有富純也編『日本の古代とは何か 最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』
光文社新書の一冊として、光文社より2024年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。日本古代史の勉強が滞ってからもう20年以上経過しているので、近年の知見をまとめて得る目的で読みました。
●有富純也「はじめに 日本古代史研究への招待」
まず日本古代史の範囲は基本的に飛鳥時代から平安時代までとされていますが、飛鳥時代は文献が少ないため、現在では奈良時代と平安時代が主要な対象になっている、と指摘されています。本書が対象とするのも、基本的には奈良時代と平安時代です。古代の終焉については、大規模荘園が立てられるようになり、上皇も荘園を集積していった、12世紀初頭前後とされています。中世史の研究者の側でも、中世の開始時期を同じ頃とする見解が有力なようで、古代から中世への移行時期について、現在の日本史学界ではおおむね共通認識が成立しているのでしょう。
●十川陽一「第一章 奈良時代の国家権力は誰の手にあったのか 天皇・皇族・貴族」
律令に規定のない判断が許されるのは天皇のみであることなど、奈良時代というか初期律令国家における天皇の絶対的権力は自明のようにも思われ、「皇国史観」のみならず、第二次世界大戦後のマルクス主義歴史学の強い影響下でも、そうした認識は継続したようです。マルクス主義歴史学的な認識では、天皇は古代アジア的な中央集権的専制君主と把握されました。一方で、いわゆる戦後歴史学でも初期から、畿内の豪族層が結集し、天皇を中心とした全国支配が成立した、とする畿内政権論が提示されました。畿内政権論では、専制君主化を志向する天皇と、それを阻む貴族層の対抗関係が想定されました。この畿内政権論は専制君主論との単純な二項対立ではなく、畿内政権論を踏まえつつ多様な見解が提示されました。
そうした中で、外来の律令制と日本列島古来の要素という二重構造で初期律令国家を把握する視点が定着していきます。初期律令国家の上級貴族層とも言える議政官は、大化前代の群臣会議(大夫合議)を系所有している、との認識も古くからありました。一方で、議政官は大夫合議を継承しているものの、議政官の地位はあくまでも王権による再編成を経ており、貴族制とは評価できず、国家が専制的に人民を支配することと、天皇が専制君主か否かは別問題である、との指摘もあります。畿内政権論を発展させ、天皇の意思を掣肘する貴族合議制が存在した、との見解も提示されましたが、論奏の観点から、大化前代の大夫合議では意見が一本化されていなかったのに対して、初期律令制の議政官では一本化されており(摂関期の陣定では一本化されません)、律令制の論奏は大化前代の大夫合議と直結しておらず、唐の宰相合議制の影響で新たに成立した、との見解が提示されました。
本論考は、律令制において貴族の地位は制度的に天皇によって保証されており、貴族の地位は天皇の存在を前提としていて、初期律令制が専制君主制か貴族制かを問うのではなく、天皇と貴族が相互にどのような関係にあったのか、問われるべきだろう、と提言します。本論考は、畿外からも朝廷で抜擢される人物がいたことなどから、奈良時代の権力構造として、畿内と畿外の地域差よりも、結集核としての天皇の存在の大きさに注目すべきではないか、と指摘します。初期律令国家における天皇の重要性との関連で本書が注目しているのは太上天皇(上皇)の存在で、皇族内部においても権力構造が必ずしも一元化されていなかった、と指摘されています。
●黒須友里江「第二章 藤原氏は権力者だったのか?」
摂関期の研究について、「正史」がなく、古記録や儀式書や文書などが基本史料となっており、「正史」が残る奈良時代と連続的に把握および比較することが難しくなっている、と指摘されています。摂関期には、中央では天皇を中心に国家機構が再編されていきます。藤原氏の権力伸張については相対化が進んでいるようで、初の「幼帝」となった惟仁(清和天皇)の立太子にしても、藤原良房の孫であることよりも、当時、文徳天皇の皇子としては唯一皇位継承資格を有していたことが大きかったようです。幼帝の補佐について、奈良時代ならば天皇大権を保持していた上皇も担当できましたが、平安時代初期の平城上皇の変(薬子の変)の結果、天皇大権を有するのは天皇のみとなり、奈良時代末以降に皇后宮が内裏の内部に営まれるようになるなど、皇后の政治的地位が低下していった結果として、臣下による天皇の政務代行(摂政)が行なわれるようになった、と本論考は指摘します。一般的には摂政と並び称される関白は、元々摂政経験者のために設置された役職と把握されています。摂政は幼帝の後見役なので、天皇が元服すると摂政を辞さねばならないからですが、後に藤原実頼が摂政を経ずに関白に就任したことで、関白のこの要素は失われます。また関白は令外官なので、律令官職である太政大臣とは異なり、蔵人などと同様に天皇の代替わりによって新たに任命されます。
