ポンペイのローマ帝国期噴火犠牲者のゲノムデータ
ポンペイのローマ帝国期噴火犠牲者のゲノムデータを報告した研究(Pilli et al., 2024)が報道されました。本論文は、紀元後79年のベスビオ火山(Somma-Vesuvius)の噴火によって壊滅したローマ帝国の支配下にあった都市ポンペイで発見された、石膏像に残る骨格資料から得られたゲノムデータとストロンチウム同位体(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr)および酸素同位体(δ¹⁸O)データを報告し、ベスビオ火山の犠牲者の遺伝的関係と性別と祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と移動性を検証しています。本論文で分析対象となった個体群は伝統的に、母子関係や姉妹関係が想定されていましたが、遺伝的には、母子関係と想定されてきた1組については、子供と生物学的親族関係にない成人男性で、姉妹関係と想定されてきた1組については、少なくとも一方は男性個体だった、と示されました。これらは、近現代的な価値観での考古学的判断の危うさを示唆しています。
なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は、新石器時代(Neolithic、略してN)、先土器新石器時代(Pre-Pottery Neolithic、略してPPN)、先土器新石器時代A(Pre-Pottery Neolithic A、略してPPNA)、先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)、銅器時代(Copper Age、略してCA)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)、中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)、前期~中期青銅器時代(Early to Middle Bronze Age、略してEMBA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●要約
紀元後79年のベスビオ火山の噴火は、いくつかの近隣のローマの町を埋没させ、その住民を殺し、軽石の火山礫と灰の堆積物の下に、独特な一連の市民と個人の建物や記念碑や彫刻や絵画やモザイクを埋め、これらの遺物はローマ帝国の生活の豊かな状況を提供します。噴火は、灰が身体の周囲を圧迫したため、多くの死者の形も保存しました。軟組織は腐敗しましたが、遺体の外形は残り、何世紀も後に発掘者が空洞を石膏で埋めることによって回収されました。鋳型に埋め込まれていた骨格資料から、ゲノム規模の古代DNAデータとストロンチウムの同位体データが生成され、5個体の遺伝的関係と性別と祖先系統と移動性が特徴づけられました。個体の性別と家族関係は伝統的な解釈と一致しない、と示され、性別に関する現代の仮定が過去のデータを見るさいの信頼できるレンズではない可能性を例証します。たとえば、膝の上に子供1個体を乗せ、金色の腕輪を着けていた成人1個体は、子供の母親と解釈さることが多いものの、遺伝的にはその子供と生物学的に親族関係にはない成人男性です。同様に、抱き合って死んでいた、と考えられていた二人組は姉妹と解釈されることが多いものの、遺伝的に少なくとも1個体の男性が含まれていました。ローマ市の同時代の古代人のゲノムでも見られたように、ゲノム規模データのあるポンペイの犠牲者は全員一貫して、その祖先系統がほぼ地中海東部からの近い過去の移民に由来しており、この期間におけるローマ帝国の国際性が強調されます。
●研究史
ポンペイはイタリアのカンパニア州に位置するローマ時代の都市で、ナポリからは南東に約14マイル(約25.75km)離れています。ポンペイは、「ポンペイ噴火」としても知られる、ベスビオ火山の79年のプリニー式噴火(Plinian eruption)によって破壊されました。ポンペイ市は噴火の初期段階に堆積した軽石の火山礫の堆積物の下に埋まっており、その後の段階で火砕流からの灰の堆積物に生まれました。ポンペイは1700年代後半に再発見されるまで、ほぼ忘れられたままでした。その独特な保存とローマ帝国における日常生活について提供される洞察によって、ポンペイは世界で最もよく知られている考古学的遺跡の一つとなり、UNESCO(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization、国際連合教育科学文化機関)の世界遺産遺跡に指定されました。
鉄器時代のナポリ湾における最古級の安定した集落は紀元前8世紀にさかのぼり、この頃にオスキ人(Osci)がサルノ(Sarno)川の河口近くの小さな丘の上に家屋を建て、この丘は周辺のサルノ平原で見られる複数の地元の火山口の痕跡を表しています。その戦略的位置のため、ポンペイは重要な道路と港の結節点となりました。ギリシア人とエトルリア人とサムニテ人(Samnites)はすべてポンペイを征服しようと試み、ポンペイは最終的にローマの植民地となりました。
79年の噴火はポンペイを完全に破壊しましたが、ポンペイを破壊した火砕堆積物は建物と通りと人工遺物を保存しました。多くの遺体や、住民の芸術や宝石や巻物の本や他の文化期遺物なども保存されました。1748年に始まった発掘中に、孤立と集団両方の状態の多くの犠牲者が家屋や市壁のすぐ外の広場や庭や通りで発見されました。19世紀には、考古学者のジウゼッペ・フィオレッリ(Giuseppe Fiorelli)が、犠牲者の軟組織の腐敗により残った空洞へと液体状の石膏を流し込むことによる鋳型製作手法を開発しました。それ以来、1000体以上の犠牲者がポンペイ遺跡で発見され、犠牲者の形態を保存し、その骨を包む104点の石膏像が、フィオレッリの手法を用いて製作されてきました。2015年、86点の石膏像の修復中に、そのうち26個体のCT(computed tomography、計算断層写真術)走査もしくはX線の試みによって、完全な骨格を含むものはない、と明らかになりました。石膏像は過去にかなり手が加えられており、創造的に修復されている可能性が高く、石膏像間の様式的な差異は部分的には、製作された時期の美的嗜好を反映しています。したがって、ポンペイの犠牲者の身元に関する一般的な解釈は、最初に記載した考古学者だけではなく、遺体の軽女優の一部の特徴を強調もしくは改変した修復者にも影響を受けました。画像化の結果は一部の事例では、金属棒や鋳造過程の前の骨の頻繁な除去のような、安定化する要素の導入を明らかにし、これは骨学的基準での性別判断を複雑にしました。衣服を寄せ集めて形成された可能性が高そうな、妊娠の推定される以前に想像された膨張した腹部など、一部の石膏像は再解釈が可能でした。
複数の研究が、ポンペイのヒトと【非ヒト】動物両方からのDNAデータ回収の可能性を書く所有してきました。最近、鍛冶屋の家(Casa del Fabbro、以下CF)で発見されたヒト骨格遺骸から得られた遺伝的データでは、この個体の遺伝的祖先系統は、先行する鉄器時代と比較してより多くの地中海東部からの影響を受けていた[19]、現代のラツィオ州となるローマ帝国期のラティウム(Latium)地域で観察された遺伝的多様性内に収まる[18]、と示されました。港町としてのポンペイは通常、多様で射動的な人口を有する都市とみなされています。しかし、生物考古学的分析は、遺伝的均一性もしくは共通の環境の影響を示唆するかもしれない、高頻度の非計量的特徴を明らかにしました。古代DNAとストロンチウム同位体は、ポンペイの住民の多様性と起源に関するより深い理解の獲得の可能性を提供します。
