中世前期カルパチア盆地の人口史
古代ゲノムデータを用いて中世前期カルパチア盆地の人口史を検証した研究(Gerber et al., 2024)が公表されました。本論文は、現在のハンガリーで発見された古代人から得られたゲノムデータを用いて、その遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を分析し、中世前期カルパチア盆地の人口動態を明らかにします。また本論文は、同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBD)共有の分析を通じて、中世前期カルパチア盆地の人口構造と人口動態を詳細に示し、地理的に近くても異なる人口史が明らかになり、広範な均質化および再編成とともに、フンとアヴァールとハンガリーの征服期の移民集団間の不連続性も浮き彫りになります。
●要約
中世前期にカルパチア盆地では、とくに約250年間のアヴァールの支配下でかなりの人口統計学的変化があり、その後で9世紀後半にこの地域では初期ハンガリー人が入植しました。本論文は、現在のハンガリーから得られた古代人296点の標本の遺伝学的分析を提示し、これには103点のショットガン配列決定されたゲノムが含まれます。本論文はIDB断片共有網を用いて、5~11世紀のこの地域の人口の構造および動態への詳細な洞察を提供し、特定の小地域にとくに焦点を当てます。本論文の評価は、密接な地理的近さの共同体間でさえ、トランスダニュービア地方における空間的に異なる歴史を明らかにし、密な標本抽出と分析の重要性を浮き彫りにします。本論文の調査結果は、広範な均質化および再編成や、フンとアヴァールとハンガリーの征服期の移民集団間の不連続性を、ハンガリー人征服者と関連する祖先系統の拡大および統合とともに浮き彫りにします。
●研究史
ヨーロッパ中央部における大移動期の人口史は、文献と考古学的研究によって記録されてきたように、さまざまなヨーロッパ東西の文化的および生物学的な影響を受けた広範な規模の複雑さによって示されました。近年では、カルパチア盆地(現在のハンガリーの領域が含まれます)が考古ゲノム学的研究[8~11]の対象となっており、この期間の人口事象が段階的に解明されています。
パンノニアにおけるローマ帝国の崩壊(433年)と586年のアヴァールの到来の間に、カルパチア盆地には、多様な民族的および文化的背景のある、スエビ人(Sueb)やゴート人やランゴバルド人(Lombard)やゲピド人(Gepid)など、一時的な集団と政体が存在しました。この期間には、ユーラシア北東部起源のアヴァール人支配層[9、10]がさまざまなヨーロッパ東部集団とともに、この地域に定住しました。文献および考古学的資料によると、アヴァール可汗国の人口は文化的にきわめて多様でした。急速に拡大するカロリング帝国との20年間の紛争によってアヴァール可汗国は811年までに崩壊し、より小さな地域単位に分かれました。以前のパンノニア州、つまりトランスダニュービア(現在のハンガリー西部の領域に相当します)およびドラーヴァ(Drava)川とサヴァ(Sava)川の河間地域はカロリング帝国の一部になりましたが、ドナウ川とティサ(Tisza)川の河間地域およびトランス・ティサ地域は可汗の支配下に留まりました。ドナウ川とティサ川の河間地域およびトランス・ティサ地域は以下では、大ハンガリー平原(Great Hungarian Plain、略してGHP)と呼ばれます。可汗国の以前の領域は、北西部はモラヴィア人、南西部はクロアチア人に支配され、両者ともにカロリング帝国の支配下にありました。カロリング帝国のこの拡大に続いて、9世紀には対応する地域の文化的影響の広がりと戦略的統合がありました。これには、行政単位としてのより小さくて孤立した郡の確立、および新たに獲得した領域の人々のキリスト教化の計画的試みが含まれます。
トランスダニュービアの権力の中心地は、840年頃にプリビナ(Priwina 、Pribina)とチェズィル(Chezil)によってザラヴァール・ヴァールスズィゲト(Zalavár-Vársziget、略してZV)に創設されました。その人口はおそらく、バルト海から黒海までのさまざまな地域から到来した共同体によって補われました。840~870年の間に、3ヶ所の教会がここに建てられ、支配層とその使用人がそこに埋葬されました。880年頃に、集落は文化的に多様な人口のいる王室の中心地となりました。896年頃、ハンガリー人征服者(中世前期マジャール人とも呼ばれます)の到来のため、ブラスラフ王子(Prince Braslav)はアルヌルフ王(King Arnulf)から、集落の強化を命じられました。これら新参者は10世紀にトランスダニュービアを侵略し、この地域全体に定住して、おそらくは以前の人口集団の支配階級のみを置換しました。ZVは依然として重要な集落で、現在もなお存在するショモジ(Somogy)およびザラ(Zala)の両郡の首府として認識されていました。人口密度が増加し、ベネディクト会の教会が1019年に奉献され、その周辺の墓地はその後数十年間にわたって使用されました。
カルパチア盆地は、ハンガリー人征服者がこの地域に到来し、10世紀末までにハンガリー王国を形成すると、大きな文化的変化に直面しました。10世紀全体が征服期と呼ばれています。この期間に、すべての以前の行政構造は無視され、新たな中心地が設立されました。9世紀の人口がどの程度生き残り、新参者と共存したのか、あるいは混合したのかは、不明なままです。これらの征服者は在来の人口集団とともに、最終的にはアルパディアン(Árpádian)期(11~13世紀)にキリスト教化されました。
●研究の目的と標本抽出の焦点
6~11世紀の刊行されている古代DNA標本のほとんどがGHPに由来する一方で[9、10]、トランスダニュービア地方については、5世紀以後のこの地域におけるかなりの歴史的出来事にも関わらず、この期間の古代人のゲノムがほぼ完全に欠けています。本論文の主要な目的は、とくに8~11世紀に焦点を当てた、この地域の人口集団のより包括的な遺伝的データセットの作成です。これは、人口連続性の検証や、後期アヴァール可汗国からアルパディアン期までの移行期における優勢な共同体の一般的な構造およびつながりの確証のため行なわれました。本論文の目的は、カルパチア盆地全域の局所的な人口集団の多様性と安定性や、アヴァールおよびハンガリーの征服事象と関連する移民からの混合動態の分析です。
全体として294点の標本がトランスダニュービア地方のさまざまな遺跡から収集され(図1)、ZVとセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)地域とヴィシェグラード(Visegrád)には、それぞれが研究対象の歴史的移行のじゅうような側面を表しているため、特別な注目が払われました。ヴィシェグラードでは、シブリク(Sibrik)の丘とセーチェーニ(Széchenyi)通りの25ヶ所の遺跡が対象とされました。カロリング期にモサブルク(Mosaburg)という名称で最大の中心地として知られるZV遺跡は、連続した考古学的3層準にわたって標本抽出され、それは、9世紀(ZVI)と10世紀(ZVII)と11世紀(ZVIII)です。セーケシュフェヘールバールは10世紀に新たに形成された集落で、ハンガリー王国の王室の中心地となりました。先行する数世紀の人口状況は、近隣の遺跡の標本抽出を通じて表されます。2層準(9世紀と10~11世紀)から標本抽出されたヒモド・カポスズタス(Himod-Káposztás、略してHK)は移行期のより小さな農村集落を表していましたが、ヴィシェグラードは11世紀に新たに形成されたハンガリー王国の宗教的および政治的中心地でした。以下は本論文の図1です。
●標本と手法
最初に収集された295点のヒトDNA標本のうち、103点がより深いショットガン配列決定に適しており、約0.019~2.14倍の平均ゲノム網羅率が得られました(中央値は約0.86倍)。124万パネル[14]のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)の数の範囲は18875~1008685で(中央値は563152)で、データセットの深い分析が可能となります。さらに、ミトコンドリアゲノム捕獲での184点のミトコンドリアゲノムと56点のY染色体STR(Short Tandem Repeat、縦列型反復配列)特性が、ZVとHKとヴィシェグラードとシャールボガールド(Sárbogárd)の遺跡から得られた標本で作製されました。8~10世紀のトランス・ウラルのウェルギ(Uyelgi)遺跡から得られた標本[15]ウェルギ21号(ID MS20)は、ハンガリー先史時代における重要性のため平均網羅率1.89倍(124万パネルで952072ヶ所のSNP)で再配列決定され、ユーラシア北東部とシベリア西部の遺伝的祖先系統を区別する代理、および本論文の分析における接続体系として用いられました。さらなる標本の詳細は補足S1に示されています。以下では、本論文のデータセットが5~11世紀の現在のハンガリーの領域から得られた古代DNA標本[8~11]と共分析されました。f統計については、先行研究[16]の標本も含められました。したがって、IBD分析にも適した完全なデータセットは、416点のゲノムの最終的な一式から構成されました。
●5~11世紀のカルパチア盆地におけるゲノム組成
