縄文人」のゲノムが利用可能になり、「縄文人」とアイヌおよび琉球人との遺伝的連続性が確証され(Kanzawa-Kiriyama et al., 2017)、アイヌは東方からの追加の混合を示しましたが、シベリア中央部からの混合は示しませんでした(Adachi et al., 2018)。地理的に分散した現在の先住民集団をつなぐ共通の「縄文人」起源は、二重構造モデルへのゲノムの裏づけを提供します。日本列島で見つかった最古級の遺骸も縄文時代人口集団に属するのかどうかは、まだ確信的に判断されていません。最古級の「縄文人」のゲノムデータは現時点で9000年前頃にさかのぼり(Cooke et al., 2021)、より古いヒト遺骸はまだゲノム解析されていません。沖縄県の港川フィッシャー遺跡の2万年前頃の1個体のmtHgはMの絶滅系統に属しており、「縄文人」とアジア東部本土人のミトコンドリアゲノムの基底部に位置する系統発生的位置を占めており、正確な祖先の割り当てを混乱させています(Mizuno et al., 2021)。日本列島全域で発見されている上部旧石器時代遺跡からのゲノムデータの回収の成功が、初期「縄文人」の起源と日本列島への移住により多くの明確さをもたらすでしょう。


●現代日本人集団の三重起源

 縄文時代と弥生時代と古墳時代から得られた古代人のゲノムによって、現在の日本の人口構造の二重モデルの説明のより徹底した検証が可能となり、追加の第三層の最近の包摂がもたらされてきました。弥生時代のゲノムから、日本列島に水田稲作と穀物農耕をもたらした大規模な農耕慣行の拡大には、本土【大陸部】からのアジア北東部祖先系統とのかなりの量の混合が伴っていた、と証明されています。この本土祖先系統は黄河流域から拡散した黄河関連農耕民に由来するのではなく、代わりに、ほとんどのアレルを中期新石器時代~青銅器時代の西遼河雑穀農耕民と供している、と分かりました。古代バイカル湖およびシベリア東部人口集団との高い類似性は、これらの人口集団における高い割合のANA祖先系統によって説明でき、より多い黄河構成を含む西遼河農耕民は弥生時代集団とはほとんどアレルを共有していませんでした(Cooke et al., 2021)。これは西遼河地域からのあり得る移住時期の区間を狭め、それは、黄河祖先系統が西遼河において、青銅器時代に減少する前に新石器時代に増加したからです(Ning et al., 2020)。侵入してきた農耕民は、黄河祖先系統構成要素を少量含んでいる、中期新石器時代西遼河人口集団の子孫だった可能性が高そうです。この移住の起源と時期も、トランスユーラシア語族の拡大と関連する農耕とつながっている拡大を裏づけているので、弥生時代に日本語祖語が2300年前頃までに日本列島にもたらされた可能性は高そうです(Robbeets et al., 2021)。イネは西遼河では栽培されていませんでしたが、朝鮮半島南部から日本列島へと移住した人口集団は、無文(Mumun)土器文化に属していた、と推測されており、その起源は、共有されている土器様式の特徴に基づいて、遼河の南側の遼東地域の偏堡(Pianpu)文化と関連づけられました(Miyamoto., 2022、図6)。以下は本論文の図6です。
画像

 稲作農耕は以前に山東半島から遼東半島へと4500年前頃以後に広がり、遼東半島では水田稲作農耕が中期無文時代に広く採用されました。弥生時代の2個体のゲノムは、中期新石器時代西遼河祖先系統と縄文祖先系統のほぼ同様の混合量を含んでいましたが、分析された個体の骨格が典型的な弥生文化関連以外とゆりも「縄文人」の方と多くの形態学的類似性を示したことに要注意です(Cooke et al., 2021)。日本における縄文関連のYHgとmtHgの現在の存続を考えると、両人口集団【大陸由来の日本列島に新たに到来した集団と縄文時代以降の在来集団】間の弥生時代の接触は、他の島嶼部の農耕拡大、たとえば、既存の狩猟採集民のYHgがほぼ置換されたブリテン島で見られた事例(Brace et al., 2019)よりも、公平だったかもしれません。

