ペルーのモチェ文化期被葬者の学際的分析
ペルーのモチェ(Moche)文化期被葬者の学際的な分析結果を報告した研究(Quilter et al., 2025)が公表されました。本論文は、ペルーの北部沿岸のチカマ渓谷(Chicama Valley)のエル・ブルホ(El Brujo)遺跡にある、ピラミッド型の彩色神殿であるワカ・カオ・ビエホ(Huaca Cao Viejo)に埋葬された個体の学際的分析を報告しており、それには遺伝的データとストロンチウム(Sr)や炭素(C)や窒素(N)や酸素(O)や鉛(Pb)の同位体データが含まれます。本論文は、モチェ文化の上流階層の埋葬集団内家族関係を初めて確証し、モチェ文化の社会組織と埋葬慣行と親族関係に基づく政治への新たな洞察を提供します。有名なセニョーラ・デ・カオ(Señora de Cao)個体とその関連個体群を含めて、埋葬集団から得られたゲノムおよび同位体データを使い、少なくとも4世代にわたる家系図が再構築され、親族関係がモチェ文化の上流階層の政治および儀式活動で中心的役割を果たした、と論証されました。主要な埋葬と密接に関連する生贄とされた学童期【6~7歳から12~13歳頃】個体群の調査結果は、以前には記録されていなかった儀礼的生贄の形態を示唆しており、モチェ文化の儀礼的慣行の複雑さを強調します。本論文は、親族関係と地位と儀式との間の相互作用を明らかにすることによって、古代アンデス社会の理解に寄与します。なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。
●要約
モチェ考古学的文化は4~10世紀にペルーの北部海岸沿いで繁栄し、政治および宗教的上流階層が支配する複雑な社会階層によって特徴づけられました。依然の考古学的証拠では、親族関係はモチェ社会内における政治的権威の維持において鍵となる要素だった、と示唆されています。この仮説を検証するため、考古学と遺伝学と同位体の手法が適用され、ペルーのチカマ渓谷にあるピラミッド型の彩色神殿であるワカ・カオ・ビエホにともに埋葬された、有名なセニョーラ・デ・カオ(500年頃)を含めて、6個体間の家族関係が調べられました。本論文の調査結果から、この6個体は全員生物学的に親族関係にあり、親族関係の程度はさまざまだった、と明らかになります。セニョーラ・デ・カオは、姪の可能性が特定された生贄の学童期個体とともに埋葬され、近くの別の墓に、少なくとも1個体、あるいは2個体かもしれないキョウダイ、および祖父母の1個体が埋葬されました。男性のキョウダイのうち1個体は、生贄の息子とともに死亡しました。同位体分析から、ほとんどの個体がトウモロコシおよび動物性タンパク質の豊富な食性で、子供期をチカマ渓谷かその近くで過ごしたのに対して、セニョーラ・デ・カオに共伴する生贄となった学童期の個体は食性と地理的起源が異なっていた、と示唆されます。これらの結果から、モチェ文化の上流階層は、親の故地から遠くで育った一部の個体も含めて家族の構成員とともに埋葬された、と論証されます。これは、親族関係が地位と権威の継承の中心だった、との仮説を裏づけます。さらに、死亡した上流階層に生贄とされた家族の構成員が共伴していることは、家族のつながりを強め、死者を祖先および神の両方と結びつける、儀礼的生贄の重要性を強調しています。
●研究史
モチェ考古学的文化は、ペルーの北部沿岸の9河川の流域を300~950年頃まで占めており(図1)、ワカ(huaca)と呼ばれる記念碑的なピラミッドのような神殿、灌漑網、精巧な大小の芸術(とくに金属と土器)を伴う、洗練された都市複合体を造りました。社会階層は戦争を遂行し、複雑な儀式で神に扮し、大きな日干しレンガのワカ(ピラミッド型の建造物)に死者を精巧に埋葬した、政治および宗教的上流階層によって支配されていました。河川流域内および河川流域間の政治の複雑さは、影響や同盟や巡礼を含めて、まだ完全には解明されていません。これらのおよび他の問題はおもに考古学を通じて調べられており、それは、モチェ文化が文献を残さなかったからです。以下は本論文の図1です。
本論文は、チカマ渓谷のエル・ブルホ考古学複合体の高さ30mの日干し煉瓦の神殿であるワカ・カオ・ビエホで、壁の囲い地で見つかったモチェ文化の埋葬集団から得られた、高解像度の遺伝学と考古学と同位体のデータを提示し、その目的は、家族関係および生活史の判断と、親族関係がモチェ社会で政治とどのように関連していたかもしれないのか、調べることです。2005年に発見され埋葬集団の年代は500年頃(95%の確率で440~540年)で、ワカの床から煉瓦を取り除いて作られた、4基の墓の6個体から構成されます。
●考古学的遺跡と墓の記載
ワカ・カオ・ビエホの囲い地で見つかった4基の墓のうち、3基は南側の壁の近くで見つかりました(図1)。各墓には成人(20~30歳)1個体(埋葬1・2・4、以下、B1・2・4)が、仰向けに伸びた状態で埋葬されていました(図1)。1個体(B1)は、華麗な外套と布と紐と葦の敷物に包まれていました。これらの下の、遺体の隣には、白色と赤色の羽の物体、羽で装飾された精巧な肌着、金属製円盤、彩色土器で包まれていました。B1の足元には、学童期の1個体の曲がった遺体(埋葬1生贄、以下B1s)があり、その首には紐が巻かれており、これはモチェ文化においてヒトの生贄の形式として知られている、絞殺による死を示唆しています。
B1の東側には、別の成人男性である埋葬2(B2)が同様に埋葬されており、仰向けで、頭が布で包まれ、少なくとも7層の織物で覆われ、金属の飾り板と最後の覆いとしての葦の敷物で装飾された長い外衣が含まれています。B1とB2は両方とも軟組織の部分的保存を示しますが、B1s(生贄)は白骨化していました。B1の西側には、別の仰向けの完全に白骨化した成人男性個体である埋葬4(B4)が、3ヶ所の埋葬のうち最も悪い保存状態でした。織物断片と葦の敷物と縄類のわずかな遺物が、その可視と足の周辺に保存されていました。埋葬1および2の墓が同じ深さ(1.2m)だったのに対して、B4の墓はより狭くて浅く(0.6m)、おそらくより湿度が高く、墓の遺骸と腐敗しやすい供え物の劣化が進みました。