ユーラシア西部現代人の背景に投影された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図(図1B)と、K(系統構成要素数)=6の教師無ADMIXTURE分析の両方が、トランスダニュービア地方の研究対象の標本(5~12世紀)間の大きな多様性を示します。この多様性は、ミトコンドリアとY染色体両方の水準で広範なユーラシアマクロハプログループを表す、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)構成にも反映されています。
調べられたデータセットの変異性を説明するため、まずヨーロッパ祖先系統のみを有する個体群がいくつかのf₄分析によって分離され、これらが人口構造について検証され、補足S3.2でさらに説明されています。本論文の分析は、ヨーロッパ祖先系統のみの個体間における、主要な3遺伝的集団と、集団3の2下位集団(集団3.1および3.2)を明らかにしました。これはPCAの位置(図2A)とADMIXTUREの割合にも反映されています。さらなるf₄検定の実行後に、これらの集団はこの地域における単一の遺伝的勾配を形成しており、ほぼ南北の軸で分布している、と分かりました(図2A)。集団1および2が両極を表している一方で、集団3は遺伝的に集団1と2の間の混合もしくは勾配です。したがって、以下の分析では集団がヨーロッパ勾配3と呼ばれます。この説明は、先行研究[10]によって特徴づけられたカルパチア盆地ヨーロッパ人の多様性の改良版です。近東祖先系統が集団1および勾配3.1と強く相関していることも見つかりました。集団1と勾配3.1の遺伝的構成は、そのPCAの位置および片親性遺伝標識とともに、先行研究[18]で観察されたように、古代末期および/もしくはバルカン半島が研究対象地域で強い影響を及ぼした、と示唆します。これは、千年紀前半のバルカン半島における影響と比較しての、現在のハンガリーの領域における同様の影響を示唆しています。同様に、集団2は先行研究[11]で部分的に説明されたように、1もしくは複数のヨーロッパ北部からの影響と並行しているかもしれません。本論文のf₄分類の結果は、その後のIBD分析でも確証されました。ヨーロッパと近東とコーカサスの祖先系統のみを有する個体群は以後「CB-EUR」と呼ばれ、それは、近東およびコーカサス祖先系統はともに見られることが多く、地域的なIBD分析では特定の集団内分離を示さないからです(後述)。先行研究[18]に基づくと、これらの祖先系統はバルカン半島にローマ期末までに現れ、研究対象地域の在来の人口構成の一部と考えられています。以下は本論文の図2です。
これらの遺伝的集団/勾配および非ヨーロッパ祖先系統を有する個体群の年代と地理の分布(図2B)は、経時的およびトランスダニュービア地方とGHPとの間で、10世紀まで経時的に変わります。調べられた全標本のほぼ半分にはいくらかの非ヨーロッパ祖先系統があり(f₄統計で検証されました)、ヨーロッパ東部祖先系統の割合は、トランスダニュービア地方と比較してGHPでは2倍でした(図2B)。f₄統計は祖先系統の量を検出できないかもしれない、と注意することが重要です。したがって、少ない割合のヨーロッパ東部祖先系統がCB-EUR個体群に存在するかもしれませんが、これがさらなる分析を歪めるわけではありません。
●カルパチア盆地内のゲノムハプロタイプ断片共有
アレル(対立遺伝子)頻度手法の方法論的限界のため、ancIBDを用いてのIBD分析も、GLIMPSE位相化および補完後に高品質の標本に適用されました。詳細は注1(後述)および資料と手法に記載されており、結果については、補足S4項と表S6に示されています。合計IBDが10cM(センチモルガン)超のIBD接続数に相当する、次数中心性が定義され、これは世紀や地域で異なります。無向図に辺重み付き弾力埋め込み配置図を適用すると、ヨーロッパ東部祖先系統の優勢な個体群によって主要な2クラスタ(まとまり)が形成されます。これは年代順とほぼ重なり、クラスタはほぼ890年代頃のハンガリー人征服事象によって分離されます。ウラル南部のカラヤクポヴォ(Karayakupovo)文化(8~10世紀)と関連する個体ウェルギ21号は、CEE後個体群(post-Conquest individuals with East-Eurasian ancestry、ユーラシア東部祖先系統を有する征服後個体群)との広範なつながり、およびユーラシア東部祖先系統を有する個体群(CEE前個体群)クラスタとの1点のみの10cMのつながりを示し、この2クラスタの分離を補強します(図3)。CB-EURの個体群はかなり均一に分散したつながりを示しており、より大きな人口規模に起因する可能性が高そうです(後述)。次に、年代分布(CEE前、7~9世紀のCE、10~11遺跡のCEE後)に基づいて、これらユーラシア東部祖先系統クラスタが再定義されました。ユーラシア東部祖先系統の年代順とIBDクラスタ分類はおおむね一致しますが、一部の例外が見つかりました(詳細は後述の考察の項目)。以下は本論文の図3です。
CEE後クラスタ個体のほとんどは、CEE前クラスタ個体群と比較して、ユーラシア人PCA上では異なる勾配に位置します。多くはウェルギ21号に向かって位置し、ほぼ重なっており、ウェルギ21号と多くの個体の広範なIBDのつながりと一致します。いくつかの10~20cMのつながりにも関わらず、CEEの前後のクラスタ間の顕著な不連続性も同様に見つかりました(図3)。CEEの前後のクラスタの個体のほとんどはユーラシア西部祖先系統も有しているので、補足3.2項においてこの構成要素を完全に欠いている個体が特定されました。この分析の目的は、CEEの前後のクラスタ間の散発的なつながりが、CB-EUR個体群か在来のユーラシア東部祖先系統との混合か共通のユーラシア東部祖先系統に由来するのかどうか、判断することです。これらのつながりは一部の散在する地域において10世紀後半のCEE後の個体群で蓄積され(例外となる1個体については、考察の項目で後述)、CEE後クラスタへのこれらの系統の散発的で地域的に異なる生存、さらには共通のユーラシア東部祖先系統ではなく局所的な混合を示唆しています。
CEE前クラスタのCB-EURとのIBDのつながりは、CEE後クラスタと比較してずっと疎らで、CB-EURとの平均的な個体のつながりは、CEE前では0.54、CEE後では1.39です。逆に、CEE前(約3.16)とCEE後(約2.55)の平均的なクラスタ内のつながりは、CB-EUR前(CEE前と同年代のCB-EUR個体群、約0.38)とCB-EUR後(CEE後と同年代のCB-EUR個体群、約0.30)と比較すると、相互ではかなり類似しており、CB-EUR個体群よりずっと高くなっています。親族関係水準(1~5親等)のつながりの網は、アヴァール征服期とハンガリー征服期の間で異なります。CEE前クラスタのそうしたつながりはクラスタ内に留まっており、例外はキスクンドロズマ・ケッテーシュハタール2(Kiskundorozsma-Kettőshatár II、略してKK2)遺跡の標本1点(KDA-188)で、すべて同じ遺跡に限定されています。逆に、CEE後クラスタのつながりも同じ遺跡に限定されており、おもにCB-EUR個体群とCEE後個体群との間で見られます。CEE後の男女は両方とも、CB-EUR個体群とのこの混合に関わっており、明らかに同じ割合でした。この結論は、ユーラシア西部系の片親性遺伝標識とともに、CEE後個体群で見られる、ユーラシア東部系と推定されるY染色体ハプログループ(YHg)、つまりC2・Q1・N1a・R1a1a1b2(Z93)、およびミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)、つまりA・B・C・D・G・M・N1a1a1a1a・N9・R・U4d2・X2f[10、15]に基づいています。もう一つの注目すべき特徴はCEE前クラスタの相対的孤立で、主成分1(PC1)の位置に基づくユーラシア西部人との広範な混合にも関わらず、CB-EURのつながりの少なさは、この構成要素の外来供給源を示唆しており、先行研究[23]および本論文のf₄結果と一致します。
IBDの結果、とくに上述のクラスタ間の網状密度の違いは、hapROH で計算されるように、CEE後クラスタと比較してのCEE前クラスタの有効人口規模(Nₑ)を考慮すると、より顕著になります。CEEの前後のクラスタのNₑが計算され、CB-EUR個体群の同時代の部分集合と比較されました。じっさいの人口規模に基づく推定値は、堅牢な歴史的もしくは人類学的な人口統計学的データの不足のため、この期間に関しては問題ですが、それにも関わらず概算は推定されました。本論文の分析から、アヴァール期の有効人口の約20.82%がCEE前クラスタに属しているのに対して、10~11世紀のNₑのわずか約13.01%がCEE後クラスタに属していた、と示唆されます。これは、クラスタ間のIBDの網状密度の違いを説明し(つまり、人口がより少ないと、内部のIBD共有がより多くなります)カルパチア盆地の50万~200万個体およびハンガリー人征服者の5万~15万個体との歴史的な推定値(CEE後と重複しているかもしれず、考察の項目で後述)と一致します。Nₑは社会的慣行および結婚パターンに強く影響を受けるかもしれないので、人口調査の人口規模の指標では必ずしもないことに要注意です。
CB-EURのIBDのつながりはf₄に基づく分類を反映しており、CB-EUR勾配のさまざまな区画は異なる共同体と集団で構成されている可能性が高いことも示唆しています。ヨーロッパ集団2に属する個体群でさえ、7世紀の前後で不連続性を示しており、同様の地域的な遺伝的構成を共有する異なる集団の存在が示唆されます。
●5~11世紀における人口集団の遺伝的事象
