山東半島中期新石器時代人類のゲノムデータ
山東半島中期新石器時代人類のゲノムデータを報告した研究(Wang F et al., 2024)が公表されました。本論文は、中華人民共和国山東省済南市に位置する焦家(Jiaojia)遺跡の大汶口(Dawenkou)文化と関連する21個体のゲノムデータを報告しています。大汶口文化は山東半島の新石器時代文化で、中原の仰韶(Yangshao)文化の中期~後期とほぼ同時代となります。大汶口文化集団のゲノムは、山東半島の前期新石器時代個体と関連する遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、中原の中期新石器時代集団と関連する遺伝的祖先系統の混合でモデル化でき、山東半島の新石器化について、中原からの雑穀農耕民の移住を伴っていた可能性が示されました。本論文の結果は、ごく最近公表された、5410~1345年前頃の山東半島古代人69個体の新たなゲノムデータを報告した研究(Du et al., 2024)とも整合的です。
同じくごく最近公表された研究なので、本論文では取り上げられていませんが、中華人民共和国山東省淄博市に位置する古代都市の臨淄(Linzi)で発見された戦国時代~後漢期の14個体のゲノムの遺伝的祖先系統はすべて、新石器時代の山東半島人類集団ではなく、後期青銅器時代から鉄器時代の黄河中流域農耕民に由来し、現在の山東省の漢人と均質と示されており、山東半島における2000年間の遺伝的連続性が示唆されています(Wang B et al., 2024)。山東半島では、新石器化の過程で中原からの人口移動があり、後漢期までには、山東半島の少なくとも一部の地域では、新石器時代の山東半島人類集団の遺伝的構成要素はほぼ検出されないまでに希釈された、と推測されます。
また本論文は、日本列島への稲作の到来経路と関わる、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代の個体の遺伝的構成も検証しています。山東省の新石器時代集団と隈・西小田遺跡の弥生時代個体との関係は、隈・西小田遺跡個体の弥生時代個体のゲノムデータが低品質なため、はっきりとしたことは分かりませんでした。山口県の土井ヶ浜遺跡では、それ以上の品質ゲノムデータが女性個体(Kim et al., 2024)から、高品質なゲノムデータが男性個体(Ishiya et al., 2024)から得られているので、今後、日本列島の弥生時代およびユーラシア東部大陸部の新石器時代~鉄器時代の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、日本列島への稲作到来と人口移動との関係について、さらに詳細に解明されることが期待されます。
なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●研究史
中原と長江三角州を地理的につなぐ【現在の中華人民共和国の行政区分での】山東省は中国北部沿岸に位置しており、連続的な古代文化の故地で、異なる社会間の物質文化や農耕や技術の交換の坩堝として機能しています。山東省の新石器時代文化には、後李(Houli)文化(8300~7400年前頃)や北辛(Beixin)文化(7400~6200年前頃)や大汶口文化(6200~4600年前頃)や龍山(Longshan)文化(4600~4000年前頃)が含まれます。大汶口文化は、新石器時代の初期に発展し、中原の仰韶文化の中期および後期に相当する、在来の北辛文化に起源があります。大汶口文化の中期および後期(6000~4600年前頃)には、山東省の生計依存は狩猟および採集から農耕へと移行し、乾燥雑穀農耕と水田稲作や独自に栽培化された野生ダイズが含まれます。この過程は考古学では「新石器時代革命」もしくは「新石器化」と説明されることが多くなっています。大汶口文化の土器に描かれたパターンの一部は仰韶文化の土器と似ているようで、大汶口文化と仰韶文化との間の文化拡散を示唆しています。仰韶文化からの農耕集団の移住が大汶口文化の人々に新石器時代革命をもたらしたのかどうか、長く議論されてきました。
本論文が把握している限りでは、山東省の古代人のゲノムは、後李文化と関連する初期新石器時代狩猟採集民のゲノム(8000年前頃、山東_ENと表記)に限られています[5]。したがって、初期新石器時代と現在との間の山東省の人類集団の遺伝的歴史は、依然としてあまり理解されていません。山東_ENは「古代アジア東部北方沿岸」関連祖先系統を表す、アジア東部北方の現代人と密接な関係を示しました[5]。山東省の南側に位置する、前期新石器時代中国南部沿岸の狩猟採集民(huntergatherer、略してHG)は、福建省の8000年前頃となる亮島(Liangdao)遺跡の1個体(亮島2号)および1万年前頃となる奇和洞(Qihe Cave)遺跡の1個体(奇和3号)によって代表され、中国南部現代人とのより密接な関係を示し、「古代アジア東部南方関連祖先系統」を表しています[5]。
山東省の東側に位置する、孤立した日本列島の縄文文化関連の狩猟採集民は、初期アジア東部系統からの側枝を表しているものの、アジア東部南方沿岸人との遺伝的つながりを示します[6]。山東省の北側に位置する、アムール川の狩猟採集民集団は、14000年前頃の1個体(AR14k)によって表され、典型的なアジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)関連祖先系統を有しており、現在のモンゴル語族およびツングース語族話者人口集団へと高い割合の祖先系統をもたらしています[7]。ANAと比較しての「古代アジア東部北方沿岸人」と「古代アジア東部南方沿岸人」との間の追加の遺伝的関連は、アジアの南北沿岸部の人々の間の混合を反映しているかもしれません[5]。最近の古代ゲノム研究では、乾燥雑穀農耕は黄河中流域農耕民関連祖先系統の拡大によってもたらされ、それが中国南西部[8]やチベット高原[9]や西遼河(Western Liao River、略してWLR)[10]において在来の祖先系統の大半を置換した、と示されてきました。中国の農耕起源地外における最古級の農耕共同体の一つとして機能する黄河下流域の大汶口文化も、農耕の初期拡大を理解するうえで重要な時点です。
本論文の目的は、黄河下流域における狩猟および採集から農耕中心の生活様式へと移行する重要な時点である、大汶口文化の人口史の再構築です。中華人民共和国山東省済南市の焦家遺跡の大汶口文化関連の21個体について、ゲノム規模データが生成されました。本論文の遺伝的データは、大汶口文化が山東省でどのように発生したのか、とくに、雑穀農耕と稲作農耕の拡大が人々の移住関わっていたのかどうか、あるいはどの程度関わっていたのか、解明するのに役立つでしょう。以下は本論文の要約図です。
●ゲノム規模古代DNAデータの概要