4番目の墓は、過去一の壁に近い一列に並んだ他の3基の墓とは離れていました。この墓は、囲い地の南東角にある精巧に彩色された部屋の小さな踊り場の隣に位置していました。深さ3mに、一般的にセニョーラ・デ・カオと呼ばれている(埋葬3、以下B3)と呼ばれている成人女性1個体の保存状態良好な遺骸が、安置されており、20層以上の織物と、儀式用の投槍器や2個の大型の儀式用の棍棒や金色の王冠および鼻飾りや他のさまざまな品々を含めて供え物で包まれていました。男性の武器と鼻飾り、および女性の品々は、セニョーラ・デ・カオがひじょうに高い地位だったことを示唆しています。セニョーラ・デ・カオの包みの外側の層の隣には、首に縄を巻かれた生贄の学童期の女性(B3s)が横たわっていました。
セニョーラ・デ・カオの埋葬は、ペルーでこれまでに見つかった最良の保存状態の上流階層の埋葬として重要で、墓の建造と供物に多量のエネルギーが費やされたことは相対的な社会的地位を示唆する、という考古学的見解を用いると、セニョーラ・デ・カオは被葬者の中では最高位だったものの、神殿に埋葬されたことを考えると、主要な埋葬はすべて高位でした。さほど成功ではない副葬品と保存状態の悪い骨格とB4のより浅い墓から、この個体は当初他の場所に埋葬され、その後で既知のモチェ文化の慣行である、他者に伴っての中庭への移動があったかもしれない、と示唆されます。
囲い地に埋葬された全個体は、骨格と歯の病理学的状態の証拠について調べられました。死因は2個体のみで特定され、それは植物繊維の縄で絞殺された学童期個体(B1sとB3s)です。中庭に埋葬された個体群で観察された骨格と歯の病態は最小限で、ペルー北部沿岸の先史時代人口集団で一般的な軽微な状態だけでした。例外はB1で、複数の脚と腕の骨の骨幹の再形成された骨膜下の炎症をしめしており、これは、死亡時に治癒していたいくつかの一般的な炎症過程を示唆しています。
床の上に縁が突き出ているセニョーラ・デ・カオの墓の層序の上で見つかった土器の容器は、供物の受け取りとして機能していました。さらに、床の上で近くにあった焼けた供物の遺物は、埋葬後の儀式が死者への名誉のため行なわれたことを示唆しています。封印された墓の上の床の儀式的な火の年代は、埋葬集団全体の下限年代(660年頃)を提供し、死者の記憶が死後かなり長い時間維持されていたことを示唆します。しかし、最終的に囲い地は、ワカ・デ・カオ(Huaca de Cao)の規模を新たな建造物で拡大し続けた、その後のモチェ文化の日干し煉瓦の厚い層で埋められました。
●標本
6個体全員で1本鎖DNA配列決定ライブラリから低網羅率のゲノム(0.01~1.2倍)が配列決定され、ライブラリに保存されていた固有の内在性分子はほぼ使い尽くされました。DNAの保存は配列決定の試みの大きな制約でしたが、配列決定読み取り末端の損傷と、低い推定汚染率は、得られたデータが確実であることを示唆しています。ゲノムデータは成人4個体全員で形態学的な性別推定を確証し、生贄の亜成体2個体の性別学的性別の判断も可能とし、B1sは男性、B3sは女性です。ゲノム解析に加えて、6個体全員で放射性炭素年代測定が実行され、複数の同位体比が、起源や移動性や食性を提供する、ストロンチウムと鉛と炭素と酸素と窒素の同位体データから生成されました。
●遺伝的類似性と祖先系統
遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を調べるため、6個体のゲノムが、中央および南アメリカ大陸の刊行されている古代人(96個体)および現代人(273個体)のゲノム[16~18]と統合されました。6個体のうち5個体(B2データは不充分でした)が、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)を用いて、以前に刊行された古代の個体群とともに、南および中央アメリカ大陸の現代の個体群の一式に投影されました(図2A)。以下は本論文の図2です。
5個体は全員、先行研究[17]によって定義されたペルー北部沿岸内に収まります。さらに、f3形式(ムブティ人;X、Y)の外群f3統計では、XとYがアメリカ大陸の古代人もしくは現代の人口集団か、あるいはワカ・デ・カオの中庭個体群のうち1個体で、後者がペルー北部沿岸祖先系統の他の個体群と最も多くの遺伝的浮動を共有している、と示されます(図2B)。しかし、f4形式(ムブティ人、X:HCV、ペルー_エルブルホ_EIP)のf4統計では、Xがデータセットの1人口集団、HCVが囲い地個体のうち1個体、ペルー_エルブルホ_EIPは周辺のエル・ブルホ複合体に埋葬された同時代のモチェ文化期の庶民のゲノムで、上流階層の個体群はモチェ文化期の庶民と厳密なクレード(単系統群)を形成せず、後者【ペルー_エルブルホ_EIP】は前者(HCV)と比較して、ペルー南部中央の沿岸および高地の集団、たとえばララマテ(Laramate)遺跡の900年前頃の個体(ペルー_ララマテ_900年前)もしくはウルヤヤ(Ullujaya)遺跡の1350年前頃の個体(ペルー_ウルヤヤ_1350年前_EIP)と、より多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と示唆されます。
●起源や居住地に関する同位体の観点
祖先系統分析の補完として、軽い同位体と、を放射性ストロンチウム(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)および鉛(²⁰ⁿPb/²⁰⁴Pb)を含めて重い同位体について確立された手順に従って、個体の歯のエナメル質(B1、B1s、B3s、B4)と歯根(B3、セニョーラ・デ・カオ)の同位体分析が実行されました。放射性同位体は、とくに1もしくは複数の同位体系で等結果性の問題に直面した場合に、歯のエナメル質の同じ標本に由来する炭素(δ¹³C)と酸素(δ¹⁸O)の安定同位体比を補完します。
ペルー北部の地質は、海岸に沿って並行に走るアンデス山脈によって分断されています。山々を貫く渓谷では、第三紀の噴火物を含む第四紀の堆積物が露出しています。ペルー中央部および南部の鉛の範囲はペルー北部にまで広がっているかもしれませんが、地上での検証は行なわれていません。鉛の同位体分類を大まかに区分する鉛の範囲には、範囲1(沿岸部)と範囲2(内陸から沿岸)と範囲3(さらに内陸と高地)が含まれます。中庭の埋葬で観察された同位体多様性を識別するために、選択された渓谷から回収された先史時代遺骸の便宜的標本抽出が、大まかな類似性の観点で中庭の埋葬が収まる、と論証された図に統合されました(図3)。エル・ブルホ遺跡から南方に20km未満の1400~1450年頃の遺跡であるHLL(Huanchaquito–Las Llamas、ワンチャキート・ラス・リャマス)は同位体では最も多様性に富み、この地域における個体の潜在的範囲を論証し、南方のマチュ・ピチュ遺跡から刊行されたデータが、鉛とストロンチウムの比較のため含まれています。以下は本論文の図3です。
