仁藤敦史『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本と韓国で民族主義的感情の軋轢となることも多い、加耶もしくは任那の歴史を検証しています。伽耶とは、3~6世紀にかけて朝鮮半島南部の洛東江流域に存在した十数ヶ国の小国群の名称です。この地域は『日本書紀』では任那と呼ばれることが多く、日本では任那の方が知名度はずっと高いでしょう。伽耶とも任那とも呼ばれているように、古代のこの地域の表記や名称は多様で、伽耶や狗邪とも表記され、加耶と同源・同義の表記として、「カラ」と読まれる加羅や駕洛や迦羅や伽洛があります。「カヤ」と「カラ」の発音は通用するので、「カヤ」もしくは「カラ」と発音する地名があり、その漢字表記が定まらなかった、と考えられています。加耶の語源は、冠(カル)に由来する、との見解が有力です。加耶の範囲についても、確定的ではありません。金官加耶や大加耶や阿羅加耶や非火加耶など、加耶とつく小国は最大で7ヶ国ですが、さまざまな異字や呼称があり、すべての国に加耶とついていたわけではありません。また、加耶は洛東江流域の多数の小国すべてを総称する地名ではありません。『日本書紀』に見える任那は、個別の国名のみならず、小国群の総称としても使用されています。本書は、こうした多様な表記が史料に見える加耶もしくは任那について、考古学的成果も参照し、その具体的様相を叙述していきます。
本書は加耶の前史として、「古朝鮮」までさかのぼります。「古朝鮮」の実像は定かではなく、実在が確認できるのは紀元前2世紀の衛氏朝鮮以降で、それ以前の評価は歴史学と考古学において定まっていないようです。檀君神話については、南北朝鮮では歴史性を認める傾向が強いようですが、その形成は新しく、10~11世紀に高麗がキタイ(契丹)から侵攻された頃に原形が定まり、モンゴルによる高麗征服のさいにより充実したようです。檀君と衛氏朝鮮の間に存在したとされる箕子朝鮮は、殷の紂王の親戚で紂王を諫めた聖人である箕子が、殷滅亡後に朝鮮半島で建国した、と伝わっています。『史記』や『漢書』にはすでに、そうした話が伝わっていますが、その史実性には疑問が呈されています。衛氏朝鮮を建国した衛満は、戦国七雄の一国である燕に仕えており、朝鮮半島に亡命し、平壌に都を置いて王になった、とされます。衛氏朝鮮は漢の武帝によって滅ぼされ、朝鮮半島には前漢の直轄領として、楽浪と真番と臨屯と玄菟の4郡が設置されました。これら4郡のうち、真番と臨屯は紀元前82年に廃止され、玄菟は紀元前75年に朝鮮半島から西方へ移ったので、朝鮮半島には楽浪郡のみ残ります。2世紀後半に、後漢王朝の衰退の中で遼東半島において公孫氏が楽浪郡も支配し、これを分割して、新たに帯方郡を設置しました。魏が公孫氏を滅ぼした後も楽浪郡と帯方郡は存続しましたが、西晋末の混乱の中で、4世紀前半に楽浪郡と帯方郡は高句麗に滅ぼされます。この時代、魏以降の王朝には、韓地域は馬韓と辰韓と弁韓(弁辰)に三区分されていました。このうち弁韓が、後の加耶とほぼ重なります。『三国志』によると、辰韓の前身は辰国で、『後漢書』によると、三韓すべてが辰国で、辰王が三韓全体の王だった、と見えます。
4世紀前半以降、馬韓は百済が、辰韓は新羅が統一的国家として出現しますが、弁韓では統一的国家は形成されず、盟主的な有力国として金官と大加耶がありました。4世紀前半の加耶地域は土器に基づいて、金官(金官加耶)と阿羅加耶と小加耶と大加耶の4地域に区分されています。金官は海上交通および交易や製鉄によって維持されていたようです。金官は5世紀後半には衰え、この地域には新羅の影響が強くなっていったようで、大加耶が台頭していきます。金官自体も複数の勢力で構成されていたようで、考古学的知見からは盟主の移動が窺えます。本書は『日本書紀』の記事から、すでに4世紀において倭(日本)と加耶との通交があった可能性は高い、と指摘し、倭と百済との通交については、七支刀銘文の年代比定に基づいて369年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)と推定しています。金官の衰退に伴って加耶の中心となっていった大加耶や安羅でも、文献や考古学的知見から倭との通交の痕跡が窺えます。5世紀の朝鮮半島情勢は、百済が倭と提携して高句麗に対抗する形で進み、大加耶が百済とともに高句麗から侵攻された新羅に援軍を派遣したこともありました。ただ、5世紀後半に、百済が大加耶とともに新羅へ援軍を派遣したさいに、兵站維持のため百済が加耶領内に兵士や城を配置したことや、百済の都が高句麗からの侵略によって陥落したことなどで、大加耶は百済と疎遠になっていき、新羅と親密になっていきます。その結果、512年以降、百済が加耶諸国へと侵攻します。