この研究では、焦家遺跡から標本抽出された、大汶口文化と関連する古代人42個体の遺骸からDNAが抽出されました(図1a)。放射性炭素年代測定によって直接的に年代測定された標本2点があり、その較正年代は、標本M17が4580~4423年前頃、標本M55が4770~4581年前頃です。古代DNA抽出が実行され、ウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理および溶液内DNA捕獲なしで一本鎖DNAライブラリが構築され、120万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)においてヒト内在性DNAが濃縮されました。古代DNAの証明を評価するため、配列決定データのいくつかの特徴が検査されました。すべてのデータは、短い断片長や断片末端らおける高いシトシンの脱アミノ化を含めて、古代DNA損傷の予測される特徴的なパターンを示しました。古代DNAの脱アミノ化の偏りを軽減するため、両端から8塩基対が隠されたデータは、124万SNPパネルの全部位において、無作為に呼び出されたSNPによって疑似半数体化されました。以下は本論文の図1です。
焦家遺跡の7個体(山東_焦家_MN)について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の呼び出しに成功し、そのmtDNAハプログループ(mtHg)は、4個体がD(D4とD5)、他の3個体がG1a1とB4jとM11b1aでした。これらのmtHgは、アジア東部北方人において一般的に見られます[9]。山東_焦家_MN のY染色体ハプログループ(YHg)も、NとCを含めてアジア東部北方人において支配的でした。124万SNPで高い汚染率(5%超)と少ない数(2万未満)の標本の除去後、21個体が保持されました。新たに生成された個体間の生物学的近縁性が推定されました。最大2親等の8家族集団が特定されました。集団遺伝学的分析では、遺伝的親族の各組み合わせについて、最も多い数のSNPのある個体群が保持されました。最終的に、0.023~0.7倍の120万SNPでの配列決定深度があり、26789~491949ヶ所の範囲の少なくとも1点の高品質な読み取りで網羅されているSNP数がある、親族関係にない15個体が得られました。新たなデータが、刊行されている古代および現代のユーラシア人のゲノムと、統合されて共同分析されました。
●古代の個体群の遺伝的構造および類似性
山東省の時間横断区の遺伝的類似性の概要を得るためまず、古代人標本をアジア東部の現代の個体群から構築された最初の2主成分への投影によって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図1a)。PCAの結果は、以前に観察されたように、アジア東部における少なくとも4点の遺伝的に異なる系統を示しており、それは、(1)アジア北東部において14000年前頃以降遺伝的連続性を維持したANA関連祖先系統、(2)北端の黄河人口集団および南端のアジア東部南方人との南北の漢人の勾配、(3)少なくとも5100年前頃にはチベット高原の北東端で形成されていた高地チベット人関連祖先系統、(4)台湾島のオーストロネシア語族話者であるアミ人(Ami)と海南島のタイ・カダイ語族話者であるリー人(Li)によって代表される、アジア東部南方関連祖先系統です。
黄河下流域の前期新石器時代狩猟採集民、つまり變變(Bianbian)遺跡個体(山東_變變_EN)や小荊山(Xiaojingshan)遺跡個体(山東_小荊山_EN)や小高(Xiaogao)遺跡個体(山東_小高_EN)は、黄河中流域の仰韶文化関連個体群(黄河_MN)と密接に関連しており、ANA集団が位置する方向へとわずかに動いていました。本論文で新たに報告される大汶口文化の焦家遺跡個体群のゲノムは、山東_ENと黄河中流域集団の隣接する遺伝的多様性の空間内で、中間的位置を示していました。漢人によって代表される山東省の現代人は、地元の山東_ENおよび山東_焦家_MN標本ではなく、黄河中流域集団とクラスタ化しました(まとまりました)。これらの調査結果は、新石器時代以降の山東省における遺伝的変化を反映していました。
●黄河_MNおよびANA関連祖先系統と区別できる山東省HGの遺伝的特性
次に、刊行された山東省HG(山東_EN)の遺伝的特性が、最近利用可能になったユーラシア人のゲノムの力を用いて再分析されました。f₃形式(山東_EN、X;ヨルバ人)の外群f₃統計では、Xが利用可能な古代ユーラシア人のゲノムの1個体で、外群としてのサハラ砂漠以南のアフリカのヨルバ人と比較しての、山東_ENとXとの間で共有される浮動の量が測定されます。山東_EN関連人口集団は相互に高い遺伝的浮動を共有していた、と分かりました。山東_ENはANAおよび黄河中流域集団関連の系統とも遺伝的類似性を示した、という外群f₃統計における定量的観察に触発されて、次に、山東_ENと黄河集団とANAとの間の祖先の関係と遺伝的差異を説明するため、形式的な統計的枠組みが適用されました。
f₄形式(ヨルバ人、X;山東_EN、ANA/黄河)のf₄統計では、山東_ENは仰韶文化集団およびANA両方の祖先系統(ここでは、ANA関連祖先系統の代理として東モンゴル_Nが適用されました)と異なっていた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、山東_EN;仰韶文化集団、東モンゴル_N)のf₄統計において、山東_ENは仰韶文化人口集団およびアジア東部北方古代人口集団と同じ量の派生的アレル(対立遺伝子)を共有しており、f₄形式(ヨルバ人、仰韶文化集団;東モンゴル_N、山東_EN)およびf₄形式(ヨルバ人、東モンゴル_N;仰韶文化集団、山東_EN)のf₄統計において、仰韶文化集団と東モンゴル_Nは山東_ENとつながりを湯要しているものの、他の人口集団では見つかりませんでした。ANAと仰韶文化集団と山東_ENにおける系統発生関係は、極東ロシア沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡個体をANA関連祖先系統の代表として使用すると、堅牢でした。対でのqpWave分析でも、山東_ENとANAと黄河_MNの遺伝的特性は区別できた、と示唆されました。
●黄河下流域における大汶口文化の新石器化と関わっている中原の雑穀農耕民関連祖先系統
前期新石器時代の山東_ENと、山東_焦家_MNによって代表される中期新石器時代の大汶口文化のその後の農耕民との間の祖先関係が調べられました。焦家遺跡個体群と古代ユーラシア人との間の外群f₃統計を用いて、共有された遺伝的浮動を測定すると、山東_焦家_MNは山東_ENと最も強い遺伝的浮動を示し、それに続くのか、先行研究[10]において黄河集団とANAとの間の混合とされたWLR_MN、黄河中流域関連系統、ANE関連系統だった、と分かりました。山東_焦家_MNと山東_ENとの間の遺伝的差異がユーラシア人における既知の遺伝的差異によって把握出るのかどうか、調べるために、f₄形式(ヨルバ人、X;山東_焦家_MN、山東_EN)のf₄統計が実行されました。f₄統計の結果、山東_焦家_MNはほとんどの参照人口集団と比較して山東_小高_ENと姉妹クレード(単系統群)を形成し、例外は、山東_ENとよりも焦家遺跡個体群の方と多くのアレルを共有していた黄河中流域関連系統だった、つまり、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN/黄河_LN/黄河_LBIA;山東_焦家_MN、山東_小高_EN)のf₄統計が0未満で、Z得点は-2.899未満だった、と示されました。