ミトコンドリアDNA(mtDNA)と100万以上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)について[20]、古代DNA抽出物の濃縮を用いて、ヒト石膏像からの遺伝的情報の抽出が試みられました。この研究は、修復中の86点の石膏像のうち14点の、さまざまな解剖学的要素から回収された石膏と混合した高度に断片化した骨格要素で実行されました。図S1は、犠牲者14個体が見つかり、石膏像が製作されたことを示す、地図を提示します。本論文の目標は、遺骸の形態と位置に基づき、犠牲者の身元および相互との関係について遺伝的データの欠如の時点で提案された解釈の検証と、石膏像のほとんど不完全な骨格のX線とCT画像によって以前に得られた骨学的情報の増加です。そうした推測は、歴史家や考古学者は一般人が、大惨事によってひじょうに鮮明に記録された社会をどのように想像するのか、形成してきました。さらに、犠牲者の遺伝的祖先系統が調べられ、それが、ローマ市やその後背地の同時代の個体群から得られた既知の遺伝的多様性と比較されました。
●DNAの保存と片親性遺伝標識
以下では、ポンペイ遺跡について生物考古学的文献で一般的に用いられている石膏像の番号を用いて、個体が記載されます。対応する遺伝的識別(ID)は、表1とデータS1で見ることができます。14点の異なる石膏像から石膏と混合した骨の断片の標本が抽出され、それらはDNAの濃度と分解の定量化や、mtDNAと3000ヶ所の常染色体SNP[23]で濃縮するための混合に基づく手法の使用によって検査されました。検査結果に基づいて、約120万の核DNAのSNP(124万SNP一式)について、部分的にウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理された7点のライブラリの濃縮が選択されました。さらに、選択された個体のうち4個体が放射性炭素年代測定されました。
5点の標本は、古代DNAに典型的な読み取り末端における塩基の誤取り込みのパターンがある、完全もしくは部分的なミトコンドリアゲノムを提供し、標的となる常染色体SNPの少なくとも5万ヶ所が網羅されており、124万SNPの中央値の網羅率の範囲は0.006~0.437倍でした。5個体はすべて(図1)、「Quantifiler™ Trio Kit」を用いてのDNA定量化で定量化されたように、遺伝的に男性と性別決定されました。この定量化にじゅうぶんなデータがある2個体でX染色体上の汚染も推定され、4%未満と分かりました。他の事例では、ミトコンドリアのデータによって提供される分子損傷パターンと汚染推定値(表1)から、結果は単一個体に由来する確実な古代DNAと一致する、と示唆されます。全個体が属するY染色体系統(J2a、J2b、E1b、T1a)は、まずアジア西部に出現し、現在ではアジア西部および中央部とヨーロッパ南部とアフリカ北部において依然として高頻度で見られます[20、24]。3親等までの近縁性の証拠がある個体はいません。以下は本論文の図1です。
●石膏像の個体群は多様な祖先人口集団を表しています
5個体は、ユーラシア西部およびアフリカ北部の現代の人口集団と世界規模の人口集団で構築された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)上で、現代イタリア人および鉄器時代と後期鉄器時代のイタリア人口集団やローマ帝国期エトルリア人から離れている、と分かりました。代わりに、ポンペイの5個体は地中海東部とレヴァントとアフリカ北部のユダヤ人集団とよりまとまります(図2A・B)。このパターンは、イタリア中央部のローマ帝国期人口集団[19]で見られるパターンや、ゲノム規模データのあるポンペイの以前に刊行された単一個体[18]と類似しており、このポンペイの単一個体は新たに生成されたデータのある5個体とともに図示されました。k(系統構成要素数)=6での教師無ADMIXTURE分析(図2C)では、ポンペイの個体群はエトルリア文化と関連するほぼ同時代の個体群とは、中石器時代読湯は狩猟採集民(ポンペイ個体群の下部)やコーカサス狩猟採集民(ポンペイ個体群の上部)で最大化される祖先系統構成要素の割合において異なっており、その祖先系統組成はイタリア半島中央部のローマ帝国期個体群やエーゲ海およびアナトリア半島の同時代の個体群とより類似しています。個体52号は、現代のサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団で最大化されるわずかな構成要素と、ヨーロッパ狩猟採集民で最大化される構成要素の欠如によって特徴づけられる、鉄器時代およびローマ期のレヴァントの個体群と同等の祖先系統組成を示します。この個体52号は、レヴァントの人口集団と最も密接にまとまります(クラスタ化します)。以下は本論文の図2です。
さまざまな祖先系統供給源の寄与を定量化するため、qpAdmを用いてさまざまな2方向および3方向モデルが検出され、P > 0.01と係数1未満の最も少ない数の供給源を用いて、作業モデルが報告されます。推定祖先人口集団の遠位一式を用いて、全個体で作業モデルが見つかりました(図3)。石膏像の各個体について、トルコのマルマラ(Marmara)地域のバルシン(Barcin)遺跡のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)および/もしくはレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)が最大の推定割合(48~75%)を構成するのに対して、2番目に高い割合(26~45%)はイランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群(イラン_ガンジュ・ダレー_N)に由来し、例外となる個体25号はその祖先系統の、65.3±4.5%がレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)に、34.7±4.5%が他の個体では要求されない祖先系統供給源である青銅器時代草原地帯牧畜民(草原_EMBA)に由来する、と推測されます。このモデルは、個体群のゲノムの低網羅率にも関わらず、他の個体に寄与しなかったヨーロッパ供給源を含む、異なる祖先系統の歴史を示唆します。以下は本論文の図3です。
個体22号および51号は、62~69%のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)祖先系統と31~38%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)祖先系統で構成される、と説明できます。個体52号はアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)祖先系統を有していない、と推測されます。代わりに、個体52号の祖先系統は57.7±3.1%のレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)と42.3±3.1%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)に由来する、とモデル化できます。この結果は、PCAおよびADMIXTURE分析(図3)における同時代のレヴァント個体群との個体52号のより密接なクラスタ化を裏づけ、個体52号もしくはその直接的祖先の近い過去のレヴァント起源を示唆しています。二つの代替的な3報告されは、個体53号では却下されません。その両モデルでは祖先系統の最大の割合はそれぞれ、69~88%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)と84~97%のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)に由来する構成要素の組み合わせとして説明されます。第三の構成要素は、21.2±7.1%のレヴァントの新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)、もしくは9.8±2.8%のアフリカ北部祖先系統を有する銅器時代個体群(地中海_CA_アフリカ北部)のどちらかに由来します。