摂関の要件は、(1)天皇の外戚であること、(2)太政官の首班であること、(3)藤氏長者であることですが、この3点を満たす者がいない場合は、(1)もしくは(2)および(3)のどちらかが優先され、初期には(2)および(3)が優先されました。天皇の母后も大きな政治的役割を果たすことがありましたが、制度的に規定されていたわけではないので、年齢などの条件による個人差が大きかったようです。本論考は、藤原氏が唯一の権力者ではなく、摂関もしくは天皇のミウチとして国家権力を構成する一因で、その政治力は他の構成員との関係において相対的に決まり、一定しなかった、と評価しています。摂関期の位置づけについては、律令国家の第二段階とする見解と、権門体制の初期段階とする見解があり、前者は古代国家の延長、後者は中世国家への移行期として把握している、と言えそうですが、どちらも確定的ではないそうです。
●磐下徹「第三章 地方支配と郡司 なぜ郡司は重要なのか?」
国司が中央から派遣され、任期制であるのに対して、郡司は現地の有力者から選ばれ、国造など古墳時代以来の名族も任命されました。古代国家における郡司の重要性は歴史学でも古くから指摘されており、「在地首長」である郡司によって古代国家の地方支配は成立していた、との見解(在地首長制論)が提示されました。これらを踏まえて、古代日本の二元的国家論が提唱されました。その後、在地首長制論の見直しが進み、郡司は制度上では終身だったものの、実際には同一の職に長くても10年程度しか在任しないことなどが明らかになりました。郡司を輩出するような有力氏族は郡内に1~2しかなく、終身とされていた、との理解が見直され、郡司は拮抗する複数の勢力から構成される郡司層によって運営され、郡司職は頻繁に交替していた、と考えられるようになりました。郡司層にとって、国家の官職と地位は影響力の保持や拡大に有利なため、受け入れる動機がありました。こうした郡司層が、地方社会の実態と地方支配制度との間の祖語の補正を担っていた、と本論考は評価しています。
しかし、9世紀になると、郡司層の多くが郡司職を忌避するようになり、その背景として、地方行政上での軍事の責任増大が挙げられます。また、9世紀には従来の徴税制度が機能しなくなっていき、郡司は納入すべき税物の不足分を私財で補填しなければならなくなります。本論考は、9世紀には郡司層の多くが郡司職を忌避するようになる中で、都から地方に来た皇族や貴族の子孫が、その貴種性から地域社会の結集核となり、新たな地域社会の秩序が創出されていき、郡司層の担い手だった地域の有力者は自律的に活動するようになり、そうした地方社会の変容の中から、受領に権限を集中させた請負的な地方支配が形成されていった、と本書は見通しています。
●手嶋大侑「第四章 変貌する国司 受領は悪吏だったのか?」
9世紀~10世紀にかけて、国司のうち受領(実際に赴任する最上位の国司)に権限が集中していき、請負制とも言うべき地方支配が形成されていき、10世紀後半~11世紀初期にかけて、受領を中心とした徴税体制が再編されていきます。強欲な地方官との受領の印象は、国家を支える重要な存在との評価へと変わっていきました。また、受領以外の国司(任用国司)の研究も進み、任用国司は国務から排除されて形骸化していった、と考えられていましたが、地方有力者が居住国の任用国司となる事例について、国務に携わり、受領の支配体制に貢献していた、との見解が提示されています。受領と地方有力者は癒着および協調関係にあることが多く、その協調関係に入り込めなかった地方有力者が、国司苛政上訴の主体だったようです。
●小塩慶「第五章 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」
本論考は「唐風文化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。藤原仲麻呂の「唐風趣味」で平安時代以降に受け継がれていった政策および文化としては、天皇の実名(諱)を避けること(避諱)や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。この頃には学術の振興もあり、公的教育機関としての大学寮の整備が進み、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」には、奈良時代の天平年間の「唐風化」が前提としてあったわけです。桓武朝における「唐風化」については、そもそも桓武天皇には皇族としては低い出自のため即位の可能性はほぼなかった、という背景がありました。桓武天皇は、自らの権威を確立すべくさまざまに模索し、その一環として「唐風化」があったわけです。こうした「唐風化」の背景として、桓武天皇が即位前の若い頃に大学寮の長官を務めていたことも指摘されています。一方で、平安時代初期の「唐風化」は奈良時代よりも唐文化全体への理解が深まるなど、連続性とともに質的変化も指摘されています。