f₄形式(ヨルバ人、山東_EN;山東_焦家_MN、黄河_MN)のf₄統計における有意な負の値も、山東_焦家_MNが黄河_MNと比較して山東_ENの方と余分な類似性を共有していた、と示唆しています。したがって、山東_焦家_MNについて、第一供給源として山東_小高_EN、第二供給源として黄河_MNが仮定されました。qpWave/qpAdmの枠組みを用いて、焦家遺跡個体群は山東_小高_ENによって代表される山東_EN(42.4±11%)と黄河_MN(57.6±11%)の単純な2方向混合としてモデル化でき、この2方向モデルは、山東_EN の1方向モデルよりも良好に適合しました(図1b)。山東_焦家_MNのこの2方向qpAdmモデル化の堅牢性は、山東_焦家_MNもしくは山東_小高_EN/黄河_MNのどちらかとわずかに有意に近い、つまり、f₄形式(ヨルバ人、X;山東_焦家_MN、山東_小高_EN/黄河_MN)のf₄統計でZ得点が2超である、本論文のf₄統計から特定された人口集団の追加によって確証されました。
以前のミトコンドリアゲノム研究では9500~1800年前頃の山東省における母系の遺伝的構造に焦点が当てられ、龍山文化期以降(4600年前頃以降)に山東省において母系の遺伝的多様性が増加したので、山東省外からの人口流入の可能性が観察されました[12]。さらに、黄河中流域の仰韶文化関連人口集団は、山東省の後李文化および大汶口文化関連個体群とよりも、山東省龍山文化関連個体群および現在の漢人の方との密接な母系の類似性を示しました。しかし、中期新石器時代となる大汶口文化関連農耕民のゲノム規模データの最初の一群の分析によって、常染色体の観点からの本論文の調査結果では、山東省における人口変化は早くも大汶口文化期に起きていた、と示唆されました。この人口統計学的過程は、中原から山東省への新石器時代雑穀農耕民と関連する祖先系統東方拡大によって示され、大汶口文化期の人々において山東省狩猟採集民関連祖先系統のほぼ半分は置換されました。この混合パターンは、アジア東部の他地域への雑穀農耕の人口拡散に基づく拡大で以前に観察されたパターンと類似していました[8、10]。仰韶文化の廟底溝(Miaodigou)遺跡段階の強い文化的拡大下の他地域における仰韶文化関連祖先系統の広い拡散を考えると、山東_焦家_MNにおいて黄河中流域関連祖先系統がある程度見つかるのは、驚くべきことではありません。しかし、山東省における本論文の時間横断区の大きな間隙のため、山東省人類集団の遺伝子プールへの最初の黄河関連の遺伝子流動の正確な時期を特定できません。
●山東_焦家_MNと現在の山東省漢人との間の遺伝的関係
次に、大汶口文化関連の人々と、山東省の人口の約99%を占める漢人によって代表される山東省現代人との間の遺伝的関係が調べられました。外群f₃統計では、山東_焦家_MNは漢人および朝鮮人と最多の遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、漢人_山東;黄河_LBIA、山東_ EN)のf₄統計は0未満(Z得点は–4.506)で、漢人_山東は山東_ ENとよりも黄河中流域集団の方と有意に多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、山東_ EN/山東_焦家_MN;漢人_山東、黄河_LBIA)のf₄統計では、山東_ EN/山東_焦家_MNは漢人_山東および黄河_LBIAと同じ量の遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。さらに、漢人_山東は、山東_ ENと山東_焦家_MNが外群一式に含められてさえ、後期青銅器時代および鉄器時代の黄河中流域人口集団(刊行されている黄河_LBIA)の直接的子孫としてモデル化でき、1方向の黄河_LBIA関連祖先系統は漢人_山東の遺伝的特性を適切に説明した、と示唆されます。
●日本列島への提案された稲作農耕拡大経路と関連するアジア東部古代人の混合モデル化の改良
考古学的研究[15]は日本列島への稲作農耕の拡大を仮定してきており、つまりは、大汶口文化期において稲作文化が山東半島から朝鮮半島の北西部へと沿岸を北進し(つまり、遼東半島)、その後に南進して日本列島へと至った、というわけです。弥生時代(3000年前頃以降)には、日本列島は縄文文化関連の狩猟や採集や漁撈の生活様式から稲作農耕中心の経済へと移行しました。山東_ ENもしくは黄河_MNのどちらかと比較して、山東_焦家_MNにおける稲作農耕民関連の遺伝的つながりは検出されず、つまり、台湾の漢本(Hanben)遺跡個体や建省連江県亮島(Liangdao)の1個体(亮島2号)を用いた、f₄形式(ヨルバ人、アジア東部南方沿岸人である亮島2号/台湾_漢本;山東_焦家_MN、山東_ EN/黄河_MN)のf₄統計はほぼ0でした。これは、焦家遺跡における遺伝的同化なしでの稲作農耕の文化的採用の可能性を示唆しました。
次に、山東_ ENを外群一式に追加することによって、古代WLRについて以前に適合したqpAdmモデル[10]の堅牢性が調べられました(図1b)。WLRの紅山(Hongshan)文化関連人口集団(つまり、WLR_MN)は、山東_ ENを外群一式に含めない場合には、黄河_MNとANAの2方向混合としてモデル化できました。しかし、山東_ ENが外群一式に含められると、WLR_MNの提案された2方向モデルは失敗しました。qpAdm外群一覧の山東_ ENは、f₄形式(対象、適合;ムブティ人、山東_ EN)のf₄統計が0未満、Z得点は–4.29で、提案された2供給源混合モデルと比較すると、WLR_MNとの余分な類似性を示した、と分かりました。f₄形式(ヨルバ人、山東_ EN;WLR_MN、黄河_MN)および(ヨルバ人、山東_ EN;WLR_MN、悪魔の門_N)のf₄統計は、それぞれZ得点が–4.266と–4.538でした。さらに、黄河_MNとANA(悪魔の門_Nによって代表されます)はWLR_MNとの遺伝的つながりを有しているものの、他の人口集団では見つからず、つまり、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN;WLR_MN、悪魔の門_N)および(ヨルバ人、悪魔の門_N;WLR_MN、黄河_MN)のf₄統計は、それぞれZ得点が–5.332と–5.761でした。本論文では、WLR_MNについてのqpAdmモデル化が黄河_MN とANAと山東_小高_EN の3供給源の混合として改良され(図1b)、新石器時代WLR農耕民の形成における山東_ ENの役割が浮き彫りになります。しかし、山東_ ENと山東_焦家_MNが外群一式に追加される地と、(1)WLR_LNについて1方向の黄河_MN、(2)WLR_BAについてANA+黄河_MNの2方向モデル化の堅牢性が見つかりました(図1b)。