PCAによると分類内では比較的遺伝的には均質である、ユーラシア西部およびアフリカ北部地域の紀元前二千年紀後半~千年紀前半の個体群で構成されるより多くの代理供給源に由来する可能性としても、ポンペイの個体群が検証されました。作業モデル(P > 0.01)はほぼ、地中海東部かレヴァントかアフリカ北部の人口集団を主要な供給源として必要とします。供給源のトルコ_西部とトルコ_中央部の一方と区別できない祖先系統を湯要するモデルは、個体22号および51号で機能します。個体25号の2方向作業モデルには、バルカン半島か地中海中央部かヨーロッパ中央部の供給源との組み合わせで祖先系統の大半に寄与した、地中海東部供給源が含まれます。同様に、個体53号は祖先系統供給源の混合としてのみ適合でき、3通りの検証モデルでは、約20%のサルデーニャ島_カルタゴを伴う約80%のトルコ_中央部、約33%のサルデーニャ島_カルタゴを伴う約67%のトルコ_東部、約20%のイタリア_IA(イタリア半島の鉄器時代個体群)を伴う約80%のレバノン個体群がすべてデータに適合します。個体52号では1もしくは2方向の作業モデルが見つかりませんでしたが、最高のP値の可能なモデルにはすべて、祖先系統の大半(約51~73%)に寄与した供給源としてエジプトが含まれ、じっさいの供給源がヘレニズム時代のエジプトの個体群によって表される供給源と遺伝的に類似していることを示唆しています。以前に刊行された個体f1R[18]はすべての作業モデルで、ヨーロッパ供給源との組み合わせでレヴァントからの約73~84%を必要とします。
●人口統計学的特徴と表現型の特徴
個体52号のみが、有効人口規模および結婚慣行への洞察を提供できる、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の検出[28]にじゅうぶんな遺伝的データを提供しました。個体52号では4.71cM(センチモルガン)と単一の短いROHのみが見つかり、密接な親族関係にある両親もしくは個体群が顕著な血統近縁性を共有している起源の小さな人口集団とは一致しません。全体的に、ポンペイ個体群のゲノムの標本で見られる遺伝的異質性と、1個体における長いROHの欠如は、河川港としての役割と、さまざまな地元と移民の文化集団で構成されている、とした古代の著者による記述によって示唆されるように、大きく多様な人口集団と一致しています。これは、79年の噴火犠牲者で観察された高頻度の一部の非計量的形質が、共通の遺伝的背景ではなく発達段階の共有された環境変数に起因するかもしれない、との仮説にいくらかの裏づけを提供します。しかし、本論文で遺伝的に調べられた個体群では、個体22号のみがそうした共通の非計量的形質、具体的には、ラムダにおける比較的大きな小骨とラムダ縫合におけるウォルム骨の存在を示しました。そうした形質のある個体とない個体を対象とした遺伝学的分析は、そうした形質のある個体間の祖先系統における均質性の水準を明らかにするかもしれません。
HIrisPlex-S体系で評価された外見上の特徴の表現型標識は、個体25号と51号と53号における茶色の目と、個体52号の恋色の肌および黒髪の可能性が最も高いことを示唆します。さまざまな疾患と関連するいくつかの危険性アレル(対立遺伝子)が分析された全個体で検出されましたが、低網羅率および表現型と環境との間の相互作用の可能性のため、確実にこれらの形質を予測することはできませんでした。
●遺伝学と骨学の調査結果の組み合わせは確立した一般的な説の一部と矛盾します
学者や一般人の想像は、石膏像の遺体の位置と形状の印象をさまざまな方法で解釈してきており、犠牲者の身元および相互との関係の可能性について推測しました。新たな科学的手法による石膏像の修復と研究が2015年に始まった時、個体の特徴づけに関する堅実なデータを提供する査読済参考文献はなく、唯一の利用可能な情報は、考古学者によって提供されました。それにも関わらず、性別と個体間の関係についての一部の解釈は、学界と一般に広く受け入れられ、博物館の展示や教育や宣伝資料を通じて広がりました。したがって、新たに報告された遺伝的データと同位体データによって、広範な解釈の一部を再考できるようになります。
●金色の腕輪の家
金色の腕輪の家は、第6地区の第17島に位置します(図1)。この家の確信的で複雑な建築形態は、中庭のある家と郊外の別荘のローマ・イタリア式モデル間の融合から生じました。この家は3階建てで、市壁と丘の斜面を利用しています。その部屋はパノラマ式の位置で3階のテラスに並んでいました。この家はとくに豪華で、色彩豊かなフレスコ画が壁を飾っていました。1974年に、犠牲者4人がこの場所において相互に近くで発見され、遺伝的に関連のある家族を構成している、と解釈されました。最初の3人の犠牲者は庭と海岸通りに続く階段の下で発見され、2個体(個体50号および52号)と若い子供(個体51号)は個体52号の腰の上に立っていたようです。個体52号は子供との関連のため伝統的に女性にして母親と解釈されており、異常な重さ(6.1g)の複雑な金色の腕輪が腕に装着されており、これが家の名称の由来にもなりました。もう一方の成人個体である50号は、遺伝的に関連する家族集団の父親と解釈されました。限定的なX線分析に基づくと、個体50・51・52号はそれぞれ、若い成人、5~6歳、比較的若い中年の成人と推定されましたが、明確な性別分類は成人もしくは子供のどちらでもできませんでした。これら3人の犠牲者は階段の吹き抜けへの避難を試み、ポンペイ市の港に逃げようとしたさいに、階段の崩壊で死亡した、と提案されてきました。数m離れた場所で、約4歳の子供の遺骸が発見され(個体53号)、生殖器の部位で石膏が膨らんでいたため少年と解釈されました。この子供は庭につながる廊下沿いに逃げている間に、家族の一団と離れたようです。
DNAの定量化によって、全個体の分子的性別の推定が可能となりましたが、核ゲノム解析に基づく性別の同定は、これらの個体のうち3個体のみ(個体50号以外)で可能でした。全個体は、成人女性と推定されていた個体(52号)を含めて、遺伝的に男性と性別決定されました。さらに、mtDNAおよび全ゲノムデータでは、個体間の少なくとも最大3親等までの生物学的近縁性の証拠が見つからず、これら犠牲者4人は遺伝的に関連する家族だった、との一般的な説の誤りを論証します。成人個体50号における遺伝的物質の保存によって、唯一のミトコンドリアゲノムの再構築が可能となり、他の3個体との母系の関係は示されませんでしたが、核DNAの水準では親族関係にある可能性を除外できません。PCAおよびADMIXTUREの分析は、ローマ帝国期のイタリア半島住民で観察された遺伝的多様性内[19]での、これら3個体の分布におけるかなりの差異を示します(図2)。qpAdmで推測されたこの3個体の遺伝的祖先系統の組成は、遠位および近位両方のモデル化において異なって現れ、その祖先の起源が異なる地中海東部もしくはアフリカ北部人口集団にあることを示唆しています。遺伝子型に基づいての表現型の推測によるこれらの個体の外見の再構築を試みると、個体52号が黒い髪と濃い肌を有している一方で、個体51号および53号では茶色の目の色のみを証明できた、と分かりました。