続く「国風文化」の萌芽として、仁明朝が注目されています。それは一つには、和歌が再び表舞台に現れ始めるからです。即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図った、と指摘されています。「国風化」は、9世紀半ばの仁明朝の頃にはまだ萌芽的でしたが、9世紀後半にはかなり明確に現れ、10世紀以降へと連続します。本論考は9世紀後半について、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘します。この状況で本論考が重視するのは9世紀末の宇多朝で、天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していき、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、と指摘されています。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。
こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられています。一方で、唐へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていない、と本論考は指摘します。本論考は、そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも本論考は、10世紀以降には全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であることを指摘します。
●座談会「日本の古代とは何か?」
桓武天皇の後の天皇、つまり平城と嵯峨と淳和と仁明は、自ら政治を主導する意識の高い君主で、仁明天皇の時代の文徳天皇が急に政務に出てこなくなり、後世の政治への影響では、嵯峨天皇とともに仁明天皇も大きな存在だったのではないか、と指摘されています。平安時代における幼帝出現の背景として直系継承への拘りや桓武天皇と嵯峨天皇の皇子の多さが挙げられており、直系継承への拘りは、皇位継承に伴う政変を避ける目的があったのだろう、と推測されています。藤原仲麻呂政権における「唐風化」の進展については、吉備真備や玄昉など遣唐使の帰国によって最新の学問や宗教や物質文化が一挙にもたらされた、という偶然的な事情もあったのではないか、と指摘されています。また、8世紀には、朝鮮半島から文化を取り入れようとする動きが低下していき、直接的に唐から学ぼうとする傾向が強くなっていったようです。
●有富純也「はじめに 日本古代史研究への招待」
まず日本古代史の範囲は基本的に飛鳥時代から平安時代までとされていますが、飛鳥時代は文献が少ないため、現在では奈良時代と平安時代が主要な対象になっている、と指摘されています。本書が対象とするのも、基本的には奈良時代と平安時代です。古代の終焉については、大規模荘園が立てられるようになり、上皇も荘園を集積していった、12世紀初頭前後とされています。中世史の研究者の側でも、中世の開始時期を同じ頃とする見解が有力なようで、古代から中世への移行時期について、現在の日本史学界ではおおむね共通認識が成立しているのでしょう。
●十川陽一「第一章 奈良時代の国家権力は誰の手にあったのか 天皇・皇族・貴族」
律令に規定のない判断が許されるのは天皇のみであることなど、奈良時代というか初期律令国家における天皇の絶対的権力は自明のようにも思われ、「皇国史観」のみならず、第二次世界大戦後のマルクス主義歴史学の強い影響下でも、そうした認識は継続したようです。マルクス主義歴史学的な認識では、天皇は古代アジア的な中央集権的専制君主と把握されました。一方で、いわゆる戦後歴史学でも初期から、畿内の豪族層が結集し、天皇を中心とした全国支配が成立した、とする畿内政権論が提示されました。畿内政権論では、専制君主化を志向する天皇と、それを阻む貴族層の対抗関係が想定されました。この畿内政権論は専制君主論との単純な二項対立ではなく、畿内政権論を踏まえつつ多様な見解が提示されました。
そうした中で、外来の律令制と日本列島古来の要素という二重構造で初期律令国家を把握する視点が定着していきます。初期律令国家の上級貴族層とも言える議政官は、大化前代の群臣会議(大夫合議)を系所有している、との認識も古くからありました。一方で、議政官は大夫合議を継承しているものの、議政官の地位はあくまでも王権による再編成を経ており、貴族制とは評価できず、国家が専制的に人民を支配することと、天皇が専制君主か否かは別問題である、との指摘もあります。畿内政権論を発展させ、天皇の意思を掣肘する貴族合議制が存在した、との見解も提示されましたが、論奏の観点から、大化前代の大夫合議では意見が一本化されていなかったのに対して、初期律令制の議政官では一本化されており(摂関期の陣定では一本化されません)、律令制の論奏は大化前代の大夫合議と直結しておらず、唐の宰相合議制の影響で新たに成立した、との見解が提示されました。