次に、韓国と日本における古代の人口集団[15]の形成が調べられました。韓国の安島(Ando)遺跡(韓国_安島)および欲知島(Yokchido)遺跡(韓国_欲知島)と日本の隈・西小田遺跡(隈・西小田_弥生時代)の個体は、縄文時代集団(日本_縄文)関連祖先系統と大陸部アジア東部関連祖先系統との間の混合としてモデル化できました(図1b)。しかし、大陸部アジア東部関連の代理として山東省の淄博(Boshan)遺跡個体かWLR_MNか黄河_MN(これらの人口集団は、対でのqpWave分析の外群一覧)のいずれかを用いてのqpAdmモデル化が、弥生時代の古代日本人である隈・西小田遺跡の個体では実行可能でした。これは、隈・西小田遺跡個体のゲノムの網羅率の低深度(124万パネルでは25387ヶ所のSNP)に起因するかもしれません。したがって、日本列島への稲作拡大における山東省人口集団の役割は、今後の調査が必要なようです。
この研究は1ヶ所のみの遺跡に基づいていたので、新石器化において黄河下流域に存在した完全な遺伝的多様性を表していないかもしれないことに、要注意です。大汶口文化社会と近隣の文化社会との間の遺伝的相互作用の調査には、山東省の大汶口文化期のより広範な地域にわたるさらなる標本抽出が必要でしょう。
参考文献:
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Ishiya K. et al.(2024): High-coverage genome sequencing of Yayoi and Jomon individuals shed light on prehistoric human population history in East Eurasian. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2024.08.09.606917
Kim J. et al.(2024): Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago. Journal of Human Genetics.
https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w
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Wang B. et al.(2024): Population expansion from Central Plain to northern coastal China inferred from ancient human genomes. iScience, 27, 12, 111405.
https://doi.org/10.1016/j.isci.2024.111405
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Wang F. et al.(2024): Neolithization of Dawenkou culture in the lower Yellow River involved the demic diffusion from the Central Plain. Science Bulletin, 69, 23, 3677-3681.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.08.016
[5]Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
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[7]Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
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[8]Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
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[10]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
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[12]Liu J. et al.(2021): Maternal genetic structure in ancient Shandong between 9500 and 1800 years ago. Science Bulletin, 66, 11, 1129-1135.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.01.029
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[15]Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature, 599, 7886, 616–621.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8
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同じくごく最近公表された研究なので、本論文では取り上げられていませんが、中華人民共和国山東省淄博市に位置する古代都市の臨淄(Linzi)で発見された戦国時代~後漢期の14個体のゲノムの遺伝的祖先系統はすべて、新石器時代の山東半島人類集団ではなく、後期青銅器時代から鉄器時代の黄河中流域農耕民に由来し、現在の山東省の漢人と均質と示されており、山東半島における2000年間の遺伝的連続性が示唆されています(Wang B et al., 2024)。山東半島では、新石器化の過程で中原からの人口移動があり、後漢期までには、山東半島の少なくとも一部の地域では、新石器時代の山東半島人類集団の遺伝的構成要素はほぼ検出されないまでに希釈された、と推測されます。
また本論文は、日本列島への稲作の到来経路と関わる、福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の弥生時代の個体の遺伝的構成も検証しています。山東省の新石器時代集団と隈・西小田遺跡の弥生時代個体との関係は、隈・西小田遺跡個体の弥生時代個体のゲノムデータが低品質なため、はっきりとしたことは分かりませんでした。山口県の土井ヶ浜遺跡では、それ以上の品質ゲノムデータが女性個体(Kim et al., 2024)から、高品質なゲノムデータが男性個体(Ishiya et al., 2024)から得られているので、今後、日本列島の弥生時代およびユーラシア東部大陸部の新石器時代~鉄器時代の高品質なゲノムデータが蓄積されていけば、日本列島への稲作到来と人口移動との関係について、さらに詳細に解明されることが期待されます。
なお、[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。時代区分の略称は、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代(Late Bronze Age、略してLBA)、後期青銅器時代~鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。