 古墳時代のゲノムには、先行する弥生時代に存在した祖先系統が含まれますが、漢人として最適にモデル化される本土アジア東部祖先系統の構成要素が加わります。このより新しい構成要素は古墳時代のゲノムの約60%を占めており、古墳時代における中国と朝鮮半島と日本列島の拡大する経済的および政治的提携を伴う、新たな移民を表している可能性が高そうです(Cooke et al., 2021)。調べられた古墳時代の被葬者は同じ遺跡の個体群に属しており、古墳時代に知られていた鍵穴型の上流階層の墓【前方後円墳】とは関連していませんでした。追加の古墳時代のゲノムが、これらより新しいアジア東部からの移民が古墳時代の社会において果たした地位と役割を、より適切に説明できるかもしれません。古墳時代の個体群を説明するゲノム特性は、【本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする】日本列島「本土」の現在のゲノム特性を反映しており、それは、現在「本土」日本人が平均して70%の漢人関連祖先系統と10%の縄文関連祖先系統と残りのアジア東部北東人に由来する祖先系統でモデル化されてきたからです(Cooke et al., 2021)【現時点では、本論文の日本列島の人口史の理解には問題があり、本論文が参照した研究(Cooke et al., 2021)よりも古い山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡の弥生時代1個体で、すでに現代「本土」日本人集団や古墳時代個体群とさほど変わらない割合のアジア東部的構成要素が確認されており(Kim et al., 2025)、日本列島の人口史は、弥生時代にアジア北東部的構成要素が、古墳時代に新たにアジア東部的構成要素が到来した、といった想定よりもかなり複雑だった可能性が高そうです】。



◎朝鮮半島

 朝鮮半島の遺伝的歴史はまだ文献での報告の初期段階にあり、朝鮮半島を対象とした古代ゲノム研究はほとんど完了していません。最古級のヒトが発見された、平壌の東側の山岳地帯にある龍谷洞(Ryonggok Cave)遺跡では、4万年前頃の数個体が含まれていました。全体的に、古代型のヒトもしくは現生人類を含む報告された更新世の洞窟遺跡は10ヶ所未満で、遺伝学的分析は回収された資料の大半でまだ行なわれていません。アジア東部古代人のゲノム参照データと比較しての現在の韓国人のゲノム解析は、中国の一部や日本の人々と類似した、比較的均一なゲノム特性を示しており、アジア東部の南北の要素から構成されており(Kim et al., 2020)、新石器時代におけるイネと穀物の農耕民による西遼河地域から朝鮮半島への祖先系統の侵入を裏づけます(Robbeets et al., 2021、Wang T et al., 2021)。これまでに作られた全体像はおもに、西遼河祖先系統だけではない、混合していないアジア東部本土祖先系統か、13~95%の縄文祖先系統と混合したこの祖先系統を有している、朝鮮半島の南部沿岸の新石器時代の4個体および東部沿岸の1個体に由来します(Robbeets et al., 2021)。

 韓国の大成洞(Daesung-dong)遺跡の、1700~1500年前頃の上流階層の埋葬複合体1個体と、その近くのより低位の貝塚に埋葬された個体群から得られたゲノム結果は、過去の人口集団特性のいくらかの追加の情報を明らかにしています。これらの埋葬の年代は3~7世紀にかけて続いた文化的および政治的統一の時期である三国時代内に収まります。この8個体は二つの異なる祖先系統特性に分類でき、6個体がTK_1、2個体がTK_2です。これら8個体全員が縄文祖先系統を有しており、TK_1は7%、TK_2はさらに増加して33%の縄文構成要素を含んでおり、両者【TK_1とTK_2】の祖先の残りはアジア東部北東祖先系統に属します。中期新石器時代の韓国の数個体は、一部のTK_2個体の単一の供給源として機能でき、TK_1個体群の半分は現在の韓国人の単一の供給源としてモデル化でき、朝鮮半島における長い遺伝的連続性が示されます。被葬者の表現型検定では、近視感受性の高い事例が見つかり、これは一部の現在の韓国人集団でまだ見られます(Wang R, and Wang CC., 2022)。

 これらの分析は、過去の韓国人集団は現在より異質だったことを明らかにしており、新石器時代の朝鮮半島で特定された高水準の縄文祖先系統が歴史時代に至るまで存在していた、と論証されました。古代「縄文人」のデータと組み合わせられた現在の韓国人から得られた多様な現代人のゲノムを用いての別の分析は、平均5%の縄文祖先系統が韓国人において依然として存在することを特定しました(Adachi et al., 2021)。中国北東部供給源からのその後もしくは継続的な移住が、縄文祖先系統の割合の希釈を説明できるかもしれません。朝鮮半島に存在する縄文祖先系統の供給源は特定されておらず、それが日本列島からの移住、もしくは新石器時代の前に朝鮮半島に存在したかもしれない在来祖先系統を表しているのかどうか、まだ不明です。朝鮮半島の縄文祖先系統が日本列島から到来したのならば、それが弥生時代の相互作用にさかのぼるのか、それ以前に出現したのか、複数の事象を含んでいるのかどうかも、明らかではありません。