5~11世紀の共同体の社会的および地域的動態をさらに理解するため、IBDデータに基づいて共同体の交流網の傾向が分析されました。さまざまな重み付け手法を用いて、重み付けされた次数中心性、つまり、遺跡間(kB)および遺跡内(kW)の相互作用について別々に計算された、kと表示されるつながりの数が調べられました。トランスダニュービア地方とGHPで別々に、およびこれら2ヶ所の大地域の組み合わせで、kB値とkW値が計算されました。図4で示されるように、k値は各年代間隔(つまり、世紀)についても計算されました。この手法によって、網状構造における時空間両方の違いを把握できるようになります。さらに、CB-EURクラスタのみのk値にとくに焦点が当てられ。それは、この値が、外来要素が過剰に表されるより広範なデータセットと比較して、異なる動作をするかもしれないからです。CB-EURのつながりの少なさのため、kBについて累積手法が開発されました。2通りの別々の重み付け手法が用いられましたが、その理論はじゅうらいの手法と類似しており、それは、つながりの重み付けの数の使用と、先行する一群から各後続の一群への標本の追加が含まれ目からです。この手法の背後にある理論的根拠は、狭い時間区画によって隠されるかもしれないつながりの検出です。本論文の方式を用いて、この手法は、それを使わなければ隠れているままだっただろう、局所的な傾向を浮き彫りにします。以下は本論文の図4です。
累積kBの傾向は、CB-EURのみ対全個体で計算すると異なり(図4A)、全個体にはこれにはユーラシア東部祖先系のある個体が含まれ、これはユーラシア東部祖先系統を有する人々と比較しての在来(CB-EUR)共同体の大きく異なる社会組織を示しています。しかし、特定の共通点も以下のように現れています。(1)トランスダニュービア地方とGHPの共同体間のつながりを示す統合値は、両事例で同じ相対的傾向を示します。したがって、トランスダニュービア地方とGHPは9~10世紀の変わり目まで比較的分れされたままで、この頃にハンガリー人の征服によってこれらの地域間の接触が増加した可能性は高そうです。(2)GHPの共同体はトランスダニュービア地方の共同体とは対照的に、この転換期におけるkB値の変化を示さず、GHPからトランスダニュービア地方への移動が示唆されます。本論文の代替的な重み付け手法の一つを用いると、この傾向はトランスダニュービア地方のCB-EUR集団ではずっと顕著です。GHP共同体における7世紀以降の遺跡間のつながりの突然の増加は、アヴァール期の東方起源階層内における女性族外婚が伴う定住生活様式を示唆した、先行研究[23]の観察と一致します。
従来のように計算されたkB(図4C)は、7世紀と10世紀における2回の大きな頂点を明らかにし、遺跡間の集中的な接触と遺跡間の安定性の2回の波を示唆します。最初の波が7世紀の変化するアヴァール社会と相関していたのに対して、第二の波は9世紀~10世紀の変わり目におけるハンガリー人の征服によって促進された再編と一致しました。かなり小規模な共同体の安定した生活様式は、クンペザー=フェルセペザー(Kunpeszér-Felsőpeszér、略してKFP)遺跡[10]やクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡[9]など7世紀の一部の遺跡、さらには7世紀の大規模埋葬遺跡であるマダラス=テグラヴェト(Madaras-Téglavető、略してMT)の数点の標本にさえ反映されており、この遺跡は生物学的性別に関わらず、高水準の遺跡内のつながりを示します。この観察は、この期間における女性族外婚についての以前の調査結果[23]をさらに多様化させます。それに加えて、データはGHPの8~9世紀の変わり目における遺跡間のつながりの顕著な増加も示しており、その期間におけるある程度の人口移動もしくは変化を示唆しています。
図4Dでは、kW値は図4CのkBを補完しています。図4C・Dの共同解釈には、いくつかの注目に値する特徴があります。まず、前世紀と比較しての、GHP における8世紀~9世紀の変わり目の頃の接触増加で、これは研究史の項で説明されている変化する政治環境と関連する事象を反映しているかもしれませんが、他の仮定的状況もあり得ます。別の注目すべき特徴は、とくにGHPと比較しての、10世紀トランスダニュービア地方の高いkW値です。この現象は、年代順の割り当ての偏りから生じているかもしれませんが、標本数は10世紀の一群で最多であり(全体で103点、トランスダニュービア地方では33点)、同じ一群のkB値はGHPと同時で、この仮定的状況の可能性は低そうです。観察されたkWがデータセットの真の特徴ならば、GHPと比較して、トランスダニュービア地方における移動の数世代の遅延を示しているかもしれません。この仮定的状況は、ハンガリー人の征服は東方から西方の領域へのカルパチア盆地における一連の出来事だった、とする考古学および歴史のデータと相関しています。一方で、この現象は、先行研究[10]で示されているように、トランスダニュービア地方とGHPの遺跡間の異なる標本抽出戦略からも生じている可能性があり、多くの特徴的な軍事関連墓地が標本抽出されており、これらの墓地には、生物学的共同体に基づく共同体埋葬地と比較して、さまざまな組織とIBDのパターンがあります。ハンガリー人の征服後、kW値は両地域【トランスダニュービア地方とGHP】で数世紀にわたってゆっくり増加する傾向にあり、より安定して確立した共同体制度を示しています。
●考察:5~10世紀を通じてのCB-EURクラスタ内の変動
本論文の分析によって定義されるCB-EUR遺伝的勾配の遠方断片の年代順に変化する構成は、千年紀後半のカルパチア盆地における複雑な人口仮定を明らかにします。ヨーロッパ集団2の個体群は、関連する勾配3.2とともに、トランスダニュービア地方におなり多く存在します。地域間の共通要素はヨーロッパの遺伝的集団1と近東祖先系統の比例的な減少や、11世紀に向かっての勾配3の比例的増加(つまり、集団1および2の勾配3への統合)です。10世紀における2ヶ所の地域の比例的類似性は、研究対象地域全体のさまざまな集団の融合過程を示唆しており、これは同様にIBD断片のつながりの動態によって確証されます。
さまざまな地域もしくは層準間の勾配の類似性は、ヨーロッパ集団2がIBDの結果に基づくと7世紀の前後の不連続性を示すように、生物学的水準でさえ集団の帰属性を必ずしも示唆していない、と浮き彫りになります。この観察で強調されるのは、PCAとADMIXTUREやf統計に基づく手法など進化指向の技術は、頻繁に混合する環境では人口集団を正確に特徴づける能力に限界がある、ということです。したがって、そうした結果から導かれる結論は、注意して取り組まれねばなりません。しかし、特定の傾向は見逃されるべきではありません。たとえば、征服前の期間には、考古学的調査結果によって示唆されるように、チャクベレニー(Csákberény)周辺に残存していたローマ化した人口集団の存在が、この遺跡の個体群の集団1/近東遺伝的構成に反映されています(図3)。特定の要素の蓄積はさらに、集団2のいるHK遺跡や、集団1個体群のいるGHPのKK2およびJHT遺跡[10]における一部の局所的な孤立を示唆していますが、これらは考古学的背景によってあまり裏づけられていません(図3)。しかし、この遺伝的孤立は、KK2 遺跡などではCEE前個体群とのつながりによって緩和されています。
●考察:ハンガリー人の征服前後のユーラシア東部祖先系統を有する共同体の動態
最近の研究は[9、10、23]、初期アヴァール可汗国支配層におけるユーラシア東部祖先系統の優勢を浮き彫りにしてきており、移民の重要な遺伝的供給源としてのこれらの集団を示唆しています。したがって本論文では、本論文で定義されるCEE前のクラスタはおもにアヴァールのユーラシア東部中核と遺伝的に関連する個体群を表している、と結論づけられますが、使用された民族の帰属性と遺伝的分類が直接的には対応しないことも認められます。同様に、CEE後のクラスタはハンガリー人の征服およびその子孫と強く関連しているかもしれません。CEEの前後のクラスタ間の顕著な不連続性は、散発的なIBDのつながりによって示唆されており、これはほぼ10世紀後半以降の墓地でのみ蓄積しており、CEEの前のクラスタ系統の限られた局所的存続を示唆しています。唯一の体系的例外はカロス(Karos)墓地で、ここはカルパチア盆地における最初期のハンガリー人征服者の墓地の一つを表していますが、CEEの前のクラスタとの最も強いIBDのつながりも示します。一方で、ここで観察される多様な遺伝的背景は、武装した男性埋葬の比率や墓地の資料で見つかった多様な文化的要素によって証明されるように、軍隊の単位内に位置づけられるこの共同体の構成員のさまざまな起源を示唆しています。さらに、先行研究[10]によって示唆された、征服者への5世紀のフン期のユーラシア東部遺伝的祖先系統の連続性とは対照的に、本論文のデータは、研究対象地域のCEE後の個体群におけるこの祖先系統の欠如もしくは喪失を示唆します。しかし、カルパチア盆地におけるより大きな時間の間隙とフン期の標本の限定的な数は、遠く散発的な遺伝的つながりを不明瞭にするかもしれません。
CB-EURとのハンガリー人征服者のIBDのつながりは、地元民との直接的な混合を論証しますが、東部アヴァール人と同時代のCB-EURとの間のそうしたつながりの少なさは、とくにこれらの集団の相対的な人口規模を考えると、注目に値します。この違いはf₄統計の結果によっても浮き彫りになり、CEEの前後のクラスタについてさまざまなユーラシア西部祖先系統が示唆されます。しかし、これらの結果はさまざまな方法で解釈できます。先行研究[9、23]によって以前に論証されたアヴァール人支配層の遺伝的孤立は、今や本論文のIBD分析によって裏づけられます。これは、CEEの前後のクラスタに属する共同体の異なる社会組織を裏づけます。