●研究史
中原と長江三角州を地理的につなぐ【現在の中華人民共和国の行政区分での】山東省は中国北部沿岸に位置しており、連続的な古代文化の故地で、異なる社会間の物質文化や農耕や技術の交換の坩堝として機能しています。山東省の新石器時代文化には、後李(Houli)文化(8300~7400年前頃)や北辛(Beixin)文化(7400~6200年前頃)や大汶口文化(6200~4600年前頃)や龍山(Longshan)文化(4600~4000年前頃)が含まれます。大汶口文化は、新石器時代の初期に発展し、中原の仰韶文化の中期および後期に相当する、在来の北辛文化に起源があります。大汶口文化の中期および後期(6000~4600年前頃)には、山東省の生計依存は狩猟および採集から農耕へと移行し、乾燥雑穀農耕と水田稲作や独自に栽培化された野生ダイズが含まれます。この過程は考古学では「新石器時代革命」もしくは「新石器化」と説明されることが多くなっています。大汶口文化の土器に描かれたパターンの一部は仰韶文化の土器と似ているようで、大汶口文化と仰韶文化との間の文化拡散を示唆しています。仰韶文化からの農耕集団の移住が大汶口文化の人々に新石器時代革命をもたらしたのかどうか、長く議論されてきました。
本論文が把握している限りでは、山東省の古代人のゲノムは、後李文化と関連する初期新石器時代狩猟採集民のゲノム(8000年前頃、山東_ENと表記)に限られています[5]。したがって、初期新石器時代と現在との間の山東省の人類集団の遺伝的歴史は、依然としてあまり理解されていません。山東_ENは「古代アジア東部北方沿岸」関連祖先系統を表す、アジア東部北方の現代人と密接な関係を示しました[5]。山東省の南側に位置する、前期新石器時代中国南部沿岸の狩猟採集民(huntergatherer、略してHG)は、福建省の8000年前頃となる亮島(Liangdao)遺跡の1個体(亮島2号)および1万年前頃となる奇和洞(Qihe Cave)遺跡の1個体(奇和3号)によって代表され、中国南部現代人とのより密接な関係を示し、「古代アジア東部南方関連祖先系統」を表しています[5]。
山東省の東側に位置する、孤立した日本列島の縄文文化関連の狩猟採集民は、初期アジア東部系統からの側枝を表しているものの、アジア東部南方沿岸人との遺伝的つながりを示します[6]。山東省の北側に位置する、アムール川の狩猟採集民集団は、14000年前頃の1個体(AR14k)によって表され、典型的なアジア北東部古代人(Ancient Northeast Asian、略してANA)関連祖先系統を有しており、現在のモンゴル語族およびツングース語族話者人口集団へと高い割合の祖先系統をもたらしています[7]。ANAと比較しての「古代アジア東部北方沿岸人」と「古代アジア東部南方沿岸人」との間の追加の遺伝的関連は、アジアの南北沿岸部の人々の間の混合を反映しているかもしれません[5]。最近の古代ゲノム研究では、乾燥雑穀農耕は黄河中流域農耕民関連祖先系統の拡大によってもたらされ、それが中国南西部[8]やチベット高原[9]や西遼河(Western Liao River、略してWLR)[10]において在来の祖先系統の大半を置換した、と示されてきました。中国の農耕起源地外における最古級の農耕共同体の一つとして機能する黄河下流域の大汶口文化も、農耕の初期拡大を理解するうえで重要な時点です。
本論文の目的は、黄河下流域における狩猟および採集から農耕中心の生活様式へと移行する重要な時点である、大汶口文化の人口史の再構築です。中華人民共和国山東省済南市の焦家遺跡の大汶口文化関連の21個体について、ゲノム規模データが生成されました。本論文の遺伝的データは、大汶口文化が山東省でどのように発生したのか、とくに、雑穀農耕と稲作農耕の拡大が人々の移住関わっていたのかどうか、あるいはどの程度関わっていたのか、解明するのに役立つでしょう。以下は本論文の要約図です。
●ゲノム規模古代DNAデータの概要
この研究では、焦家遺跡から標本抽出された、大汶口文化と関連する古代人42個体の遺骸からDNAが抽出されました(図1a)。放射性炭素年代測定によって直接的に年代測定された標本2点があり、その較正年代は、標本M17が4580~4423年前頃、標本M55が4770~4581年前頃です。古代DNA抽出が実行され、ウラシルDNAグリコシラーゼ(uracil-DNA-glycosylase、略してUDG)処理および溶液内DNA捕獲なしで一本鎖DNAライブラリが構築され、120万SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)においてヒト内在性DNAが濃縮されました。古代DNAの証明を評価するため、配列決定データのいくつかの特徴が検査されました。すべてのデータは、短い断片長や断片末端らおける高いシトシンの脱アミノ化を含めて、古代DNA損傷の予測される特徴的なパターンを示しました。古代DNAの脱アミノ化の偏りを軽減するため、両端から8塩基対が隠されたデータは、124万SNPパネルの全部位において、無作為に呼び出されたSNPによって疑似半数体化されました。以下は本論文の図1です。
焦家遺跡の7個体(山東_焦家_MN)について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)の呼び出しに成功し、そのmtDNAハプログループ(mtHg)は、4個体がD(D4とD5)、他の3個体がG1a1とB4jとM11b1aでした。これらのmtHgは、アジア東部北方人において一般的に見られます[9]。山東_焦家_MN のY染色体ハプログループ(YHg)も、NとCを含めてアジア東部北方人において支配的でした。124万SNPで高い汚染率(5%超)と少ない数(2万未満)の標本の除去後、21個体が保持されました。新たに生成された個体間の生物学的近縁性が推定されました。最大2親等の8家族集団が特定されました。集団遺伝学的分析では、遺伝的親族の各組み合わせについて、最も多い数のSNPのある個体群が保持されました。最終的に、0.023~0.7倍の120万SNPでの配列決定深度があり、26789~491949ヶ所の範囲の少なくとも1点の高品質な読み取りで網羅されているSNP数がある、親族関係にない15個体が得られました。新たなデータが、刊行されている古代および現代のユーラシア人のゲノムと、統合されて共同分析されました。
●古代の個体群の遺伝的構造および類似性
山東省の時間横断区の遺伝的類似性の概要を得るためまず、古代人標本をアジア東部の現代の個体群から構築された最初の2主成分への投影によって、主成分分析(principal component analysis、略してPCA)が実行されました(図1a)。PCAの結果は、以前に観察されたように、アジア東部における少なくとも4点の遺伝的に異なる系統を示しており、それは、(1)アジア北東部において14000年前頃以降遺伝的連続性を維持したANA関連祖先系統、(2)北端の黄河人口集団および南端のアジア東部南方人との南北の漢人の勾配、(3)少なくとも5100年前頃にはチベット高原の北東端で形成されていた高地チベット人関連祖先系統、(4)台湾島のオーストロネシア語族話者であるアミ人(Ami)と海南島のタイ・カダイ語族話者であるリー人(Li)によって代表される、アジア東部南方関連祖先系統です。