同位体の結果(表1)は、5個体のうち4個体(B1、B1s、B3、B4)の共住地と食性の大まかに一貫した傾向を示します。ストロンチウム(表1)については、B1とB3の値がほぼ同一で(0.70882)、B4(0.70878)とほぼ同等です。生贄の2個体は異なっており、B1sはより低い値(0.70697)で、チカマ渓谷の局所的予測値と一致しますが、B3sはより高い値(0.70919)で、ペルー北部に広がる沿岸部もしくはより内陸部(高地の可能性が高そうです)の値とより一致しています。B1sの兆候は第一大臼歯に由来するので、その値は母親の居住地を反映している可能性がより高いことに要注意です。鉛に関しては、セニョーラ・デ・カオ(B3)とB4は、B1およびB1sと同様に類似した鉛値を共有していますが、B3sはきょくたんな外れ値です(図3)。B1sとB3sは両方とも、他の被葬者と比較して窒素同位体(δ¹⁵N)値が低く、B3sは標本抽出された歯のエナメル質(および歯の象牙質)で観察されたδ¹³C値が最低で、δ¹⁸Oは比較的低く、これらは「地元ではない」(内陸部)居住地を裏づけるでしょう(表1)。ワカ・カオの標本1点の微量元素と希土類元素の濃度データは、最小限の変化を示唆しています。
●食性の観察
ワカ・カオ・ビエホの埋葬のほとんどは、わずかな食性の違いを示しており、例外はB3sです。トウモロコシの消費と関連することが多い、食性のC₄植物の含有率の推定値から、B1とB1sとB4は約35%の外れ値のB3sと比較して、約70%のC₄植物を示す、と示唆されます。δ¹⁵N値に基づく、最高の割合の推定海洋食性構成要素はB2とB4では65~70%(±21%)で、それに続くのがB1とB3の45~50%(±23.5%)です。生贄の両個体【B1sとB3s】のδ¹⁵N値は、他の個体と比較して¹⁵Nが枯渇していました。ここでも再び、B3sは最低値を示し、推定海洋性食性校正用は約30%(±18%)です。
●生物学的近縁性と親族関係
5通りの計算手法を活用して、ゲノムデータからワカ・カオ・ビエホの個体間の対での生物学的近縁性が推測されました[30]。まとめると、これらの結果から、6個体は密接な生物学的近縁性を共有しており、B1とセニョーラ・デ・カオ、およびB1とB1sは1親等の親族であると、と示唆されます。これらの手法のうち2通り、つまりKINとlcmlKINは、1親等の近縁性の2種類間、つまりキョウダイと親子の間の区別を目的とします。これらの結果から、セニョーラ・デ・カオとB1がキョウダイである一方で、B1とB1sは親子である、と示唆されます。B2と他の全個体との間のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)の重複数は最小限(2000以下のSNP)ですが、すべての適用された手法は一貫して、B2とB1が1親等の親族と判断しており、KINでは、B2とB1がキョウダイと示唆されますが、lcmlKINで判断されたr/k0比(6.5)からは、B2とB1が親子かもしれない、と示唆されます。B1とB1sとB2とセニョーラ・デ・カオ(B3)は全員、同じ)ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D系統(このmtHgは以後、mtD-2と呼ばれるB3sで観察された異なるmtHg-D系統と区別するため、 mtD-1と命名されます)を共有しており、母方の近縁性が示唆されます。さらに、B1とB4、B3とB4、B3sとB1sの間で2親等の近縁性が観察されたのに対して、B4とB1s は3親等の親族かもしれません。
B3sで得られた低網羅率によって、他個体のうちほとんどとの近縁性の正確な度合いを判断する能力が著しく制約されますが、すべての手法では一貫して、B3とB3s(セニョーラ・デ・カオと共伴する犠牲者)は2親等の親族であると、と示唆されます。最高の網羅率のデータの2個体(B1とB4)について、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)も計算されました。一部のゲノムにおける15 cM(センチモルガン)超のより高頻度の存在は通常、両親の近縁性の度合いを示唆します[33]。B4のゲノムで観察された長いROHの水準(合計ROHが20 cM(センチモルガン)超)から、この個体(B4)の両親が5親等の親族(たとえば、マタイトコ)だったに違いない一方で、B1の両親は親族関係にはなかった(ミイトコ以下の関係)、と示唆されます。
●家系図の再構築と年代測定
いくつかの一連の証拠に依拠してもワカ・カオ・ビエホの個体群について少なくとも4世代にまたがる家系図が再構築され(図4)、それは、常染色体データに基づく一致した親族関係、ミトコンドリアのハプロタイプから示唆される母系の親族関係、両親である可能性として亜成体個体を除いた個体の死亡時年齢、個体の骨格遺骸から得られた放射性炭素年代、考古学的文脈に由来する他の情報です。以下は本論文の図4です。
個体の年代関係のより深い理解を得るために、ヒトの組織で新たに得られた年代と墓1号~4号の資料での8点の年代を含む、ベイズモデルが構築されました。単一の堆積事象として扱うモデルでは、B1とB1sとB2とB3とB3sは500年頃(95%の確率で440~540年)に葬られ、一致指数は良好でした(88%)。個体B4は460年頃(95%の確率で390~500年)に死亡し、これは他の個体より約40年前のことです。このモデルは世代の間隙とゲノムデータによって特定された家族関係(図4)を相互参照し、その他の点で著しく不正確な較正を大きく改善した、重要な時間的制約を提供します。このモデルは、年代測定された組織形成の年代と死亡時年齢と食性の海洋性タンパク質の割合から推定された、各個体の誕生年と死亡年を用います。この地域では湧昇の変化のためΔR推定値が大きく変動するので、この媒介変数は自由に変化させられました。個体の食性推定値と他の制約に基づいて、このモデルは局所的なΔRが当時−270±72年だったことを推定します。