本論文の調査結果は、アヴァール社会の一般的な居住パターンとしての拡張女性族外婚に関して、先行研究[23]の微妙な観点を提供します。図4に要約された結果に基づくと、アヴァールの共同体は遺跡間のつながりの大規模で2回の波でのかなりの拡張族外婚(女性族外婚を原因とする可能性が高そうです)を示しており、最初は7世紀で、次に8~9世紀の変わり目です。この観察は、生物学的性別に関わらず、ホルトバージ・アルクス(Hortobágy-Árkus、略してARK)遺跡やスザヴァス・グレクサ(Szarvas-Grexa、略してSZRV)遺跡など、アヴァール後期の遺跡の高い遺跡内の親族関係水準のつながり(図3)によってさらに裏づけられます。注目すべきことに、先行研究[23]で調べられた遺跡群では、多くの女性が研究対象の家系とはつながっておらず、多くの家系図を形成する女性は墓地には存在しません。
より広範な複数の遺跡(大地域)モデルでは、本論文の調査結果は異なる社会構造を示します。しかし、kB値の低下が観察される期間には、近隣の村落からの族外婚を除外できません。この見解は、遠方の村落間の大規模な移動を示唆しない、先行研究[23]のストロンチウム同位体結果によっても裏づけられます。アヴァール人で見られる相対的な孤立(図3)は、その最終的な消滅とその後の遺伝的および文化的継承を説明できるかもしれません。さらに、これらの結果から、CEEの前のクラスタユーラシア西部(可能性が高いのは、ヨーロッパ東部と草原地帯および/もしくはコーカサス)の混合はおもにカルパチア盆地外に由来した、と示唆され、これは以前の観察[23]と一致します。これは、アヴァール期における優勢なユーラシア西部の遺伝的基盤を示唆しており、今では、ユーラシア東部の支配層家族への混合を通じてのみ、たどることができます。
●考察:トランスダニュービア地方における小地域の遺伝的傾向
トランスダニュービア地方のIBD網に焦点を当てて、生態学的および年代順の分布にしたがって遺跡が分類されました(図5)。スゾラッド(Szólád)遺跡の7世紀初期の居住から発見された2個体(AV1とAV2、1親等の親族)は、研究対象の遺跡のほとんどの個体と広範なつながりを示し、最も注目すべきつながりはモサブルクのZVです。神子遺物のないランゴバルド期の墓地の堆積物充填物から回収されたこの2個体は、それにも関わらず、おそらくは7世紀頃に到来した、この地域における遺伝的に成功した(および大きい可能性が高い)基盤の存在を示唆します。モサブルクが設立された数世紀前のこの遺伝的基盤の存在を考えると、集落全体の人口はカルパチア盆地外に起源があった、と主張する文献を確証できず、歴史記録における誇張の可能性が示唆されます。それにも関わらず、以前にアイスランドの人口集団だけで見つかったmtHg-C1e(個体AHP20)と、おもにヨーロッパ北西部起源となる個体AHP16のYHg-I1a2a1a1a2b3b~(Y6357)と個体AHP18のYHg-R1a1a1b1a3a1a1(FGC11904)存在は、ZVのカロリング層準における一部の外来のつながりを示唆しています。標本規模は過去の推定される大きな人口集団と比較して小さいものの、ZV標本一式は9~11世紀にかけてのいくらかの連続性を論証します。以下は本論文の図5です。
トランスダニュービア地方北西部のHK遺跡の9世紀段階も、AV1およびAV2とのつながりや、CB-EUR集団2の要素の蓄積さえ示します。HK遺跡の征服前後の段階(I~II)間のつながりは散発的で、混合割合と片親性遺伝標識構成の違いは層準間の限られた遺伝的連続性を示唆します。代わりに、これらの結果はむしろ、新たなハンガリー人の占拠を反映しており、侵入してきた新たな遺伝的構成要素は、HK遺跡における、GHPおよびCEE後のクラスタ、さらにはその後の混合過程とつながっていました。トランスダニュービア地方北西部のヴィシェグラード遺跡は、他地域の先行集団よりもむしろ、同時代の集団の方と多くのIBDを示しており、新たに形成された共同体として記載した文献を裏づけます。しかし、この社会の組成を完全に理解するには、将来のヨーロッパの他地域との比較IBD分析が必要です。
徹底的に分析されたセーケシュフェヘールバール地域では、ZV遺跡と比較して異なるパターンが観察されました。古代末期型の人口集団がこの地域では存続しており、10世紀でさえシャールボガールド遺跡周辺で見つけられるかもしれません。しかし、ハンガリー人の征服後の東方要素の出現は、この地域ではずっと顕著です。トランスダニュービア地方南東部の標本数がより多いにも関わらず、局所的継承の痕跡はこの地域においてさほど顕著でありません。これは、数世紀にわたるIBD度中心性の変化によって説明されるように、ハンガリー人の征服後に再構築された共同体との予測と一致します。全体的に、小地域の評価は、地理的に近い共同体間でさえ、空間的に異なる歴史を明らかにし、そうしたデータセットを解釈するさいの、考古学と生物学の観点の慎重な統合の重要性を浮き彫りにします。
●考察:9世紀後期から10世紀初期のカルパチア盆地において変化する共同体
5~11世紀にかけての遺跡間および遺跡内のつながりで観察された変化は、アヴァール人とハンガリー人の征服者の占拠と、千年紀末へと向かってのCB-EURの集団1および2の勾配3への融合過程の両方を反映しています。本論文の分析では、GHPは10世紀以前にはトランスダニュービア地方から遺伝的にかなり分離していた、と明らかになりました。しかし、ハンガリー人の征服はカルパチア盆地内における激しい人口移動と混合を促進し、これは歴史的記録と一致します。この過程は、ハンガリー人征服後の地理的に遠い墓地における親族の存在によってさらに証明されます。たとえば、トランスダニュービア地方のHK遺跡の10~11世紀の個体KOZ018と、ティスザナーナ(Tiszanána)遺跡の10世紀の個体TCS-18が父親と息子の組み合わせなのに対して、トランスダニュービア地方のHK遺跡の10~11世紀の個体KOZ026とGHPのサレトゥドヴァリ・ポロシャロム(Sárrétudvari-Poroshalom、略してSP)遺跡の10世紀の個体SH-81は3親等の親族です。GHPと比較して、トランスダニュービア地方におけるこの過程において遅延の可能性が観察され、これは、この2ヶ所の大地域【トランスダニュービア地方とGHP】間の別の違いを強調し、過去の人口事象における、ドナウ川などの生態学的障壁の考慮の重要性を浮き彫りにします。
ウラル祖先系統を有する個体群の征服前の存在の証拠も見つかりました。ZVI段階(850~890年頃)には、成人男性個体AHP21はCEE後のクラスタの複数個体との強いつながりを示します。この個体のゲノム組成は、強いIBDのつながりがあって個体ウェルギ21号と高度に類似しており、年代は900~960年頃としか測定できない、GHPのケネズロ・ファゼカスズグ(Kenézlő-Fazekaszug)遺跡の成人男性個体KeF1-10936の5親等の親族です。さらに、カロリング期(ZVI)の個体AHP29もCEE後のクラスタとIBD断片を共有していますが、そのつながりは個体AHP21と比較してずっと弱くなっています。両埋葬【個体AHP21およびAHP29】は、考古学的層序に基づくと、ハンガリー人の征服に確実に先行します。これらの調査結果は、トランスダニュービア地方における890年頃以前の散発的な出現を示し、個体AHP21の新たな放射性炭素年代は補足表S1に、層序年代は補足項目S1に示されます。これらの個体は、歴史的記録によると、プリビナの宮廷で傭兵として仕えていた可能性が高そうです。
●この研究の限界と最終的な見解
本論文の結果は、カルパチア盆地における複雑な人口史と大地域と小地域両方の事象を明らかにしました。本論文とのデータベースのデータの組み合わせや本論文で用いられた手法は、この研究の記述に充分な統計的強度を提供する、と考えられます。しかし、他国の比較データセットが含まれておらず、代わりに人口事象の局所的な特徴づけに焦点が当てられたので、特定の問題が未解決である、と本論文は認識しています。これらの問題には、CB-EUR集団2内の祖先系統の変化、古代末期型の人口集団の起源、CEE後のクラスタのより詳細な特徴づけが含まれます。これらの問題は将来の研究において、他の人口集団から得られたデータとの徹底的な比較を通じて、より充分に取り組むことができるでしょう。本論文は、そうした複雑な問題の解明にはヨーロッパ東部および中央部からのさらなる標本抽出が必要と考えており、今後の研究でもそうすることを目指しています。
●注1:IBDに基づく分析の利点と欠点
(1)先行研究の推定によると、背景データベースやゲノム網羅率やデータの種類(捕獲もしくはショットガン)に高度に依存した位相化は、共有IBD断片の復元に大きく影響を及ぼします。ancIBDは8cM以上のIBDを堅牢に検出しますが、本論文では、偽兆候を最小化するために、10cM超の断片に分析が限定されました。
(2)アレル頻度に基づく集団遺伝学的分析とは異なり、IBDに基づく分析は本来、近親者の除外を必要としません。しかし、特定のIBDに基づく分析については、結果の潜在的歪みを避けるため、親族の除外が選択されました。
(3)共有IBD断片は短くなる傾向があり、10cMの断片は数千年で消滅し、これはデータを解釈するさいに考慮すべき現象です。したがって、2個体もしくは2クラスタ/集団間で共有されるIBD断片の欠如は、とくにより広い年代の間隙がある場合には、必ずしも遺伝的つながりの欠如を意味しませんが、依然として、共有される遺伝的祖先系統がないか、限定的であることを反映しているかもしれません。