黄河下流域の前期新石器時代狩猟採集民、つまり變變(Bianbian)遺跡個体(山東_變變_EN)や小荊山(Xiaojingshan)遺跡個体(山東_小荊山_EN)や小高(Xiaogao)遺跡個体(山東_小高_EN)は、黄河中流域の仰韶文化関連個体群(黄河_MN)と密接に関連しており、ANA集団が位置する方向へとわずかに動いていました。本論文で新たに報告される大汶口文化の焦家遺跡個体群のゲノムは、山東_ENと黄河中流域集団の隣接する遺伝的多様性の空間内で、中間的位置を示していました。漢人によって代表される山東省の現代人は、地元の山東_ENおよび山東_焦家_MN標本ではなく、黄河中流域集団とクラスタ化しました(まとまりました)。これらの調査結果は、新石器時代以降の山東省における遺伝的変化を反映していました。
●黄河_MNおよびANA関連祖先系統と区別できる山東省HGの遺伝的特性
次に、刊行された山東省HG(山東_EN)の遺伝的特性が、最近利用可能になったユーラシア人のゲノムの力を用いて再分析されました。f₃形式(山東_EN、X;ヨルバ人)の外群f₃統計では、Xが利用可能な古代ユーラシア人のゲノムの1個体で、外群としてのサハラ砂漠以南のアフリカのヨルバ人と比較しての、山東_ENとXとの間で共有される浮動の量が測定されます。山東_EN関連人口集団は相互に高い遺伝的浮動を共有していた、と分かりました。山東_ENはANAおよび黄河中流域集団関連の系統とも遺伝的類似性を示した、という外群f₃統計における定量的観察に触発されて、次に、山東_ENと黄河集団とANAとの間の祖先の関係と遺伝的差異を説明するため、形式的な統計的枠組みが適用されました。
f₄形式(ヨルバ人、X;山東_EN、ANA/黄河)のf₄統計では、山東_ENは仰韶文化集団およびANA両方の祖先系統(ここでは、ANA関連祖先系統の代理として東モンゴル_Nが適用されました)と異なっていた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、山東_EN;仰韶文化集団、東モンゴル_N)のf₄統計において、山東_ENは仰韶文化人口集団およびアジア東部北方古代人口集団と同じ量の派生的アレル(対立遺伝子)を共有しており、f₄形式(ヨルバ人、仰韶文化集団;東モンゴル_N、山東_EN)およびf₄形式(ヨルバ人、東モンゴル_N;仰韶文化集団、山東_EN)のf₄統計において、仰韶文化集団と東モンゴル_Nは山東_ENとつながりを湯要しているものの、他の人口集団では見つかりませんでした。ANAと仰韶文化集団と山東_ENにおける系統発生関係は、極東ロシア沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡個体をANA関連祖先系統の代表として使用すると、堅牢でした。対でのqpWave分析でも、山東_ENとANAと黄河_MNの遺伝的特性は区別できた、と示唆されました。
●黄河下流域における大汶口文化の新石器化と関わっている中原の雑穀農耕民関連祖先系統
前期新石器時代の山東_ENと、山東_焦家_MNによって代表される中期新石器時代の大汶口文化のその後の農耕民との間の祖先関係が調べられました。焦家遺跡個体群と古代ユーラシア人との間の外群f₃統計を用いて、共有された遺伝的浮動を測定すると、山東_焦家_MNは山東_ENと最も強い遺伝的浮動を示し、それに続くのか、先行研究[10]において黄河集団とANAとの間の混合とされたWLR_MN、黄河中流域関連系統、ANE関連系統だった、と分かりました。山東_焦家_MNと山東_ENとの間の遺伝的差異がユーラシア人における既知の遺伝的差異によって把握出るのかどうか、調べるために、f₄形式(ヨルバ人、X;山東_焦家_MN、山東_EN)のf₄統計が実行されました。f₄統計の結果、山東_焦家_MNはほとんどの参照人口集団と比較して山東_小高_ENと姉妹クレード(単系統群)を形成し、例外は、山東_ENとよりも焦家遺跡個体群の方と多くのアレルを共有していた黄河中流域関連系統だった、つまり、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN/黄河_LN/黄河_LBIA;山東_焦家_MN、山東_小高_EN)のf₄統計が0未満で、Z得点は-2.899未満だった、と示されました。
f₄形式(ヨルバ人、山東_EN;山東_焦家_MN、黄河_MN)のf₄統計における有意な負の値も、山東_焦家_MNが黄河_MNと比較して山東_ENの方と余分な類似性を共有していた、と示唆しています。したがって、山東_焦家_MNについて、第一供給源として山東_小高_EN、第二供給源として黄河_MNが仮定されました。qpWave/qpAdmの枠組みを用いて、焦家遺跡個体群は山東_小高_ENによって代表される山東_EN(42.4±11%)と黄河_MN(57.6±11%)の単純な2方向混合としてモデル化でき、この2方向モデルは、山東_EN の1方向モデルよりも良好に適合しました(図1b)。山東_焦家_MNのこの2方向qpAdmモデル化の堅牢性は、山東_焦家_MNもしくは山東_小高_EN/黄河_MNのどちらかとわずかに有意に近い、つまり、f₄形式(ヨルバ人、X;山東_焦家_MN、山東_小高_EN/黄河_MN)のf₄統計でZ得点が2超である、本論文のf₄統計から特定された人口集団の追加によって確証されました。
以前のミトコンドリアゲノム研究では9500~1800年前頃の山東省における母系の遺伝的構造に焦点が当てられ、龍山文化期以降(4600年前頃以降)に山東省において母系の遺伝的多様性が増加したので、山東省外からの人口流入の可能性が観察されました[12]。さらに、黄河中流域の仰韶文化関連人口集団は、山東省の後李文化および大汶口文化関連個体群とよりも、山東省龍山文化関連個体群および現在の漢人の方との密接な母系の類似性を示しました。しかし、中期新石器時代となる大汶口文化関連農耕民のゲノム規模データの最初の一群の分析によって、常染色体の観点からの本論文の調査結果では、山東省における人口変化は早くも大汶口文化期に起きていた、と示唆されました。この人口統計学的過程は、中原から山東省への新石器時代雑穀農耕民と関連する祖先系統東方拡大によって示され、大汶口文化期の人々において山東省狩猟採集民関連祖先系統のほぼ半分は置換されました。この混合パターンは、アジア東部の他地域への雑穀農耕の人口拡散に基づく拡大で以前に観察されたパターンと類似していました[8、10]。仰韶文化の廟底溝(Miaodigou)遺跡段階の強い文化的拡大下の他地域における仰韶文化関連祖先系統の広い拡散を考えると、山東_焦家_MNにおいて黄河中流域関連祖先系統がある程度見つかるのは、驚くべきことではありません。しかし、山東省における本論文の時間横断区の大きな間隙のため、山東省人類集団の遺伝子プールへの最初の黄河関連の遺伝子流動の正確な時期を特定できません。
●山東_焦家_MNと現在の山東省漢人との間の遺伝的関係