●地下回廊の家
地下回廊の家は、第1地区の第6島に位置します(図1)。この家は元々、紀元前3世紀に建てられました。この家の現在の名称は、四角形の南向きの庭の3辺に沿っている地下通路である地下回廊に由来します。居間(oecus)と4ヶ所の温泉浴室、つまり脱衣場(apodyterium)と令室(frigidarium)と温室および微温浴室(tepidarium)と男性用高温浴室(calidarium)は地下回廊に面しており、高温浴室の前に炉(praefurnium)があります。この地下回廊は元々、樽型で十字型の半円形の天井があり、居間の壁には『イリアッド』に触発された一連の場面が描かれていて、第二様式(アウグストゥス期)の最終段階に描かれたポンペイの絵画の最も優れた事例の一つを提供します。4ヶ所の浴室の壁にも、精巧な風景画が描かれていました。1914年の発掘中に、9個体がこの家の前の庭で見つかりましたが、鋳型を製作できたのはそのうち4個体だけでした。
これら4個体のうち2個体(21号および22号)は相互の近くで発見され、それは抱擁状態と解釈さてれ(図1)、この2個体は姉妹か母親と娘か恋人同士かもしれない、と考古学者は仮定しました。石膏像内に保存されていた骨格要素のCT検査から、推定年齢は、個体21号が14~19歳、個体22号は若い成人と示されました。骨学的性別推定はできませんでしたが、個体22号の骨格は比較的華奢と言及されました。核DNAの遺伝学的分析が成功したのは個体22号だけで、個体22号が男性と明らかになり、個体21号と個体22号の組み合わせが姉妹もしくは母親と娘だった可能性は除外されました。他のすべての分析された標本のように、個体22号は地中海的な核DNAの遺伝的変異性内に収まり、祖先の起源が同時代のアナトリア半島人口集団であることと一致し、mtDNAハプログループ(mtHg)はN1b1a1で、おそらくは近東/アフリカ北部起源です。ミトコンドリアゲノムの再構築は個体21号でも成功し、異なるmtHg-Rの派生的な2ヶ所のSNPがあり、mtHg-N1b1a1につながる派生的なSNPはなく、この2個体【21号と22号】間の母系の近縁性の欠如と一致します。
●神秘の別荘
この別荘は1909~1910年に最初に発掘され、現在でも保護と保全に関する懸念から小規模な調査の対象で、古代の海岸の近くの、市壁の北西に位置しています(図1)。壁と天井、とくにそのフレスコ画のほとんどは、ベスビオ火山の噴火をほぼ無傷で残りました。神秘の別荘(Villa dei Misteri)との名称は、紀元前1世紀にさかのぼり、ブドウ酒と豊穣と宗教的歓喜の神であるバッカスにおそらく捧げられた儀式を描いた、一連のフレスコ画に由来します。この別荘はひじょうに大きく、当時の多くのローマの別荘に共通していたように、多くの異なる部屋と機能的空間がありました。ブドウ酒の圧搾場が発見されて元々の場所で復元され、これは、ほとんどの別荘にはいくらかの農地が含まれていたため、独自のワインやオリーブオイルや他の生産物の製造が富裕な家族では一般的だった、との事実を反映しています。女性と解釈された成人2個体と子供1個体の遺骸が軽石の火山礫堆積物で発見され、これは、この3個体が農場区画の上階で噴火の初期段階で襲われ、下階に落ちたことを示唆しています。
上層の灰の堆積物では6個体の遺骸が発見され、この6個体が噴火の最初の段階を生き延びた、と示唆されます。この6個体のうち、個体25号は部屋において単独で発見され、灰の層の最上部で横たわっており、左手の小指には女性像の彫刻された紅玉髄のある鉄の指輪が、所持品として5点の青銅製硬貨と1点の鞭がありました。この犠牲者【個体25号】の鋳型は、最良に保存された解剖学的および織物の詳細の一部を示します。この男性は身長が約1.85mで、細身で、鼻梁は凸型でした。衣服や装飾品の痕跡から、個体25号は社会的地位が低いと仮定され、忠実に地位を保った別荘の管理人と解釈されました。本論文の遺伝学的分析は男性との性別推定と、おそらくは地中海東部とヨーロッパ両方の供給源にさかのぼるかもしれない、混合した遺伝的祖先系統を確証しました。
個体25号の地理的起源と生涯の移動についてより多くを知るために、ストロンチウムと酸素の同位体分析が実行されました(図4)。ストロンチウム同位体の測定値(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr=0.7084729±0.00001)はポンペイで見つかった値(0.70806、2点)より高く、この値はカンパニア平原南部全域で見られる生体利用可能なストロンチウムの範囲(0.7075~0.7085)と一致します(図4A)。これは、ラツィオ州およびイタリアの南北全域のローマ人口集団で報告された地元の範囲外にあります。δ¹⁸Oのエナメル質組成は、δ¹⁸OのVSMOW(Vienna Standard Mean Ocean Water、ウィーン標準平均海水)が26.77‰、δ¹⁸OのVPDB(Vienna Peedee belemnite、ウィーンのピーディー層ベルムナイト)が−4.03 ‰で、これはイタリア半島中央部におけるδ¹⁸O値の沿岸部の分布と一致します(図4B)。イタリア半島中央部全域での生体利用可能な⁸⁷Sr/⁸⁶Srとδ¹⁸Oとの同位体類似性は、ポンペイおよびその周辺での初期の居住を示唆しているかもしれませんが、この評価は予測される地元の範囲内に収まる地元起源を示唆しており、地質学的および生体利用可能な同位体体系の類似性は地中海全域で見られます。以下は本論文の図4です。
ローマ帝国の都市部人口集団を形成した国際性と移動性の強調の他に、本論文は、当時の研究者の世界観を反映していることが多い、限定的な証拠に基づく説がいかに信頼できないか、示します。この観点では、考古学的データと統合すると、遺伝学的分析はこれらの説を大いに豊かにすることができます。たとえば、本論文で分析された別荘の2ヶ所では、以前には慎重な骨学的評価なしに女性と推定された個体が遺伝的には男性と分かりました。これらの発見は、宝石の女性らしさとの関連づけや、身体的近さの生物学的関係の指標としての解釈など、長年の解釈に異議を唱えます。同様に、遺伝的データは親族関係の単純な説を複雑にしており、複数個体から遺伝的データが得られた唯一の遺跡である金色の腕輪の家では、一般的には両親とその2人の子供と解釈されている4個体は、じっさいには遺伝的に親族関係にはありません。これらの人々の生きた経験も誤り伝えるかもしれない新たな説の確立の代わりに、これらの結果は、過去の社会および学術的論議における性別(ジェンダー)と家族の概念と構築への反映を促します。さらに、物語の媒介としての鋳型の利用は、過去の修復者による姿勢と相対的な位置の操作につながったかもしれません。遺伝的データは、他の生物考古学的手法とともに、ベスビオ火山噴火の犠牲者となった人々に関する理解の深化の機会を提供し、遺伝的データを考古学および歴史の情報と統合することで、ポンペイのような歴史的に豊かな遺跡でさえ、過去の生活や行動の理解を大きな深める、と浮き彫りにします。
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[24]Lazaridis I. et al.(2022): The genetic history of the Southern Arc: A bridge between West Asia and Europe. Science, 377, 6609, eabm4247.