(4)個体間およびクラスタ/集団間で共有されるIBDの復元は、研究対象の人口集団の祖先系統組成を直接的には反映していません。したがって、この証拠は別々に解釈されねばなりません。2個体間で共有されるIBD断片は、2個体間の直接的関係か、共通祖先系統からの共有された遺産のどちらかを反映しているかもしれません。
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●要約
中世前期にカルパチア盆地では、とくに約250年間のアヴァールの支配下でかなりの人口統計学的変化があり、その後で9世紀後半にこの地域では初期ハンガリー人が入植しました。本論文は、現在のハンガリーから得られた古代人296点の標本の遺伝学的分析を提示し、これには103点のショットガン配列決定されたゲノムが含まれます。本論文はIDB断片共有網を用いて、5~11世紀のこの地域の人口の構造および動態への詳細な洞察を提供し、特定の小地域にとくに焦点を当てます。本論文の評価は、密接な地理的近さの共同体間でさえ、トランスダニュービア地方における空間的に異なる歴史を明らかにし、密な標本抽出と分析の重要性を浮き彫りにします。本論文の調査結果は、広範な均質化および再編成や、フンとアヴァールとハンガリーの征服期の移民集団間の不連続性を、ハンガリー人征服者と関連する祖先系統の拡大および統合とともに浮き彫りにします。
●研究史
ヨーロッパ中央部における大移動期の人口史は、文献と考古学的研究によって記録されてきたように、さまざまなヨーロッパ東西の文化的および生物学的な影響を受けた広範な規模の複雑さによって示されました。近年では、カルパチア盆地(現在のハンガリーの領域が含まれます)が考古ゲノム学的研究[8~11]の対象となっており、この期間の人口事象が段階的に解明されています。
パンノニアにおけるローマ帝国の崩壊(433年)と586年のアヴァールの到来の間に、カルパチア盆地には、多様な民族的および文化的背景のある、スエビ人(Sueb)やゴート人やランゴバルド人(Lombard)やゲピド人(Gepid)など、一時的な集団と政体が存在しました。この期間には、ユーラシア北東部起源のアヴァール人支配層[9、10]がさまざまなヨーロッパ東部集団とともに、この地域に定住しました。文献および考古学的資料によると、アヴァール可汗国の人口は文化的にきわめて多様でした。急速に拡大するカロリング帝国との20年間の紛争によってアヴァール可汗国は811年までに崩壊し、より小さな地域単位に分かれました。以前のパンノニア州、つまりトランスダニュービア(現在のハンガリー西部の領域に相当します)およびドラーヴァ(Drava)川とサヴァ(Sava)川の河間地域はカロリング帝国の一部になりましたが、ドナウ川とティサ(Tisza)川の河間地域およびトランス・ティサ地域は可汗の支配下に留まりました。ドナウ川とティサ川の河間地域およびトランス・ティサ地域は以下では、大ハンガリー平原(Great Hungarian Plain、略してGHP)と呼ばれます。可汗国の以前の領域は、北西部はモラヴィア人、南西部はクロアチア人に支配され、両者ともにカロリング帝国の支配下にありました。カロリング帝国のこの拡大に続いて、9世紀には対応する地域の文化的影響の広がりと戦略的統合がありました。これには、行政単位としてのより小さくて孤立した郡の確立、および新たに獲得した領域の人々のキリスト教化の計画的試みが含まれます。
トランスダニュービアの権力の中心地は、840年頃にプリビナ(Priwina 、Pribina)とチェズィル(Chezil)によってザラヴァール・ヴァールスズィゲト(Zalavár-Vársziget、略してZV)に創設されました。その人口はおそらく、バルト海から黒海までのさまざまな地域から到来した共同体によって補われました。840~870年の間に、3ヶ所の教会がここに建てられ、支配層とその使用人がそこに埋葬されました。880年頃に、集落は文化的に多様な人口のいる王室の中心地となりました。896年頃、ハンガリー人征服者(中世前期マジャール人とも呼ばれます)の到来のため、ブラスラフ王子(Prince Braslav)はアルヌルフ王(King Arnulf)から、集落の強化を命じられました。これら新参者は10世紀にトランスダニュービアを侵略し、この地域全体に定住して、おそらくは以前の人口集団の支配階級のみを置換しました。ZVは依然として重要な集落で、現在もなお存在するショモジ(Somogy)およびザラ(Zala)の両郡の首府として認識されていました。人口密度が増加し、ベネディクト会の教会が1019年に奉献され、その周辺の墓地はその後数十年間にわたって使用されました。
カルパチア盆地は、ハンガリー人征服者がこの地域に到来し、10世紀末までにハンガリー王国を形成すると、大きな文化的変化に直面しました。10世紀全体が征服期と呼ばれています。この期間に、すべての以前の行政構造は無視され、新たな中心地が設立されました。9世紀の人口がどの程度生き残り、新参者と共存したのか、あるいは混合したのかは、不明なままです。これらの征服者は在来の人口集団とともに、最終的にはアルパディアン(Árpádian)期(11~13世紀)にキリスト教化されました。
●研究の目的と標本抽出の焦点
6~11世紀の刊行されている古代DNA標本のほとんどがGHPに由来する一方で[9、10]、トランスダニュービア地方については、5世紀以後のこの地域におけるかなりの歴史的出来事にも関わらず、この期間の古代人のゲノムがほぼ完全に欠けています。本論文の主要な目的は、とくに8~11世紀に焦点を当てた、この地域の人口集団のより包括的な遺伝的データセットの作成です。これは、人口連続性の検証や、後期アヴァール可汗国からアルパディアン期までの移行期における優勢な共同体の一般的な構造およびつながりの確証のため行なわれました。本論文の目的は、カルパチア盆地全域の局所的な人口集団の多様性と安定性や、アヴァールおよびハンガリーの征服事象と関連する移民からの混合動態の分析です。
全体として294点の標本がトランスダニュービア地方のさまざまな遺跡から収集され(図1)、ZVとセーケシュフェヘールバール(Székesfehérvár)地域とヴィシェグラード(Visegrád)には、それぞれが研究対象の歴史的移行のじゅうような側面を表しているため、特別な注目が払われました。ヴィシェグラードでは、シブリク(Sibrik)の丘とセーチェーニ(Széchenyi)通りの25ヶ所の遺跡が対象とされました。カロリング期にモサブルク(Mosaburg)という名称で最大の中心地として知られるZV遺跡は、連続した考古学的3層準にわたって標本抽出され、それは、9世紀(ZVI)と10世紀(ZVII)と11世紀(ZVIII)です。セーケシュフェヘールバールは10世紀に新たに形成された集落で、ハンガリー王国の王室の中心地となりました。先行する数世紀の人口状況は、近隣の遺跡の標本抽出を通じて表されます。2層準(9世紀と10~11世紀)から標本抽出されたヒモド・カポスズタス(Himod-Káposztás、略してHK)は移行期のより小さな農村集落を表していましたが、ヴィシェグラードは11世紀に新たに形成されたハンガリー王国の宗教的および政治的中心地でした。以下は本論文の図1です。
●標本と手法
最初に収集された295点のヒトDNA標本のうち、103点がより深いショットガン配列決定に適しており、約0.019~2.14倍の平均ゲノム網羅率が得られました(中央値は約0.86倍)。124万パネル[14]のSNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)の数の範囲は18875~1008685で(中央値は563152)で、データセットの深い分析が可能となります。さらに、ミトコンドリアゲノム捕獲での184点のミトコンドリアゲノムと56点のY染色体STR(Short Tandem Repeat、縦列型反復配列)特性が、ZVとHKとヴィシェグラードとシャールボガールド(Sárbogárd)の遺跡から得られた標本で作製されました。8~10世紀のトランス・ウラルのウェルギ(Uyelgi)遺跡から得られた標本[15]ウェルギ21号(ID MS20)は、ハンガリー先史時代における重要性のため平均網羅率1.89倍(124万パネルで952072ヶ所のSNP)で再配列決定され、ユーラシア北東部とシベリア西部の遺伝的祖先系統を区別する代理、および本論文の分析における接続体系として用いられました。さらなる標本の詳細は補足S1に示されています。以下では、本論文のデータセットが5~11世紀の現在のハンガリーの領域から得られた古代DNA標本[8~11]と共分析されました。f統計については、先行研究[16]の標本も含められました。したがって、IBD分析にも適した完全なデータセットは、416点のゲノムの最終的な一式から構成されました。
●5~11世紀のカルパチア盆地におけるゲノム組成
ユーラシア西部現代人の背景に投影された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)図(図1B)と、K(系統構成要素数)=6の教師無ADMIXTURE分析の両方が、トランスダニュービア地方の研究対象の標本(5~12世紀)間の大きな多様性を示します。この多様性は、ミトコンドリアとY染色体両方の水準で広範なユーラシアマクロハプログループを表す、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)構成にも反映されています。
