国武貞克「日本列島後期旧石器文化の起源と成立に関する試論」

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、日本列島の後期旧石器文化の起源と成立についての研究(国武., 2023)が公表されました。日本列島最古級の石刃石器群が長野県佐久市の香坂山遺跡で確認されており、その起源はユーラシアのIUP(Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器)にある、と推測されています(関連記事)。日本列島の後期旧石器時代の指標としては、この石刃石器群とは別の伝統である台形様石器群が確認されており、較正年代で37500年前頃(以下、年代は基本的に較正されています)までに成立した、と明らかになっています。つまり、日本列島の後期旧石器文化は、ユーラシアIUPと台形様石器群という起源の異なる石器群の融合によって成立した、というわけです。本論文はこれを踏まえて、日本列島における後期旧石器文化の成立過程を検証します。

 天山・パミール地域を中心とするアジア中央部西方、アルタイ山脈を中心とするアジア中央部東方、モンゴル、トランスバイカル地域を中心とするアジア北部に展開するIUP期の石器群全体がIUP石器群と定義されています。アルタイ地域IUPと共通する石器群はアジア中央部西方でも確認されており、ウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟の石器群により代表されるオビ・ラフマティアンと呼ばれています。オビ・ラフマート洞窟では下層から上層まで石器組成が大きく変化せず、類似した石器群が連続しています。当初、その最下層は11万年前頃、最上層は4万年前頃と推定され、最近の再調査でも同様の年代値が得られています。しかし、タジキスタン南部のザラフシャン山脈南麓に立地するフッジ遺跡では、同様の石器組成と技術組成のあるIUP期の石器群が検出されたため、オビ・ラフマティアンがIUP期にまで継続したことになります。アルタイ地域IUPはオビ・ラフマティアンを背景に成立し、オビ・ラフマティアンのアジア中央部東方型と考えられます。

 オビ・ラフマート洞窟の最下層石器群は11万~9万年前頃と推定されており、オビ・ラフマティアンの中部旧石器時代石刃石器群は、レヴァントのタブン(Tabun)洞窟の最古段階となる長狭ルヴァロワ(Levallois)石刃を特徴とするタブンD石器群に共通しており、中部旧石器時代前半に想定される現生人類(Homo sapiens)の早期拡散の証拠ではないか、との見解も提示されています。つまり、6万年以上前の現生人類の早期拡散は南回りに限定されず、アジア中央部にまで及んでいたのではないか、というわけです。オビ・ラフマート洞窟において現生人類と祖先的特徴の混在を示す頭蓋が発見されていることも、その根拠の一つとされています。アルタイIUPは、オビ・ラフマティアンを継承し、さらに東方での現生人類の後期拡散を表している、と考えられています。アジア中央部の西方と東方のIUP遺跡は、標高1000~1500m付近に位置しており、燧石などガラス質の石材ではなく、火成岩や堆積岩などやや粗粒の石材の大型の塊状の原石が得やすい石材産地の近傍に立地する点で共通しており、これは香坂山遺跡も同様です。一方で、ユーラシアIUP石器群はアジア中央部の西方と東方で、大型石刃製作技術にルヴァロワ技法を基盤とする程度に違いがあることや、尖頭器製作技術に明確な地域差が認められ、オビ・ラフマティアンの東方への拡散は現生人類集団の移住に伴う単純な伝播だけでは説明できない可能性が指摘されています。

 香坂山遺跡の石器組成はユーラシアIUP石器群とよく一致しますが、年代は36800年前頃なので、ユーラシアIUP石器群が移住を伴う侵入的単純伝播によって日本列島にもたらされた、と断定するのはやや難しく、ユーラシアIUP石器群そのものか、その系統の石器組成および技術組成EUP(Early Upper Palaeolithic、上部旧石器時代前期)石器群をユーラシア東部に想定するのが合理的と、本論文は指摘します。具体的には、アジア東部(現在の中国北部から朝鮮半島)もしくは現在の沿海州の山岳地帯が想定され、それが36800年前頃までに日本列島に伝播した、というわけです。この場合、アジア東部起源では朝鮮半島経由、沿海州起源ではサハリン・北海道経由となりそうです。中華人民共和国寧夏回族自治区の水洞溝(Shuidonggou)遺跡の第1段階はユーラシアIUP石器群そのもので、年代が41400~40400年前頃なので、IUP石器群は41000年前頃にはアジア東部の西方に拡散していました。朝鮮半島では、スヤンゲ遺跡Ⅵ地区4文化層は、大型石刃素材の基部河口尖頭石刃石器が確認されているので、ユーラシアIUP石器からの影響を受けていると考えられますが、中部旧石器的様相がない点では、ユーラシアIUP石器群の重要な技術的要素が欠けています。42000年前頃前後の徳沼遺跡3地層や新華里遺跡などでは、剥片尖頭器を含まない大型石刃石器群が検出されており、ユーラシアIUP石器群とのつながりがさらに示されるのか、今後の研究の焦点となりそうで、それらが示されれば、IUP石器群が朝鮮半島から日本列島へと到来した可能性を想定できそうです。