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[28]Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w
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なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は、新石器時代(Neolithic、略してN)、先土器新石器時代(Pre-Pottery Neolithic、略してPPN)、先土器新石器時代A(Pre-Pottery Neolithic A、略してPPNA)、先土器新石器時代B(Pre-Pottery Neolithic B、略してPPNB)、銅器時代(Copper Age、略してCA)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、前期青銅器時代(Early Bronze Age、略してEBA)、中期青銅器時代(Middle Bronze Age、略してMBA)、前期~中期青銅器時代(Early to Middle Bronze Age、略してEMBA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●要約
紀元後79年のベスビオ火山の噴火は、いくつかの近隣のローマの町を埋没させ、その住民を殺し、軽石の火山礫と灰の堆積物の下に、独特な一連の市民と個人の建物や記念碑や彫刻や絵画やモザイクを埋め、これらの遺物はローマ帝国の生活の豊かな状況を提供します。噴火は、灰が身体の周囲を圧迫したため、多くの死者の形も保存しました。軟組織は腐敗しましたが、遺体の外形は残り、何世紀も後に発掘者が空洞を石膏で埋めることによって回収されました。鋳型に埋め込まれていた骨格資料から、ゲノム規模の古代DNAデータとストロンチウムの同位体データが生成され、5個体の遺伝的関係と性別と祖先系統と移動性が特徴づけられました。個体の性別と家族関係は伝統的な解釈と一致しない、と示され、性別に関する現代の仮定が過去のデータを見るさいの信頼できるレンズではない可能性を例証します。たとえば、膝の上に子供1個体を乗せ、金色の腕輪を着けていた成人1個体は、子供の母親と解釈さることが多いものの、遺伝的にはその子供と生物学的に親族関係にはない成人男性です。同様に、抱き合って死んでいた、と考えられていた二人組は姉妹と解釈されることが多いものの、遺伝的に少なくとも1個体の男性が含まれていました。ローマ市の同時代の古代人のゲノムでも見られたように、ゲノム規模データのあるポンペイの犠牲者は全員一貫して、その祖先系統がほぼ地中海東部からの近い過去の移民に由来しており、この期間におけるローマ帝国の国際性が強調されます。
●研究史
ポンペイはイタリアのカンパニア州に位置するローマ時代の都市で、ナポリからは南東に約14マイル(約25.75km)離れています。ポンペイは、「ポンペイ噴火」としても知られる、ベスビオ火山の79年のプリニー式噴火(Plinian eruption)によって破壊されました。ポンペイ市は噴火の初期段階に堆積した軽石の火山礫の堆積物の下に埋まっており、その後の段階で火砕流からの灰の堆積物に生まれました。ポンペイは1700年代後半に再発見されるまで、ほぼ忘れられたままでした。その独特な保存とローマ帝国における日常生活について提供される洞察によって、ポンペイは世界で最もよく知られている考古学的遺跡の一つとなり、UNESCO(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization、国際連合教育科学文化機関)の世界遺産遺跡に指定されました。
鉄器時代のナポリ湾における最古級の安定した集落は紀元前8世紀にさかのぼり、この頃にオスキ人(Osci)がサルノ(Sarno)川の河口近くの小さな丘の上に家屋を建て、この丘は周辺のサルノ平原で見られる複数の地元の火山口の痕跡を表しています。その戦略的位置のため、ポンペイは重要な道路と港の結節点となりました。ギリシア人とエトルリア人とサムニテ人(Samnites)はすべてポンペイを征服しようと試み、ポンペイは最終的にローマの植民地となりました。
79年の噴火はポンペイを完全に破壊しましたが、ポンペイを破壊した火砕堆積物は建物と通りと人工遺物を保存しました。多くの遺体や、住民の芸術や宝石や巻物の本や他の文化期遺物なども保存されました。1748年に始まった発掘中に、孤立と集団両方の状態の多くの犠牲者が家屋や市壁のすぐ外の広場や庭や通りで発見されました。19世紀には、考古学者のジウゼッペ・フィオレッリ(Giuseppe Fiorelli)が、犠牲者の軟組織の腐敗により残った空洞へと液体状の石膏を流し込むことによる鋳型製作手法を開発しました。それ以来、1000体以上の犠牲者がポンペイ遺跡で発見され、犠牲者の形態を保存し、その骨を包む104点の石膏像が、フィオレッリの手法を用いて製作されてきました。2015年、86点の石膏像の修復中に、そのうち26個体のCT(computed tomography、計算断層写真術)走査もしくはX線の試みによって、完全な骨格を含むものはない、と明らかになりました。石膏像は過去にかなり手が加えられており、創造的に修復されている可能性が高く、石膏像間の様式的な差異は部分的には、製作された時期の美的嗜好を反映しています。したがって、ポンペイの犠牲者の身元に関する一般的な解釈は、最初に記載した考古学者だけではなく、遺体の軽女優の一部の特徴を強調もしくは改変した修復者にも影響を受けました。画像化の結果は一部の事例では、金属棒や鋳造過程の前の骨の頻繁な除去のような、安定化する要素の導入を明らかにし、これは骨学的基準での性別判断を複雑にしました。衣服を寄せ集めて形成された可能性が高そうな、妊娠の推定される以前に想像された膨張した腹部など、一部の石膏像は再解釈が可能でした。
複数の研究が、ポンペイのヒトと【非ヒト】動物両方からのDNAデータ回収の可能性を書く所有してきました。最近、鍛冶屋の家(Casa del Fabbro、以下CF)で発見されたヒト骨格遺骸から得られた遺伝的データでは、この個体の遺伝的祖先系統は、先行する鉄器時代と比較してより多くの地中海東部からの影響を受けていた[19]、現代のラツィオ州となるローマ帝国期のラティウム(Latium)地域で観察された遺伝的多様性内に収まる[18]、と示されました。港町としてのポンペイは通常、多様で射動的な人口を有する都市とみなされています。しかし、生物考古学的分析は、遺伝的均一性もしくは共通の環境の影響を示唆するかもしれない、高頻度の非計量的特徴を明らかにしました。古代DNAとストロンチウム同位体は、ポンペイの住民の多様性と起源に関するより深い理解の獲得の可能性を提供します。