組み合わされたデータから、埋葬集団の最古級の年代測定された個体であるB4は、この集団の最高位の埋葬となる推定されるキョウダイであるB1とセニョーラ・デ・カオ(B3)の祖父だった、と示唆されます。B4の遺骸は、その死から数世代後に中庭に再埋葬された可能性が最も高く、それは、この中庭で主要な埋葬が行なわれた時です。B1とB2との間の遺伝的関係から、B2はB1とセニョーラ・デ・カオのキョウダイもしくは親かもしれない、と示唆されます。B2と他の被葬者との間の遺伝的データには、より可能性の高い代替案を確実に判断できるだけの充分な重複がありません。B2の誕生年代は一貫して480年頃とモデル化され、これは、B1およびB3両方の推定誕生年代と一致し、B2はB3(セニョーラ・デ・カオ)のキョウダイである可能性の方がずっと高いことになります(図4)。
学童期の生贄は両方とも(B1sとB3s)主要埋葬の親族で、生贄の両個体はそれらの主要埋葬とともに、それぞれB1およびセニョーラ・デ・カオ(B3)と埋葬された、との堅牢な裏づけが見つかりました。B1とB1sの親子の事例(両者ともセニョーラ・デ・カオと親族関係にあります)では、墓が再度開けられた兆候はなく、相互との関連における個体の配置は同時の埋葬を示唆しています。セニョーラ・デ・カオと共伴する生贄とされた若い女性(B3s)の事例では、B3sがセニョーラ・デ・カオの2親等の親族(姪もしくは孫娘)かもしれないいくつかの兆候があります。B3sの死亡時年齢は12~15歳で、形態学的分析から、セニョーラ・デ・カオは死亡時に30歳以下だった、と示唆されています。この両個体(B3sとセニョーラ・デ・カオ)は同時に埋葬されました。したがって、セニョーラ・デ・カオは死亡時に孫娘がいた可能性はひじょうに低そうで、B3sとB3(セニョーラ・デ・カオ)が祖母と孫娘の関係であることは除外されます。遺伝的データでは家系図におけるB3sの確かな置づけの判断はできませんが、本論文のモデルから、B3sはおそらくB1sの数年以内に生まれた、と示唆されます。B3sの死亡時年齢およびB3との2親等の関係から、B3sはB2sの子供で、B1およびB3(セニョーラ・デ・カオ)のキョウダイか、別の未知のキョウダイと推定される、と示唆されます。
●考察
モチェ文化の上流階層の他の5埋葬集団が、1980年代後半以降に発掘され、報告されてきました。これらの多くには、考古学的記録に基づいて、家族の構成員だった、と推測された複数の個体が含まれていました。セニョーラ・デ・カオ埋葬集団に関するこの研究では、それがワカ・カオ・ビエホに当てはまった、と確証され、これは科学的に論証された最初のことです。同様に、モチェ文化の芸術は女性を女神もしくは女性祭司としての特別な役割で描いており、サン・ホセ・デ・モロ(San José de Moro)の女性祭司の埋葬(700年頃)は女性の重要な儀式的役割を証明しており、ペルー北岸の人々の16世紀の初期のスペイン人の記録は、女性が大きな権威の地位を保持していた、と報告しました。セニョーラ・デ・カオの発見によって、女性がじっさいにモチェ文化期に高位を保持しており、それはサン・ホセ・デ・モロの少なくとも2世紀前のことで、政治的に重要な女性に関するスペイン人の記録の千年前だった、と論証されました。
セニョーラ・デ・カオは、ワカ・カオ・ビエホの過去位置の他の上流階層個体よりも、質的に豊かで量的に多い副葬品で埋葬されました。最も重要な供物は学童期個体の生贄で、これは2番目に豊かな埋葬となるセニョーラ・デ・カオのキョウダイである埋葬1にも授けられた名誉でした。驚くべきことに、他の成人男性であるB2とB4は副葬品がほとんどなく埋葬されましたが、セニョーラ・デ・カオと密接な親族関係にありました。ワカに埋葬されるだけでも高位の印で、その墓の比較的少ない副葬品から、富と地位の概念がモチェ文化では複雑だった、と示唆されます。宝器もしくは供物の欠如から、死亡時のセニョーラ・デ・カオとの近さが、キョウダイや祖父にとって他の要素より優先された、と示唆されます。近くに埋葬されたモチェ文化の上流階層の個体間の遺伝的関係を特定する将来の研究は、そうした問題の解明に役立つはずです。
とくに重要なのは、生贄とされた学童期の個体と他の被葬者との間で観察された密接な遺伝的関係です。ヒトの生贄の慣行および大量犠牲事象さえモチェ文化と他のペルー集団では考古学的記録で充分に確証されてきましたが、同様の密接な親族関係にある生贄はモチェ文化では以前には検討されてきませんでした。植民地期の報告は、インカ期に娘1人を生贄とした父親の1事例を提供しますが、異なる状況での千年後のことで、ペルー北部沿岸のモチェ文化から1000km離れています。
本論文のほとんどの被葬者は、ごく軽微な健康関連の問題を示しました。1個体を除いてすべての個体は、食性にはトウモロコシと海洋性タンパク質が含まれており、チカマ渓谷かその近くで生まれ育った可能性が高そうです。セニョーラ・デ・カオに共伴された生贄とされた学童期の女性個体(B3s)は、食性と地理的起源の観点の両方で際立っていますが、B3sはセニョーラ・デ・カオの密接な親族で、それは、高位の男性(B1)とその生贄とされた息子(B1s)の場合と同様です。生贄とされた個体はチカマ渓谷を越えた高地で養育された可能性が高そうで、これは古代ペルーにおける長距離のつながりの重要性を強調しています。密接な親族、おそらくは姪が遠くで育てられ、その親族とともに生贄とされたことは、検証について多くの可能性を提供しており、さらに、地元と地域間のモチェ文化の政治には、強く、支配的だった可能性の高い、親族関係に基づく構成要素があった、という他の証拠を裏づけます。現時点では、学童期の家族構成員もしくは他の密接な親族を生贄とする慣行が社会文化的規範の一部だったのかどうか、あるいは、時空を超えて多くの社会で一般的に知られている宮廷の陰謀によるものだったのかどうか、判断できません。
モチェ文化は、アンデス山脈において多くの記録された古代社会の一つにすぎませんでした。景観全域の神殿や都市や聖地の広範な遺跡と、過去の豊富な飼料記録では、何百kmにもわたる人々と社会との間の複雑な関係が見られます。過去を調べる新たな方法には、理解を豊かにする大きな見込みが含まれています。
参考文献:
Quilter J. et al.(2025): Family relations of Moche elite burials on the North Coast of Peru (~500 CE): Analyses of the Señora de Cao and relatives. PNAS, 122, 1, e2416321121.