調べられたデータセットの変異性を説明するため、まずヨーロッパ祖先系統のみを有する個体群がいくつかのf₄分析によって分離され、これらが人口構造について検証され、補足S3.2でさらに説明されています。本論文の分析は、ヨーロッパ祖先系統のみの個体間における、主要な3遺伝的集団と、集団3の2下位集団(集団3.1および3.2)を明らかにしました。これはPCAの位置(図2A)とADMIXTUREの割合にも反映されています。さらなるf₄検定の実行後に、これらの集団はこの地域における単一の遺伝的勾配を形成しており、ほぼ南北の軸で分布している、と分かりました(図2A)。集団1および2が両極を表している一方で、集団3は遺伝的に集団1と2の間の混合もしくは勾配です。したがって、以下の分析では集団がヨーロッパ勾配3と呼ばれます。この説明は、先行研究[10]によって特徴づけられたカルパチア盆地ヨーロッパ人の多様性の改良版です。近東祖先系統が集団1および勾配3.1と強く相関していることも見つかりました。集団1と勾配3.1の遺伝的構成は、そのPCAの位置および片親性遺伝標識とともに、先行研究[18]で観察されたように、古代末期および/もしくはバルカン半島が研究対象地域で強い影響を及ぼした、と示唆します。これは、千年紀前半のバルカン半島における影響と比較しての、現在のハンガリーの領域における同様の影響を示唆しています。同様に、集団2は先行研究[11]で部分的に説明されたように、1もしくは複数のヨーロッパ北部からの影響と並行しているかもしれません。本論文のf₄分類の結果は、その後のIBD分析でも確証されました。ヨーロッパと近東とコーカサスの祖先系統のみを有する個体群は以後「CB-EUR」と呼ばれ、それは、近東およびコーカサス祖先系統はともに見られることが多く、地域的なIBD分析では特定の集団内分離を示さないからです(後述)。先行研究[18]に基づくと、これらの祖先系統はバルカン半島にローマ期末までに現れ、研究対象地域の在来の人口構成の一部と考えられています。以下は本論文の図2です。
これらの遺伝的集団/勾配および非ヨーロッパ祖先系統を有する個体群の年代と地理の分布(図2B)は、経時的およびトランスダニュービア地方とGHPとの間で、10世紀まで経時的に変わります。調べられた全標本のほぼ半分にはいくらかの非ヨーロッパ祖先系統があり(f₄統計で検証されました)、ヨーロッパ東部祖先系統の割合は、トランスダニュービア地方と比較してGHPでは2倍でした(図2B)。f₄統計は祖先系統の量を検出できないかもしれない、と注意することが重要です。したがって、少ない割合のヨーロッパ東部祖先系統がCB-EUR個体群に存在するかもしれませんが、これがさらなる分析を歪めるわけではありません。
●カルパチア盆地内のゲノムハプロタイプ断片共有
アレル(対立遺伝子)頻度手法の方法論的限界のため、ancIBDを用いてのIBD分析も、GLIMPSE位相化および補完後に高品質の標本に適用されました。詳細は注1(後述)および資料と手法に記載されており、結果については、補足S4項と表S6に示されています。合計IBDが10cM(センチモルガン)超のIBD接続数に相当する、次数中心性が定義され、これは世紀や地域で異なります。無向図に辺重み付き弾力埋め込み配置図を適用すると、ヨーロッパ東部祖先系統の優勢な個体群によって主要な2クラスタ(まとまり)が形成されます。これは年代順とほぼ重なり、クラスタはほぼ890年代頃のハンガリー人征服事象によって分離されます。ウラル南部のカラヤクポヴォ(Karayakupovo)文化(8~10世紀)と関連する個体ウェルギ21号は、CEE後個体群(post-Conquest individuals with East-Eurasian ancestry、ユーラシア東部祖先系統を有する征服後個体群)との広範なつながり、およびユーラシア東部祖先系統を有する個体群(CEE前個体群)クラスタとの1点のみの10cMのつながりを示し、この2クラスタの分離を補強します(図3)。CB-EURの個体群はかなり均一に分散したつながりを示しており、より大きな人口規模に起因する可能性が高そうです(後述)。次に、年代分布(CEE前、7~9世紀のCE、10~11遺跡のCEE後)に基づいて、これらユーラシア東部祖先系統クラスタが再定義されました。ユーラシア東部祖先系統の年代順とIBDクラスタ分類はおおむね一致しますが、一部の例外が見つかりました(詳細は後述の考察の項目)。以下は本論文の図3です。
CEE後クラスタ個体のほとんどは、CEE前クラスタ個体群と比較して、ユーラシア人PCA上では異なる勾配に位置します。多くはウェルギ21号に向かって位置し、ほぼ重なっており、ウェルギ21号と多くの個体の広範なIBDのつながりと一致します。いくつかの10~20cMのつながりにも関わらず、CEEの前後のクラスタ間の顕著な不連続性も同様に見つかりました(図3)。CEEの前後のクラスタの個体のほとんどはユーラシア西部祖先系統も有しているので、補足3.2項においてこの構成要素を完全に欠いている個体が特定されました。この分析の目的は、CEEの前後のクラスタ間の散発的なつながりが、CB-EUR個体群か在来のユーラシア東部祖先系統との混合か共通のユーラシア東部祖先系統に由来するのかどうか、判断することです。これらのつながりは一部の散在する地域において10世紀後半のCEE後の個体群で蓄積され(例外となる1個体については、考察の項目で後述)、CEE後クラスタへのこれらの系統の散発的で地域的に異なる生存、さらには共通のユーラシア東部祖先系統ではなく局所的な混合を示唆しています。
CEE前クラスタのCB-EURとのIBDのつながりは、CEE後クラスタと比較してずっと疎らで、CB-EURとの平均的な個体のつながりは、CEE前では0.54、CEE後では1.39です。逆に、CEE前(約3.16)とCEE後(約2.55)の平均的なクラスタ内のつながりは、CB-EUR前(CEE前と同年代のCB-EUR個体群、約0.38)とCB-EUR後(CEE後と同年代のCB-EUR個体群、約0.30)と比較すると、相互ではかなり類似しており、CB-EUR個体群よりずっと高くなっています。親族関係水準(1~5親等)のつながりの網は、アヴァール征服期とハンガリー征服期の間で異なります。CEE前クラスタのそうしたつながりはクラスタ内に留まっており、例外はキスクンドロズマ・ケッテーシュハタール2(Kiskundorozsma-Kettőshatár II、略してKK2)遺跡の標本1点(KDA-188)で、すべて同じ遺跡に限定されています。逆に、CEE後クラスタのつながりも同じ遺跡に限定されており、おもにCB-EUR個体群とCEE後個体群との間で見られます。CEE後の男女は両方とも、CB-EUR個体群とのこの混合に関わっており、明らかに同じ割合でした。この結論は、ユーラシア西部系の片親性遺伝標識とともに、CEE後個体群で見られる、ユーラシア東部系と推定されるY染色体ハプログループ(YHg)、つまりC2・Q1・N1a・R1a1a1b2(Z93)、およびミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)、つまりA・B・C・D・G・M・N1a1a1a1a・N9・R・U4d2・X2f[10、15]に基づいています。もう一つの注目すべき特徴はCEE前クラスタの相対的孤立で、主成分1(PC1)の位置に基づくユーラシア西部人との広範な混合にも関わらず、CB-EURのつながりの少なさは、この構成要素の外来供給源を示唆しており、先行研究[23]および本論文のf₄結果と一致します。
IBDの結果、とくに上述のクラスタ間の網状密度の違いは、hapROH で計算されるように、CEE後クラスタと比較してのCEE前クラスタの有効人口規模(Nₑ)を考慮すると、より顕著になります。CEEの前後のクラスタのNₑが計算され、CB-EUR個体群の同時代の部分集合と比較されました。じっさいの人口規模に基づく推定値は、堅牢な歴史的もしくは人類学的な人口統計学的データの不足のため、この期間に関しては問題ですが、それにも関わらず概算は推定されました。本論文の分析から、アヴァール期の有効人口の約20.82%がCEE前クラスタに属しているのに対して、10~11世紀のNₑのわずか約13.01%がCEE後クラスタに属していた、と示唆されます。これは、クラスタ間のIBDの網状密度の違いを説明し(つまり、人口がより少ないと、内部のIBD共有がより多くなります)カルパチア盆地の50万~200万個体およびハンガリー人征服者の5万~15万個体との歴史的な推定値(CEE後と重複しているかもしれず、考察の項目で後述)と一致します。Nₑは社会的慣行および結婚パターンに強く影響を受けるかもしれないので、人口調査の人口規模の指標では必ずしもないことに要注意です。
CB-EURのIBDのつながりはf₄に基づく分類を反映しており、CB-EUR勾配のさまざまな区画は異なる共同体と集団で構成されている可能性が高いことも示唆しています。ヨーロッパ集団2に属する個体群でさえ、7世紀の前後で不連続性を示しており、同様の地域的な遺伝的構成を共有する異なる集団の存在が示唆されます。
●5~11世紀における人口集団の遺伝的事象