ミトコンドリアDNA(mtDNA)と100万以上の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)について[20]、古代DNA抽出物の濃縮を用いて、ヒト石膏像からの遺伝的情報の抽出が試みられました。この研究は、修復中の86点の石膏像のうち14点の、さまざまな解剖学的要素から回収された石膏と混合した高度に断片化した骨格要素で実行されました。図S1は、犠牲者14個体が見つかり、石膏像が製作されたことを示す、地図を提示します。本論文の目標は、遺骸の形態と位置に基づき、犠牲者の身元および相互との関係について遺伝的データの欠如の時点で提案された解釈の検証と、石膏像のほとんど不完全な骨格のX線とCT画像によって以前に得られた骨学的情報の増加です。そうした推測は、歴史家や考古学者は一般人が、大惨事によってひじょうに鮮明に記録された社会をどのように想像するのか、形成してきました。さらに、犠牲者の遺伝的祖先系統が調べられ、それが、ローマ市やその後背地の同時代の個体群から得られた既知の遺伝的多様性と比較されました。
●DNAの保存と片親性遺伝標識
以下では、ポンペイ遺跡について生物考古学的文献で一般的に用いられている石膏像の番号を用いて、個体が記載されます。対応する遺伝的識別(ID)は、表1とデータS1で見ることができます。14点の異なる石膏像から石膏と混合した骨の断片の標本が抽出され、それらはDNAの濃度と分解の定量化や、mtDNAと3000ヶ所の常染色体SNP[23]で濃縮するための混合に基づく手法の使用によって検査されました。検査結果に基づいて、約120万の核DNAのSNP(124万SNP一式)について、部分的にウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理された7点のライブラリの濃縮が選択されました。さらに、選択された個体のうち4個体が放射性炭素年代測定されました。
5点の標本は、古代DNAに典型的な読み取り末端における塩基の誤取り込みのパターンがある、完全もしくは部分的なミトコンドリアゲノムを提供し、標的となる常染色体SNPの少なくとも5万ヶ所が網羅されており、124万SNPの中央値の網羅率の範囲は0.006~0.437倍でした。5個体はすべて(図1)、「Quantifiler™ Trio Kit」を用いてのDNA定量化で定量化されたように、遺伝的に男性と性別決定されました。この定量化にじゅうぶんなデータがある2個体でX染色体上の汚染も推定され、4%未満と分かりました。他の事例では、ミトコンドリアのデータによって提供される分子損傷パターンと汚染推定値(表1)から、結果は単一個体に由来する確実な古代DNAと一致する、と示唆されます。全個体が属するY染色体系統(J2a、J2b、E1b、T1a)は、まずアジア西部に出現し、現在ではアジア西部および中央部とヨーロッパ南部とアフリカ北部において依然として高頻度で見られます[20、24]。3親等までの近縁性の証拠がある個体はいません。以下は本論文の図1です。
●石膏像の個体群は多様な祖先人口集団を表しています
5個体は、ユーラシア西部およびアフリカ北部の現代の人口集団と世界規模の人口集団で構築された主成分分析(principal component analysis、略してPCA)上で、現代イタリア人および鉄器時代と後期鉄器時代のイタリア人口集団やローマ帝国期エトルリア人から離れている、と分かりました。代わりに、ポンペイの5個体は地中海東部とレヴァントとアフリカ北部のユダヤ人集団とよりまとまります(図2A・B)。このパターンは、イタリア中央部のローマ帝国期人口集団[19]で見られるパターンや、ゲノム規模データのあるポンペイの以前に刊行された単一個体[18]と類似しており、このポンペイの単一個体は新たに生成されたデータのある5個体とともに図示されました。k(系統構成要素数)=6での教師無ADMIXTURE分析(図2C)では、ポンペイの個体群はエトルリア文化と関連するほぼ同時代の個体群とは、中石器時代読湯は狩猟採集民(ポンペイ個体群の下部)やコーカサス狩猟採集民(ポンペイ個体群の上部)で最大化される祖先系統構成要素の割合において異なっており、その祖先系統組成はイタリア半島中央部のローマ帝国期個体群やエーゲ海およびアナトリア半島の同時代の個体群とより類似しています。個体52号は、現代のサハラ砂漠以南のアフリカの人口集団で最大化されるわずかな構成要素と、ヨーロッパ狩猟採集民で最大化される構成要素の欠如によって特徴づけられる、鉄器時代およびローマ期のレヴァントの個体群と同等の祖先系統組成を示します。この個体52号は、レヴァントの人口集団と最も密接にまとまります(クラスタ化します)。以下は本論文の図2です。
さまざまな祖先系統供給源の寄与を定量化するため、qpAdmを用いてさまざまな2方向および3方向モデルが検出され、P > 0.01と係数1未満の最も少ない数の供給源を用いて、作業モデルが報告されます。推定祖先人口集団の遠位一式を用いて、全個体で作業モデルが見つかりました(図3)。石膏像の各個体について、トルコのマルマラ(Marmara)地域のバルシン(Barcin)遺跡のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)および/もしくはレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)が最大の推定割合(48~75%)を構成するのに対して、2番目に高い割合(26~45%)はイランのガンジュ・ダレー(Ganj Dareh)遺跡の新石器時代個体群(イラン_ガンジュ・ダレー_N)に由来し、例外となる個体25号はその祖先系統の、65.3±4.5%がレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)に、34.7±4.5%が他の個体では要求されない祖先系統供給源である青銅器時代草原地帯牧畜民(草原_EMBA)に由来する、と推測されます。このモデルは、個体群のゲノムの低網羅率にも関わらず、他の個体に寄与しなかったヨーロッパ供給源を含む、異なる祖先系統の歴史を示唆します。以下は本論文の図3です。
個体22号および51号は、62~69%のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)祖先系統と31~38%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)祖先系統で構成される、と説明できます。個体52号はアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)祖先系統を有していない、と推測されます。代わりに、個体52号の祖先系統は57.7±3.1%のレヴァントの先土器新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)と42.3±3.1%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)に由来する、とモデル化できます。この結果は、PCAおよびADMIXTURE分析(図3)における同時代のレヴァント個体群との個体52号のより密接なクラスタ化を裏づけ、個体52号もしくはその直接的祖先の近い過去のレヴァント起源を示唆しています。二つの代替的な3報告されは、個体53号では却下されません。その両モデルでは祖先系統の最大の割合はそれぞれ、69~88%のイラン新石器時代農耕民(イラン_ガンジュ・ダレー_N)と84~97%のアナトリア半島新石器時代農耕民(トルコ_マルマラ_バルシン_N)に由来する構成要素の組み合わせとして説明されます。第三の構成要素は、21.2±7.1%のレヴァントの新石器時代農耕民(レヴァント_PPN)、もしくは9.8±2.8%のアフリカ北部祖先系統を有する銅器時代個体群(地中海_CA_アフリカ北部)のどちらかに由来します。