https://doi.org/10.1073/pnas.2416321121
[16]Lindo J. et al.(2018): The genetic prehistory of the Andean highlands 7000 years BP though European contact. Science Advances, 4, 11, eaau4921.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aau4921
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[17]Nakatsuka N. et al.(2020): A Paleogenomic Reconstruction of the Deep Population History of the Andes. Cell, 181, 5, 1131–1145.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.04.015
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[18]Posth C. et al.(2018): Reconstructing the Deep Population History of Central and South America. Cell, 175, 5, 1185–1197.E22.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2018.10.027
関連記事
[30]Mittnik A. et al.(2019):Kinship-based social inequality in Bronze Age Europe. Science, 366, 6466, 731–734.
https://doi.org/10.1126/science.aax6219
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[33]Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w
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●要約
モチェ考古学的文化は4~10世紀にペルーの北部海岸沿いで繁栄し、政治および宗教的上流階層が支配する複雑な社会階層によって特徴づけられました。依然の考古学的証拠では、親族関係はモチェ社会内における政治的権威の維持において鍵となる要素だった、と示唆されています。この仮説を検証するため、考古学と遺伝学と同位体の手法が適用され、ペルーのチカマ渓谷にあるピラミッド型の彩色神殿であるワカ・カオ・ビエホにともに埋葬された、有名なセニョーラ・デ・カオ(500年頃)を含めて、6個体間の家族関係が調べられました。本論文の調査結果から、この6個体は全員生物学的に親族関係にあり、親族関係の程度はさまざまだった、と明らかになります。セニョーラ・デ・カオは、姪の可能性が特定された生贄の学童期個体とともに埋葬され、近くの別の墓に、少なくとも1個体、あるいは2個体かもしれないキョウダイ、および祖父母の1個体が埋葬されました。男性のキョウダイのうち1個体は、生贄の息子とともに死亡しました。同位体分析から、ほとんどの個体がトウモロコシおよび動物性タンパク質の豊富な食性で、子供期をチカマ渓谷かその近くで過ごしたのに対して、セニョーラ・デ・カオに共伴する生贄となった学童期の個体は食性と地理的起源が異なっていた、と示唆されます。これらの結果から、モチェ文化の上流階層は、親の故地から遠くで育った一部の個体も含めて家族の構成員とともに埋葬された、と論証されます。これは、親族関係が地位と権威の継承の中心だった、との仮説を裏づけます。さらに、死亡した上流階層に生贄とされた家族の構成員が共伴していることは、家族のつながりを強め、死者を祖先および神の両方と結びつける、儀礼的生贄の重要性を強調しています。
●研究史
モチェ考古学的文化は、ペルーの北部沿岸の9河川の流域を300~950年頃まで占めており(図1)、ワカ(huaca)と呼ばれる記念碑的なピラミッドのような神殿、灌漑網、精巧な大小の芸術(とくに金属と土器)を伴う、洗練された都市複合体を造りました。社会階層は戦争を遂行し、複雑な儀式で神に扮し、大きな日干しレンガのワカ(ピラミッド型の建造物)に死者を精巧に埋葬した、政治および宗教的上流階層によって支配されていました。河川流域内および河川流域間の政治の複雑さは、影響や同盟や巡礼を含めて、まだ完全には解明されていません。これらのおよび他の問題はおもに考古学を通じて調べられており、それは、モチェ文化が文献を残さなかったからです。以下は本論文の図1です。
本論文は、チカマ渓谷のエル・ブルホ考古学複合体の高さ30mの日干し煉瓦の神殿であるワカ・カオ・ビエホで、壁の囲い地で見つかったモチェ文化の埋葬集団から得られた、高解像度の遺伝学と考古学と同位体のデータを提示し、その目的は、家族関係および生活史の判断と、親族関係がモチェ社会で政治とどのように関連していたかもしれないのか、調べることです。2005年に発見され埋葬集団の年代は500年頃(95%の確率で440~540年)で、ワカの床から煉瓦を取り除いて作られた、4基の墓の6個体から構成されます。
●考古学的遺跡と墓の記載
ワカ・カオ・ビエホの囲い地で見つかった4基の墓のうち、3基は南側の壁の近くで見つかりました(図1)。各墓には成人(20~30歳)1個体(埋葬1・2・4、以下、B1・2・4)が、仰向けに伸びた状態で埋葬されていました(図1)。1個体(B1)は、華麗な外套と布と紐と葦の敷物に包まれていました。これらの下の、遺体の隣には、白色と赤色の羽の物体、羽で装飾された精巧な肌着、金属製円盤、彩色土器で包まれていました。B1の足元には、学童期の1個体の曲がった遺体(埋葬1生贄、以下B1s)があり、その首には紐が巻かれており、これはモチェ文化においてヒトの生贄の形式として知られている、絞殺による死を示唆しています。