5~11世紀の共同体の社会的および地域的動態をさらに理解するため、IBDデータに基づいて共同体の交流網の傾向が分析されました。さまざまな重み付け手法を用いて、重み付けされた次数中心性、つまり、遺跡間(kB)および遺跡内(kW)の相互作用について別々に計算された、kと表示されるつながりの数が調べられました。トランスダニュービア地方とGHPで別々に、およびこれら2ヶ所の大地域の組み合わせで、kB値とkW値が計算されました。図4で示されるように、k値は各年代間隔(つまり、世紀)についても計算されました。この手法によって、網状構造における時空間両方の違いを把握できるようになります。さらに、CB-EURクラスタのみのk値にとくに焦点が当てられ。それは、この値が、外来要素が過剰に表されるより広範なデータセットと比較して、異なる動作をするかもしれないからです。CB-EURのつながりの少なさのため、kBについて累積手法が開発されました。2通りの別々の重み付け手法が用いられましたが、その理論はじゅうらいの手法と類似しており、それは、つながりの重み付けの数の使用と、先行する一群から各後続の一群への標本の追加が含まれ目からです。この手法の背後にある理論的根拠は、狭い時間区画によって隠されるかもしれないつながりの検出です。本論文の方式を用いて、この手法は、それを使わなければ隠れているままだっただろう、局所的な傾向を浮き彫りにします。以下は本論文の図4です。
累積kBの傾向は、CB-EURのみ対全個体で計算すると異なり(図4A)、全個体にはこれにはユーラシア東部祖先系のある個体が含まれ、これはユーラシア東部祖先系統を有する人々と比較しての在来(CB-EUR)共同体の大きく異なる社会組織を示しています。しかし、特定の共通点も以下のように現れています。(1)トランスダニュービア地方とGHPの共同体間のつながりを示す統合値は、両事例で同じ相対的傾向を示します。したがって、トランスダニュービア地方とGHPは9~10世紀の変わり目まで比較的分れされたままで、この頃にハンガリー人の征服によってこれらの地域間の接触が増加した可能性は高そうです。(2)GHPの共同体はトランスダニュービア地方の共同体とは対照的に、この転換期におけるkB値の変化を示さず、GHPからトランスダニュービア地方への移動が示唆されます。本論文の代替的な重み付け手法の一つを用いると、この傾向はトランスダニュービア地方のCB-EUR集団ではずっと顕著です。GHP共同体における7世紀以降の遺跡間のつながりの突然の増加は、アヴァール期の東方起源階層内における女性族外婚が伴う定住生活様式を示唆した、先行研究[23]の観察と一致します。
従来のように計算されたkB(図4C)は、7世紀と10世紀における2回の大きな頂点を明らかにし、遺跡間の集中的な接触と遺跡間の安定性の2回の波を示唆します。最初の波が7世紀の変化するアヴァール社会と相関していたのに対して、第二の波は9世紀~10世紀の変わり目におけるハンガリー人の征服によって促進された再編と一致しました。かなり小規模な共同体の安定した生活様式は、クンペザー=フェルセペザー(Kunpeszér-Felsőpeszér、略してKFP)遺跡[10]やクンスザラス(Kunszállás、略してKFJ)遺跡[9]など7世紀の一部の遺跡、さらには7世紀の大規模埋葬遺跡であるマダラス=テグラヴェト(Madaras-Téglavető、略してMT)の数点の標本にさえ反映されており、この遺跡は生物学的性別に関わらず、高水準の遺跡内のつながりを示します。この観察は、この期間における女性族外婚についての以前の調査結果[23]をさらに多様化させます。それに加えて、データはGHPの8~9世紀の変わり目における遺跡間のつながりの顕著な増加も示しており、その期間におけるある程度の人口移動もしくは変化を示唆しています。
図4Dでは、kW値は図4CのkBを補完しています。図4C・Dの共同解釈には、いくつかの注目に値する特徴があります。まず、前世紀と比較しての、GHP における8世紀~9世紀の変わり目の頃の接触増加で、これは研究史の項で説明されている変化する政治環境と関連する事象を反映しているかもしれませんが、他の仮定的状況もあり得ます。別の注目すべき特徴は、とくにGHPと比較しての、10世紀トランスダニュービア地方の高いkW値です。この現象は、年代順の割り当ての偏りから生じているかもしれませんが、標本数は10世紀の一群で最多であり(全体で103点、トランスダニュービア地方では33点)、同じ一群のkB値はGHPと同時で、この仮定的状況の可能性は低そうです。観察されたkWがデータセットの真の特徴ならば、GHPと比較して、トランスダニュービア地方における移動の数世代の遅延を示しているかもしれません。この仮定的状況は、ハンガリー人の征服は東方から西方の領域へのカルパチア盆地における一連の出来事だった、とする考古学および歴史のデータと相関しています。一方で、この現象は、先行研究[10]で示されているように、トランスダニュービア地方とGHPの遺跡間の異なる標本抽出戦略からも生じている可能性があり、多くの特徴的な軍事関連墓地が標本抽出されており、これらの墓地には、生物学的共同体に基づく共同体埋葬地と比較して、さまざまな組織とIBDのパターンがあります。ハンガリー人の征服後、kW値は両地域【トランスダニュービア地方とGHP】で数世紀にわたってゆっくり増加する傾向にあり、より安定して確立した共同体制度を示しています。
●考察:5~10世紀を通じてのCB-EURクラスタ内の変動
本論文の分析によって定義されるCB-EUR遺伝的勾配の遠方断片の年代順に変化する構成は、千年紀後半のカルパチア盆地における複雑な人口仮定を明らかにします。ヨーロッパ集団2の個体群は、関連する勾配3.2とともに、トランスダニュービア地方におなり多く存在します。地域間の共通要素はヨーロッパの遺伝的集団1と近東祖先系統の比例的な減少や、11世紀に向かっての勾配3の比例的増加(つまり、集団1および2の勾配3への統合)です。10世紀における2ヶ所の地域の比例的類似性は、研究対象地域全体のさまざまな集団の融合過程を示唆しており、これは同様にIBD断片のつながりの動態によって確証されます。
さまざまな地域もしくは層準間の勾配の類似性は、ヨーロッパ集団2がIBDの結果に基づくと7世紀の前後の不連続性を示すように、生物学的水準でさえ集団の帰属性を必ずしも示唆していない、と浮き彫りになります。この観察で強調されるのは、PCAとADMIXTUREやf統計に基づく手法など進化指向の技術は、頻繁に混合する環境では人口集団を正確に特徴づける能力に限界がある、ということです。したがって、そうした結果から導かれる結論は、注意して取り組まれねばなりません。しかし、特定の傾向は見逃されるべきではありません。たとえば、征服前の期間には、考古学的調査結果によって示唆されるように、チャクベレニー(Csákberény)周辺に残存していたローマ化した人口集団の存在が、この遺跡の個体群の集団1/近東遺伝的構成に反映されています(図3)。特定の要素の蓄積はさらに、集団2のいるHK遺跡や、集団1個体群のいるGHPのKK2およびJHT遺跡[10]における一部の局所的な孤立を示唆していますが、これらは考古学的背景によってあまり裏づけられていません(図3)。しかし、この遺伝的孤立は、KK2 遺跡などではCEE前個体群とのつながりによって緩和されています。
●考察:ハンガリー人の征服前後のユーラシア東部祖先系統を有する共同体の動態
最近の研究は[9、10、23]、初期アヴァール可汗国支配層におけるユーラシア東部祖先系統の優勢を浮き彫りにしてきており、移民の重要な遺伝的供給源としてのこれらの集団を示唆しています。したがって本論文では、本論文で定義されるCEE前のクラスタはおもにアヴァールのユーラシア東部中核と遺伝的に関連する個体群を表している、と結論づけられますが、使用された民族の帰属性と遺伝的分類が直接的には対応しないことも認められます。同様に、CEE後のクラスタはハンガリー人の征服およびその子孫と強く関連しているかもしれません。CEEの前後のクラスタ間の顕著な不連続性は、散発的なIBDのつながりによって示唆されており、これはほぼ10世紀後半以降の墓地でのみ蓄積しており、CEEの前のクラスタ系統の限られた局所的存続を示唆しています。唯一の体系的例外はカロス(Karos)墓地で、ここはカルパチア盆地における最初期のハンガリー人征服者の墓地の一つを表していますが、CEEの前のクラスタとの最も強いIBDのつながりも示します。一方で、ここで観察される多様な遺伝的背景は、武装した男性埋葬の比率や墓地の資料で見つかった多様な文化的要素によって証明されるように、軍隊の単位内に位置づけられるこの共同体の構成員のさまざまな起源を示唆しています。さらに、先行研究[10]によって示唆された、征服者への5世紀のフン期のユーラシア東部遺伝的祖先系統の連続性とは対照的に、本論文のデータは、研究対象地域のCEE後の個体群におけるこの祖先系統の欠如もしくは喪失を示唆します。しかし、カルパチア盆地におけるより大きな時間の間隙とフン期の標本の限定的な数は、遠く散発的な遺伝的つながりを不明瞭にするかもしれません。
CB-EURとのハンガリー人征服者のIBDのつながりは、地元民との直接的な混合を論証しますが、東部アヴァール人と同時代のCB-EURとの間のそうしたつながりの少なさは、とくにこれらの集団の相対的な人口規模を考えると、注目に値します。この違いはf₄統計の結果によっても浮き彫りになり、CEEの前後のクラスタについてさまざまなユーラシア西部祖先系統が示唆されます。しかし、これらの結果はさまざまな方法で解釈できます。先行研究[9、23]によって以前に論証されたアヴァール人支配層の遺伝的孤立は、今や本論文のIBD分析によって裏づけられます。これは、CEEの前後のクラスタに属する共同体の異なる社会組織を裏づけます。