PCAによると分類内では比較的遺伝的には均質である、ユーラシア西部およびアフリカ北部地域の紀元前二千年紀後半~千年紀前半の個体群で構成されるより多くの代理供給源に由来する可能性としても、ポンペイの個体群が検証されました。作業モデル(P > 0.01)はほぼ、地中海東部かレヴァントかアフリカ北部の人口集団を主要な供給源として必要とします。供給源のトルコ_西部とトルコ_中央部の一方と区別できない祖先系統を湯要するモデルは、個体22号および51号で機能します。個体25号の2方向作業モデルには、バルカン半島か地中海中央部かヨーロッパ中央部の供給源との組み合わせで祖先系統の大半に寄与した、地中海東部供給源が含まれます。同様に、個体53号は祖先系統供給源の混合としてのみ適合でき、3通りの検証モデルでは、約20%のサルデーニャ島_カルタゴを伴う約80%のトルコ_中央部、約33%のサルデーニャ島_カルタゴを伴う約67%のトルコ_東部、約20%のイタリア_IA(イタリア半島の鉄器時代個体群)を伴う約80%のレバノン個体群がすべてデータに適合します。個体52号では1もしくは2方向の作業モデルが見つかりませんでしたが、最高のP値の可能なモデルにはすべて、祖先系統の大半(約51~73%)に寄与した供給源としてエジプトが含まれ、じっさいの供給源がヘレニズム時代のエジプトの個体群によって表される供給源と遺伝的に類似していることを示唆しています。以前に刊行された個体f1R[18]はすべての作業モデルで、ヨーロッパ供給源との組み合わせでレヴァントからの約73~84%を必要とします。
●人口統計学的特徴と表現型の特徴
個体52号のみが、有効人口規模および結婚慣行への洞察を提供できる、同型接合連続領域(runs of homozygosity、略してROH)の検出[28]にじゅうぶんな遺伝的データを提供しました。個体52号では4.71cM(センチモルガン)と単一の短いROHのみが見つかり、密接な親族関係にある両親もしくは個体群が顕著な血統近縁性を共有している起源の小さな人口集団とは一致しません。全体的に、ポンペイ個体群のゲノムの標本で見られる遺伝的異質性と、1個体における長いROHの欠如は、河川港としての役割と、さまざまな地元と移民の文化集団で構成されている、とした古代の著者による記述によって示唆されるように、大きく多様な人口集団と一致しています。これは、79年の噴火犠牲者で観察された高頻度の一部の非計量的形質が、共通の遺伝的背景ではなく発達段階の共有された環境変数に起因するかもしれない、との仮説にいくらかの裏づけを提供します。しかし、本論文で遺伝的に調べられた個体群では、個体22号のみがそうした共通の非計量的形質、具体的には、ラムダにおける比較的大きな小骨とラムダ縫合におけるウォルム骨の存在を示しました。そうした形質のある個体とない個体を対象とした遺伝学的分析は、そうした形質のある個体間の祖先系統における均質性の水準を明らかにするかもしれません。
HIrisPlex-S体系で評価された外見上の特徴の表現型標識は、個体25号と51号と53号における茶色の目と、個体52号の恋色の肌および黒髪の可能性が最も高いことを示唆します。さまざまな疾患と関連するいくつかの危険性アレル(対立遺伝子)が分析された全個体で検出されましたが、低網羅率および表現型と環境との間の相互作用の可能性のため、確実にこれらの形質を予測することはできませんでした。
●遺伝学と骨学の調査結果の組み合わせは確立した一般的な説の一部と矛盾します
学者や一般人の想像は、石膏像の遺体の位置と形状の印象をさまざまな方法で解釈してきており、犠牲者の身元および相互との関係の可能性について推測しました。新たな科学的手法による石膏像の修復と研究が2015年に始まった時、個体の特徴づけに関する堅実なデータを提供する査読済参考文献はなく、唯一の利用可能な情報は、考古学者によって提供されました。それにも関わらず、性別と個体間の関係についての一部の解釈は、学界と一般に広く受け入れられ、博物館の展示や教育や宣伝資料を通じて広がりました。したがって、新たに報告された遺伝的データと同位体データによって、広範な解釈の一部を再考できるようになります。
●金色の腕輪の家
金色の腕輪の家は、第6地区の第17島に位置します(図1)。この家の確信的で複雑な建築形態は、中庭のある家と郊外の別荘のローマ・イタリア式モデル間の融合から生じました。この家は3階建てで、市壁と丘の斜面を利用しています。その部屋はパノラマ式の位置で3階のテラスに並んでいました。この家はとくに豪華で、色彩豊かなフレスコ画が壁を飾っていました。1974年に、犠牲者4人がこの場所において相互に近くで発見され、遺伝的に関連のある家族を構成している、と解釈されました。最初の3人の犠牲者は庭と海岸通りに続く階段の下で発見され、2個体(個体50号および52号)と若い子供(個体51号)は個体52号の腰の上に立っていたようです。個体52号は子供との関連のため伝統的に女性にして母親と解釈されており、異常な重さ(6.1g)の複雑な金色の腕輪が腕に装着されており、これが家の名称の由来にもなりました。もう一方の成人個体である50号は、遺伝的に関連する家族集団の父親と解釈されました。限定的なX線分析に基づくと、個体50・51・52号はそれぞれ、若い成人、5~6歳、比較的若い中年の成人と推定されましたが、明確な性別分類は成人もしくは子供のどちらでもできませんでした。これら3人の犠牲者は階段の吹き抜けへの避難を試み、ポンペイ市の港に逃げようとしたさいに、階段の崩壊で死亡した、と提案されてきました。数m離れた場所で、約4歳の子供の遺骸が発見され(個体53号)、生殖器の部位で石膏が膨らんでいたため少年と解釈されました。この子供は庭につながる廊下沿いに逃げている間に、家族の一団と離れたようです。
DNAの定量化によって、全個体の分子的性別の推定が可能となりましたが、核ゲノム解析に基づく性別の同定は、これらの個体のうち3個体のみ(個体50号以外)で可能でした。全個体は、成人女性と推定されていた個体(52号)を含めて、遺伝的に男性と性別決定されました。さらに、mtDNAおよび全ゲノムデータでは、個体間の少なくとも最大3親等までの生物学的近縁性の証拠が見つからず、これら犠牲者4人は遺伝的に関連する家族だった、との一般的な説の誤りを論証します。成人個体50号における遺伝的物質の保存によって、唯一のミトコンドリアゲノムの再構築が可能となり、他の3個体との母系の関係は示されませんでしたが、核DNAの水準では親族関係にある可能性を除外できません。PCAおよびADMIXTUREの分析は、ローマ帝国期のイタリア半島住民で観察された遺伝的多様性内[19]での、これら3個体の分布におけるかなりの差異を示します(図2)。qpAdmで推測されたこの3個体の遺伝的祖先系統の組成は、遠位および近位両方のモデル化において異なって現れ、その祖先の起源が異なる地中海東部もしくはアフリカ北部人口集団にあることを示唆しています。遺伝子型に基づいての表現型の推測によるこれらの個体の外見の再構築を試みると、個体52号が黒い髪と濃い肌を有している一方で、個体51号および53号では茶色の目の色のみを証明できた、と分かりました。