加耶諸国(弁韓)や百済(馬韓)は4世紀以降、倭と密接な関係を築いていき、「倭系」の人々も存在していたようです。本書は「任那日本府」の実態を、加耶の独立を維持しようとした「倭系」の人々(倭臣)と把握し、そうした人々は土着化してヤマト王権との関係が希薄化していき、ヤマト王権側との意向通りに動かないこともあり、恒常的な外交機関ではなかった、と指摘します。馬韓でも百済の直接的支配を受けていなかった栄山江流域には「倭系」前方後円墳が500年前後の一時期に造られましたが、その被葬者は筑紫出身の「倭系」の人々で、その一部が百済に仕えた、と推測されています。本書はこの栄山江流域の「倭系」前方後円墳について、三韓とは区別される「倭系」の葬送観念を示しており、ヤマト王権による領域支配とは直接的に関係しない、と評価しています。528年の磐井の乱後に、筑紫のヤマト王権への従属は強化され、渡海して百済や加耶に土着する倭人は減少しただろう、と本書は推測します。最近の古代ゲノム研究では、4~5世紀の加耶における、低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が明らかになっており、そうした「縄文人」的な遺伝的構成要素は新石器時代から続いている、と推測されていますが(関連記事)、本書で示されている古墳時代の日本列島と朝鮮半島南部との結びつきを考えると、古墳時代に日本列島からもたらされた可能性は低くないように思います。
上述のように、512年以降、百済の加耶諸国への侵攻が本格化し、新羅も524年以降に加耶諸国への侵攻を開始します。金官は532年に滅亡し、加耶諸国は倭に援軍を要請するものの、倭(ヤマト王権)は有効な手段を取れず、加耶諸国は百済と新羅に侵食されていきます。その後、「任那復興会議」が2回開かれたものの、新羅と百済の関係が悪化し、新羅が加耶諸国へと勢力を拡大する中で、562年には加耶諸国は最終的に新羅へと併合されます。この後も、倭は新羅と百済に任那の調を要求し続け、『日本書紀』で最後に任那の記載が見えるのは、646年でした。加耶諸国の完全併合後、金官の王族は新羅で王族身分が与えられ、新羅による朝鮮半島統一に貢献した将軍の金庾信はその末裔です。
本書は加耶の前史として、「古朝鮮」までさかのぼります。「古朝鮮」の実像は定かではなく、実在が確認できるのは紀元前2世紀の衛氏朝鮮以降で、それ以前の評価は歴史学と考古学において定まっていないようです。檀君神話については、南北朝鮮では歴史性を認める傾向が強いようですが、その形成は新しく、10~11世紀に高麗がキタイ(契丹)から侵攻された頃に原形が定まり、モンゴルによる高麗征服のさいにより充実したようです。檀君と衛氏朝鮮の間に存在したとされる箕子朝鮮は、殷の紂王の親戚で紂王を諫めた聖人である箕子が、殷滅亡後に朝鮮半島で建国した、と伝わっています。『史記』や『漢書』にはすでに、そうした話が伝わっていますが、その史実性には疑問が呈されています。衛氏朝鮮を建国した衛満は、戦国七雄の一国である燕に仕えており、朝鮮半島に亡命し、平壌に都を置いて王になった、とされます。衛氏朝鮮は漢の武帝によって滅ぼされ、朝鮮半島には前漢の直轄領として、楽浪と真番と臨屯と玄菟の4郡が設置されました。これら4郡のうち、真番と臨屯は紀元前82年に廃止され、玄菟は紀元前75年に朝鮮半島から西方へ移ったので、朝鮮半島には楽浪郡のみ残ります。2世紀後半に、後漢王朝の衰退の中で遼東半島において公孫氏が楽浪郡も支配し、これを分割して、新たに帯方郡を設置しました。魏が公孫氏を滅ぼした後も楽浪郡と帯方郡は存続しましたが、西晋末の混乱の中で、4世紀前半に楽浪郡と帯方郡は高句麗に滅ぼされます。この時代、魏以降の王朝には、韓地域は馬韓と辰韓と弁韓(弁辰)に三区分されていました。このうち弁韓が、後の加耶とほぼ重なります。『三国志』によると、辰韓の前身は辰国で、『後漢書』によると、三韓すべてが辰国で、辰王が三韓全体の王だった、と見えます。