 台形様石器群については、日本列島における中期旧石器時代の斜軸尖頭器石器群に技術的系統関係が求められています。斜軸尖頭器石器群は、求心剥離技術を含む各種の調整石核から構成されていますが、規格的なルヴァロワ方式は確認できない多様な非ムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)石器群、つまりアジア東部型中期旧石器群の一部に位置付けられています。アジア東部型中期旧石器群では求心剥離技術による斜軸尖頭器が発達し、現在の中国北部から西部を中心とするユーラシア東部北方が主分布域とされています。近年では、アジア南東部やオーストラリアでも、10万年前頃以降に、アジア東部型中期旧石器群から現生人類の存在が議論されています。この場合、南回りでの東進に伴い、変化していく環境に対応してムステリアンの各種要素が脱落していき、最終的にアジア東部型中期旧石器群が形成された、と推測されています。日本列島の斜軸尖頭器石器群もその流れで理解されており、朝鮮半島からMIS(Marine Isotope Stage、海洋酸素同位体ステージ)5(13万~8万年前頃)に流入した、と推測されています。宮崎県後牟田遺跡第III文化層で示されたた九州の中期旧石器時代末から後期旧石器時代初頭に見られる鋸歯縁石器が卓越する石器群は、中国や朝鮮半島の中期旧石器時代にはすでに同様の石器群が広く分布していたことから、朝鮮半島から流入し、九州のこの時期に特徴的に広がった、と明らかになっています。

 熊本市の石の本遺跡の事例から、日本列島では37500年前頃までにはで台形様石器群が成立していた、と示されています。これらの台形様石器群には、中期旧石器時代末から後期旧石器時代初頭において、中国北部に発達した、アジア東部鋸歯縁石器群が九州に流入したことによる影響を想定できます。鋸歯縁石器群は中国北部において11万年前頃に見られ、後期旧石器時代にまで継続しました。中国北部における後期旧石器時代の鋸歯縁石器群は、点数はひじょうに少ないものの、後期旧石器的な要素の付加も見られます(関連記事)。こうした鋸歯縁石器群の変化については、41400~40400年前頃の水洞溝遺跡第1段階のユーラシアIUP石器群の影響が想定されています。朝鮮半島の後期旧石器時代では、剥片尖頭器石器群の前にMIS3以前から継続する石英を主体とする石器群が確認されており、中期旧石器時代以来の技術伝統が継続します(関連記事)。これら朝鮮半島の石器群は、中国北部の中期旧石器文化の鋸歯縁石器群と同じ系統に位置づけられそうです。

 日本列島にも影響を及ぼした鋸歯縁石器群は、中国の中期旧石器時代では、11万年前頃となる河南省許昌(Xuchang)市の霊井(Lingjing)遺跡で確認されており、霊井遺跡で発見されたホモ属の頭蓋は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)である可能性が指摘されています(関連記事)。後期旧石器時代の鋸歯縁石器群は、42000~39000年前頃となる北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)などで発見されており、田園洞個体は遺伝学的に現生人類と示されており、南回りで北上してきた、と推測されています(関連記事)。南回りの現生人類が、北上過程で石器組成を変化させていき、デニソワ人などの非現生人類ホモ属の鋸歯縁石器群を適応手段として取り入れ、この現生人類集団が朝鮮半島経由で4万年前頃、遅くとも37500年前頃までに日本列島に到来した可能性を本論文は指摘します。MIS5以降、アジア東部には数度にわって異なる現生人類が到来した可能性も、本論文は指摘します。