◎まとめ

 前項で示された、アジア東部北東の最初の移住とその後の数千年にわたる人口移動両方に関する新発見の認識は、以前には未知だった先史時代の側面を解明する、古代DNA研究の強みの完全な証明です。短期間で、この地域で研究に従事する古ゲノム研究者は、先史時代アジア東部の知識を、ヨーロッパなどより長く研究されてきた地域ですでに確立している知識に近づけました。これらの調査結果は、過去の人口集団および人口統計学的移動を論じるだけではなく、言語の拡散や文化的交流網や気候変化へのヒトの対応や進化的適応の説明にも役立ちます。古代ゲノムの証拠は、背新時代の事象の目撃者を提供します。古代の個体群の祖先系統と混合を特徴づけることによって、消滅してしまったため、現在の人口集団では見えないものも含めて、ヒト系統の過去の移動と相互作用をさかのぼって調べることができます。これによって、「どこで?」および「いつ?」ではなく、「誰が?」、どの程度という、直接的な回答が長く逃げてきた古人類学と骨学と考古学の解釈について、問題への信頼できる返答を提供できるようになります。

 新たな説では、ほとんどのアジア東部人口集団は主要な祖先の系統であるESEAのアジア東部への最初の侵入にたどることができ、現時点でESEAの最も基底的な代表は中国北部の田園洞窟から発見された4万年前頃の個体のようです。ESEAの子孫系統は現在、内陸部から沿岸部までアジア東部の南北両方の大半を占めていますが、集合的な証拠から、アジア東への主要な侵入はチベット高原の南側だったかもしれない、と示唆されます。それはおもに、ESEの最も近い姉妹系統の中核人口集団が現在、アジア南東部とその周辺の島々を通って拡散しているからで、AASIはおもにアジア南部で、AAはオーストラレーシアとその周辺の島々で見つかっており、AAと関連するホアビニアン祖先系統はアジア南東部を占めるに至ります。それでも、チベット高原の北側を移動してきた現生人類集団とユーラシア西部から分岐した系統の子孫に由来する一部の祖先系統が、アジア東部人口集団内で混合するようになったことは明らかです。シベリアのANSとANEの両祖先系統は、アジア東部北東人口集団へと進入し、その後の人口移動によってより広く拡大しました。このユーラシア西部祖先系統はモンゴルと東トルキスタンやチベット高原の一部では頻繁に見られますが、アジア東部のほとんどの地域では集中するようにはなりませんでした。

 ESEA祖先系統は次に明確な初期の分枝へと分離し、縄文祖先系統は日本列島で見られ、未知の起源の深く分岐したチベット祖先系統があり、両者とも源田の子孫で混合して見つけることができます。現在の人口集団ではもう見られない、広西チワン族自治区隆林県の別の深く分岐した系統の特徴づけから、古ゲノム解析でのみ検出できる追加の深く分岐したヒト系統が発展したかもしれない、と示唆されます。アジア東部本土内では、ESEA祖先系統は南北の系統へと発展し、それは、14000年前頃までにアムール川地域に出現したANA祖先系統とは異なる北方のnEAと、南部沿岸地域の古代福建祖先系統(sEA)と、南方内陸部の古代広西です。これら本土系統間のある程度の混合は、前期新石器時代に始まる黄河流域雑穀農耕民のチベット高原や西遼河流域や遼東半島への拡大の前に、すでに明らからになっていました。

 ESEA系統はアジア東部を越えても出現します。ESEAのANA系統とANS系統の混合特性であるAPS祖先系統の残存は、古代シベリア人口集団と現在のアメリカ大陸先住民人口集団の両方で見られ、LGMにさかのぼるANA祖先系統も含んでいます。多くの現在のシベリア人は新シベリア祖先系統に由来し、これはおもにANA祖先系統で、APS祖先系統と混合しています(Sikora et al., 2019)。オーストロネシア人の拡大は、ESEA祖先系統をアフリカ南東部沿岸のマダガスカル島から遠くイースター島としても知られているラパ・ヌイ(Rapa Nui)のポリネシアまで、世界の島々に広範にもたらしました(Ioannidis et al., 2020)。今では、オーストロネシア人の遺伝的起源は中国の南部沿岸で見つかるかもしれません。トランスユーラシア語族とシナ・チベット語族両方の起源と拡散も、アジア東部から得られた古代ゲノム結果のため、より明確に理解されています。トランスユーラシア語族はANA人口集団内のアジア東部北東に起源があるかもしれず、新石器時代に西遼河地域から北方と東方へ、つまりそれぞれ、アルタイ諸語祖語を形成する東方草原地帯と、日本語と朝鮮語の祖語を生み出した遼東半島です。日本語祖語はその後、朝鮮半島南部からの稲作農耕民の拡大とともに弥生時代の開始時に日本列島に到来した、と考えられています。シナ・チベット語族の拡散は、黄河流域からアジア東部を横断しての、および西方へはチベット高原への雑穀農耕民の拡大に伴った、と見ることができます。