4世紀前半以降、馬韓は百済が、辰韓は新羅が統一的国家として出現しますが、弁韓では統一的国家は形成されず、盟主的な有力国として金官と大加耶がありました。4世紀前半の加耶地域は土器に基づいて、金官(金官加耶)と阿羅加耶と小加耶と大加耶の4地域に区分されています。金官は海上交通および交易や製鉄によって維持されていたようです。金官は5世紀後半には衰え、この地域には新羅の影響が強くなっていったようで、大加耶が台頭していきます。金官自体も複数の勢力で構成されていたようで、考古学的知見からは盟主の移動が窺えます。本書は『日本書紀』の記事から、すでに4世紀において倭(日本)と加耶との通交があった可能性は高い、と指摘し、倭と百済との通交については、七支刀銘文の年代比定に基づいて369年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)と推定しています。金官の衰退に伴って加耶の中心となっていった大加耶や安羅でも、文献や考古学的知見から倭との通交の痕跡が窺えます。5世紀の朝鮮半島情勢は、百済が倭と提携して高句麗に対抗する形で進み、大加耶が百済とともに高句麗から侵攻された新羅に援軍を派遣したこともありました。ただ、5世紀後半に、百済が大加耶とともに新羅へ援軍を派遣したさいに、兵站維持のため百済が加耶領内に兵士や城を配置したことや、百済の都が高句麗からの侵略によって陥落したことなどで、大加耶は百済と疎遠になっていき、新羅と親密になっていきます。その結果、512年以降、百済が加耶諸国へと侵攻します。
加耶諸国(弁韓)や百済(馬韓)は4世紀以降、倭と密接な関係を築いていき、「倭系」の人々も存在していたようです。本書は「任那日本府」の実態を、加耶の独立を維持しようとした「倭系」の人々(倭臣)と把握し、そうした人々は土着化してヤマト王権との関係が希薄化していき、ヤマト王権側との意向通りに動かないこともあり、恒常的な外交機関ではなかった、と指摘します。馬韓でも百済の直接的支配を受けていなかった栄山江流域には「倭系」前方後円墳が500年前後の一時期に造られましたが、その被葬者は筑紫出身の「倭系」の人々で、その一部が百済に仕えた、と推測されています。本書はこの栄山江流域の「倭系」前方後円墳について、三韓とは区別される「倭系」の葬送観念を示しており、ヤマト王権による領域支配とは直接的に関係しない、と評価しています。528年の磐井の乱後に、筑紫のヤマト王権への従属は強化され、渡海して百済や加耶に土着する倭人は減少しただろう、と本書は推測します。最近の古代ゲノム研究では、4~5世紀の加耶における、低い割合の「縄文人」的な遺伝的構成要素を有する個体が明らかになっており、そうした「縄文人」的な遺伝的構成要素は新石器時代から続いている、と推測されていますが(関連記事)、本書で示されている古墳時代の日本列島と朝鮮半島南部との結びつきを考えると、古墳時代に日本列島からもたらされた可能性は低くないように思います。
上述のように、512年以降、百済の加耶諸国への侵攻が本格化し、新羅も524年以降に加耶諸国への侵攻を開始します。金官は532年に滅亡し、加耶諸国は倭に援軍を要請するものの、倭(ヤマト王権)は有効な手段を取れず、加耶諸国は百済と新羅に侵食されていきます。その後、「任那復興会議」が2回開かれたものの、新羅と百済の関係が悪化し、新羅が加耶諸国へと勢力を拡大する中で、562年には加耶諸国は最終的に新羅へと併合されます。この後も、倭は新羅と百済に任那の調を要求し続け、『日本書紀』で最後に任那の記載が見えるのは、646年でした。加耶諸国の完全併合後、金官の王族は新羅で王族身分が与えられ、新羅による朝鮮半島統一に貢献した将軍の金庾信はその末裔です。
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