榎村寛之『女たちの平安後期 紫式部から源平までの200年』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2024年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は榎村寛之『謎の平安前期 桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(関連記事)の続編となり、11世紀初頭~12世紀末までが対象となります。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。一般的に中世が始まるのはこの期間とされていますが、本書はこの期間について、律令制の枠組みを残しながら、その外側で血縁と根回しと忖度といった「ロビー活動」で政治が動いていた、と把握しています。こうした時代は、下級貴族にとっては好機ともなり、身分や社会を一気に超越することで権力を掌握することもでき、画期に満ちていた、と本書は評価しています。

 本書は宮中の人間模様も詳しく取り上げており、藤原道長の娘で三条天皇の中宮となった妍子は、一条天皇の中宮だった彰子にとって脅威になる可能性があった、との指摘はなかなか興味深く、彰子と妍子は両親を同じくするものの、妍子が幼い頃に彰子は入内したので、同居期間もあっただろうとはいえ、両者は互いに親しみの感情をさほど抱いていなかったかもしれません。妍子は三条天皇との間に皇女(禎子内親王)を産みますが、もし皇子を産んでいたら、彰子の権勢を脅かした可能性があること本書は指摘しており、一条天皇の父である円融天皇が、三条天皇の父である冷泉天皇の弟だったことを考えると、むしろ三条天皇の方が「嫡流」とも考えられるわけで、伯母の詮子に次いで女院となった彰子の権威も当初から確立したものではなかった、と窺えます。私もつい、結果論的に歴史を見てしまうので、改めて反省させられるところがありました。

 禎子内親王(陽明門院)は幼少時から異母姉より優遇され、母方祖父の道長が、禎子内親王を一条天皇の系統に取り込み、冷泉系と円融系に分裂した皇統を一条系に一本化する意図もあり、禎子内親王を敦良親王(後朱雀天皇)と結婚させたのではないか、と本書は推測します。禎子内親王は後朱雀天皇の皇后となり、尊仁親王(後三条天皇)を産みます。しかし、道長の息子の頼通は妻の隆姫とその一族を重視し、隆姫の姪の嫄子を後朱雀天皇に入内させます。こうなると、後朱雀天皇との間に尊仁親王を産んだ禎子内親王は邪魔な存在で、後朱雀天皇と禎子内親王との関係も冷え切っていたようですが、禎子内親王は三条天皇から膨大な遺産を継承しており、逼塞していたわけでもなさそうです。この禎子内親王と尊仁親王を支えたのが頼通の異母弟の能信で、単に異母兄弟である頼通や教通に対抗したのは、単に頼通や教通よりも不遇なことへの反感だけではなく、禎子内親王の財力も背景にしていたのではないか、と本書は推測します。

 こうした皇族や上級貴族における女性の存在感の大きさは、院政期にも見られます。白河天皇は娘の媞子内親王を寵愛し、父方祖母の陽明門院の意向を無視して、息子の善仁親王(堀河天皇)に譲位しますが、その同母姉である娘の媞子内親王を堀河天皇の准母、さらには中宮とします。媞子内親王はさらに女院(郁芳門院)となり、未婚の女院はこれが最初でしたが、本書はその前提として、後三条天皇の方針もあり、白河天皇の姉妹には高品位独身の内親王が多くいたことを指摘します。白河院が媞子内親王を女院としたことについて本書は、白河院には、寵愛する娘の媞子内親王を通じて、成長してきた堀河天皇の権力を制御する意図もあったのではないか、と推測します。じっさい、白河院の政治的権勢は、成長してきた堀河天皇と関白の藤原師通によってかなり抑えられていたところもあったようです。郁芳門院の権勢は、当時の貴族にも強く印象に残っていたようですが、本書は、この時点ではまだ「未婚女院」の権威は確立しておらず、郁芳門院の権威の源泉は「前斎王」だったことではないか、と推測します。ただ、郁芳門院は1096年に数え年21歳で急死し、白河院は悲嘆のあまり出家します。また本書は、白河院が中宮に摂関家出身の賢子(実父は村上源氏で、藤原師実の幼女)を立てたものの、賢子の没後は身分に関係なく女性たちを身近に置き、その家族の政治的地位を引き上げたことから、貴族の男性にとって妻の身分が重要だった、婿取り婚の10世紀とは異なる貴族社会の様相と、平清盛の母親など、身分の定かではない女性が重要な役割を果たしたことを指摘します。こうした動向とも関連してか、白河院政の頃には摂関家を排除した皇統が形成され、摂関と院の棲み分けが成立し、それぞれ別の「権門」として相互依存していくようになります。女院の地位は政治的にも経済的にも平安時代末以降に低下傾向にあったことは否定できませんが、本書は、正平の一統で北朝が危機に陥ったさいに広義門院寧子が重要な役割を果たしたように、女院権力が南北朝時代においてまだ有効だったことを指摘します。

 本書は朝廷貴族の人間関係だけではなく、下級官人や庶民と言えそうな人々の様相も、『新猿楽記』を引用して紹介しており、当時の都は『源氏物語』で描かれているよりも乱雑で、賑やかだったのではないか、と指摘します。確かに、『源氏物語』などの王朝文学は、朝廷貴族の人間関係やその機微を詳細に描き出しているでしょうが、そこから漏れた社会の様相の方が圧倒的に多いはずで、王朝文学に大きく依拠した通俗的な平安時代観を修正というか相対化していく必要性は今でも大きいように思います。

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