●地下回廊の家
地下回廊の家は、第1地区の第6島に位置します(図1)。この家は元々、紀元前3世紀に建てられました。この家の現在の名称は、四角形の南向きの庭の3辺に沿っている地下通路である地下回廊に由来します。居間(oecus)と4ヶ所の温泉浴室、つまり脱衣場(apodyterium)と令室(frigidarium)と温室および微温浴室(tepidarium)と男性用高温浴室(calidarium)は地下回廊に面しており、高温浴室の前に炉(praefurnium)があります。この地下回廊は元々、樽型で十字型の半円形の天井があり、居間の壁には『イリアッド』に触発された一連の場面が描かれていて、第二様式(アウグストゥス期)の最終段階に描かれたポンペイの絵画の最も優れた事例の一つを提供します。4ヶ所の浴室の壁にも、精巧な風景画が描かれていました。1914年の発掘中に、9個体がこの家の前の庭で見つかりましたが、鋳型を製作できたのはそのうち4個体だけでした。
これら4個体のうち2個体(21号および22号)は相互の近くで発見され、それは抱擁状態と解釈さてれ(図1)、この2個体は姉妹か母親と娘か恋人同士かもしれない、と考古学者は仮定しました。石膏像内に保存されていた骨格要素のCT検査から、推定年齢は、個体21号が14~19歳、個体22号は若い成人と示されました。骨学的性別推定はできませんでしたが、個体22号の骨格は比較的華奢と言及されました。核DNAの遺伝学的分析が成功したのは個体22号だけで、個体22号が男性と明らかになり、個体21号と個体22号の組み合わせが姉妹もしくは母親と娘だった可能性は除外されました。他のすべての分析された標本のように、個体22号は地中海的な核DNAの遺伝的変異性内に収まり、祖先の起源が同時代のアナトリア半島人口集団であることと一致し、mtDNAハプログループ(mtHg)はN1b1a1で、おそらくは近東/アフリカ北部起源です。ミトコンドリアゲノムの再構築は個体21号でも成功し、異なるmtHg-Rの派生的な2ヶ所のSNPがあり、mtHg-N1b1a1につながる派生的なSNPはなく、この2個体【21号と22号】間の母系の近縁性の欠如と一致します。
●神秘の別荘
この別荘は1909~1910年に最初に発掘され、現在でも保護と保全に関する懸念から小規模な調査の対象で、古代の海岸の近くの、市壁の北西に位置しています(図1)。壁と天井、とくにそのフレスコ画のほとんどは、ベスビオ火山の噴火をほぼ無傷で残りました。神秘の別荘(Villa dei Misteri)との名称は、紀元前1世紀にさかのぼり、ブドウ酒と豊穣と宗教的歓喜の神であるバッカスにおそらく捧げられた儀式を描いた、一連のフレスコ画に由来します。この別荘はひじょうに大きく、当時の多くのローマの別荘に共通していたように、多くの異なる部屋と機能的空間がありました。ブドウ酒の圧搾場が発見されて元々の場所で復元され、これは、ほとんどの別荘にはいくらかの農地が含まれていたため、独自のワインやオリーブオイルや他の生産物の製造が富裕な家族では一般的だった、との事実を反映しています。女性と解釈された成人2個体と子供1個体の遺骸が軽石の火山礫堆積物で発見され、これは、この3個体が農場区画の上階で噴火の初期段階で襲われ、下階に落ちたことを示唆しています。
上層の灰の堆積物では6個体の遺骸が発見され、この6個体が噴火の最初の段階を生き延びた、と示唆されます。この6個体のうち、個体25号は部屋において単独で発見され、灰の層の最上部で横たわっており、左手の小指には女性像の彫刻された紅玉髄のある鉄の指輪が、所持品として5点の青銅製硬貨と1点の鞭がありました。この犠牲者【個体25号】の鋳型は、最良に保存された解剖学的および織物の詳細の一部を示します。この男性は身長が約1.85mで、細身で、鼻梁は凸型でした。衣服や装飾品の痕跡から、個体25号は社会的地位が低いと仮定され、忠実に地位を保った別荘の管理人と解釈されました。本論文の遺伝学的分析は男性との性別推定と、おそらくは地中海東部とヨーロッパ両方の供給源にさかのぼるかもしれない、混合した遺伝的祖先系統を確証しました。
個体25号の地理的起源と生涯の移動についてより多くを知るために、ストロンチウムと酸素の同位体分析が実行されました(図4)。ストロンチウム同位体の測定値(⁸⁷Sr/⁸⁶Sr=0.7084729±0.00001)はポンペイで見つかった値(0.70806、2点)より高く、この値はカンパニア平原南部全域で見られる生体利用可能なストロンチウムの範囲(0.7075~0.7085)と一致します(図4A)。これは、ラツィオ州およびイタリアの南北全域のローマ人口集団で報告された地元の範囲外にあります。δ¹⁸Oのエナメル質組成は、δ¹⁸OのVSMOW(Vienna Standard Mean Ocean Water、ウィーン標準平均海水)が26.77‰、δ¹⁸OのVPDB(Vienna Peedee belemnite、ウィーンのピーディー層ベルムナイト)が−4.03 ‰で、これはイタリア半島中央部におけるδ¹⁸O値の沿岸部の分布と一致します(図4B)。イタリア半島中央部全域での生体利用可能な⁸⁷Sr/⁸⁶Srとδ¹⁸Oとの同位体類似性は、ポンペイおよびその周辺での初期の居住を示唆しているかもしれませんが、この評価は予測される地元の範囲内に収まる地元起源を示唆しており、地質学的および生体利用可能な同位体体系の類似性は地中海全域で見られます。以下は本論文の図4です。
ローマ帝国の都市部人口集団を形成した国際性と移動性の強調の他に、本論文は、当時の研究者の世界観を反映していることが多い、限定的な証拠に基づく説がいかに信頼できないか、示します。この観点では、考古学的データと統合すると、遺伝学的分析はこれらの説を大いに豊かにすることができます。たとえば、本論文で分析された別荘の2ヶ所では、以前には慎重な骨学的評価なしに女性と推定された個体が遺伝的には男性と分かりました。これらの発見は、宝石の女性らしさとの関連づけや、身体的近さの生物学的関係の指標としての解釈など、長年の解釈に異議を唱えます。同様に、遺伝的データは親族関係の単純な説を複雑にしており、複数個体から遺伝的データが得られた唯一の遺跡である金色の腕輪の家では、一般的には両親とその2人の子供と解釈されている4個体は、じっさいには遺伝的に親族関係にはありません。これらの人々の生きた経験も誤り伝えるかもしれない新たな説の確立の代わりに、これらの結果は、過去の社会および学術的論議における性別(ジェンダー)と家族の概念と構築への反映を促します。さらに、物語の媒介としての鋳型の利用は、過去の修復者による姿勢と相対的な位置の操作につながったかもしれません。遺伝的データは、他の生物考古学的手法とともに、ベスビオ火山噴火の犠牲者となった人々に関する理解の深化の機会を提供し、遺伝的データを考古学および歴史の情報と統合することで、ポンペイのような歴史的に豊かな遺跡でさえ、過去の生活や行動の理解を大きな深める、と浮き彫りにします。
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[28]Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w
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