 これらの人口モデルは言語学と考古学と遺伝学の証拠の現時点での理解に基づいており、ほぼ確実にアジア東部の人口史を過剰に単純化しており、新たな発見が明らかになるにつれて、発展し、適応し続けます。いくつかの大きな問題が残っており、その答えは本論文の解釈誤りを曝し、新たな問題をもたらすことは確実です。現在のモデルに欠けている一つの大きな要素は、アジア東部の植民の経路のより正確な理解です。一部の証拠は沿岸部と内陸部両方の経路を示唆しており、両経路はオンゲ人もしくは縄文時代人口集団と関連する沿岸部人口集団に沿って深く分岐した祖先系統の共通の痕跡を残しているかもしれませんが、これらの兆候の起源もしくは時期に関する一致は、まだ合意には達していません。広西チワン族自治区の隆林県もしくはタリム盆地のタリム_EMBAで発見された祖先系統など、失われた深く分岐した「亡霊」祖先系統【最近の研究(Dai et al., 2022)では、現在の高地タジク人集団はタリム_EMBA1からも小さいながら遺伝的影響を受けている、と推定されています】の特定は、その後の子孫人口集団をより正確に特徴づけるために必要なので、過去の遺伝的景観の隠れた場所のより詳細な目録作成のために重要な研究を行なわねばなりません。重要な事例は、チベット高原の中核チベット祖先系統の供給源と関連する人々の特定でしょう。これら深い分枝の分離時期により近い上部旧石器時代人口集団のより密な地図は、たとえば、「縄文人」の起源の背後にある要因や、ANSとの「縄文人」祖先系統の報告された関係のより深い理解につながるでしょう。同じことは、最初期のタリム盆地とホアビニアンの祖先系統にも言えます。LGM末にさかのぼる本土のゲノムは、アジア東部人の遺伝学で明らかになった初期の南北の区分の過程のより深い理解に役立つことができます。これは、LGMに続いて、北方に移動するにつれて、単純新たな集団がより遺伝的孤立するようになったので確立した、単純な距離による孤立モデルに従っているのでしょうか?あるいは、より複雑な移動が根底にあるのでしょうか?

 アジア東部人口集団のこの調査では、長江流域の初期稲作農耕民に関する一つの大きな間隙が目立っています。先行するイネの収穫慣行から発達した農耕社会の確立は、年代と影響において黄河に匹敵する、と考えられていますが、これまで、この過程の背後にある人口集団を理解するために利用可能なデータが著しく不足しています。長江下流にきょじゅうしていた新石器時代前の集団の特定も、祖型オーストロネシア人の本土の起源の調査について、新たな対象を提供できるかもしれません。新石器時代前の遺伝的情報は、東トルキスタンとチベット高原でも欠けています。東トルキスタンでは、この遺伝的情報はタリム_EMBA祖先系統のANE祖先の到来の時間枠を提供でき、特定のゲノム特性に至る遺伝的孤立の期間にどこにいたのか、説明できるかもしれません。チベット高原のいくつかのLGM前の考古学的遺跡を残した集団の特徴づけは、そうした困難な高度と気候に直面したさいの現生人類の適応に関する本論文の見解への洞察を可能とするかもしれません。同じ地域の古代型のヒトのゲノムは、高地適応したデニソワ人の範囲と人口構造に関する重要な問題に答えることができ、おそらくは遺伝子移入されたEPAS1アレルの供給源人口集団をより正確に特定できるかもしれません。

 アジア東部の人口史の調査は明らかに、調査すべき広い地域がありますが、すでに得られた豊富な結果を考えると、アジア東部古代人のゲノミクスはもはや、初期段階の分野とみなすことはできません。技術的進歩の開発は、将来の研究の速度と範囲を改善し、困難な標本と地域からの遺伝的情報の回収の改善が必要とされるでしょう。古代プロテオミクスや古代口腔微生物叢や堆積物の遺伝学的分析を含めて、古代分子研究の新たな方法も重要な役割を果たすでしょう。ショットガンもしくは全ゲノム捕獲によって回収された新規および既存の資料のより高い網羅率も、微細規模の人口統計学的構造や選択の改善されたモデルなど、捕獲パネルで一般的に用いられる選択されたSNPの限界を超えて抽出できる、情報の種類を増加させるでしょう。空白の一部を埋めようとする研究はすでに進行中で、これらの計画のうちいくつかは、より高度な手法を組み込むに違いありません。更新世アジア東部人のゲノムの最初の配列決定からわずか10年で、アジア東部の古代ゲノム研究の活発化は、アジア東部のヒトの歴史の理解の発展に多量の情報を追加してきました。研究者の継続的な集中が、次の10年間になおも驚きと挑戦をもたらす、と保証するでしょう。



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