本論考は、律令制において貴族の地位は制度的に天皇によって保証されており、貴族の地位は天皇の存在を前提としていて、初期律令制が専制君主制か貴族制かを問うのではなく、天皇と貴族が相互にどのような関係にあったのか、問われるべきだろう、と提言します。本論考は、畿外からも朝廷で抜擢される人物がいたことなどから、奈良時代の権力構造として、畿内と畿外の地域差よりも、結集核としての天皇の存在の大きさに注目すべきではないか、と指摘します。初期律令国家における天皇の重要性との関連で本書が注目しているのは太上天皇(上皇)の存在で、皇族内部においても権力構造が必ずしも一元化されていなかった、と指摘されています。
●黒須友里江「第二章 藤原氏は権力者だったのか?」
摂関期の研究について、「正史」がなく、古記録や儀式書や文書などが基本史料となっており、「正史」が残る奈良時代と連続的に把握および比較することが難しくなっている、と指摘されています。摂関期には、中央では天皇を中心に国家機構が再編されていきます。藤原氏の権力伸張については相対化が進んでいるようで、初の「幼帝」となった惟仁(清和天皇)の立太子にしても、藤原良房の孫であることよりも、当時、文徳天皇の皇子としては唯一皇位継承資格を有していたことが大きかったようです。幼帝の補佐について、奈良時代ならば天皇大権を保持していた上皇も担当できましたが、平安時代初期の平城上皇の変(薬子の変)の結果、天皇大権を有するのは天皇のみとなり、奈良時代末以降に皇后宮が内裏の内部に営まれるようになるなど、皇后の政治的地位が低下していった結果として、臣下による天皇の政務代行(摂政)が行なわれるようになった、と本論考は指摘します。一般的には摂政と並び称される関白は、元々摂政経験者のために設置された役職と把握されています。摂政は幼帝の後見役なので、天皇が元服すると摂政を辞さねばならないからですが、後に藤原実頼が摂政を経ずに関白に就任したことで、関白のこの要素は失われます。また関白は令外官なので、律令官職である太政大臣とは異なり、蔵人などと同様に天皇の代替わりによって新たに任命されます。
摂関の要件は、(1)天皇の外戚であること、(2)太政官の首班であること、(3)藤氏長者であることですが、この3点を満たす者がいない場合は、(1)もしくは(2)および(3)のどちらかが優先され、初期には(2)および(3)が優先されました。天皇の母后も大きな政治的役割を果たすことがありましたが、制度的に規定されていたわけではないので、年齢などの条件による個人差が大きかったようです。本論考は、藤原氏が唯一の権力者ではなく、摂関もしくは天皇のミウチとして国家権力を構成する一因で、その政治力は他の構成員との関係において相対的に決まり、一定しなかった、と評価しています。摂関期の位置づけについては、律令国家の第二段階とする見解と、権門体制の初期段階とする見解があり、前者は古代国家の延長、後者は中世国家への移行期として把握している、と言えそうですが、どちらも確定的ではないそうです。
●磐下徹「第三章 地方支配と郡司 なぜ郡司は重要なのか?」
国司が中央から派遣され、任期制であるのに対して、郡司は現地の有力者から選ばれ、国造など古墳時代以来の名族も任命されました。古代国家における郡司の重要性は歴史学でも古くから指摘されており、「在地首長」である郡司によって古代国家の地方支配は成立していた、との見解(在地首長制論)が提示されました。これらを踏まえて、古代日本の二元的国家論が提唱されました。その後、在地首長制論の見直しが進み、郡司は制度上では終身だったものの、実際には同一の職に長くても10年程度しか在任しないことなどが明らかになりました。郡司を輩出するような有力氏族は郡内に1~2しかなく、終身とされていた、との理解が見直され、郡司は拮抗する複数の勢力から構成される郡司層によって運営され、郡司職は頻繁に交替していた、と考えられるようになりました。郡司層にとって、国家の官職と地位は影響力の保持や拡大に有利なため、受け入れる動機がありました。こうした郡司層が、地方社会の実態と地方支配制度との間の祖語の補正を担っていた、と本論考は評価しています。
しかし、9世紀になると、郡司層の多くが郡司職を忌避するようになり、その背景として、地方行政上での軍事の責任増大が挙げられます。また、9世紀には従来の徴税制度が機能しなくなっていき、郡司は納入すべき税物の不足分を私財で補填しなければならなくなります。本論考は、9世紀には郡司層の多くが郡司職を忌避するようになる中で、都から地方に来た皇族や貴族の子孫が、その貴種性から地域社会の結集核となり、新たな地域社会の秩序が創出されていき、郡司層の担い手だった地域の有力者は自律的に活動するようになり、そうした地方社会の変容の中から、受領に権限を集中させた請負的な地方支配が形成されていった、と本書は見通しています。