B1の東側には、別の成人男性である埋葬2(B2)が同様に埋葬されており、仰向けで、頭が布で包まれ、少なくとも7層の織物で覆われ、金属の飾り板と最後の覆いとしての葦の敷物で装飾された長い外衣が含まれています。B1とB2は両方とも軟組織の部分的保存を示しますが、B1s(生贄)は白骨化していました。B1の西側には、別の仰向けの完全に白骨化した成人男性個体である埋葬4(B4)が、3ヶ所の埋葬のうち最も悪い保存状態でした。織物断片と葦の敷物と縄類のわずかな遺物が、その可視と足の周辺に保存されていました。埋葬1および2の墓が同じ深さ(1.2m)だったのに対して、B4の墓はより狭くて浅く(0.6m)、おそらくより湿度が高く、墓の遺骸と腐敗しやすい供え物の劣化が進みました。
4番目の墓は、過去一の壁に近い一列に並んだ他の3基の墓とは離れていました。この墓は、囲い地の南東角にある精巧に彩色された部屋の小さな踊り場の隣に位置していました。深さ3mに、一般的にセニョーラ・デ・カオと呼ばれている(埋葬3、以下B3)と呼ばれている成人女性1個体の保存状態良好な遺骸が、安置されており、20層以上の織物と、儀式用の投槍器や2個の大型の儀式用の棍棒や金色の王冠および鼻飾りや他のさまざまな品々を含めて供え物で包まれていました。男性の武器と鼻飾り、および女性の品々は、セニョーラ・デ・カオがひじょうに高い地位だったことを示唆しています。セニョーラ・デ・カオの包みの外側の層の隣には、首に縄を巻かれた生贄の学童期の女性(B3s)が横たわっていました。
セニョーラ・デ・カオの埋葬は、ペルーでこれまでに見つかった最良の保存状態の上流階層の埋葬として重要で、墓の建造と供物に多量のエネルギーが費やされたことは相対的な社会的地位を示唆する、という考古学的見解を用いると、セニョーラ・デ・カオは被葬者の中では最高位だったものの、神殿に埋葬されたことを考えると、主要な埋葬はすべて高位でした。さほど成功ではない副葬品と保存状態の悪い骨格とB4のより浅い墓から、この個体は当初他の場所に埋葬され、その後で既知のモチェ文化の慣行である、他者に伴っての中庭への移動があったかもしれない、と示唆されます。
囲い地に埋葬された全個体は、骨格と歯の病理学的状態の証拠について調べられました。死因は2個体のみで特定され、それは植物繊維の縄で絞殺された学童期個体(B1sとB3s)です。中庭に埋葬された個体群で観察された骨格と歯の病態は最小限で、ペルー北部沿岸の先史時代人口集団で一般的な軽微な状態だけでした。例外はB1で、複数の脚と腕の骨の骨幹の再形成された骨膜下の炎症をしめしており、これは、死亡時に治癒していたいくつかの一般的な炎症過程を示唆しています。
床の上に縁が突き出ているセニョーラ・デ・カオの墓の層序の上で見つかった土器の容器は、供物の受け取りとして機能していました。さらに、床の上で近くにあった焼けた供物の遺物は、埋葬後の儀式が死者への名誉のため行なわれたことを示唆しています。封印された墓の上の床の儀式的な火の年代は、埋葬集団全体の下限年代(660年頃)を提供し、死者の記憶が死後かなり長い時間維持されていたことを示唆します。しかし、最終的に囲い地は、ワカ・デ・カオ(Huaca de Cao)の規模を新たな建造物で拡大し続けた、その後のモチェ文化の日干し煉瓦の厚い層で埋められました。
●標本
6個体全員で1本鎖DNA配列決定ライブラリから低網羅率のゲノム(0.01~1.2倍)が配列決定され、ライブラリに保存されていた固有の内在性分子はほぼ使い尽くされました。DNAの保存は配列決定の試みの大きな制約でしたが、配列決定読み取り末端の損傷と、低い推定汚染率は、得られたデータが確実であることを示唆しています。ゲノムデータは成人4個体全員で形態学的な性別推定を確証し、生贄の亜成体2個体の性別学的性別の判断も可能とし、B1sは男性、B3sは女性です。ゲノム解析に加えて、6個体全員で放射性炭素年代測定が実行され、複数の同位体比が、起源や移動性や食性を提供する、ストロンチウムと鉛と炭素と酸素と窒素の同位体データから生成されました。
●遺伝的類似性と祖先系統
遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を調べるため、6個体のゲノムが、中央および南アメリカ大陸の刊行されている古代人(96個体)および現代人(273個体)のゲノム[16~18]と統合されました。6個体のうち5個体(B2データは不充分でした)が、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)を用いて、以前に刊行された古代の個体群とともに、南および中央アメリカ大陸の現代の個体群の一式に投影されました(図2A)。以下は本論文の図2です。
5個体は全員、先行研究[17]によって定義されたペルー北部沿岸内に収まります。さらに、f3形式(ムブティ人;X、Y)の外群f3統計では、XとYがアメリカ大陸の古代人もしくは現代の人口集団か、あるいはワカ・デ・カオの中庭個体群のうち1個体で、後者がペルー北部沿岸祖先系統の他の個体群と最も多くの遺伝的浮動を共有している、と示されます(図2B)。しかし、f4形式(ムブティ人、X:HCV、ペルー_エルブルホ_EIP)のf4統計では、Xがデータセットの1人口集団、HCVが囲い地個体のうち1個体、ペルー_エルブルホ_EIPは周辺のエル・ブルホ複合体に埋葬された同時代のモチェ文化期の庶民のゲノムで、上流階層の個体群はモチェ文化期の庶民と厳密なクレード(単系統群)を形成せず、後者【ペルー_エルブルホ_EIP】は前者(HCV)と比較して、ペルー南部中央の沿岸および高地の集団、たとえばララマテ(Laramate)遺跡の900年前頃の個体(ペルー_ララマテ_900年前)もしくはウルヤヤ(Ullujaya)遺跡の1350年前頃の個体(ペルー_ウルヤヤ_1350年前_EIP)と、より多くのアレル(対立遺伝子)を共有している、と示唆されます。
●起源や居住地に関する同位体の観点
祖先系統分析の補完として、軽い同位体と、を放射性ストロンチウム(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)および鉛(²⁰ⁿPb/²⁰⁴Pb)を含めて重い同位体について確立された手順に従って、個体の歯のエナメル質(B1、B1s、B3s、B4)と歯根(B3、セニョーラ・デ・カオ)の同位体分析が実行されました。放射性同位体は、とくに1もしくは複数の同位体系で等結果性の問題に直面した場合に、歯のエナメル質の同じ標本に由来する炭素(δ¹³C)と酸素(δ¹⁸O)の安定同位体比を補完します。