本論文の調査結果は、アヴァール社会の一般的な居住パターンとしての拡張女性族外婚に関して、先行研究[23]の微妙な観点を提供します。図4に要約された結果に基づくと、アヴァールの共同体は遺跡間のつながりの大規模で2回の波でのかなりの拡張族外婚(女性族外婚を原因とする可能性が高そうです)を示しており、最初は7世紀で、次に8~9世紀の変わり目です。この観察は、生物学的性別に関わらず、ホルトバージ・アルクス(Hortobágy-Árkus、略してARK)遺跡やスザヴァス・グレクサ(Szarvas-Grexa、略してSZRV)遺跡など、アヴァール後期の遺跡の高い遺跡内の親族関係水準のつながり(図3)によってさらに裏づけられます。注目すべきことに、先行研究[23]で調べられた遺跡群では、多くの女性が研究対象の家系とはつながっておらず、多くの家系図を形成する女性は墓地には存在しません。
より広範な複数の遺跡(大地域)モデルでは、本論文の調査結果は異なる社会構造を示します。しかし、kB値の低下が観察される期間には、近隣の村落からの族外婚を除外できません。この見解は、遠方の村落間の大規模な移動を示唆しない、先行研究[23]のストロンチウム同位体結果によっても裏づけられます。アヴァール人で見られる相対的な孤立(図3)は、その最終的な消滅とその後の遺伝的および文化的継承を説明できるかもしれません。さらに、これらの結果から、CEEの前のクラスタユーラシア西部(可能性が高いのは、ヨーロッパ東部と草原地帯および/もしくはコーカサス)の混合はおもにカルパチア盆地外に由来した、と示唆され、これは以前の観察[23]と一致します。これは、アヴァール期における優勢なユーラシア西部の遺伝的基盤を示唆しており、今では、ユーラシア東部の支配層家族への混合を通じてのみ、たどることができます。
●考察:トランスダニュービア地方における小地域の遺伝的傾向
トランスダニュービア地方のIBD網に焦点を当てて、生態学的および年代順の分布にしたがって遺跡が分類されました(図5)。スゾラッド(Szólád)遺跡の7世紀初期の居住から発見された2個体(AV1とAV2、1親等の親族)は、研究対象の遺跡のほとんどの個体と広範なつながりを示し、最も注目すべきつながりはモサブルクのZVです。神子遺物のないランゴバルド期の墓地の堆積物充填物から回収されたこの2個体は、それにも関わらず、おそらくは7世紀頃に到来した、この地域における遺伝的に成功した(および大きい可能性が高い)基盤の存在を示唆します。モサブルクが設立された数世紀前のこの遺伝的基盤の存在を考えると、集落全体の人口はカルパチア盆地外に起源があった、と主張する文献を確証できず、歴史記録における誇張の可能性が示唆されます。それにも関わらず、以前にアイスランドの人口集団だけで見つかったmtHg-C1e(個体AHP20)と、おもにヨーロッパ北西部起源となる個体AHP16のYHg-I1a2a1a1a2b3b~(Y6357)と個体AHP18のYHg-R1a1a1b1a3a1a1(FGC11904)存在は、ZVのカロリング層準における一部の外来のつながりを示唆しています。標本規模は過去の推定される大きな人口集団と比較して小さいものの、ZV標本一式は9~11世紀にかけてのいくらかの連続性を論証します。以下は本論文の図5です。
トランスダニュービア地方北西部のHK遺跡の9世紀段階も、AV1およびAV2とのつながりや、CB-EUR集団2の要素の蓄積さえ示します。HK遺跡の征服前後の段階(I~II)間のつながりは散発的で、混合割合と片親性遺伝標識構成の違いは層準間の限られた遺伝的連続性を示唆します。代わりに、これらの結果はむしろ、新たなハンガリー人の占拠を反映しており、侵入してきた新たな遺伝的構成要素は、HK遺跡における、GHPおよびCEE後のクラスタ、さらにはその後の混合過程とつながっていました。トランスダニュービア地方北西部のヴィシェグラード遺跡は、他地域の先行集団よりもむしろ、同時代の集団の方と多くのIBDを示しており、新たに形成された共同体として記載した文献を裏づけます。しかし、この社会の組成を完全に理解するには、将来のヨーロッパの他地域との比較IBD分析が必要です。
徹底的に分析されたセーケシュフェヘールバール地域では、ZV遺跡と比較して異なるパターンが観察されました。古代末期型の人口集団がこの地域では存続しており、10世紀でさえシャールボガールド遺跡周辺で見つけられるかもしれません。しかし、ハンガリー人の征服後の東方要素の出現は、この地域ではずっと顕著です。トランスダニュービア地方南東部の標本数がより多いにも関わらず、局所的継承の痕跡はこの地域においてさほど顕著でありません。これは、数世紀にわたるIBD度中心性の変化によって説明されるように、ハンガリー人の征服後に再構築された共同体との予測と一致します。全体的に、小地域の評価は、地理的に近い共同体間でさえ、空間的に異なる歴史を明らかにし、そうしたデータセットを解釈するさいの、考古学と生物学の観点の慎重な統合の重要性を浮き彫りにします。
●考察:9世紀後期から10世紀初期のカルパチア盆地において変化する共同体
5~11世紀にかけての遺跡間および遺跡内のつながりで観察された変化は、アヴァール人とハンガリー人の征服者の占拠と、千年紀末へと向かってのCB-EURの集団1および2の勾配3への融合過程の両方を反映しています。本論文の分析では、GHPは10世紀以前にはトランスダニュービア地方から遺伝的にかなり分離していた、と明らかになりました。しかし、ハンガリー人の征服はカルパチア盆地内における激しい人口移動と混合を促進し、これは歴史的記録と一致します。この過程は、ハンガリー人征服後の地理的に遠い墓地における親族の存在によってさらに証明されます。たとえば、トランスダニュービア地方のHK遺跡の10~11世紀の個体KOZ018と、ティスザナーナ(Tiszanána)遺跡の10世紀の個体TCS-18が父親と息子の組み合わせなのに対して、トランスダニュービア地方のHK遺跡の10~11世紀の個体KOZ026とGHPのサレトゥドヴァリ・ポロシャロム(Sárrétudvari-Poroshalom、略してSP)遺跡の10世紀の個体SH-81は3親等の親族です。GHPと比較して、トランスダニュービア地方におけるこの過程において遅延の可能性が観察され、これは、この2ヶ所の大地域【トランスダニュービア地方とGHP】間の別の違いを強調し、過去の人口事象における、ドナウ川などの生態学的障壁の考慮の重要性を浮き彫りにします。
ウラル祖先系統を有する個体群の征服前の存在の証拠も見つかりました。ZVI段階(850~890年頃)には、成人男性個体AHP21はCEE後のクラスタの複数個体との強いつながりを示します。この個体のゲノム組成は、強いIBDのつながりがあって個体ウェルギ21号と高度に類似しており、年代は900~960年頃としか測定できない、GHPのケネズロ・ファゼカスズグ(Kenézlő-Fazekaszug)遺跡の成人男性個体KeF1-10936の5親等の親族です。さらに、カロリング期(ZVI)の個体AHP29もCEE後のクラスタとIBD断片を共有していますが、そのつながりは個体AHP21と比較してずっと弱くなっています。両埋葬【個体AHP21およびAHP29】は、考古学的層序に基づくと、ハンガリー人の征服に確実に先行します。これらの調査結果は、トランスダニュービア地方における890年頃以前の散発的な出現を示し、個体AHP21の新たな放射性炭素年代は補足表S1に、層序年代は補足項目S1に示されます。これらの個体は、歴史的記録によると、プリビナの宮廷で傭兵として仕えていた可能性が高そうです。
●この研究の限界と最終的な見解
本論文の結果は、カルパチア盆地における複雑な人口史と大地域と小地域両方の事象を明らかにしました。本論文とのデータベースのデータの組み合わせや本論文で用いられた手法は、この研究の記述に充分な統計的強度を提供する、と考えられます。しかし、他国の比較データセットが含まれておらず、代わりに人口事象の局所的な特徴づけに焦点が当てられたので、特定の問題が未解決である、と本論文は認識しています。これらの問題には、CB-EUR集団2内の祖先系統の変化、古代末期型の人口集団の起源、CEE後のクラスタのより詳細な特徴づけが含まれます。これらの問題は将来の研究において、他の人口集団から得られたデータとの徹底的な比較を通じて、より充分に取り組むことができるでしょう。本論文は、そうした複雑な問題の解明にはヨーロッパ東部および中央部からのさらなる標本抽出が必要と考えており、今後の研究でもそうすることを目指しています。
●注1:IBDに基づく分析の利点と欠点
(1)先行研究の推定によると、背景データベースやゲノム網羅率やデータの種類(捕獲もしくはショットガン)に高度に依存した位相化は、共有IBD断片の復元に大きく影響を及ぼします。ancIBDは8cM以上のIBDを堅牢に検出しますが、本論文では、偽兆候を最小化するために、10cM超の断片に分析が限定されました。
(2)アレル頻度に基づく集団遺伝学的分析とは異なり、IBDに基づく分析は本来、近親者の除外を必要としません。しかし、特定のIBDに基づく分析については、結果の潜在的歪みを避けるため、親族の除外が選択されました。
(3)共有IBD断片は短くなる傾向があり、10cMの断片は数千年で消滅し、これはデータを解釈するさいに考慮すべき現象です。したがって、2個体もしくは2クラスタ/集団間で共有されるIBD断片の欠如は、とくにより広い年代の間隙がある場合には、必ずしも遺伝的つながりの欠如を意味しませんが、依然として、共有される遺伝的祖先系統がないか、限定的であることを反映しているかもしれません。
(4)個体間およびクラスタ/集団間で共有されるIBDの復元は、研究対象の人口集団の祖先系統組成を直接的には反映していません。したがって、この証拠は別々に解釈されねばなりません。2個体間で共有されるIBD断片は、2個体間の直接的関係か、共通祖先系統からの共有された遺産のどちらかを反映しているかもしれません。
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