●手嶋大侑「第四章 変貌する国司 受領は悪吏だったのか?」
9世紀~10世紀にかけて、国司のうち受領(実際に赴任する最上位の国司)に権限が集中していき、請負制とも言うべき地方支配が形成されていき、10世紀後半~11世紀初期にかけて、受領を中心とした徴税体制が再編されていきます。強欲な地方官との受領の印象は、国家を支える重要な存在との評価へと変わっていきました。また、受領以外の国司(任用国司)の研究も進み、任用国司は国務から排除されて形骸化していった、と考えられていましたが、地方有力者が居住国の任用国司となる事例について、国務に携わり、受領の支配体制に貢献していた、との見解が提示されています。受領と地方有力者は癒着および協調関係にあることが多く、その協調関係に入り込めなかった地方有力者が、国司苛政上訴の主体だったようです。
●小塩慶「第五章 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」
本論考は「唐風文化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。藤原仲麻呂の「唐風趣味」で平安時代以降に受け継がれていった政策および文化としては、天皇の実名(諱)を避けること(避諱)や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。この頃には学術の振興もあり、公的教育機関としての大学寮の整備が進み、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」には、奈良時代の天平年間の「唐風化」が前提としてあったわけです。桓武朝における「唐風化」については、そもそも桓武天皇には皇族としては低い出自のため即位の可能性はほぼなかった、という背景がありました。桓武天皇は、自らの権威を確立すべくさまざまに模索し、その一環として「唐風化」があったわけです。こうした「唐風化」の背景として、桓武天皇が即位前の若い頃に大学寮の長官を務めていたことも指摘されています。一方で、平安時代初期の「唐風化」は奈良時代よりも唐文化全体への理解が深まるなど、連続性とともに質的変化も指摘されています。
続く「国風文化」の萌芽として、仁明朝が注目されています。それは一つには、和歌が再び表舞台に現れ始めるからです。即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図った、と指摘されています。「国風化」は、9世紀半ばの仁明朝の頃にはまだ萌芽的でしたが、9世紀後半にはかなり明確に現れ、10世紀以降へと連続します。本論考は9世紀後半について、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘します。この状況で本論考が重視するのは9世紀末の宇多朝で、天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していき、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、と指摘されています。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。
こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられています。一方で、唐へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていない、と本論考は指摘します。本論考は、そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも本論考は、10世紀以降には全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であることを指摘します。
●座談会「日本の古代とは何か?」
桓武天皇の後の天皇、つまり平城と嵯峨と淳和と仁明は、自ら政治を主導する意識の高い君主で、仁明天皇の時代の文徳天皇が急に政務に出てこなくなり、後世の政治への影響では、嵯峨天皇とともに仁明天皇も大きな存在だったのではないか、と指摘されています。平安時代における幼帝出現の背景として直系継承への拘りや桓武天皇と嵯峨天皇の皇子の多さが挙げられており、直系継承への拘りは、皇位継承に伴う政変を避ける目的があったのだろう、と推測されています。藤原仲麻呂政権における「唐風化」の進展については、吉備真備や玄昉など遣唐使の帰国によって最新の学問や宗教や物質文化が一挙にもたらされた、という偶然的な事情もあったのではないか、と指摘されています。また、8世紀には、朝鮮半島から文化を取り入れようとする動きが低下していき、直接的に唐から学ぼうとする傾向が強くなっていったようです。
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