ペルー北部の地質は、海岸に沿って並行に走るアンデス山脈によって分断されています。山々を貫く渓谷では、第三紀の噴火物を含む第四紀の堆積物が露出しています。ペルー中央部および南部の鉛の範囲はペルー北部にまで広がっているかもしれませんが、地上での検証は行なわれていません。鉛の同位体分類を大まかに区分する鉛の範囲には、範囲1(沿岸部)と範囲2(内陸から沿岸)と範囲3(さらに内陸と高地)が含まれます。中庭の埋葬で観察された同位体多様性を識別するために、選択された渓谷から回収された先史時代遺骸の便宜的標本抽出が、大まかな類似性の観点で中庭の埋葬が収まる、と論証された図に統合されました(図3)。エル・ブルホ遺跡から南方に20km未満の1400~1450年頃の遺跡であるHLL(Huanchaquito–Las Llamas、ワンチャキート・ラス・リャマス)は同位体では最も多様性に富み、この地域における個体の潜在的範囲を論証し、南方のマチュ・ピチュ遺跡から刊行されたデータが、鉛とストロンチウムの比較のため含まれています。以下は本論文の図3です。
同位体の結果(表1)は、5個体のうち4個体(B1、B1s、B3、B4)の共住地と食性の大まかに一貫した傾向を示します。ストロンチウム(表1)については、B1とB3の値がほぼ同一で(0.70882)、B4(0.70878)とほぼ同等です。生贄の2個体は異なっており、B1sはより低い値(0.70697)で、チカマ渓谷の局所的予測値と一致しますが、B3sはより高い値(0.70919)で、ペルー北部に広がる沿岸部もしくはより内陸部(高地の可能性が高そうです)の値とより一致しています。B1sの兆候は第一大臼歯に由来するので、その値は母親の居住地を反映している可能性がより高いことに要注意です。鉛に関しては、セニョーラ・デ・カオ(B3)とB4は、B1およびB1sと同様に類似した鉛値を共有していますが、B3sはきょくたんな外れ値です(図3)。B1sとB3sは両方とも、他の被葬者と比較して窒素同位体(δ¹⁵N)値が低く、B3sは標本抽出された歯のエナメル質(および歯の象牙質)で観察されたδ¹³C値が最低で、δ¹⁸Oは比較的低く、これらは「地元ではない」(内陸部)居住地を裏づけるでしょう(表1)。ワカ・カオの標本1点の微量元素と希土類元素の濃度データは、最小限の変化を示唆しています。
●食性の観察
ワカ・カオ・ビエホの埋葬のほとんどは、わずかな食性の違いを示しており、例外はB3sです。トウモロコシの消費と関連することが多い、食性のC₄植物の含有率の推定値から、B1とB1sとB4は約35%の外れ値のB3sと比較して、約70%のC₄植物を示す、と示唆されます。δ¹⁵N値に基づく、最高の割合の推定海洋食性構成要素はB2とB4では65~70%(±21%)で、それに続くのがB1とB3の45~50%(±23.5%)です。生贄の両個体【B1sとB3s】のδ¹⁵N値は、他の個体と比較して¹⁵Nが枯渇していました。ここでも再び、B3sは最低値を示し、推定海洋性食性校正用は約30%(±18%)です。
●生物学的近縁性と親族関係
5通りの計算手法を活用して、ゲノムデータからワカ・カオ・ビエホの個体間の対での生物学的近縁性が推測されました[30]。まとめると、これらの結果から、6個体は密接な生物学的近縁性を共有しており、B1とセニョーラ・デ・カオ、およびB1とB1sは1親等の親族であると、と示唆されます。これらの手法のうち2通り、つまりKINとlcmlKINは、1親等の近縁性の2種類間、つまりキョウダイと親子の間の区別を目的とします。これらの結果から、セニョーラ・デ・カオとB1がキョウダイである一方で、B1とB1sは親子である、と示唆されます。B2と他の全個体との間のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)の重複数は最小限(2000以下のSNP)ですが、すべての適用された手法は一貫して、B2とB1が1親等の親族と判断しており、KINでは、B2とB1がキョウダイと示唆されますが、lcmlKINで判断されたr/k0比(6.5)からは、B2とB1が親子かもしれない、と示唆されます。B1とB1sとB2とセニョーラ・デ・カオ(B3)は全員、同じ)ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)D系統(このmtHgは以後、mtD-2と呼ばれるB3sで観察された異なるmtHg-D系統と区別するため、 mtD-1と命名されます)を共有しており、母方の近縁性が示唆されます。さらに、B1とB4、B3とB4、B3sとB1sの間で2親等の近縁性が観察されたのに対して、B4とB1s は3親等の親族かもしれません。
B3sで得られた低網羅率によって、他個体のうちほとんどとの近縁性の正確な度合いを判断する能力が著しく制約されますが、すべての手法では一貫して、B3とB3s(セニョーラ・デ・カオと共伴する犠牲者)は2親等の親族であると、と示唆されます。最高の網羅率のデータの2個体(B1とB4)について、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)も計算されました。一部のゲノムにおける15 cM(センチモルガン)超のより高頻度の存在は通常、両親の近縁性の度合いを示唆します[33]。B4のゲノムで観察された長いROHの水準(合計ROHが20 cM(センチモルガン)超)から、この個体(B4)の両親が5親等の親族(たとえば、マタイトコ)だったに違いない一方で、B1の両親は親族関係にはなかった(ミイトコ以下の関係)、と示唆されます。
●家系図の再構築と年代測定
いくつかの一連の証拠に依拠してもワカ・カオ・ビエホの個体群について少なくとも4世代にまたがる家系図が再構築され(図4)、それは、常染色体データに基づく一致した親族関係、ミトコンドリアのハプロタイプから示唆される母系の親族関係、両親である可能性として亜成体個体を除いた個体の死亡時年齢、個体の骨格遺骸から得られた放射性炭素年代、考古学的文脈に由来する他の情報です。以下は本論文の図4です。
個体の年代関係のより深い理解を得るために、ヒトの組織で新たに得られた年代と墓1号~4号の資料での8点の年代を含む、ベイズモデルが構築されました。単一の堆積事象として扱うモデルでは、B1とB1sとB2とB3とB3sは500年頃(95%の確率で440~540年)に葬られ、一致指数は良好でした(88%)。個体B4は460年頃(95%の確率で390~500年)に死亡し、これは他の個体より約40年前のことです。このモデルは世代の間隙とゲノムデータによって特定された家族関係(図4)を相互参照し、その他の点で著しく不正確な較正を大きく改善した、重要な時間的制約を提供します。このモデルは、年代測定された組織形成の年代と死亡時年齢と食性の海洋性タンパク質の割合から推定された、各個体の誕生年と死亡年を用います。この地域では湧昇の変化のためΔR推定値が大きく変動するので、この媒介変数は自由に変化させられました。個体の食性推定値と他の制約に基づいて、このモデルは局所的なΔRが当時−270±72年だったことを推定します。