次に、大汶口文化関連の人々と、山東省の人口の約99%を占める漢人によって代表される山東省現代人との間の遺伝的関係が調べられました。外群f₃統計では、山東_焦家_MNは漢人および朝鮮人と最多の遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、漢人_山東;黄河_LBIA、山東_ EN)のf₄統計は0未満(Z得点は–4.506)で、漢人_山東は山東_ ENとよりも黄河中流域集団の方と有意に多くの遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。f₄形式(ヨルバ人、山東_ EN/山東_焦家_MN;漢人_山東、黄河_LBIA)のf₄統計では、山東_ EN/山東_焦家_MNは漢人_山東および黄河_LBIAと同じ量の遺伝的浮動を共有していた、と示唆されました。さらに、漢人_山東は、山東_ ENと山東_焦家_MNが外群一式に含められてさえ、後期青銅器時代および鉄器時代の黄河中流域人口集団(刊行されている黄河_LBIA)の直接的子孫としてモデル化でき、1方向の黄河_LBIA関連祖先系統は漢人_山東の遺伝的特性を適切に説明した、と示唆されます。
●日本列島への提案された稲作農耕拡大経路と関連するアジア東部古代人の混合モデル化の改良
考古学的研究[15]は日本列島への稲作農耕の拡大を仮定してきており、つまりは、大汶口文化期において稲作文化が山東半島から朝鮮半島の北西部へと沿岸を北進し(つまり、遼東半島)、その後に南進して日本列島へと至った、というわけです。弥生時代(3000年前頃以降)には、日本列島は縄文文化関連の狩猟や採集や漁撈の生活様式から稲作農耕中心の経済へと移行しました。山東_ ENもしくは黄河_MNのどちらかと比較して、山東_焦家_MNにおける稲作農耕民関連の遺伝的つながりは検出されず、つまり、台湾の漢本(Hanben)遺跡個体や建省連江県亮島(Liangdao)の1個体(亮島2号)を用いた、f₄形式(ヨルバ人、アジア東部南方沿岸人である亮島2号/台湾_漢本;山東_焦家_MN、山東_ EN/黄河_MN)のf₄統計はほぼ0でした。これは、焦家遺跡における遺伝的同化なしでの稲作農耕の文化的採用の可能性を示唆しました。
次に、山東_ ENを外群一式に追加することによって、古代WLRについて以前に適合したqpAdmモデル[10]の堅牢性が調べられました(図1b)。WLRの紅山(Hongshan)文化関連人口集団(つまり、WLR_MN)は、山東_ ENを外群一式に含めない場合には、黄河_MNとANAの2方向混合としてモデル化できました。しかし、山東_ ENが外群一式に含められると、WLR_MNの提案された2方向モデルは失敗しました。qpAdm外群一覧の山東_ ENは、f₄形式(対象、適合;ムブティ人、山東_ EN)のf₄統計が0未満、Z得点は–4.29で、提案された2供給源混合モデルと比較すると、WLR_MNとの余分な類似性を示した、と分かりました。f₄形式(ヨルバ人、山東_ EN;WLR_MN、黄河_MN)および(ヨルバ人、山東_ EN;WLR_MN、悪魔の門_N)のf₄統計は、それぞれZ得点が–4.266と–4.538でした。さらに、黄河_MNとANA(悪魔の門_Nによって代表されます)はWLR_MNとの遺伝的つながりを有しているものの、他の人口集団では見つからず、つまり、f₄形式(ヨルバ人、黄河_MN;WLR_MN、悪魔の門_N)および(ヨルバ人、悪魔の門_N;WLR_MN、黄河_MN)のf₄統計は、それぞれZ得点が–5.332と–5.761でした。本論文では、WLR_MNについてのqpAdmモデル化が黄河_MN とANAと山東_小高_EN の3供給源の混合として改良され(図1b)、新石器時代WLR農耕民の形成における山東_ ENの役割が浮き彫りになります。しかし、山東_ ENと山東_焦家_MNが外群一式に追加される地と、(1)WLR_LNについて1方向の黄河_MN、(2)WLR_BAについてANA+黄河_MNの2方向モデル化の堅牢性が見つかりました(図1b)。
次に、韓国と日本における古代の人口集団[15]の形成が調べられました。韓国の安島(Ando)遺跡(韓国_安島)および欲知島(Yokchido)遺跡(韓国_欲知島)と日本の隈・西小田遺跡(隈・西小田_弥生時代)の個体は、縄文時代集団(日本_縄文)関連祖先系統と大陸部アジア東部関連祖先系統との間の混合としてモデル化できました(図1b)。しかし、大陸部アジア東部関連の代理として山東省の淄博(Boshan)遺跡個体かWLR_MNか黄河_MN(これらの人口集団は、対でのqpWave分析の外群一覧)のいずれかを用いてのqpAdmモデル化が、弥生時代の古代日本人である隈・西小田遺跡の個体では実行可能でした。これは、隈・西小田遺跡個体のゲノムの網羅率の低深度(124万パネルでは25387ヶ所のSNP)に起因するかもしれません。したがって、日本列島への稲作拡大における山東省人口集団の役割は、今後の調査が必要なようです。
この研究は1ヶ所のみの遺跡に基づいていたので、新石器化において黄河下流域に存在した完全な遺伝的多様性を表していないかもしれないことに、要注意です。大汶口文化社会と近隣の文化社会との間の遺伝的相互作用の調査には、山東省の大汶口文化期のより広範な地域にわたるさらなる標本抽出が必要でしょう。
参考文献:
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Ishiya K. et al.(2024): High-coverage genome sequencing of Yayoi and Jomon individuals shed light on prehistoric human population history in East Eurasian. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2024.08.09.606917
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関連記事
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関連記事
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この記事へのコメント
やはり問題はここだと思います
山東省古代人に関する他記事でも駄文ながら書きましたが、NEAにしろEAにしろ渡来人に代替できる古人サンプルが他に見当たらないというか
日本列島と朝鮮南部以外の北東アジア古代人ゲノムの研究が公表される度、日本人の祖先から遠ざかっていくという感想です
北東アジアのどこかから、大量に来ているのは間違いないですが、起源の特定は難しいのでしょうか
>これは、隈・西小田遺跡個体のゲノムの網羅率の低深度(124万パネルでは25387ヶ所のSNP)に起因するかもしれません。
ちなみにqpadmというツールは、サンプルが低網羅率でも出力結果のロバスト性が高い点が指摘されています
本研究でこの様な結果が出る事自体、現代日本人ゲノムがかなり特殊である可能性がありますね
