大河ドラマ『光る君へ』全体的な感想

 本作は大河ドラマの空白期間(関連記事)を埋めるという意味で画期的と考えていたことから、放送開始前からたいへん注目していました。ただ、主人公の紫式部(まひろ、藤式部)と『源氏物語』に、清少納言(ききょう)と『枕草子』、藤原道長(三郎)の知名度は高そうであるものの、時代劇では馴染みの薄い時代で、他の人物や歴史上の出来事は有名ではなさそうですから、出来がよくても視聴率は苦戦しそうかな、と予想していました。じっさい、視聴率は低迷し、大河ドラマでは2019年放送の『いだてん~東京オリムピック噺~』に次ぐ低さでした。

 ただ、この視聴率低迷は制作側もある程度見込んでいたのではないか、とも思います。正直なところ、本作の配役は一般的な印象では、豪華さの点で前作や次作と比較してかなり見劣りするように思います。一つ基準を言えば、大河ドラマ主演経験者が本作には出演していませんが、前作では5人(そのうち1人は最終回だけの特別出演ですが)、次作では2人(現時点なので、今後増えるかもしれません)です。「役者の格」を重視する人ならば、本作を「捨て作品」と判断するかもしれません。しかし私は、本作の制作陣が高視聴率を最優先したのではなく、適材適所で配役を決定した結果、なのではないか、と思います。時代劇では馴染みの薄い時代なので、視聴率の低迷は覚悟し、配役は話題性ではなく質の向上を優先したのではないか、というわけです。まあ、これは憶測にすぎないので、制作側の実際の意図は分かりませんが、本作の配役はおおむね成功のように思います。

 配役に限らず、本作は全体的にかなり楽しめました。2012年放送の大河ドラマ『平清盛』は、ひじょうに楽しめたので、毎回の感想も全体的な感想もかなり気合を入れて執筆しましたが(関連記事)、その後の大河ドラマについては、楽しめた作品は多かったものの、惰性で感想記事を執筆しているところが多分にありました。本作についても、惰性で感想記事を執筆していたところがないわけではありませんが、つい色々と語りたくなるところがあり、2012年放送の『平清盛』の後の大河ドラマでは、最も気合を入れて執筆しており、おそらく文字数も最も多いと思います。上述のように私は本作の配役を高く評価していますが、これは人物造形および人間関係の描写という脚本の妙と合わせての適材適所で、ここが本作の大きな魅力になっています。私が本作までほぼまったく演者を知らなかった人物では、藤原実資と一条帝がとくに印象に残りました。

 配役や人物造形や人間関係の描写が魅力的な本作ですが、やはり中心となるのは主人公の紫式部と準主人公とも言うべき藤原道長の関係で、途中何度か両者が直接的には接触しない期間もあり、両者と他の人物、さらには両者以外の人間観関係も魅力的だったとはいえ、最初から最後まで、紫式部と道長の関係を軸に話が展開しました。紫式部と道長はずっと相思相愛ながら、究極的には下級貴族と上級貴族の立場の違いからすれ違い、肉体関係は何度かあるものの、夫婦としては結ばれなかった感じで、ここは丁寧に描かれていたと思います。すれ違いと決別と再会を繰り返す紫式部と道長の関係は、「腐れ縁」と一言で片づけるような簡単なものではなく、人間の愚かさや情念も含めて、人間の業を描こうとしたのかな、と思います。紫式部と道長の相思相愛の関係は最後まで変わらず、もどかしさが残りましたが、それが本作の中核にあり、そこに惹かれた人は多いのかもしれません。私はむしろ、紫式部と道長以外の人物描写や、紫式部と道長の二人以外の人物との関係を楽しみに視聴していましたが。

 この紫式部と道長の関係とも絡んできますが、本作で最も不満が残ったのは、道長の描写です。本作の道長は、紫式部との若き日の約束を果たすため、思いがけず臣下で最高権力者となっても、民の生活の安寧を目指す清らかな政治家として描かれ、帝や東宮に次々と娘を入内させたことは、政治の安定のためと説明されました。道長の人事や外戚関係の構築は、他人から見れば道長の父である兼家や兄である道隆と変わらず、旺盛な権勢欲に他ならなかったでしょうが、本作の道長はあくまでも「正しい動機」のため行なっていたことでした。ただ、その動機の根底には紫式部と若き日の約束があり、つまりは「私欲」とも言えるわけです。さらに、民の安寧のためといった立派なお題目が、実はあやふやなもので、確たる指針はないことが、藤原実資によって道長には直接的に指摘されていました。道長が最期に、自分は後世には父や兄と変わらない権勢欲で動いていた人物と認識されることに気づいて愕然とし、それに紫式部がどう反応するのか、本作終盤の見どころになるのかな、とも予想していましたが、とくにそうした描写はなく、紫式部と道長は最後まで互いが特別な存在であるだけで、道長は自分が政治家として何もやり遂げていないことを自覚し、後悔した様子も見せましたが、それが大きく描かれることもなく、この点には不満が残ります。

 本作の魅力としては、恋と歌と宴会に明け暮れて政治を怠っていた平安時代の貴族、藤原氏の前に無力で言いなりの天皇といった通俗的な平安時代像を覆すような意欲的描写もあります。本作ではたびたび陣定などの政策判断の場面が描かれ、平安時代の政務の様子が大河ドラマ視聴者に映像として届いたのは、今後の一般的な平安時代認識に好影響を与えるのではないか、と期待されます。また、天皇が臣下に見放されては政治が滞るわけで、天皇が道長など臣下の最高権力者の意向に屈することは珍しくないものの、天皇が臣下の意向に唯々諾々と従っていたわけではなく、天皇が臣下の意向に反するような行動に出ると、臣下の最高権力者といえども容易に軌道修正できないところが描かれたのは、摂関政治期(道長は関白に就任しておらず、正式に摂政の座にあったのも1年程ですが)の天皇に関する通俗的な印象を変える契機になるのではないか、と期待されます。

 本作のとくに序盤の魅力として私が評価しているのは、紫式部で下級貴族の世界、道長で上級貴族の世界、直秀で庶民の世界というように、当時の都を多面的に描いていたことです。ところが、直秀の退場が第9回と以外に早く、その後も庶民の視点が描かれなかったわけではないものの、期待していたよりも弱くなったのは残念でした。また、紫式部が越前守に任命された父である藤原為時に同行して越前に赴いたことや、終盤に大宰府を訪れたことなど、地方の視点も描かれたものの、短かったのは残念でした。紫式部が大宰府に赴き、刀伊の入寇に遭遇したのは、まあご愛嬌でしょうか。周明を通じての外国視点も短く、基本的には都の視点で話が展開しました。さらに、紫式部が彰子に仕えた後は、下級貴族の視点も前半より弱くなり、宮廷政治により特化した感があり、もう少し多面的に話が展開することを期待していただけに、この点はやや残念でした。これと関連して、紫式部と道長以外にも、紫式部の父親の為時や家人の乙丸および「いと」、道長の妻の源倫子、倫子と彰子に仕えた赤染衛門、貴族では実資や藤原公任や藤原斉信や藤原行成など、序盤から終盤もしくは最終回まで登場する主要人物が多かったことも、世界観の小ささを印象づけたところがあります。こうした不満点もありますが、それが強く気にならないくらい楽しめたのも確かで、本作の制作陣には感謝しています。

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