組み合わされたデータから、埋葬集団の最古級の年代測定された個体であるB4は、この集団の最高位の埋葬となる推定されるキョウダイであるB1とセニョーラ・デ・カオ(B3)の祖父だった、と示唆されます。B4の遺骸は、その死から数世代後に中庭に再埋葬された可能性が最も高く、それは、この中庭で主要な埋葬が行なわれた時です。B1とB2との間の遺伝的関係から、B2はB1とセニョーラ・デ・カオのキョウダイもしくは親かもしれない、と示唆されます。B2と他の被葬者との間の遺伝的データには、より可能性の高い代替案を確実に判断できるだけの充分な重複がありません。B2の誕生年代は一貫して480年頃とモデル化され、これは、B1およびB3両方の推定誕生年代と一致し、B2はB3(セニョーラ・デ・カオ)のキョウダイである可能性の方がずっと高いことになります(図4)。
学童期の生贄は両方とも(B1sとB3s)主要埋葬の親族で、生贄の両個体はそれらの主要埋葬とともに、それぞれB1およびセニョーラ・デ・カオ(B3)と埋葬された、との堅牢な裏づけが見つかりました。B1とB1sの親子の事例(両者ともセニョーラ・デ・カオと親族関係にあります)では、墓が再度開けられた兆候はなく、相互との関連における個体の配置は同時の埋葬を示唆しています。セニョーラ・デ・カオと共伴する生贄とされた若い女性(B3s)の事例では、B3sがセニョーラ・デ・カオの2親等の親族(姪もしくは孫娘)かもしれないいくつかの兆候があります。B3sの死亡時年齢は12~15歳で、形態学的分析から、セニョーラ・デ・カオは死亡時に30歳以下だった、と示唆されています。この両個体(B3sとセニョーラ・デ・カオ)は同時に埋葬されました。したがって、セニョーラ・デ・カオは死亡時に孫娘がいた可能性はひじょうに低そうで、B3sとB3(セニョーラ・デ・カオ)が祖母と孫娘の関係であることは除外されます。遺伝的データでは家系図におけるB3sの確かな置づけの判断はできませんが、本論文のモデルから、B3sはおそらくB1sの数年以内に生まれた、と示唆されます。B3sの死亡時年齢およびB3との2親等の関係から、B3sはB2sの子供で、B1およびB3(セニョーラ・デ・カオ)のキョウダイか、別の未知のキョウダイと推定される、と示唆されます。
●考察
モチェ文化の上流階層の他の5埋葬集団が、1980年代後半以降に発掘され、報告されてきました。これらの多くには、考古学的記録に基づいて、家族の構成員だった、と推測された複数の個体が含まれていました。セニョーラ・デ・カオ埋葬集団に関するこの研究では、それがワカ・カオ・ビエホに当てはまった、と確証され、これは科学的に論証された最初のことです。同様に、モチェ文化の芸術は女性を女神もしくは女性祭司としての特別な役割で描いており、サン・ホセ・デ・モロ(San José de Moro)の女性祭司の埋葬(700年頃)は女性の重要な儀式的役割を証明しており、ペルー北岸の人々の16世紀の初期のスペイン人の記録は、女性が大きな権威の地位を保持していた、と報告しました。セニョーラ・デ・カオの発見によって、女性がじっさいにモチェ文化期に高位を保持しており、それはサン・ホセ・デ・モロの少なくとも2世紀前のことで、政治的に重要な女性に関するスペイン人の記録の千年前だった、と論証されました。
セニョーラ・デ・カオは、ワカ・カオ・ビエホの過去位置の他の上流階層個体よりも、質的に豊かで量的に多い副葬品で埋葬されました。最も重要な供物は学童期個体の生贄で、これは2番目に豊かな埋葬となるセニョーラ・デ・カオのキョウダイである埋葬1にも授けられた名誉でした。驚くべきことに、他の成人男性であるB2とB4は副葬品がほとんどなく埋葬されましたが、セニョーラ・デ・カオと密接な親族関係にありました。ワカに埋葬されるだけでも高位の印で、その墓の比較的少ない副葬品から、富と地位の概念がモチェ文化では複雑だった、と示唆されます。宝器もしくは供物の欠如から、死亡時のセニョーラ・デ・カオとの近さが、キョウダイや祖父にとって他の要素より優先された、と示唆されます。近くに埋葬されたモチェ文化の上流階層の個体間の遺伝的関係を特定する将来の研究は、そうした問題の解明に役立つはずです。
とくに重要なのは、生贄とされた学童期の個体と他の被葬者との間で観察された密接な遺伝的関係です。ヒトの生贄の慣行および大量犠牲事象さえモチェ文化と他のペルー集団では考古学的記録で充分に確証されてきましたが、同様の密接な親族関係にある生贄はモチェ文化では以前には検討されてきませんでした。植民地期の報告は、インカ期に娘1人を生贄とした父親の1事例を提供しますが、異なる状況での千年後のことで、ペルー北部沿岸のモチェ文化から1000km離れています。
本論文のほとんどの被葬者は、ごく軽微な健康関連の問題を示しました。1個体を除いてすべての個体は、食性にはトウモロコシと海洋性タンパク質が含まれており、チカマ渓谷かその近くで生まれ育った可能性が高そうです。セニョーラ・デ・カオに共伴された生贄とされた学童期の女性個体(B3s)は、食性と地理的起源の観点の両方で際立っていますが、B3sはセニョーラ・デ・カオの密接な親族で、それは、高位の男性(B1)とその生贄とされた息子(B1s)の場合と同様です。生贄とされた個体はチカマ渓谷を越えた高地で養育された可能性が高そうで、これは古代ペルーにおける長距離のつながりの重要性を強調しています。密接な親族、おそらくは姪が遠くで育てられ、その親族とともに生贄とされたことは、検証について多くの可能性を提供しており、さらに、地元と地域間のモチェ文化の政治には、強く、支配的だった可能性の高い、親族関係に基づく構成要素があった、という他の証拠を裏づけます。現時点では、学童期の家族構成員もしくは他の密接な親族を生贄とする慣行が社会文化的規範の一部だったのかどうか、あるいは、時空を超えて多くの社会で一般的に知られている宮廷の陰謀によるものだったのかどうか、判断できません。
モチェ文化は、アンデス山脈において多くの記録された古代社会の一つにすぎませんでした。景観全域の神殿や都市や聖地の広範な遺跡と、過去の豊富な飼料記録では、何百kmにもわたる人々と社会との間の複雑な関係が見られます。過去を調べる新たな方法には、理解を豊かにする大きな見込みが含まれています。
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