https ://doi.org/10.1093/genetics/iyaa045
>qpAdm は、データ カバレッジが低い場合、欠落データや古代 DNA 損傷の割合が高い場合、または二倍体コールができない場合など、多くの場合に正確な結果をもたらす堅牢なツールであることがわかりました。
ご返信ありがとうございます
私もその様に考えたい所ですが、昨今の科学研究予算不足の現状を考えると中々厳しいと思います
私は依然として日本列島とその僅かな周辺部のみ且つ弥生時代以降の検出例しかないY-O1b2a1a1、同C1a1の動向について興味深く考えています
この2系統は縄文及び新石器時代韓半島からも検出例が無く、特にO-Z47に関しては祖型となるO1b2a1aすらも大陸古人の検出例が無く、西遼寧等北部中国の古人からは相変わらずO1b1やO2、C2の(日本人にもあるが主に現代漢族に共有する)下位枝ばかりです
彼等は弥生以前、何処にいたのか?はデータは無い以上非常に難しい問題ですが、
弥生時代に列島に突如出現する上記2系統はおそらく現代日本人ゲノム形成の重要なキーとなると思われます
しかしYハプロの研究と称するものは相変わらずの低レベルであり、非常に大きな幅のあるO-F1240を適当に雑に括ったり、一方C1a1は篠田らによって(特に根拠無く)縄文父系というのが半ば定説にされたりと旧態然として現状を反映していません
(まぁ今後の古代ゲノム研究の進展如何の新事実でどうにでもなる事であり、これらは些末な問題ではありますが)
あくまで私の仮説では、弥生早期の水稲伝播とそれに僅かに先行するミレット農耕と突帯文系土器の伝播が、上記2系統に密接な関連性を持つと考えています
長くなるので短約すると、北東アジアの何処から来た未知のNEAが、新石器時代前半の韓半島に到達後隔離して地域分化する一方、大陸では漢族類似の後続EAに上書きされる形でほぼ断絶し、しかその枝の残骸(YではO-Z47、C1a1)が、縄文後半期又は弥生早期の日本列島に渡来(少数)して縄文(少数)や未知の後続EA集団(多数)と交雑し広く拡散したもの、と考えています
夏家店下層古人や山東省古人、弥生人ゲノムデータと現代日本人のゲノム地域特性、及びアマチュアが提示しているYのTMRCA表で予想する合理性を追求した現代日本人形成の仮説です
が、私の仮説を肯定するも否定するもデータ不足が否めず、そもそも予算不足でまともに研究する気すらないのではと思います
Y染色体ハプログループC1a1が「縄文系」との想定は検証価値のある有力説の一つとは思いますが、それを確定した事実として推測を重ねていくことには、現時点では否定的です。
水田稲作にわずかに先行する雑穀農耕の到来経路と担い手については、私も関心を抱いています。この担い手について複数の一定以上の品質の古代ゲノムデータが得られれば、日本列島の人類史の解明にも大きく寄与するのではないか、と期待しています。
私もそう思います
ゲノム解析領域ではすでに中国が圧倒的に先行しています
日本はそのお溢れを頂戴する様な状況です
>Y染色体ハプログループC1a1が「縄文系」との想定は検証価値のある有力説の一つとは思いますが、それを確定した事実として推測を重ねていくことには、現時点では否定的です。
>水田稲作にわずかに先行する雑穀農耕の到来経路と担い手については、私も関心を抱いています。この担い手について複数の一定以上の品質の古代ゲノムデータが得られれば、日本列島の人類史の解明にも大きく寄与するのではないか、と期待しています。
私も同意です
私の仮説通りC1a1が縄文後半期に到来したNEAとすれば、その遺伝的起源は無視するとして一応「縄文時代人」の父系に分類されると思います(私はO-Z47より先行して到来し拡散したと予想しています)
そして肝要な点ですが、縄文末期の雑穀農耕や突帯文系土器、もしくはやや遡った西日本の黒色磨研縄文土器と関連すると考えています(弥生時代に渡来したグループもあったと思います)
しかし「縄文人」を「後期旧石器時代の古日本列島に渡来したユーラシア南東部沿岸狩猟民関連祖先系統の直系後裔」とゲノム解析の示す通り定義した場合、父系はよく知られる通りD-M64.1の枝で殆ど構成されるボトルネックされた小集団であると考えます(列島端境部の雑多な混血の影響を除外したものです)
C1a1は偏った分布をしていて全体として日本人の父系としては低調ではありますが、東北人でやや頻度高、沖縄で高頻度です
しかし東日本縄文の影響を非常に強く残す北海道アイヌには全く見られません
O-Z47もやや相似した分布兆候を示し、渡来時期や由来が近い事の証左になりそうですが、当然学会レベルでは未検証です
しかし、どこまでを「縄文人」とするのか?定義が研究者間ですら曖昧であり、混乱しているのはこれが原因でしょう
そして篠田らはYに関して踏み込んだ考察を行わず、と言うよりも情報の刷新すら行っていない様に感じます
これで一般向け書籍などを書いているので怠慢ですらあると思います
当ブログではほとんど取り上げていませんが、検索して見つけた英語論文だけでも、先史時代や歴史時代も含めて中国で発見された古代人遺骸のY染色体研究は活発なように思えます。研究者の人数と予算の違いを考えれば、日本が中国から大きく遅れるのは仕方のないところで、挽回がきわめて困難なのは、日本人としてひじょうに残念でもあります。
どこまでが「縄文人」かは、父系の問題とは別に以前から考えており、もちろん遺伝学だけで定義できる問題ではなく、縄文文化が伝わらなかったとされる先島諸島の宮古島の長墓遺跡の紀元前千年紀の個体群のように、既知の古代人および現代人集団と比較して遺伝的には「縄文人」と一まとまりを形成する集団も存在し、難しいところだとは思います。
私も現時点のデータを見る限りでは、その可能性が高いと見ています
列島端境部(北海道北東部、九州北部、先島諸島など)の集団では父系含め多少の雑多な交雑が、縄文草創期段階から認められる可能性もあると思いますが、「縄文人」の主要な祖先系統には分類できないと考えています
>当ブログではほとんど取り上げていませんが、検索して見つけた英語論文だけでも、先史時代や歴史時代も含めて中国で発見された古代人遺骸のY染色体研究は活発なように思えます。研究者の人数と予算の違いを考えれば、日本が中国から大きく遅れるのは仕方のないところで、挽回がきわめて困難なのは、日本人としてひじょうに残念でもあります。
中国は規模が違いますね
科学研究論文自体が非常に多く、日本の研究者では相手にならないです
私に確認する限りでも圧倒的な古代東アジア人類遺骸のゲノムデータの蓄積があります
なお、私もつい最近まで知らなかったのですが、大阪大学・理研の共同より日本人ゲノム祖先に関する興味深い研究(nature掲載)が先月出ていました
私も内容を詳細には把握していないですが、ざっと見る限り、今年度発表の理研ゲノム研究の内容を補完するものと見ています
もう既にご存知かもしれませんが、貴ブログでぜひ取り上げてください
https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2024/20241125_1
https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_20.html
私の確認不足でした