人類進化史における少ない情報からの推測と前提化

 2023年10月3日に当ブログで取り上げた、ユーラシア西部における後期更新世人類の進化を再検討した研究(関連記事)では、少ない証拠からの安易な推測、さらにはその推測(仮定)の前提化(事実化)が厳しく批判されており、私も多々反省させられましたが、私の見識では、それ以降もつい、安易な推測とその事実化に気づかず陥ってしまったことは少なくなかったでしょう。正直なところ、私の能力ではこの問題を克服することはほぼ無理なので、せめて具体的な問題を取り上げることによってできるだけ自覚的になろう、と考えており、今回はその一部を短くまとめます。

 最近Twitterにて投稿しましたが、「縄文人」というか縄文時代の日本列島の人類集団が日本列島外にどこまで広がり、遺伝的痕跡を残したのかは、難しい問題のように思います。この問題は2023年6月11日のブログ記事でも取り上げましたが、具体的な事例として改めて以下に再編して引用します。ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団のゲノムは、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化され、朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0~95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます。新石器時代の朝鮮半島では「縄文土器」が発見されているので、「縄文人」が朝鮮半島にわたって遺伝的痕跡を残した、と考えるのは妥当かもしれません。

 一方で、ボイスマン遺跡の中期新石器時代集団のゲノムは、「縄文人」からの直接的な遺伝的影響ではなく、「縄文人」と主要な祖先系統の一部を比較的近い過去で共有していることで説明できる、とのモデルもあります。ある古代人もしくは現代人A集団のゲノムの一定の割合が、それ以前の古代人B集団と関連する祖先系統でモデル化できるからといって、B集団がA集団の直接的祖先であることを直ちに証明するわけではありません。他の事例では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムは80%以上の西遼河地域の夏家店上層文化集団の祖先系統でモデル化できますが、もちろん、弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先集団が夏家店上層文化集団とは限りません。私は、現代日本人のゲノムの主要な祖先系統は、西遼河地域もしくはその近隣地域に紀元前2000年頃に存在した、まだ遺伝学的に特定されていない、遺伝的にも(言語も含めて)文化的にも「縄文人」とは大きく異なる人類集団に由来する可能性が高いだろう、と考えていますが、もちろんこれは単なる推測(仮定)にすぎず、この推測を前提化(事実化)することは、少なくとも現時点では無理筋です。

 ただ、ボイスマン遺跡の6300年前頃の外れ値1個体と、ボイスマン遺跡の近くのレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)遺跡の7000年前頃の1個体のゲノムは、30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。さらに、韓国の欲知島(Yokchido)遺跡の後期新石器時代1個体は、95%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。これらの3個体から、「縄文人」が新石器時代のユーラシア東部沿岸に拡散して遺伝的痕跡を残した、と想定することには妥当性があり、とくに欲知島遺跡の後期新石器時代1個体は、「縄文人」の朝鮮半島南岸への拡散を想定しないと説明しにくいかもしれません。しかし、ボイスマン遺跡の6300年前頃の外れ値1個体とレタチャヤ・ミシュ遺跡の7000年前頃の1個体については、「縄文人」からの直接的な遺伝的影響を想定せずに説明できる可能性も考えられます。

 ただ、朝鮮半島に「縄文人」が日本列島から拡散した可能性は高そうではあるものの、その考古学的証拠とされる「縄文土器」の分布は朝鮮半島南岸に限られており、「縄文土器」の割合が0.1%程度にすぎないことを考えると、「縄文文化」や「縄文人」集団が朝鮮半島南岸に定着したと言えるのか、はなはだ疑わしく、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との間には対馬海峡に明確な文化的境界があり、おそらくは言語も大きく異なっていたのでしょう。その意味で、朝鮮半島南岸の中期新石器時代までの、現代日本人集団とさほど変わらない割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体群が、じっさいに「縄文人」から直接的な遺伝的影響を受けたとは、まだ断定できないように思います。考古学でも、縄文時代の日本列島と他地域との「交流」について、一時期過大評価されていたことが指摘されており、縄文時代の日本列島は全体的に閉鎖的傾向が強かった、と考えるのが妥当なところだと思います。欲知島遺跡の後期新石器時代1個体をどう解釈するのかは難しいところですが、そもそも、この個体がその頃の朝鮮半島南岸の人類集団の一般的な遺伝的構成を表しているのかも不明で、研究の進展を俟たねばならないでしょう。もちろん、「縄文人」が現在のロシア極東沿岸にまで拡散し、遺伝的痕跡を残した、との想定も、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島について私が述べてきたことも推測(仮説)にすぎず、この推測を前提化(事実化)することには慎重であるべきでしょう。