 本論文はこれらの知見から、日本列島における後期旧石器文化の起源と成立過程を推測します。まず、ユーラシア東部に発生した求心剥離技術を基盤とする斜軸尖頭器によって特徴づけられるアジア東部型中期旧石器群が、現生人類の早期拡散に伴って朝鮮半島経由で日本列島にMISに到来します。それ以降日本列島では、斜軸尖頭器石器群が中期旧石器時代を通じて継続します。一方で、同じくアジア東部型中期旧石器群の一部である鋸歯縁石器群が11万年前頃までに中国北部において発生し、その分布領域に現生人類の後期拡散における南回り集団が、アジア南東部経由で北上してアジア東部に遅くとも4万年前頃までに到達し、この地域の既存の石器製作技術を取り込みました。そして年代は40ka cal BPをどの程度まで遡るか不明であるが、40ka cal BPまでにはそれを自らのとして取り込んだ。この石器群は41000年前頃に、ユーラシアIUP石器群からの影響を受けつつも、基本構造は変化せずに中期旧石器時代末期に朝鮮半島経由で日本列島へと伝わり、九州に鋸歯縁石器群として特徴的に広がりました。一方、日本列島における斜軸尖頭器石器群の系統が変容し、またアジア東部型鋸歯縁石器群の影響も一部受けつつ、石の本遺跡をはじめとする台形様石器群が列島内で37500年前頃までに成立しました。

 これらの石器群に対して、レヴァントの中期旧石器時代前半の長狭ルヴァロワ石刃を特徴とするタブンD石器群を担った現生人類集団は、早期拡散によりアジア中央部西方に拡散しました。それは、アジア中央部西方において11万年前頃までに成立していた大型石刃生産や尖頭器生産や小石刃生産に特徴づけられるオビ・ラフマティアンから、アルタイIUPに代表される大型石刃を特徴としたユーラシアIUP石器群が連続的に形成されたことに現れており、これは遅くとも46000年前頃までには成立しています。この石器群は現生人類の後期拡散のうち北回り集団が担い、アジア東部では中国の水洞溝遺跡に現れています。このユーラシアIUP石器群の系統であるEUP石器群は36800年前頃までにおそらく朝鮮半島経由で日本列島へ伝われ、その最初期の事例が香坂山遺跡です。台形様石器群の成立に少し遅れて日本列島に到達したユーラシアIUP石器群の系統の流入が契機となって、日本列島の各地で分立状態にあった初期の石器群構造の再編成が始まり、おそらく相互に影響しながら変容していき、東京都府中市の武蔵台遺跡のように35300年前頃までには両系統の石器群を基盤とする石器群が形成されます。本論文はこれを、日本列島における後期旧石器文化の成立と把握しています。ただ本論文は、これらと遺伝学などで明らかになってきた人類学による現生人類拡散の仮説とが一致しないように見えることにも、注意を喚起しています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文では前提とされている日本列島の「中期旧石器文化」の存在が、現在日本列島の旧石器時代考古学でどの程度受け入れられているのか、門外漢の私にはよく分かりませんが、後期旧石器時代の前というか、4万年以上前に日本列島に人類が存在していた可能性はかなり高いように思います。ただ、その担い手がどの人類系統だったのか、現時点では断定できません。本論文が指摘するように、ユーラシア東部の後期更新世における人類進化史は、現時点で考古学と人類学の成果を必ずしも整合的に解釈できないように思えるところもあり、この点は今後の研究の進展を俟たねばならないでしょう。現時点でも、仮説の提示は可能ですが、それを確定した事実というか大前提として後期更新世ユーラシア東部の人類進化史を語ってしまわないよう、私も注意せねばなりません。

 現時点であえて推測すると、アルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)では、5万年前頃以降と考えられる、明確なIUPの出現以降でしか現生人類の存在が確認されておらず、それ以前に存在していたのはデニソワ人とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)だったので(関連記事)、タブンD石器群に由来するオビ・ラフマティアンは、現生人類からネアンデルタール人によってアジア中央部にもたらされた技術で、現生人類の直接的な到来を示しているわけではなく、5万年前頃前後の現生人類の到来と在来のデニソワ人もしくはネアンデルタール人との相互作用の中で、オビ・ラフマティアンからアルタイIUPが形成されていき、この過程でデニソワ人とネアンデルタール人は遺伝的にはほぼ消滅したのでしょう。これはあくまでも現時点での限られた証拠からの苦しい説明なので、日本列島も含めてユーラシア東部圏の後期更新世の人類史、とくに現生人類の拡散については、今後できるだけ多くの関連研究を把握し、見解を修正していかねばなりません。


参考文献:
国武貞克(2023)「日本列島後期旧石器文化の起源と成立に関する試論」『奈良文化財研究所学報102:文化財論叢』P3-16
https://doi.org/10.24484/sitereports.132169

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