 少ない証拠からの安易な推測、さらにはその推測(仮定)の前提化(関連記事)になりかねなかった事例としてもう一つ思い浮かぶのは、4万年前頃の北京近郊の人類1個体と35000年前頃の人類1個体の遺伝的類似性の解釈です。北京の南西56kmにある田園洞窟(Tianyuan Cave)では4万年前頃の1個体(田園洞個体)のゲノムが解析されており、ベルギーのゴイエ(Goyet)遺跡のオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)と関連する35000年前頃のゴイエQ116-1個体は、2017年の研究(関連記事)で、他のユーラシア西部の人類よりも田園洞個体と多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と示されました。単純に考えると、40000~35000年前頃にアジア東部北方の集団がヨーロッパにまで東進し、遺伝的影響を残したことになります。2021年のY染色体の研究(関連記事)でも、後期更新世のユーラシアにおける東方から西方への大規模な人口移動の可能性が示唆されており、それも踏まえて、上部旧石器時代以降のヨーロッパの人類集団の主要な祖先集団(の少なくとも一部)は、後期更新世のアジア東部もしくは南東部に起源があったのではないか、との見解をネット上で見かけた記憶もあります。

 しかし、この問題はその後、古代ゲノム研究の進展によって解明がかなり進んでいます。2021年の研究(関連記事)では、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見されたIUP(Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器)と関連する人類集団が遺伝的には、現代人ではヨーロッパ集団よりもアジア東部集団の方と類似している、と示されました。さらにその後、ヨーロッパでは新たにゲノムが解析された上部旧石器時代の個体数は増えていき、2023年の研究(関連記事)では、このバチョキロ洞窟IUP集団と関連する祖先系統が、ゴイエQ116-1個体だけではなく、中部旧石器時代までヨーロッパの一部の狩猟採集民集団で明確に特定されました。その後の新石器時代におけるアナトリア半島起源の農耕民のヨーロッパへの拡大と、後期新石器時代~青銅器時代にかけての、ユーラシア草原地帯からヨーロッパへの大規模な人口移動によって、現代ヨーロッパ人のゲノムでは、チョキロ洞窟IUP集団と関連する祖先系統がほぼ検出されないまでに希釈されたのでしょう。つまり、ベルギーで発見された35000年前頃のゴイエQ116-1個体に見られる、北京近郊で発見された4万年前頃の田園洞個体との遺伝的類似性は、考古学的証拠とほぼまったく整合しないだろう、40000~35000年前頃のユーラシアにおける東方から西方への大規模な人口移動を想定せずとも、じゅうぶん説明可能となり、おそらくそうした大規模な人口移動はなかったのでしょう。

 こうした人類集団の移動と起源の問題については、古代ゲノム研究の役割がますます重要になりつつあるように思います。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属と現生人類(Homo sapiens)との間のみならず、現生人類においても地域的な集団の絶滅や置換が珍しくなかったことは、古代ゲノム研究によって明らかになりつつあります(関連記事)。父系のY染色体や母系のミトコンドリアDNAの、ハプログループの分岐順および年代と現代人の頻度に基づいて、考古学や形質人類学の研究成果も参照しつつ人類集団の移動と起源を強引に論じようとすると、的外れな結果になる危険性は低くないでしょう。オセアニアなど更新世の古代ゲノムデータを取得しにくい地域は確かにありますが、古代ゲノム研究に基づかない人類集団の移動と起源に関する想定は、やはり前提化(事実化)せずに推測(仮定)に留めておかねばならない、と考えています。

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